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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



  10

 ペダルをこぎはじめてすぐ、電池式のライトが自動点灯した。
 先週まで夏のような暑さがつづいていたが、どれだけ温暖化が進もうと日没の時間は例年変わることがない。九月も折り返しに入れば、十八時を過ぎると周囲はほぼ夜の装いだった。
 空腹に耐えながら、時田はギアを普段より一段重くして帰路を急いでいた。昨日までなら鼻歌交じりにぶらぶらと帰っただろうが、今日からは事情が違う。今朝のように、ディセットが食事を作って待っている可能性があるのだ。
 遅くなると連絡できていれば問題はなかった。だがティガとの約束で、彼らの存在を気取られるような言動は一切が禁じられている。まさか、明日の打ち合わせの最中、所長や六合村の前で「今日は遅くなりそうだから」などといった電話をかけられようはずもない。
 もう何度目になるか。暗がりのなか、時田は蛍光塗料を頼りに腕時計を確認した。分かっていたことだが、もう十九時半近いという事実に変化はない。
 自宅までは、すでに五分ほどの位置まで来ている。急げば二分ほど短縮できるかもしれない。
 そう考えながら、腕時計の左手をハンドルに戻し、視線を前方にもどした瞬間だった。
 かつてないほどの速度で回していた自転車の前輪が、いきなりロックされた。乗用車のサイドブレーキを力任せに引いたように、ガチンと容赦のない急制動がかかる。――少なくとも、慣性に引っ張られ投げ出された時田は、宙を舞いながらそう感じていた。
 重力が突如として消え去り、時間がやけにゆっくりと流れはじめる。天地を分ける地面の存在すら見失い、自分が今、どこをどのような体勢でさ迷っているのかすら見当がつかない。
 やばい。これは、相当やばい。
 本能がそう理解すると同時に、視界が危険色の赤に染まった。
 衝撃は一瞬遅れてきた。鈍く重い痛みと一緒に、覚悟していたより数段強烈な圧力が右肩と背中を襲う。肺から空気が全て強制排出され、危険なほど長い間、呼吸が停止する。口の中に血の味がじわりと広がった。
「――大丈夫ですか、時田サン」
 最初、それは自分の内なる声が自分にかけた言葉だと思った。
 目の前でひとが豪快に吹っ飛ぶ事故を目撃した人間だとすれば、口調があまりに能天気すぎる。走行中、周囲にひとがいないことも確認していた。なにより、その声は自分の名前を口にしたのだ。
「時田サン、私の質問に答えてください。それとも私の日本語、間違ってますか?」
 その声に、時田は軽いショック状態と混乱から脱した。今度は疑うべくもなく自問などではない。
 伏していた上体を起こし、声の方を仰ぎ見る。
 瞬間、体中の肌が泡立った。背中から首筋にかけての産毛が一瞬にして逆立つ。
 立っていたのは笑顔の男だった。
 浅黒い肌。皺ひとつないスーツと、首もとを窮屈なほど締め上げたネクタイ。日本人にしてはメリハリの利いた鼻梁に、細いフレームの丸メガネがかかっている。背丈はおそらく時田と同程度だろう。日本語は流暢だが、中東系あたりとの混血だと言われても納得できる顔立ちだった。
「 <ピュセル> の周りをうろついている割に、あなたには見るべきところがあまりないですね」
 にこにこと笑いながら、男は時田を見下ろす。
「確か、日本語では凡庸と言うのです。そうではありませんか、時田サン?」
 なにか答えようとしたが、声帯が機能しなかった。生まれたての仔鹿のように膝が震え、立つことすらできない。尻もちをついたような体勢のまま、時田は二本の腕だけの力で後退していく。
 それは無意識が試みた逃走に他ならなかった。
 こいつは――
「なぜ、私の質問に答えませんか。私の日本語、通じませんか?」
 本能が告げていた。逃げろ、と。こいつは尋常じゃない。
 もう、これは人間とはいえない。
 ひとの良さそうな微笑を浮かべているように見えるが、あの口元に貼り付けてあるものは違う。まったくの別のなにかなのだ。
 なにより、共感覚が男の常軌を逸した異常性を告げていた。
 目の当たりにしながら、それでも自分の見ている光景が信じられない。
 それは想像のなかでしか存在し得なかったはずの、絶望を意味する危険色だった。回避不能の絶対死。人間の形をしながら、夜よりなお暗い漆黒をまとった存在が、目の前にいる。
 見ているだけで息苦しい。脂汗が滲んでくる。
 それほどに男は黒かった。ただひたすらにドス黒かった。
「時田サン、まるで虫のようですね。座り込んだまま、四本足で地面を這う」
