星の瞬きすら存在しない銀河の深淵か、一筋の光も届かない深海の奥底か。
広がりを把握することさえ困難な真の闇の中、その少年はいた。
背中を丸めてうずくまり、両腕は我が子を守ろうとするかのように両膝を固く抱き込んでいる。
全身痩細ろった彼の四肢は干物のように衰え、もはやなにも映しだすことの無い濁った眼球は、じっと地に固定されたまま微動だにすることはない。
本物の絶望は、悲嘆や絶叫をもたらすのではなく、ただ人間を虚無にさせる。
そう物語るような姿だった。
干からびた屍体同然である以上、何が少年が現在たらしめたのか本人からうかがい知ることはできない。
だが、彼が絶望するに足る状況にあることだけは、周囲を見回せば十分に得心できる。
なぜなら闇の中、その漆黒よりなお暗い何かが蠢いているのが分かる。
或いは、ひしめいていると言い換えるべきかもしれない。
それは生物とも別物ともしれない、異形の何かの海だった。咽返りそうになるほどに熱く濃い肉食獣の息遣いと、生臭く垂れ流される粘着質の唾液、ギラつく視線が、隙間なくあらゆる方向から少年を取り囲んでいる。
みっしり延々と続く幾千幾万の気配は、少年が事切れるのを輪を縮めながらひたすらに待ち続けていた。
そして、その時は訪れた。
いと硬きもの
EsCalibor
CHAPTER XXXX
「いと堅きもの」
SESSION・161
『ダッシュ・ダッシュ』
■第三新東京市 ネルフ本部
2018年9月13日 12時24分
甲高い靴音を響かせながら、上級特佐への昇進が決まった葛城ミサトは窓のない長大な通路を歩いていた。
左隣にはACC時代の軍服に身を固めたヴェイヴェルス中佐が肩を並べており、二歩先を行く白髪の長身――冬月副司令の背を共に追っている。
「君たちにはすまなかったね。時間がおしているのだ。できれば私も中座したくはなかったのだが」
副司令が歩調をそのままに、首だけ後方にひねって言う。
「確かに、人間以上の知能を持つ人間ではない生物との会見は、なかなかある経験ではないですからね」
言いながら今更ながらに気づかされる。
ガルムマスター=ヘルやリリア・シグルドリーヴァたちとの接触は、謎の円盤から降り立った超科学を持つ異性人との遭遇より価値があり、また刺激的な出来事であるのだ。なにせ、相手は遠い星の知的生命体などではなく、生物の概念をもはや超越した神話上の存在――要するに神なのだ。
「特にヴェイヴェルス中佐は米軍の出だ。ネルフの内部事情については、これから認識していく部分も大きかろう。戸惑っているかもしれないが、エンディミオンによって君の古巣が壊滅状態追い込まれ組織の再編成が迫られているように、我々も自身を維持するため新しいシステムの構築が急務となっている。超越者が相手とはいえ、のんびり親睦会とはいかんのだよ」
今度は振り向かず、副司令はこちらに背を向けたまま言った。
もう還暦を迎えて久しい高齢のはずだが、その歩調は揺ぎなく、姿勢も身体の中心に金属棒でも通っているかのごとく伸びきっていた。頭脳や感性と同様、彼は肉体にも硬化が認めれない。
「構いません。どうせあの部屋の会話は記録されているのでしょう。必要があれば後で誰かにレポートとしてまとめさせるか、自分でログを漁ります」
ヴェイヴェルスが事務的な口調で応じる。このあたりの振舞いや合理主義的な言動は、士官学校で主席を争っていた頃からまったく変わっていないらしい。
「でも、マルグレット。相手は電磁波や熱はもちろん、重力さえシャットアウトできる各種シールド持ちよ。その気になれば音や映像の遮断なんてお茶の子さいさいってやつじゃない」
「確かにそうだな」
冬月副司令が小さく肩を揺らして笑う。
「しかし、葛城君。それを気にしだしたらはじまらんよ。空間や物理法則、物事の概念さえ操る連中だ。我々のこの会話も筒抜けであろうし、やろうと思えばここの占拠も容易い。私や碇を含め、中枢にいる人間の思考をコントロールすることや、人格ののっとりも可能なのだろうからな」
もっとも、彼らがネルフを欲しがるとは到底思えないがね。最後に、そんな自嘲の色を帯びたつぶやきが添えられる。
その直後、副司令は歩調を緩めて、前方に迫ってきた下りエスカレータに身体を移した。
何しろ、都市を丸ひとつ内包できるだけの地下空間を基地化したのが、このネルフ本部である。ドイツ支部とはすべてにおいて規模が違った。廊下一本とっても数百メートル単位であるし、この高速エスカレータにしたところで下がかすんで見えるほどの距離がある。
「それで副司令。ネルフの組織再編ですが」
「うむ」
冬月は葛城特佐に一瞥すると、顔を前にもどして小さくうなずいた。
「君たちも噂程度でなら聞いているだろうな。一般職員の動揺と混乱を避けるため伏せてあったことだが、ブレーメンにある財団本部に親善大使レヴェテスを名乗る女が単身現れたという報告がある。未確認の情報だが、その親善大使とやらがあるパフォーマンスを披露したそうでね」
「パフォーマンス、ですか」
最高幹部会の開かれていた財団本部に侵入者があったということは、タブリス経由で既に得ていた情報である。その侵入者が財団理事たちになんらかの交渉を持ちかけ、ネルフの切り離しを迫った恐れについても聞いていた。が、具体的なやりとりについてはこれが初耳である。
「なんでも、彼女の視界に入ったものが白い結晶と化して瓦解していく――という現象だったそうだ。実際、衛星写真でブレーメンの本部施設を見てみると、庭園が広範囲に渡って白く染まっている事実が確認できた。まるで積雪しているようだったよ。だがしかし、気象台は前後する時刻に降雪など観測していないというのだ」
「どういうことでしょう」ヴェイヴェルスが目を鋭く細める。
「情報部が持ち帰ったその白い結晶は、分析してみたところ塩化ナトリウムだということが分かってね。そしてこれは未確認の情報だが、本部付きの護衛たちも一瞥されただけで塩の柱と化し、崩れていったらしいのだよ。これらの条件から、我々は――そして恐らく財団幹部も――これを <塩化の邪眼> であると考えている」
「邪眼って、あの目に映ったものを石化させるというメデューサのような?」
信じがたい思いでその言葉を口にする。
「それよりも、問題は親善大使を名乗ったレヴィテスという女が何者なのか、ということだ」
ヴェイヴェルスが即座に指摘する。
それから「現象だけ見れば人間わざじゃない」と英語で口走り、言語を日本語に改めると「恐らく <テトラグラマトン> を称して人類に宣戦布告した魔皇サタナエル陣営のものだろう」という自説を披露した。確かに、現状においてもっとも妥当性の高い推論である。
「もうひとつ。親善大使を名乗った以上、単に財団幹部にマジックショーを披露しに来たとは思えない。テトラグラマトンの宣戦布告とエンディミオンの降下とのタイミングを考えると、特に後者とはなにか関連がありそうですね」
「流石に葛城特佐をして、作戦本部長の椅子を譲っても良いとさえ言わしめた人材だな」
後ろ向きに首をひねった副司令の口元には、満足そうな微笑が浮かんでいた。
エスカレータが終着点につくと、顔を戻して再び先頭を歩きはじめる。そして続けた。
「その通りで、スーパーコンピュータ <MAGI> も同様の分析結果を出しとるよ。エンディミオンにおける各国の軍事拠点襲撃は一種のデモンストレーション。その性能を骨身に染みて理解させたところで、財団に高く売り込む。レヴィテスはその窓口となるべく現れた、いわばセールスレディだ、というのが <MAGI> の有力視している予測だ」
「サタナエルが、財団にエンディミオンを供給すると?」
思わず問い返した瞬間、隣でヴェイヴェルスが鋭く目を細めたのが分かった。
「人類監視機構――その実在を認めたとして、連中は、名の示す通り監視対象となる人類があってこその存在ということになります。したがって彼等を刺激するためには、人類の滅亡をチラつかせるような戦略をとればいい。まず、この事実が前提条件としてある」
思考をまとめながら、といった調子でヴェイヴェルスが口を開いた。
「監視機構との闘争を望んでいる魔皇サタナエルは、だからエンディミオンを量産して地上に降下させた。ビ’エモスまで動員し、ネヴァダ支部を虚無に返すというパフォーマンスを見せたのも、危機感をより煽る演出の一環なのでしょう」
「そうね」葛城特佐はうなずいて認めた。「実際、あのダブルパンチが効いて、人間は死滅の危機に震えだした。監視機構もヤバイとは考え出してるでしょうね」
「もはや監視機構の尖兵たる <使徒> でさえエンディミオンの圧倒的戦闘力には対抗できない。これは資料によると、最強の力を持つというタブリスも認めていることだ。ならば、サタナエルの思惑を妨げる要素はなにもないように思われる。もし、それを強いて挙げるとするなら――」
「サタナエルは、それを我々ネルフだと考えたということなのだろうな。だから、エンディミオンと引換えに財団を動かし、ネルフを孤立化させようというのだろう。超越者に危険因子と認識されるまでに成長したことを喜ぶべきか、現状を憂うべきか悩ましい話だよ」
言いながら、冬月副司令は電子ロック式の大きなドアの前で立ち止まった。
セキュリティシステムに右手の指紋と静脈を読ませ、さらにカードスリットにIDを潜らせる。ロックランプが赤から緑に変わり、空気の抜けるような音共に左右二枚のドアがスライドして壁に消えていった。
入り口を潜ると、内部には大きな会議室が広がっていた。並んで一〇人はかけられそうな長テーブルが正方形の四辺を描くような配置で並べられている。
椅子のほとんどは制服姿の上級職員で埋められており、副司令の姿を確認した彼等は談笑を中断し、起立して上官を迎え入れた。
「待たせて済まなかったね。それでははじめようか」
全員が所定の位置についたのを確認すると、一言断ってから冬月が腰を落とす。一瞬遅れ、葛城特佐は残りの出席者とそれにならった。
「公式の発表には至っていないが、君たち幹部職員にはもはや周知の事実だろう。エンクィスト財団は、我々ネルフへの資金提供を事実上凍結する決定を下した。理由は、表向き独自路線の行き過ぎた追求に対する処罰――すなわち私たち幹部の暴走のせいだとされている」
そこでいったん言葉を区切ると、情報の浸透具合を確認するためか副司令は部下たちを見回した。
特佐も注意して周囲の反応をうかがっていたが、喜ぶべきことに、大きな表情の変化を見せたものはいなかった。上級職員ともなれば独自の情報網を持っていてしかるべきであるし、既に身の振り方を考えているくらいでなければならない。ここで驚愕を露にしているような人間がいれば、人事面のウイークポイントとしてチェックしていたところである。
「もちろん」と、冬月が続ける。
「君たちも知っての通り、我々は対監視機構という正規の路線にそって活動しつつ、JAから得られたオーヴァテクノロジを研究・管理しながら組織を拡大してきた。したがって、今回の財団の説明は建前に過ぎない。彼等はサタナエルに懐柔され、超戦略兵器 <エンディミオン> の供給と引換えに我々への不干渉をとったのだ」
これには、息を呑むような気配がそこかしこから上がった。先ほど冬月からの事前説明を受けていなければ、葛城特佐自身、彼等の一部になっていたかもしれない。
「特務機関ネルフは、エンクィスト財団の豊富な財源と政治力をバックボーンとしていた、いわば財団の下部組織だ。親元という後ろ盾を失った事実は大きい。碇がこの場にいないのも、金策のため方々に飛ぶ必要に迫られているためだ。従って、この場は代表の座を代行して私が進行を務めさせてもらう。諸君、よろしく頼むよ」
方々から黙礼が返るのを確認してから、副司令は卓上でゆっくりと両手の指を組み合わせた。よどみない口調で再び声を投げる。
「では、臨時役員会をはじめるとしよう。――財団からの独立を契機に、我々は新体制の発足に迫られた。とはいえ、今回の事件は予測されていたものでもある。既に新たなネルフの屋台骨となってくれる人員の確保が済んでいることもその左証となるだろう。まずはその中心的存在、新たに作戦司令部長として迎え入れることになった葛城ミサト上級特佐を紹介しておこう」
視線で合図を受け、特佐は立ち上がった。
ドイツ支部から出向してきたことを含め、過去の経歴についてざっと語り、現状認識の抱負を簡単に披露して着席する。
「葛城上級特佐」副司令が言った。「良い機会だ。新体制とその運用方針、それに伴う人員整備について簡単に進めてくれるかね」
「分かりました」
うなずき返しながら、手元に用意された極厚の資料に視線を落とす。はじめる前から分かっていたことだが、今日は徹夜の会議になるだろう。
「では、まず作戦司令部に新設された戦略研究室の室長、マルグレット・ヴェイヴェルス上級特佐を紹介させていただきます」
彼女が起立して自ら名乗るのを待ってから、葛城特佐はヴェイヴェルスの簡単なプロフィールを読み上げた。それに絡めながら戦略研究室の主要な役割について解説し、司令部全体のシステム変更点についてもざっと確認していく。その後、技術部、情報部、警備部、整備、総務、人事……と同様の流れで続けた。
今回の組織再編で大きく変わったのは、主に資金繰りに関する部分である。財団からの金の流れが止まった以上、一番の変化を要求されるのは当然だった。また、作戦司令部と技術部についても新兵器 <GOD> やその量産型などの登場が新しい環境を生み出していた。
作戦司令部については、ようやく仕事ができる――という認識がもっとも適当だろう。
「では、内部の確認が済んだところで、次は外に目を向けてみるとしよう。とりあえず、エンディミオンまわりを中心に各国の情勢について何か新しい情報は入っているかね」
副司令が情報部の席に視線を投げながら言った。
「はい」
とにかく国内外の情報収集を主要任務とし、時に諜報活動や各種工作なども行うのが情報部である。葛城特佐とのやり取りも盛んで、量産型GODのパイロット候補者を選抜するため設立された <マルドゥック機関> は、作戦司令部と情報部による共同チームである。その情報部から、代表の二名が報告のため立ち上がった。
「まずエンディミオンですが、これは今までのところ三位一体を基本としています。我々でいうスリーマンセルということになりますが、これが三組――計九体の降下が確認されました。この内の一組はご存知のように、本第三新東京市へ進攻。作戦司令部のGOD二体との交戦に入り、これを大破に追い込んだ後、ガルム=ヴァナルガンドによって殲滅されています」
この他、エンディミオンはグレートブリテンと北米大陸にも降りている。
内ブリテン島の一隊は、ウェールズからイングランドへ進み、両国の軍事拠点や政府関連施設を破壊。国土を荒らしまわって壊滅の危機に追いやった後、ドーヴァー海峡を渡ってフランスに上陸した。
最終的にこれらのエンディミオンは――葛城特佐自身がその目で確認し、情報部に提供した話であるが――、新世紀に到着したリリア・シグルドリーヴァの戦乙女たちによって破壊されている。
「現在のところエンディミオンについては、北米に降下した三体のみが健在です。この一隊は五大湖周辺に降り立つと南下、ミシガン州、インディアナ、オハイオ、ケンタッキーと進み、バージニアの主要基地を壊滅に追いやっています。ただし、ここで空軍が地下配備していた自爆システムを使用。基地の爆破と引換えにエンディミオンの表層へ損傷を与え、殲滅には至らずも足止めに成功しています。とはいえエンディミオンに自己修復機能が認められている以上、再度の進攻は時間の問題でしょう」
「……マルグレット」
小声で隣席のヴェイヴェルスに声をかけた。
「気にしなくて良い。世界の警察を名乗っていた軍が、いざ危急の際となればこのざま。良い教訓、良い薬になる。これを乗り越えられれば、の話だけど」
一瞥と同時に、ほぼ予想通りの言葉が返る。素っ気ない口ぶりに装われていたが、祖国が史上最大の危機を迎えているのだ。しかも壊滅の二言で片付けられたバージニアには、彼女がつい最近まで副司令官として赴任していたラングレー基地があった。そして自爆による時間稼ぎが、彼女の提案によるものだという話も聞いていた。
ヴェイヴェルス元空軍中佐は、帰るべき場所と共に手塩にかけて育ててきた優秀な部下を何百も失ったのである。内心は忸怩たるものがあるはずだった。
「そうね」
これ以上の同情は彼女の恥になる。そう判断し、意識を会議上に戻すと情報部員に向かって声をあげげた。
「エンディミオンの襲撃を受けた各国の被害状況は?」
「国家単位で見ると、被害を受けたのは日本、アメリカ、ウェールズ、イングランド、フランスの五国。このうち、日本は第三新東京市のみの局地的被害でもっとも軽微です。とはいえ市街地が戦場になったこともあり、財団の経済支援を失ったネルフにとっては充分な痛手となる被害が出ています。まだ正確な試算は出ていませんが、兵装ビルをはじめとする建築物の崩壊や爆発による公道断裂など、被害額としては大震災クラスのものとなりそうです。現在、自衛軍が派遣され復旧作業が続いていますが、都市機能の大部分はいまも復旧しておりません。要塞・迎撃都市としての機能率も二割を切っています」
