王国はイザボーによって破滅し
乙女ピュセルによって救われた




CHAPTER XXXVIII
「カオスの戦乙女」
SESSION・151 『月と魔皇』
SESSION・152 『ホォクスポォクス・フィジプス』
SESSION・153 『闇色の絶叫』
SESSION・154 『第3の魔皇』
SESSION・155 『カオスの戦乙女』



SESSION・151
『月と魔皇』


 星の瞬きが邪魔だ。見上げる宇宙に、やはり、そう思える。
 人間たちは、あの微かだが確かな煌きに感傷めいたものを抱くらしいが、無論、彼にはそんなものはなかった。
 そこは、荒涼とした白い死の大地であった。人間は、この大地にも様々な感傷を抱く。美しいと感嘆の吐息を漏らす。
 だが、実際この地に立てば、そんな気も起きまい。どこまでも続く荒野と、皮膚と肉を醜く抉り取られたかのような巨大なクレーター群。何より、星そのものによる生物の存在を拒む絶対的な拒絶感。
 遠くから見上げれば美しい。だが近づけば、醜い。なかなかに勝手な話ではないか。
 死と沈黙の大地に無造作に横たわりながら、魔皇サタナエルはそんなことを考えていた。

 大気も酸素もないその月面に、外見だけすれば完全な人間が仰向けに横たわっている。
 まるで麗らかな春の午後、河原に寝転び昼寝をするように。それはどう見ても異様な光景だった。
 勿論、彼は人間ではない。地球のような大気の流動もないこの月面上で、ゆらゆらと風にそよぐ様に揺れる銀髪を見ればそれも明らかだ。
 彼の豊かで長いそのシルバーブロンドは、風でも気圧の変化でもなく、その身の内から発せられる不可視の力の奔流によってなびいている。
 俗な表現をすれば、それは超越者がその身にまとう一種の龍脈である。
 その他にももう一つ、彼が人外の存在であり、そして天使と呼ばれる種族に近しい者であることを証明するものに、その瞳の色が挙げられる。鮮血色をした深紅の瞳。
 自由天使タブリスも、月天リリスも、そして魔皇ヘルも。天使以上の能力を持つ超越者たちは、皆、この深紅の瞳を持っていた。彼もまた、その例外ではない。
 だが残念なことに、今、その瞳は静かに閉ざされている。
 それが明らかなのは、何時も着用していたバイザーがないからだ。常にサタナエルの頭部半分を覆っていたそのバイザーは、先の魔皇ヘルとその従者ガルム=ヴァナルガンドとの戦闘で失われていた。

「――ロード」
 不意に、脳裏に意識が流れ込んできた。人間風に言えば、頭に直接声が聞こえてきたとなるだろうか。どちらにせよ、魔皇サタナエルにとっては別段目新しい事件ではない。
「何か。ビ'エモス」
 サタナエルは、自分の傍らに影のように控えるインペリアルガードに意識を返す。
 それは人間たちが交わす言葉によるコミュニケーションよりも遥かに合理的で、なおかつより正確な意思の伝達手段だった。分かり易く表現すれば、テレパシーに近しいもの、となろうか。
 この方法ならば、頭に思い描いたイメージをそのまま相手に転送できるし、より多くの情報を一瞬にして伝えることもできる。
 また音声のように、伝達に際する距離的、範囲的な制約を受けることはまずない。
「実働可能なエンディミオンが新たに五〇〇程完成した模様。いかがなされるか」
「五〇〇、か」
 ビ'エモスの報告に、サタナエルは微かに思考した。月面の地中深くに設置されたエンディミオンの量産用巨大プラントは、原料さえ用意してやればフルオートで稼動するようになっている。

 もっとも、一口に原料を用意すると言っても、恐らくそれから人間の想像するようなものとは、随分かけ離れた仕事になるはずである。
 つまり、必要とされるエネルギーやマテリアルが存在する惑星や異空間に、次元門を用いた直接パイプラインを設けるだけなのだ。
 例えばエンディミオンを作るために、ある鉱石が必要だとしよう。
 その時、その鉱石を大量に含む土壌をもった惑星とプラントを時空のゲートを持って直接繋ぐわけだ。あとは高度にオートメーション化されたシステムが、その惑星から自動的にその鉱石を抽出してくれる。
 惑星が死ぬか、それとも埋蔵されていた鉱石がなくなるかするまで、放置しておいてもいい。
 エネルギーに関してもそうだ。
 システムが虚数空間 <デュラックの海> と直結されていて、その虚数空間には一定間隔を置いて適当な物質が転送されることになっている。
 マイナス・エネルギーの海に物質が触れると、即座に対消滅が起こり、莫大なエネルギーが発生する。それをシステムはオートで吸い上げ、必要量を設備の稼動のためにまわす。特別な操作や管理は全く必要がない。
 原料や材料には、個々に対して惑星や恒星を丸ごと一つあてがうというスケールの大きさだ。
 待っていれば、エンディミオンはオートでできあがる。それもほぼ無尽蔵に。
 つまり、人類にとっては夢のような設備がそこにはあるわけだ。

