「バンブルビィ飛行」 槙弘樹
8
きっかけなど、いつも些細なものだ。
ちょっとしたことが凄惨な大事故に結びつくし、ほんの小さな出来事が紛争の引き金になることもある。ましてある高校二年が学校に行かなくなる理由など、ほんとうにつまらないものでしかない。
少なくとも時田弘二の場合はそのことがはっきり言える。
それは、五月の連休明けに起こった出来事だった。
この頃になると、生徒も進級とクラス替えでもたらされた新しい環境に順応してくる。学級中で誰とつるむか、どんなポジションを演じていくか。内部に小さなグループが形成され、それぞれに何らかの方向性を固めだす時期だ。
このとき、どの輪に加わることができず、かつ最悪の位置に立たされてしまった人間がひとりいた。
名前も覚えている。
竹島さつき。
目立たないタイプのおとなしい女子生徒だった。
おそらく、彼女は小学校のころから似たような場所に追いやられることが多かったのだろう。理由は明白。容姿のせいだった。
彼女の下あごは骨格の形成が未成熟で、見た目にも顕著にそれが現れていた。肥満で顔と首の境界が曖昧になる例は良くあるが、彼女は華奢な体格であるにもかかわらず同じ現象が見られた。
外見に特徴がある。ただそれだけの理由で、彼女は不気味だと疎まれ、嫌がらせを受けるようになった。
時田がこれに異義を唱え、彼女のために敢然と立ち上がった、などという過去はない。
確かに、いじめに加担することはなかった。だが、あえて止めようとしたこともない。たまたまゴミ箱が教室の中に見当たらず、探すのを面倒がった男子生徒たちが竹島さつきの机に紙くずや空きカンを放り込みはじめた時も、やはり時田は無関係を装う第三者でしかなかった。
竹島へのいじめは緩やかにエスカレートしていった。
おそらく、止め方が分からなかったのだろう。最初に「もうやめよう」と言い出す勇気を持つ者がいなかったからかもしれない。なんであれ、その事実がいじめる側の人間同士に奇妙な緊張感を生み、状況を悪化させていったことだけは間違いない。
実際、いじめを何となく継続している連中の多くは、竹島さつきに恨みがあって行動したわけではなかったはずだ。自分のやってきたことに一種の恐怖や後ろめたさを感じながら、なお己を止めることができずにいる。彼らの多くがそんな微妙な位置にいたように思う。
そんなとき、教室の隅に放置されていた賞味期限切れの牛乳パックが、あるグループによって竹島の机に押し込まれた。
それは面白半分に行われたいたずらだった。
少なくとも最初はそうだったのだろう。
しかし、乱暴な扱いに紙パックが弾け、机の中で腐った牛乳があふれ出した瞬間から状況は一変した。
あの時ただよいだした強烈な悪臭は、おそらく実行者たちの予想を大きく超えるものだったに違いない。油分を含んだ白い液体が教科書や文具にもたらしていく被害についても同様のことが言える。
近くにいた人間は無意識に半歩後退し、そして慄然とした空気が場に満ちた。あのときの感覚はいまだはっきりと記憶に残っている。
時田に魔がさしたのはそんなときだった。
いま思い返しても、なんであんなことを口にしたのか理解に苦しむ。まさに文字通り、なにか性質の悪い悪霊か小悪魔にそそのかされたとしか思えない。
自分のやったことに半ば呆然としている実行者たちに対して、時田はポロリと言っていたのである。
お前ら、ちょっとやり過ぎなんじゃないの――と。
それは間違いなく、本人たちが一番に思いつつ、だが自らは口にできなかった台詞だった。
そんな言葉を第三者の口から聞いた。彼らには思いがけない衝撃であったに違いない。一様に強張った顔と硬直した身体とがそれを物語っていた。
居心地の悪い沈黙がおりた。
そのなかで、彼らは自らが取るべき反応を懸命に考えていたのだと思う。
そうだな。ちょっとやばいかも。素直にそう認めて、竹島さつきに謝罪をするか。それとも責任のなすりつけ合いをはじめるか。あるいは、冗談ごとのように互いをつつき合ってなんとなくでこの場を収めるか……
だがこのとき、彼らはもっと違った解決方法を選んだ。
「関係ねえだろ」
それは、ひとりが口にしたそんな言葉からはじまった。
「なんでお前にそんなこと言われなきゃいけないんだよ」
