「バンブルビィ飛行」 槙弘樹
7
全国の大学病院の多くが施設の老朽化に悩む一方、TUT病院はそうした問題と無縁の位置にあるようだった。施設は外観からしてモダンな印象を抱かせ、内部にも病院と聞いてイメージする陰気さがまるでない。特にエントランス付近は、病院というより高級ホテルのような雰囲気がある。
だが、それを加味したところで、時田はやはり病院という場所を好きになれなかった。
TUTに固有の原因があるわけではない。たとえどんなに清潔感が保たれていようと、周囲の人々が発する「色」までは演出しきれないからだ。時田の目に、感染症の患者は悪影響をもたらしえる対象として赤味がかって見える。悩みを抱えた人間は――事情を知ったとき時田の精神に影響を及ぼすからか――どこかくすんだ色をして見える。どれも普通の人間は気づかなくとも、時田には明白なものだった。
その居心地の悪さは、たとえるなら周囲の人間の考えていることがすべて声として聞こえてしまうような状態に似ているかもしれない。望みもしない情報が常に氾濫し、知りたくないことまでもが嫌でも脳に飛び込んでくる。直接的な害はなくとも、それは人間を酷く神経質に、そして憂鬱にさせるものだった。
「玲子さん、やっぱり五一二号室だそうです。この棟には、他にも白丘第一高校の生徒さんが何人か入院してるみたいですよ」
インフォメーションでナースの案内を受けていた六合村がもどり、笑顔が似合わない話を場違いなほど愛らしいえくぼと共に語る。
「なるほど。考えられることね」
巨大な花束を戦斧のようにかついだ所長が、小さくうなずいて返す。時田が見たときすでに車の後部座席に用意されていたことを考えると、昨日のうちから六合村あたりが買っておいた花なのだろう。
「よろしい。じゃあ、行きましょう」
宣言し、所長が先頭を歩きはじめる。
問題の五一二号室はフロアの最深部、個室の連なりの中にあった。単に倉川家が別料金を払えるほど裕福なのか、それとも彼女を蝕む謎の体調不良に伝染性が認められたのか、確かなことは分からない。ただ、北条所長は後者と考えたようだった。彼女によれば、たとえ軽症の病気であっても、他人に感染する危険があれば大部屋料金で個室に入るよう指示されることがあるという。白丘第一で何が起こっているか分かっていない以上、病院側が慎重な対応をとっている可能性は少なからずあるのだろう。
「基本的に話は私が進めるから。特に気になったことがなければ、あなたたちは黙って聞いてるだけで良いわ」
目的の部屋の前で足を止めると、所長は声量を絞った声で言った。
「特に時田君は、顔見れば頭悪いことは分かるんだから、必要以上に露呈してしまわないよう電柱みたいに大人しく突っ立ってなさい」
「酷い言われようだ」
時田が失意に頭を垂れる横で、六合村がポーチの中で何かのスイッチを入れる。おそらくはヴォイスレコーダだろう。
それを確認した所長が扉を軽くノックする。すぐに、「どうぞ」という女性の声が返された。
入った病室は、時田の予想よりずいぶんと広かった。聞いていたとおり個室には違いないが、床面積は時田家の居間並にある。入ってすぐのドアはおそらくトイレにつづいているのだろう。これだけ豪華なら、その奥にバスタブがついていても驚かない。仮になかったとしても、向かって正面の壁際には洗髪ができそうなほど大きな洗面台があった。
部屋の主は、中心部に置かれた可動式ベッドの上にいた。上体を起こした格好で膝元に携帯用ゲーム機を置いている。傍らに置かれた椅子にはもうひとり、母親と思わしき顔立ちの似た女性が座っていた。
「失礼します。白丘第一高校の要請を受けて参りました、北条警備保障の者です。学校の方からお話がいっていたと思いますが――」
こういうとき、北条玲子も社会人としてまともなしゃべり方ができるのだということを再確認させられる。
「はい。うかがっております。この度はお騒がせして済みません」
中年の女性が立ち上がり、予想通り倉川亜希子の母親であると名乗った。まるで罪でも犯したかのように深々と頭を下げる。無意味に堂々とした北条玲子とは、ほとんど立場が逆転して見えた。