続く報告を聞く限り、これでも日本は不幸中の幸いといったケースに入るようだった。
ウェールズやイングランドは両国軍がほぼ壊滅。緊急事態宣言が発令されている。
アメリカに至っては、エンディミオン三機がいまだ健在であることもあってパニック状態が継続しており、被害状況の確認すらままならないのが現状であるという。死傷者は分かっている範囲でも既に万単位。被害額は天文学的な単位に及ぶと見られている。更なる被害の拡大が確実視されいてることを考えれば、まさに国家転覆に近しい状態を危惧すべきだった。
「 <テトラグラマトン> を名乗った魔皇サタナエルが、人類に事実上の宣戦布告をした影響は?」
その質問は、技術部長の才女として知られる赤木リツコ博士から発せられた。
この場で唯一、規定の制服をまとわず白衣姿で人目を引いている人物だ。彼女とは一歳違いで、日本の学生時代に同じ大学で出会っていたこともあり、実は面識が少なからずある。ただ、相手がこちらを覚えているかは別の問題だった。
「日本国内では、例の宣言の解釈を巡った議論が活発に交わされていますが、これは今のところ言論ベースです。しかし海外では紛争の火種となるケースも目立ちはじめており、導火線の短い地域――中東やバルカン半島では既に民族間、国家間の軍事的な衝突が見られます。ブリテンでもアイルランドが悶着を起こしかけていましたが、こちらはエンディミオンの襲来でうやむやになった模様。宗教ベースでは国家の枠を超えた混乱が観測されています」
「 <MAGI> の予測どおり、エンディミオンが財団に供給され実戦配備がなされることがあれば、混迷の度合いはより増しそうだな。連中は武力による地球圏の統一に乗り出すだろう。紛争はその対立構造を複雑化しながら拡大し、人類は自滅の道を辿っていく」
眉間のあたりをつまむようにして揉みながら、副司令は軽く目を閉じる。
「単にネルフを切り捨てるための交渉材料ではない。すべてはサタナエルの思惑通りということか。――赤木博士。先のエンディミオン戦で敗れたGOD <ウルド> と <スクルド> だが、これはもう使えんのかね」
「それについては」
博士が細いフレームの眼鏡をかけながら応じた。
「お手元の資料を参照してください。C-211です。もともとGODシリーズは、南極の永久氷壁より発見されたJAの素体を培養し、人工のコクピットシステムと接続したものです。元のJAが再生・復元能力を有する以上、一定範囲内の損傷であれば時間の経過と共に回復していくのですが……」
「この報告によれば <ウルド> は大破、 <スクルド> は中破とあるな。となると、やはり再生と復元に時間がかかるということかね」
副司令が資料に視線を落としたまま問う。
「それよりも、問題はコクピットシステム――制御系です。これは時間的、経済的、人的コストを考えると修理より新調した方が早いのですが、いずれにしても新しいシステムを素体に馴染ませ、実戦レヴェルまで調整するには時間がかかります。また医療部の管轄となる、パイロットの精神と健康問題にもかかわってきます。操縦士がいなければ戦闘機は飛びませんので」
「その話題については、作戦司令部にとっても目下最大の関心事です」
そう口を挟みながら、葛城特佐は医療部が陣取る方向に顔を向けた。
「医療部。その後、パイロットの容態に変化は」
「ありません。変わらず、芳しくありませんね」
恰幅の良い制服姿の中年男性が、着席したまま顔をしかめた。彼も医者なのだろうが、赤木博士のように白衣をまとったままこの場に出てこられるほどの度胸はないらしい。
「遠隔操作ですから身体的な負傷などはないのですが、神経系の直接接続による操作システムを採用している以上、そちらの面での被害が甚大です」
報告書によれば、本部に襲来した三機のエンディミオンを迎撃するため、ネルフの虎の子である <ガデス・オブ・デスティニィ> ――通称GODが出動した。
同人型兵器の遠隔操作には俗にいう念動力の類が必要であるらしく、異能の家系に生を受けたという霧島マナと碇ユイが選抜されたとのことである。だが、充分な訓練を受けていない民間協力のテストパイロットが戦闘行為を満足にこなせるはずもなく、地力の圧倒的な差もあって敗北。GODは腕を切り落とされる、首の骨をへし折られるといった甚大な被害を受けたらしい。
遠隔操作とはいえ、神経系が接続されていたというから操縦者もただでは済まないだろう。これは医学の門外漢である特佐にも容易に想像できた。
医療部員が、続く言葉でその想像が妥当なものであることを裏付ける。
「――霧島マナはまだ若く、ダメージも軽微であるためしばらくすれば意識ももどるでしょう。一方で、総帥の奥方に関しては予断を許さない状態が続いています。いつ意識が戻るか確かなことは保障できませんし、仮に戻ったとしても実戦に即時復帰することは不可能でしょう。また同じ目にあわせてしまうと命にかかわる」
加えて、超自然的な力を媒介として化け物と同調していた、という要素がある。この事実が彼女たちにどのような影響をもたらすかは今のところ明らかでない。医学では手の出しようのない領域の問題だった。
「赤木博士、技術部にお聞きしますが」
葛城特佐は、対面の席に座る白衣の才女に視線を注いだ。
「GOD <ウルド> 、 <ベルダンディ> 、 <スクルド> の三機は、新兵器開発プロジェクトの先行試作型に過ぎないという報告がありますね。そして、制式型が世界各国の支部にて開発、建造中であるとも。われわれ作戦司令部は情報部と連携し、 <マルドゥック機関> を通してその制式型用のパイロット候補を集めていますが、彼等に実機を配備できる日は具体的にいつになると考えればよろしいのでしょう」
「お答えします」
眼鏡をごく自然な動作で外しながら、博士が事務的に告げた。首筋のあたりで切りそろえられた金色の頭髪がかすかに揺れる。
「葛城作戦部長のおっしゃるように、技術部はGODシリーズと構想を同じくした人型兵器の開発に尽力しています。この新型は大きくニ系統に分類され、開発コードをそれぞれ <ダッシュ> と <ヴァルキリィ> としているのですが――」
彼女は配布資料の参照箇所を指定すると、会場の人間たちに黙読のための僅かな間を提供してから続けた。
「このうち <ダッシュシリーズ> は零号機から五号機まで、計六機の組み立てが既に完了し欧州各国で最終調整の段階に入っていました。が、エンディミオンの襲撃を受けたイングランド支部の零号機については何らかの影響が生じるかもしれません。同じくエンディミオンの上陸を許したフランスについては、被害が一部に限定されていたため問題なしとの連絡が既に入っています。」
技術部が提出している資料によると、 <ダッシュ> は現在のネルフが有するオーヴァテクノロジの粋を結集した、エース専用機として設計されているらしい。音速を超える超高機動性を実現し、一機で戦略級の影響力を発揮できる性能を与えられている一方、起動と操作には極めて高水準の異能が求められる。
GODは元より操縦者を選ぶ機動兵器だが、こと <ダッシュシリーズ> は、操縦者の存在を無視して高性能化を極限まで追求した機体ということになのだろう。最悪、必要な要件を満たすコントローラーが見つからない危険性というものを全く恐れない、不遜の産物ともいえる。
「一方、様々な意味でコストパフォーマンスに優れた量産型が <ヴァルキリィ> です」
ややあって赤木博士が再び講釈に入った。合わせて、書類をめくる乾いた音が静かな議場に響く。
「これは中国とアメリカが中心になって開発していましたが、ネヴァダ支部の消滅やエンディミオンによるアメリカ中東部の壊滅などにより、計画に確実な遅延が予測されます。中国も台湾やチベットの独立問題が、先の宣戦布告により表面化。国内事情が複雑化しているため開発に遅れが出てきている模様。タイムスケジュールの見直しの必要性が指摘されています」
「具体的には?」冬月が書面から顔をあげて訊く。
「具体的には <ダッシュシリーズ> の場合、試験運用まで約二週間。これは以前からの報告どおりです。しかし、 <ヴァルキリィ> については未定。目処は立っていないものとお考えください」
「――二週間、か。北米大陸から東部を消し去る覚悟を持ってすれば、N2兵器や核の連続投下で稼げない時間ではないな」
隣席からそんな囁き声が漏れる。顔を向けると、ヴェイヴェルスが睨むように虚空を見つめていた。
思い切った戦略だが、同じ考えが特佐の中にもある。ヘルやシグルドリーヴァ夫妻、彼女たちのガードに助力を請わず、人間だけで事態に向かおうとするなら手はそれしかない。
「ただ、問題はその後ね。財団が本当にエンディミオンを手にしたとすれば、私たちはそれを相手にしないといけない。それが三体なのか、三〇体なのか……三桁に及ぶと白旗ね」
しかも赤木博士のいう二週間というのは、あくまで機体の完成時期である。パイロットに渡し、個々に合わせてノッチを弄り、操縦訓練を行うための時間は含まれていない。
「世界を救う英雄。圧倒的武力を背景に外敵から人類を守る騎士団。もし、財団がそんなイメージを前面に出す方向で地球圏の掌握を考えていたとしたら、どうなる?」
声量をぎりぎりまで落として問うヴェイヴェルスが、目だけこちらに向ける。視線がかち合った。
その言わんとされていることに気づいた瞬間、思わず血の気が引いていくのを感じた。
「まさか……」
「エンディミオンならすぐに動かせる。戦術レヴェルでは自律稼動だから、ネルフの新型と違って操縦士もその訓練もいらない。ならば財団は救世の英雄としてこれらを即時動員し、アメリカのエンディミオンと戦わせる道を選ぶかもしれない。見事勝利すれば、神を騙るサタナエルに反発する人間たちの支持は連中に向く。財団と戦うネルフは、たちまち得体の知れない悪役だ」
「そこまでは考えてなかったけど」言いながら思考した。「なるほど。それ、あり得るわね」
というより、いかにもエンクィスト財団――最高幹部会ゼーレが考えそうなシナリオだった。
「ミサト、また爪を噛んでる。さっきも指摘しようと思ったけど、昔からの悪い癖ね」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。前門には監視機構、後門にはサタナエルと財団って構図になりつつあんのよ。このままじゃ、マジで人類死滅するわ」
「そうなって困るのは人類本人と監視機構くらいだ」
ヴェイヴェルスが彼女らしい軽口を叩いたとき、携帯通信機を耳元にした情報部員が席を立つのが見えた。いつもそうだが、眉間に深い溝が刻まれた険しい表情を浮かべている。
彼ともう一人は、そのまま大またで歩き出し上座へ向かって行った。冬月副司令もその動きに気づいたらしく、椅子から腰を浮かしかけている。
情報部員に何事か耳打ちされた彼は、直後、その長身を実際に直立させた。
「諸君、すまない。緊急の用件が入ったため、この場はしばらく休憩とさせてもらう。会議再開については別に連絡しよう。必要と判断する者は、持ち場に戻ってくれて構わない」
穏やかにも聞こえる口調で告げるも、副司令は質問を受け付ける間も与えず歩き出した。こちらに近づいてくると判断して、葛城特佐はヴェイヴェルスと一緒に立ち上がる。
「葛城、ヴェイヴェルス両上級特佐。ちょっといいかね」
充分に近づくと、かろうじて聞き取れる程度の小声で副司令が言った。
「なにか」
「今しがた、欧州各支部からほぼ同時に緊急通信が入ったようなのだ」
息を呑み、思わずヴェイヴェルスと顔を見合わせる。
この場合、事実上のSOSか警告の類しか考えられないだろう。あるいはエンディミオンが新たに降下したのか、それとも財団が早速大々的に何らかのアクションを見せたのか――
最悪とも思えるシチュエーションが次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
だが、冬月副司令からもたらされた次の一言は、完全に想像の範囲内を超えた衝撃を伴っていた。
「各支部が何者かの同時多発的な襲撃を受け、調整中だったGODダッシュシリーズが奪取されたとの連絡が入った。情報が錯綜しているため確かなことは分からんが、数人の若者が突如として基地内に現れ、ダッシュシリーズと共に一瞬にして消えたというのだ」
SESSION・162
『夜に溶ける月』
■第三新東京市 ネルフ本部
2018年9月13日 12時24分
それは渚カヲルの目にも、壮観としか言いようのない光景だった。
混沌の壁で時空跳躍が阻害されていた事情を考えると、奇跡としか言いようがない。
六〇〇年前に活躍した英雄と異能者が、対監視機構を謳う特務機関ネルフの本拠地に、こうして一同に会しているのだ。
その面子というのが、アランソン候の側近であったリジュ伯カージェスを筆頭に、トランプの絵札 <ジャック・オヴ・ハート> のモデルともなった大傭兵ラ・イール。その戦友、クレス・シグルドリーヴァ。彼の事実上の妻であるリリアとそのインペリアルガードたち。
そして今、その輪に加わろうとしているのが <ガルムマスター> の異名をとる冥帝ヘルなのである。
一瞬、場から全ての音が掻き消され、緊張感に満ちた沈黙が周囲を支配しようとしていた。
他人が形成したその空気をまったく無視して、彼女は人の集う輪の中にゆっくりと歩み寄ってくる。短く切りそろえられた銀髪と鮮血色の双眸は、その存在が人間側ではなく使徒側にあることを如実に語っていた。魅入られるように、全ての視線が彼女に奪われる。
「ヘルってことは、リリアの三つ子にも相応しい存在だって言われてた……?」
まばたきすら忘れた様子で、クレス・シグルドリーヴァがそんなつぶやきを漏らした。
彼も既に、アランソン候がこちらに転生してから様々なことを体験し、ヘルに憑依されてしまったことを知っている。 <声> の主として、ピュセルを操っていた張本人であることも。
この抜け目ない魔皇は乙女を巧みに誘導し、この新世紀にやってきて自由を得たのだ。
そして碇シンジの肉体に憑依し、傍目にはあたかも多重人格者のもつ一人格のように振舞っている。
「おい。お前、魔皇なんとかってことは、アランソン候ってことだよな?」
恐れを知らないクレスが彼女に歩み寄りながら言った。恐怖を克服したのではない。理解できていないからこそ出てくる、無知ゆえの剛気だ。
「そうだ。しかし、今は否定もできる」
冥府の支配者として神話に語られる女帝は、その言葉と共に歩を止めた。あまり大きな声量とはいえないが、耳によく響く硬質な声だ。同じ声帯を使いながら、そこにアランソン候や碇シンジの面影はない。
「今、候は眠っている。それを目覚めさせるのは卿等だ。私はそれを待っていた」
「――眠っている?」
クレス・シグルドリーヴァの隣で、リジュ卿が怪訝そうに細めた。探るような視線で魔皇ヘルを窺う。
確かに、いま彼が向き合っている人物は、良く知っているアランソン候二世とは全くの別人にしか見えないだろう。六〇〇年の時を越えて生まれ変わったということもあろうが、その要素を差し引いたとしてもあまりに雰囲気が違い過ぎる。いつも口元に浮かんでいた遠慮がちな微笑は無く、頼りないくらいに優しい雰囲気もない。逆に鋭く冷たい、他者の存在を圧倒する空気しか感じられなかった。
「へえ、なんか変わったな。アランソン候。髪の色とか全然違うし、まあ形はどうあれ生まれ変わったんなら不思議もないんだろうが」
リジュ卿の抱く違和感に無頓着なクレスは、笑顔を見せてかつての戦友に歩み寄っていく。カヲルの見る限り、彼は時を越えるという大冒険を成功させ、刺激に満ちた新世紀に降り立ったこの状況化で酷く高揚しているようだった。浮かれている、と言い換えてもいい。
彼は皆が緊張と共に見守る中、仲間と久しぶりの再会を果たした傭兵たちがよくやるようにヘルと胸を合わせた。回した手で、そのまま荒っぽく背を叩く。
だが次の瞬間、彼の動きが凍りついたように止まった。その顔色が見る見る変わっていく。一拍置いて後ずさるように距離をとると、検めるように魔皇の相貌と身体を見詰める。
「今、確か……」
不思議そうに首をひねりながら彼はヘルの胸部に手を伸ばす。男物の服を着ているせいで見た目には良く分からないが、それでも体ごと腕に収めれば、流石に気づかざるを得なかったのだろう。
クレス・シグルドリーヴァの指先が、胸板に触れる前に柔らかな弾力に弾かれたのが誰の目にも分かった。彼は炎に触れたように勢い良く手を引き戻す。その相貌には驚愕が露になっていた。
「お前、アランソン候じゃなかったのか」
狐に化かされでもしたかのような顔で、クレスが必死に問う。
「その問いにはもう答えた」
「リリア?」
本人から肯定の返答が返ると、彼は助けを求めるように背後に立つ愛人に顔を向けた。魔皇として覚醒したリリア・シグルドリーヴァである。
「新世紀に来てからは、碇シンジと名を変えているそうですが、間違い無くそれはアランソン候の肉体ですよ」
「だって、胸がある……」