「予告通り、五日後に三〇〇機を降下させる。カオスも来る。そろそろ、変化の時期だと判断しても良かろう」
「御意」
 サタナエルの言葉通り、各国首脳レヴェルには、大使『リヴァイアサン』を通してエンディミオン追加降下に関するの予告を既に与えていた。  もちろん、彼らの緊張感を更に強めるためだ。
 第一波として降下させた三組の内すでに一組は殲滅されているが、それでもまだ合計六機のエンディミオンが世界を蹂躙し続けている。これは、人間に対してよい刺激となったはずだ。
 しかも、三組でも手に負えなかったバケモノが、五日後の第二波に際しては一〇〇組。
 確実に人類死滅が見える予告である。今ごろ各国のトップたちは、気も狂わんばかりに対応に追われていることだろう。
 だが、それもまた、サタナエルにとっては布石の一つだ。あくまで、人類には壮絶な自滅の道を歩んでもらう。張り詰めた緊張の糸を効果的に切断してやれば、彼らは持ち前の狂気を発揮して、暴走をはじめてくれるに違いない。
「監視機構の大天使どもを引き摺り出せる日も、近いな」
 サタナエルの囁くような意識の声に、ビ'エモスは特に反応を返さなかった。
 だが、彼がサタナエルの予見を肯定したのは確実である。例え明確な意思を形成しなくとも、意識が接続された状態において、思案というやつはダイレクトに伝わるものだ。

 そしてまた、沈黙が戻った。
 サタナエルは月の大地に横たわり静かに目を閉じたまま、意図的に己の知覚レヴェルを縮小していった。
 銀河のあちこちで絶え間無く起こるエネルギーの流動や、状態変化の観測を止める。周り巡っていく惑星や恒星たちのざわめきから、意識を遠ざける。
 そして、まるで人間のように、無知で幼稚な感覚のみを頼ってみた。
 そうすれば――元々、大気が無ければ、その振動による音声もない無音の世界だ。
 地球では味わうことのできない完全なる静寂に閉ざされた空間を満喫できる。
 生命というものがどうしても不自然な自然現象のように思われるサタナエルにとって、死と静寂の大地は好ましい空間だ。
 白く果てなく続く荒野。乾燥した大地は何も育むことは無く、それ故に何も望むことはない。
 まるで変化を忘れてしまったかのようなこの星は、凍てつく時の牢獄であるかのような感覚すら抱かせる。
 永遠の沈黙。それは、全てが無意味であることを再認識させる。
 あらゆる全てには、意味など何もありはしない。全ては……

「傍は空いているか」
 不意に傍らから発せられた、涼やかな声。
 サタナエルの思考はそれによって予期せぬ形で中断させられた。
 無論、ビ'エモスの肉声などではあり得ない。その証に――
「我に気取られること無く」
 傍らに控えていたインペリアルガード自身が、驚愕の声をあげる。
 無理もない。サタナエル本人でさえ、その者の接近を察知することができなかったのだから。
「何奴か」
 鋭い誰何の声と共に、ビ'エモスの殺気が急速に膨らんでいく。
 魔皇サタナエルをただ守護するためだけに生み出された、闇色の巨竜が彼だ。
 何の気配も発さず、突如主の間合いに入り込んだ闖入者に敵意を発するのは、だから魔皇守護者であるビ'エモスにとってはごく自然な反応であった。
 だが、そんな黒竜の言葉なぞ耳に届かなかったかのように、その女はサタナエルだけを見つめていた。
「少し話がしたいのだ。サタナエル」
 ビ'エモスはまだ気付いていないようだが、サタナエルには彼女の正体は既に明らかだった。
 監視機構使徒を遥かに凌ぐ能力を有したインペリアルガード。
 そしてそれを使役する超越者 <魔皇> にすら気配を悟らせず、その間合いに入り込む。
 おそらくはエンシェント・エンジェルにすら不可能な芸当を平然とやってのける存在。そんなもの、この世に唯一つしかありえるはずがないではないか。
「拒めそうにないな」
 返すと、魔皇を覗き込むように見下ろす女の目が一瞬細められた。
 あるいは、それは微笑に似た反応だったのかもしれない。いずれにせよ、女は流れるような動作でサタナエルの隣に腰を落とした。
 ほっそりと引き締まった左足に伸ばされ、右足は軽く膝を立てて曲げられる。
 彼女はその右膝に右手を自然に添えた格好で落ち着くと、再びサタナエルに視線を落とした。
「我が問いには応えられぬか?」
 バサリ、四枚の巨大な黒翼が威圧するように開かれた。
 相手の返答次第では、何時でも虚無のブレスを放つ用意である。
「控えろ、ビ'エモス。ガードでどうなる相手でもない」
「……御意」
 主に命じられれば、絶対服従のインペリアルガードが入り込む余地はない。
 殺気と戦闘態勢はそのままに、渋々といった感じでビ'エモスは引き下がる。再び、沈黙が戻った。

