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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



  9

「それで、俺はなにをすれば良いんですか」
 店を出てしばらく、時田はふくれた腹を軽く撫でながら訊いた。
 貴金属店の軒先に置かれたデジタル時計の表示は、もう三時が近いことを示していた。喫茶店に入ったのは昼前。仕事柄、北条玲子とふたりきりになる機会は少なくないが、こうまで長時間、腹をわった話をしたのははじめてかもしれなかった。話題は決して明るいものではなかったが、奇妙な充実感がある。
 その北条所長は、相変わらず人々の視線をすれ違いざまにさらいながら、時田の半歩前を女性とは思えぬ速度で歩いていく。
「とりあえず、今回の件は私と時田君のふたりであたる予定よ。さっそく明日から学校で実地調査」
 彼女は前を向いたまま答えた。
「具体的には?」足を速め、所長と肩を並べて時田は問い重ねる。
「当初は、時田君を復学させて内から情報収集を――って考えてたんだけどね。さっきの病院でのやりとりを見る限り、それはちょっと無理そうじゃない? だからちょっと困ってる」
 とても困っているようには見えない横顔で言い、「でも」と彼女は時田を一瞥する。
「学校側がよこした資料からは得られない、在校生ならではの情報を時田君は大量に持ってる。同じ生徒視点からの関係者情報を含め、ね。それはフルに活用させてもらうから」
「ナヴィゲーターをやれってことですか」
「そう」所長が小さくうなずく。「まずは情報の収集。そして、二年四組を中心とした現地の詳細な調査ね。生徒たちは新設したプレハブの教室に移ってるわけだから、他人の邪魔を気にする必要もないし。持ち込めるだけの機材を持ち込んで、徹底的にやる予定よ」
 彼女が徹底的というのだ。それは言葉どおり本格的なものになるだろう。となると、各種計測器をはじめ、様々な機材の搬入がつきまとう。盾の女王は、それをすべて下僕にやらせるつもりでいるに違いなかった。
「しかしさぁ、時田君はどうなわけ? 仕事の話を抜きにして、学校にもどる気はないの」
 退学したわけじゃないんでしょ、と所長は時田に横目をくれる。
 最近、なぜか同種の質問を受ける機会が頻発しているような気がした。軽くため息をつきながら答える。
「学籍は残ってますけど、今度の件でなおさら復学しにくくなりましたよ。さっきの倉川の態度、所長も見たでしょ」
「それはそうだけどさ。もったいないじゃない」
「もったいないって、学校に行けないことがですか?」
「そうよ。私はむかしから学校大好きだったけどな」
 クジラとイルカは、大きさで区別されているだけの同じ動物に過ぎない――図鑑でそう知ったときと同種の驚きがあった。
 時田は思わず足を止めかける。あわてて追いつき、彼女の横顔を凝視した。
「学校が好きなひとなんていたんですか。そんな酔狂な」
「だって私、楽して美味しいとこだけいただく主義じゃない?」
「はぁ……それはまあ、所長の人生哲学と行動原理とを端的にあらわした実に分かりやすい言葉かとは思いますが」
 でしょう、と北条玲子はうれしそうに微笑む。
 しかし、それが学校好きとどう関連するのかが分からない。
「学校って、楽して美味しい思いができる場所なんですか?」
「なにをいまさら。最終学歴が中卒で確定しかけてる時田君にしたところで、義務教育の九年は学校通ってたわけでしょうに」
 逆に驚いたような顔で見つめ返される。
「教科書なんて見てみなさい。ポンコツ時田君が百回生まれ変わったって不可能な発見がてんこ盛りされてるじゃないの」
「はあ……」
「なによ、気のない返事ねえ」所長は呆れたように肩をすくめる。「じゃあ訊くけど、直角二等辺三角形のタイルを見ていて <ピタゴラスの定理> を閃ける人間が時田君の学校に何人いる?」
「そんなこと、急に言われたって分かりませんよ」
 ひとつだけ確実なのは、時田弘二には絶対に不可能だということだけだ。
