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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



 赤は危険。赤は止まれ。
 それはこの世で最も確かな警戒色。
 小学生でも知っていることだ。
 だからあの時、おとなしく足を止めておくべきだったのだろう。
 素直に引き返していれば、今もまだ安寧の中にいられたに違いない。
 なぜならあの日、初めて目にした彼女は赤。
 柔らかな黄昏色から、鮮やかな真紅へ――
 揺らめき変わるその姿は、炎のような赤色だった。



  1

 ひさしぶりに腕を通した学生服は、少し湿った感じがした。
 午前八時きっかり、三○六号室を出てマンションの一階までおりる。自転車置き場に向かう途中、なんとなく空を見上げるのはいつしか身についた小さな日課だった。ここ数日、昼でも薄暗い森林地帯で寝起きしていたせいか、朝日が少し目に染みた。
 時田弘二の移動手段は、もっぱら十八段変則のフェイクMTBに限られる。これを駆り、朝の通勤通学ラッシュに合流。大通りを真っすぐ駅に向かう。
 ここまでなら特筆すべくもない男子学生の日常だろう。
 だが、駅に向かうと必ずトイレに向かう高校生は珍しいはずだ。そのまま個室に直行し、出てきた時、装いをスーツにかえている者となるとなおさらである。
 はた目には奇妙な振る舞いに見えるであろうこの儀式も、時田本人にとっては、出がけに何気なく空模様を確認する行為と大差がない。気づけば形になっていた、些細で特に意味のない習慣だった。
 それでもつづけているあたり、どこかでそれを必要としている自分がいるのかもしれない。
 そんなことを考えながら、時田は自転車に戻ってサドルをまたいだ。今度は金ヶ崎方面へ五分ほど走る。セントラルアヴェニューから角ふたつ分、やや奥まった通りに見えてくる雑居ビル群が目的地だった。正確には、そのうちのひとつ――コンフォートグレイの三階建てで、周囲と比較して幾分こざっぱりした印象のあるビルが時田の勤務先である。閉じられた一階のシャッターには、横書きで「北条警備保障」とあった。
 路地裏に自転車を止め、裏口からビルに入る。鍵は時田が開けることも多いが、この日はその必要がなかった。すでに誰かが出勤しているらしい。階段で二階へ向かい、事務所のドアを開く。
 意外なことに、そこには一番可能性が低いと踏んでいた職員の姿があった。
 深みを持った「藍色」が頭のなかに広がっていく。小さなゆらぎこそはあるものの、それが彼の持つおおむねの固有色だった。
「おはようございます。和泉さん、久しぶりですね」
 声をかけると、彼はペンを置いて書類から顔をあげた。
「君か。一週間ぶりくらいかな。おはよう」
「俺たち、なんかすれ違いが多いですよね。和泉さん、ここのところ出張つづきだったし。俺も一昨日まで、所長に引っ張り出されてどこぞの樹海をさ迷ってたから」
 時田のその言葉に、和泉は薄い笑みを見せる。
「話は聞いてる。いろいろ大変だな、君も」
 和泉光司は開業当初からの最古参で、事務所の最年長者でもある存在だった。噂では、起業に際して所長自らが引き抜いてきたらしい。かつては警官であったとも聞いていた。その経歴を考えればそこそこの――少なくとも時田の父親程度の――年齢であっておかしくはない。だが実際の彼は、三十代後半から五十がらみまで幾つにも見える男だった。
 時田ばかりでなく、これは誰もにとってそうなのだろう。和泉のまとう穏やかで主張を必要としない自信は、あきらかに青年が獲得し得るものではない。反面、鍛錬の行き届いた細いながらも引き締まった身体は活力に満ちていた。十六歳の時田と抵抗なく談笑できる感性の柔軟さも持ち合わせている。そうした背反する要素の混在が和泉光司の年齢判別を困難にしているのだった。
「コーヒー淹れますけど、和泉さんも飲みます?」
「いや、あと十分もしたら出なくちゃならんのでね」
 荷物を自席におろすと、時田は部屋の隅におかれたコーヒーメイカーに向かった。
「帰ったばっかでしょう。また出張ですか」
「違うが、仕事ではある。所長とクライアントに会いに行く予定でね。さっき、急遽決まったんだ」
 それで「あと十分もしたら」という先ほどの言葉に納得がいった。おそらく支度の時間として、所長がそれだけの時間を要求したのだろう。いまごろ、彼女は地下のガレージで荷物の積み込みでもやっているかもしれない。
「それより、時田君。この缶がなにか知らないか」
 見ると、和泉の手には銀色のアルミ缶があった。A4のノートを十冊ほど重ねたくらいのサイズである。
「あ、それ俺のです」
「そうか。いや、私のデスクの近くにあったんでね。中身を訊いてもいいものかな」
「開けたら分かりますよ。進行中の巨大プロジェクトに使ってるんです」
 言葉にしたがって和泉の大きな手がふたを開く。瞬間、彼はそのまま身体を硬直させた。ややあって怪訝そうな顔をあげる。
 時田はにやりとしながら言った。
「消しゴムのカスですよ」
「まあ、そう見えるな……」
「この前、天啓が走ったんです。消しゴムのカスを集めて、そうやって四角い空き箱にぎゅうぎゅう詰めにして固めていったら、やがて超巨大消しゴムができるのではなかろうかと」
「――なるほど」
「で、完成したら所長に献上するんです。あのひと、そういう規格外のアイテムが好きでしょ?」
「そうだな。渡したときの反応までは予測できないが」
 和泉は固い表情でふたを閉じた。
 できあがったコーヒーを持って、時田はデスクに戻る。
 座って一口飲んだとき、内線が鳴った。出ようとしたが和泉に身振りで制される。彼は自ら受話器を取り、一分もせずに置いた。
「所長からだ。準備が整ったらしい。すまないが行ってくるよ」
 和泉が立ち上がりながら言った。慣れた動作で背もたれの背広を羽織りながらつづける。
「もしかすると帰りは午後になるかもしれない。店番を頼めるかな」
「まあ、俺はそのために雇われてるようなもんですから」
 この雑居ビルにはテナントが一軒しか入っていない。北条警備保障が独占しているためだ。オフィスや倉庫、資料室として使われているのがここ二階。一階には防災・防犯グッズを取り揃えた小売店を構えている。最上階である三階は所長が自宅として使っていた。
「客が来たら通常の対応で。なにかあったら、私か所長の携帯電話に連絡してほしい」
「遠出ですか?」
「いや、市内だよ」
 和泉が歩き出した脚を止める。振り向いて静かに告げた。
「君も知ってるだろう。白丘第一高校だ」


 2

 九時十分前になると、時田は一階に下りた。いつものように開店準備を整え、いつものようにシャッターをあげる。
 平日はたかが知れているものの、今日のような休日はそこそこ客入りも多い。実際、午前中から大物が売れた。据え置き型のワイドバンドレシーバである。設置義務化の流れが進んでいる火災報知器の売れ行きも良い。車載レーダーや天井にとりつけるドームカメラなどの購入者もいた。所長の趣味で品揃えをマニア好みにしていることも無関係ではないのだろう。県外からわざわざやって来る上客も少なくない。
 午後になると、下着泥棒の被害を訴える若い主婦に相談をもちかけられた。警察に被害届けまで出したが、肝心の家主と業者が防犯対策をとってくれないのだという。彼らの許可がおりないため、セーフティネットを張ることもできない。下着は室内に干すようになったが、コソ泥が簡単に出入りできる現状に不安と恐怖を感じているとのことだった。
 時田は、事務所スタッフから教えられた業者との有効な交渉テクニックや地域との連携法などについて簡単にレクチャーし、さらに防犯カメラのレプリカや、セキュリティ会社のものに見えるステッカー、室内からベランダを映せる暗視防犯カメラなどの商品を紹介した。
 結局、彼女はなにも購入していかなかったが、また店に来るであろうという予感はあった。
 店員の使命は物を売るだけではない。顧客との信頼関係の構築。そして口コミの種まきも立派な営業なのである。
 所長から聞きかじった、彼女一流の哲学だった。それで毎月一定の売り上げを残しているあたり、相応に意義のある思想と考えて良いのかもしれない。
 そんなことを頭の片隅で思いながらも、時田はその思考力の大半を別のところに費やしていた。朝、出がけの和泉と交わしたやり取りについてである。
 ――白丘第一高校だ。君も知っているだろう。
 何気ない和泉の一言が、脳裏から焼きついて離れない。
 もちろん、時田は白丘第一高校を知っていた。市の中心部に位置する公立校の名である。偏差値は五十半ば。首都圏などとは違い、岩手県では私立より公立に学力のある生徒が集まる。それを考えれば、中堅かややその下にランクされることになる凡人のための学校、ということになるだろう。
 そして白丘第一は、一年半前に時田が入学した学校でもあった。さらに言うなら、数ヶ月前から通うのを止めた学校でもある。
 登校拒否。不登校。一種の社会問題としてクローズアップされることのある昨今、時田のいまの状態をしめす言葉に事欠くことはない。いずれにせよ、退学手続きをとっていないからには、まだ籍は残っているはずだった。必要に迫られれば再び登校しはじめることも可能ではある。
 だが、自分をいまでも覚えている生徒は何人いるだろうか。
 時田としては、常に復学のネックになる問題だった。
 何分おきに携帯電話が鳴るか。メモリに何人分の番号とアドレスを登録しているか。一日何通のメールをさばくか。いまや高校とは、そういった尺度で人間を評価する社会だ。
 そんな世界で、三ヶ月にわたって音信を絶つ。
 これがなにを意味するかは、どんな愚か者でも簡単に想像できるだろう。
 限りなく死に近い忘却である。
 時田弘二は、すでに忘れられた存在なのだ。