「近頃、招きもせぬ客が多くて、困る」
 しばらくして、サタナエルはそう言った。
 勿論、言葉とは裏腹に、彼女の来訪を拒絶するつもりはない。ヘルほどに熱烈とは言いかねるが、歓迎しても良いくらいだ。何せ、こちらが望んだとしてもそうおいそれと出会える相手ではないのだ。彼女は。
「ヘルとも会ったようだな」
「ああ。会った。刺激的な会見になったと感じている。大変素晴らしい時間だった」
 女の声は涼やかだった。サタナエルでなければ、どこか音楽的であるとも表現したかもしれない。冷たい響きすらあるのだが、それでも魔力が込められたような人の意識を引き付ける声だ。
「その会見とやらを見物させて貰おうと思ったのだが、不可思議な力に遮られできなかった。あれが貴女の持つ力か」
「そうだ。我々ノルンは、これを総じて <クラウ=ソラス> と呼ぶ」
 女は淀み無く応える。まるで予め投げかけられるであろう質問を予測していたかのようだ。或いは、魔皇ヘルも似たようなことを彼女に問うたのかもしれない。
「 <全てを知る者> よ」
 サタナエルは、ゆっくりと目を開いた。そして上体を起こし、彼女と視線の高さを合わせる。自然ふたりは、隣り合わせて月面の荒野に腰掛ける格好になった。
「私は貴女に興味などない」
「当然だ」
 彼女は――全てを知る者は、即座に言った。
 その視線はサタナエルからは外されており、ただ無造作に、眼前を浮かぶ地球に向けられている。その思考はサタナエルを以ってしても読めない。
「魔皇サタナエル、貴君はヘルとは違う。そうでなければ」
 全てを知る者は、その青い瞳をサタナエルに移しつつ言った。
「でなければ、わざわざこの様な場所まで訪れはせんよ」
 こんな情報は、彼女を知るには何の役にも立たないだろう。
 だが、あえて観察を続けるならば、彼女は女性の姿をとっていた。肉体年齢は、三〇歳半ば程か。女性にすれば長身で、体長は恐らく五・五フィート前後。地球に住まう文明人の内、大半の女性が模範としたがるような美しい相貌をしている。サタナエルが人間であれば、きっとそう評価したに違いない。

 服装は、膝の辺りまで伸びる素材の知れない黒のスラックスに、男物の白いワイシャツ。
 ただ、その白いシャツに関しては、着衣したと言うよりは無造作に羽織ったという感じで、当然のようにその前はとめられておらず、鍛錬を積んだと思わしき腹部や、女性であることを示す豊かな胸の膨らみが素肌で知れた。
「ヘルと会った時とは衣が違うようだな」
「ほう。私の肉体に興味があるか」
 彼女としては珍しい傾向だろう。口元にゾッとするほど妖艶な微笑――皮肉を含んではいたが――を浮かべ、 <全てを知る者> は訊いた。
「言ったはずだ。私は貴女に興味などない」
「そう言えたものでもない。カオスの例もあろう?」
 サタナエルは、その言葉の意味をすぐに理解した。
 彼女は、魔皇カオスが人間の男と密接な関係を結んでいる事実について触れているのだ。カオスが何を考えているのかなど関心を抱いていないが、確かに今のカオスの状態は事件とも言うべき意外性を秘めているという見方に異論はない。
「サタナエル。卿はただ戦っていれば良い。それが魔皇サタナエルであるのならばな」
「監視機構か」
 サタナエルは先ほどの <全てを知る者> と同じ様に、地球に視線を落としながら呟くように言った。
「言われずとも戦う。私は常に戦う。監視機構はその対象のひとつに過ぎない」
「では、あの古き者どもとの戦いを終えた時、次なるは何を目指す」
 全てを知る者は、サタナエルの横顔を見つめたまま静かに問うた。
「ヘルやカオスと戦うもまた一興かも知れぬな。己の半身であり、己自身でもある存在と戦う。いや、ある意味私はそのために戦うことを続けてきたのやも知れぬ」

 サタナエルにとって生きる意味は必要ない。それは人間に必要なものであり、超越者はそれなくしても存在できるからだ。
 弱いから、不完全であるからこそ、拘るもの――夢や理想を求め、生きていくのだ。
 魔皇はそういった意味でも人間とは決定的に違う。存在や変化に意義や価値など求めはしないのだ。だからこの思考は、サタナエルにとって少し新鮮だった。
「それはある意味、ヘルと同じなのかも知れぬな」
「なに」全てを知る者の意外な言葉に、サタナエルは彼女に視線を向けた。
 だが当然ながら、全てを知る者はその相貌にいかなる表情も感情も浮かべてはいない。
 まるで虚無のように。
「ヘル曰く、探求とは黄昏たそがれ。己の世界を観察と観測によって殺してゆくに等しいと言う。己の世界を自ら縮め、崩壊させてゆく。あるいはそれは、自滅にも似ている。サタナエル。卿の今の言葉――己の半身であり己自身でもあるカオスやヘルと戦い、これを倒す。それもある意味、自滅に近しいものではあるまいか」
「三度になるな、全てを知る者」サタナエルは、言った。「私は貴女にも、貴女の思考にも、そして貴女の価値観にも興味はない」
「そうだったな」
 そして、その言葉が終わるか終わらないか。
 不意にサタナエルは、全てを知る者の姿が傍らから消えていることに気がついた。まるで最初から、そこには誰もいなかったように。

 クラウ=ソラスと言ったか。魔皇の能力を持ってすら、まったく察知することができぬ術を以って次元間を旅する者。それが、 <全てを知る者> ということであろう。
「構わんのか。貴女にとって、人類監視機構は目的ある存在であったはず」
 サタナエルは、如何なる気配も感じられなくなった傍らに問いかけた。
 姿も見えない。どんな波動も感じられない。だが、その声は届くだろう。彼はそんな確信を抱いていた。
 ――やはり、魔皇よな。ヘルと同じ問いをよこす。
 何処からか、意思が漂ってきた。朝露を弾く若々しい白百合を思わせるような、凛とした、そして澄んだ声音。宙を奏でるような、涼やかな旋律である。
 ――構わぬ。大天使たちの役割は終わった。サタナエルよ。お前の好きにするがいい。
 サタナエルは、小さく頷いた。恐らく、もう二度と彼女と出会うこともないだろう。
 何故だかそう思えたが、それに大きな意味はない。
 エンシェント・エンジェルとは違い、サタナエルは決して、全てを知る者を必要とはしていないのだから。

