耳を澄ませば――
遥かな時の向こう 微かに聞こえる
文字や言葉じゃ伝えきれない何か、ここに届ける
あれはピュセルの声
CHAPTER XXXIX
「9人いる!」
SESSION・156
『私のクレス様』
■フランス共和国 ノルマンディ地方 古都ルーアン
二〇一八年九月一二日 一八時五八分
クレスシグルドリーヴァは、羽のごとく柔らかに宙を舞う女性の姿を追っていた。
彼女は何の疑いもなく敵に後ろを見せ、ゆっくりと戦線を離脱し天から降りてくる。その事実からは、後を託した援軍の力を相当に評価しているらしいことが窺えた。そうでなければ、用心深く計算高い彼女が平気で敵に背後を晒すことなどあり得ない。
程なくして、彼女――リリア・シグルドリーヴァは、クレスや人間達が戦況を見守るビルの屋上に降り立った。まるで体重を感じされない、軽やかな着地だった。彼女はそのまま瓦礫の散乱した屋上の床を優雅に歩き、仲間たちに合流する。ビルの屋上から数えて二階層分は、二機のエンディミオンたちの攻撃を食らい壊滅的な被害を被ってはいたが、辛うじて倒壊の危険性はないようだ。
「おい、リリア。いいのか?」
タブリスの展開する防御結界の中、クレスは傍らに彼女を導きながら問いかけた。
「いい、とは」
外部から完全に隔離されているはずの結界内に易々と入り込むと、彼女はクレスと肩を並べるようにして並び立った。そして、何時もの様に表情を変えることなく訊き返す。少し首を傾げるようなその仕種を見ると、どうやら本当に質問の意図が理解しきれないらしい。
無論、彼女が自らに秘めた異能を欠片でも行使すれば、相手の思考はもちろん、本人すら認識していないような深層心理や潜在的意識すら読み解くのはたやすいはずである。だが、近年の彼女は――少なくとも身近な人間に対して――そうした行為を慎むようになっていた。
それが、本人の主張するように「内なるカオスの気まぐれ」であるのか、それとも身につけた淑女としての思いやりであるのかは定かでない。
「いや、だからな。本当にあの娘たちに任せておいて大丈夫なのか?」
戦場になりつつある古都ルーアンを見下ろしながら言った。そこには、リリアが召喚した二騎の戦乙女、ブリュンヒルドとクリームヒルトの姿がある。余裕の現れか、彼女たちは二体のエンディミオンと正面から対峙しているにも関わらず、戦闘に対する構えを一切見せず宙にボンヤリと浮いているだけだ。
二人にはおよそ安心感というものがない。しかも一見、スキだらけでさえある。特にクリームヒルトなどは、ローティーンか下手をすればプレティーンに見えなくもないような少女の姿をしているのだから尚更、その感じが強い。
「問題ありませんよ。あの新型に勝てないようでは、どの道今後の戦局では使い物になりません。私のガードならば、相応の働きをしてもらわなくては困るというものです」
既に傍観を決め込んでいるリリアは、腕組みしてリラックスした姿勢を取ると、事も無げにそう言った。
確かに言っていることは正しそうな感じがするのだが、それにしても冷徹というか冷酷というか、とにかく温度を感じさせないクールな物言いである。感情家を自認する人間にとっては、彼女ほど割り切って考えることはできない。そんなこちらの心中を知ってか知らずか、リリアは口調を諭すようなそれに変えて続けた。
「クレス、貴方も彼女たちの能力をその目で見極めておくことです。彼女達が私の護衛であるということは、同時に貴方の護衛にもなり得るのですから。自分を守ってくれる者たちがどれだけの実力者かを把握しておくのは、必要なことでしょう?」
この場に居合わせる者のなかで、今の状況を正確に把握しきれているのは極わずかだろう。突然インペリアルガードの存在を思い出したらしきリリア・シグルドリーヴァと、その呼びかけに応じ、次元の壁を越えた向こう側からいきなり飛び出してきた二人の戦乙女。
魔皇カオスであるリリアの身に何が起こったのか、何故それが起こったのか、そしてそれによって状況はどう変化したのか。彼女本人の口から直接語られるまで、それは謎のまま残る。まずはこの戦闘を終わらせてから。エンディミオンを倒してから。
つまり、そういうことなのだろう。
「――渚君。貴方が私をここに連れてきた本当の理由、なんとなく分かってきたわ」
葛城と名乗った女軍人が、傍らに立つ少年の耳元にささやきかけるのが聞こえてきた。
「確かに、事が終わった後でこれだけの状況変化をただ資料だけで伝えられても、何をどう把握すればいいものやら分かったもんじゃないものね。ここで起こってることは、数値やデータだけでは表現しきれない。肌で感じ実体験しないと」
これには同感だった。無論、戦況を把握する上でデータや数値上の情報は必要不可欠な要素である。これは過去でも六〇〇年後の未来でも事情は変わるまい。
だがそれ以上に敵を知っている、戦場を知っているという経験と実感、そして自信が――とりわけクレスや葛城特佐のような直感型には――重要になることもあるのだ。常に最前に立ち、死線を潜ってきた兵士にはなおさら言える傾向であった。
特佐の言葉に、リッシュモン元帥の姿をした少年、渚カヲルは何も応えなかった。特佐自身、返答を期待していたわけではないのだろう。彼女は全てを目撃し、そうして得たものを今後の作戦における有用な判断材料とするために、キッと鋭利な視線を戦場に向ける。クレスも彼女の目の動きを追った。
戦況は、膠着状態ともまた違う不可思議な空白の時を迎えていた。新たに出現した二人の戦乙女たちの存在に、エンディミオンたちが動きを止めているのがその主要原因だろう。
闖入者の戦闘能力を測りかねているのか、それとも既に戦乙女たちのデータを取り入れ戦術修正を行っているのか。どちらにせよ絶妙の間合いを保ったまま、二機の巨神はじっと若い娘たちを見詰めている。
■フランス共和国 ノルマンディ地方 古都ルーアン
二〇一八年九月一二日 一八時五九分
「――ねえ、ブリュン?」
エンディミオンたちを視界の端に捉えたまま、クリームヒルトがこちらに笑顔を向けながら口を開いた。
言葉と一緒に、長く艶やかなシルヴァーピンクのブロンドが夜風になびく。その表情には、敵と対峙しているという緊張感を見事に感じさせない余裕が窺えた。
「なんでしょうか」
「クレスって、思ってた通りのヤツだったね」
クスクスと、くすぐったがるようにクリームヒルトは笑う。
リリア・シグルドリーヴァが「半身」として位置付けている唯一の存在たるクレス・シグルドリーヴァ。封印空間ニヴルヘイムで永き眠りに就いている間、クリームヒルトと共にまだ見ぬ彼の存在に大きな関心を寄せていたことは事実である。
これまではリリア・シグルドリーヴァから伝わってくる様々な想念のみが、与えられた唯一の情報であった。本来ならそれで充分であったはずなのだが、これまでのリリア・シグルドリーヴァは魔皇として自覚的ではなく、そのため閉鎖空間ニヴルヘイムに眠るインペリアルガードと情報共有しようという意識に乏しかった。そのため彼女から伝わってくるデータはどれもクリアなものとは言いがたく、劣化の激しいノイズ混じりも珍しくなかった。
乱暴に定義すれば、リリア・シグルドリーヴァの幼心と好奇心を切り取り、培養した存在ともいえるクリームヒルトにすれば、クレス・シグルドリーヴァへの関心も相当なものだったのだろう。――もちろん、それについては決して他人のことを言えた義理ではないのだが。
「クリームヒルト。ヘルやサタナエルのガードがそうであるように、我々はいわば主から抽出分離された意識片を極端化し、彼らの組織片を培養した器に定着させることで生じた存在です。そのため個々で独立した存在でありながら、三体をもって成る総体の一部でもある」
「えっ、どういうこと?」
論理性より直観力、そして諦観や達観の対極にある無邪気さを体現した彼女には、少し捻った表現を用いるともう何も通じなくなる。そのため、言葉を選んびさえすれば言いたいことを直接ぶつけることも容易に可能だった。
「つまり、私のものは私のもの。カオス様と貴女を含めた三者で共有しているものも、究極的には私のもの。そういう解釈が成り立つということですよ」
「ブリュンの言うことは難しくて分かんないよ」
「そうでしょうとも」
薄く微笑みながら言った。
「それより、目の前の敵を早々に片付けましょう。あの機械人形は、リリア様は別に好きにしちゃって良いとしても、こともあろうに私のクレス様に手を出そうとした言語道断な輩。ブリュンパンチで粉砕です」
「わたしのクレスさま?」
思わず口をついて出た直接的な表現に、流石のクリームヒルトも話が不穏な方向に流れつつあることを理解したらしい。早急にお茶を濁す必要があった。いわゆるポーカーフェイスを保ちつつ、色々と思案を凝らす。とはいえ、彼女を誤魔化すのは文字通り赤子の手を捻るが如しであった。
「少し、言葉が足りなかったようで、あなたの立派な頭に誤解を与えてしまったようですね。私が言いたかったのは、つまりクレス・シグルドリーヴァという存在が、契りを結びゼルエルの力を得た――いわば我々の主のいわば同位体であるというとこです。そして、彼はカオス様の伴侶でもある。彼女の伴侶は気に入った場合のみ私の伴侶。もちろん私の伴侶は私だけの伴侶。したがってクレス・シグルドリーヴァは私のみの伴侶であり、他の女は近寄ったら死。……という天壌無窮の三段論法に従って、我々は彼を守護すべきなのです。それを考えると、私のクレス様をあろうことか傷つけようとした、あの見るに耐えない失敗鉄屑の所業は断じて捨て置けません。私とあの方で構築する予定の、熟しきって腐れきった愛欲と肉欲の永久蜜月のためにも滅殺です。生かして帰しません」