「これは気持ちばかりですが」と、所長が母親に歩み寄って花束を渡す。「私は本件を担当させていただくことになりました所長の北条です。うしろのふたりは、女性のほうが六合村。若いですが優秀な事務員です。男の方は特に気にしないでください。力仕事をやらせるために運んできた備品ですので、記憶にとどめていただくほどのものではありません」
場を和ませるための冗談と解釈したのか、倉川の母親は柔らかい笑顔を見せて再度頭を下げた。だがそれは、もちろんのこと彼女の幸福な勘違いに過ぎない。
それを知る時田が備品扱いに文句をつけなかったのは、TPOをわきまえたからではなかった。別の人間がより大きなリアクションを先立って示したからである。
「なんでここにいるの……」
彼女の相貌に浮かんだのは明らかに恐怖の表情だった。目を大きく見開き、後じさりするように寝台上で身じろぐ。その手は無意識に固くシーツを握り締めていた。
倉川亜希子はまっすぐに北条玲子の右斜め後方――すなわち時田を凝視していた。
「なんでこんなとこにまでいんのよ! まだ何かするつもりなの?」
自分の言葉でさらに興奮していく。そんな調子で倉川亜希子は語気を強めていった。状況を把握できない母親が、自分に声をかけていることにすら気づかない。
「なるほど、そういう方向にいったのか」
硬直する時田の耳に、所長のささやき声が聞こえた気がした。
「亜希子、落ち着きなさい。どうしたの急に。失礼でしょ」
「お母さんは知らないんだから黙っててよ。あいつ――」
恐怖と憎悪の入り混じった少女の視線が時田に突き立てられる。生まれて十六年間、これほどの激情を生でぶつけられたことはかつてない。電柱のように突っ立っているだけで良い、というのは所長の言葉だったが、ある意味でその通りだった。全身を強張らせたまま、時田は投げかける憎悪にひたすら狼狽するしかなかった。
「あいつがやってんだよ、全部。変なことが起こりだしたの、みんなあいつがいなくなってからだもん。そうだよね。クラスのこと、全員恨んでんでしょ? どうやってるかは知らないけど、だからウチらばっかりこんなことになって……もう何人も死んでんのよ。どんだけ殺す気なのよ、人殺し! あたしはなにも手とか出してないのに」
瞬間、時田の視界に毒々しいピンク色の警戒色が広がった。回避しなければ軽度の負傷と苦痛を伴う危機。反射的に顔の位置を少し横へずらす。ほぼ同時、何かが左側頭部をかすめ、背後のドアにぶつかって落ちた。金属的な重たい音が室内に響く。床に転がったそれは、水色の携帯用ゲーム機だった。
「亜希子!」
母親が青ざめながら叱責の声を上げる。だが、娘の目には時田弘二しか映っていない。彼女はすでにベッドサイドの時計を取り、第二投のモーションに入っていた。またショッキングピンクの危険色が急速に接近してくる。
今度は間に合わない。直感が告げ、時田は目を固く閉じる。
だが、覚悟した衝撃と痛みはいつまでたっても訪れなかった。
時田が自力で危機回避したわけではない。軽い混乱状態に陥ったまま、恐る恐るまぶたを開く。何度かしばたいた目に、最初に映ったのは白い手だった。顔面から四、五十センチの前方に北条玲子の左手が突き出されている。それは、ごく当たり前のように危険色を失った目覚まし時計を掴んでいた。
「彼はウチの備品だと言ったはずよ。許可なく傷つけないでいただける?」
言って、所長は手首のスナップだけで時計を投げ返した。ゆるやかな放物線を描き、それは倉川亜希子の手元に落下する。
「知った顔と会わせれば話を聞きやすくなると思ったけど、逆効果だったみたいね」
自らが作り上げた沈黙のなか、所長はうしろを振り返って言う。
「しかたない。時田君、あなた外に出てなさい」
反論はなかった。黙って引き下がることに小さな抵抗はあったものの、早くこの場から逃れたいという欲求の方がはるかに強い。
時田は口ごもるように了解の言葉をつぶやき、病室を出た。後ろ手に戸を閉め、人気のない廊下で深く吐息をつく。
ここに来るまで、自分は忘れられた存在になっているものと信じ込んでいた。下手をすれば、直に顔を合わせてさえ倉川に気づかれないこともあり得る。そう思っていたほどだ。
だが、現実は違った。