言いかけて、何かに思い至ったらしい。ラ・ピュセルの純潔審査を見ても分かるように、彼等の時代の人間は物事の確認方法も極めて原始的で単純である。
「おい、ちょっと一緒に来てくれ」
そう言うと、彼はヘルの細い手首を掴み、返事も待たずにホールの扉を潜って外へ出ていった。魔皇は興味深そうにクレス・シグルドリーヴァを観察しており、それに逆らう素振りは見せない。
「どういうことだ。アランソン候は一体?」
二人が慌しく退室した後、残されたリジュ卿が説明を求めるように言った。
彼は、ロンギヌス隊から託された形見の剣をアランソン候に渡すため、この時代へやってきたに等しい人物なのだ。しかし、肝心のアランソン候があの様ではどうしようもない。ある意味で、最も衝撃を受けていたのがリジュ卿なのだろう。
「――彼は」
説明の必要性を認め、カヲルは口を開いた。
「彼がアランソン候としての記憶を消去された上で、ピュセルによってこの時代に送り込まれた。そして碇シンジの胎児に宿り、一種の転生を果たした。そのままであれば、話はそこで終わっていたでしょう。しかし、彼は思い出した。ピュセルの処置が未熟であったのか、候が奇跡を起こしたのかは分からない。いずれにしても、シンジ君はアランソン候としての記憶を取り戻したんですよ」
ふたつの人格、新世紀と中世の自分との間で揺れる彼の心理を説くのは易しい作業ではない。しかしリジュ卿やイールなど、アランソン候の近くにあり、かつ自身がこうして時間を越えて別世界にたどり着いた人間にならば伝わる部分もあるはずだった。
「彼は先日まで、かつての自分の足跡を辿る旅に出ていました。僕もそれに随伴させてもらった。シンジ君はフランス全土を歩いて周り、最後にルーアンにたどり着いた」
これにはラ・イールが反応した。
「……ピュセルが死んだ場所だ」
「そう、その通りだよ。ラ・イール」
歴史書によれば、ピュセルが連合の捕虜となり裁かれるとの情報を入手したイールは、彼女を奪還するため挙兵している。記録が正しいなら――ジル・ド・レなどの特殊な例外を除いて――ピュセルのために軍を動かした、ただひとりの男が彼であった。
乙女の活躍によって戴冠式を挙げ、大手を振って王を名乗れるようになったシャルル七世も、他の貴族たちも、宮廷は彼女のために立ち上がろうとはしなかった中のことだった。
「ルーアンの古塔のなかで、シンジ君――アランソン候はピュセルが残したメッセージを見つけた。そして完全に思い出した。中世に残されていた意識の欠片が、彼女の処刑の瞬間を見届けていたことも含め、すべての記憶を蘇らせたんです。丸太に縛り付けられた少女が、生きたまま火に炙られていく光景。それを面白半分に見物する野次馬の群れ。焼け爛れ、灰になっていくピュセルの姿。それをただ見ていることしかできなかった自分。そのすべてを、です」
問題は、この時点で彼が既にガルムマスターヘルの異能を手にしていたことだった。
普通ならば、単なる慟哭ですんでいただろう。しかし、内と外の両面に向けられた激しい憎悪と悲哀が魔皇の力と結びつけば、周囲への影響は甚大なものとなる。
「激情をもてあまし、心の深層に抱えていた様々な歪を表面化させてしまった彼は、一種の心神喪失状態に陥った。不用意に力を解放し、ルーアンを瓦礫の山に変えてしまったのです。死者も大勢でた。殻に閉じこもりながらも、アランソン候自身、それを理解している」
「そうか……」リジュ卿は重たく呟いた。
戦争という抗い難い時の流れに任せて、アランソン候を無理にでも領主として立たせてきたのは彼らだ。アランソンの街のために。領民のために。どんな大義があろうと、父と兄を失って呆然としていた五歳の少年に無理を承知でそれを強いてきたのは、他ならぬ自分たち側近なのである。――そんな思いがリジュ卿にはあるのだろう。
表情や声音にこそ沈痛さを出さないが、ロンギヌスの長剣を握る手は今にも震えだしそうなほど強く固められていた。
その時、廊下からクレス・シグルドリーヴァの小さな悲鳴が聞こえた。
何事かと一部の人間たちが身を固くする中、ドアが開いて当の本人がホールに駆け込んでくる。彼は真っ直ぐ伴侶に寄ると、彼女の肩を掴みながら必死に何事かを訴えはじめる。
「どうしたんですか、クレス。落ち着いてください」
そうこうしている内に、ヘルがホールに戻ってきた。見たところ慌てているのはクレスだけのようで、魔皇に変わった様子はない。
「なにがしたいのだ、その男は」
彼女は面白そうに呟きながら、人間たちの輪に再び加わった。
「なかったんだよ」
ようやく言語を回復させたクレスは、女帝を指差して告発するように叫ぶ。
「リリア、女はみんなリリアみたいになってるんだろう?」
恐らく、彼女以外に女性経験をもたないのだろう。クレス・シグルドリーヴァの知識は、すべてリリア・シグルドリーヴァを基準としているらしい。
「私みたいに、とは?」
「だから、腹の下だよ。男とは違って割れ目があるじゃないか」
「確かに、造形は人間のそれを参考にしています。私の場合は、ですが」
「同じ風になってた!」クレスが青い顔で告げる。「胸が膨らんでたから確かめようと思ったんだ。それで、外で服を脱がしてみたら」
「あなた、何をしているかと思えばそんなことを考えていたんですか」
ミストレスは呆れたように言う。騒動の最中で誰も気付いていないようだが、視界の隅では戦乙女ブリュンヒルドがなぜだか悔しそうに白いハンカチを噛締めているのが見えた。
「それで見てみたら、やっぱり女だった。リリアと同じ風になってた。穴も開いてて指もちょっとだけ入った」
「なにをやってたんです、あなたは」
リリアは溜息混じりに言う。ブリュンヒルドはハンカチを切り裂いていた。
「ヘルは人間でいう女性なんですよ。故郷の神話じゃないですか。地獄の女神の話くらい聞いたことがあるでしょう。英語の地獄の語源にもなったという」
当然だ、というようにミストレスが説く。相当驚いたのか、それとも煩悩ゆえか、クレスはまだ彼女に半ばしがみついたままでいた。
「しかしだな、アランソン候は女顔で美男候とか呼ばれもしていたらしいが、確かに男は男だったぞ。新世紀にきてから女になってるなんて聞いてない」
「碇シンジもアランソン候も男性体ですよ。アランソン候が目覚めて、その人格が浮上してくればあの身体も合わせて男性体に戻るはずです」
「カオスの言う通りだ。――男。なぜにお前は性別にそこまで固執する」
ヘルからしてみれば、それは些細な差異に過ぎないのだろう。むしろ、魔皇と人間が同じ肉体に同居していることに驚くべきなのだ。条件としては、そちらの方が遥かに異常で特異なのだから。
「当たり前だろう。もう一〇年も付き合ってた奴がいきなり男から女に変わってたら、誰だって驚くわい」
「それはともかくとして、魔皇ヘルに申し上げる」
クレスを押し退けるようにして、リジュ卿はヘルと向かい合った。
「我が主、ジャン・ダランソン二世と会わせて頂きたい。俺には彼と会って渡さねばならないものがある」
ロンギヌス隊と工作員としての経験で培われた並々ならぬ彼の胆力は、魔皇と正面から対峙しても些かも動じることはないらしい。
「無論だ、古の騎士。それは欠かせぬ因子だ」
ヘルは微かに目を細めた。
カージェス・ド・リジュとロンギヌスの剣。これをアランソン候に与えることで、全てははじまるだろう。その時のアランソン候に、魔皇ヘルの力を行使させた瞬間……一体、なにが起こるか。恐らく、魔皇を超えた魔皇の業が見られるはずだった。人間と魔皇を反応させた際に生じるであろう、誰も未だ見ぬ未知の現象。その観察をヘルは望んでいるに違いない。
監視機構への復讐にも、アランソン候の肉体の支配権にも関心を示さなかった魔皇ヘルの思惑は、恐らくそこにある。
「しばし待て。今、候と接触する」
静かに告げると、彼女はゆっくりと両のまぶたを閉じた。
これから彼女が辿るプロセスには大体の予想がつく。まずヘルは、碇シンジのインナースペースに自ら埋没し、その深淵で眠り続けるアランソン候を揺り起こすのだろう。そして自らがその場所に留まる代わり、候の精神と魂を碇シンジの表層へ押し上げる。人格の交代。ペルソナの入れ替えである。
現実に、その兆候は碇シンジの肉体に如実に表れていた。
「おおっ!」
場に居合せる人間たちが、驚愕の呻きを上げた。魔皇の銀髪が徐々に黒く染まっていくと同時に、丸みを帯びていた女性の肉体が雄性のものへと急速に変化していく。
やがて開かれた瞼の向こうから現れたのは、深紅ではなく闇のように黒い瞳――ジャン・ダランソンとしての瞳だった。
「こりゃ凄い。完璧に変身した」
「――ああ」
イールの感嘆の声に、クレスは不敵な笑みで頷く。
「さっきと全然違う。今度は確かにアランソン候って感じの雰囲気になったぜ。ようやくお目覚めってわけだな」
「アランソン候、なのか?」
歩み寄るリジュ卿が、途惑いがちに声を掛ける。
「リジュ卿」
消え入りそうな小声。だが、それは確かにカヲル――自由天使タブリスの知るジャン・ダランソンのものだった。
「僕は……」
「よっしゃ、まあ紆余曲折あったわけだが、こうしてまた全員が揃ったわけだな」
クレス・シグルドリーヴァは、今や完全に青年の姿を取り戻したアランソン候へ歩み寄っていく。彼にとって、この時代に来てどう名前が変わっていようが、それはアランソン候であってアランソン候以外の何者でもない。六〇〇年の時を越えた再会に感激もあるのだろう。故郷から遠く離れた国で、気の知れた旧友と偶然に顔を合わせたような心境に近いのかもしれない。
「これで心置きなく、人類監視機構をぶっ潰せるよな」
彼は上機嫌でアランソン候の肩を叩く。だが、相手から期待していたであろう反応は返らなかった。かつての戦友は、人格が浮上してきた時から面を伏せ重苦しい沈黙を守ったまま動かない。
「どうしたアランソン候。なんかいつにも増して暗いな」
流石に不穏な空気を感じ取ったか、怪訝そうな表情でクレスは候の顔を覗き込む。
「アランソン候、聞いてくれ」
代わって項垂れる侯爵に声を掛けたのは、ロンギヌスの剣を持ったリジュ卿だった。彼は純粋な人間。これから監視機構と戦うのであろうアランソン候やクレスたちの直接的な戦力に加わることはできない。だがそれでも、彼には彼にしか出来ない重要な仕事があった。
「君に話しておかなければならない、重要なことがある。――エイモス老が死んだ」
「……えっ」
リジュ卿の言葉に、碇シンジは勢い良く伏せていた顔を上げた。目を見開き、思いもしなかった報告に驚愕を露にしている。だがそれでも、リジュ卿は続けた。
「エイモス・クルトキュイスだけじゃない。ノトス、ポルトス、四人のピエール、二人のトマス、六人のジャン、アクセル、ブントー、レティシア、ジョアン、二人のマリ、レジイヌ、テレサ、レオン、コレット、ランス、ジャックマン、ルイ、ロベール、フィリップ、オーヴィエット、エモン、ギヨーム、ウィリアム、クリストフ、シモン、モルターニュ、マシューズ」
リジュ卿はロンギヌスの剣の柄を握り締めた。
彼らの死に様は、タブリスを通して渚カヲルの脳裏にも強く焼き付いている。この先、使徒としてどれだけの時と共にあるかは分からない。だが、その役目を終えるときまで彼らの熱歌は決して絶えることはないだろう。
「俺を除くロンギヌス隊三九名全員が逝った。誇り高く逝った」
「そんな……どうして」
「あいつらは俺たちを、この時代に送りこむために戦ってくれたのさ。そして命と引き換えに、使徒五体、天使の傀儡一五六体を斬り倒した」
クレスが言った。彼もロンギヌス隊に親友を持つ男だ。あの騎士たちの死の重みは知っている。
「だから俺たちは、戦わなきゃならない。やつらの死に報いるためにもだ」
「でも、僕は――」
碇シンジは再び顔を伏せると、消え入りそうな掠れる小声で呟いた。
「僕はもう、戦えません」
「はあ?」
考えてもみなかった返答に、クレス・シグルドリーヴァは虚をつかれたようだった。リジュ卿も思わずといった様子で目を見開いている。
「おいおい、なんだそりゃ。新世紀流のジョークかい? あんまり笑えねえぞ」
「だって! ピュセルは死んでしまった」
悲鳴を上げるように、シンジという名の少年は叫んだ。
「殺されて、しまったじゃないですか……」
感情の爆発も一瞬のこと。再び、その声は風に掻き消されるように萎んでいく。
彼が想っていた少女は、確かに殺されて無に帰った。六〇〇年も前の遠い世界で。
「それにもう、僕はアランソン候ジャン二世じゃない。碇シンジなんです」
その言葉を聞いた瞬間、カヲルの中にある予感が芽生えた。
先日、惣流アスカが彼に投げかけた命題。それを少年は思い起こしているのかもしれない。
あんたはシンジなの。碇シンジ。それ以外の何者でもない。――彼女は、カヲルも居合わせるその場で、幼馴染にそう断言して見せた。
アランソン侯の記憶を持っていても関係がない。アスカ嬢はそうも指摘している。たとえ前世の記憶があったとしても事情は変わらない。生まれ変わったのなら設定はリセットされるべきである。新しい人生を、新しい設定で、新しい環境下で謳歌する。それが正しいあり方なのだ、と。
人は未来のために生きるものだ。しかし、碇シンジは過去のために生きようとしている。しかもその過去に振り回されている。それでは、あまりにも不幸ではないか。
それは何も知らぬ人間が並べた、無責任な正論に過ぎないのかもしれない。
だが、碇シンジはそれになんら反論らしきものをぶつけようとしなかった。痛いところを突かれた、というような意識があったためだろう。彼は生来の気質として、何を行うにしても己にその資格があるか、許されるか、といったことを考察せずにはいられない人間である。
加えて、今は自分自身を憎悪しているはずだった。無関係の人間を巻き込み、死に至らせ、それでなおピュセルを救えなかった。その事実と己の無力に対する絶望が、思うがままに行動しようという意思を束縛しているのだ。
「ピュセルは死んでしまった。そして、それから六〇〇年もたった世界に僕はこうしている。もう、戦う理由は無くなってしまった……。それに無関係の人たちを戦争に巻き込まなくては、監視機構には手が届かない。僕はそうまでして自分の野望を追うことに、もう、意義を見出せません」
「なんだと――」
その言葉は、恐らくクレス・シグルドリーヴァにとって許しがたい暴言であったのだろう。逆上した彼は、怒りに任せて少年の胸倉を掴み上げる。
「候、それ本気で言ってるのか?」
碇シンジは項垂れたまま答えない。されるがまま、流されるがまま人形のように佇んでいる。その様は魂の失われた抜け殻のように見えた。
「お前、何のためにロンギヌス隊の奴らが戦ったと思ってる。あいつらはな、お前と戦えたことが誇りだと言い残して死んだんだぞ。俺はそう言って戦って死んでいく親友を見送った。なのに肝心なお前がそんなざまでどうするってんだ、おい!」
その叫びを無言で聞くリジュ卿の姿が、カヲルには印象的だった。恐らく、彼個人はクレス・シグルドリーヴァの主張に同調する立場にあるのだろう。だが、当のアランソン候にはそれが届いていない。それは、長い旅の末に辿り着いた故郷が瓦礫の廃墟と化していたに等しい。
「おい、どうしちまったってんだ、アランソン候。何が碇シンジだよ。そんなもん、名前が変わっちまっただけだろう。お前の血肉になってるもんはなんだよ。お前を作り上げきてた言葉はなんだ。誰の背中を見て育ってきた。あいつらじゃねえのか。そりゃ、Ârm de Longinusじゃないのかよ」
「クレスさんには――」
碇シンジは胸倉を掴まれたまま顔を上げ、そしてかつての戦友を睨みつけた。
「クレスさんに何が分かるって言うの。僕が好きだったピュセルは、あんなに酷いことをされて死んでしまった。とっても良い娘だったのに、あんなに良い娘だったのに死んでしまったじゃないか!」
彼はクレス・シグルドリーヴァの手をはね退けると、涙を流しながら叫んだ。
「彼女は王国のために命を賭けて戦った。でも王太子は王冠を戴いた瞬間、用無しとばかりに彼女を切り捨てて殺した。僕は処刑台で炎に包まれて消えていく彼女をその目で見た。でも、何もできなかったんだ。……何が分かるって言うの? 僕が命懸けで想った女の子はもういないんだよ。クレスさんにはリリアさんがいる。でも、もう僕には何も残ってない。なのに多くの人を巻き込んでまでまだ戦えって言うの。僕の気持ちなんて分からないくせに」
「分かるかよ」
だが収まらないのはクレスも同じだった。
「お前には力がある。まだ乙女は救える。俺がお前だったら――殺されたのがリリアだったら、俺は自分の女にそんな仕打ちをしやがった連中を殺しにいくぞ。相手が天使だか神だか知らねえ。監視機構は絶対にぶっ潰す。そして戻って自分の女を救う。魔皇の力を手にしたお前には今、それが出来るだろうが。お前には資格があるから、その力を手に入れたんだ」
広いホールに怒号が響き渡る。誰もが沈黙を以ってそれに聞き入るしかなかった。最大の権利を持つリジュ卿がそうしている以上、他の人間がクレスとシンジとの遣り取りに口を挟める資格はない。