「なんか気になる点が二、三あったように聞こえたけど、確かにブリュンの言う通りなのかも」
「クリームヒルトは非常にお頭が弱く――もとい、理解がよろしくて大変助かります」
「まあ、私の頭脳は日々進化してるからね」
クリームヒルトがなにを勘違いしたのかない胸を誇らしげに張る。色々な意味で哀れみの微笑を浮かべたくなるが、抑制して前を向いた。
「では、話も気持ち良くまとまりましたところで、さっそく排除を開始致しましょう」
「オーケイ」
上手く誤魔化せた側と、上手く誤魔化された側とで仲良くうなずき合う。
「そんなわけで、アナタたちに恨みはないけどやっつけさせてもらうわよ。でもって、獅子はウサギを狩るにも全力を尽くすのよ! 冥土の土産に、わたしのメインウェポンを見せてあげるわ」
不敵な笑みを浮かべつつ、クリームヒルトが左手を天にかざす。
「i-sa=dagaz ansuz i-sa=naudiz angaz raido-u-ruz wunjo-ansuz gedo-ansuz raido-i-sa=ti-waz ehwaz i-sa=Yo-pila , ce'ni-sa=Yo-pila mannaz ehwaz raido-ansuz raido-ehwaz so-wilo-i-sa=raido-u-ruz naudiz ehwaz Yo-pila!」
(天駆ける蒼穹の王、地に轟く我が君よ。清められしルーネよ)
「ti-waz u-ruz ce'n ansuz wunjo-ansuz so-wilo-ehwaz ti-waz ansuz mannaz ansuz ehwaz , ansuz ti-waz ansuz ehwaz ti-waz ansuz mannaz ansuz ehwaz , wunjo-ansuz raido-ehwaz naudiz i-sa=ansuz dagaz ansuz naudiz ansuz so-wilo-u-ruz gebo-u-ruz so-wilo-hagalaz ansuz dagaz o-pila mannaz o-pila hagalaz ehwaz mannaz i-sa=so-wilo-ehwaz ti-waz u-ruz ce'n ehwaz Yo-pila u-ruz algiz ce'n ansuz mannaz i-sa=naudiz o-pila i-sa=ce'n ansuz algiz ti-waz Chagalaz i-sa=!」
(遣わせ給え、与え給え、我に仇なす愚者たちに今こそ披露されませい)
「ce'n i-sa=ti-waz ansuz raido-ehwaz!」
(――召喚 <打砕くもの> )
瞬間、雲ひとつない星空を天を轟かす雷鳴が切り裂いた。
地上の人間には、星々を映し出す夜空という名の皮膜そのものが叩かれた太鼓よろしく振動したようにも感じられただろう。
その時にはもう、一筋の巨大な雷光が掲げられたクリームヒルトの左手に突き刺さっていた。無論、それはただのイカズチではあり得ない。彼女が眠っていた次元封印ニヴルヘイムより召喚された正真正銘、黄泉の雷である。
常人ならば接近しただけでも絶命するほどの破壊力を秘めたその光は、彼女の腕に巨大な繭となって纏わりついた。遠目には、クリームヒルトの左腕そのものが眩い白光を放っているようにも見えるはずである。
そしてプラズマの乱気流の中からイオン臭と共に引きずり出され、ズブリ……ズブリ……と徐々にその姿を露にしていくそれは、一見、スレッジハンマーのようにも思える代物だった。遠くで人間たちがあげた驚嘆の吐息が聞こえてくる。
彼らをなにより驚かせているのは、その無骨な形体云々よりむしろ、その常軌を逸した大きさだろう。もはやハンマーと表現するのも躊躇われるほどの威容。なにしろハンマー部分が、街角に備え付けてあるターミナルボックス(旧世紀でいう電話ボックス)程の大きさがあるのだ。言うまでもなく尋常ではない。
そんな巨大な鉄の塊を、ほっそりとした華奢な少女が、まるでステッキでも振り回すように軽々と持ち上げている。その光景に、人間たちが驚愕するのも無理はなかった。
「さあて、いくわよ。ブリュン」
「参りましょう」
同様の手続きを経て愛用の大槍を召喚すると、ブリュンヒルドは獲物を手に馴染ませながら静かにうなずき返した。
SESSION・157
『9人いる!』
■フランス共和国 ノルマンディ地方 古都ルーアン
二〇一八年九月一二日 一九時〇〇分
腹を打ち貫くような超重低音と共に、爆発的な速度で彼女たちは発進した。エンディミオンをしても反応できない神速に乗って夜空を疾駆する。身体が反応しなければ、いくら予測能力が高くとも意味はない。認識する間も無く間合いを詰められたエンディミオンは、微動だにできないまま初撃をまともに食らった。
突き出される瞬間、五叉に展開する神槍にして魔槍ブリューナクの神撃。そして空気を抉り裂きながら襲い来る雷帝の鎚、ミョルニルの爆打である。
戦乙女たちの繰り出す兵器は、エンディミオンが展開する防御結界を完全無効化し、その装甲をクォークレヴェルで粉砕し、そして彼らのコアを完膚なきまで破壊し尽くす。勿論、それに際して生じた衝撃波や粒子の暴走を、脆弱な人間に被害が及ばないようカッティングするという木目細かなサービスも忘れない。
それはクレスやタブリスの『目』からしても、「エンディミオンが一瞬で霧散した」としか認識できない神業であった。人間たちに至っては、何かが起こったことすらまだ理解できていないだろう。彼女たちの戦闘技術を観察検証する以前の問題だった。
「……って、あら?」
そのあまりの手応えの無さは予想外だったのだろう。クリームヒルトが素っ頓狂な声をあげる。勢い余って、ミョルニルがすっぽ抜けたのだ。
そのまま彼女の手を離れた巨大なスレッジハンマーは、勢い良く回転しながらクレスたちがいる高層ビルへと一直線に飛んでくる。
「な、なぬ〜〜っ?」
葛城特佐は、関節が外れるほど顎を開きつつ絶叫した。
「り、り、リリア! こっち飛んでくるぞ!」
「そのようですね。このままですと、このビルに直撃する確率は97.827%です」
ワタワタと慌てるクレスに、リリアは静かに返した。
「そんな天気予報みたいに言うな〜!」
「リッシュモン元帥、なんとかならないのか? 天使の力で軌道を変えるとか、運動エネルギーを奪うとか」
「いや、さっきからやろうとしてるんですけどね……」
リジュ卿の問いに、自由天使タブリスはノンビリと首を捻る。
「どうやら、あのハンマーは僕の使徒の力を無力化してしまうらしい。天使の金色で受け止めようとしても、ディストーション領域で受け流そうとしても、効果が一瞬で掻き消されてしまう。伝説のロンギヌスの槍のようだ。うーん、凄い」
「だから、そんな呑気なこと言ってる場合じゃねー! し、しぬ〜」
クレスの叫びも虚しく、ミョルニルはビルの屋上に直撃した。瞬間、核兵器が炸裂したかのような壮絶な爆発が発生する。物理法則を超越した反応を伴いながら、巨大な火柱が接触点から宙に昇りルーアンの夜空を彩った。
無論、倒壊しかけていたビルがこれに耐えられるはずもない。高温を伴った爆風が何とか収まった後、そこには半径数十メートルを誇る巨大なクレーターを残すだけで、地上数十メートルの高層ビルの姿は忽然と消え去っていた。問題のハンマーは、地中深くにメリ込んでしまったらしく目視で確認するすらできない。
「ひ、ひえぇぇえ」
クレスはその破壊力に、カクリと腰を抜かした。
結局、彼等はリリアの瞬間転移によって安全空域に離脱させてもらったおかげで事無きを得ていた。インペリアルガードの能力や武器は、『使徒』が張るレヴェルの結界では遮蔽できない属性下にあるため、直接的な防御はできない。従って、無理に防ごうとするよりかは、素直に回避した方が合理的なのである。
「あ、ゴメン。ゴメン。ちょっと手が滑っちゃった」
大量殺戮未遂を引き起こした当の張本人であるクリームヒルトは、そのピンク色の髪を靡かせながら罪のない笑顔でペロっと舌を出す。そしてクレーターに降り立つと、その中心部から自分の得物を引き抜いた。
だが勿論、「失敗しちゃった。てへ☆」程度の笑顔では誤魔化されない人間もいる。
「ちょっと手が滑ったで……済むか〜〜っ!」
短気と直情径行がウリのナイスガイ、クレスシグルドリーヴァがその代表的な例であった。
「リリちゃんが助けてくれなかったら、今頃オレたちは遠い天の国に旅立ってたところだ! そうなれば、地球人類は史上最高の生きる文化財クレスシグルドリーヴァという男を永遠に失うことになるんだぞ! そして、リリアは最愛の夫を亡くして哀しみに咽び泣くところだ。どうしてくれる!」
退避していた空中からリリアの誘導で大地に足を下ろした瞬間、彼は人騒がせな助っ人に怒鳴りつけた。
「何よ、煩いわねえ。ちゃんと謝ったからいいじゃない」
クリームヒルトは悪びれた様子も無く、ハンマーを肩に担いだままテクテクと歩み寄ってくる。
「このガキャ〜! 人が理性的に諭してやればつけあがりやがって」
ガキ相手にヒートアップするあたり、クレスも良い勝負であった。
「クレス、許してあげてください」
ここはやはり、クレスの扱いに1番手馴れたリリアがその手腕を発揮する。彼女はクレスの耳に口を寄せて、一言二言、何事かを囁いた。果たして、その効果は覿面だった。途端にクレスの顔は真っ赤に染まり、そして満面ににこやかな笑みが浮かぶ。その目尻はだらしなく緩み、鼻の下は地に付きそうなほど伸びきっていた。このエロガッパな表情を一目見れば、説明を受けずともどのような種のことを言われたか一目瞭然であった。