時田弘二は、畏怖と憎悪の対象として彼女の心に刻まれていた。
ほとんど無意識に、ゲーム機がかすめていった頬を指先がなでる。
残酷なのは間違った加害者として一方的に恨まれることなのか、それとも存在を忘れられ空気にも等しく成り下がることなのか。
もはや、混乱した頭ではなにも判断できない。
数分して気づいたとき、時田は小さな休息所のソファに腰を落としていた。どこをどう歩いたのかはまったく記憶にない。病室を出てからどれくらい経ったのかも分からなかった。
考えるのを放棄し、近くの自動販売機で紙コップのコーヒーを買った。ソファに戻ってちょこちょこと口をつける。中身が空になりかけたとき、所長と六合村がようやく通路の向こうから姿を現した。
「お待たせしました、時田さん」
六合村が少女のように軽く跳ね、含みのない天然の笑みと一緒に着地する。いまは彼女の明るさが救いに思えた。
「あの、倉川はどうでした?」
「地が出てるわよ、時田君。呼び捨てなんて、知り合いなんですって言ってるようなもんじゃない。白丘第一の生徒だってこと、私には一応隠しておきたかったんじゃないの?」
所長の指摘に、「しまった」と思ったのも一瞬のことだった。その思いはすぐにあきらめにとって変わる。
「――どうせ、もうごまかせるような状況じゃないですしね」
時田はため息まじりにつづけた。
「そもそも、学校から二年四組の分も含めて生徒の一覧表を渡されてるわけでしょ。あれには俺の名前がばっちり入ってる。その時点ですでにバレバレじゃないですか」
「確かに」所長は小さくうなずき、腕時計をのぞく。「まだ十一時前か。まあ、良いや。少し早いけど、どこかで昼食をとりましょう。お六合は昼寝でもしてなさい。明日から徹夜がつづく可能性を考えて、せいぜい寝だめしておくことね。私と時田君は歩くから、車は好きに使ってよろしい」
「分かりました。じゃあ、私はお先に失礼しますね」
顔の近くで小さく手を振り、軽やかな足取りで六合村は去っていった。その後姿を見送ると、所長は改めて時田に向きなおる。
「さて、私たちも行こうか」
「お互い、はっきりさせておくこともありそうですしね」
時田は観念して言った。所長がうなずく。
「そのようね」
病院を出て、セントラルアヴェニューを所長と歩いた。
白丘市を南北に貫く市内最大の繁華街は、平日の午前中でも人ごみに満ちている。
そんななか、北条玲子は往来の視線を数多く集めた。自然、時田もある種の注目を間接的に集めることとなる。かつてはそれに優越感を抱くこともあったが、いまでは所長本人と同じく、どちらかといえば鬱陶しさを感じることの方が多い。自分に注がれるのが負の感情ばかりとなればなおさらである。
十分ほどかけて駅前まで歩いたところで、先を行く彼女は小洒落た喫茶店のドアを開けた。実際にはより近代的な建築なのだろうが、あえて丸太造りに見せかけた内装が面白い。昼にはまだ早いせいか、店内には半分ほど空席が見えた。
ウェイターに窓際のテーブル席へ案内され、時田はテーブルを挟んで所長の対角となる位置に座った。
「どうせあんまり楽しい話にはなりそうもないんだし、まずは飲み物だけ注文して、面倒な話を先に片付けましょう。ランチはそのあと、改めて頼むってことで」
メニューを広げながら所長が言った。
「そうですね」
「食事を含め私のおごりだから、好きなものを頼みなさい」
「とか言いつつ、経費で落とすつもりでしょう。和泉さんが言ってしまたよ。それが個人経営の役得ってやつらしいって」
まあね、と笑いながら所長がウェイターを呼ぶ。彼女はコーヒーを、時田はジンジャエールを注文した。オーダーをとる間、若い男性店員は、結局、一度として時田に視線を向けなかった。接客業としては失格だが、同じ男としてはしかたのないところなのだろう。
「それで――」
ウェイターの後姿が十分に遠ざかったのを確認しながら時田は口を開く。細かい駆け引きが通用する相手ではない。小細工抜き、真正面から切り出すことにした。
「所長は俺のこと、どこまで知ってるんですか」
「ん……そうね。基本的なことはだいたい知ってるんじゃない?」
彼女はあっさりした口調で答える。