「水素もヘリウムも、ベリリウムも、いまでは化学の授業で習う記号のひとつでしかないけど――でもそれは、教科書にのるような頭脳の持ち主たちが苦労して発見してきたものでしょう。私たちは、彼らが一生かけて得た研究成果や閃きを、たった一時間でささっといただいちゃってるのよ?」
 私は、予習そっちのけで、次の日の授業で教わる知識の発見者について調べたもんよ。
 そう言い、所長は誇らしげに形の良い胸を反らせる。
「誰がどれだけの情熱を傾けて、どれだけ大変な思いをしてそれを発見したのかは、伝記を読めば大体分かる。ちなみに水素の発見は一七六六年。発見者はイングランド人で、デヴォンシャー公爵家のキャヴェンディッシュっていう化学者よ。彼は他にも万有引力定数の測定に成功したり、ゲオルク・オームより早く <オームの法則> に辿り着きながら、それを発表しなかったという変り種の――でも、掛け値なしの天才だった」
 とはいえ水素の存在そのものには、もっと古い時代の科学者たちも気づいていていたのだという。たとえばキャヴェンディッシュの発見に先駆けること一世紀。同じイギリスの科学者、ロバート・ボイルは鉄と酸との反応から生じる気体があり、これが良く燃える特性を持っていることに着目していた。
「ボイル、キャヴェンディッシュ、ラヴォアジエ。数々の才能を経由して百年。原子番号一番、水素は現代に通じる知識として確立された。そういう流れを把握してさえおけば、翌日の授業時間は丸ごとお楽しみタイムよ。近所のおっさんの名前が新聞に載ってたら、なにやらかしたんだか興味を持って記事を読むでしょ。それと同じ。だからいつも、私にとって学校の授業は刺激的だった」
 時田は半ば呆然としながら聞いていた。まさに酔狂の極地といったところだろう。ここで出会わなければ、自力では間違いなく一生到達することのなかった発想である。
 だが、言われてみれば確かに一理ある考え方ではあった。
 当たり前のことではあるが、教科書にのっている知識や知恵にはすべて発見者が存在する。そして彼らは皆、後世にその功績を語り継がれるような鬼才、天才なのだ。
 そんな彼らでさえ、自らの発見に気づいたときは興奮して眠れなかったかもしれない。泣いて喜んだ者もいたのだろう。
 我々はその歓喜を共有することこそかなわないが、彼らの研究成果は拝借することが可能なのだ。他人が一ヶ月かけて終わらせた夏休みの宿題を、最終日に借りて、一日で写し済まそうとするように。
「まあ、理系の発見には偶然とか違う研究から生じた副産物とかも多いから一口には語れないんだけどね。――ともかく、教科書ってのはそういう超天才たちが何千、何万人がかりで見つけ出してきた叡智の結晶。それ記した秘伝の書みたいなもんなのよ。授業は秘伝書を分かりやすく読み解く場。私にはどれもありがたいものだったけどね。教科書に載る側に回りたいなら、大学って場所も用意されてるわけだし。良い時代に生まれたもんだと思ってた。今もその考えは基本的に変わってない」
 所長は歩きながらバッグに手をやり、なかからキシリトールガムのボトルを取り出した。手振りで時田にも勧め、伸ばされた部下の手のひらに黄緑色の粒を四個落としていく。
「でも、学校で習うことって、将来や実生活のなかじゃ役に立たないものばっかじゃないですか」
「まあ、非実学と呼ばれる学問――文学とか歴史学とか天文学とか、そういう分野の研究に予算がおりにくくなってるのは事実だけどね。でも、それって頭使ってない人間のセリフよ?」
 これににはさすがの時田もむっとくる。急いで口の中のガムを噛み砕くと、お褒めにあずかった頭脳をフル回転させて反論の言葉を探した。
「じゃあ、化学や数学がなんの役に立つっていうんですか。元素記号とか連立方程式とかを知ってたって、なんにも使えませんよ」
「どうも、顔を見てる限り本気で言ってるみたいね」
 歩調をゆるめ、所長は時田の顔を不思議そうにのぞきこむ。
「本気ですよ。学校で習うことが役に立たないなんて、どこでだって言われてることじゃないですか。アンケートとったら、現役学生の八割九割が俺に味方しますって。所長だって今、研究費がおりなくなってるって認めたじゃないですか」