「それじゃあ、初顔合わせって組も多いみたいだし、お互いに自己紹介といきましょうよ」
終始あっけにとられるばかりであった葛城ミサト特佐は、なんとか自分のペースを取り戻そうと、務めて嫣然と微笑みながら提案した。
「そうだな。確認の意味も含めて簡単に情報を出し合おう」
リジュ卿は、ほぼ完璧なまでの日本語で同意を示した。情報員として活躍していた彼もそうだが、使徒として超言語能力に目覚めたクレスも、既に英語や日本語を日常会話のレヴェルでなら完璧にマスターしていた。新世紀に渡るという話が出たときから、地道に勉強してきた成果だ。
「じゃあ、言い出しの私から」
葛城特佐は胸に手を当てると、集った全員の顔を見回しながら言った。
「私は葛城ミサト上級特佐。この新世紀に生きる生粋の人間です。国籍は日本。人類監視機構と敵対する特務機関ネルフの本部作戦部長を務めています。中世からやってきた方々、新世紀へようこそ。我々ネルフは、あなたたちを心から歓迎します」
「では、次は僭越ながら同じく新世紀の僕が」
そう言って一歩前に進み出たのは、特佐と共に軍用ヘリで駆けつけた渚カヲルである。廃墟と化したルーアンの街に、およそ似つかわしくない爽やかな微笑が印象的だった。
「僕は渚カヲル。特佐と同じく、一応はネルフのお世話になっている者さ。一応、総帥付きの相談役というポジションを貰っている。それから碇シンジ君の親しい友人でもある。どうぞ宜しく」
「そうか、君が僕の <ファクチス> 。渚カヲルだね」
カヲルと同じ顔をした男が、にこやかに言った。
「そう言う君は、僕のオリジナル。自由天使タブリスだね」
同じ魂を共有する、同じ存在。アルテュール・ド・リッシュモンの名を持つタブリスと、渚カヲルの名を持つタブリス・ファクチス。新世紀で遂に二人は出会った。
そして、互いに熱い視線で見詰め合う。同じ言葉が同じタイミングで放たれた。
「美しい……」
これには流石にクレスが反応した。
「ちょっと待たんかい!」
「どうしたんだい、クレスシグルドリーヴァ?」
タブリスとカヲルは、顔と声を気味が悪いほどに揃えて問う。当然ながら、二人の存在は遺伝学的に完全に同系。つまり、遺伝子構造を全く同じにする完全複製体なのだ。価値観や意識を共にするという意味では、双子の概念さえも超えている。
「お前らナルシストだったのか?」
驚愕に奮える指で、クレスは二人の同じ顔を指差しながら指摘した。
「これは面妖なことを」と、タブリス。
「僕らはただ、美しいものを美しいと素直に言える心を持つだけさ」と、カヲル。
『ああ、そうかい』
口にする者は無かったが、それがその場に居合わせた全員の一致した見解だった。
「まあ取り敢えず、彼がアルテュール・ド・リッシュモン元帥だ。後に――といってもこの時代からすれば五〇〇年以上の過去になるが――ブルターニュ公国を統べる大公の座に就き、没したことになっている大変な英雄であられる」
複雑な笑みを浮かべながら、中世組を代表してリジュ卿が言った。気配りの男である彼は、こういう時決まって皺寄せを食らうのである。場の雰囲気から何となくそれを察した葛城特佐は、リジュ伯カージェスという男に少しだけ同情した。
「彼は一応、自由を司る使徒 <タブリス> でもある。使徒の中でもトップクラスの実力を秘めた存在らしい。新世紀で活動していた渚カヲルは、タブリスが作り出した自らのファクチス。これは我々の国で、複製品や人工物を意味する言葉だ。つまりは、コピー人間だな。使徒の力を持たないが、意識は共通している。タブリスはファクチスを新世紀に送り込み、中世ヨーロッパにいながらにして六〇〇年後の世界の情報を色々と集めていたとのことだ」
「なるほど。使徒には自分のコピーを作る能力もあるのね」
もうこうなれば何でもアリということだろう。半ばヤケになって葛城特佐は言った。
「で、紹介が遅れたが、オレはリジュ伯カージェス。ノルマンディ地方――アランソン西部領地の側に位置する同名の小村を預かっているもので、名ばかりだが伯爵位を持っている。アランソン候とは古い付合いだ。向こうでは剣と諜報活動に長けていることが自慢だったが……まあ、恐らくこちらでは役には立たないだろうな。ともあれ、宜しく」
自嘲的に笑いながらリジュ卿は葛城特佐に握手を求めた。同年代の、しかもなかなか良い男。しかも本物の伯爵様とくれば特佐も悪い気はしない。勿論、特佐は喜んでそれに応じた。
「それから、彼がクレスシグルドリーヴァ。オレはフランスの人間だが、彼は北欧のスウェーデン王国の人間だ。彼も伯爵家の人間だったらしいが出奔してフランスで傭兵をやっていた」
リジュ卿は、隣に立つクレスを紹介した。渚カヲルは、タブリスと情報を共有しているから、中世組の紹介は事実上、葛城ミサト一人に向けてのものとなる。葛城特佐本人もそのことを承知していたため、タブリスと向かい合って自己陶酔に浸るカヲルを放置したままクレスと向き合った。
「ミスターシグルドリーヴァ。新世紀へようこそ。お会いできて光栄だわ」
「よっ、変な服着たオバさん。よろしくな。クレスでいいぜ」
「誰がオバさんですって?」
東洋人とはまた違った黒髪に、深いブルーの瞳。左眼の上に戦闘で出来たらしき傷痕が見受けられるが、顔の作りは悪くない。黙っていれば、ワイルドな感じが魅力の結構なハンサムだ。
だが、そんな好印象も最初の一言で見事に粉砕された。いきなりの「オバさん」発言に、葛城特佐は口元に歪な笑みを浮かべたままクレスを睨みつける。
「そ、それから、その隣にいるのがクレス君の情婦であるリリア・シグルドリーヴァ女史。彼女はタブリスと同じ使徒であり、魔皇カオスでもある。勿論、人間じゃない。間違いなく、我々中世からやってきたチームの中では最強の戦力となる存在だ」
「リリア・シグルドリーヴァです」
リジュ卿の紹介に、リリアは左右で色の違う瞳を微かに細めつつ特佐を見詰めた。特佐と視線が交錯する。
葛城ミサト自身、自分の容姿にそれなりの自信を持つ種の女性であった。
が、その全てが勘違いだったのではあるまいかと落胆させるほどに、リリア・シグルドリーヴァを名乗る女は美しかった。残酷なほどに。身震いするほどに。
放つ空気からしても、それは分かる。住む世界の違い過ぎる生物。他との比較自体を許さない存在感。特佐は、何故か不条理を感じた。
「それから、一際大きいのがライール。フランスでは名の知れた傭へ……なに?」
「ライール?」
紹介しながら、リジュ卿はようやくそれに気付いた。同時にクレスも驚愕の叫びを上げる。
「オッス。俺がライール。完っ璧に、傭兵だ!」
バーンと胸を張る、そこには何故かいるはずのない男が壁のように立っていた。
「まて、おい。イール、なんでお前がここにいるんだ?」
「おう、クレス。久しぶりだな。完っ璧にご無沙汰だ」
ライールは丸太のように太い腕を軽く掲げ、笑顔と共に言った。そして、困惑するクレスの腕を取り、無理矢理に握手を交わす。因みに、彼は日本語など喋ることが出来るはずもないので、当然ながらその言語はフランス語である。
「質問に答えろ。なんでお前がここにいる?」
握られた手を振り払うと、クレスは元々目付きの悪い目を更に鋭く細めてイールに詰め寄った。
「そんなの決まってる。お前たちに着いてきた。完璧に当然だ」
「着いて来たって、お前……」
クレスは確認のために、この場にいる者の人数を数えてみた。自分とリリア、それにロンギヌス隊を代表してリジュ卿、それからタブリスの四人が中世組。出迎えの新世紀の人間は、渚カヲルと葛城ミサト特佐。それにリリアが召喚した戦乙女の二人を加えても、全部で八人にしかならないはずだ。
だが、実際には九人いた。敢えて名前を挙げるのは避けるが、ライール。この余計なのが約1名ほど混じっていたからだ。
「リリアは気付いてたのか?」
クレスは困り果てた顔で、傍らのミストレスに救いを求める。
「私もトランス状態でしたから、途中までは気付きませんでした。最初に気付いたのは、こっちに無事に実体化した時ですね。着地に失敗して、臀部を押さえながら痛みに転げまわってましたよ。クレス、あなたと一緒に」
「え、うそ?」
「全然気付かなかったな」
リジュ卿は苦笑しながら言った。
「オレは何やらお前たちが変な穴に飛び込もうとした時、ちゃんと挨拶したぞ。でも、皆それどころじゃないって感じで気付いてくれなかっただけだ。失敬だぞ、お前ら。完っ璧に失敬だ」
「やかましい!」
クレスはイールの文句を一蹴すると、詰問口調でなおも迫った。
「着いてくるのは勝手だけどな、お前、そのことの意味ちゃんと分かってんのか?」
「分かるか。完璧にパーフェクトだ。お前たちが、俺に隠れてコソコソと何か企んでるって噂を聞いたから、俺も混ぜてもらおうと思っただけだ。何かは知らんが、俺だけ除け者なんて酷いぞ。ズルイ!」
「やかましい!」
クレスはふたたび怒鳴りつける。これ以上ライールと問答を続けていると頭痛がしてきそうだった。
「あぁ、もういいや。とにかく、この筋骨バカの処理は後で考えよう。……自己紹介とやら、続けてくれ」
「いや、オレの口から紹介できるのは以上だな。いきなり現れたそっちのお嬢さんがたとは、ほとんど全員が初対面だと思うが……」
リジュ卿は、ブリュンヒルドとクリームヒルトを視線に捉えながら言った。
「では、私が簡単に彼女たちのことを説明しておきましょう」そう言ったのは、リリアだった。
「彼女たちは、魔皇カオスのインペリアルガード。私が使役している――まあ、一種の奴隷です」