 さらに言うなら、自分は勤務先ここでも忘れられた存在になりつつあるらしい。
 時田がようやくその結論に至ったのは、客足の途切れた隙をみて遅い昼食をとっている最中だった。
 普段は最低でも二人体制で接客することになっているが、今日は稀な例外が発生している。いくら待っても相棒が現れない。信用されて任されているのか、単に自分がひとりで店番していることを忘れられているのか。所長の性格を考えると、遺憾ながら後者の可能性が有力であることを否定できない。
 そして時田は単独体制のまま、この日最後の客を迎えることになった。
 彼らは十七時の弊店まぎわに現れた三人組だった。おそらくは時田と同年代、ひょっとすると中学生の可能性もあるかもしれない。まだあどけなさの残る少女たちである。
 この店の片隅には所長の趣味によって作られた売り場が存在する。護符や魔除けといったオカルトグッズのコーナーがそうだ。
 時田の予想通り、三人の少女は迷うことなくそちらへ向かっていった。護符の類は、なぜか彼女らのような若い娘からの人気が高い。占いの延長線上にでもとらえているのではないか、というのが時田の個人的な分析だった。
 ――ねえ、これだよ。たぶん。見た目、ふつうのお守りっぽいって言ってたし。ホントだ。「厄除けのヒトカタ」って書いてある。でも、これで三千円って高くない? まあ高いけど、お守りってそんなもんだよ。めっちゃ効くって言ってたし。逆に、変に安いと御利益なさそうでヤだべ。百円サプリみたいでさ、ホントに効くのかよって疑われるって。
 他に客がいないからか、軽い岩手なまりを含んだ彼女たちの話し声に遠慮はなかった。声量がしぼられないため、やりとりの一部始終がレジまで届いてくる。
 時田も最初は、終業準備にかかりながら何気なくそれを聞いているだけだった。無視できなくなったのは、「第一のコにも買ってやったら」という一言が飛び出したからだ。
 あそこ呪われてんでしょ。ユッコ、知り合いいたんじゃなかったっけ。――あ、私も中学んときの友達いる。ていうか、昨日それでメールしたし。もう三人か四人死んだんでしょ。なんか、血まみれだったらしいよ。
 しばらく迷ったあと、時田は伝票の束を置き、レジを離れた。まっすぐ少女たちの方へ向かう。なるべくにこやかに声をかけた。
「いらっしゃいませ。ヒトカタをお探しですか」
 三人娘たちの視線がいっせいに時田に集まった。瞬間、パステル調の紫、深い抹茶色、そして濃いオレンジ色のフィルターが視界にかかる。そのうち紫の少女が代表するように口を開いた。
「あの、厄除けのお守りがあるって聞いたんスけど」
「はい、お持ちになっているのがそうです」
 言って、時田はオレンジの少女が持っている商品を視線でしめす。
「むかしは、漢字で人形と書いてヒトカタと読んでいました。それも見た目は少し大きめのお守りですけど、中には <ヒトカタ御幣> っていう特殊なお札みたいなのが入っています」
「こんなかに?」
「それが、小さなケガや不運を持ち主の身代わりになって引き受けてくれると言われているんです。実は、ひな人形も同じ思想から生まれたものらしいんですけど、ご存知でしたか?」
 ひとの形をした物に触れ、撫でることで、それに災難や穢れを移すことができる。かつての人々はそう考えた。北条所長いわく古い陰陽道あたりの発想であるらしい。
 そうして人間のネガティヴなものをなすりつけられた人形は、焼却処分されるか川などに流されたという――時田はそう解説した。
 誰もが良く知る物についての隠された事実を披露する。これも、所長から伝授された客引きにおける基本的技術のひとつだ。
「現代版のひな祭りでは、ひな壇に人形をかざるでしょう。でも、昔は川に流してたんです。流しびなって言って、いまでもそのやり方を文化として残してる地域もあるそうですよ。たしか、鳥取とか和歌山だったかな」
「あ、ちょっと違うけど、あたし似たようなの知ってる。修学旅行ん時に清水寺でやったもん。ひとの形っぽい紙に名前と願いごと書いて、桶の水ん中に入れんだよね。そしたら紙が溶けていってさ。人形祓いっていうんだったかな」
「修学旅行って、去年の京都? そんなのあったっけ」
「あったよ。――じゃあそうか、あれは願いごとだったけど、これはそれの身代わり版なんだ。だから効くんだ」
 オレンジの娘が目を輝かせ、「すげえ」とうなる。
「失礼ですが、お客さんたち、高校生ですか?」時田は訊いた。
「そうだよ」
 商品案内の甲斐あってか、抹茶系の女の子が打ち解けた表情でうなずく。時田は調子を合わせてさらに問い重ねた。
「さっき、話してるのが少し聞こえたんですけど、第一でなんかあったんですか? 俺、最近まであそこに通ってたんでね。ちょっと気になって」
「いや、なんかあったって言うか……」
 娘たちが顔を見合わせる。やがて、ひとりが口を開いた。
「夏休み明けから、ひとがバタバタ死んでるって。それで呪いとか言われてるみたいで。ね?」
 彼女は同意を求めるように、連れのふたりへ視線を送る。
「うん」片割れがうなずいて言った。「死ぬまでいかなくても、入院する生徒が異様に多くてパニクってるらしいですよ」
 聞けば、伝染病の疑いをもたれたほど甚大な被害が出ているらしい。死者は二学期に入ってから既に三人。入院した者に至っては、生徒を中心に二桁にも及ぶという。
「その話、ニュースとかには?」
 時田が問い重ねると、三人はそろって首を振った。
「なんか、保健所が調べに来たって話は聞いたけど――でも、べつに犯罪とかじゃないし、因果関係っての? そういうのもはっきりしてないから、表沙汰にはなってないみたい。ガッコが情報止めてんじゃないかって、第一行ってる友だちは言ってたけど」
「絶対そうだよね。TVでいじめ自殺とかやってても、学校が責任認めることとかってあり得ないし」
「でも、死んだひととか、かなり凄かったみたいよ。いきなりドバって血吐いて、目とか鼻からとかも出血して、教室真っ赤だったって」
 時田はTVの提供する娯楽に無関心な方であるし、かといって新聞を読む習慣もない。仮にニュースになっていたとしても、事件の話が時田の耳に入ったかは微妙なところである。
 だがそれでも、いままで情報が入ってこなかったのが不思議に思えるほどの騒動が母校を舞台に展開されているらしい。
 和泉の口から白丘第一の話が出たとき以来、不思議には思っていたことだ。
 私立校が夜間警備などのために業者と契約する例はある。だが、金のない公立高校が北条警備保障を呼び出すのはなぜか。
 最初は、幹部職員がプライヴェートな用件で依頼を持ちかけたのかとも考えた。だが、それなら交渉の場を学校に選ぶ必要はない。
 では、どういうことか。今日が日曜日であることを加味すると、こういう考え方もできるようになる。
 すなわち、休日で生徒がいない時を見計らい、学校内で直に相談を持ちかけなければならないようなトラブルが白丘第一で起こっている。
 そしてそれは、少女たちの話となんらかの関係を持っている可能性があった。