 そしてまた、月面に沈黙が戻った。



SESSION・152
『ホォクスポォクス・フィジプス』


「うわぁ、凄いじゃない」
 アスカはクルクルと踊るような軽い足取りで、何度も体を回転させながら周囲に視線を巡らせる。
 その表情は歳相応の少女のように明るく、朗らかだった。
 そんな姿を、執事のエーベルハルトは目を細めて見守る。
 そこはまさに、時に取り残された最後の楽園だった。少なくとも、大都会『第三新東京市』の生活に慣れ親しんでいたアスカにとっては、中世からの姿をそのままに残すその庭園は、まさに異世界であったと言えよう。

 気の遠くなるほどの歴史を感じさせる古い石畳。
 手入れの行き届いた芝に、周囲を彩る鮮やかな緑を誇る若木と花々。
 中央には女神が壷を抱えた彫像も美しい、大きな噴水すらある。
 不思議の国に迷い込んだ少女のように、アスカはそこにある全てに目を輝かせる。
 切り立った高い崖の上に構えられるシュトロハイム城の内庭だからして、そこは高度もある。外部に目を向ければ、見えるのは青く晴れ渡った空と、遥か遠くの山並み、そして豊かに流れる父なるラインのみ。

 まるで庭園そのものが、空に浮かんでいる――
 そう、ここは伝説の空中庭園なのだと錯覚してしまうまでに幻想的な眺めだ。
 自然と足取りも軽く、心も弾む。
「わ、あれなに?」
 まるで長年捜し求めた秘宝を目の前にした冒険家のように、アスカは新たな興味の対象にパタパタと駆け寄りながらエーベルハルトに問う。
「この淡い青色の花園。これって、もしかしてバラなの?」
 彼女の視線の先には、まるで自らが薄らと光を放っているかのような、そんな不思議な存在感を持つ花が咲き乱れていた。辺り一帯を占めているというのに、不思議と儚いような印象すら抱かせるそれは、ガラスのような透き通った花弁に澄んだ青色を微かに湛えた、見事としか言いようのない薔薇の園であった。
「……左様でございます」
 童話や物語に出てくる品の良い老『執事』像を、そのまま体現したかのようなエーベルハルトは、はしゃぐ少女に穏やかな笑みを返す。
「恥ずかしながら、セフィロス様にお許しを戴きまして、私が栽培しております」
「すごいじゃない、エーベルハルト。確か、最先端科学の品種改良でも、青い薔薇って作れてないのよね、まだ。花のアントシアニン系色素だっけ? あれって赤にも青にもなるけど、薔薇の場合は発色の前段階で働く酵素に青色になる働きがないとかなんとか聞いたことあるわ」
「良くご存知で」
 言葉だけでなく、本当に感心しているらしい。エーベルハルトは、その白い眉で微妙に驚きを表現しながら言った。
「確か現段階では、ペチュニアっていう花から青色色素の合成に関与する遺伝子を分離するまでは成功してるのよね。エーベルハルトは、その辺の制御関係に成功したの?」
「はい。専門的な話を避けて説明させていただけば、赤色を出す経路を塞ぐに尽力すると共に、別の遺伝子を導入することで青の発色を補助するという、2段構えの方法を以って成功を得た次第です」
 口で言うのは簡単だが、その成功に至るまでには数多の困難と努力があったのであろう。
 エーベルハルトは己の努力の軌跡を見せず、ただ結果だけを淡々と披露するタイプであるが、アスカはその裏にある彼の情熱や地道な作業に費やされた根気などを読み取ることが出来た。

 基本的に、彼女は目的と努力の意思をもった人間を嫌いになれないタイプなのだ。
 そして、――これは本人も自覚していないだろうが――それは間違いなく、アスカの持つ優しさであった。だからそんな時、彼女は素直な笑顔でその者を称えることを厭わない。
「世界初の快挙かもね。エーベルハルト、貴方は凄いわ」
「恐縮です」エーベルハルトは、非の打ち様のない完璧な礼を以って、その賛辞の言葉に応えた。
「……それにしても随分と歩かせるわよね。外出するたびに、この城は住人たちにこんな苦労を強いるわけ?」
 アスカはふと、これまで自分とエーベルハルトが歩んできた道のりを振り返りながら言った。
 初めて足を踏み入れる場所であるからして正確には距離感を掴みにくいが、それでも一〇分近くゆるやかな上り坂を歩き続けてきた。

 距離にすれば大した事はないのかもしれないが、これを『正門』から『住居』までの間隔として考えれば、アスカにとっては充分長すぎる。
 門を潜って一〇分以上歩かないと家に着かないなど、日本に長年住んできた彼女の感覚からすれば異常を通り越して、コメディだ。
「申し訳ございません。普通ならば別ルートをリムジンで移動するのでございますが……
 セフィロス様のお言い付けで、お嬢様はしばらくこの城に滞在することになるであろうから、案内ついでに城内を歩いていただくようにと」
「セフィロスが……」その名に、アスカは複雑な表情を見せる。
 彼にはもう十年以上も会っていない。血の繋がりもないし親類というわけでもないから、それはある意味当然のことなのかもしれないが、それでもどこか他人とは思えない部分もある。
「セフィロス様を覚えておいでですか」エーベルハルトは、穏やかに訊いた。
「勿論よ。あんな強烈なキャラクターを忘れられるわけないわ」
「左様で御座いますか」
 ティーンにもならない内に数回会っただけの人物。
 だが、惣流アスカにとって、彼とJ.D.の存在から受けたショックは絶大だった。
 一種のセンス・オブ・ワンダーだったのだろう。もっとも、アスカだけにとどまらず、彼らと親交を深めれば人間誰でも仰天するほどの衝撃を受けることであろうが。