そして、彼らの言葉はこうつづいたのである。
なんかお前、むかつくんだけど。
――なぜ、と未だに思うことがある。
振り上げた拳を収めることができず、かわりに別の対象に向けて振り下ろす。落としどころを失った少年たちは、新しい標的を定め、攻撃をつづけることで思考を拒もうとしたのかもれしない。誰かを叩いている間は自分を責めずに済む。そんな風に信じたのかもしれない。
いずれにせよ、それは彼らなりの屈折した逃避だったのだろう。
結局、その事件がきっかけで竹島への嫌がらせは激減した。彼女に気安く嫌がらせができるような雰囲気ではなくなった。
とはいえ、それを本人が喜んだのかどうかは分からない。六月に入ってすぐ、彼女は他県に転校していったからだ。
そして、新たな禍根と奇妙な緊張感が残った。
すげかわった攻撃対象として、時田弘二だけが取り残された。
結局、竹島が去っても二年四組はなにも変わらなかったのである。
被害者がいなくなったら、新しい被害者が用意される。竹島さつきがいなくなっても、なにも前には進まない。クラスは変化しない。決して好転することはない。
そのことを理解した時田は、半月後、学校に行くのをやめた。
六月も半ばにさしかかった、ある日の月曜日のことだった。
「――なるほどね」
時田が話に区切りをつけてしばらく、黙して聞いていた所長がはじめて口を開いた。
「じゃあ、その子が転校していったあと、いじめの対象が時田君にシフトしたのね?」
「いえ」時田はゆっくりと首を左右に振る。「少なくとも竹島が受けていたような酷すぎる嫌がらせはなかったです。でもまあ、あいつにちょっかい出してた連中と険悪な雰囲気がつづいたのは事実だし、その関係で無視とか情報的な隔離とか、そういうのは多少ありましたね」
「もう一度聞くけど」
所長が軽く頬杖をつきながら言った。何気ない動作だが、彼女がとると妙に絵になる。
「なんで行くのをやめたの。長々と話したからには、いまの話と無関係じゃないんでしょう?」
「そうですね」
言って、改めて考える。所長の指摘どおり無関係ではない。
「きっと複合的なもんなんだと思います。もちろん、クラスに居づらいから逃げたってのもあるでしょうし、俺がいることでクラスの雰囲気が悪くなるのも嫌でした。だからあのときは、自分がクラスから抜けるのがベストな選択だと思ったんです」
「倉川亜希子のさっきの取り乱し方……竹島さつきをいじめてたっていうグループに彼女もいたの?」
「いえ、倉川は俺が知ってる限りふつうの子でした。いじめをやるタイプではなかったですね。竹島に表立った嫌がらせしてたのは男子生徒でしたし」
「確かに本人も、自分は無関係だって口走ってたな。でも、だとしたらあの異常反応はなに? ちょっと、ふつうの怯えかたじゃなかったでしょ、あれは。しかもあの子、今回の呪い騒動と時田君とを関連づけて考えてたみたいじゃない」
「そう、ですね」
つぶやき、時田は思わずうつむく。そのとき、ジンジャーエールの存在を忘れていたことにようやく気づいた。グラスを自分の前にたぐり寄せ、ストローの存在を無視して直接グラスに口をつける。一気に半分ほどあおって、口元を拭った。味はまったく感じられない。舌の上で弾ける炭酸の感覚さえ、どこか他人事のようだった。
「倉川って子のあの反応、時田君は予測できてたの?」所長が訊く。
「まさか」
再び持ち上げたグラスから口を離し、時田はあわてて首を振った。
「じゃあ、質問を変えましょう。倉川亜希子と会ってみた今、他のクラスメイトと面会しても同様の反応が返り得ると思う?」
「それは……そう思います。さっきも言いましたけど、倉川はクラスのなかでも中立的なポジションにいたはずです。そういう人間からして、既にあんな感じなわけですから」
「ということは、なに。結論として白丘第一高校で起こってる今回の騒動は、ずばり時田君の仕業ってわけ?」
その言葉に、時田はうつむきかけていた顔を勢い良くあげた。
「んなわけないでしょう」
「でも、本人以外のほとんど全員が時田君がやったって思ってるみたいじゃない? 動機も時田君にしかないし、容疑者も他にいないわけだし」
「そんなの、状況証拠じゃないですか」