「これは戦争なんだ。必ずどこかで人間は死ぬ。現にロンギヌス隊は死んだ。俺の親友も死んだ。ペドロも死んだ。だから俺は死んでいった奴の誇りのためにも、この戦争を終わらせる。それが兵士、それが騎士だろが。お前がここで戦うのを止めちまったら、自ら礎となると言って死んでいった奴らの誇りはどこに行けば良いんだ。誰も巻き込みたくないだ? 甘ったれたこと言ってんな。みんな、命懸けて戦ってんだ。俺たちは戦争やってんだぞ。それでも駄目だってんなら、お前、あのロンギヌスの剣に向かって言え。お前のために命を賭けていった男たちの前で、もう駄目ですって言ってみろ」
そこで言葉を区切ると、クレスは語気を抑えて静かにも聞こえる口調で続けた。
「――なあ、教えてくれ。アランソン候。それでも戦えないって言うなら、あいつらは何のために命を使ったんだ。ロンギヌス隊だけじゃない。ピュセルもだ。彼女は、お前と求め合えるなら、叶わないもので構わないと言ったそうだ。掴めなくても良いと言ったそうだ。だけど、お前が彼女を求めるのを諦めたら、じゃあ、あの子の思いはどこに行けばいいんだ。ロンギヌス隊の魂はどこにいけばいい。お前にはもう、歌は聞こえねえのかよ」
だが、アランソン候だった男は、覇気と戦う意思を失ったまま俯き応えない。
もうどんな言葉も、戦意を喪失した男には届かない。クレスもそれを悟ったのだろう。誇りを失った目の前の騎士を、蔑んだ目で見下す。
「そんな落ちぶれた姿、ロンギヌス隊の奴らが見たらどう思うかな。――お前」
彼は大きなモーションを取り、その右拳を渾身の力で碇シンジの腹に埋め込んだ。
シンジは身体を折り曲げて、その強烈な一撃を受け止める。喉から苦痛の呻きが漏れた。
「見損なったよ。臆病風に吹かれちまいやがって」
クレスは力を失って寄り掛かってくる相手の身体を突っぱねると、踵を返した。支えを失ったシンジは、その場に膝から崩れ落ちる。
穏やかな部分もあったが、ロンギヌス隊を束ねる者として誇り高く戦場を駆けたアランソン候の姿は、もうそこにはない。殴ったのはクレスだったが、本当の苦痛に顔を歪めていたのはシンジではなく寧ろ彼の方だった。
「腑抜けたアンタに、もう用はねえよ。そうやって一人で悲劇の主人公気取ってな。俺は仲間と一緒に、お前抜きでも監視機構を潰して見せる。少なくとも俺にはまだ、あの歌が聞こえてるからな」
クレスは言い残すと、足早に去っていった。ホールから消え去った彼を、リリア・シグルドリーヴァとインペリアルガードたちが追う。
残された碇シンジは、かつてアランソン候と呼ばれた男は、それでも虚ろな瞳を宙にさ迷わせていた。
SESSION・163
『紅い策謀』
■ドイツ ラインラント=プファルツ州
2018年9月12日 10時17分
惣流アスカは、ある人種にとっての夢の空間に居た。
個人の邸宅に、これだけ大規模な図書室を供えている例はそうあるまい。ふと息をつき、改めて周囲を見渡しながらそう思う。
頭上には四階分の高さをもつ吹き抜けが広がっており、自分の背丈の倍はある書棚が視界の続く限り延々と続いている。古い紙と微かな湿気を帯びたカビの発する匂いは、互いに交じり合い、大型書庫特有の雰囲気を醸し出していた。
ここまでくると、もはや図書室というより図書館と呼ぶべき規模だった。その蔵書量たるや想像もつかない。
近年では見られない、非常に荘厳な装丁が施された古書の類も揃えられており、執事長エーベルハルト曰く「人の皮膚をなめして作った」一七世紀初頭の本も保管されているのだという。
「――きっと、殺人の動機になるような稀少本の類もあるんでしょうね」
「ございます」
アスカの何気ないつぶやきに、歯切れの良い声が返った。
エーベルハルトの佇まいには今日もまったく隙がない。容姿だけなら、アスカも一〇〇人中八〇人ほどから賞賛をもらえるだけの自信がある。が、エーベルハルトについては一〇〇人中一〇五人が「この世でもっとも完璧な執事」に見えると答えるだろう。
アスカからすれば祖父かそれ以上に値する高齢のはずだが、白髪と人生経験を物語る深いしわを除いて、彼は非常に若々しい。動きには無駄がなく洗練されており、あらゆる言動の細部にまで気が張り巡らされている。
「事実、所有権を巡って血の闘争が起こったという逸話を持つものに幾つか心当たりがございます。また、オークションに出せば大変に高価な値のつく資料も保管しておりますので。目には見えませんが、セキュリティにも気を使っているのです」
「分かるわ。 <ネクロノミコン> とかありそうだもん、ここ」
アスカはそうつぶやくと、自分のジョークに小さく笑いながら紅茶のカップを傾けた。
「フラウ、お茶のおかわりはいかがなさいますか」
「そうね。欲しいけど、やめとく」
少し考えてからアスカは答えた。
「日本に帰ったとき、禁断症状がでたら困るでしょう?」
「恐れ入ります」
「それより、ちょっと訊きたいことがあるの。良い?」
口にしながら手元の書籍を視線で示し、その内容に関する質問であることを伝えた。
大雑把にいうならば、当シュトロハイム家の年代記である。
「私にお話できることがあれば」
「まず、現在のシュトロハイム家――というよりグループの業績だけど」
「はい」
「これは非常に良好よね。特に投機、投資取引では巨額の利益を計上してる。チャートを追ってみたけど、これはほとんど超常的ともいえる成果だわ。インサイダーやある種の工作を疑いたくなるくらい」
話しながら相手の反応をうかがうが、流石にこの程で老獪な執事が揺らぐことはないようだった。アスカとしてもこの段階での成果は期待していない。
「シュトロハイム家は、 <エンクィスト財団> なる超国家的カルテルにおいて、古くからコアなポジションを維持してきたみたいじゃない。これを見ると」
年代記を軽くノックするように叩きながら続ける。
「最高幹部会ゼーレだったかしら。それの一席を代々確保しているのなら、各国の市場に大きな影響力を持つことができるのもうなずける。順調すぎる業績にも一応の説明はつくわ。でも、全てに納得がいくわけじゃないのよ」
「と、おっしゃいますと?」
エーベルハルトがはじめて自ら口を開いた。
「シュトロハイム家は異能の血統としても知られてるらしいじゃない。もっとも一族の血に愛されたとも言われてる、現当主セフィロスなんかはその好例ね。私は本来、そういうオカルトは信じないたちだけど、最近いろいろあってね。嫌でもそういうわけの分からない力があるってことは認めざるを得なくなった。――でも、それをひとつ受け入れてしまえば色々なことに説明がつけられるのも事実なのよ」
その言葉は、場にちょっとした沈黙をもたらした。
もちろん老執事は、相手が単に超能力談義を望んでいるわけではないことに気づいているだろう。これは足がかりに過ぎない。それを承知しているが上の沈黙なのである。
「フラウ・ソウリュウ」
しばらくして彼がゆっくりと口を開いた。
「なにをお知りになりたいのですか」
「私が知りたいのはふたつ。ひとつは、セフィロスやJDには近い未来のことをそこそこ正確に予測できる能力があるんじゃないか、という疑問についての答え」
「もうひとつはなんでしょうか」
「もうひとつは父のこと。正確には、ルドルフ・ラングレーを通して私がどの程度の影響力をこの一族に行使できるかを知りたいの」
再び沈黙が訪れた。
騙し合い化かし合いが当然の世界を知る人間にとって、若者らしい直線的な欲求の発露はかえって新鮮に思えるのかもしれない。それはとはまた別の理由があるのかもしれない。
分からないが、やがてエーベルハルトは小さくうなずいた。
「分かりました。ですが、お答えする前に是非ご案内したい場所がございます」
「城内のどこかなの?」
「はい。このお話を続けるに相応しいお部屋かと」
「分かったわ。連れて行って」
椅子を引こうと差し伸べられる手を断り、アスカは立ち上がった。一礼して歩き出した、黒いスーツの背中を追う。
シュトロハイム邸は、多くの人間が「城」と表現するであろう構えと面積とを誇っている。目的地に到達するまで、アスカは執事と五分以上を歩かねばなからなかった。薔薇の咲き乱れる中庭に一度出て、二種類の階段を昇降し、長い通路を何本も経由した。
途中、意図的に複雑化したとしか思えない場所も何度か見受けられた。明らかに侵入者対策である。ネルフのドイツ支部や、身近なところでは一般のTV局などが同様の迷宮化を導入している。
「フラウ、最初のご質問についてですが――」
西側の塔に入ってしばらく、半歩前を行くエーベルハルトが言った。
「確かに、セフィロス様は特別なお方です。事業の大半は、あの方が決められた方針に従い現場の者が進めていきます。そしてその大方が魔法のような成果を収めるのです。フラウは超常的とおっしゃいましたが、傍目にはまさにそのようにも見えるでしょう。しかし、その特別優れた直感のようなものを異能と認識してよいかは、私にお答えすることはできません。凡人に判別できることではないのです」
「まあ、実証は難しいでしょうね」
「しかし、貴女のなさろうとしていることに必要な力はお持ちである。私はそのように思っております」
そう言うと、エーベルハルトがにわかに足を止めた。身体を反転させてアスカと向き合う。彼の右手には、落ち着きのある装飾が施された重厚なドアがあった。金色のノブの上に、特殊な形状をした鍵穴が見える。これを利用せず、力技で扉を破るには恐らく大砲が必要になるだろう。
老執事はスーツのポケットからノブと同じ色の鍵を取り出し、施錠されていた扉を開いた。
「どうぞ、お入り下さい。先代当主ルドルフ様の私室でございます」
「父の――?」
予測はしていたことだが、それでも緊張はあった。踏み出しかけた足が無意識に躊躇する。しかしそれを意思の力で抑え、アスカは執事の横をすり抜けて入室した。
写真を含め彼の姿を見たことはないし、遺品の類も持っていない。間接的にであれ、彼の存在を示すものに触れるのはこれがはじめての経験になる。
部屋内部は面積にこそ非常識な部分があったが、調度品や家具の類はむしろ質素ともいえるもので揃えられたていた。床の大部分を固めの赤い絨毯が覆っており、奥にキングサイズの寝台が見える。すべてがひとつづきになっていて、壁やドア類は見当たらなかった。バスルームにさえ仕切りがない。
「ここが、この家での父の部屋なのね?」振り向いて執事に訊いた。
「はい」
「彼は良くこの部屋を使っていたの?」
「毎夜、このお部屋でお休みでした。それ以外の時間も、ここで過ごされることが多かったように思います」
「――そう」
小さくうなずき、アスカはゆっくりと部屋を歩きはじめた。最初に目に付いたのは、白い大理石で作られた大きな暖炉だった。インテリアではなく、実際に使われていた形跡がある。主人の死後も手入れがされていたらしく、上に並べられた小物には埃ひとつついていなかった。
「あなたも知ってるでしょうけど、両親が離婚したのは私が物心つく前だった。だから、父の記憶って正直あまりないのよ。父について知ってることは全部伝聞による情報なの。その伝聞において、私たち両親の物語はこういうことになってるわ。一緒に生活するうちに、母は父が秘めた危険な思想と野心に気づいた。その合理主義的に過ぎた生き方についていけなくなった。だから別れて、私を連れて第二の祖国である日本にわたった」
装飾品の列を見ながら、アスカは自分が無意識になにを探していたかに気づいた。
写真である。キョウコの――かつての妻のそれか、あるいは幼い日の自分。それがどこかに置かれていないかを見つけようとしていたのだった。
「私さ、ママのこと好きなんだ。贔屓目ぬきにしても、女性として魅力的な生き方をしていると思うのよ。そりゃ結婚には失敗したけどね。だから、そんな女性を捕まえていられなかった父に失望している部分もある。でもさ、顔も覚えてない父親だけど、やっぱり愛されたいっていう願望がどこかにあったのかもね」
エーベルハルトはゆっくりとした動作で入口の扉を閉め、アスカに向かって歩き出した。
ルドルフが健在であった頃、彼はこの部屋を頻繁に訪れていたのだろう。その意味では、何らかの感慨があってもおかしくない。むしろ当然ともいえる。しかし、そうしたものを彼の表情からうかがい知ることはできなかった。
「父が、ドイツで再婚したことは風の噂ってやつで聞いてたの。母もそれらしいことを少しだけ聞かせてくれたことがある。きっと、子供のころの私がしつこく訊いたのね。平静を装ってはいたけど、ちょっと棘のある言葉で彼女が話してたのを覚えてる。お父さんは貴族になったんだって」
だがその再婚相手はすでになく、ルドルフもまた六年前に病死している。少なくとも聞いた話はではそうなっていた。
「ねえ、エーベルハルト。母との結婚生活をあきらめてまで父が欲したものって、結局なんだったのかしらね。エルザ・フォン・シュトロハイムに近づき、この一族の当主となるためだったと私は聞いてる。それはあなたの目から見ても真実?」
「先代がなにをお考えであったのかなど、私のようなものには計りかねないことです。ただ――」
「ただ、なに?」
手にしていた小さなオルゴールを置きながら彼に顔を向けた。
「あなた様がここにおいでになった時、なぜかそのお姿がルドルフ様と重なって見えました。ほんの刹那のことでしたが、確かにそう感じたのを覚えております。フラウ。あなたはなぜ、この城へいらしたのですか」
手元を誤ったのか、置いた瞬間にオルゴールが倒れた。乾いた雑音が静謐を破る。
なぜ、今までそのことに気づかなかったのか。愕然としながら、老人の言葉を受け止めていた。
かつてルドルフ・ラングレーは野心を抱き、目的のための手段としてシュトロハイム家の娘に接近したという。恐らくそこに愛情はなかったはずである。
妻を捨て、娘を捨て、それで彼がなにを目指したのかは、ルドルフ亡きいまはっきりとしたことは分からない。だが、確かなこともある。
「そう……言われてみればその通りね。私は誰にも行き先を告げず、日本に母や友人を残してここに来た。今までの環境を捨て、家庭を捨て、野心を秘めてここに来たの」
それは父とまったく同じ選択であり生き方だった。蔑むことも、憎むこともあったルドルフ・ラングレーとなんら変わりない。
「我ながら滑稽な話よね。所詮、血はあらそえないってことかしら」
「しかし、君は義父とは違います」
その涼やかな声は、何もなかったはずの空間から突然あらわれた。
慌てて視線を向けると、閉じられた扉の側に長身の青年の姿がある。白みがかったブロンドと色の薄い肌は明らかなゲルマン系。女性のように伸びた長い頭髪を背中に流している。
エルザ・フォン・シュトロハイムの実子であり、現当主たる三五代目。セフィロス・フォン・シュトロハイムその人だった。
「君には先がありますからね。先代に成せなかったことにも期待を寄せられる」
扉が開かれればそれと気づいたはずである。
しかし、彼は誰にも気取られることなく部屋の中に入り込んでいた。知らぬ間にドアは開かれていたのか、あるいは何にも触れることなくこの場に現れたのか。相手が彼であれば特定は難しい。
「――お帰りでしたか、セフィロス様」
エーベルハルトが恭しく頭を垂れる。
「会合はいかがでございましたか」
「なかなか刺激的でしたよ。例の親善大使、レヴィテスも一緒でね。JDとはまた違った、素直な意味での人外にあったのは、これがはじめてだ」
「人外って……もしかして、インペリアルガードにあったの」
言いながらある可能性に思い至った。シュトロハイム家は財団最高幹部会ゼーレの一角を担っている。そしてゼーレのメンバーしか、サタナエルが遣わせたというインペリアルガードと接触できる者はない。
「じゃあ、外出ってゼーレの会合だったってわけ?」
「そうですよ」セフィロスが少年のような屈託のない笑顔を見せる。
「老人たちの会談となると、普段は脳が硬化が早まりそうなほど退屈なんですけどね。今日は別だったなあ。こんなことなら、前回も出席しておくべきだった」
彼は世間話をするように言葉を続けたが、内容は驚愕を通り越して恐怖の領域にあるものだった。聞いているうちに自分の顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かる。
セフィロスいわく、前回の幹部会で親善大使レヴィテスははじめて人類の前に姿を現したのだという。そしてある取引を持ちかけ、財団はそれを飲んだ。
要求はサタナエルにとっての危険因子たるネルフの切捨て。見返りはエンディミオンの獲得である。
「今日はね、ブレーメンの本部にレヴィテスが約束のものを届けに来てくれたんですよ。いや、あれは壮観だったな。普段はオンライン会議で立体映像だけ送るんですけどね。今日ばかりは生身の身体で乗り込んだ甲斐があった」
「約束のものって、エンディミオンが届いたっていうの?」
いま、TVのスイッチを入れれば局のほとんどが緊急特番を組んで、ある災害報道を延々と流している。地球に降下し、各国の軍事施設を破壊しまわっている謎の巨人の事件だ。
「ええ。彼女、空間に穴を開けて月から直接運んできたんです。あれだけ大規模な空間歪曲は、JDでもちょっとできないんじゃないかな。もちろん彼女の転送技術も凄かったですけど、あれだけ大きな人型が一八〇体揃うというのも流石に面白い眺めでしたよ」