「どれーってなんだ?」
その概念を知らないクレスは、初めて石鹸が輸入されてきた時、豆腐と間違えて煮て食おうとした日本人のような顔をする。
「つまり、私の命令に絶対服従する私の所有物のことですね」
「なに、このチンチクリンと美女はリリアの言うことなら何でも聞くのか?」
「はい。我々はそのために存在します」
リリアが肯定する前に、ブリュンヒルド自らが認めた。
「我々の存在意義は、即ち盟主であるリリア・シグルドリーヴァの守護です。彼女の身の安全を守るボディガードとして生み出され、そのためだけに存在しているのです」
「じゃ、じゃあ」クレスが、何やら頬を赤くして鼻息荒く問う。
「リリアが『クレスとチューしなさい』って命令したら、する?」
「します」
命令が無くてもそのうち無理矢理にでも奪いますが、とブリュンヒルドは心内で当然のように付け加えた。
一方、そんな衝撃的な事実を知らされたエロガッパクレスが、黙っているわけがない。彼は早速、邪まな期待に満ちた視線をリリアに向けた。
「り、りりあ〜。命令してくでー」
「何を考えているんですか、あなたは」
「でもそれって、何か倫理的に問題ない? 奴隷は言い過ぎだと思うけど」
文明人である葛城特佐は、人として至極真っ当な意見を披露した。
「それは貴方が人間だからそう思うのです。彼女たちは、人間の女性と同じ姿をしていますが、全く別の存在です。彼女たちには思想や哲学、倫理の概念は存在しません。彼女たちが私に服従するのは、人間でいうなら本能。人間が呼吸し、食事し、睡眠するように、彼女たちは私を守り、私に従うことが自然なのです」
リリアはまったく声音と表情を変えないまま、無感動にそう説明した。
「なんだか詭弁に聞こえるのよねぇ。人格と意識が存在するなら、その時点で基本的な人権は認められるべきだと思うけど」
「フフ。だから、彼女たちは人間ではないんですよ。特佐」
渚カヲルは可笑しそうに笑う。
「葛城特佐、あなたは肉を食べるでしょう。日本人は、確か牛や豚、鳥なども食べますよね? 人間は食用に動物を飼い、時がくれば殺して食らう。じゃあ、牛や豚の代わりに人間が人間を飼い、殺して食うかと云うと、それはしない。人道的に禁止している。それは、あなたたちが牛や豚ではなく人間だからそう考えるだけのことです」
「ナンセンスだってこと? ……私たち人間の価値観を、彼女たちに持ちこむのは」
「その通りです、特佐。それは、最も愚かな行為であり姿勢です。海で泳いでいる魚を、『水の中に長くいると窒息して死んでしまう。助けてあげよう』と陸にあげてしまうのと同じですね。人間は確かに窒息して溺れてしまうかもしれないが、魚にはその海こそが安住の地。なまじ食物連鎖の頂点に位置しているおかげで、宇宙の摂理が自分を中心に運行されていると思い込んでしまうのが人間の最大の欠点です」
「まあ、それはいいとしてさ。その二人、名前は何て云うんだ?」
クレスは二人の戦乙女をじっと観察しながら、リリアに訊いた。どちらも非常に美しい容姿をしているが、子供に異性としての興味関心を抱かないクレスとしては、もっぱらその熱い視線はブリュンヒルドに注がれている。勿論、それを自覚しているブリュンヒルドは、心内で魂のガッツポーズを決めまくっていた。
「背の高い方が、ブリュンヒルドです。低い方が、クリームヒルト」
「そうか。よろしくなブリュンヒルド。リリアとはただならぬ関係にあるクレスシグルドリーヴァだ」
そう言って、鼻の下を伸ばしながらクレスは銀髪の佳人に握手を求める。
「こちらこそ、宜しくお願い致します。クレス様」
ブリュンヒルドは務めて事務的に、機械的にその手を軽く握り返す。だが、その心内ではクレスとの記念すべき初スキンシップに、ブリュンカーニバルで大フィーバー中であることを知る者はいない。
「よーし。じゃ、一通り自己紹介も終わったところで――」
「ちょっと待ちないさいよ!」
退屈な挨拶が終わったと、その場で伸びをはじめるクレスにクレームの声が上がる。
「私は? 私とはまだ握手してないでしょ?」
ちょこまかと走ってクレスの前に回りこむと、クリームヒルトは抗議した。
「いいよ、オメーは。オレは煩いガキは嫌いなんだ。夜だしさ、もう家帰っていいよ。ごくろうさん」
「私はガキじゃないわよっ!」
「はいはい」クレスは手をヒラヒラさせながら、おざなりに言った。
「ガキはみーんなそう主張するんだ」
「なによう、クレスなんてアホンダラのくせに〜!」
「おーおー、言ってろ。言ってろ」
この後、廃墟と化したルーアンの街で小一時間ほど子供の喧嘩が繰り広げられたという。
SESSION・158
『ゲットレディ』
■第三新東京市 NERV本部 第一発令所
九月一三日 一時三二分
「OCレーダーから、エンディミオン二機の反応が消えました。これで、確認されていたエンディミオンは全機殲滅されたことになります」
奇妙に静まり返ったネルフ本部第一発令所に、メインオペレーターの事務的な報告が木霊した。
「――碇」
「ああ。駒は揃った」
特務機関ネルフの総帥とその右腕は、軽く頷き合った。
時は満ちた。人類監視機構との決戦に必要な戦力は、その全てがこの新世紀に終結したのである。
「フランス支部に打電。第1種戦闘配備解除、警戒シフトそのままで事後処理とデータ収集に尽力せよ」
「了解」
「しかし、ほぼ一瞬とはね」
古都ルーアンで何が起こっているのか。状況を認識できずにスタッフたちが半ば呆然としている中、赤木リツコ博士だけは一見いつも通りの冷静沈着を維持しているように見えた。
「流石は魔皇と言ったところかしら。もっとも、これからの敵に回す相手の戦力を考えると、当然これくらいはやって貰わなくちゃ困るけど」
魔皇カオスがこちら側に実体化してから、まだ一〇分経過していない。つまりその短時間で、核撃でも倒せないと予測されるエンディミオンを合計三機も倒したことになるのだ。感覚的には瞬殺と表現して差し支えなかった。
「それにしても、先輩。突然現れた、この正体不明の二つの巨大なエネルギー反応は何なんでしょう」
怪訝な表情で、赤木博士の右腕とも言うべき伊吹マヤ特尉は呟く。彼女が凝視しているモニタには、魔皇カオスの反応にも匹敵するほどに大きな光点が二つ存在している。
「波形パターン、ソロネ。座天使級です」
「上級三隊の第二位、セラフ、ケルプに続いて全体でも二番目の強度ね。エンディミオンから見ても三つも上。恐らく、これが魔皇カオスの使役するインペリアルガードでしょう。何の前触れも無く、突如こちらの世界に実体化したことからもそれは窺えるわ」
赤木博士は、レーダーとグラフを見詰めながらそう分析した。
「つまり、シンジ君が飼ってるガルムちゃんと同じ存在ですか?」
そう言う伊吹マヤの視線は、巨大な狼の姿をしたまま、第三新東京市の真中で惰眠を貪っているガルム本人の映像を捉えていた。どうやらガルムは、エンディミオンを退治した後、暇を持て余して眠ってしまったらしい。腹を晒し、四肢を投げ出したあられもない格好で眠りこけるガルムは、地獄の番犬というには余りに愛らしく見えた。
「恐らくね。魔皇サタナエルが、ビ'エモスにリヴァイアサンという二騎のガードを使役しているという情報もあるし。多分間違いないでしょう。……日向君、フランス支部からその辺の報告は入ってないの?」
「入ってません」日向と呼ばれた眼鏡の青年は、その問いに首を左右して応えた。
「ルーアンで、大規模な電波障害が確認されています。現在、大方の電子機器が使用不能とのこと」
「ま、魔皇にしても、インペリアルガードにしても、我々が知る神話の上ではほとんど神にも等しい存在ですからね」
オペレーターの一人、青葉シゲルが苦笑混じりに言う。
「そんなのが降臨してくれば空間の歪曲や磁器障害、電波障害程度はむしろ起こって当たり前ってこと?」
赤木博士も釣られるように頬を緩ませた。
「……確かにね」
「渚カヲルとは連絡はとれんのかね?」
発令所の上方から、オペレーターたちへ冬月の声が落ちてきた。
「直接の通信はまだ無理です。しかし、先程フランス支部を出てこちらに向かったようです」
「魔皇ヘルは?」赤木博士が訊く。見ると、OCレーダーから彼女の反応が忽然と消えている。
「あれ、おかしいですね。さっきまではフランスにいたはずなんですけど」
伊吹特尉は、不思議そうに首を捻った。
「それよりも、問題は碇シンジ君ですよ」
青葉が神妙な顔つきで指摘した。
「フランス支部の報告によると、彼は今、心神喪失状態に陥っています。ルーアンの街で魔皇の力を解放し、市街地を壊滅に追いやったことからもそれは確かです。このままだと、彼はその存在を魔皇ヘルに乗っ取られるというようなことになるのではないでしょうか?」
「可能性として、それはあり得る話ね」
赤木博士はそれを認めた。だが――
「でも、魔皇ヘルはその素振りを見せない。彼女は、人間の理解を超えた独自の行動理念を持っているように私には思えるのよ。肉体を乗っ取るとか、そういう次元の低い人間的な思想とは無縁の存在で……だから、彼女が何を考えているのか、我々は遂にそれを認識することはできないような気がするわ」
「まさに、超越者ですね」マヤは呟くように言った。
「そう。それこそ、女帝ヘルと言えば地獄を意味する英語のHellの語源ともなった、死の女神でしょう? 私たちが手出しできるような相手じゃないわよ」
「仰る通りです」もっとも過ぎる赤木女史の言葉に、青葉は苦笑しつつ首肯した。
「ただ、何となくだけれど、自分と似た匂いを感じるのも確かなのよね」
「匂い、ですか?」日向が眼鏡の位置を矯正しながら言った。