「一般的に広く誤解されてるようだけどね。状況証拠でも逮捕状は請求できるし、立派に有罪判決の根拠にもなる。物的証拠がなければ罪を立証できないっていうのはTVドラマが作り上げた幻想よ」
「それにしたってです」
「あくまで犯行を否定するってわけ」
「当たり前でしょうが。やってませんよ、俺は」
「犯罪者はみんなそう言うのよ」所長がさらりと言う。「理由はなに。現代っ子の理不尽な破壊衝動? それとも注目を集めたくてやったの? のちに来る確実な破滅と引き換えに、ワイドショーの主役を一時的にでもかっさらいたかったの?」
「だから、俺は……」
「俺は、なによ。ここまでの騒ぎになるとは思ってなかった――とでも言うつもりなら、いまさらそんな言い訳は通用しないわよ。冴えない自分に苛ついて、それでついカッとなってやっちゃったんでしょ。ゆとり教育の弊害なわけでしょ? その辺、どうなの。少しは後悔があるの? 素直に白状しなさい。カツ丼おごってあげるから」
「ここ、カツ丼なんてメニューにないでしょ。そうじゃなくて、『俺は本当にやってない』って言おうとしたんですよ。なんでやったこと前提で話してんですか。ちょっとは部下のこと信用してくださいよ」
声量のコントロールに失敗したらしい。腰を浮かしかけた時田に店内の視線が集まる。
「とにかく」声をしぼり、とりつくろいながら時田はつづけた。「俺はこの件に関しちゃ、完全に無実です。本当になにも知りませんし、なにもやってません。倉川のあれだって、完全な誤解ですよ」
「うん。まあ、そうなんでしょうね」
所長は涼しい顔であっさりとそう言った。
「へ?」
「だってそうでしょう。今回の呪い騒ぎを狙って演出しようものなら、高度な知識と洗練された手際が必要になってくる。ポンコツな時田君ごときに実行可能なわけがないじゃない。そんなこと、考えるだけでも犯人に失礼ってもんよ。謝りなさい、時田君」
「そんなに俺が憎いですか。いじめて楽しいですか。いまはっきりと確信しましたけど、所長から受ける数々の心無い言葉のほうが、高校行ってたときに受けてた嫌がらせより確実に俺のガラスの心にひびを入れてますよ。精神をえぐってますよ」
「なに言ってるの。殴られるほうより、殴るほうが辛いのよ」
まるで本当に痛み出したかのように、所長は自らの左手を右手で優しく包み込む。そして聖母もかくやという慈愛に満ちた表情でなにやら訴えはじめた。
「私だって本当は、時田君につらく当たりたくなんてない。でも心を鬼にして、あえて厳しい言葉を投げかけてるの。なぜだか分かる? もちろん、かわいい部下の将来を思ってのことよ。厳しい現実社会をたくましく生きていけるよう、強さと優しさとを等しく身につけて欲しい。ただ、それだけの親心で教育してるにもかかわらず、時田君はなにも分かってくれないのね。私がその無神経にどれだけ傷ついているのか知りもせずに」
「よくもまあ、そこまでぺらぺらと思ってもいないことを熱弁できますね」
「とにかく、私は単に事実を指摘してるだけよ」
再びふてぶてしく頬杖をつきながら、所長は気だるそうにのたまう。
「この件にはかなりの大物がからんでる。悪者でさえなければウチの人材として欲しいくらいのね。つまり、時田君が主犯の可能性なんて最初から限りなくゼロに近かったってわけ」
「じゃあ、分かってて言ってたんですね。分かってて……」
たとえようもない疲労感をにうなだれながら、時田は椅子のクッションに深く身体を沈めた。
「分かってはいても、確認は必要でしょ。その手間を惜しんだ者からミスで潰れていくのよ。――まあ、おかげで知りたいことは大体知れたわけだし。いまのところ、私からの質問は以上ってことで良いかな」
悪びれもなく宣言し、所長は頬杖を解いた。そろそろ昼食にしようというのだろう。テーブルサイドのメニューを再び広げ、ランチの頁を眺めはじめる。
ややあって、彼女は視線をメニュー表に落としたまま言った。
「素直に答えたご褒美として、私もひとつ無償で情報をあげようかな。時田君、なにか聞いておきたいことはある?」
「それは、どんなことでも良いんですか?」
「良いけど、答えられないこともあるよ。もちろん」
「じゃあ、業務上の確認ってやつを、ひとつさせてください」
「言ってみなさい」