 男がくすくすと笑う。だが、目だけは変わらない。なにも映していないような、ガラス玉を思わせる無感動な瞳だ。
「でも、その先には逃げられません」
 言葉と同時に、時田の背に鋭く食い込むものがあった。
 こめかみを冷たい汗が伝う。
 男から顔をそらすこともできないまま、時田はそれでも後退を試みつづけた。しかし、身体はまったく進まない。背に食い込むなにかの痛みが増すだけで、どうあってもそれ以上は逃れられない。
 時田は泣きながら後ろを振り返った。 
 往来の真ん中なのだ。民家のブロック塀にぶつかるわけも、ガードレールに阻まれるわけもないのである。なのに、なぜ進めない。
 頼むから逃げさせてくれ。なんでもしますから。
 どこかのなにかに懇願しながら、時田は力任せに地面を蹴る。
 そのとき、交差する遠くの通りを自動車のヘッドライトが横切っていった。角度が幸いしたのだろう。わずかな光が時田たちのいる路地にも差し込んでくる。
 瞬間、陽光の反射で蜘蛛の巣が現れるように、一瞬だけ糸状の何かが時田の目に映り込んだ。地上数十センチ。夜の暗がりのなかでは目視するのも困難な太さでありながら、しかし男の全体重がかかっても微動だにしない人工の糸だ。それが地面に向かって水平に張られていた。隔ててそのすぐ向こう側には、先ほどまで時田が駆っていた自転車が倒れているのも見える。
 それで、時田はすべてを理解した。
 ワイヤーが張られているのは、ちょうどタイヤがかかる高さだ。あたりが暗く、しかもこれだけ細いワイヤーなら、ライトがあったとしても自転車の人間は気づけない。目視が困難だったため、危険を色つきで知らせてくれる共感覚も発動しなかったのだろう。あるいは危険色が発生していたのかもしれないが、細すぎて認知されなかったのかもしれない。
「それは、本当なら首の位置に合わせて張っておくブービートラップです。ベトナム戦争で、ジープに乗った兵士の首を刈り落とすために使われていました」
 ずれてもいないネクタイの位置を直しながら、男はにこやかな表情で時田に歩み寄ってくる。
「――時田サン。あなたは、私のビジネスを邪魔しようとしています。これは日本語で、業務妨害と言います」
 腰を落としたままでは、これ以上後退できない。かといって役に立たない足では立ち上がることもできない。
 時田は、生まれて自分の奥歯が震えてぶつかりあう音を聞いた。
「時田サンは脅威ではありません。でも、あなたのボス――北条玲子サンは優秀です。日本語では、これを指折りと言います。彼女は指折りのオンミョウプリーステスです。パペットマスターの大家です」
 この男はなにを言っている?
 なにをしようとしている?
 考えるべきでないことを考え、考えたくもない結論が勝手に頭の中で導き出される。脳天から下腹部までを、身の丈ほどもある氷柱で貫き刺されたような冷たい激痛と恐怖。正気を保っていられる自分に奇跡さえ感じる。
 だが、それもあとわずかの間で終わるだろう。ドス黒い死の予感は、男が懐から幅広の刃物を持ち出した時点で現実となりつつあった。
 それがどうやってスーツの内ポケットに収納されていたのか、時田にはまったく理解不能だった。物理的に説明がつかない。ペンのような小物が、手のなかで瞬間的に巨大化するのを見たような気もしたが、そんなことが現実に起こるはずもない。
 にも関わらず、男の右手に握られているのは精肉業者用の無骨な刃物でしかあり得なかった。肉をブチ切るためだけに作られたことがズブの素人にも直感的に分かる――巨大なブッチャーナイフ。その形状はナイフや包丁というより、もはや手斧だった。切るものではなく、叩き断つための道具だった。
「業務妨害になるとは知らず、北条サンがハイスクールに来てしまうと、私は困ってしまいます」男は無邪気ともとれる笑顔で言う。「だから、来てほしくありません。これを日本語では、手を出すなと言います。そのことが良く伝わるように、私は時田サンの手を切り落とすことにしました」
 男はにっこりと笑ったまま刃物を振り上げる。
「うそだ……うそだろ」
 だが、それが冗談でも脅しでもないことは時田が一番良く知っていた。
 刺身をおろすようかのに、男はなんの抵抗も心痛も感じることなく、ただ機械的に目の前の人間を解体していくだろう。精神異常者に見られる愉悦や快楽は関係がない。彼にとって、それは単なる作業に過ぎないからだ。
「手がなくなった時田サンを見れば、私の気持ちは北条サンに良く伝わるでしょう。なぜなら腕が二本ともなくなれば、手は出せません」
 男が面白い冗談でも聞いたように小さく肩をゆらす。そして時田に最後の言葉を囁きかけながら、笑顔でナイフを振り下ろした。
 私の日本語、間違ってますか?


to be continued...
つづく