「何て言うのかしらね、彼女には研究者っぽいところがあると思うのよ。こう、何かを観察してデータを集めて、予測された反応が実際に観測されるのを徹夜して待つ人間の独特の雰囲気というか」
その感覚を言葉にして現すのは難しい。だが、博士の言わんとすることに伊吹特尉は何となくだがイメージを伴わせることができた。特尉もまた、一般的に理系とカテゴライズされるルートを歩んできた人間の一人なのだ。
「生物学を専攻している教授に知り合いがいるんだけど、ホラ、生物学の初歩ってショウジョウバエ使うじゃない。蝿なんて、普通の人間からすれば鬱陶しいだけの存在だけど、長い時間を共有するとその感覚もまた変わってくる。相手がハエだって、愛着が沸いてくるものなのよ。だから、彼は面倒を見ているハエたちのことを我が子のように話すわ」
「つまり、魔皇ヘルにとって碇シンジ君は研究用に飼育しているショウジョウバエだと?」
「そう」青葉の言葉に、赤木博士はハッキリと頷いて見せた。
「論理的な根拠があるってわけじゃないんだけどね。彼女は、碇シンジ君を使って何か実験をしているのかもしれない。そして、期待する反応が起こるその瞬間を心待ちにしているような……」
赤木博士は、魔皇ヘルの感情の伴わない銀と氷の相貌を脳裏に思い描きながら言った。
「そんな気がするのよ」
SESSION・159
『消せない炎』
■フランス共和国 ノルマンディ地方 古都ルーアン
九月一二日 一九時一六分
古都ルーアンは、燃えていた。
煌煌と燃えあがる建造物が夜空を明るく照らし出し、炎と共に棚引く黒煙は瞬く星を塗り潰す。
歴史ある町並みを今に伝えるこの都市は、ここ最近で二度に渡り許容限界を大幅に逸脱する深刻な災いに見舞われ、既に崩壊と表現しても過言でないまでの被害を被っていた。
一度目の災厄は、碇シンジ――ジャン・ダランソン二世の感情的な暴走によってもたらされた。
古都ルーアンは、囚われのラピュセルが六〇〇年前に幽閉されていた地でもある。そこで、彼女の死を現実的に意味で受け入れざるを得ない状況に追い込まれた彼は、精神に深刻的な傷を追い、心神喪失状態に陥った。
彼女を失ってしまったという哀しみ、彼女を殺した世界と監視機構への怒り、そして何より彼女を救えなかった自分自身に対する強烈な憎悪。彼はその荒ぶる感情のままに、魔皇ヘルの力をルーアンの街中で解放し大いなる破壊を引き起こしたのである。
それに追い討ちを掛けた第二の衝撃は、エンディミオンの襲来であった。
NATO軍や国連軍の抗戦も虚しく、エンディミオンは魔皇カオスのインペリアルガードに殲滅されるまで欧州の大地で暴れまわった。
元よりヘルの力で甚大な打撃を受けていた町は、勿論これに絶えることが出来るだけの余力を有していなかった。結果的に、古都ルーアンはもはや瓦礫の廃墟と化している。今は、夜の暗闇がその惨状を哀れむように隠してはいるが、夜明けと共に陽光が町を照らし出した時、人々はルーアンの変わり果てた無残な姿を目の当たりにすることだろう。
だが、戦に慣れたクレスシグルドリーヴァにとって、炎に消えていく町の姿などそんなに珍しいものではなかった。
元々、彼の祖先であり代表的な海賊として知られるヴィーキング(バイキング)は、村や町に船をつけ、略奪の限りを尽くし、最終的には火を放って凱旋するというような連中である。それでなくても、百年戦争の時代を傭兵として駆け抜けたのだ。火矢を放たれて炎上する町などは逆に見慣れた存在であった。
「な、なんじゃこりゃあ?」
そんな彼を心底仰天させたのは、寧ろ目の前にドンと構えている巨大な鉄の塊――軍用飛行機の方だった。彼等が生活していた15世紀には、馬車より速く走る乗物は無かったし、空を飛ぶ手段もありはしなかった。勿論のこと、AC-130H/Uスペクターなどというガンシップなどは、空想上でさえあり得ない存在だった。
スペクターは、ズングリとした胴体を持つ一種の飛行機だ。構造的には一般人が飛行機と認識するジャンボジェットなどと大した差異はない。肥満気味の旅客機と思えば、近しいイメージが得られることだろう。
左右に広がる翼に二つずつ、計四つのプロペラがついているのが特徴と云えば特徴であろうか。全長三〇メートル、全幅四〇・四一メートル。アメリカの特殊部隊が使っていたものを、ネルフが格安で引き取ったものである。
「そうか。中世には飛行機なんてないものね」
葛城特佐は、クレスたちの仰天ぶりを見て可笑しそうに笑う。そうこうしているうちに、翼についた四つのプロペラが唸りをあげて回転し出した。
「うおっ?」
過剰反応するクレスとライールは、ビクリと身体を震わせると、慌てて腰から剣を抜いて構えた。彼ら二人ほどではないにせよ、リジュ卿も油断無く様子を窺っている。
「り、りり、り!」
「落ち着いてください、クレス」
震える手で目の前の怪物を指差しつつ必死に助けを求めてくるクレスに、リリアは言った。
「リリア、なんなんだありゃ? 動いてんぞ、おい。回ってんぞ、なんか。もしかすると、初めて見るが、あれが伝説のドラ、ドラ……」
「ドラ猫ですか?」
「違う。ドラゴンかもしれん!」
半分腰を抜かしたクレスは、カサカサとゴキブリのように地を這ってリリアの背後に隠れた。
「や、やる気か。やる気なのか。そうなのか? よーし、来い。ヘロヘロにしてやる」
彼がヘロヘロだった。
因みに、戦って勝てる相手ではないと判断したライールは、
「僕らは友達じゃないかー! 完っ璧にアッミ〜〜ゴ!」
何とか和解に持ち込もうと、言語によるコミュニケーションを果敢に試みていた。
それを見た葛城特佐が、引っ繰り返って大笑いしたことは言うまでもない。
――思えば、このフランス支部まで彼等を連れてくるだけでも大事だった。
迎えに来たリムジンを見た瞬間クレスたちは戦闘配置についたし、剣でタイヤを突ついてパンクさせた。言うまでもないが車内でも大暴れ。声が出た瞬間カーステレオを破壊してくれたし、同様のパターンで無線機もやられた。
勿論、支部に着いたら着いたで入り口の自動ドアから大騒ぎである。
風で開いたわけでもなく、人間の力を借りたわけでもない。なのにひとりでに開くドアの存在は、彼等にとって恐怖以外の何物でもなかった。魔物が潜んでいるだの、悪魔の仕業だの、魔女の呪いだのと矢鱈と怖がり、決して近付こうとはしなかった。
それに、彼等の辞書には電灯の存在がなかった。燃えているわけでもないのに、昼間のように煌煌と室内を照らし出す蛍光灯の存在は、彼等の興味を引いた。クレスが面白がって剣で突つき、片っ端から蛍光灯を破壊して回ったことは言うまでもない。
気泡のない大きくて透明なガラスも彼等にとっては非常に珍しかったらしく石を投げつけて割るし、目に付いたコードは何故か切断しようと試みる始末。
挙句、クレスはカルチャーショックに見せかけて女性職員の胸に飛び込んだり、スカートに顔を突っ込んで回り、リリアに殲滅される体たらくである。
とにかく、目に付いた不審なものは即破壊。目に付いたボタンは取り敢えず押し、目に付いたガラスは取り敢えず割り、目に付いた美女の胸は取り敢えず揉む。クレスとライールが齎した破壊と混乱とセクハラは、『エンディミオンより性質が悪い』と、後にフランス支部の伝説となった。
「おい、イール。見ろよ。飛んでるぞ。町が小さいぞ」
「おお、完っ璧に鳥だ」
「よーし。なんか落としてみようぜ。どうなるかな。石がないから、タブリスを落とそう」
「えっ、僕を落とすのかい?」
当然ながら、宥めすかして軍用機に乗せても大人しくしているようなクレスとイールではなかった。相変わらず、見覚えのない物に攻撃をしかけようとするし、見知らぬケーブルは切断しようとするしで、危うく墜落の危機に晒されることも数度。結局、彼等の武器はリリアに没収されてしまった。
「しかし、凄いな。空を飛ぶとは。空を飛ぶ。信じられん。一体どうやってこんなに大きな鉄の塊を飛ばしているんだ」
リジュ卿もまた、中世人であることは変わりがない。目に写る全ての物が珍しくて仕方がないらしく、葛城特佐を独占して様々な疑問や質問をぶつけていた。特佐もそれに快く答え、二人の親睦は深まっていった。
「で、オレたちは何処に向かってるんだ、オバさん」
「誰がオバさんですって?」
にこやかに問いかけるクレスに、葛城特佐は牙をむく。葛城ミサト二九歳。三十路を目前に控えた彼女は、自分の年齢と結婚の話題には何かと過敏にならざるを得ないのである。
「……日本よ。日本にあるネルフ本部。ジャパン。ヒノモトの国ね」
「ヒノモト!」
特佐の言葉に一番大きな反応を見せたのは、意外にもリジュ卿だった。
「俺たちの剣術をアランソン候一世と共に作り上げた男の祖国が、確かヒノモトといった」
「へえ。意外な繋がりがあるものね。お侍さんが海を渡って、フランスの騎士に剣術を教えたなんて。ちょっと荒唐無稽な感じ」
あまり世界史に詳しくない葛城特佐は、大袈裟に感心しながら言った。事実、今でこそジャンボジェットで片道半日の距離となってはいるが、6百年前の中世において日本とフランスはあまりに遠かった。
そもそも、フランス人は日本という小さな島国の存在すら知らなかったし、日本もまた大陸の西にフランス王国という国があることを知らなかった。特佐が目の前にしている男たちは、そんな世界から来た人間たちなのである。
「ヒヨシサダツグ。シチリアに流れ着いた彼は戦に破れて国を追われ、大陸を西に向けて旅したと聞く。そんな彼がフランスに護送され、アランソン候と出会ったのは奇跡にも近しい偶然の産物だろう」
リジュ卿は不精ヒゲを撫でながら唸る。