疑問、不審――訊たいことなら幾つもある。だがひとつと限られた以上、選ぶべきは最大の問題だろう。時田は迷わずそれを口にした。
「どうして、高校で起こってる呪い騒ぎに警備会社であるウチが動くのかを教えてください。前から不思議に思ってたんです。北条警備保障って、本当に警備会社なんですか?」
「なぁに? それをいまさら訊くわけ。採用面接のときに確認しとけば良いことなのに」
「だって、警備の仕事っていったら、ふつうはイメージが固定されてるもんじゃないですか。業務内容だって知れてますよ」
「それは固定観念ってやつよ」
所長があきれ混じりのため息をつく。
「だいたいねえ、警備員らしい仕事をよこせだの、着用が義務付けられてるんだから制服を支給しろだの言うけど、時田君はまだ十六歳なんだから法的に警備員にはなれないの。だから、ウチがなにやってるかなんて気にする必要も資格もそもそもないのよ」
「えっ、うそ」
「うそもなにも、警備員が十八歳からってのは業界の常識じゃない」
「だけど、現に俺は北条警備保障に雇用されてるじゃないですか」
「そこは大丈夫。書類上、あなたは警備用品店のアルバイト店員として登録されてるから。警備は一切関係なし」
「なぬー? でも、じゃあ俺を連れまわしてる全国行脚は一体なんですか。あれ、店員の仕事じゃないでしょ」
「ああ、あれは出張販売と販促営業ってことになってる」
「うそばっかじゃないですか。詐欺じゃないですか、それ」
「うるさいなあ。時給千五百円も出してるんだから文句ないでしょ」
「それは……」
その点をつかれると、二の句をつぎにくくなる。
「まあ、確かに給料には不満ないし、俺なんかにこんなに払ってくれて感謝はしてますけど」
「分かってれば良いのよ。まったく、年齢制限なんて基本も知らないのにうだうだ言うんだから」所長は不満そうに目を細める。「あ、それからもうひとつ。これは出がけにも言ったけど、警備保障にも色々あるもんだってことは覚えといてよね。たとえば、時田君が警備員らしい仕事だと信じきってる雑踏整理や交通誘導だけど――これは警備業法っていう法律で二号業務と分類されてる。どうせ、このことも知らなかったんでしょ?」
「え、まあ。知りませんでしたけど……じゃあ二号があるなら一号業務とかもあったり?」
「一号業務は施設警備やホームセキュリティ関係ね。で、現金輸送が三号。その他が四号ってのが大雑把な分類。なかには一号から四号まですべてを手がける超大手も存在はするけど、警備会社の多くは自らの専門を定めて能力を特化させていることがほとんどでしょ。だから一口に警備会社、警備業務といっても、その辺のおっさんに制服着せて駐車場に立たせるのが専門の会社と、企業と契約して産業スパイ対策をやってる会社とじゃ毛色も雰囲気も全然違ってくるわけ。――だいたいねえ、この国には <濁り水> だって入り込んでるのよ。うちよりよっぽど非常識じゃない」
「なんですか、その濁った水って」
「濁って黒くなった水よ。海軍の特殊部隊くずれが設立したアメリカの某民間警備会社。しかしてその実態はいわゆる傭兵部隊ってやつでね。アメリカ政府と契約して軍事活動を行ったり、治安維持と称して現地住民を射殺して回って反戦派の人気者になったりしてる連中。日本では、青森の航空自衛隊基地で弾道ミサイル防衛システムの警備を任されたりしてるってわけ。警備会社にも色々ありますって良いたとえになるでしょ? まあ、連中はこっちでもアメリカ政府との契約で活動してるわけなんだけどさ」
「なんか警備会社に対するイメージが変わるお話ですね」
「我々凡人の認識なんて八割が勘違いと間違いでできてんのよ。これを機にもっと謙虚に生きるようにするのね。私を見習って」
「所長の辞書に謙虚なんて項目ないでしょ。でも、精進はします」
「では、ここで問題です。我が社は何号業務を主体としているでしょう」
「え、何号業務かですか?……」
いままで自分がやってきた仕事を思い返す。警備用品店の店番。所長についての怪しげな全国行脚。荷物持ち。雑用。使い走り。思い返せば、なぜか涙が薄っすらと浮かんでくるようなものばかりである。
「あの、なんかどれにも該当しないような気がするんですが」