「ひゃく……エンディミオンが一八〇騎!?」
「そう。今日はじめて見たんですが、あれは興味深いものですね。攻撃目標をプログラムして放てば、勝手に標的を破壊して帰ってくるんです。人型だから非常に汎用的だし、システムもシンプルだから老人たちにも扱いやすい。すぐに緊急会議を開いて、三〇機ほどテスト運用することになりました。あれがソニックブームと大火力兵器を放出しながら世界中を駆け回っている光景を思い浮かべると、極めてユニークな絵になりますね」
セフィロスは軽い足取りで紅い絨毯を横断し、暖炉の側に置かれた安楽椅子に腰を落とした。
彼は先天的な全盲であり普段から両の目蓋を閉じているのだが、そのハンデをまったく感じさせない立ち振る舞いである。
「アスカ。君はなにかしたいことがあるんでしょう」
肘掛に右の頬杖をつき、長い足を組みながら彼が微笑んだ。
「世界の動きは思いのほか速い。行動を起こすなら急いだほうが良いと思いますよ。三〇機のエンディミオン、あれは近日中にでも動きはじめる。悠長に構えていると後手にまわってしまいます」
「――あなたたちは何でもお見通しなのね」
アスカは強張った顔の筋肉を無理に動かし、笑顔らしきものを作った。
「その上でその言葉をくれるということは、私の挑戦に力添えしてくれると解釈していいのかしら?」
「君は義父ルドルフの愛娘だ。血のつながりこそないが、義理の妹が頼ってはるばる日本から来てくれたんだからね。できることはさせてもらいたいと思ってますよ。ただ、詳しいことは是非とも貴女の口から聞かせて欲しいですね。実はここ数日、それを楽しみに待ってたんですよ」
「それは、こちらからお願いしたいくらいだけど……今、ここで?」
資料を漁って試算をたて、プレゼンの準備をし、タイミングを見計らっていた話である。だがこのような形で、しかも向こうからその場が用意されるというのは想定していなかった事態だった。
「大丈夫ですよ。この会話はJDも聞いています。準備はもう整ってるんでしょう?」
「ええ。そうね。じゃあ、ふたりとも聞いてちょうだい。あなたたちの力を貸りたいの」
言葉を捜しながら、乾きはじめた唇を湿らせる。
「財団幹部にこんなこと言うのは釈迦に説法なのかもしれないけど、いま世界では戦争がはじまろうとしているわ。もうはじまっていると言っても良い。TVをつければそのニュースばかりよ。多くの人が、漠然としたものであれ乱世を予感しつつあるはずだわ」
「その戦争が――」
彼が足を組み替えながら言った。
「君がここに来ることになった原因なんですね」
「そう。この戦争は兵士や為政者だけで完結する規模のものじゃない。地球圏規模の、人類すべてを巻き込んだものになるはずなのよ。私のような女子供でも例外なくね。テトラグラマトンを名乗るサタナエルはそれだけの力を持っている。彼がそうするというのなら、人類は確実に死滅の道へと向かっていくでしょう。私は魔皇の力を知ってるの。誰も彼の起こす戦火から逃れることはできない。セフィロス、あなたやJDでもね」
ならば、自分のために戦いたい。それが自分の願いなのだとアスカは続けた。
いやおうなく巻き込まれ戦わずにはいられないなら、自ら立ち上がりたい。
誰かがはじめた誰かのための戦争ではなく、自分の戦争をはじめたい。そのために命をかけたい。そう思う。
「私には幼馴染がいるの。いつも私のうしろをついてきてた、平凡を絵に描いたような男の子。気が弱くて、内罰的で。優しいだけがとり得の、私でなければ誰も特別視しないような子だったわ」
「しかし、彼は変わったんですね」
セフィロスが父親のような笑みを浮かべる。
目蓋は閉じられているが、その下に隠された瞳に射抜かれたような気になった。
「ええ――ある日、突然気づかされたの。あたしが守ってやって、あたしが面倒みてならなきゃと思ってた奴が、気づくとそこにいない。後ろを向いたらもうそこにはいなくて……探すとずっと前にいるの。その隣には、私の知らない女の子が寄り添っていて。彼の全てを知っているつもりだったこれまでの幻想が、瓦解していくのを感じた。突然、これまで経験したこともない焦りを感じた。彼を支えているつもりが、実は彼から支えられていたのかもしれないと思えてくるようになった」
それは恐ろしくもあり、苛立たしくもある現実だった。
自分だけのものだと信じていた玩具を奪われた子供のように。旗を立てた山の頂が、実は砂場の小さな丘に過ぎなかったことを明かされたように。
「彼を弟のようにも、それ以上にも思っていたんですね」
「たぶん……」
それはここの最近、良く考えさせられることだった。
もし碇シンジとの距離感が違ったら、彼との関係に別の形があったのなら、これほど複雑な心理に陥ることはなかったかもしれない。
世話のかかる弟みたいなもんよ。あいつとは単なる腐れ縁――
かつては良く使った表現だ。だが、それだけでないことは歳を重ねるたび理解できるようになった。
自分は恋をしていたのだろうか。
そう思ったこともある。だが、同年代の娘たちが見せるそれを見る限り、彼女たちが語る恋愛感情と自分のそれとには明確な相違があるように思えるのだった。
「いま、あいつはこの戦争と新しい時代の中心にいる。じゃあ私はっていうと、いつの間にかその他大勢の一部になってるの。あいつの起こした波に巻き込まれて、真実も知らずただ流されて終わるだけのその他大勢に」
子供のわがままなのかもしれない。いつも中心にいなければ気がすまない、夢想家の戯言に過ぎないのかもしれない。
だが、そうでない可能性にすべてを賭けて、自分の身体で時代を確かめたかった。
井の中の蛙は大海を知らない。だが、井の蛙がすべからず大海で通用しないわけではない。
たとえ鼻っ柱の高い娘の勘違いであったとしても、挑戦し、失敗し、敗北し、その上で事実を知りたいと思う。もっともらしい正論で、挑戦せずに諦めるのではなく。
「自分の知らないところで人類の行く末を決めるイヴェントをはじめて、限られた人間しか知らないうちに勝手に終わらせようとしている連中がいる。私にはそれが我慢できないの。――私は一七歳の娘。自分の力がどれだけのもので、世界にどれだけ通用するか。試してみたいと思って良い歳でしょ? 戦争がはじまるなら、自分のために戦うわ」
「なるほど。一〇年たてば、あの無邪気だった少女もそんなことを思うようになるんですね」
若き当主は、軽く安楽椅子を揺らしながらつぶやいた。しばらく視線を宙にさまよわせ、何事かを思案するような沈黙を持つ。やがてアスカに顔を向けると、静かに口を開いた。
「それで、君はどんな戦略をたてたの?」
「父の人脈と、母の武器で戦う」
まっすぐにセフィロスを見据えながら答えた。
「具体的には?」
「私の母、惣流キョウコはネルフの技術開発部で要職に就いているの。ネルフの擁するオーヴァテクノロジを現代社会に転用するためのね。その一環として取り組んでいるのが、兵器開発。彼女は今、 <ダンシングドール計画> だとか <GoD計画> だとか呼ばれているものの陣頭指揮をとっていて、そこでいわば人が遠隔操作できるエンディミオンのようなものを作ってるのよ」
「それを拝借するんですね?」
「ええ。母のセキュリティは外部に対しては完璧だけど、内部にいる私には無警戒だった。だから、端末から情報を持ち出すのも難しくなかったわ。 <GoD> がどこで建造されているか、私は正確に把握している。それを手に入れればエンディミオンとも互角に戦えるはずよ。異能者にしか操縦できない、非常識なマシンらしいんだけど――」
「シュトロハイム家には、幸いにもこれ以上ないほどの異能者がいますからね」
「そう。だから、これをお渡ししておくわ」
言いながら、アスカは安楽椅子に歩み寄った。プラスティックケースに収まった光学ディスクをセフィロスに手渡す。
「私が持っている全ての情報と、新型 <GoD> を奪取するまでの計画をまとめた資料よ」
「良いんですか? キョウコさんの端末から持ち出した情報も含まれるんでしょう。シュトロハイム家とはいえ、外部に漏らすとなれば相応のリスクが伴いますよ。君も、君のお母さんも。シュトロハイム家が情報だけ得て、君を放り出す可能性もある」
「――私の持ってるカードはそれだけだもの」肩をすくめながら言った。「計画はあっても、それを推進し得るだけの組織力や資金はない。私がやろうとしていることにあなたやJDの異能は不可欠だし、莫大なお金と労力とを投資してもらうことになるんだから。それを実現させるために、リスクを負うことを躊躇うつもりはないわ」
ノーリスクの戦争などない。戦うと口にすることはそれを認めることだ。
「なるほど」
手元のディスクを面白そうに眺めると、やがてセフィロスは立ち上がった。
「どうやら本気みたいですね。その文脈でリスクを語る場合、抵当に入れられるのは生命だ。君が強調した一七歳の娘では、確かにそうそう固められる覚悟ではない。それに計画自体にも魅力がある」
その言葉が終わらないうち、彼の手からディスクが消えた。文字通り忽然と消失した。が、セフィロスに驚いた様子はない。近くに影のように控えるエーベルハルトも日常的光景であるかのように落ち着きを払っていた。
「今の、あなたが消したの?」
「いや、今のは私じゃありません」
言って、セフィロスが微笑む。
「アスカ、どうやらJDも貴女の話に興味を持ったようですよ」
SESSION・164
『義人ほろぶれども』
■第三新東京市 ジオフロント
2018年9月13日 20時11分
新世紀は眩すぎる。比喩的な表現ではなく、それがカージェス・ド・リジュの素直な感想だった。
中世では、日が暮れると世界は速やかに闇に沈んだものである。光源を得るためには高額のコストが必要であり、多くの人間はそうまでして明かりを求めようという発想を持たなかった。
あの時代は月と星が夜の全てだった。こちらのように道路も整備されていないため、曇りの日に外に出れば命の危険さえあった。
世界に満ち溢れた新世紀の光は、慣れればありがたいものなのだろう。現に、この時代の人間はその光を浴びながら夜遅くまで働き、限られた一日という時間をあますことなく活用している。だが慣れない人間にとっては、太陽光を直視し続けるのとそう変わらないのだった。強すぎる光は時に人をうつむかせてしまう。
孤独はひとにとって恐るべきものだが、ある種の人間はひとりでいる時間を意図的に望むことがある。自分が適度な暗闇を求めるのも、あるいは似た感覚なのかもしれない。リジュ卿はそう自己分析しながら、ジオフロントの森を歩いていた。
これも比喩ではない。案内を断って本部施設を出ると、そこには本物の森林地帯が広がっていた。とても地下だとは思えない光景である。聞けば、しばらく歩くと本部を丸ごと飲み込んでなお足りないほどの巨大な地底湖が見られるらしい。
地の底であるため、頭上をふり仰いでもそこに月や星はない。代わりに見えるのは、天井都市と呼ばれる地上の建築物の群れである。中には信じがたいほどの高さを持った箱型の塔もあった。その塔の狭間の所々に、氷のように透き通った板が張り巡らされており、薄っすらとした人工の明かりが降ってくる。
その光を頼りに、リジュ卿は枝を払いながら進んだ。この時代の人間より、恐らく数倍発達しているであろう夜目を駆使してしばらく歩く。
同じ感覚を持った先客がいたらしい。やがて木々の間から、焚き火特有の黄昏色をした光が見えてきた。近づくと微かに人の話し声も聞こえる。
光に導かれるまま進んでいくと、そこには小さな空白地帯が広がっていた。中央で火が炊かれており、それを取り囲むように並んだ人影がふたつ見える。
ラ・イールとアルテュール・ド・リッシュモン元帥の組合せである。酒を持ち込んでいるのか、距離が縮まるとほのかなアルコールの匂いが鼻腔をくすぐった。
「――やあ、おそろいで」
>
「剣匠カージェスのお出ましだね」
リッシュモン元帥が微笑と一緒に、片手にした盃を軽く掲げてみせる。
「どうした。やっぱり、リジュ卿にも新世紀の光は目に強すぎたか」
ラ・イールがにやりとしながら言った。もともと彼は血色の良い、いわゆる赤ら顔が特徴的な男で、長く戦場を放浪しているとそれを縁取る荒れ果てた赤毛が獅子のたてがみのように見えるようになる。
だが、今宵の赤味は、地の色や火に照らされているからばかりではあるまい。理由と気持ちは、リジュ卿にも強く理解できる。
「考えることは皆同じみたいだな。俺もお邪魔させてもらって良いかい?」
「もちろんだ。やはり、光は黄昏色でないといかん。一杯どうだ。奇妙な世界だが、酒はうまいぞ。完璧に上物だ」
イールが自分の隣をあごで示しながら空の盃に酒を注ぐ。
「ありがたい。お言葉に甘えるよ」
差し出された盃を受け取り、指定の場所に腰を落ち着けた。
椅子の代わりになっているのは真新しい木の切り株だった。恐らくリッシュモン元帥が、自由天使の力を行使して周囲の樹木を加工したものだろう。彼なら巨木でも片手で引っこ抜くであろうし、それを不可視の刃でバターのようにスライスしていくのも難しくはあるまい。
不意にリジュ卿は、リリア・シグルドリーヴァが球状に天使の金色を展開し、その中に水を溜め込んで湯を沸かす光景を思い出した。彼女いわく、球体内部の気圧を極端に下げると、水の沸点も比例して下がるのだという。つまり火に当てずとも水は自然に温まっていき、それを木をくりぬいた桶に注ぎ込めば即席の風呂が数十秒で完成というわけだ。
何十人という人間が時間と手間をかけて行うべき仕事を、異能の天使たちはいつも片手間で済ませてしまう。
「――しかし、こっちに来たら来たでなかなか大変なものだな。休む間もない」
新世紀の酒で軽く舌を湿らせると、リジュ卿は言った。口に含んだワインはスムーズに喉を通り過ぎ、シャンパーニュの景色を彷彿とさせる香りを遅れてもたらしてくれた。微かに熱い感覚が腹の奥から沸きあがってくる。
「こっちの世界では、俺が探り出そうとしていた超国家的な意思の塊が <エンクィスト財団> という衣をまとって具象化されているようだ。なんでも、連中はサタナエルとの取引して、ルーアンで見た例の鉄巨人を手に入れたらしい」
「おう、あのエンドミソンとかいうやつか」
言うと、イールはボトルに直接口をつけて中身を胃に流し込みはじめた。
「正確にはエンディミオンだね」
リッシュモン元帥が訂正し、続けた。
「リジュ卿の仕入れてきた情報は正しい。どうも前回確認された九騎とは文字通りケタ違いの規模で第二波が動き出したようだよ。このぶんだと、当面の敵は彼らということになりそうだね」
リジュ卿の抜け出してきた本部施設の内部は、いま職員たちが蜂の巣を突いたような騒ぎでいる。主要国の軍事力を壊滅状態に追いやった魔物が倍の数で暴れだしたのだ。各支部とも、ネルフは今ほとんどパニック状態だろう。
「ということは、二桁のエンディミオンが?」
「いや、おそらく三桁だと思う」
元帥がさらりと言った。その口調は、ポーカーの自札に三枚のエースが揃った、とでもいうように楽しげだ。
「しばらくの間、ブレーメンの財団本部に事象のプロテクトがかけられていたんだ。恐らくサタナエル本人かインペリアルガードの仕業じゃないかな」
「なんだあ、その事象のプロテクトってのは?」
イールが黒魔術の呪文を聞きでもしたように片眉を吊り上げる。
「そうだねえ……仮にこの世の出来事が、全て本の中の出来事であったとしてみよう。そしてブレーメンで起こったことは、ブレーメンに赴いてそこに置かれた本を読まねば分からないとする。ここまでは良いかい?」
リジュ卿はうなずきながら言った。「結構」
「つまり事象のプロテクトとは、その本にかけられた鍵のようなものなんだ。本を開けなくして、ブレーメンで何が起こったのかを分からなくする効果がある」
鍵なんかかけなくても、人間は元々読める範囲がかぎられてるんだけどね。そう言って、元帥は皮肉に口の端を歪める。
「つまり、俺たち人間は、離れた場所の本を読むことは基本的にできないし、内容についても限定的にしか目を通せない、と」
「そういうことだね。インクがかすれていたり、仮名遣いや言葉の用法が違ったりして古文書を読むことが難しいように、過去の記事を正確には読み解くことはできない。これから書かれる未来の記事についても同様のことが言える」
「なるほど」イールは杯の酒を一気に飲み下すと、唇を手首で拭いながら言った。「俺たちは過去にあったことを詳しく知ることは不可能だし、未来を知ることもできない。完璧に当然のことだな」
深く息をつくと、既にできあがりかけている彼は豪快に笑う。
「しかし、使徒を超える能力を持っていれば、その本を自由に読むことができるのさ」
ここからが本題、と言わんばかりに自由天使はすっと目を細めた。
「ブレーメンに行かずともブレーメンに置かれた本に目を通せるし、魔皇クラスになれば各地の本を複数同時に捲っていくことも、膨大な記事を一瞬で読み通すこともおそらくは可能だろう。また過去や未来の記事についても正確に読み通し、場合によっては編集することさえできるはずさ」