  3

 十七時を回っても所長と和泉はもどらなかった。
 心情的には彼らの帰りを待ちたがったが、考えてみればこれは無駄になる可能性も高い。もとより守秘義務を抱えることの多い仕事なのである。警備会社が受ける相談は、そのまま依頼主のプライヴァシィにつながるのだ。たとえ事務所の職員同士でも、自分の担当した案件についてペラペラと話せるものではなかった。
 定時にもどらなければ帰って良い。和泉にそう指示されていたこともある。十七時五分、時田は店のシャッターを下ろすと二階にもどった。三十分ほどインターネットで時間をつぶし、施錠して事務所を出る。朝来た道を――駅を経由せず――逆に辿って帰宅した。
 道中、頭にあったのは、やはり白丘第一高校のことだった。
 ネットで確認してみたものの、結局、少女たちの話を裏付けるような情報はなにも得られていない。
 時田が白丘第一に通っていたのは今年六月の途中までである。少なくともその時点において三人娘のいう呪いの話はなかった。つまり、騒動が本当にあるのなら、火種も含めて発生はその後と考えて良い。
 マンションに着くと、時田は駐輪場に自転車をとめた。エレヴェータに乗り、いつものようにネクタイをゆるめながら一息つく。
 自分が離れたあとの学校でなにが起こったのか。クラスの連中は大丈夫なのか。一番心配なのはそこだった。
 死んだという三人と、入院したという生徒に知った名がある可能性は否定できない。そう考えると、努めて忘れようとしていたクラスメイトの顔が、いやでも脳裏に浮かぶ。
 そうした物思いに意識をとらわれ過ぎたのだろう。
 結局、時田が自分の失敗を悟ったのは事が起こってからだった。
 玄関にたどり着き、機械にドアノブを回す。それがすんなり回ったことの不自然さに、リアルタイムで気づくべきだった。
「おう、ボウズ。お帰り」
 凄みのあるその低い声は、驚くほど高い位置から響いてきた。
 見上げると、外国人と思わしき長身の男と視線がかち合う。
 まったく見知らぬ相手だった。南欧系だろうか――全体的に顔の彫りが深く、太い眉と鋭い三白眼との間隔は間違いなく一センチも開いていない。正面から見た限り、頭髪と呼べそうなものはほとんど見えなかった。髪の色が淡く、軍人のように短く刈り込んでいるためだ。
 そんな男が、ノースリーブの白い長衣を身にまとっている。天使を思わせるひらひらとしたワンピースだ。裾からは筋肉質の足が覗き、鍛え上げられた丸太のような腕は肩から丸ごと露出されている。
 見るに耐えない光景だった。
「ええと……」
 時田は後ずさりするように廊下へ引き返し、玄関の部屋番号を確認した。三〇六号室。やはり、自室であることに間違いはない。
「ヘルプミー。アイハブ・ノーマネー」
 自分でも何を口走っているのか理解できないまま、とりあえず両手をあげて命乞いする。
 それを見た男は、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「お前に語学力など期待しておらん。母国語で良いから落ち着いて話せ、ボウズ」
 それは驚くほど流暢な日本語だった。
 よく考えてみれば、ドアを開けた瞬間に聞いた第一声も日本語であったような気がする。
「金目当て? お金ならあげるから、身体だけは堪忍して。はじめては好きな女の子としたいの」
 時田は一歩後退し、両手で抱くように己をかばう。
「くねくねするな、気色悪い。我々はお前に福音をもたらすために来たのだ。安心しろ」
「フクイン?」
「その説明を含めて色々と話すことがある。状況を把握したいならついて来い」
 言うや、男は背を向けてさっさと歩き出した。躊躇のない足取りで、他人の家を奥へと向かっていく。
 絶好の機会といえた。逃げ出すなり、悲鳴をあげて隣人たちに助けを求めるなりするならば今しかない。ふつうなら迷わずどちらか――あるいは両方のアクションを起こしただろう。
 しかし、時田が選んだのはいずれでもなかった。導かれるまま、靴を脱いで男の背を追う。
 もちろん、いま起こっていることに対して現実感を決定的に欠いたこともある。しかし、逃げも通報もしなかったのにはもっと別の――そして決定的な理由があった。
 つまり、男が綺麗な「灰色」をしていたからだ。
 これまでの経験上、時田弘二にとっての危険因子は「赤系の色」で表現されることがほとんどだった。ひどいものになると、くすんで濁った、より毒々しいものになる。
 したがって、帰宅した瞬間に本物の空き巣や強盗に遭遇したら、それが何色に見えるかは想像も容易だった。おそらく鮮血のような深紅だ。血走った目で刃物でも握っていれば、まず間違いなく乾燥した血液のようなドス黒い赤茶色に見えただろう。
 だが今、目の前をいく男は、それらとまったく違った灰色なのである。それも白黒の混合色として生まれた、結果的なグレイではない。意図してそうあるべく生れ落ちた――たとえるなら、金属的な光沢を放つ「銀色」ともすべき色だった。
「どうした、入らんのか?」
 降ってきた声で、時田は我にかえった。
 見ると、「銀色」の男がダイニングルームにつづく扉を開けて待っていた。視線でうながされ、時田は先にドアを潜る。瞬間、鼻腔をくすぐる紅茶の芳香に時田は足を止めた。
「あ、お帰りなさい……でいいんですよね」
 その声には心底おどろいた。まさかダイニングに第二の侵入者がいるとは思いもしない。
 なかば呆然としながら、時田は声の主に目をやる。
 そこにいたのは、新緑を思わせる綺麗なグリーンの少年だった。背が低く女性のように華奢で、年齢はおそらく時田と変わらないくらい若い。長くやわらかそうなプラチナブロンドと人懐っこい碧眼は、外国人を見慣れない人間にしてみると衝撃的ですらあった。
「おう、ボウズ。突っ立っていないで適当なところに座るが良い。紅茶も入ったようだし、さっそく話に入ろうではないか」
 気づくと銀色はさっさと食卓の椅子に腰を落ち着け、ティカップを片手にふんぞり返っていた。
「どうした。日本には来客を直立してもてなす風習でもあるのか?」
「いや、なんだか夢を見ているようで……」
 つぶやくように答えながら、時田はのろのろと彼らの対面に位置する椅子を引く。銀色の言うとおり、テーブルには三人分の紅茶が用意されていた。おそらくは買い置きのアールグレイを勝手に使ったのだろう。念のためカップを覗き込んだが、危険色は発していなかった。薬物混入などの心配はないらしい。
「――まあ、思いがけずこれだけの幸運に恵まれればな。それは夢心地になるのも無理はなかろうよ。お前の気持ちは分かる」
 紅茶を一口飲むと、銀色はひとりで何事かに納得しながら何度もうなずいた。
「その通り。図らずもこの純白の衣が強烈に示唆してしまったようだが、我々はお前に幸福をもたらすため光臨した、世にも愛らしい白百合の妖精に他ならない」
 なんとなく口に含みかけていたアールグレイを思わず吹き出す。
「うそだ。それは絶対うそだ!」
 せき込みながら必死に主張するが、相手は動じなかった。
「何がうそか。お前、愛らしい純白のローブをここまで可憐に着こなせる存在が、妖精をおいて他にあると思うか? 存在したとしても天使がせいぜいであることは言うまでもない」
「そんな筋肉質の中年妖精がいるか!」
「ヨーロッパにはいるんだよ。本場だからな」
 きっぱり言い切ると、銀色は隣の相棒に視線を向けた。
「そんなことより、出し物は紅茶だけなのか。スコーンの類は?」
「キッチンにクッキィらしき箱ならあった気がするよ」エメラルド色の少年が首をかしげる。「でも、さすがに無断で手をつけちゃうわけにはいかないでしょ」
「構わん。客人に茶菓子も出そうとしない家主が悪いのだ」
 銀色は断言し、少年からクッキィのありかを聞き出した。目的のものを見つけだすと、なんの躊躇もなくその場で開封する。そのまま、つまみ出した二枚のクッキィをまとめて口に放り込み、豪快に噛み砕きながら席に戻ってきた。
「さて、そろそろ本題に入ろう。まず、お前が知りたがっていることから答えていこうではないか」
「そうなると、まずは名前だね」
 エメラルドの少年が明るく微笑み、まっすぐな視線を時田に向けた。
「改めまして、僕はディセット‐ジャーニマンといいます」
「ジャーニマン?」
「ええ、ディセットと呼んでください。これまでの非礼についてはティガの分も含めておわびします。勝手にお宅に上がり込んだり、キッチンを使ったり、色々と申し訳ありませんでした。あと、ティガが勝手に食べてしまったクッキィのことも」
 あえて日本の作法に合わせたのか、少年は金色の頭を深く下げた。彼を包み覆うやさしい緑色は、その謝罪にこめられた誠意を物語っている。
「じゃあ、そっちのおっさんはティガっていうんだ」
 幾分、緊張を解きながら時田は訊いた。
「そうです。彼は僕のパートナーで、正確にはティガ‐アデプト。もちろん、ふたりとも人間です。ティガが言った妖精関係のことは基本的に信じないでください」
「それは最初っから信じてないけど」
「それから――これだけは早々にはっきりさせておきたいのだが、我々は決して不審者でも犯罪者でもない。外見や表層的な言動で人を判断するのは愚かなことだ」
 口の中のクッキィを紅茶と一緒に飲み下すと、銀色がカップを置きながら言った。ティガ‐アデプトというらしいが、見た目と同様に人種や国籍の分かりにくい名である。
「結論から言おう。我々はお前の母親に頼まれてここに来た」
「えっ、母さん――?」
 想像だにしていなかった展開に思わず声が上ずる。
「そう。私とディセットは、国際NGO <スリングウェシル> のメンバーだ」
「ちょっと、ちょっと待った。依頼って……なんで、そこで母さんが出てくんの? NGOってアレでしょ、非政府組織とかいう」
「はい」
 日本ではそう訳すみたいですね、とディセット少年がうなずく。
 ノン・ガバメント・オーガニゼイション――略してNGO。
 中学時代に公民あたりで習った覚えのある概念だ。記憶が確かなら、民間の非営利団体を意味したはずである。
 時田はこれを「人権や環境問題について活動するヴォランティア集団」であると勝手に解釈していたが、それが正しいにせよ間違っているにせよ、今の状況と結びつきがあるようには思えない。
「さっぱり分からん。なんかの間違いなんじゃないの? 言っとくけど、うちの母さん高卒のトラック運転手ですよ。多分、NGOの意味も知らないと思うけど」
「間違いではない。スリングウェシルの活動目的は青少年の健全な育成、そしてこれの妨げとなる環境的、社会的因子の是正だからな」
 銀色――ティガがゆっくりとした口調で言った。
「すなわち、お前のように心身共に不健康なボウズを鍛えなおし、社会復帰させるのが仕事ということになる」
「社会復帰って?」
「心当たりはあるのだろう」
 心なしか、ティガが声のトーンを下げたような気がした。
「ボウズ。聞けばお前、不登校とやらをつづけているそうだな」
 時田は反射的に口を開いた。
 だが、結局なんの言葉も出てこない。しばらく硬直した後、向かい合うふたりの視線から逃れるように顔を伏せる。
 返す言葉などあるはずもなかった。どれだけつくろってみても、相手が真実を告げていることに変わりはないからだ。
「その様子を見ると、誰にも知られていないつもりだったらしいな」
 うつむいたまま聞いたそのティガの声には、どんな感情も含まれていなかった。彼はただ冷静に状況を分析している。
「まあ、当然かもしれん。父親は母親と別れて今は別の家庭を築いているし、血のつながった兄弟姉妹もいない。仕事の関係で家を空けがちな母親に対しても、上手く振舞えば隠し通せる可能性が高いからな」
 その言い回しでようやく気づく。ディガの言葉はあからさまにある事実を指摘していた。それだけは避けようと腐心していた、最悪の事態について言及しようとしているのだ。
「まさか、母さんにバレたのか」
「いや――」
 ティガがゆっくりと首を左右に振った。
「安心しろ。彼女が気づいているのは、お前の様子がおかしいということだけだ」
「本当に?」
「少なくとも、お前が登校しなくなったことは知らんよ。ただし、息子の隠し事については勘付きはじめている。それが学校関係のことであろうこともだ。だから、お前の母親は我々に頼んできたのだ。名目は家庭教師ということになっているが、実際の仕事はお前の身辺調査と心のケアだな」
「そうか……じゃあ、まだ大丈夫かもれしれない」
 こわばっていた筋肉が一気にほぐれた。全身の力を抜きながら安堵の息をつく。
 時田の父親と離婚して以来、専業主婦だった母は仕事をはじめた。くわしい経緯は知らないが、父親からの養育費は断ったらしい。
 そうして、彼女は大型自動車を使った運送業に身を投じた。
 だが、一五年前に彼女が飛び込んだトラック業界は、今に至るまで完全な男社会としてつづいてきている。女性であるというだけで常に様々なプレッシャーを受け、差別も受ける世界だった。
 セクハラなんて当たり前。トラックの中で眠るときは、鍵かけとかなきゃ危険を感じることもあるくらいだから。時田くんのお母さん、若いころはなかなかの美人だったらしいからね。そのころはダンプにも乗ってたし、相当苦労もあったと思うよ――
 そんな話を、母の仕事仲間からこっそり聞かされたこともある。
 それでも母が運転手をつづけ、男の体力でもつらいと言われる長距離トラックもこなすようになったのは、要するに収入が良いからだった。
 息子を高校にいかせるため。望むなら、大学にも進学できるようにするため。経済的な理由でなにかを断念させるようなことを子供にさせないためである。
 だから、無線で男たちに下品な話のネタにされても、月に数度しか家に帰れなくても、彼女は黙ってステアリングを握りつづけている。
「あの、頼みがあるんですけど良いですか」
 時田は立ち上がると、卓上に両手をついて頭を下げた。
「俺が学校行ってないことは、母さんに報告しないでほしいんだ。なんとか、こう黙っててもらうわけにはいかないですか」
「ほう、それはなぜ?」
 背もたれに体重をかけ、足を組みかえながらティガが訊く。
「それは……結局のところこれって俺個人の問題だし、親が知ってもどうしようもない話でしょ? 学校の先輩相手に失恋して、それでちょっと落ち込んでるとか、なんかそんな感じで伝えてもらえると助かるんですけど」
「つまり、我々に虚偽の報告をせよ、と」
 ディガは一瞬、ディセット少年と顔を合わせ、思案するように黙り込んだ。真意を探るように時田に視線を注いでくる。
 その沈黙の重さに耐えかねて、時田は無理に言葉をついだ。
「俺、別に悩んでるわけじゃないですから。バイト先も見つけたし、俺が離れたほうがクラスもうまくいくと思うんですよ。それで状況が良くなるなら、学校から離れてみるって選択もアリでしょ? だから、あんまり後悔とかもないし……今の自分の状況には納得いってるんです」
 それでも、もちろん無下に突っぱねられるだろう。
 相手にも都合があり、社会的責任が問われる立場にあるのだから当然といえば当然である。自分が都合の良い一方的な頼みごとをしているのだ、という自覚は時田にもあった。
「――なるほど、言いたいことは大体分かった」
 ティガが組んでいた足を解き、居住まいを正す。
「そこまで言うのなら、お前の母親に登校拒否の事実を伝えるのはしばらく控えよう。しかし、事実に反した報告はできん。我々の着任が少し延期されたことにして、報告のタイミングを遅らせるだけだ」
 思わず耳を疑う。
「え、本当に良いの?」
「一週間くらいなら時間を稼いでやる。その間に状況を変えて、母親に報告されても問題のない生活環境を作り上げるんだな」
「それはありがたいっす」
「ただし、条件が三つある」
 言って、ティガは唇の端をつりあげた。