「俺は実際にあったことはないんだが……彼の故郷か。是非見てみたい。アランソン候も今はそこに?」
「ええ。今は、そのヒノモトのトーキョーという都市で暮らしているらしいわ」
「今のシンジ君が、果たしてジャン・ダランソン二世と言えるかは疑問だけどね」
タブリスが複雑な笑みと共に呟く。
「ん、どういうことだい?」
「今、僕の口から説明したとしても意味がない」
首を捻るリジュ卿に、タブリスは静かに言った。
「会って、直に確かめてみられるといいでしょう。今のジャン・ダランソンは、少し微妙だ」
「それで、今の情勢は?」
沈黙を守って周囲の人間たちの会話に耳を傾けていたリリアが、はじめて口を開いた。
「中世を立つ前に説明した通りだね」カヲルが応える。
「魔皇サタナエルは、地球規模の戦争を起こして人類を絶滅においやろうと色々と画策している。人類監視機構は、その名の通り人類を監視するための組織。監視対象である人類が存在してナンボの連中だ。人間たちに自滅してもらっては流石に困る。
だから人類が絶滅の危機に瀕した時、監視機構の大天使たちはコッチの世界に姿を現さざるを得ないだろう――サタナエルはそう考えている」
「で、実際にこの時代の人間は、その地球規模の戦争とやらを起こしてるのか?」
クレスが素朴な疑問をそのまま口にした。
「起こしかけているわ」
表情を引き締めた葛城特佐は、硬い表情と声で苦々しく応えた。
「サタナエルは、自ら『神』を名乗り人類に宣戦布告をした。そして、さっき貴方たちが殲滅してくれたエンディミオンなる鬼神を送りこんできたの」
「む」ライールは丸太のような太い腕を組み、仏頂面で唸った。
「良く分からんが、それでなんで人間が戦争するんだ? 地球規模の戦争って云うのは、人間同志の殺し合いのことなんだろう?」
「問題は、サタナエルが神を名乗って、それに相応しい力を行使して見せたという事実なのよ」
カヲルに通訳してもらった特佐は、相変わらず渋い表情のまま続ける。
「人類は、これまで神の存在を観念上、概念上でしか確かめたことがなかった。ジャンヌダルクやジーザスを除けば、神様の姿を見たとか声を聞いたとかいう人間はいないのよ。でも今、その神様を名乗る超越者がその姿を現し、人類に死ねと命じている。人間たちはパニックに陥っているわ」
「具体的には?」クレスが訊く。
「例えば、キリスト教徒は大きく二つに割れているわね。一つは、サタナエルの存在を神と認め、その命令に従うために人類を滅ぼそうと云うグループ」
「人類が人類を滅ぼすのか? それって、自滅ってことだろう。集団自殺でもするのか、その連中は」
「――いや、それはないだろう」
クレスの言葉に、リジュ卿は皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「俺は宗教家が何を考えるかを良く知ってる。連中は、いつの時代だって変わらないものさ」
「どう考えるってんだ?」イールが訊いた。
「そうだな。自分たちを、神の尖兵だとでも考えるんじゃないか? 現代版の十字軍ってとこだな」
リジュ卿は顎の不精ヒゲを一撫ですると言った。
「神の敬虔な信者である自分たちだけは、滅びずに救われる。神が死ねと命じている人類とは、自分たち以外の異教徒を意味しているのだ。ならば、我々はキリスト教に従わぬ異教徒たちを粛正し、神の御心に従おう。大体そんな風に考えて、回りの人間たちを殺しまわるんだろう」
リジュ卿はニヒルに笑うと続ける。
「自分たちは神に選ばれた聖なる人間だから、例外的に生き残る資格がある。その資格を持たない連中は死あるのみ。――まぁ、人間ってのは都合が悪くなればなるほど、自分だけは例外と思いたがるもんだ。例えば事故だな。自分なんかには起こり得ない。自分は安心。そういう根拠のない安心感や楽観ってのを、人間はなかなか捨てられないのさ」
「慧眼ね。その通りよ」葛城特佐は重々しく頷いた。「サタナエルを神だと認めるグループは、十字軍気取りで周囲の人間を殺しまわっている」
「じゃあ、もう一つのグループってのはその反対の立場の連中か? サタナエルなんざ、神とは認めない。神の名を語る悪魔だ、とか言ってあくまでそれに反抗すると」
「その通りよ、クレスシグルドリーヴァ」
「サタナエルを神と認める連中は自分たちを十字軍だと思うが、逆に反サタナエル派からしてみればサタナエルは悪魔であり、それに従う連中は悪魔に魅入られた悪魔憑きの罪人となる。誰がどちらの陣営についても、戦争ははじまるというわけだね。巧妙な作戦さ」
カヲルは歌うような軽い口調で語った。彼にとって、人間たちの争いは他人事でしかない。
「でも、この世にいるのはキリスト教徒だけじゃないだろう。北欧では神様はいっぱい居たぞ。オーディンとかフレイヤとか、雷神トールとかな。オレの住んでたシグルズの街では豊穣を司るニーサっていう精霊が信じられてたぜ?」
クレスは自分の故郷に語り継がれていた、独自の神々の物語を幼い頃から聞かされてきた。事実、彼はフランス人やイングランド人が主張するような唯一無二の絶対神の存在など信じていない。
「そうだな。東の方では、イスラームだとか拝火教だとかいう独特の宗教もあると聞く。アランソン候たちはそういった研究もしていたから、これは確かだ。ヒヨシの男は、ホトケという神を信仰していたしな。自国にはそれには別に八百万の神を持つ神話があると言っていた」
「恐らく、その宗教宗派によって、サタナエルは柔軟にその姿を変えるのではないでしょうか?」
彫像のようにリリアの傍らに控えていたブリュンヒルドが口を開いた。普段口数が少ないだけに、彼女の一言は一気に人々の関心を集めた。全員が、銀と氷の戦乙女に視線を集中させる。
「歴史が証明しています。宗教と宗教が出会った時、諍いが起こるのは必定。例えばクレス様が挙げられた北欧神話です。キリスト教徒はその勢力を拡大し、やがて北欧にまで進出しました。その時、北欧の神々は駆逐されてしまったのです。つまりキリスト教徒の軍門に北欧神話は下ってしまったわけです。結果、北欧神話の神々は悪魔として、女神は魔女として扱われるようになりました」
「なるほどな……」
リジュ卿は神妙な顔つきで頷いた。ブリュンヒルドの言い分にはそれに相応しい説得力がある。
「このように、宗教家は相容れない文化や信仰を自分たちにとって都合良く解釈します。キリスト教徒がサタナエルを神と認めるとすれば、仏門の者は釈迦の化身か弥勒あたりと同一視するでしょう。ムスリムは、アラーの体現と考えるかもしれません。ヒンドゥ教徒だと、ヴィシュヌ神のアヴァターラであると認識する可能性もあります。
いずれにせよ、魔皇サタナエルは人間にその解釈を委ねます。無論、サタナエルを認めないのであれば、宗教家にとってそれは神に敵対する絶対悪として認識されるでしょう。彼は、それを計算して全てを動かしていると見て宜しいのではないでしょうか」
「事実、その通りなのよね。サタナエルの出現をこれ幸いと利用して、敵対関係にあった民族に喧嘩吹っかけるっていうのが、今のところ一番多いケースなの」
特佐はそう言って、ブリュンヒルドの論理の妥当性を認めた。
「特に <欧州の火薬庫> と呼ばれるバルカン半島は、既に最悪の状態よ。台湾の独立問題や中東問題にも影響を与えてるし。サタナエルの存在、言い分をそれぞれに拡大解釈して己の主張を正当化し、神の名において正義を謳い出す始末なのよね。とにかく、サタナエルの出現そのものが、彼等にとって外交的な緊張の糸をぶった切っる恰好の口実になってるの。政治的であれ民族的、宗教的であれ、経済的であれ、何らかの摩擦があった地域や国家間では、既に血で血を洗う紛争が勃発しているわ。今の安保理や大国に、これらの暴走を抑えるだけの力はない」
「半年もしない内に、恐らくこの戦火は世界中に飛び火するだろう。サタナエルを巡る宗教的解釈は、即座に経済問題や外交問題と結びつき、すり返られ、思想の統一に利用される。東と西、北と南……潜在し、或いは膠着していた対立の構造は幾らでもある。インドや中国は、既に核を持ち出す用意もあるようだからね。無神論者が多数を占め、しかも島国故に民族対立の歴史を知らない日本とてこの波に飲み込まれていくだろう」
「悪いけどさ、タブリス」クレスは大袈裟に溜息を吐くと言った。「小難しくて、全然分からねーよ」
「オレもだ! 完璧に理解不能!」
「要するに、今はまだ局地的な火事ではあるが、やがてその火の手は世界中に広がっていくということだな」
リジュ卿が纏めた。
「なに、火事か。なら、ボヤの消火しちまえば良い」
「それが無理なのさ、クレスシグルドリーヴァ。消火が追いつかないように、サタナエルは世界中に油を撒き、強風を起こした。消火作業が追いつけない速度で炎は広がっていく。もう、誰にも止められない。山火事みたいなもんさ」
「アランソン候が頭を痛めているのは――」
ざわめきはじめた機内の片隅で、カヲルが静かに口を開く。
「このサタナエルの策にのることでしか、人類監視機構をおびき寄せる術がないことだ。彼は無意味に優しいからね。心が繊細なんだ。だから、他人の犠牲の上に自らの野望の成就を願う自分に罪悪感を感じている」
「ハッ、いかにもアイツらしいね」クレスは苦笑した。
「オレなら、リリちゃんのために全人類皆殺しにするのも厭わないけど」
クレスはリリアの手を握ったが、珍しく彼女はそれを拒まなかった。
「最後にはキッチリ覚悟を決めてくれるんだが……、それまでとことん悩むからな彼は。行きつくところに行きつくまで、時間が掛かり過ぎるのが難点だ」
そんなところは、六〇〇年前から何も変わっていない。リジュ卿は目を細める。