「まったく、どう説明したものか……」
 所長は息を吐き、考えるように一瞬だけ視線を宙に泳がせた。
「ねえ、時田君。マルハナバチって知ってる? 別にクマバチとかでも良いけど」
「クマバチって、あの大きいハチですか? 熊ん蜂のことでしょ」
 それが? という視線で、時田は話の先をうながす。
「そのクマバチが、たとえば授業中の教室に飛んできたとするでしょ。そのとき、現場にいたとしたら時田君はどうする?」
「どうするって、とりあえず逃げると思いますけど」
「うん。大抵のひとは刺されるのを怖がって逃げるでしょうね。ハチが飛んできた。怖い。逃げろ。――それでおしまい」
 しかし、そうでない者も存在する。所長はそう話をつなげた。
「そのひとはクラスメイトに混じって逃げつつも、クマバチの身体と羽のバランスに着目するでしょう。良く見るとクマバチのボディサイズに対して、羽のスケールは笑っちゃうほど小さい。ハトの体にスズメの羽をとりつけたみたいにね。どう見ても羽が小さすぎて、あれじゃ飛べるはずがない。実際、このことに気づいた学者は、航空力学的に見てそれが不可能であることに気づいた。最先端の科学理論からしても、クマバチは飛べるはずがない。はずがなのに、現実には飛んでる」
「それが?」
「多くが怖い、逃げろで完結させてしまうことから、昆虫への興味を生み出せる人間がこの世にはいるってこと。その人物は、クマバチとの遭遇をきっかけとして昆虫学の道を志すかもしれない。あるいは、クマバチがなぜ飛べるかを突き止めるために最新の航空力学を学ぼうとするかもしれない。今の科学がクマバチの飛行を説明できないのは、微分方程式のモデルが未熟だからだ、と考えてね。
 逃げるだけで終わった人間の可能性がそこで途絶えるのに対し、クマバチに興味を持った人間には、小さくてもそういう可能性が芽生える」
 そうして研究を進めることになった人間は、やがてマルハナバチやクマバチの羽の秘密に「カルマン渦」が関係していることに行き着くだろう。
 所長は話をそう展開した。
 そこからレイノルズ数を扱うようになれば、その人物は数学者としての道を歩むことになる。他方、カルマン渦が気象の世界で多く発生していることに興味を持てば、気象学方面に。タコマ橋崩壊をカルマン渦で説明できることに驚けば、建築学に。野球のナックルボールやサッカーの無回転シュートとのつながりに面白さを感じたなら、流体力学の世界に……
「ある日、偶然飛んできたクマバチから世界は無限に広がり得る。でも怖い、面倒、役に立たないで終わらせたらそれまでよ。目があれば、蚊が痛みを感じさせずにひとを刺せることに気づいたとき、その理論を応用して、刺しても痛くない注射がつくれないか試そうという人間になれる。まったく無関係とされていた世界の間にリンクを張れるようになる。ただ、ベチンと叩き殺すだけに終わらずね」
「目、ですか」
「水素に酸素を加えるとエネルギーが生まれ、水が残る。中一の化学の授業で最初に習うこの知識を役立てたひとが、水素エンジンを搭載した次世代型自動車を開発した。数学を役に立てたひとが電子基盤をつくり、携帯電話や家電の開発を可能した。微分積分を役立てているひとが今、世界の経済や金融を動かしてる」
「役に立つ、立たないの問題は、知識そのものには責任がないってことですか」
 時田の言葉に、所長はそれと分からないほど薄っすらと微笑んで返した。
 おそらく、それは唯一、正しい対応だった。
 蜂を見て逃げるのを選ぶのも、航空力学に興味を持つのも、個々が自由に決めることである。普遍的な正解や模範解答などは最初からない。彼女に答え合わせを求めようというのが、そもそもの誤りだったのだろう。
 だが、所長が期待した受け止め方はできたような気がする。一方的な勘違いかもしれないが、時田はそう感じていた。
 同じ景色を見ていても、得られる感覚は異なる。
 本来、時田弘二はそれを誰より知っているはずだった。
 危険が色つきで見えるという、得意な視覚を持って生まれたのだから。
 だが当たり前の事実とは、常にもっとも忘れやすい事実でもあるのだった。


to be continued...
つづく