  4

「ごめん。ウチ、2DKだから」
 運び込んだ布団を畳の上に下ろすと、時田は相手の方を見ずに言った。
「いま布団取りに行った部屋は母さんのでさ、一応はあれでも女だから。俺の一存では使わせてやれないんだ。ダイニングには人が眠れるようなスペースがそもそもないし」
「いえ、良いんです。それより手伝いますよ」
 ディセットが頬に笑くぼを作り、布団を挟んだ対面に回る。
 シャワーを浴び終えたばかりの彼は、洒落たデザインのジャージィに着替えていた。胸元に有名スポーツメーカーのロゴがあしらってあるあたり上物なのだろう。化学繊維たっぷり、上下を三〇〇〇円で揃えた時田のものとは生地からして違う。
「それよりどっちで寝る? ヨーロッパのひとならベッドが良いかな」
「僕は気にしませんから、どうかお気遣いなく」
 そう遠慮がちに微笑むディセットの髪は、アンペアが低くドライヤーが使えないため、まだ薄っすらと湿っていた。
「まあとにかく、ディセットはベッド使ってよ。俺としては床に敷いた布団で寝るのも新鮮で悪くない」
 ――これがティガの提示してきた条件のひとつだった。
 ボウズの都合に合わせるとはいえ、我々も仕事をしないわけにはいかない。できる限り詳細にお前の生活環境を把握し、なぜ不登校を呼ぶような事態に陥ってしまったのかを客観的に知らねばならん。
 そう主張し、猶予期間中の同居を迫ってきたのである。
 近くのホテルに寝床を確保しているが、可能な限りこの時田家で生活を共にする。ティガはそう宣言し、その同居とやらをさっそく今日から開始すると告げた。
「で、泊り込むとか言ってたおっさん本人はどこ行ったの? メシ食ったあと出かけたっきり帰らないけど」
 ふたりでシーツを広げながら、時田はディセットに訊いた。
「彼は周辺地理を把握したあと、今夜はホテルに戻ることになりました。ここに僕らふたりともお世話になるのは無理そうですしね。今後は交代しながらご一緒させていただくことになると思います」
「あのおっさんが本当に妖精みたいな美少女だったら、多少の無理があってもこっちから頼んで泊まってもらったんだけどな」
 つぶやきながら想像してみる。
 帰宅してドアを開けてみると、南欧系の美女がそこにいる光景だ。さらに部屋の奥には、金髪碧眼の優しそうな第二の乙女が紅茶を用意して待っている。そんな彼女たちは時田弘二が不登校になった原因を究明し、力になるため現れたのだと告げるのだ。
 そして、恥ずかしそうに同居を申し出る。
「でもって、俺が事情を話すと、つらかったのね。私たちが慰めてあげるからがんばって……とかなんとかで、やさしく抱きしめてくれたりしたのでは? そして見事、社会復帰を果たした暁には、さらに大いなるご褒美が――」
 想像するだけでえも言われぬ幸福感に包まれ、出所不明の力がにわかに漲りはじめる展開だった。思春期の少年にはこたえられない情景だった。
「分かりやすい。非常に分かりやすい展開ですよ、これは! そうだよ。なんだって、おたくのNGOは若い女性スタッフを派遣せんのだ。年頃の男の子にやる気を出させる一番効果的な方法は、かわいい女の子の支援じゃないですか。そうだろう? 世界のどの国でもそうに決まってる。今からでもまだ間に合うぞ、ディセット君。私は貴団体にすみやかな人員の交代を要求したい。おにゃのこを出せ! 角ばって固い生物ではなく、丸くってやわらかい生物を出せ」
「ごめんなさい。それはちょっと難しいと思います」
 ディセットが困ったような笑みで返す。
「なんてこった。神は死んだ!」
 時田は頭を抱えながらその場に崩れ落ちる。
「やっぱりね……いや、分かってはいたんだよ。最近、無駄に女運を使い過ぎてたからさ。あれがいけなかったんだ。雇ってくれた警備会社の所長は超がつく美人だし。ほかにも六合村さんっていうかわいい女性スタッフがいるし。まったく恋愛関係に発展する見込みがないとはいえ、俺のような男があれだけの美女に囲まれて良いわけがなかったんだ。なんか裏があると思ってたんだよ、薄々はね」
 だが、それがまさか白百合の妖精を自称する巨漢の外国人の襲来だとは思っていなかった。
「僕が女の子なら良かったんですけど。マンガにはそういう話が多いらしいですしね」
「え、そうなの?」意外な言葉に時田は顔を上げる。
「はい。ティガの受け売りですけど。ある日、主人公のもとに綺麗な女の子が現れて、うやむやのうちに一緒に住むことになるそうです」
 そこまで言うと、ディセットは作業の手を止めて不思議そうに時田の目を覗き込んだ。
「時田さんは、日本人なのにあまりマンガを読まないんですか?」
「日本人だからって誰もが読むわけじゃないよ。そりゃ、好きは好きだけどさ。ウチ、基本的に貧乏でしょ。ノート代にも困るのに漫画なんか買ってらんないよ。置く場所もないし」
 それよりも、あの筋肉質の銀ニセ妖精が漫画に精通しているというのは予想外だった。まったくイメージに合わない。
「あのおっさん、外国人のくせに日本のマンガに詳しいの?」
「ええ、それはもう。彼が読んだマンガはもう四桁に達してると思いますよ。僕も色々勧められて何冊か読まされました」
「へえ、なんでまた」
「前任地がフランスでしたから。あの国は、ヨーロッパにおけるジャパニーズ・ポップカルチャーの発信拠点なんです。他の欧米諸国と同じく <マンガ> という言葉自体を母国語に取り入れているくらいですし、都市部には大きな専門店があってすごくにぎわってるんですよ。だからマニアもたくさんいて、ティガはそのうちのひとりに過ぎないんです」
 筋骨粒々とした大男がマンガ本を熟読している光景を思い出したのだろう。ディセットがおかしそうに目を細める。
「ふうん、日本も知らないとこで勝手に有名になってんだな」
「それを別にしても、日本に来てやっぱりここはマンガの国なんだなって思いましたよ」
「なんで?」
「だって、あっちこっちにマンガ風のキャラクターがあふれてるじゃないですか。警察にも動物を模したマスコットがいるし、道路標識なんかにもかわいい絵が描いてあって……風邪薬を買ったら、そこにもパッケージにカプセル薬を基調にしたキャラクターがプリントされてましたよ」
「そういうの、欧米じゃ珍しいの?」
「珍しいというより、皆無に近いです。商品にマンガ的アニメ的なキャラクターをプリントすると、それは子どもだましで効能を期待できない製品だと解釈されます。大人は幼児向けのオモチャだと思って買いません。標識なんかも、厳かでシンプルで、意味さえ伝われば良いという考えしかありませんから。まして権威や秩序の象徴である警察がマスコットやマンガのキャラクターをイメージに採用するなんて発想自体が欧米ではでてきませんよ」
「へえ。じゃあ、日本って結構おもしろい国なのかなあ。全然気づかなかった」
 つぶやきながら、時田は壁の時計に目をやった。あと二十分ほどで二十三時になる。
「少し早いけど、フランスから来たなら疲れてるだろ。もう寝る?」
「はい。時田さんがそうされるなら」
「なら、電気消すよ」
 相手が女の子であったなら、きっと胸を高鳴らせながらのセリフになったに違いない――などと考えながらスイッチに手をかける。ディセットがベッドにもぐりこむのを見届けて、時田は明かりを消した。
「時田さん、明日の予定は?」
 衣擦れの音と共にディセットが言った。
「例によってバイト。アルバイトね」
「朝からですか」
「勤務時間は、基本的に朝の九時から夕方の五時まで。通勤時間は片道約三十分弱ってとこ。毎週水曜日が休みなんだけど、出張で遠征することも多いからスケジュールは結構めちゃくちゃでさ。休みがつぶれた場合は代休をもらえたりもらえなかったり……」
 ため息をつきながら、昨日はまさにその代休を取っていたのだ、と付け加えた。
 それから、枕に頭を置いて静かに目を閉じる。
「あの、時田さん。もうひとつだけ訊いて良いですか」
 暗がりの向こうから、遠慮がちな声が響いてきた。
「ん――?」
「今日のことですけど、どうして僕たちのことを信じてくれたんですか? 見ず知らずの、しかもかなり非常識な現れ方をしたのに」
「ああ、そりゃ不思議にもなるよな。ふつう」
 思わず苦笑がもれる。
 改めて考えるまでもなく、答えそのものは明白だった。しかし、どう言葉にすべきかについては難しい問題である。素直に話すと「霊感がある」だとか「超能力が使える」などといった告白と同列に扱われることもあるし、場合によっては面倒な誤解を生むきっかけにもなり得る話になるからだ。
 信じてもらえない可能性の方が圧倒的に大きなことを語るには、気力と勇気がいる。これまでの経験から学んだことだった。
「――あのさ、ディセットは共感覚って聞いたことある?」
「いえ」少し考えるような間をおいてディセットが答える。「たぶん、はじめて聞く言葉だと思います」
「英語なんかだとなんて言うんだっけ。まあ、それは今度調べとくとして……とにかく、そういう妙な現象があるんだよ。神経系の病気だっていう専門家もいるらしいんだけどさ」
「それはどんなものなんですか?」
「俺の場合は、シンプルに言うと危険が色つきで見えるんだ」
 何度も表現を考えてみたが、やはり一言で本質をつくならそれに尽きる。
「変に聞こえるかもしれないけど、そうとしか言いようがないんだよね」
 そのまましばらく耳をそばだてていたが、ベッドの方から特別な気配は感じられなかった。息をのむ様子も、驚いて毛布を跳ね飛ばすような音もしない。それを確認してから時田はつづけた。
「この世のあらゆるものには色がついてるだろ? ミルクは白いし、空は青い。でも、俺にはそれとは違う、もう一種類の色が見えてる。たとえば、ティガのおっさんなら銀色。ディセットは綺麗な緑色。怒らせた相手は赤っぽく見えるし、ケンカ中の相手は黒っぽい茶色に見える」
「色を連想しているんじゃなくて、実際にその色で見えてるってことですか?」
「そう、実際に見えるんだ。危険は赤とか黒とかダーク系の色。安全なものはライト系の優しい色で、無色のことも多い。パターンは固定されててさ、だからディセットとティガのおっさんが悪者じゃないことが分かったわけ。たとえ刃物持ってても拳銃構えてても、俺の見てる色は本能が訴えてる色だからね。絶対に安全だって信じられる。そりゃ、びっくりしたし全然怖くなかったって言ったらうそになるけど」
 こうした「色付き」の対象はなにも人間に限った話ではない。横断歩道の前で信号待ちしてるとき、目の前を横切っていく車の群れは赤みがかって見える。何かの拍子で飛び込めば、死に直結する交通事故に至るからだ。
 もちろん、危険性が低下すれば色もそれに伴って変化していく。車道から離れた場所に移動すると、行き交う自動車は白や青系、もしくは無色に近くなるわけだ。
 もともと、人間には「やさしい色」「きつい色」「おちついた色彩」「ギラギラした色づかい」などといった、色から印象や特殊な感覚を得る能力が備わっている。また、青系は集中力を高め、赤系の色は逆の効果をもたらす――といった心理的効果についても科学的に実証されていると聞く。ホモサピエンスは、生物として色に様々な影響を受けたり、意味を見出したりする存在なのだ。自分の場合は、その色と感覚との結びつきが他人より少し強いのだろう。時田自身はそう考えていた。
「共感覚って大抵そうらしいんだけど、俺の場合も生まれつきの話でね。実際、物心つくまで誰もが当たり前に持ってるものだと思ってたんだ。さすがに小学生も中学年くらいになると、なんか周りは違うらしいって気づきはじめたけどね」
「サーモグラフィみたいに見えるんですか?」
「ん? なんだっけ、それ」
「温度を色で現したものです。見たことありませんか? TVの実験なんかで、体温や室温を分かりやすくするために色分けした図を出すことがあるでしょう。温度が高いと赤っぽくなって、低いと青白っぽくなる」
「ああ、あれね」
 うなずきながら考える。たしかに物のランクを色の分布で表現している点では共通する部分もありそうだった。
 だが、違いもまた目立つ。
 たとえばリンゴは光の下で見ると赤いが、温度が低いためサーモグラフィ上では白っぽく見えるはずである。しかし、時田の目は違った。
「俺の場合はね、口じゃ説明しにくいけど……ああいうのほど極端じゃないんだ。元の色はちゃんと見えるしさ。ディセットは緑っぽい雰囲気の人だけど、だからって全身グリーン人間に見えてるわけじゃない。髪の毛はブロンドで目は青いって、ちゃんと分かってるよ」
「その危険の色は、暗がりの中でも見えますか?」
「見えるよ」
「では、今も僕は緑色をしてるんですね?」
 言葉に誘われ、ディセットの方に視線をやる。
 照明を落としても、窓から差し込む月明かりのおかげで室内は完全な闇とはなっていない。ベッドの上にディセットらしき影の輪郭があることくらいは見て取れる。そして、それは変わらず優しい緑色を発していた。
「うん、見える。やっぱり、ディセットの緑は綺麗だ」
「……時田さんは、いつごろそれがシネステジアだって気づいたんですか?」
「なにテイジア――?」
「シネステジア」デッセットの声がくり返した。「たぶん、時田さんのいう共感覚のことです。欧米で使われてる学術用語なんですけど」
 スペルは、synesthesia。
「ド」の音を赤く感じたり、言葉の響きに甘さや酸っぱさなどの味を感じたりする特殊な感覚の総称である、とディセットはつづけた。
 すなわちシネステジアとは、なんらかの刺激を受けたとき、誰もが得る感覚とは別に第二の「なにか」を得てしまう現象ということになる。
「ああ、それそれ。共感覚ってまさにそれのこと。俺の場合は、中二のときにクラスメイトの女子から教えてもらったんだよね。共感覚って言葉もそのとき知った」
「チューニ?」
「ああ、中学二年生のこと」
 流暢にしゃべるとはいえ、ボキャブラリまで生粋の日本人並みとはいかないらしい。時田は計算しながら言いなおした。
「ジュニアハイの二年目。ヨーロッパだとギムナジウムだっけ。何年目に相当するのかは知らないけど。年でいうと十四歳くらいになるかな」
「じゃあ、それくらいの歳の女の子がシネエテイジアを知っていたんですか?」
「うん。すごく大人っぽい子でさ、べらぼうに頭の良い人だった」
 そして、出会った中で一番綺麗な女性でもあった。
 口には出さず、時田は胸のうちでそう付け加えた。