 結局、その後アスカは更に五分間歩かされることになった。
 だが、それは退屈な時間でも苦痛な運動でもなかった。
 古いがドッシリとした安心感のある白い石段を、ゆるく大きく螺旋状に登り、そして小鳥たちの囀りを聞きながら、目のさめるような鮮やかで瑞々しい緑に絡まれたアーチを潜る。
 それはアスカにとって新鮮で、気分のよい散策だった。うっとりするほど美しい庭園は、彼女の琴線に触れるものがあったらしい。気付けば、彼女はここ数年誰にも見せたことのないほど穏やかで優しい表情をしていた。
「お嬢様。お疲れさまで御座いました。あれが、我が主の居城――ジャスティス様とセフィロス様のシュトロハイム城でごさいます」
 それは大きいというよりも、天を突くかのように長く高く、そして鋭い古城だった。
 間近で見ると、更に良く分かる。シュトロハイム城は、ライン川下りで目にしてきた様々な城とは建築様式から雰囲気、存在感までその全てがまるで異なっている。
「これが……」その圧倒的なまでの威容に、アスカは息を呑んだ。
 例えるなら、神に挑む者が空へ向かって突き立てた一本の長剣といったところか。
 まさに『天を突き刺す』と言う表現がピッタリあてはまる、鋭利にして危険な構えである。
「さあ、セフィロス様たちがお待ちです。中へ、どうぞ」

 そこは更なる異界だった。そう表現しても決して過分ではないだろう。
 庭園もどこか幻想的で、現実感を伴なわない不可思議な感覚を抱かせてくれたものだったが……
 城内はもう、アスカがこれまで過ごしてきた同じ世界に属する空間だとは信じられないほどであった。
本当に中世の貴族社会にタイムスリップの挙げ句ひとり迷い込んでしまったような、そんな孤独な感覚すら抱かせる。
「この奥が、ジャスティス様の私室となっております。セフィロス様と揃ってお嬢様の到着をお待ちのはず。……さ、どうぞ。お嬢様。ご遠慮なさらずに。御二方とも、お嬢様との再会をいたく楽しみになされておいでです」
 そう言って、エーベルハルトは一礼するとアスカを置いて立ち去っていった。
 唖然とするほどに静かな広い空間に、アスカはひとり取り残される。
 城内は狂気のように広かった。それにも関わらず、うち捨てられた廃墟のように人の気配がない。
 お世辞にも、居心地が良いという印象は抱けなかった。
「……」
 今、アスカの目の前には、赤い絨毯が敷かれた長い廊下が続いている。
 その更に先には、彼女が通う高校の体育館のステージか、或いは劇場で良く見るような幕があり、カーテンのように視界と行く手を遮っている。
 恐らく、あれを潜るとこの城の主の私室に辿りつくのであろう。
「アスカ、行くわよ」
 この廊下を渡りきり、目的のドアを開いて彼らと再会を果たす。
 それは、アスカにとっての全てのはじまり。トリガーを引くに等しい行為である。
 単なる友人との再会ではなく、これは、後戻りできない世界へ飛びこむという、一種の冒険の幕開けを意味するのだ。

 だが、ここまで来て躊躇しても仕方がない。
 アスカは自分に言い聞かせるようにそう考え、歩を進めていった。
 その瞬間である。
 視線の先にあった重厚な幕が、左右にゆっくりと音もなく開かれていった。
「赤外線……?」
 エーベルハルトが幕を引いて開けてくれたわけではない。
 全くの無人、オートで開いたのである。機械仕掛けでなければ、念動力くらいしか可能性はあり得ない。だが、その念動力だの超能力だのを否定できない場所であるのも確かなのだ。
 このシュトロハイム城は。

 アスカは一瞬足を止めたが、考えるのをやめて再び歩きはじめた。
 長い廊下をひとり進み、そして開かれた幕を潜る。予想通り、そのすぐ先に両開きの大きなドアがあった。木製にも関わらず、至近距離からのバズーカ砲の攻撃にも耐えそうな、見るからに頑丈極まりない扉である。
 とりあえず、彼女自慢の剛拳ストレートでは打ち破れそうにはない。
 アスカは、本当に破れないものか思わずチャレンジしてみたくなったが、鋼の精神でその欲求を抑え込んだ。
 重厚なドアを見ると、まず生身で叩き破れないかを考えてしまうのは、彼女の風変わりな悪癖である。

 しかし、それ以上に変わった連中が、その扉の向こう側にはいた。
 先ほどの幕と同じ様に、重たいドアが滑る様に勝手に開いていく。両開きの自動ドアのように。
 アスカは一瞬の逡巡の後、緊張の面持ちでその入り口を跨いだ。
 薄暗かった廊下の暗がりに慣れた目が、室内から溢れ出す眩いばかりの光に細められる。
 誰もが褒め称えるその美しいブルーアイズが、部屋の明るさに対応できるまでに数秒要したであろうか。
その瞬間を見計らったように、春の風のように涼やかな中性の声が彼女を迎え入れた。
「ようこそ、シュトロハイム城へ」
 広い部屋だった。
 アスカは一度、幼なじみのシンジの付き添いで、彼の父親の職場に訪れたことがある。
 ネルフ総帥・碇ゲンドウの執務室。プレジデント・ルームと呼ばれるその部屋は、個人が使うにはあまりに広すぎる空間で、高ささえ充分なら野球ができそうなほどの面積を持っていた。
 この巨大な長方形をした私室は、それに引けを取らない。日本の場合だと、まあ、家1軒分くらいのスペースは楽にあるだろう。流石、シュトロハイム家の主の私室といったところか。