「まあ、それが一番正解に近くはあるかな。一応、一号と四号の複合型っていうのが模範解答ではあるんだけど」
「一号っていうと、常駐警備とホームセキュリティでしたっけ。四号は――」
「警備業法第一章の二条によると、『人の身体に対する危害の発生を、その身辺において警戒し、防衛する業務』。ひらたくいえばボディガードね」
「ボディガードォ? てことは、なんですか。北条警備保障って身辺警護専門の警備会社なんですか?」
時田は思わず身を乗り出した。弾みで手元のグラスがかすかに震える。ジンジャーエールが数滴こぼれたが、気にしてなどいられない。
「そう言ってしまうと少し語弊があるけどね。空間や場を相手にすることもあるわけだから。公安には四号としての登録はしてないし」
「空間や場が相手って?」
「オカルト系のインチキTV番組では、心霊スポットとかいって幽霊の目撃例がある場所なんかを紹介するんでしょ? 白丘第一高校の件もそう。被害にあってるのは人間だけど、大衆にとっては呪いの学校の話として認知されつつある。同じ場所で複数の被害が出た場合、これを解決すると、その場所にかかっているトラブルを取り除いたっていう解釈になりやすいのよ。空間や場を相手にすることがあるってのは、そういうこと」
「被害者がひとりの場合は被害者そのものが主語になる。被害者が複数になると、主語は被害が発生している場所や空間になる――ってことですか。で、後者のトラブル相談に乗った場合、その業務は一概にボディガードとは定義できなくなる、と?」
「そんなとこね。サミット会場を守るのは施設警備の範疇だけど、実質的にはサミットに集まる各国首脳を警護してるわけでしょ。VIPに張り付いてるボディガードとは守備位置が違うだけで、戦ってる敵は同じ。両者は時としてほとんど区別がつかない業務になったりもするわけ」
「なるほど」
「ともかく肝心なのは、ウチが今回の白丘第一みたいなレアケースを請け負う警備会社だってことなのよ。被害は発生してるけど、それが犯罪なのか偶然の連続なのかはっきりとしない。しかし、問題を放置しておくわけにもいかない。警備や警戒しようにも、なにからどうやって守れば良いか分からない。そういう特殊案件が私の専門分野ってわけ」
そうした仕事は、宿命的に事実上の調査活動を含むことになる。このため、一般的な警備会社だとノウハウ不足で対応できないのだという。場合によっては、ほとんど興信所や私立探偵みたいな案件になることもあるらしい。
「でも、そんなトラブルなんてそうそうないでしょう」
「ところがどうして。要は、上手く説明できない状況が発生すれば良いわけなんだから。たとえば、先月の中旬に神奈川まで行ったでしょ。バブル期に建設されかけて、完成せずに放置された八階建ての廃ビルだけど。時田君、覚えてる?」
「覚えてますよ」
時田はふてくされながら答えた。あれは間違いなく、十指に入る最低な夜のひとつだった。
「なにせ、電気も通ってないビルの一室に監視モニタみたいなのと一緒に放置されて、ひとりで寝ずの番を命じられましたからね。しかもなんの説明もなく」
「あれはね、無人のはずのビル上階にときどき明かりが見えるから調べて欲しいって依頼だったのよ。建前は不法侵入が横行してるビルの警備ってことにはなってたけど」
「えっ、あれってそんなちゃんとした依頼だったんですか?」
「あら、失礼ですね。時田さん、アタクシはいつだってちゃんとした仕事をしていてよ?」
「ついでに、部下にもちゃんとした説明をしてやっていただけると助かるんですけどね」
「あのときは、時田君がどれだけ言語を解するかまだ分かってなかったんだからしかたないじゃない。ホモサピエンスに見える珍しい猿人だと思って、半分シャレで雇ったつもりだったのよね。ウホッとしかしゃべれないと思ってたし」
「どこのゴリラですか、俺は。面接のときちゃんと日本語操ってたでしょうが」
「ゴリラで思い出したけど、一般的なゴリラの学術名ってゴリラゴリラゴリラなんだってさ。知ってた?」
「知るかっ」叫んだあと、時田はその場に崩れ落ちた。「そうか。だから、あんな畜生にも劣る扱いだったのか。今もたいして変わってないけど」
「まあとにかく、神奈川での仕事はそういうものだったのよ」
相手のリアクションなどどこ吹く風で所長は話を元の軌道に戻す。