 当時のことは、いまだ鮮明に思い返すことができる。
 ――時田君、勘が良いみたいね。
 忘れもしない三年前の初秋、夏休みがあけてしばらくのことだった。
 ほとんど接点のなかった彼女に、いきなりそんな言葉をかけられたのである。
 もちろん、危険が色つきで見える目の話など吹聴したことはない。つまりその女子生徒は、時田のさりげない言動や日常的な仕草などから「なにか」を見出したことになる。
 だが当時の時田にとって、それは大した問題ではなかった。彼女の存在そのものこそが何よりの衝撃だったのである。
「容姿にも立ちふるまいにも、綺麗さに世界観っていうか……雰囲気のあるひとだった。その辺の教師たちなんかより、よっぽど深い人間に見えたよ。ふつうに接してるだけで、なにか教えられてる気分になるひとだった」
「そのひとは、本当に時田さんのシネステジアのことを知らなかったんですか?」
 興味が出てきたのか、ディセットの声音にかすかな熱がこもったような気がした。
「全然知らなかったよ。最初は護身のセンスがあるって言われ方したからね。で、色々質問されて、それからはじめて色の話をしたわけ」
 共感覚かもしれないと診断されたのは、そのときの会話の最後だった。医者と患者の――本当に問診みたいなやりとりから導き出された結論だったのを覚えている。
 興味があるので、これからも何度か質問や簡単な実験に付き合ってもらいたい。その過程で、よりはっきりとした結論を導き出せるだろう。あなたにとっても、自分のことを知るのは利になるでしょう。
 別れ際にかけられたその言葉は素直にうれしかった。
 もちろん、ふたつ返事で引き受けたのは言うまでもない。
 無口で人をよせつけない彼女と、内容はなんであれふたりきりで会話できる。それはクラスにとどまらず、ほとんど全校の男子生徒が夢見みる境遇だったのである。
 だが、最後に待っていたのは苦い笑い話だった。
 彼女が他の男には向けない目で自分を見ている。その事実はいつしか時田のなかに奇妙な期待を生み、見当違いの方向へ発展していったのだ。
 可能性としては考えてたけど、こんなに早かったのは残念ね。
 思いを告げた時田に返されたのは、結論から言うとそんなひとことだった。そして、意味を理解できずにいる幼い異性のために、彼女は簡単な表現で返答を口にし直したのだった。
 ――悪いけど、時田君をそういう目で見たことは一度もない。これからもまったくあり得ない。その意味では、私にはもう決めた人がいるから。
 それで、ふたりの一風変わった関係は終わった。
「残念」という表現をふたたび用いつつ、彼女が終止符を打つ理由として挙げたのは時田の不器用さだった。
 気持ちを整理して、事務的に関係を継続ってことは考えられないでしょう? 私は可能でも、あなたには難しい。
 彼女の分析は常に正確だった。
 そのとおり、当時の時田はしばらく他人と口をきける精神状態ではなくなっていた。異性と意識し、その気持ちをぶつけ、拒絶された相手と、なにもなかったように付き合っていくのは到底不可能に思えた。
 そういった意味では、共感覚というやつに辛い思い出がないこともない。だが、それは本当の意味での不幸ではないはずである。彼女との出会いとひと時を提供してくれたことを考えれば、収支は最低でもブレイクイーヴン。間違ってもマイナスにはなりえないはずだった。
 そもそも彼女の射止められなかったのは、共感覚のせいではなく時田弘二に人間的な魅力が欠けていたせいなのだから。

「――でも、そういえば最後にその娘が言ってたな」
 失恋関連のエピソードを胸にしまい、時田は結末だけを口にした。
「俺のやつは一種の共感覚には違いないけど、部分的にはまったく別の法則が働いてるって。アクセス先が違うとかなんとか。そもそも、ふつうの共感覚って元の色は分からないものらしいじゃない。そこもおかしいって言ってた」
 アルファベットの「A」が黄色く見える共感覚者は、黒いマジックで書かれていても「A」を常に黄色として認識する。少なくとも報告されているほとんどの例ではそうであるらしい。本来の色をかすかにでも知覚できると、だから本来の色と共感覚の色との間で混乱を起こすこともあるのだという。
「そうですね。僕は専門家じゃないので良く分かりませんけど、時田さんの目が本当にシネステジアなら、それは極めて稀なタイプなんだと思います」
 ディセットが静かに言う。それが思いのほか沈んだ声だったことも気になったが、時田の頭にはより大きな別の疑問があった。
「でも、ディセットはなんでそんなに詳しいわけ?」
 共感覚の話題が一度で相手に通じることは珍しい。少なくとも、時田の知る限りはそうである。
「僕にとっては仕事上、知っておいて損のないことですから。シネステジアが差別や迫害につながるケースは稀ですけど、皆無というわけでもないですし。自閉症を併発しているケースなんかもたまにあるんです」
「あ、そうか。ディセットはそういうNGOの人なんだもんね」
 時田としては自分の共感覚に強い愛着を持っていたし、それがなんらかの不都合につながったとしても捨てたいとは思わない。
 だが、共感覚のせいで悩みを抱える子どもも存在はするのだろう。条件さえ揃えば問答無用で発動し、自分の意思で受け取る情報を制御することはできない。コントロール不能の能力には、時に鬱陶しさやそれを越える苦痛が伴うこともある。そんな彼らの力になるためには、まずその根源たる共感覚がなんであるのかを知っておく必要があるはずだった。
 NGOのメンバーとして活動しているのなら、確かに勉強していておかしくないことなのかもしれない。
「そうだ。断っとくけど、俺が学校行かなくなったのと共感覚とはまったく何も関係ないよ」
「はい。それは分かってます」
 生真面目な声が暗がりの向こうから聞こえた。
「研究によると、共感覚者の多くは自分の能力に愛着を持つそうです。不便に感じたり何かしらの悩みを抱くこともあるでしょうけど、可能なら捨てたいかと訊くと、大多数がNOと答える。それほどシネステジアを身近な存在だと感じているようです」
「うん。俺もそうだと思う」
 だから超能力を持った物語の主人公のように、時田は自分の抱えた異能についてかっこう良い悩みや葛藤など抱いたことはない。それは右手ではコップもうまく持てないほど極端な左利きだとか、どうしてもニンジンが食べられないだとか、絶対音感だとかいう個性と変わりがないからだ。
「生まれたときから一緒だった感覚だもんなあ」
 つぶやきながら、時田は枕元の目覚まし時計を手に取った。蛍光塗料の塗られた針は、いつの間にか二十三時も半ば近くを示している。
「――もうこんな時間か。俺、いつもは七時半に起きてるけどディセットは明日どうする? 時差ボケとかもあるだろうし、つらいなら昼くらいまで寝ててもいいけど」
「いえ、たぶん明日の僕らはもっと早起きです」
 人称が複数形であることにひっかかりを覚えたが、疲労からくる眠気の方が上回った。大方、不慣れが原因で文法を誤ったのだろう、と結論して全身の力を抜く。
 なら、お休み。そう一声かけて深く息を吐いた。
 三分もせずに眠りに落ちていけることは感覚で分かった。北条所長の全国行脚に付き合いはじめてから身に付いた、どんな環境下でもすぐに眠りにつける能力の賜物である。
 だがこのとき、ディセットの最後のつぶやきについてもう少し真面目に考察しておくべきだったのかもしれない。
 時田がそのことを痛感したのは、翌朝の五時だった。