 部屋が明るいのは、どうやら窓入り込んでくる陽光のせいらしかった。
 入り口向かって正面に、遥か眼下を流れるラインの川を一望できる大きな窓がずらりと並んでいて、この部屋を眩しいまでに明るく照らし出している。
 それに加えて、見上げれば、天井には大きなシャンデリアが続けて三つ。部屋の左側半分を占めるようにズラリと並べられた書棚群には、隙間なく分厚い書物が収められており、紙が放つ独特の香りをアスカの元まで届けてくる。半分図書館といったレヴェルだ。蔵書量も、数十万単位だろう。

 その反対側、部屋の右半分は通常の私室の機能を果たしているらしく、横に大人が三人は並んで座れそうな大きな木製の机と、それとは別に四人がけのテーブルセットなどがある。
 机の方は、執務用のものらしく、パソコンと思わしき端末と立体ホログラフィ式のモニタが四機ずつ並べられていた。

 部屋の面積と比較して、家具の類いが少なすぎるような気もするが、主の超合理主義を考えれば、それも無理からぬ話かもしれない。
 広大な部屋の半分を、書庫として使っていることも主の性格というか雰囲気というか、そのあたりを顕著に反映しているような気もする。
「驚きましたか、アスカ」
 最初、その声の主の姿をアスカは見つけることができなかった。
 だが、すぐに彼は自ら彼女の前にその身を晒した。
 等間隔に並ぶ背の高い書棚の群れから、ひょっこり現れたのだ。
「J.D.らしくて、面白い部屋でしょう」
 そう言った彼は、ニッコリと微笑んで見せる。
 背中の中程まで伸びる、女性も羨むほどに真っ直ぐで艶やかな金髪。人形のように整った相貌と、中性的な声は、彼を度々女性ではないかと疑わせるほどに美しい。絶世を冠して問題ないだろう。
 シュトロハイム伯爵家当主、セフィロス・フォン・シュトロハイムその人である。
「あ、え……ええ」
 アスカは何を言って良いのか、どう応えて良いのか分からず、思わず曖昧な声を発することしかできなかった。
「お久しぶりですね。一〇年は会っていなかったでしょうか。面影は残っていますが、別人のように成長したようですね。大きく、それに綺麗になりましたね、アスカ」
 そう言って浮かべた彼の微笑は、日向の暖かさを連想させるほどに優しかった。
 惜しむらくは、彼の両の眼が常に閉じられており、決して開かれることはないということだろうか。

 全く視力のない――つまり目の見えない彼は、こうして何時も目蓋を閉じて穏やかに微笑んでいる。
彼の微笑は万人が知っているが、彼の瞳の色を知る者は誰もいない。
 だが、視力の完全な欠如という大きな痛手も、彼にとっては何のハンデにもなり得ないことをアスカは知っていた。
 彼は視力で捉える以上の情報をその超然的な能力で捉え、目視止するより遥かに正確に把握することができる。彼の一族に流れる血の力である。
「J.D.も貴方との再会を楽しみにしていたんですよ。……ね、J.D.?」
 セフィロスはくすくすと笑いながら、仏頂面でタロット・カードを捲っている妹に顔を向けた。
「また、会ったな」
 ジャスティス・D・フォン・シュトロハイムは、チラとアスカを一瞥するとそう言った。
 そんな妹の反応を見て、セフィロスはまたくすくすと笑い出す。半分苦笑のようでもあった。
「あ、あの……ね、その……」
 父親が同じとはいえ、彼は既に他界しているわけであるし、基本的に彼らとは全く血のつながりはない。
親戚でもなければ、法的な繋がりもない。接点があるにはあるが、基本的に赤の他人であることは確かである。過去片手で足りる回数しか顔を合わせていないという事実も、それを証明していた。

 そのせいもあってか、アスカは彼らにどう声をかけていいものやら、困惑気味だった。
 無論、これまでの道中、この場面でのやりとりをシミュレートしてこなかったわけではない。
 だが、シミュレーションと現実とでは往々にして相違が現れるものである。この場合もそうだった。
「まぁ、古い友人との再会です。この城に客人が訪れること自体、記憶に久しいことですし。立ち話もなんです。こちらに来て一緒にお茶でもいかがです?」
 セフィロスは書棚から抱え出した古ぼけた分厚い本を抱いたまま、部屋を横切ってJ.D.の掛けるテーブルに歩み寄ると、アスカに言った。
「あ、うん」
 そう応えると、フワリ……、突如ひとりでに動きはじめたコートに、アスカは言葉を失った。
 まるで命を吹き込まれたかのように、風もないのにモゾモゾと動き出すアスカお気に入りの赤いコートは、瞬く間に彼女の身体から逃げ出し、そして柔らかく宙を舞って、部屋の隅に立てかけてあるコートハンガーに勝手に収まってしまう。
「な、なな……!」仰天するアスカを尻目に、次のマジックは既にはじまっていた。
 ヒュン……と風を切る音が背後から聞こえてくることに気付いたアスカは、今度は何事かと後ろを振り返る。そしてそれを目撃した。
「……っ?」
 やって来るのは、上品なティーカップと、湯気をあげるティーポットを載せたトレイだった。
 ただし、執事のエーベルハルトが運んでくるのではない。
 先ほどのコートと同じ様に、まるで自分の意思を持っているかのように、空中を飛んできているのだ。
こちらに向かって。