――それもこれも、この剣を手に取るまでの話さ。
リジュ卿は心内でそう呟き、ロンギヌス隊から託された一振りの剣の柄を握り締める。
その剣には、アランソン候の最大の盟友たちの全てが刻み込まれている。たとえ今どんな精神状態にあろうと、この剣さえ届けばあの男は甦るだろう。その心に、アームドロンギヌスと同じ物が眠る限り。
熱歌は時を超える。きっと、アランソン候はそれを証明してくれる。
リジュ卿は、それを微塵も疑ってはいなかった。
SESSION・160
『MARGRETH WEIVERS』
■第三新東京市 ネルフ本部
2018年9月13日12時21分
「葛城ミサト特佐、一二二〇時、着任致しました」
特佐は略式の正装を纏い、非の打ち所のない敬礼と共に言った。
「ご苦労。葛城特佐の着任を確認した。渚顧問官もご苦労だったね」
ネルフ本部副司令官、冬月コウゾウは自然体のまま事務的に告げる。特に敬礼を返すこともない。ネルフは極めてその性質を軍と似通わせた組織ではあるが、軍隊そのものではないのだ。
「葛城特佐。今後、君はこの本部に新設される作戦司令部の最高責任者として務めて貰いたい。それに伴い、君の階級は上級特佐(大佐相当)となる。あとで書面での正式な通達と勲章授与があるはずだ」
「今後も任務に全力を尽くします」
再び特佐――上級特佐は敬礼を返した。踵が硬質の音を響かせる。
フランス支部からネルフ本部に向かった特佐一行は、現地時間の正午にネルフ本部に到着。そのまま、中世からやってきた兵士たちを伴い着任の報告に来ていた。場所は無論、ネルフ本部のプレジデントルーム。総帥碇ゲンドウの執務室である。
「なにやら偉そうな男だな。オイ、クレス。あれが完璧にこの国の王か?」
「さあな。もしかすると、そうかも知れん」
だだっ広い空間の最深部に構えられた重厚なデスク。そこに鎮座する男、碇ゲンドウをチラチラと窺いながらラ・イールとクレスは小声で意見を交換していた。
「なあ、オバさん。あのヒゲのおっさんが、この国の王か?」
「誰がオバさんですって?」
場所を弁えず、世間話でもするように肩を叩いてくるクレスに葛城特佐は一喝した。しかも恐ろしいことに、クレスは平気な顔でゲンドウを指差している。この男には遠慮とかTPOとか云うものはないのだろうか。特佐は早速頭痛を覚えていた。
「総帥、申し訳御座いません。この男は中世のド田舎からきた超弩級の田舎者でして」
ヘコヘコと頭を下げる特佐であったが、それを台無しにしたのもまた件の田舎者であった。
「なんだ、王じゃないのか。じゃあ取り敢えずオレにこの国の王と合わせろ」
バーンと胸を張り、クレスは良く分からない主張を並べ出す。
「この辺で一発、リリちゃんはオレの女であると云う不変の真理を、国で一番偉い奴にアッピールしておかねばならんからな」
「申し訳ありません、誠に申し訳ありません。この男、中世でも頭の病気で有名だった粗忽者でして」
「オイ、変な服のオバちゃん。なんでも良いから王を出せ!」
「誰がオバさんですって? それに、この国には王なんかいないわよ」
それを聞いて、明らかにクレスとイールは驚いていた。未だかつて、王がいない国家など聞いたこともない。いや、王がいなければそもそも国家は成立しないものだろう。そもそも、ピュセルやアランソン候が必死になってシャルルを戴冠させようとしていたのも、フランスの王座が極めて曖昧になったからだ。――王なき国は、国にあらず。それが彼ら中世人の認識なのだ。
「そもそも、どうして王に会って恋人なんかアピールしなくちゃならないのよ」
総帥の前であることを完全に失念して、特佐はクレスを睨みつけた。感情的になると、結構体面はどうでもよくなるタイプらしい。
「いるんだよ、リリアの美貌の噂を聞きつけて側室にしようって考える領主なんかがな。リリアはオレのだっていってるのに、捕まえて自分の女にしようとするんだぜ? 許しがたい暴挙だ」
新世紀の人間には俄かには信じ難い話であるが、彼は真実を語っていた。事実、クレスはリリアを奪おうという暴君と何度も戦った経験がある。彼が生きていた時代、宝石は女の飾りであったが、その女は男の飾りでしかなかった。戦で勝った者が手に入れる戦利品の一つだったのだ。
クレスは、リリアの存在がかなりの規模の戦争にまで発展したケースを幾つか知っている。彼女の美しさに魅入られた権力者たちが、自分のベッドに引き摺りこんで彼女を抱く権利を手に入れるために争い合ったのだ。稀なケースではあるが、中世という時代において女の争奪戦がそのまま戦争に発展することはあり得たのである。
「だからして、リリアはオレのものだということを予め教えておいてやるんだよ。そしてリリア自身、オレ以外の男を好きになる気はないんだ。な?」
「私の身体は私のものですが、伴侶はひとりで充分だという認識はあります」
リリアはクレスの言い分を半分だけ肯定した。
「ほーら。……というわけで、オレはこの国の王にあって軽くジャブを入れておく必要がある!」
クレスは、特佐をして羨ましくなるほどに身勝手な主張を声高に叫んだ。人間、ここまで我侭になれるものなのだという生ける標本なのである、彼は。
「総帥、それに副司令。とりあえず、彼等を紹介させていただいて構いませんでしょうか」
「ああ、構わんよ。是非頼む」
口元を引き攣らせながら提案する特佐に、冬月は笑顔で応えた。
「では、まずこちらの御仁から」
特佐は身体を九〇度回転させると、後ろに並ぶ集団に目をやった。
「彼はアランソン候家守護騎士ロンギヌス隊の副将、カージェス・ド・リジュ卿です」
「以後、よろしくどうぞ」
カージェスは特に緊張した様子も見せず、飄々とした態度のまま軽く頭を下げた。
「それから、同じく中世フランス王国の王太子軍傭兵大隊隊長、ラ・イール」
「完璧に、ボンジュール!」
本来、いるはずでない男は必要以上に暑苦しく挨拶した。
「そしてさっきから煩いこの男は、スウェーデン王国出身の傭兵の名を騙った野党集団の大将クレス・シグルドリーヴァ」
「リリちゃんとは毎晩一緒に寝ているクレスだ。やらんぞ」
リリアの腰に手を回し、その所有権を主張しながらクレスは言った。彼女から引き離されるのを本気で恐れているその様は、外出する母親に置き去りにされるのを怖がる子供のようだ。
「それから、そこのオバちゃんも含めて、お前らは服が変だと思う」
「彼の隣にいるのが、リリア・シグルドリーヴァ」
特佐はクレスの言葉を完全に無視して続けた。
「魔皇、カオスその人であります」
「貴女が」
魔皇カオス。その名が紡がれた瞬間、部屋の空気が一気に変化した。
今まで一言も喋らず、彫像のように微動だにしなかった総帥までもが、微かにだが反応を見せた。彼等にとって、魔皇とはそれだけの意味を成す存在なのだ。
「それから――」特佐は仕切り直すように言った。「こちらの二人は、その魔皇に使えるインペリアルガード、ブリュンヒルド殿にクリームヒルト殿であります」
紹介を受けた戦乙女たちの反応は対照的だった。クリームヒルトが「やっほー」と愛想良く手を振ったのに対し、ブリュンヒルドは何事も無かったかのようにヒッソリと主たちの傍らに控えている。彼女は密かにクレスを観察しては、時々思い出したように得体の知れないメモをとっていた。
「最後にブルターニュ大公、アルテュール・ド・リッシュモン閣下を紹介します」
特佐は、あまりに個性的なこのメンバーと今後上手くやっていけるかに不安を感じつつ、紹介を続けた。
「彼は、またの名を自由天使タブリス。渚カヲルのオリジナルとなる存在だそうです」
「ファクチス共々、宜しく」
タブリスはいつものアルカイックスマイルを浮かべたまま、風の様に告げた。
「諸侯、新世紀へようこそ。私は冬月コウゾウ。特務機関ネルフ副司令として歓迎します。このガーゴイルの銅像のように動かないのが、総帥である碇ゲンドウ。合わせて、今後ともよろしくお願いしたい」
冬月は直立不動のまま、来客用の微かな笑みを浮かべる。
「我々は諸兄を歓迎します。この時代、この国での生活が快適であるよう、色々とサポートさせて貰う予定でもある。その代わりと言っては何だが、諸兄らには我々ネルフに是非とも力を貸していただきたい。打倒人類監視機構を掲げる同志として」
「同志、ねぇ」
クレスは隣に立つリリアにしか聞こえない程度の声で呟いた。
どうもこのネルフという組織、気に入らない。何か裏の顔を持っている連中たちの集まりだ。副司令という男は打倒監視機構を主張しているが、果たしてそれだけが目的なのか。怪しいところである。
「それで、アランソン候は。こちらに厄介になっていると聞いたが」
リジュ卿が訊いた。彼からすれば、候に会うためだけにここまでやって来たようなものだ。
「シンジ君――アランソン候は、現在行方不明でしてな。魔皇ヘルとして色々とやることがあるらしいのです。我々には彼と彼女を拘束する権限と力がない。残念ながら、彼女が帰還するまで再会に関しては待ってもらう必要がある」
冬月は言い難そうに応えた。思考はおろか、動きさえ掴めない魔皇ヘルの存在は、ネルフにとっても悩みの種だ。そもそも、彼女を制御操縦しようという試み自体が失敗なのかもしれない。
「代わりと言っては何だが、我々からも紹介したい人物がいる」
冬月はそういうと、ケンドウのデスクの上に備え付けてある見慣れない装置のスイッチを押した。
「彼女を通してくれ」
寝かせた文庫本を二冊重ねた程度の大きさだろうか。どうやら内線に通じる集音マイクの類らしい。
しばらくすると、床の一部がまるで落とし穴のようにポッカリと丸く開いた。