  5

「良いか、お前は天カスだ」
 それが、夜明け前に突如として襲来し、有無を言わさず時田を外まで引っ張りだしたティガ‐アデプトの第一声だった。
「なんなんだよ。これは一体なんの罰ゲームなの、おっさん」
 寝ぼけ眼をこすりながら言った瞬間、脳天で何かが爆ぜた。
 痛みが頭全体にいきわたるまで二秒ほどようしただろうか。おかげで眠気は完全に霧散した。その段に至って、時田はティガが竹刀を手にしていることにようやく気づく。
「なにすんだ、おっさん! ただでさえ親に無言でため息つかれる性能なのに、さらに頭悪くなったらどうすんだ。あんた責任取れんのか」
「やかましい、ヒヨッコ。貴様に発言は許されておらん」
 ティガは盛り上がった僧帽筋のあたりでリズムカルに竹刀を跳ねさせながら言った。
「良いか、ボウズ。繰り返すがお前は天カスだ。偉大な日本食、天ぷらの調理過程で発生したカスだ。オカラといっしょだ。ゴミだ。チリだ。ダストだ。本来なら捨てられるだけの哀れな存在だ。処理を巡って、法に産業廃棄物と認められた厄介ものだ」
「ティガ、それはちょっと……」
 時田と同じように、無理やり外へ連れ出されたディセットが口をはさむ。だが、ティガはそれを完全に無視してつづけた。
「だが、安心せよ。そんな天カスも使いよう。うどんやそばに添えるも良し。お好み焼きに混ぜるも良し。目先を変えれば役に立たんこともない。オカラと同じようにな」
「だから――?」
「しゃべるな、天カス」
 また脳天に竹刀を食らう。まったく容赦のない一撃だった。
「良いか、ボウズ。これはつまり、天カスでもかろうじて生きていくことが許される程度の存在にはなり得るということだ。とはいえ、貴様のような引きこもりニートの腐りきった性根を正すのは容易ではない」
 言いたい放題にまくしたてると、ティガは竹刀の切っ先を時田の鼻先につきつけた。
「そこでまず、手軽で効果の実感が得られやすい肉体の強化から着手していく。どうせ駄目だろうが、わりと容赦なく鍛えてやるから死ぬ気で精進せよ」
「え、ちょっと……」
「しゃべるな、産廃」
 口を開きかけた瞬間、三度、頭頂部を叩かれる。
「良いか、ボウズ。貴様は今日から毎朝五時起床。十分で用意を整え、このエントランス前の広場に集合するのだ。そして出勤までの約三時間をトレーニングに費やす」
「そ――」
 そんな無茶苦茶な、と言いかけたところで竹刀が目に入った。
 下手に口を開けばあれが飛んでくる。激痛とひきかえに得た学習効果だ。
「良いか、茶ボウズ。これはチャンスだと思え。貴様のような肥満メガネには、ひとりで継続的な鍛錬を行うことなど不可能に決まっちょる。力ずくにでも引っ張り出され、強制的にやらされないと何事もつづきはせんのだ。この私のような存在にな」
 引きこもった覚えはないし、自分はニートでもなければメガネもかけていない。百七十三センチ五十九キロは、特に肥満体の範疇にもないはずである。
 そんな思いもあったが、心のどこかでティガの言葉を認めている自分を時田は自覚していた。
 男として、イメージ通りに動く身体や引き締まった肉体に憧れたことが、過去一度もなかったわけではない。だが、それを手に入れるための努力をしたことはなかった。
 なにか大きな強制力が働かなければ……というティガの分析は、だからおそらく正しいものなのだろう。
「ようし、では今後の方針についての確認がとれたところで、早速本日のメニューに入ることとする」
「いや、俺はまだやるとは一言も――」
「だまれ、天カス」
 時田は即座に沈黙させられ、ティガは何事もなかったかのように言葉をつづけた。
「最初に行うのはストレッチだ。良いか、良く聞けヒョンタレボウズ。身体を鍛えると言うと、お前のような根暗メタボリックはすぐに筋力トレーニングをイメージする。大間違いだ、愚か者。覚えておくが良い。重要なのは瞬間的な最大出力の大きさではなく、システムとしての安定性だ。あらゆる要求に対して柔軟に対応し、故障することのない肉体こそが真に評価されるのだ。
 貴様はオートマグを知っているか? 当時、最強とされていた44口径を撃てるマグナムオートとして、あれは確かに一時の話題をさらったかもしれん。しかし故障や誤作動が多く、すぐに使えないものの代名詞としてジョークのネタにされるようになった。自動弾詰り銃オートジャムとな。つまりはそういうことなのだ。言ってる意味は分かるな、ヒヨッコ」
 分かろうと分かるまいと、ティガは問答無用でトレーニングを開始した。まずは宣言どおりの柔軟運動である。これはディセットをパートナーに、足の指から首に至るまであらゆる関節、あらゆる筋肉を様々な方法で刺激していくものだった。ティガの要求する動きは常にリズミカルで、直前の動きが次のアクションに通じる予備動作になるよう設計されていた。どこかダンスに似た感覚があったのは、おそらくそのためなのだろう。
 いずれにせよ柔軟運動も時間をかけ、徹底的にやればかなりの運動になる。四十分後、時田は肩を大きく波打たせ、全身から滝のような汗を噴き出していた。
 その後のメニューは、五キロのランニングと筋力トレーニングだった。いずれにもティガがついて周り、常に耳元で時田を罵倒しつづけた。彼は、時田の体力が尽きかけるたびに挑発を繰り返し、少し離れた場所で、見ていると無性に頭にくるダンスを踊った。
 あの男を一度殴りたい。これをやりきったら絶対殴る。
 時田が全メニューを最後までこなすことができたのは、ひとえにその念があったからだろう。そして、ティガはすべてを計算に入れた上で自分の振る舞いをコントロールしていたのだった。