 やがてティーセットを載せたトレイは、目を丸くして硬直するアスカの傍らを通過し、ドアを潜ってセフィロスとJ.D.が座るテーブルセットに優雅に着地した。
「い、いま……今のは……」
 ヨロヨロと怪しい兄妹の方へ歩み寄りながら、アスカはようやくそれだけ問い掛けることができた。
彼らに対する予備知識はあったものの、やはり突然、それも目の前でそれを見せ付けられると影響力が違う。
「ああ、J.D.の能力ですよ。世間一般で言う『PK』……サイコキネシスです。
 この場合は静体へ影響を及ぼす『PK−ST』と呼ばれる類いのものになるでしょうか。まぁ、要するに超能力ですね」
 早速、運ばれてきた紅茶をカップに注ぎ込みながら、セフィロスは言った。
 当のJ.D.は何事も無かったかのように、タロットカードと戯れている。
「別に特に目新しいということもないのでは? 貴方は以前、私たちの能力は散々目撃していたはずでしょう。ああ、もしかして、アポーテイションの方が好みでしたか?」
「い、いや……あれって大分昔の話でしょ? いきなりこんなの見せられたら誰でも驚くわ、きっと」
 アスカは、これまた見えない力で引かれた椅子に腰を落としながら落ち着きなく言った。
 胸に手を当てれば、まだドキドキと早鐘のように鳴る鼓動が感じられる。
 確認しなくても、相当ショックを受けたようだ。
「で、そのアポなんとかってなに?」
「アポートとも呼ばれるらしいですけどね。簡単に言えば、『物寄せ』です。遠くにあるものを、一瞬にして手元に引き寄せる能力ですね。遠方の物体に働かせる瞬間移動、テレポートの効果と言えば分かり易いですか?」
「えっ、それ、できるの? 二人とも?」
 一瞬、椅子から腰を浮かせて、アスカはJ.D.とセフィロスの間で視線を往復させた。
 折を見ていつか訊こうと思っていた質問ではあるが、これはアスカにとって非常に重要な問題だった。
今後の展望が開けるか否か、ある意味その解答如何に関わってくると言って過言ではない。
「できますよ。私はあまり体積のあるものですと疲れてしまいますが、J.D.ならほとんど重量制限なしです。その気になれば、この城の内庭にエッフェル塔あたりでも引っ張ってこれるのではないですか」
 もっとも、彼女を『その気にさせる』という作業こそ世界最高の無理難題ですけどね、と苦笑交じりにセフィロスは言った。
「さ、アスカ。紅茶をどうぞ。貴方ご注文の、エーベルハルト特性の紅茶です」
 そう言ってスッとティカップを差し出すセフィロスであったが、アスカにはそれ以上に重要なものがあった。目の前のティーカップには目もくれず、頬を微かに高潮させて興奮気味にアスカは言った。
「じゃ、仮に……仮にだけど、フランスにある重量10トンくらいの鋼鉄の塊なんかを、この城内に転送することって可能?」
「私にはちょっときついですね。距離は問題ないですが、10トンは些か荷が勝ちすぎるでしょうか。
せめてその一〇〇〇分の1程度の重量でしたら、私も自信を持ってできるとお答えできるのですが。
まあもっとも、J.D.なら問題ないでしょうけどね。どうです、J.D.?」
「……それは鉄の女神のことか、少女?」
 セフィロスの問いには直接応えず、タロットから顔を上げたJ.D.は直接アスカに問いかけた。
 セフィロスに良く似た美しい相貌。だがセフィロスにはない、鋭く、心の内を全て見透かし暴き出すかのような深いスミレ色の瞳が、アスカを射抜く。
「……」
 鉄の女神。恐らく、J.D.が言っているのはNERVの機動兵器『ガデス・オブ・デスティニー』のことだろう。
 既に第三新東京市で実働しているが、一応NERVの機密事項となっている存在である。
「何故それを知っているの?」
「喩えがあからさま過ぎる。フランスにある重量10トンほどの鋼鉄の塊などと表現されれば、私でなくとも勘付くというものだ」
 J.D.は素っ気無くそう言った。
「それに、忘れていませんか? アスカ。シュトロハイム伯爵は、代々、エンクィスト財団最高幹部会の一席を占めてきたのですよ。そして私は、そのシュトロハイムの現当主です。NERVの情報が入ってこないと思いますか?」
「あ」セフィロスの言葉に、アスカは肝心なことを失念していた自分に気付いた。
 そうである。父ルドルフは、その権力を目当てに母を捨てシュトロハイムに身を移したのだ。
 財団最高幹部会ゼーレ、ドイツ代表ルドルフ・フォン・シュトロハイム伯爵。既にこの世にない父の面影を、アスカはぼんやりと思い出していた。
「なるほどね、ゼーレという地球圏支配者であり、ホォクスポォクス・フィジプスと一声唱えれば魔法が使える一族。野心家だったルドルフが、ママと別れてまでシュトロハイムの名に固執したのが分かるような気がするわ」
「まあ、そういうことですね」
 セフィロスは、手にしていたカップを優雅に置くとアスカに顔を向けていった。
「……それで、アスカ、勿論私たちは貴方を歓迎するつもりですが、今回のご用向きというものを聞かせてもらえませんか? 貴方は父ルドルフを毛嫌いしていた。同時にシュトロハイム家にも良い印象は抱いていなかったはず。それにも関わらずここにやってきた。それ相応の理由と動機があったのことなのでしょう」
「ええ」アスカは神妙な顔つきで頷いて見せた。
 現状で、自分は無力だ。何の力もない。天才だ神童だと騒がれたこともある。IQは200を超えるらしい。だが、そんな周囲の評価や陳腐な頭脳指数など、まったく武器にならない世界がある。
 地球圏を掌握するエンクィスト財団の支配者たち。それに組みしながらも反目するNERV。そして表舞台にその姿を現した超越者と天使。