「ピュセルがアランソン候をこっちに送り込んだのも、その理屈で言えば一種の編集なんだな」
リジュ卿は手にした盃を空にし、自らボトルを傾けて再びワインで満たした。先ほどの返杯がわりにラ・イールの盃にも同様に注ぎこむ。焚き火の周囲には、既に空になったボトルが四本ほど放り出されていた。
「人間は、間接的になら本を読みにくくすることは可能だ」リッシュモン元帥が言った。「しかし、直接的に事象を操作することはできない。それをやったということは、超使徒級の何者かがブレーメンで暗躍していたということになるだろうね」
それが恐らく、レヴィテスだというのだろう。財団に接触してエンディミオンを渡した時に、その事実の漏洩を防ぐためにプロテクトをかけていたのだ。
「俺には良く分からんが、元帥たちには特別な力があるんだろう。そのプロテクトとやらは破れんのか?」
言いたいことだけ言うと、あとは存ぜぬとばかりにイールは酒を飲みはじめた。豪快に杯を傾け、口の端から零れるのも構わず美味そうに喉を鳴らす。
「何事にも得手不得手はあるものさ。同じインペリアルガードでも、ガルムはそういう繊細な作業はあまり得意ではないようだ。だが、戦闘力で彼女に劣るブリュンヒルドは、ガルムより遥かにその手のやり取りに向いているらしい。僕も割と得意な方ではあるよ。使徒の中では三指に入るくらいは豪語しても良いくらいさ。でも、レヴィテスのプロテクトは非常に厄介でね。魔皇ヘルやカオスに頼んだ方が確実だと思うよ」
「だが、それはあちらも承知しているはずだ」
リジュ卿が指摘した。
「その通り、承知しているだろうね。さらに言うなら、障壁を破らずとも、事象に関与した人間にアクセスして情報を抜き出せば、そこであった出来事をかなり正確に再構築できる。そちらの方が手っ取り早い。もちろん、それを読んで人間にダミィの記憶を噛ませておくというのは基本的な防衛策なんだけど」
「話を聞く限り、レヴィテスが本当に自分の動きを隠そうとしていたとは思えないな」
リジュ卿は顎の無精ひげを撫でながら言った。自覚している癖のひとつである。
「むしろ、プロテクトをかけることで事象を目立たせ、こちらの意識を引こうとしているように見える」
自由天使は不敵な笑みで返した。「僕もそう思うよ」
「そんなことはどうでも良いだろうがよ」
突然、聞こえてきた声が場の空気を引き裂いた。
同日同時刻
■ジオフロント 地底湖西岸
クレス・シグルドリーヴァは、足元の石を蹴り飛ばした。
人外の力で押し出されたそれは、直径一・五キロの地底湖を切り裂くようにして遠ざかっていく。
クレスが持つ使徒の視力は、湖面を三分の二ほど縦断した地点で、石が粉々に飛散して消えていくのを捉えた。
湖が、突然の暴挙に抗議するかのごとく波打つ。地表から差し込んでくる薄光は、舞い上がった飛沫に乱反射して輝く粉雪のように見えた。
「そんなに力入れてねえだろ。砕けるほどのことかよ」
その呆気ないほどの脆さと儚さに、苛立ちをこらえきれない。クレスは舌打ちして湖面から目を逸らした。
「どいつもこいつも、こうも簡単に」
地を踏み抜くような足取りで、クレスは明かりの見える方へ歩き出した。ジオフロント中心部に構えられたネルフ本部ではない。湖の畔で黄昏色に揺らめく、原始的な焚き火の光だ。
「なあ、どうしてこうなったんだ。あいつはどうしちまったんだよ、リリア」
そちらを向かず、クレスは黙ってあとを追ってくる気配へ問う。
「人間には、悪いことが重なって襲ってくるよう感じることがあるのだとか。アランソン候は今、そういう思いに捕らわれているのでしょう」
「確かに、ピュセルのことはこたえるだろうよ。候にとってあの子を失うってのは、俺がリリアを亡くすのと同じことだ」
だが、それでも――という思いが消せない。
近づく前から察知できていたことだが、焚き火を囲んでいるのは三人の男たちだった。もちろん、新世紀の人間であろうはずがない。
カージェス・ド・リジュ卿、ラ・イール、そしてアルテュール・ド・リッシュモン元帥。
彼らは熱心に話し込みながら酒を酌み交わし、揺らめく炎をどこか遠い目で見つめていた。中世で各地を転戦していた頃を思い起こさせる光景だった。主観時間としてはそう遠い出来事ではないはずだが、なぜか今は懐かしく感じられる時代だ。
クレスの聴覚は、先程から彼らの会話の内容を仔細漏らさずとらえている。意識して避けているのか、或いはそこに至るまでの探り合いなのか、肝心な話題に触れられていない。そのことが苛立たしかった。
「そんなことはどうでも良いだろうがよ」
クレスは荒い足取りもそのままに、輪の中へ切り込んだ。足元に転がった酒瓶を蹴り飛ばし、自分の場所を空ける。睥睨するように戦友たちを見回し、怒声を浴びせかけた。
「お前ら本当にそんな話がしたいってのか? 俺たちが本当に考えなきゃいけないのはそんなことか」
クレスが隣に腰を落とすと、イールは無言でエール酒のグラスを差し出してきた。ひったくるように受け取り、引っ被るようにして呷《あお》る。口から溢れた分を拳の甲で拭うまで一連の動作は、もう肉体に染み込んだ馴染みの儀式だった。
「ねえ、クレス。それって美味しいの?」
斜め上から降ってきた幼い声に、クレスは顎を上げた。見えない椅子に腰掛けているかのように、戦乙女クリームヒルトがそこには浮かんでいる。重力に縛られない彼ら超越者に、上下の概念はほとんど無いに等しいのだろう。
「飲んでみろよ」
底の方に微量の酒が残っているのを確認し、クレスは彼女に杯を渡してやる。クリムはそれを不思議そうに受け取り、だが躊躇いなく口にした。
「嫌いじゃないけど……変な味」
「そうかい」
その間も男たちは、クリムに何ら関心を寄せず黙々とアルコールを胃袋に流し込み続けていた。陽気に甲冑を着せたようなラ・イールさえ例外ではない。
その場に漂う空気の重さに気づいたのか、クリムは一同の顔をぐるりと見回すと、退屈そうに嘆息した。
「私、ちょっとその辺ぶらついてくるね。ブリュン、行こ」
「いえ、私は――」
戦乙女の寡黙な片割れは、最後まで言い切ることを許されなかった。クリームヒルトがその腕を強引に取り、引っ張りはじめたからだ。
「良いから行こうよう」
体格差からは考えられないが、幼児体型をしたクリームヒルトの膂力は、成熟した女性体のブリュンヒルドを遥かに凌ぐらしい。引っこ抜かれたブリュンは、そのままジオフロントの森林地帯上空へと連行されていった。そして、静けさが戻る。
「新世紀《こっち》の酒はお上品だな」
赤鬼さながらの容貌となったイールがつぶやいた。ガントレットのように太い指の中で、酒瓶がやけに小さく見える。酒はまわっているが、目は少しも酔えていない。だがそれは、こちらの酒が上品であるからでも、彼が酒豪であるからでもなかった。
「もう、故郷が懐かしくなったのかい?」
リッシュモン元帥が言った。
「そんなんじゃない」イールはうつむく。「でも、俺は完璧にひと暴れするつもりだった。アランソン候やピュセルとの戦は面白かった。あの続きがここでできると思ってた。クレスの言うとおりだ。それが問題なんだ」
「それが、当のアランソン候があのザマじゃ……ってか」
クレスの冷かしに、イールは答えなかった。代わりに酒瓶を持ち上げてラッパ飲みしはじめる。
「確かに、中世組なんて言われてる我々は、アランソン候をどこか旗印として見ていた部分がある。誰が言い出したわけでもなく、彼とピュセルは象徴として見られていた。その彼が折れてしまったのでは、士気も落ちるだろうね」
穏やかな口調でいうと、元帥はゆっくりと右隣に視線を向けた。
「それをもっとも痛感しているのは、リジュ卿。あなたであるはずだ。今のアランソン候の状態だと、あなたも戦えないでしょう。どうするつもりです?」
「なにも」
しばらく揺れ踊る炎を見つめていたリジュ卿は、やがてぽつりと言った。
「運び物はもう手渡しましたからね。その時点で、俺の仕事は終わってる。あとは、なるようにしかならない」
「ほう――」
「俺は信じて待つだけですよ、元帥」
リジュ卿のいう運び物とは、最後の戦場に向かうあたり、一種の形見としてロンギヌス隊が鍛えた長剣である。
その刀身には、アランソン候が二代にわたって研究してきたゲルマン由来の呪的文字――失われたフレサクで全隊員の名が刻まれている。
エイモス・クルトキュイスに頼まれ、リジュ卿が新世紀に運んできたものだった。
「あの腑抜け具合を見ると、何を渡そうがそうそう簡単には復活しちゃくれなさそうだがな」
クレスは足元に転がった小枝を拾い、焚き火の中に放り込んだ。
燃えはじめた枝が乾いた音と共に爆ぜる。その瞬間、閃きが走った。
「そうだ。今のリリアなら、人間の怪我を癒したり病気を治したりなんてこともできるんじゃないのか?」
「魔皇に可能か、という意味でしたらその通りです」彼女はあっさりと認めた。「できるでしょうね」
「だったら、あれだ。聞いた話じゃ、アランソン候のこっちの世界での母親がエンディミオンとかいうのと戦って、意識不明の重体になってるんだろ。他にも知り合いが何人かやられたらしいし、そいつらを治してやれば、あいつもちっとは元気になるんじゃないか」
「ちょっと待て。それどころかひょっとして、死んだやつまで生き返らせられるんじゃないのか?」
ラ・イールが思わず腰を浮かせるほどの勢いで、体ごと顔をあげる。これにはリッシュモン伯もすぐに同調した。
「死者の復活かい? それは僕としても興味があるな」
「その気になれば死者の蘇生も確かに可能ではあります」
事も無げに言った直後、リリアは男たちの期待と希望を即座に切り捨てた。
「ですが人間に限っては無理ですね」
「おいおい」リジュ卿が皮肉に唇を歪める。「まさか君に限って、人間の命は特別尊いだとか言い出したりしないだろうな」
「それこそまさかですよ。人間だけ無理だというのは、ホモ・サピエンスに <ルシュフェル> のコアが溶け込んでいるせいです」
「つまり、純粋に技術的な問題だと?」
元帥が確認を取るように問う。リリアはうなずいた。
「クレスあたりはもう忘れていそうですが、かつて魔皇三体――すなわち現在のヘル、カオス、サタナエルはもともと一体の神性だったのです」
「ああ、なんかそんな話だったな」
クレスは言った。さすがに忘れてはいなかったが、特に意識することもなくなっていた情報ではある。
「あれだろ。監視機構を構成する神々の一角だったけど、離反して他の四神と戦いになったとかいう」
「そうです。 <ルシュフェル> は監視機構に挑み、破れ、神性の中枢ともいうべき核を抜かれて封じられました。奪われた核は砕かれた上で、人類の魂と融合させる形で隠された。人間の数が増える度に核は細分化され、世代交代が進むごとに断片化されていったというわけです」
「なるほど」リッシュモン元帥が首肯する。「つまり、人間の魂に溶け込んだ <ルシュフェル> の核が、やっかいな変数となって事をややこしくしているわけだね? だから、人間の命や魂は他の生物のそれほど簡単には扱えない」
「そういうことです」
「どちらにしても、候は治癒や死者の復活など望まないだろう」
リジュ卿の独りごつような声が、場に静けさをもたらした。
「そうかもな」
少し考え、クレスは認めた。
未だに実感がわかないせいで失念しかけていたが、アランソン候は魔皇ヘルと一体化し、その力を得ているのだった。
彼がその気なら、母親や友人知人たちの治癒など当に行われているだろう。自らがルーアンで暴走した際、死傷させてしまった人々を復元していることだろう。
何より、さっさと殺されたラ・ピュセルを復活させるための準備をするだろう。
だが、彼はそうしていないのだ。
「分かるような気がするよ、そこは」
クレスは再び、手頃な小枝を摘みあげた。しばらく手の中で弄んだ後、無造作に火中へ投げ込む。
「人外になっちまったからには、もう歳食うこともないし、普通にやってりゃ死ぬこともねえ。剣も矢も、島ごと吹っ飛ばすような爆発でも傷ひとつ負うことはない。その気になれば何でもできるし、人間なんて簡単にどうとでもできる」
だから、自分の中で一線を引かなければならないのだ。
それでも自分はヒトなのだと主張するために、基準を設けなければならない。このラインだけは踏み越えないと誓い、そのルールを遵守する。そうすることで、自らの中に残った人間性にしがみつく。
それが、最後に残された心のよりどころなのだ。
もう人間として生きることができなくなった化物の、唯一の慰めなのである。
「何より、それはあいつらを冒涜することになるもんな」
そうだ。ロンギヌス隊は、自ら望んで生命を行使したのだ。そのことを理解し、納得し、自分の意思で選択した上で、あの結果を受け入れたのだ。その彼らを魔法のように蘇らせるのは、彼らのそうした意思や矜持を汚すことにもなりかねない。
少なくともクレスの知るロンギヌス隊の友人は、激怒するに違いなかった。
「しかし、クレスじゃないが、これから本当にどうするんだ? 俺たちが完璧に知ってる男のアランソン候は、もう頼れないかもしれないぞ。かわりに、あの女のアランソン候を使うのか?」
ラ・イールが、ふと思い出したといった口調でつぶやいた。
「あいつはアランソン候にとりついた悪魔なんだろう? それで、すごい力を持ってる。アランソン候本人が駄目でも戦力になるんじゃないか」
言葉が終わる前から、クレスは話にならないとばかりに首を左右に振りはじめていた。
「それで監視機構は倒せるとして、ピュセルのことはどうなる? この戦いは単に敵を倒しゃ良いってもんじゃないんだよ。全部片付いたあと、そこになにが残ってるかが大事なんだ」
「確かにな」リジュ卿はうなずき、リリアに顔を向けた。
「この件、貴女はどのように見ている?」
「あまり興味がないですね。アランソン候のことなら心配ないと思いますから」
「心配ない?」
「ええ。まあそれを別にしても、最悪でも魔皇ヘルが戦力として計算できるならアランソン候の状態はあまり大きな問題ではないでしょう。その点においてはラ・イールの言うとおりだと思っています。私はアランソン候にもピュセルにも特別な興味はありませんから。クレスの理屈でいえば、監視機構に勝利して、そのあと私とこの人とが残っていれば何も言うことはありません」
「なるほどね」
あまりの言いぶりに思わず苦笑がもれた。あるいは腹を立てるべきなのかもしれないが、反面、純粋な人類ではない人間の考え方としてそれは至極真っ当なもののようにも思える。
「一方で、このままアランソン候に退場されてもそれはそれで困ると考えています」
「ほう。それは何故だろう?」
思ってもいなかった発言に少し驚かされながら問い返す。
「クレスにとってベストな道ではないですから」
「どういうことだ」
自分の名があげられたことに反応して、本人が顔をあげる。
「確かに、アランソン候の腑抜けっぷりにはトサカにきてるけどな。俺個人に不都合なんてないよ。あいつがどうあれ、俺は俺のやりたいことをやる」
「ですが、このままでは友人をひとり失うことになりますよ」
その言葉にクレスは思わず口をつぐむ。
ややあって、顔を上げて訊いた。
「リリア、アランソン候がいまどこにいるか分かるか」
「ええ、近くにいます。本部の外――ここから東に七〇〇歩ほどの地点ですね」
言われた方に意識を向けると、確かにそれらしい気配はある。人外の力を持つといってもキャリアの浅いクレスにとって、こういった作業にはまだ熟練者の補助が必要だった。
「この辺はずっと森林地帯なんだろう。そんなとこでなにをやってるんだ?」
続く「誰かと一緒なのか」という確認に、リリア・シグリドリーヴァは予想通り首を横にふった。クレスが感じる気配も周囲にひとつしかない。
「ひとりです。ガルムも連れていません。話にあった剣を持って、地底湖の方に向かって歩行移動していますね」
「剣を抱いて入水なんてことを考えてんじゃないだろうな」
「まさか」ラ・イールが水を払う犬のように頬を震わせた。「内気なやつだったが、俺の知ってるアランソン候はそこまでヤワじゃなかったぞ」
「――今、アランソン候を介さずにヘルと話しました」
まったくそんな素振りを見せなかったリリアが突然言う。
「アランソン候のことについては心配無用、といっています」
「心配無用……どういうことだ」
リジュ卿が思わず身を乗り出した。
「彼女がなぜ未だ彼に憑依しているのかを考えれば自明の理です。ヘルはアランソン候に魔皇の力を使わせたいんですよ。万全な精神状態において」
それでクレスは思い至る。リジュ卿も同じらしい。
「オーヴァドライヴか」
「そう。ロンギヌス隊は人間でありながら使徒を超える能力を見せた。ならば、人間に魔皇の力をオーヴァドライヴさせたらなにが起こるか。それを見たがっているヘルこそ、アランソン候の再起を一番望んでいるんです」
「それは良いとして、心配無用ってのはどういうことなんだ?」
クレスは小首を捻りながら問う。
「冥帝からすれば、アランソン候を乗っ取るのも今なら簡単なことさ。なのにそうせず、彼を生かしておいている。その冥帝が候の今の状態を看過しておくはずはない、ということさ」
見かねたようにリッシュモン元帥が助け舟を出す。。