「ただ、断っとくけど、時田君が白丘第一の生徒だってことはかなり前から知ってたわよ」
「えっ?」
思わずあごが落ちる。
北条玲子は、採用に際して時田に履歴書の提出を求めなかった。
うちで働く場合、過去の経験とか学歴だとか、そういうのはほとんど役に立たないから。
そんな言葉と共に、面接を受けたその場で採用を告げられたのである。時田が彼女に直接伝えたのは、連絡先となる住所と電話番号のみ。あとは名前がせいぜいだ。「トキタコウジ」という名をどんな漢字で綴るかすら、下手したらいまだに知らない可能性もある。
「ちょっと待ってくださいよ。どうして俺の学校のことなんか知ってるんですか?」
「そりゃあ、調べたからよ。前に言った、時田君の最終学歴や年齢に興味がないって言葉にうそはない。でも、うちは警備保障を謳ってるの。就労年齢に達してない子どもを雇ったり、犯罪者を使ったりすると、私は構わなくたって顧客が迷惑するでしょう? だから、身元に関係する情報は集めさせてもらったわけ。私が時田君を信用するためというより、クライアントとの信頼関係のためにね」
あなた、面接の帰り道からしばらく、和泉さんに行確されてたのよ。そうつづけて、所長はいたずらっぽく笑う。
「あのとき時田君の自転車、タイヤの空気が抜けて乗れなかったでしょ。対象の高速移動手段を封じて、尾行しやすくするためのテクなのよ、あれ。気づかなかったでしょうけどね」
まったく気づいていなかった。
行確――行動確認は警察が良く使う言葉で、犯罪に関与している可能性がある人間を四六時中つけてまわり、生活パターンや行動を細かにチェックする作業を意味する。
自分が知らずにそんなものの対象にされていたことには腹が立ったが、セキュリティを売る商売であることを考えるなら、むしろ北条玲子の取った姿勢は正しい。社会的責任と顧客との信頼関係を考えた、いわゆる大人の対応というやつだと一応の理解はできる。
「住民票も不正取得したから、家族構成や年齢なんかも大体は把握してたわね」
運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、所長は静かにつづけた。
「だから、時田君の制服着て家出て、駅のトイレでスーツに着替えるって変な習慣についても知ってたわよ。その制服から、白丘第一に通っていたことがあることも。そこを中退したか、休学してる可能性が高いこともね。和泉さんに元警官のパイプを使ってもらって、前科がないかも調べた覚えもある」
「そうか。じゃあ、和泉さんも知ってたんですね。俺が本当は高校生だってことも、白丘第一に行ってたってことも」
「そういうことになるかな」
――白丘第一高校だ。君も知ってるだろう。
あのときの言葉は、それを踏まえてのものだったということだ。
ようやく謎が解けたような気分だった。彼にしても所長にしても、白丘第一から仕事の話が来たとき、まっさきに時田のことを思い浮かべたに違いない。
「でも、なんで時田君が学校に行くのをやめたのかは、いまだに知らないな。興味もなかったしね。とは言え、さっきの倉川亜希子の反応を見てしまった以上、看過するわけにもいかなくなったわけだけど」
言って、所長はテーブルの下で足を組み替えた。同時に居住まいを正し、改めて時田に向きなおる。
「そういうわけで、改めて聞かせてもらいましょうか。時田君、あなたが登校拒否を決め込んだ理由はなに?」
「いつかは話さざるを得なくなるとは思ってましたよ。想像よりはずいぶんと早かったですけど」
「クビになる心配ならしなくても大丈夫よ。そんなのを理由にしなくたって、私はそうしたくなったらいつでも遠慮なく人間関係を切断できるタイプだから」
所長は嫣然と微笑みながら言った。言葉の内容さえ聞こえていなければ、時田も頬くらい染めたかもしれない。
「聞いても全然面白くない話であることは、予めご了承いただけますか」
「安心して。最初から時田君にそういう期待はしてないから」
「ですよね」
そうまで言われてはしかたがない。
時田は観念して、話の内容を大雑把に頭のなかでまとめた。遠く感じるようになりはじめた記憶を探り、関係者の名前と顔を思い出していく。
そして、ゆっくりと口を開いた。