「形式上は施設内の巡回警備だから、ある意味で一号業務の王道でしょ? しかしてその実体はXファイル風の特殊案件だったわけだけどさ」
無人のビルに夜が訪れると明かりが灯る。確かに奇妙な話だ。
とはいえ、落ち着いて考えてみれば、そんなものは調べるまでもないような気がした。おおかた、近所の若い連中が不法侵入して夜遊びにふけっていたのだろう。
そのままのことを所長にも聞かせてみる。
「あのねえ、GG時田が考えるような浅知恵にクライアントが至らなかったとでも思う?」
「そのGGって、もう確実にゴリラゴリラの省略ですよね」
「真っ先に何者かによる不法侵入の線を疑った責任者は、付近住民と連携して出入り口を封鎖したわよ。窓ガラスはベニヤ板で塞いで、警告の看板も立ててね」
時田の言葉を鮮やかに無視して所長はつづけた。
「その上で見張りまで置いてたにも関わらず、同じ現象は起こりつづけた。誰もいないはずの、しかも誰も入れないビルに明りがついて、見に行くとやっぱりそこはもぬけのカラ。調べてみたけど、出入り口の封印も、窓のベニヤ板も壊された様子はなかったそうよ。だから私のところに話が回ってきた。どうよ。確かに、こうなるとちょっとしたミステリじゃない?」
「それは確かに……」
「まあ、この件はビル内部にある大型マンホールが侵入ルートに使われてただけなんだけどね。犯人はやっぱり地元の悪ガキどもだったし」
「うわあ、そりゃまたドラマのないオチですね」
「分かってしまえば簡単なことでも、タネや仕掛けが分からないうちは気味が悪いものなのよ。常識的な理屈をつけて安心しようにも、能力不足で納得できるような説明をでっちあげることもできない。そんな人間が頼る先ってのは、実際のところそんなに多くないからね」
「被害の実態がはっきりしない以上、警察を頼っても無駄ってことですか」
白丘第一の件はまさにそうだ。さきほど出たビルの話にしたところで、運がよければ近所の制服警官が一度、ビルの様子を見に来る程度で終わるだろう。
「ほかの例だと――最近、近所の住人が自分の個人情報を気持ち悪いくらい良く把握している。給与明細や恋人との性的な関係についてまで、どうしてか知っているらしい。そう言ってウチに泣きついてきた女の子もいたわよ」
「個人の依頼も受けるわけですか」
「まあね。で、調べてみると、その隣人ってやつは被害者が捨てたゴミ袋を漁ってたの。捨てた明細書や避妊具の数なんかから、色々な情報を間接的に得てたってわけ」
「うへえ」
「ある企業は、情報が盗まれてるとしか思えないのだが、業者に頼んで調べてもスパイは見つからないし、盗聴器やカメラもしかけられていないことが分かった――ってウチに話を持ってきた。果たして情報は本当に盗まれているのか、それともそう思える不幸な偶然が重なっただけなのか。GGはどっちだったと思う?」
問われてしばらく考えるポーズをとってみたが、そうしたところで答えなど出ないことは分かりきっている。
時田は、正直に「分からない」と答えた。
「あと、GGは是非ともやめてください」
「結論から言うと、この会社は情報を盗まれていた。盗聴器でね。見つからなかったのはウチに来る前に頼んだ業者が三流だったからと、しかけた人間が一流だったから。その盗聴器は、プログラムで自動的に電源のON・OFFを切り替える職人仕様の代物だった。ある一定量の話し声や生活音に反応して電源が入り、部屋に誰もいなくなると落ちる。だから、休日や夜中に探知機で探し回っても発見器に反応が出なかったのよ」
謎がとければ、どうということもない話ではある。
だが、トリックを知らない人間には確かに恐怖だろう。
実際、盗聴器をしかけられていた会社では、社員の一部が幽霊の存在を半ば信じはじめていたのだという。
「大衆にとって科学とは、どっかの偉いひとが生み出してくれる論理武装用の道具でしかない。だから生兵法の域を出ないし、応用も利かないってわけ。ちょっとひねった問題を出されると、すぐに混乱してボロを出す。行き着く先は、呪いだの幽霊だのといったオカルトや似非科学ってわけよ」
「そして泣きつく先は、北条警備保障――」
時田のその言葉に、北条玲子は花咲くように微笑んだ。
「そういうことね」