その言葉にクレスは打たれたように顔をあげ、「じゃあ――」と口走りながらリリア・シグルドリーヴァに視線を向けた。彼女が、ゆっくりとそれにうなずいて答える。
「そう。ヘルは、アランソン候にロンギヌス隊の最後の戦いを見せると言っています」
SESSION・165
『目覚めよと呼ぶ歌が聞こえ』
見せたいものがある。ひとりであったほうがいいだろう――
そういって誘い出されたのは、本当に突然のことだった。
碇シンジは導かれるままピラミッド型の本部施設を出ると、地底湖に向かって森の中に分け入った。職員が散歩がてら歩くことがあるらしく、本部周辺の森林地帯には部分的に人の手が入れられており、歩行に支障はない。シンジが歩いているのも彼らによって整備された道だった。
ジオフロントの直径は六キロ。その中心部に構えられた本部施設から一〇分も歩くと、あっさり湖に出た。
一見した限り、それは海と見分けがつかない規模を誇っていた。どうやっても持ち込んだのか遠くに軍艦が浮かんでいるのが見える。鏡のような黒い湖面は、視界の奥で夜の闇に溶け込んで一体化していた。虫の鳴き声ひとつない、時の止まったような静けさがそこにはある。
「もうこれ以上は進めないよ。どこまで歩けばいいのさ」
疲れがあるわけではない。魔皇の力が供給されているのか身体は羽のように軽かったし、暗がりの中でも昼間のように物が見える。
だが、どれだけ異能の力があっても人から絶望を払うことはできないのだ。人間の中で生きるなら、必ずどこかに力では決して解決することのできない何かは残り続ける。
第一、今になって力を得て何になるというのだろう。心底そう思えた。必要なときそばになく、全てを失ってから嘲笑うように現れる。いまでは、力という概念そのものが滑稽に見えた。
もうなにも考えたくない。なにもしたくない。電池が切れたおもちゃのように、このまま静かに動きを止め終わることのない眠りにつきたい。
「僕はもう抜け殻だ。本当の僕はずっと昔、ピュセルと一緒に燃えて灰になってたんだ。六百年前、僕は自然の理に従って死んでいるべきだっんだ。こんな時代をうろついていい存在じゃなかったんだよ」
それに気づかず、空っぽのまま十何年かにわたって稼動してきた。だが、それももう限界に近い。否、すでに限界など超えていた。
「僕はこれ以上耐えられそうにない。終わりにしたいんだ、全部」
――ならば、終わらせれば良い。
そんな声が脳裏に直接響き聞こえた。
手にした剣を抜け。終わりにするのなら、それで胸を突けば全てが片付くだろう。
「そんなことしても無駄なんだろ。傷がついてもあなたの力が身体を勝手に治してしまう。死にたくても死ぬことすらできない。人間として当たり前の自由すら僕にはないんだ……」
無気力にそう答える。もう声を出すことすら面倒に思えた。
だがそれでも、見えざる声の主は言う。
抜け、候。
あくまで平坦なその口調が癇に障った。唐突に、自分でも不思議なほど大きな憤りが胸にわいてくる。
「なんだよ、無駄だって言ってるじゃないか! これ以上、僕になにをやらせたいんだよ」
そんなに身体を傷つけさせたいのなら、そうしてやる。抜け殻の身体を血みどろの肉片に変えてやる。そんな、狂気にも似た衝動に襲われた。
自棄ともまた違う。それは恐らく、自己への憎悪によってもたらされた激情だった。
痛みなど恐ろしくない。ピュセルは丸太にくくりつけられ、生きたまま炎で焼かれていったのだ。彼女の苦しみに比べたら――それを、ただ見ていることしかできなかったあの時の痛みに比べれば、肉体の苦痛など何ほどのこともない。
シンジは手にしていた剣の鞘を力任せに掴み、引っこ抜くように投げ捨てた。
瞬間的に人外の力が解放されたのか、鞘はかまいたちのように周囲の樹木を切り裂きながら恐るべき速度で消えていく。
知ったことではなかった。なにがどうなろうと知ったことではない。
シンジは構わず剥き出しになった剣に目を向けた。日本刀のようにゆるやかな湾曲を持つが、刃の幅は広く大きく、そして分厚い。天井都市からの明かりを浴びてその刀身が青白い光を放った。破壊的衝動を更に駆り立てる輝きである。
柄を両手で握って上段に振り上げると、頭上で逆手に持ち上げた。
自分の中にいる冥府の女帝が、その光景を静かに眺めているのが分かった。
良く見ておけ。貴女がたきつけたんだ。呼びかけ、両手に力を込める。もしかしたら口元には笑みさえ浮かんでいたかもしれない。だとしたら、それは狂気そのものがもたらしたものだろう。自分が壊れかけていることはとっくに気づいていた。
なぜ、もっと早くこうしなかったのか。今となっては大いなる疑問だった。
半身を失うことがこんなに辛いとは思わなかった。これほどまでに苦しいとは。
こんな思いをするくらいなら、転生などしたくなかったと心から思う。素直に生を閉じ、彼女と共に死にたかった。
――だが、今からでも遅くない。彼女のところに行く方法は実に簡単だったのである。いつでも、すぐにでも実行に移せる手段が目の前にあったのだ。
脳裏に彼女の相貌を思い浮かべた。その名を唱える。今、会いに行くからと呼びかけた。想像の中の彼女は目に涙を溜めていたが、自分が側に行けば微笑ませることができると思った。
その時が待ちきれない。
シンジは深く息を吸って、タイミングを計った。胸に限界まで空気を溜め込むと、一気にそれを開放する。
異変が起こったのは、刃を振り下ろそうとしたまさにその瞬間だった。
鈴振るような音が聞こえたかと思うと、自ら身をよじりでもしたかのように手の中の柄が暴れだす。体勢が狂い、振り下ろしかけた腕が途中で止まる。
なにが起きたのか理解できなかった。
あるいは冥帝が介入してきたのかとも思ったが、感覚が明確に違う。
狼狽しながら目をしばたいた時、青白く光る刀身に刻まれた文字に気づいた。
――ノトス。
それがなんであるかは知っていた。石版や樹木など、硬いものに彫り込むことを前提とし、そのために最適・特化された直線のみで構成される特殊文字。北欧で発達した古のルーネ。それは失われたフレサクだった。
その意味するところが頭のなかで形作られたと同時、陽気な笑みを浮かべる甲冑姿の若者が幻となって過ぎっていった。
自分に突き立てようとしていたものであることも忘れ、刃に寄せられた文字を読む。
なぜ今になるまで気づかなかったのか不思議に思えるほど、そこには細かな文字がびっしりと並んでいた。
ノトス、ジャックマン、ルイ、シモン、ジャンヌ、エイモス、オーヴィエット、モルターニュ、ジャン、ルイ、ポルトス、クリストフ、ランス、カージェス、レオン、フィリップ……
それは名だった。
かつて公領アランソンに集い、その大望のため命をかけた英雄たち。ジャン・ダランソン二世直属守護騎士団、ロンギヌス隊の顔ぶれだった。
その名をひとつ読みあげていく度、鈴の鳴るような音と共に思い出す。
父親のような微笑を湛える老人がいた。甲冑をまとい、互いに肩を組み合って笑う若者がいた。背丈ほどもある長弓を手にしたうら若き娘たちがいた。
あの時代、あの場所――彼らは確かにいた。
遠征の日々は、必ず彼らと巨大な焚火を囲んだ。打ち合わされる木製のジョッキと、衝撃で上がるエール酒の飛沫を覚えている。
そこには肉汁したたる焼き上がりの腿肉を、子供のように奪い合う隊員たちの姿があった。上着を脱ぎ捨てて奇妙な舞を見せる、まだあどけない顔の騎士がいた。それを皆と、涙を流し、笑い転げながら見たことを、まだ覚えている。
はじめて出た戦場。槍を腰だめに構え、そのまま震えて動けなかったあの日。自分を守る戦士たちの輪を覚えている。盾のように、巨大な城壁のように聳え立つあの大きな背中を覚えている。
掲げ合わされる剣の群れ。異国の兵士と酌み交わす若き日の師。巨大な槍を自分の腕のごとく自在に振り回す戦士。白兵距離でも弓を用い、巨漢の群れを圧倒する男装の女丈夫。
部下であり、だが師であり友人であり、壁でもあった人々である。
様々な顔、様々な光景が鮮やかに蘇っては、小さく青白い蛍光と姿を変えて周囲を漂い踊った。
マリ、ギヨーム、レティシア、ブントー、アクセル、ピエール、トマス、ジョアン、レジイヌ、テレサ、コレット、ロベール、エモン、ウィリアム、マシューズ。
――そして最後に、四〇の名に囲まれるように刻まれた、一際大きな文字が目に入った。
刀身の中心部に刻まれたそれは、「いとかたきもの」と読めた。
いと、かたきもの。
その言葉から真っ先に連想されるのは、 <硬い切っ先> 、 <硬い稲妻> などといった意味を持つとされる長剣である。古の円卓王が腰にしたという、伝説の中の存在だ。
だが、違う。今、この手にある剣が謳う「かたさ」とは、単に刃の硬度を語っているのではない。
その言葉の意味するところを意識のどこかが理解しはじめた瞬間、シンジは背後に金属の摩擦音を聞いた。
思わず身体が硬直しかけたのは、それが懐かしさすら覚える、耳に慣れ親しんだ音だったからだった。傷だらけの甲冑が、関節部分をこすりあわせた時に生じる独特の音色である。
だがそれは、遠い記憶の中だけに眠る、この新世紀では鳴り得ないものでもあるはずだった。
確かめようとふり返った瞬間、シンジはいきなり行軍の中心に置かれていた。
なにが起こったのか理解できない。いつそこに放り込まれたのかも分からない。なにも分からないまま、突如として現れた兵士の群れに揉まれ、シンジは急流にのまれた木の葉のように翻弄されていた。一瞬にして方向感覚が狂い、自分の身体がどうなっているのかすら認識するのが困難になる。
もう、自ら割腹しようとしていたことなど忘れていた。手放してしまわないよう、剣の柄を握り締めて、嵐に飲まれた小動物のようにただ静けさが戻るのを待つ。
騎士たちの行軍は長くも短くもあった。
薄く開いた目から覗き見た彼らは、真ん中から捻じ曲がった剣、折れた槍をもった不可思議な集団だった。その距離は息遣いが聞こえるほど近く、時に肩をぶつけられるほどであったが、存在を感知していないのか、彼らはシンジに一度も目をくれることなく歩み去っていく。
「――良いか、お前たち」
最後尾が通り過ぎてしばらく、ようやく周囲を見渡して状況確認する余裕が生まれた時、先頭を歩いていた白髪の老騎士が良く通る声を響かせた。
とはいえ、隊の歩みそのものは止まらない。舞い上がる土煙と踏み荒らされた草が、懐かしい匂いとなってシンジの鼻孔をついた。
「今この時代には、若君の助けとなれる力を持った同志がおられる。これからの天使との戦いに大いなる力となる強き兵士たちだ。今回の我々の仕事は、彼らを新世紀まで送り届けることにある。これはロンギヌス隊にしかできない、ロンギヌス隊にならできる仕事だ。良いか、今ここで先に彼らに恩返しできることを光栄に思え」
そう言うと老騎士は全軍停止を命じ、背後に首を向けた。その視線の先、生い茂る木立の隙間に鈍く銀色に光る何かが見える。
目が慣れれば、それは分厚い鋼の皮膚をまとった巨人だった。
この世のものとは思えない威容の大群が、人間の騎士隊を待ち受けているのである。
「元帥閣下の計算に寄れば、我々の心力で <天使の金色> を生み出せるのは、心臓が七度打つ間のみである。この七拍のうちに、我ら三九名は鋼鉄の傀儡一五六、天使五、総計一六〇体からなる敵大隊を完全殲滅する。わずかでも迷えば突破されるぞ。心して掛かれ。良いな!」
「――応!」
素早く円陣を組んだ兵士たちが声を重ねた。
驚くべきことに、彼らの中には若い女性の姿も見られた。いずれも完全武装し、もう一枚の皮膚のように重たい甲冑を着こなしている。全てが信じがたい光景であり、だが見慣れた光景でもあった。
「我等が剣は未来のために。アランソンの明日のために。遥かのために。アランソンに集いし四〇の精鋭達よ、未来は見えているか」
騎士たちの声が綺麗に重なる。息が合うのも不思議はない。戦に出ようという時、必ずそれは繰り返されてきた。彼らにとって既に当たり前の儀式なのだ。
彼らだけではない。シンジはそのことに愕然としながら気づいた。
そして思い出す。なにをおいても、彼らのその問いを発してきたのは自分だった。この手に剣を握り、彼らに問うた。馬上から何度も言葉を投げた。
我が元に集いし四〇の精鋭達よ、未来は見えているか――
それは、ジャン・ダランソンが追い求めた命題そのものなだった。
なぜ、忘れていたのだろう。どうして思い出せなかったのだろう。
「これが最後の御奉公ぞ!」
響き渡ったその声にシンジはうつむけていた顔を上げた。
麻痺していた頭がようやく状況を理解する。
あいつらは俺たちを新世紀に送りこむために戦ってくれた。そして命と引き換えに、使徒五体、天使の傀儡一五〇体余を斬り倒した。
そんな話を聞かされたのは、そう遠いことではない。
天使の傀儡――虚ろなまま聞いていた時は理解できなかったが、それは今、視線の向こうで蠢いている銀色の巨人たちなのではないのか。
これからはじまろうとしているのは、まさにロンギヌス隊の最後の戦いなのではないのか。
実感を伴わなかった遠い話が、にわかに実像を帯びていく。それは瞬時に、友人であり兄であり、かけがえのない同胞であった人たちを失ってしまうという、たとえようもない焦燥感と絶望とに姿を変えた。
「待っ――」
彼らの背に手を伸ばしかけるも、それをかき消すような叫び声が周囲に木霊する。
「ロンギヌス隊、突撃!」
号令と同時、逆三角形に配置された陣が生命を与えられたように動きはじめた。
先陣を切るのは折れ曲がった長剣を手にする、一〇人ばかりの歩兵隊。彼らは鋼の騎兵団に向けて、無策とも思える怒涛の突進を開始した。爪先が大地をえぐり、雄たけびは戦場の空気を張り揺らす。
こうなると何人の声も彼らには届かない。アランソン候はかつての経験から嫌というほどそのことを知っていた。
それでも駆け出さずにはいられなかった。なにより、自分にはこの光景を見届ける義務がある。
最後の奉公。彼らが口にしたそれが誰のためのものか。彼らが何のために戦おうとしているのか。それは悲しいほど自明のことだった。
そして、なぜこれが最後となり得るかも。
この場合、彼我の戦力差である一五六対三九は数字以上の意味を持つ。それは、かつて戦死者をひとりとして生まなかったロンギヌス隊が、覚悟を決めねばならぬほどに絶望的なものだった。人間相手ならまだしも、相手は新世紀の科学をもってすら傷つけることのできなかった装甲をもつJAである。さらには、絶対領域を持つ使徒の姿が五つも見えるのだ。
さらにいうなら、そうした現実をより正確に把握しているのは、不幸にも相手側であるようだった。
使徒たちは正面からぶつかってくる敵部隊を泰然として迎え入れようとしている。人間の持つ鋼の剣でその装甲が傷つくことはない。金色の絶対領域は破れない。誰よりそれを知っているのだ。
しかも、特攻をただ受け止めようというだけではない。JAの頭部、埴輪のように窪んだ丸い口に、光の粒子が集まりはじめている。やがて粒子はエンジェルハイロゥのような光輪を形成し、徐々にその半径を縮めていった。
最後は球状に収束し、指向性を与えられて炸裂する。
次の瞬間、それは遠く放れたシンジにまで感じられる高熱を放ち、周囲の粉塵と反応して発光しながら放たれた。強烈なイオン臭をばら撒いて、熱と光の帯が真っ直ぐにロンギヌス本体へ向けて伸びていく。
「皆、避けて!」
無駄と知りつつ叫ぶものの、そんなものが間に合うはずもない。
シンジを嘲笑うかのように、一五〇本を超える極太の光線は網膜を焼く閃光となり、世界そのものを白く染める。
視力を奪われていても、待っている結末は明白に見えていた。ほとんど光速で飛んでくる理力の奔流は、防ぐこともかわすこともできない。直撃を受ければ、人間の脆弱な身体など大地に影だけを焼き付けて肉片すら残さず消し飛ぶだろう。現実に、新世紀で開放されたJAはたった一機でネルフ本部を壊滅の危機に追い詰めたのである。
だが、誰もに予想されたその結末は訪れなかった。
かわりに、避けも防ぎもできないはずのそれを正面から受け止めるものがあった。
目を焼く眩い白光の中、それを上回る金色の輝きが突如として現れ出でる。
――それは巨大な盾だった。一五〇本の光の束を丸ごと受け止める、城壁のような盾だった。
使徒が自陣の攻撃を妨げる必然は、言うまでもなくない。その相貌に浮かんだ驚愕の表情も、結界の主が彼ら自身でないことを明確に示してた。
なにより輝きが違いすぎた。天使の絶対領域と同質のものでありながら、しかし比較にならないほど目の前の金色は輝き誇っている。
ロンギヌスの盾。
直感が、目の前に聳え立つ結界の名を告げていく。それは、人間の想念が理力として顕現されたものなのだと高らかに語る。
それで、彼らが直前に発していた言葉の意味を理解した。
――我々の心力で <天使の金色> を生み出せるのは、心臓が七度打つ間のみ。その間に天の軍勢を完全撃破する。
今なら分かる。彼らの言葉は生命力の超臨界活用を意味していたのだろう。
自分が目撃しているのは、己の全てと引換えに人間が得た一瞬にして最大の奇跡なのだ。
そして、彼らが生み出す奇跡の形態は盾だけにとどまることはなかった。