中世からやってきた男たちは、突然の事態にまた仰天する。だがそれは、この慣れない者ならばこの時代に生きる人間が見ても驚く類の仕掛けだった。
舞台でいうところの奈落に近しいそのギミックは、要するにエレベータだ。
「紹介しよう。元アメリカ空軍ACC司令部ラングレー基地副司令官、マルグレット・ヴェイヴェルス中佐だ」
フロアに突如現れたエレベータで現れ、冬月に紹介されたのは、米空軍の士官用ユニフォームに身を包んだ女性だった。
上半身は長袖の軍服で隠されているが、スカートから伸びる膝から下の肉付きを見るだけで、彼女のボディが完璧なトレーニングによって極限まで鍛え上げられていることが窺えた。いざという時、そのカモシカのような脚はしなやかな鞭の如き蹴りを生み出すことだろう。
知性と強靭な鉄の意志が窺える鋭い眼に薄い唇、そしてスラリと高い鼻梁はどれもが整っていて、冷徹な印象は拭えないものの多くの人間が麗人であることを認める美貌を構成していた。艶やかな光沢を放つ見事なブルネットは、惜しいことに男性のように短くカットされている。だが、ユニフォームを押し上げる大きな胸の双丘と均整の取れたプロポーションは、彼女が女性であることを主張していた。
「マルグレット!」
葛城特佐が、顔を綻ばせて歓喜の声を上げた。ヴェイヴェルス中佐は、それに答えるように目を微かに細めて見せた。恐らく、それが彼女の微笑に相当する表現なのだろう。どうやら、二人の才女は顔見知りであるらしかった。
「葛城上級特佐の推薦により、ヴェイヴェルス中佐を我がネルフの作戦司令部戦略研究室室長に迎え入れることになった。階級は上級特佐。今後は、葛城上級特佐と共にネルフの作戦遂行に尽力して貰う」
「マルグレットヴェイヴェルス上級特佐だ。宜しく頼む」
特佐や中世組の方に身体ごと向き合うと、彼女はにこりともせずに言った。だがそれでも、葛城特佐は満面の笑みを浮かべて自ら彼女に歩み寄っていく。そして、まだアメリカ空軍の軍服を纏っている親友の手を両手で握り締めた。
「マルグレット。本当に来てくれるなんて、嬉しいわ」
「例のエンディミオンとやらの襲来を受けて、基地が地図から消えてしまったからな。行く場所が無くなったのだ」
彼女の言葉は冗談などではないことを葛城特佐は知っていた。バージニア州にあるACC司令部ラングレー空軍基地は、五大湖周辺に降下したエンディミオンの襲撃を受け壊滅に追いやられたのである。その際、ヴェイヴェルス空軍中佐の提案により基地地下の六基のN2地雷に連動した自爆装置が発動された。
彼女は「失われた基地は金で戻るが、経験を積んだ兵士は金では戻らない」の思想に基づき、基地の防衛に執着するよりも、データと経験を残して後の戦略と戦術に組み込むことを選んだのだ。それは、マルグレット・ヴェイヴェルスが、葛城ミサトと同種の人間であることを意味する。
普通に考えれば、責任者として基地を失うことほど不名誉なことはない。だが、彼女はそれを恐れずに的確で合理的な判断を行った。名より実を取ったのだ。だからこそ、葛城特佐は彼女をネルフに引き抜くよう上層部に働きかけたのだ。自分に与えられるはずの、作戦部長の椅子を彼女に提供して自分は下についても良い。そうまで言って、葛城特佐は彼女を支持した。
「二人は旧知の仲だと聞いていたが?」
手を取り合う――実際には、葛城特佐が一方的に握り締めているだけだが――二人を見やりながら、冬月副司令が言った。
「はい。ヴェイヴェルス中佐とは、いわゆる仕官学校時代の同期でした。私たちは米軍に入隊した時、同じ教官の元で基礎を学んだのです。我々は常に主席を競い合う良き好敵手でした」
葛城特佐は当時のことを懐かしく回想しながら言った。彼女とヴェイヴェルス特佐は、葛城ミサトの父である葛城大佐の共通の高弟だった。そして、主席を独占するヴェイヴェルスを葛城特佐はいつも追っていたものだ。二人は切磋琢磨し、互いを刺激し合い、そして超一流の指揮者であり兵士となった。
「早速ではあるが、戦略研究室の長として確認しておきたいことが二、三ある」
ミサトの手を軽く押し返すと、ヴェイヴェルスはリリアに真っ直ぐ目を向けた。初対面の人間が、リリア・シグルドリーヴァの双眸を正面から直視できるのは極めて珍しいケースだ。それだけで、新室長の胆力が証明されたようなものである。
「大方の事情に関しては、ここに来てから与えられた資料で把握した。実に驚くべき内容だった。正直、あのエンディミオンとやらをこの目で確認していなければ信じていなかったであろう種の」
リリアはヴェイヴェルスの視線を受けとめながら、その言葉に慎重に耳を傾けている様子だった。また、周囲の人間たちはその様子を固唾を飲んで見守っている。何やら奇妙な緊張感が形成されていた。
「私はまず、本質的な敵の存在を明らかにしておきたい。私が戦うべき相手は、戦おうとしている相手は、一体何者なのだろうか。ミストレス。もし貴女がその情報を保有するのならば私に与えて欲しい」
「――先に断っておきますが」リリアは言った。「私はあなたがたネルフに興味はありません。戦力として期待していませんし、その存亡にも関心を抱いていません。ただ、無駄な摩擦を避けるために敵に回さないと言うだけのことです」
言い難いことをズバリと言う。この辺り、人間の柵に囚われない彼女ならではの特徴だ。
「私に協力する気はないと?」
ヴェイヴェルスの目が鋭く細められる。戦慄するほどの威嚇を伴った目だ。だが、その口元には微笑が浮かんでいる。彼女は間違い無く、真の超越者との遣り取りを楽しんでいた。
「そうは言っていません。私には人間のような駆け引きは必要ないのです」
リリアは全く表情を変えずに言った。
「魔皇カオスが把握する限り、全ての情報をあなたに与えましょう。マルグレット・ヴェイヴェルス」
「――感謝する、シグルドリーヴァ」
「それに関しては、オレも詳しくは聞いてなかったな」
黙って事の成り行きを見守っていたクレスが口を開いた。
「そうだな」リジュ卿が調子を合わせる。「良い機会だ、ミストレス。我々が敵対している連中に関する情報を、魔皇という立場から語っては貰えないか?」
「興味深いね」二人のタブリスが声を揃える。
「いいでしょう」場に居合わせる全員の注目を集めながら、麗しき魔皇は言った。
「場所を移すかね? 全員が掛けられる部屋ならば、幾らでもあるが」
冬月のその提案は圧倒的多数を持って退けられた。皆、はやる気持ちを抑えきれないらしい。
「最初に話の前提とポイントとを明確にしておきましょう。――まず、私とクレスは厳密に言えば人間ではありません。ですから、一概に敵と言ってもその定義や対象は人間とは異なってくることもあり得ます。以後は特別なことわりを入れない限り、我々の目標を <人類監視機構> の打倒と仮定して進めていきます」
「そのとき、問題となるのは使徒が古の大天使と呼ぶ連中になってくるね」
タブリスが歌うように言った。こんな時でも、彼独自のペースは狂わない。
「そうですね。使徒たちはそう呼びますが、監視機構の頂点に君臨する彼らは、正確には大天使などではありません。むしろ、人間の感覚からすれば神に近しい性質を持っています」
「大天使と言うよりは、むしろ神か」
葛城特佐は親指の爪を噛みながら言った。厄介事に思考を集中させるときに時折見せる、無意識の仕草だ。ヴェイヴェルスはそれを昔から注意してきたが、未だに治っていないらしい。
「神か」ヴェルヴェイスは目を細める。「人類史上最大のペテンネタだな」
その身体に半分だけ流れている北欧の血がそうさせるのか、彼女は唯一絶対神の存在に否定的見解を持つ人間の一人だ。
「その <古のものたち> は、かつて五つの存在によって構成されていました」
リリアは脱線しかけた話の軌道を修正するように言った。
「ですが、ある時を境にその内の一角が崩れます。監視機構に造反したその存在の名はルシュフェル。私です」
「そして、同時にヘルでありサタナエルである、か」
ヴェイヴェルスのそれは、質問と言うよりは寧ろ確認の色を帯びていた。リリアはそれに頷いて応える。
「ですから、人類監視機構を我々共通の敵であると認識するならば、倒すべきはルシュフェルを除いた <古のものたち> ということになります」
「で、その残りの四匹はなんて名前なんだ、リリちゃん」
興味津々といった表情でクレスが訊く。
「本来、彼らに名前という概念はありません。自然と文化の記号化というのは、人間には必要であっても超越者や神には必要ない。名前という考え方は、人間の認識と情報処理のレヴェルが低いからこそ必要になってくるのです」
「あ?」完璧にチンプンカンプンといった表情で、イールは首を傾げた。
「それでも敢えて名前に相当する概念を当て嵌め、無理矢理に発音しても人間に認識できる音声には成りませんし……仕方がないので、更にそれを絞り込んで強引に人間に知覚できるような形にでっち上げると――」
「でっちあげると?」葛城特佐は促す。
「お前たちでいう、壊れた音声ファイルを強引に再生させるような作業だな。私からすればノイズや破損箇所が多すぎて聞けたものではないが」
その言葉の主はリリアではなかった。彼女よりも中性的な、だがどこか似通った温度のない声。
「モ’オルテムを筆頭とし、バアル=ゼブル、ジャオヴァス、そしてダビト‐デウス。これが、我々と共に <全てを知る者> の手によって生み出され、監視機構の現頂点に君臨するよう命じられた者たちの名だ」
何の前触れも無く現れたのは、あのピュセルと同じ銀の髪と真紅の瞳を持つ魔皇。
「久しいですね、アランソン候」
カオスは己が半身に向けて静かに言った。
「そして、ヘル」