 七時半、時田は大の字に伏したままティガによる早朝鍛錬の終了を宣言を聞いた。
 この時間帯になると、通勤通学する住人たちがマンション周辺を騒がしはじめる。当然、倒れたままの時田は彼らの視線を集めた。が、正直なところそれを気にする余裕すらない。しばらくして部屋にもどるときでさえ、ひざが笑ってまともに歩けないありさまだった。ディセットが肩を貸してくれなければ、玄関をくぐるまで十分近くかかっていたかもしれない。
 ようやく時田の四肢がまともに稼動するようになったのは、シャワーで汗を流し終えたあとだった。指がかじかんだように動きづらいため、着替えにも普段の倍近く時間がかかる。
 だが、いつもやっている朝食の準備はせずに済んだ。居間に行くと食卓にはすでに料理が並んでいたのである。
「これ、誰が作った?」
「僕です。ご迷惑でしたか?」
 ディセットが遠慮がちに名乗り出る。まさか、と答えて時田は自分の席に座った。内容はトーストにヨーグルト、それにコーヒーという簡素なものだったが、心遣いだけでも充分にがありがたい。
「助かったよ、ありがとう。うまそうだ。ディセットが女の子だったら、もうこの時点で恋愛感情が発生してるに相違ないほど感激してる」
「それはよろこんで良いのかな……」
「もちろん」
 複雑そうな笑みを浮かべるディセットに、時田は自信を持ってうなずいた。
「それで、ボウズよ。朝食後はどうするつもりだ」
 向かいでさっさと食事をはじめていたティガが、眼球だけ動かして時田に視線を向けてくる。彼は自分の皿をほとんど空にし、手にコーヒーのマグカップを握っていた。
「どうって、いつもどおり出かけるよ」
「念のために聞くが、行くのはどっちだ」
 すなわち、学校に行くのか。勤めに出るのか。彼が訊いているのはそのことなのだろう。
「――アルバイト先だよ。中央区にある雑居ビル」
「そうか。だが、私との約束は覚えているな、ボウズ。お前が休学している事実を報告しないためには、我々がまだここに到着していないことにするしかない。猶予は最長でも一週間。それ以上はごまかしきれん。学校に行っていないことを母親に知られたくなくば、お前はそれまでの間に通学を自主再開する必要がある」
「分かってる。近日中になんとかするよ」
 だが、それは口でいうほど簡単なことではない。
 時田はもちろん、ティガやディセットもそのことは良く知っているはずだった。
 なぜなら不登校を決め込みはじめて数ヶ月、すでに時田には学校に行かない人間の生活リズムができあがっている。今では一日の大半を学生服ではなく、店番用のスーツ姿で過ごす日々だ。所長に連れられ全国を行脚し、平日に休みをもらう。午前を自宅で過ごすことも、夜中に帰宅することもある。もう、クラスメイトたちとは時間の流れ方が違うのだ。
 たぶん、理屈は遠距離恋愛と同じなのだろう。
 違う場所で、それぞれの生活パターンができる。時間の流れにズレができる。思い出を共有できない。ようやく再会しても、そのズレが齟齬をきたす。狂ったリズムはもう合わせられない。いつか生じた埋められないほどの溝。違う世界に来てしまった自分。決定的に冷え込んだ関係。
 どんな顔をしてあのクラスにもどる?
 自分のいない間も授業は進み、級友たちは時田の知らない知識を身につけている。学校行事を通して関係を深めあっている。
 どうやってブランクをとりもどす?
 復学したら周囲は気を使うだろうか。大変だったね。よく来たな。ずっと心配してたんだよ。口元に硬い作り笑いを浮かべながら、気づかった言葉をなげかけてくるだろうか。それとも遠巻きに出戻りの心理をひそひそと予想しあうのだろうか。
 それにどんな反応を返せば良いのか、「がんばれ、みんな待ってるから」「先生は味方だからな」「自分のペースでゆっくりやっていこう」……そんな言葉を繰り返すばかりの担任は答えをくれはしない。
 加えて、重い心労とプレッシャーは、いざ登校しようとすると発熱や頭痛、吐き気といった肉体的な苦痛となって表に出る。肉体的にも復学は遠のき、そうして時が経つたび、復帰は難しくなっていく。
「――ボウズよ。お前はなぜ、学校に行くのをやめたのだ」
 低く問うティガの声で、時田は自分が朝食の手を止めていたことに気づいた。時刻はあと七分ほどで八時に至ろうとしている。
「さあ、なんでだったかな」
 短い沈黙をはさんで、時田はようやくそう答えた。
「覚えがないとでも?」
「そこそこ前の話だし、細かい理由まではね。もちろん、きっかけはあったよ。当時、俺がいるとクラスの雰囲気が悪くなることがちょっと多くなっててさ。だから、いない方がお互いのために良いのかもなって思ったのが、まあ、理由って言えば理由なのかな」
 こういう話に対する相手の反応というのは予測がむずかしい。ティガについてもそうだったが、彼はただ「そうか」と低くつぶやいただけだった。
「まあ、そういうわけだから」
 内心、胸をなでおろしながら曖昧な笑みを浮かべる。
「じゃあ、もう時間もないし、俺そろそろ行くわ。八時には出ないとだめなんだ」
 実際には八時二分前、ほとんど逃げ出すように時田は部屋を出た。
 そのまま重たい足で駐輪場に向かい、こわばった筋肉をむりやり動かして自転車にまたがった。ふたり乗りでもしているような重さを感じながらペダルをこぎはじめる。
 意外にも、大変なのは大通りに出たところまでだった。
 なぜだかは分からない。だが、ギアを上げるたびに肉体の疲労感は不思議と消えていった。駅が近づくころには、逆に身体が軽く感じられるようにさえなっていた。
 風を切る感覚がいつもと違う。爽快感がある。そんな気がしたのも、あながち勘違いではなかったらしい。いつもより二分早く自宅を出た時田は、いつもより六分早く北条警備保障にたどり着いていた。
「あ、時田さん。おはようございます」
 事務所のドアを開けた瞬間、昨日とはまったく違った明るい声がかけられた。もちろん和泉光司ではない。男性ですらなかった。
 六合村と書いて、クニムラと読む。それが彼女の名前だった。群馬県などに実在する地名なのだそうだが、本人の出身などとは特に関係がないらしい。
「いつも時間きっかりにくるのに、時田さん、今日はちょっと早いですね。怪しいですね。なにかあったんですか?」
 言葉とは裏腹に、六合村は穏やかな微笑を浮かべて言った。
「いやね、朝の五時に竹刀を持った変態が家のなかに乱入してきて、俺を文字通り叩き起こしやがったんですよ。お前は天カスだ、とか叫びながら」
「ええと……」彼女が不思議そうに小首をかしげる。「そういう夢にうなされて早起きしちゃったってことですか?」
「あれが夢だったならどんなに良いか」
 時田のつぶやきに、六合村はさらに怪訝そうな表情を見せる。
 さまざまな状況証拠から、彼女が二十歳前後の年齢であることに疑いはなかった。だが、おそらく歳相応に見られることは稀だろう。それほどの童顔の主で、背丈も小学生並に低い。天真爛漫なその人柄もあって、時田はどうしても彼女を同年代以上だと認識できずにいる。
 その六合村は、不思議なことにいつも無色透明な女性だった。
 これが、道ですれ違う名も知らぬ相手ならまだ分かる。毒にも薬にもならない、安全でも危険もない対象が色を持たないのは良くあることだからだ。
 しかし、ある程度の知り合いが無色となれば話はまったく変わってくる。ことの異常さでいえば、何ヶ月も前に知り合い、ほとんど毎日顔を合わせる相手が一度も名乗らないのと、ほとんどかわりないと言えるだろう。
 六合村女史はその人懐っこい性格とは裏腹に、他人に対してかなり無関心な人間なのか。それとも、自分の共感覚が通用しない特異体質の女性なのか――
 なんとなく、時田は後者であるような気がしていた。
「それより、他の人はまだですか? 所長とか和泉さんとか」
 自席に荷物を下ろしながら、時田はできるだけさり気なく訊いた。
「玲子さんはもう下りてきてますよ。自分のオフィスにいるはずです。和泉さんは、もうお出かけになりました。そして、これは時田さんのためのコーヒーです。はい、どうぞ」
 六合村が歩み寄ってきて、コーヒーの入ったマグカップを笑顔で差し出してくれた。礼を言って受け取る。綺麗な女性が淹れてくれたという心理効果か、それとも早朝トレーニングがもたらした乾きのせいか、一口飲んだコーヒーはいつもより味わい深かった。
「あの妖精を自称する変態筋肉ダルマにまとわりつかれる生活を思うと、このひとときが何か救いのようにさえ感じられる。六合村さん、あなたこそ白百合の妖精さんだ。僕と結婚してください」
 その言葉に、六合村はくすぐったがるようにして笑った。
「時田さんが本当に好きなのは、玲子さんなんでしょう?」
「まさか」
 思いがけない発言に、時田は口に運びかけたマグカップの手を止める。
「どっから所長が出てくるんですか。――そりゃまあ、尊敬はしてるし、他のすべてが一流の女性であることは認めますけどね。でもあの性格ですよ? あれだけ綺麗なんで、いまだに惑わされかけることもちょくちょくありはしますけどね。でも、やっぱりあの性格ですから。この前だってそうだ。理不尽に樹海を連れまわされた結果、俺の体重がどれだけ奪われたか知ってますか? 五キロですよ、五キロ。帰って体重計乗ったら、そんだけ減ってたんです。酷い話ですよ」
「またまた、素直じゃないなあ。恋の悩みでやつれたんでしょ? ぞっこんですね、時田さん」
「なんか、ひどい誤解があると思うんですが」
「とにかく、です」神妙な顔つきになると、六合村は鼻先を時田に寄せた。「他の女の子に寄っていくふりして気を引こうなんて作戦は無意味ですよ。玲子さんは、そういう頭の悪い駆け引きが大嫌いなんです。クールに見えて、わりと熱血なひとですから」
「いや、だからそんなつもりはないですって。そもそも、あのひとって恋愛沙汰に興味あるんですかねえ? 男関係は十代のころ充分に満喫したんで、しばらくはもういいや……みたいに考えてる感じがしなくもないような」
 実際、彼女は仕事を第一に楽しんでいる節があり、その証拠に完全な休日は稀にしかとらない。その珍しいオフの日も、時田に日よけのパラソルやら何やらを用意させて、近くの市民公園で優雅な日光浴や午睡に費やしたりする。男よけ兼、荷物持ち兼、見張り番。それが時田の役割であるらしい。
「はあ、駄目ですねえ。時田さんは。噂がないからって安心はできないものですよ?」
 いつもそうだが、六合村は笑顔と慇懃な口ぶりで言いにくいことをズバズバと遠慮なく言う。
「玲子さんには猫みたいなところがあるんです。食事とかお風呂とか、睡眠とか、スキが生じるような瞬間を他人に見られたり知られたりするのが嫌いなんですよ。男の人がいたとしても、絶対誰にも知られずに付き合うと思いますね」
「確かに、猫科っぽいひとではありますよね。なんとなく」
「だから恋人がいたとしてもですね――まあ、あんな美人ならいるに決まってますけど――まんぼうみたいにぼーっとしてる時田さんなんかは気づかないはずなんです。たとえ、影でどれだけ濃厚な愛の儀式を繰りひろげてたとしても」
「まんぼう?」
「あ、そうだ」時田の反応を完全に無視して、六合村は楽しそうに手を打つ。「案外、もう結婚してたりするかもしれませんよ。そしたらどうします、時田さん。グフフ」
 そう言って、彼女は可憐な乙女としてどうかと思われる種の邪悪な笑みを浮かべた。
「俺、そろそろ店開けないと……」
 時田は、また五キロ理不尽に体重を奪われたような虚脱感と共に立ち上がる。そのままふらふらとドアへ向かった。
 が、ふと思い出して立ち止まる。
「ああ、そうだ。六合村さん、昨日、所長と和泉さんが何時ごろに戻ったか知ってますか? 俺、六時ちょい前まで待ってたんですけど」
 昨日、事務所に六合村の姿はなかった。非番だったのだろう。ならば知るはずがないと思いつつ、駄目で元々と訊いてみる。
 しかし、予想に反して答えはあっさりと返った。
「それなら、六時半くらいだったですかねえ」
「え、なんで知ってんの?」
「だって、私一緒に行きましたから。経験値かせげるからって、玲子さんに誘われたんです」
「じゃあ、どんな話だったかも知ってるとか」
「白丘第一高校の件ですよね。はい、少しなら知ってますよ。昨日は予備調査も含めて一日がかりになったんで遅くなったんです。思っていた以上に難儀しそうな案ですよー、あれは」
「どう難儀するんです?」
「そうですねえ……」六合村が言葉を捜すように口をつぐむ。
「あ、守秘義務の関係で言えないなら――」
「いえ、そういうわけじゃなくてですね。ただ、説明が難しいんです。私の口から言っちゃって良いのかって問題もあるし。それに玲子さんと学校のひとが話してる間、私は主に学内を探検してましたから。概要を知ってるだけなんです」
「もしかして、噂になってる呪い関係の依頼ですか」
「あれ?」
 予想外の言葉だったのだろう。六合村は目を白黒させる。が、すぐに納得のいく仮説にいきあたったらしく、にこやかな笑みを浮かべた。
「そうか、時田さんって高校生くらいですもんね。それだったら、年代も近いし白丘第一に友だちがいてもおかしくはないですよね」
 言って、そうです。その関係のお話でした、と付け加える。
「でも、うちは警備会社だ。怪談騒動に対して何をしろっていうんですか」
 それは、以前から抱いていた大きな疑問のひとつだった。
 アルバイトとして入って以来、時田は警備員らしい仕事をなにひとつ任されたことがない。交通誘導、コンサート会場の案内、雑踏警備。これらは、「警備」と聞いてまっさきに思い浮かぶ真っ当な仕事と言えるだろう。しかし、これらに就くよう命じられたことはかつて一度もない。ほかのスタッフが従事している姿も見たことがなかった。
 この三ヶ月間、時田がやってきたのは一階の店番であり、北条所長が時おりおもむく意味不明なフィールドワークの同伴だった。前者はまだ分かるにしても、後者については何ら警備とは関連がないと言い切れる。
「前から思ってたんですよ。うちの事務所って何なんですか。警備会社らしい仕事って引き受けてるとこ見たことないんですけど」
「そのことを所長に直接訊いたことはあります?」
 六合村の問いに、時田は首を振る。
「ありますけど、適当にはぐらかされました。最近は、もうあきらめかけてたとこですよ」
「でしょうねえ。私が難しいって言ったのは、白丘第一高校の話がどうとかではなく、まさにその部分なんです」
「どういうこと?」
「警備保障にも色々あるってことよ」
 凛と響く声と共に奥のドアが開かれた。
 瞬間、そこから巨大な火柱が立ちのぼったような錯覚に時田は陥った。本来、最大級の危険色であるはずのクリムゾン。それを炎のように従え歩く女性など、この世にひとりしかいない。
 北条警備保障の最高権力、北条玲子その人である。