折られた剣、折られた槍から輝く刃が現れ、新世紀のテクノロジをことごとく跳ね返してきたJAの装甲を易々と切裂いていく。
天に向けて高く放たれた黄金の矢は、蒼穹で弾け、光のスコールと化して天の騎兵団を打ちつけた。
七拍の奇跡を更に一拍まで凝縮する道を選んだ剣士たちは、魔皇を目をして終えぬほどの神速を得た。彼らは気づくと敵陣を駆け抜け、その遙か後方で立ったまま絶命していた。
後には、ただ両断された無数の敵兵が残骸となって崩れ落ちていた。
彼我の戦力など関係ない。相手が人間であろうと天の御遣いであろうと、魂で斬れぬものなどなにもない。
彼らを突き動かしているのは、ただその確信だけなのだろう。
結果など、見届けるまでもない。今、自らが描く一閃こそ絶対無敵。
口元に一様にして浮かぶ爽快な笑みは、彼らが一片の疑いすら持たなかった左証である。
だから、止めることなどできなかった。止められるはずがない。
そんな資格はどこにもない。
彼らはもはや他人のためではなく、己のために行動している。生命を燃焼させ尽くせる場を得、胸を張りながら進んでいる。
死ぬかもしれない。死なざるを得ないのだろう。だが、死ぬ気はない。そんな戦いのために、なにを恐れることもなく生命を行使する。
暗黒時代と呼ばれた乱世に生を受け、百年戦争の最中剣を取ったらのなら、行き着く先はひとつ。闘争のために生き、死に場所は戦場しか選べない。
はじまりも終わりの時も、剣を握りながら迎えるしかない。
だから、彼らの願いもひとつしかありえなかった。
それが分かるからこそなのだろう。
目の前で盟友たちが次々と果てていくのを見つめながら、しかし、沸いてくる喪失感など微塵もなかった。死の瞬間に立ち会うという意味ではピュセルの時となんらかわりない状況であるにも関わらず、全く異質の思いが胸を打つ。
むしろ、彼らを羨ましくさえ思った。共に行きたいとさえ。
なぜ、自分だけ傍観者としてこんなところにいるのだろう。かつて隣を歩んでいた人たちの背が、なぜあんなに遠くなってしまったのか。
自分の中心で眠っていたもっとも純粋な意思が目を覚まし、悪態を吐き散らしながら暴れまわる。俺も走りたいのだと。彼らと共に行きたいと。お前は今、こんなところで何をしているのだと、膝を抱えうずくまる双子の自分を罵りわめく。
込みあげてくるものを抑えきれず、全身をわななかせながら、原始の意思はただ同胞の死を讃え歓び、祝福の咆哮をあげていた。
アランソンの戦士は歌いながら死ぬ。そこに離別の悲哀などない。
そのことが明らかであるように、戦場でもまた趨勢が確かなものとなろうとしていた。
鋼の傀儡が瓦礫の山と化し、もはや使徒側に戦闘能力を有する者がない一方、ロンギヌス隊はいまだ健在。
最後に残った老騎士が、自らの金色を誇らしげに放ちながら駆けだそうとしている。
敗北を悟った使徒はコアを暴走させ自爆をはかろうとしていることに誰もが気づいているが、そんなものはすでに関係がない。
相手が避ければ逃げ道ごと。受ければ防御ごと。反撃してくるならば、その刃ごと――
ただその初太刀をもってこの世の万事森羅万象一切合切尽くを斬り捨てる。それを体現してきた騎士だけしか、この戦場にはいなかった。
縮退する使徒の核が臨界を突破し、自らの崩壊と引換えにその存在そのものを純粋な破壊力へと転化させる。あふれだす光が視界の全てを覆う中、最後に黄金の一太刀が閃くのを見た。
これにて、おさらばに御座います。
そんな言葉を聞きながら、最後のその光景を記憶に焼き付けた。
やがて世界の全てが白く染まり、意識の浮上していく感覚が夢の時の終わりを告げる。
本当なら、遙かむかしに終わっていたことだ。それが冥帝の力を得て束の間の命を得ていたに過ぎない。これは誰も知ることなく、誰に記録されることもなく消えて行った歴史の一例なのだ。
閉じていたまぶたをゆっくりと開きながら、碇シンジはそのことを理解した。
再び視界が開かれると、そこには夜の湖が静かに広がっている。舞い上がる土ぼこりも消えていた。血と埃の交じり合った匂いも、剣戟の響きもない。ただ深い森に囲まれた地底湖の鏡面だけがそこにあった。
左手が自ら意思を持ったかのように、握った長剣をゆっくりと視線の高さまで持ち上げる。
なにか、長い旅を終えて故郷に辿り着いたような心もちだった。ここまで歩き、湖に行く手を遮れられて立ち止まった瞬間から、幾つもの月日を経てきたような気がする。
人には、こんなふうに一瞬前の自分をひどく遠くに感じることもあるのかもしれない。不意にそう思った。
掘り起こされた記憶や気持ちは、「黄泉《よみ》がえる」とも表現される。それを黄泉からの帰還と考えるならば、遠く思えるのも無理はないのかもしれない。むしろ、当然ともいえる話だった。
――いとかたきもの。
心穏やかに、刀身に刻まれた文字をもう一度、読む。
今ではもう、自明の理でさえあった。
それはやはり、剣の硬度を謳うものではない。確かに、そんな名を冠した古い武具はかつてあった。だが、いま自分の手中にあるものは違う。
彼らが何よりも固いと信じたもの。
時も死も別つことのできないと信じたもの。
「そうだった……どうして忘れてたんだろう」
夜空を映し込んだ湖面をぼんやりと眺め、ひとりつぶやく。
「僕は大莫迦者だ。こんなに時が経ったのに、なにひとつ変わってない」
どれだけ時間が経っても、生まれ変わってさえ、やっぱり強くなどなれなかった。少しなにかあれば、すぐにこんな大事なことまで忘れてうろたえてしまう。
すぐに揺らぐ。すぐに折れ、すぐに内に篭る。いつも人の言葉に惑わされ、言いたいことは何ひとつ言えない。
「叱ってくれ、エイモス。僕は相変わらず臆病で卑怯で、駄目な人間だ」
すぐに揺らぐ。すぐに折れ、すぐに内に篭る。いつも人の言葉に惑わされ、言いたいことは何ひとつ言えない。
そんな人間だから、困難に直面すると真っ先に逃げ道を探す。一秒でも長くそれと向き合わずに済むように見苦しく隠れまわる。
挙句、もう逃げられないと分かってさえ、ひたすら目をそらし続けるのだ。膝を抱え、最後の最後に何も成さずに終わった自分を後悔する。
そんなことを何度も繰り返してどんどん自分を嫌いになっていく。だから自信なんて欠片もない。強い心、信念。矜持。そんなもの、持ち合わせたこともない。
ようやく守るべきものを見つけ、それを大切にしようと努めたとしても、結局は庇護していたはずのものに守られるような体たらく。
たぶん、アランソン候二世とは、碇シンジとはそんな人間だ。ずっとそんな存在だった。
「僕は弱くて、愚かで、きっとひとりじゃ一歩だって先に進めない」
だが、ひとつだけ誇れるものがある。
どの時代のどんな人間と比較しても、絶対にこれだけは色を失わない。そんな至宝だ。
それはひとりで膝を抱えるだけの夜に、心支えてくれる歌だった。
打ちのめされ、雨に打たれ、泥にまみれて冷え切った体に、それでも立ち上がる力を与えてくれる剣である。
――自分には忘れかけていたものがあった。いま、シンジはそのことを強く実感していた。
新世紀に生まれた平凡な少年か、中世に生きた戦人なのか。自分が何者なのかすら分からず、過去に囚われた亡霊のようにさ迷い歩いていた。
六世紀を経て、名を、叢を変えることで薄れてしまった意志。失われた半身。はじめて思い知らされた本物の絶望。自らの無力への憎悪。
負の連鎖が、かつて胸に抱いていた思いを少しずつ削っていき、闇色に染めていったのだ。そして終に、それは目を凝らしても見つからないほど微かな存在になってしまっていた。
だが、それは決して失われたわけではない。
彼らはまた同じ局面に立たされたとき、その結果に死が待つと知りながら、それでも同じ道を選ぶことだろう。剣を取り、絶望の戦場に向かうだろう。それと同じように、自分もまた。
どれだけ打たれ、破れ、折れ、叩きのめされても、その愚か者は蘇るだろう。倒れるたび、時を越えて響きわたってくる旋律を聞きながら。彼らの見えない肩を借り、託された得物を杖にしながら。臆病者は立ち上がるだろう。
その歌と剣がなにより熱いと、なにより固く信じる限り。
「生まれ変われば、もう前世は関係が無い。ゼロからのスタートとすべき。そう言われたけど、今は違うと思う、アスカ」
彼女が正しいのなら、なぜ今、こんなにも胸を打つものが過去から届くのか。
リセットされるべきならば、切り捨ててゼロからはじめるべきなのなら、この世の何より心を揺さぶるものを見せてくれるのは、どうして彼らなのか。
人はどこから来て、どこに行くのか。それは永遠の命題だという。
だが、自分は確固たる目的と行き先を定めて生まれてきた。
あの血と死と鋼の時代から来て、彼女の元へゆく。そのために、また生まれてきた。
シンジはロンギヌスの剣を逆手に構えたまま、自分の胸ではなく、大地に刃を突き立てた。
そのまま二歩後ろに下がり、両の膝を折る。
それは当然のしきたりであり、礼式だった。師である彼らに稽古をつけてもらうたび、幼き頃から続けてきたことだった。
自らの生命と引き換えに得た教え受けた今、主従の関係などなんら意味を成さない。ただ万感を胸に頭を垂れる。自然と、下がる。
「御教示、ありがとうございました」
地についた十指が、自ら意思を持ったかのように草と柔らかな土を握りしめた。声が震えた。重力に引っ張り出され、閉じた両目から焼けるように熱いものが零れ落ちた。
「教えは――生涯忘れません」
再び剣を抜き放ち、両手で頭上に掲げた。
天井都市から降り注ぐ木漏れ日のような光が、刃の輪郭を神秘的に輝かせる。
「みんな、見事だった。胸を張って、何の悔いもなく最期を正面から迎えきった。立派だったよ」
エイモス・クルトキュイスと、父アランソン候ジャン一世との間にあった誓いのことは知っていた。
もしも生ききって、誇りを胸に死んでいけたなら、互いにその死を祝福しよう。
お前が死んだら、俺は喜ぼう。
「だから、きっと僕も約束だったんだよね。ごめんね。泣いちゃ駄目だよね」
しかし、涙はとめどなく溢れてくる。
ただそれは、決して死を悔やむためのものではなかった。
「ここから先は、アランソンの街のためでもなんでもない。僕が個人のために行う私闘だ。だから、戦って良いのか迷ってたんだ。他に犠牲を出しながら、続けて良いのかずっと迷ってた。でも、もう着いてきてくれるかなんて聞かない」
彼らは辿り着いたのだから。その問は既に必要性を失っている。
「未来の為に。明日のために。遥かのために」
切先から月光を集めようとするかのように、彼らの主と立ち返ったシンジは、アランソン候ジャン二世として声を張り上げる。
我が元に集いし四十の精鋭たちよ、未来は見えているか。
「これからが最後の大戦だ。一緒に行こう。僕は弱いけど、僕たちは何にも負けない」
人は脆いが、何度も蘇る。
人は脆弱だが、内なるものが金色を放つ時、その奇跡は天をも斬るだろう。
同日同時刻
■渇きの海
星の瞬きすら存在しない銀河の深淵か、一筋の光も届かない深海の奥底か。
広がりを把握することさえ困難な真の闇の中、その少年はいた。
背中を丸めてうずくまり、両腕は我が子を守ろうとするかのように両膝を固く抱き込んでいる。
全身痩細ろった彼の四肢は干物のように衰え、もはやなにも映しだすことの無い濁った眼球は、じっと地に固定されたまま微動だにすることはない。
本物の絶望は、悲嘆や絶叫をもたらすのではなく、ただ人間を虚無にさせる。そう物語るような姿だった。
干からびた屍体同然である以上、何が少年が現在たらしめたのか本人からうかがい知ることはできない。
だが、彼が絶望するに足る状況にあることだけは、周囲を見回せば十分に得心できる。
なぜなら闇の中、その漆黒よりなお暗い何かが蠢いているのが分かる。
或いは、ひしめいていると言い換えるべきかもしれない。
それは生物とも別物ともしれない、異形の何かの海だった。咽返りそうになるほどに熱く濃い肉食獣の息遣いと、生臭く垂れ流される粘着質の唾液、ギラつく視線が、隙間なくあらゆる方向から少年を取り囲んでいる。
みっしり延々と続く幾千幾万の気配は、少年が事切れるのを輪を縮めながらひたすらに待ち続けていた。
そして、その時は訪れた。
少年は、久しくなかった強い刺激にのろのろと反応した。
自分を喰らおうと時期を待ち構えていた異形の群れが、しけさながらに奇妙なざわめきをみせはじめたのだ。
暴風雨に怯え荒れ狂う海ように、獣じみた呻きが高波さながらに近くから遠くへ、遠くから近くへと伝播し、寄せては返しを繰り返す。
同時、少年は伏せた顔に強い熱を感じた。それは眩い光を伴ない、瞼をやすやすと貫通し腐りかけた網膜を焼きはじめる。
少年はなかばそれを強制される形で、ゆっくりと顔を上げた。
痛みに耐えながら目を開いた。
落ちてきた太陽のような、金色な炎がそこにはあった。
目が慣れるのにどれくらいの時を要したのかは分からない。
少年はようやく、太陽のように見えたものが光を弾く銀色の甲冑であることに気づいた。
甲冑で全身を固めた、人間だ。
ひとつではない。少年を取り囲むように、そびえ立つ背の数は四十。
老若男女、様々な人々がそれぞれの獲物を地に突き立て、柄に両手を被せた構えのまま仁王立ちしていた。
左手、ふたりの騎士が誇らしげに振り上げる二本の旗は青地にユニコーンを刻んだものと、もうひとつは同じ下地に一対の翼と二つの頭を持つ左右対称な鳥をあしらった――
少年は、瞬間、それがなにを象徴するものであるかを理解した。
前者は突如として現れた太陽の騎士たちの団旗。後者は、彼らが守護する領主が掲げる紋章である。
異形の群れは、明らかに騎士たちを、彼らがまとう太陽の炎を忌避していた。
少年を包囲していた輪は、潮引くように遠ざかりその半径を急速に拡大していく。
だが、騎士たちはその後退を許さなかった。彼らの放つ光がその輝きを増し、海原を切り裂いて進む鮫の尾のように地を疾走しはじめる。金色の地走は暗黒の大地を突き抜け、その領土を瞬く間に横断せしめた。そして世界の縁にたどり着くや、闇色をしたドーム状の壁を垂直に登りだし、やがて傘の骨組が頂点で合わさるように四十の光が頭上で合流を果たす。
今や金色の炎は、太陽そのもののように闇の世界を煌々と照らし出していた。
騎士たちの口元に、涼やかな、しかし力強い確信の笑が広がる。
それが何かの合図であったかのように、騎士たちは大地に突き立てていた各々の武器を抜き放ち、逃げ惑う異形たちに敢然と立ち向かっていった。
モーセが海を割ったように、騎士たちが剣を振り、槍を突くたび、異形共が紙くずのように山となって飛び散っていく。
ただの空洞より虚ろだった少年の目が、驚愕に見開かれた。
タイミングを合わせるように、上空で青白い光の華が咲き、彗星のような尾を引きながら異形たちの頭上へと降り注いだ。それが弓撃による奇跡なのだと気づくまで、少年はしばらくかかった。
見れば、甲冑を来た騎士たちが第二射にかかろうと、長弓に矢をつがえようとしている。
刹那、そのうち何人かの騎士が少年を肩ごしに一瞥し、うっすらとした笑みを投げかけた。
少年は、その顔がどれも若い女性のものであったことに、再び驚愕の表情を顕にした。
なぜ、女性の細腕が長弓の固い弦を、ああも力強く引けるのか。なぜ、彼ら億という異形の群れをして、一瞬も怯まないのか。
呆然とする少年に、ひとりの甲冑が正面から歩み寄った。
生きてきた証をそのまま年輪として刻み込んだような、生命力にあふれる無数の皺。大樹を思わせる太くどっしりとした首。口元に蓄えられた髭と頭髪は、見事なまでに白く染まりきっている。
彼は少年に手を差し伸べ、笑った。
柔らかく細められた双眸が、次はお前の番なのだと、お前にも同じことが可能なのだと、穏やかに、しかし断固として語っている。
少年は驚愕し、慌てて首を左右に振った。
なだめるように、また諭すように老騎士がすっと左手をあげた。少年の視線を自然に誘導しながら、まっすぐに伸ばされた人差し指が遥か遠く、ある方角を示す。
そこに何があるかを認めた瞬間、少年はほとんど反射的に跳ね上がった。が、衰えた足腰は自重を支える力を既に残していない。そこを老騎士が支えてくれるが、少年にはもはやそれすら意識の外だった。
老騎士が指したのは、地平線の向こう側で蜃気楼のように揺れる、小さな人影だった。
蒼銀に輝く短い髪と、悲しみを湛えた深紅の瞳。その白く華奢な体躯に不釣合な白い全身甲冑。
夢のような姿と、幻のような涙を少年は見た。
全身を強ばらせる少年に、再び老騎士の手が差し出される。
瞳がまた、言葉より明確な意思を発していた。――目覚めの時だ、と。
そして、少年はおずおずと干からびた手をそちらへ伸ばしていく。
やがてその手は結ばれた。
to be continued...
ぐあー、ちょっと(クリスマス企画に間に合わせるために)急ぎすぎて推敲もろもろ全然できてません。
特にラストあたりと、全体の構成については納得行ってない部分がありまくりなので、
そこは後日修正します。すごく重要なエピソードなのに…ぐだぐたでスミマセン。
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