  6

 真っ白なカッターシャツに黒いパンツスーツの出立ちは、もはや彼女のユニフォームとも言うべき組み合わせだった。足元には幅が広く、男物の革靴並にかかとの低い特注のパンプス。いずれも運動性を第一に追及した結果だろう。身長は百七十三センチの時田より五ミリ低く、だが腰の位置は五センチ以上高い。必要ないと常に豪語する彼女らしく、今日も化粧気は皆無に近しかった。豊かで艶やかな黒髪は、肩の辺りから緩やかなウェイヴを描いている。
 今日も、北条玲子は一分の隙もなく北条玲子だった。
「このコーヒー、誰の?」
 北条所長は時田のデスクへ滑るように歩み寄り、のみさしのマグカップをつまみあげた。六合村が淹れてくれてから、まだ三分と経っていない。はなれても立ちのぼる湯気が見えた。
「一口もらうから」
 時田が自分のだと答えるより早く、所長はカップに口をつけた。言葉どおり一口だったが、デスクに戻したとき中は空になっていた。
「よし、じゃあ出かけましょう。時田君、お六合くに、準備しなさい」
「えっ、出かけるってどこに?」時田は思わず問い返す。
「TUT病院」
 さも当然のように所長は告げた。
 TUTは――北日本でも指折りの名門私立大学として知られる――東北技術科学大学の略称であり、俗称である。ここ白丘市には同大医学部の巨大付属病院が構えられており、こちらの方もその歴史は浅いながら、規模と設備、また近年急ピッチで積み上げつつある実績から県をまたいで広く認知される存在だった。
「あんなのとこになんで? ケガでもしたんですか」
 訊ねながらも、時田の手はオートで外出の支度に取りかかっていた。暗示の効果を疑いたくなるほど、北条玲子の命令には抗いがたい強制力がある。
「そんなわけないでしょう。事情聴取よ」
「事情聴取?」
「詳しいことは車の中で話すから。行くよ」
「でも、店は?」
「そんなもの、休みよ。休み」
 手をひらひらさせながら言うと、所長はさっさとドアに向かって歩き出した。鞄を担いだ時田は、あわててそのあとを追う。

「――そうだ。時田君、これ関連資料ね。着くまでにざっとで良いから目を通しておきなさい」
 地下のガレージで事務所のセダンに乗り込むと、助手席の時田に後ろから声がかかった。同時にシートの間から所長の腕が伸びてくる。その手にはA4サイズのクリアファイルが握られていた。
 受け取った瞬間、時田は思わずそれを握りなおした。それほどの重みがある。パラパラとめくってみると、なるほど添付写真の枚数が多い。いずれも見慣れた白丘第一の校舎や教室を写したものだった。間違いなく重量の大因である。
 所長が説明の口を開くのと、運転席の六合村が緩やかにアクセルを踏んだのは同時だった。
「TUT病院まで十分もかからないから手短に話すけど、今から会うのは倉川亜希子。白丘第一高校の二年生で、十六歳の女の子よ」
「えっ……」
 心臓が一拍、震えるように高く打った。
 倉川亜希子。響きからぱっと顔が浮かぶほどではないが、クラスに同姓同名の女子生徒がいたことは記憶にある。
 時田はこわばった手で手元の資料をめくった。ファイルの末尾に関係者の履歴書をまとめて綴じた部分がある。その中に倉川の情報も含まれていた。添付された写真には、時田の知るクラスメイトの女子が硬い表情で写っていた。
「報告によれば、倉川は二学期がはじまってしばらく、原因不明の倦怠感や悪寒、発熱、腹痛に見舞われるようになったそうよ」
 後部座席から事務的な説明口調が聞こえてきた。
「家族を含め、本人も最初は風邪だと思ってたらしいけどね。でも、半月しても下痢や吐き気が収まらない。それどころか日を追うごとに酷くなる。しかも、似たような症状で学校を休みはじめる子が他に何人も出はじめる始末。さすがにこれはおかしいと思いはじめた矢先、彼女は自宅で倒れて病院送り――というのが大まかな流れですって。先週の金曜日の話ね。現在はクラスメイトに囲まれて検査入院中。体調不良の原因はいまだ解明されていないそうよ」
「でも、その子ひとりが体調不良で入院したくらいだと、他校にまで伝わる呪い話にはなり得ないんじゃ?」
「その通り」と、時田の言葉に所長がうなずく。「資料を見てもらえば分かるけど、二学期に入ってからこの二ヶ月弱の間に入院した生徒は倉川って子を含めて十九人。被害は彼女のクラス――二年四組に集中していて、そこから十四人も出てるのよね。二十八人学級だから、ちょうど半数が入院って計算になる。その上、二週間前には担任が全身から血を噴き出して死んでるっていうんだから壮絶な話よ。現在は、当然ながら半学級閉鎖中。教室は破棄して、いまは中庭に急設したプレハブで授業やってるそうよ」
「うわー、なんですかそれ」
 ステアリングを握ったまま、六合村があきれたような声をあげる。
「私も具体的な数字ははじめて聞きましたけど、それはちょっと尋常じゃないですね。呪いの噂が出てむしろ当たり前って感じじゃないですか」
 時田もまったくの同感だった。
 手元のファイルを見る限り、欠席者のリストはそのまま二年四組のクラス名簿に近い構成になっていた。現在は二十八人中、実に十八人が欠席。うち三名は死亡、十四人が入院という内訳になっている。
 欠席人数だけなら、インフルエンザが大流行でもすればあり得ない数字ではない。だが死者が複数出ているあたり、性質は数倍凶悪といえるだろう。
 かつて、時田が使っていた机も当の二年四組にあった。撤去の指示が出されていない限り、まだ教室の片隅に置かれていることだろう。二十八人学級のなかに、使われていない机がぽつんとひとつ。七月に入るまで、問題はたったそれだけのことに過ぎなかった。
 だが、それから三ヶ月。
 主のない机は十七個増えた――
「あのう、玲子さん。素朴な疑問なんですけど」
 六合村が信号停車のため、ブレーキを踏みながら言った。すでに朝のラッシュアワーは終わっているが、それでも九時のセントラルアヴェニューは渋滞になることも多い。
「なあに」
「いま白丘第一で起こってるような現象を、人為的に引き起こすことって可能なんでしょうか?」
「どうでしょうね。つじつまを合わせるだけなら、手段は無くもないと思うけど」
 そう答え、だが所長はすぐに付け加えた。
「でもそれは、十キロはなれた場所から建物を壊さず、村の住人のみを一瞬で殺害できるか――という問いに、理論上は不可能ではないと答えるようなものね。距離をはかって中性子爆弾でも落とせば可能だけど、これは現実に実行可能とはとても言いがたい」
「微熱とか腹痛、下痢、吐き気の持続なんかは、有毒ガスみたいな化学系のしかけで説明つきませんか? 学士クラスの知識があれば、うまくすると個人でもなんとかなりそうですけど」
 時田は思いつきを口にする。イメージとしては、むかし観た「夫が妻に少量の毒を長期にわたってあたえつづけ……」という筋のサスペンス映画があった。
「まあね。でもそういうのは調節が難しいし、白丘第一のケースに照らし合わせると話が合わない部分も目立つ。たとえば呪い殺されたと言われてる四組の担任だけど、彼は一種のガンによる脳内大量出血が死因なのよ」
「あれ、ガンって出血するんでしたっけ?」
 六合村が不思議そうに小さく首をかしげる。
「そのガンは、DICっていう血管内の凝固症候群を伴うタイプらしくてね。これにやられると、身体の内部はもちろん、全身の皮膚に内出血の青アザや点状出血が出たり、いきなり鼻血が噴出したり、歯を磨いてたら口の中が血まみれになったり、場合によっては目の底の方からも出血したりして、しかもそれが止まらなくなる。こういう症状は、気づかれずに散布できる薬物やBC兵器では引き起こしにくいそうよ。絶対ムリってわけじゃないけどね。細かいとこ無視して部分だけ見ると、出血熱系っぽいイメージもあるし」
「そうか。全身から血を噴き出して死んだひとがいるって噂は、そこが出どころだったのか」
 店で聞いた三人娘の話を思い出しながら時田はつぶやく。噂の主が自分の担任である浅田数志であったことも合わせて、二重の衝撃だった。
 例の三人娘からは、彼が倒れたのは学校の――しかも教室だったと聞いている。詳しい状況までは分からないが、周囲は血の海だったというから、目撃した生徒にはたいへんな衝撃となっただろう。
「発見が遅れると、最悪の場合、一週間くらいで死に至るケースもある急性のガンらしいのよ。二‐四の担任がやられたのは」所長が言った。「その教師はまだ三十頭だったっていうから、おそらく色んな意味で若さが災いしたんでしょう。代謝が活発だと病気の進行も早くなるし。力の抜きどころを誤って、自覚症状があったにも関わらず無理して登校してたって話も聞いてる。呪い騒動で生徒が不安がってたから、そういう意味での気負いもあったんじゃないかな」
「一日休みをとって、病院で検査を受けてれば結果も変わってたんでしょうねえ」
 信号が変わり、六合村はそうつぶやきながら車を発進させる。
「おそらくね」ミラー越しに所長がうなずくのが見えた。「それはともかく、別種のガンで入院した生徒や手術を受けた子なんかもいるわけだし、風邪やインフルエンザじゃないんだから、狙ったタイミングで狙った相手に発症させるなんてことは不可能でしょ」
「じゃあ、やっぱり死者が相次いでるのも、クラスの半分が原因不明の体調不良で入院したのも偶然の産物なんですか?」
 とてもそうは思えませんけど、と六合村が前を向いたまま首をかしげる。
「でも、所長が言ったみたいに狙って引き起こせるものじゃないわけでしょう、今回の被害は。かといって、呪いなんて実際に存在するはずないわけで。となると――信じにくくはありますが――やっぱり偶然が生んだ惨劇って線で落ち着かざるを得ないと思うんですけど」
 時田は自説を並べ、助手席に同意を得るための視線を送る。それに気づいてか、所長が口を開いた。
「常識的な落としどころという意味で、時田君の言ってることはおおむね正しい。でも、ひとつだけ決定的な間違いがある」
「そうですね」
 所長の言葉に、六合村が珍しく神妙な顔つきでうなずいた。なにか置いていかれたような疎外感を抱きつつ、時田はふたりに問いかける。
「え、間違いってどの部分ですか?」
「知りたいですか、時田さん」
「ええ。是非」
「間違ってたのは消去法の部分よ、時田君」
 振り向いてそう告げたのは、六合村ではなく北条玲子だった。
「呪いは実在する。実効性のある確固とした力としてね」


to be continued...
つづく