 アスカは彼らに出会った。そしてその凄みを見せ付けられた。
 NERV総帥・碇ゲンドウの絶対的統率力。ゼーレを統べる霧島理事長のカリスマ性。
 なにより、存在そのもので時空連続体すら揺るがす魔皇ヘル。
 ……そして、目の前に立つ真の天才たち。
 彼らを前にしてみれば、惣流アスカなど取るに足らない子供だ。あまりに幼く、あまりに無力。

 己の非力を認識しなければこれ以上先には進めないという事実を、そして自分は凡人以下の存在であることを、屈辱ではあるが認めざるを得ない。
 それはかつてのアスカなら、決して認めることを拒んだ領域だろう。だが、このままで終わりたくないのなら、意を決して認めるしかないのだ。

 最初は、傀儡になろうが道具にされようが構わない。彼らに頼り、彼らの背後に隠れながらでも世界を見る。そして時を追ううちに、力をつければそれでいい……。
 だから、アスカは言った。
「貴方たちに、力を貸して欲しいの」



SESSION・153
『闇色の絶叫』


■フランス ノルマンディ地方 古都ルーアン
九月一二日 一七時二七分

 洛陽は既にその姿の大部分を西の山並みに沈め、あたりは秋を間近に感じさせる微かな肌寒さを伴なった夜の装いを見せはじめていた。
 そんなルーアンの街の外れにある森林公園の中、アスレチック遊戯具の落とす長く歪な影に溶け込むように、一人の女性が静かに佇んでいた。
 ――魔皇ヘルである。
 とは言っても、それはこの場合、肉体の本来の持ち主である碇シンジを指すのではなく、彼に憑依している真のガルムマスターを指す。
 そのことを証明するように、碇シンジの肉体は女性のそれに姿を変え、黒髪はシルバーブロンドに、頭髪と同じく黒色であった瞳は、かのラ・ピュセルを彷彿とさせる深紅へと変貌していた。
 あくまで元の少年の面影はない。そこにはただ、圧倒的なまでに冷たい存在感を著す、銀と氷の女しかいなかった。

 その肉体の本来の持ち主であるはずの碇シンジは今、言わば逃避の状態にある。
 肉体の奥深くにその精神を埋没させ、己を外界の一切から閉鎖された場所に閉じ込め、そこで膝を抱えて慟哭しているのだ。
 実を言えば、この状態はヘルにとって願ってもいない好機であった。
 理由は簡単である。今ならば、存在力を弱め崩壊寸前まで追い込まれた弱き『アランソン候=碇シンジ』の魂を殲滅、駆逐し、肉体とコアを完全に我が物とすることができるからだ。
 気力が充実したアランソン候の強さが常になければ、碇シンジは魔皇ヘルとの生存競争――
 肉体争奪戦に勝利することはできない。

 そして今、その気力と強さは忘れ去られたかのように、碇シンジの中から消え失せている。
 女皇ヘルさえその気になれば、シンジは真の意味でこの世から消滅し、変わって肉体とコアを手にした完全体の魔皇ガルムマスター=ヘルが誕生していたことだろう。

 だが、ヘルは意外にも――常人の感覚からすれば、きっとこう思われるに違いない――碇シンジを滅ぼし、その肉体とコアの支配権を手中に収めようという行動に出ることはなかった。
 たた、奥に埋没していったシンジに代わり、暫定的にその肉体の表層に浮かび上がってきたに止まったのである。

 何故か。人間には不可解過ぎるかもしれないが、これには彼女なりの理由がある。
 つまり魔皇ヘルは、碇シンジ――いや、アランソン候という男を人間という研究対象のサンプルとして選び、これを暫し観察し続けると決定したのだ。
 彼女は、もはや『予知』とも言えるまでに強力なその『予測能力』を駆使し、北欧に伝わる時と運命の女神ノルニルたちのように、とある『未来』を読んでいた。
 その未来とは、即ち、ジャン・ダランソンの覚醒。……これである。

 魔皇カオスが間も無くこの新世紀にやってくる。
 彼女の到着と同時に、その覚醒を引き起こすトリガーの役目を果たす物体と男たちも届く。
 リジュ伯カージェス。クレス・シグルドリーヴァ。そして……ロンギヌスの剣。
 これらとの再会により、恐らく、ジャン・ダランソンは目覚めるだろう。

 ヘルが目的とするのは、その瞬間だった。
 己の生命や存在と同レヴェル、あるいはそれ以上といえるまでに高いプライオリティを置いていたものを次々と失い、崩壊寸前まで追い詰められたアランソン候=碇シンジの心と魂。
 それが中世からのたったひとつの『メッセージ』を受けるだけで、再び魔皇ヘルすらも凌駕するまでに強力な存在力と気力を取り戻す。たかが人間風情が、である。

 ヘルが見たいのは、まさにそれ。彼女は、その瞬間こそを観察したいのだ。
 そして、それを目撃した瞬間の自分の反応というやつも、興味の対象の一つとしてあった。
 監視機構使徒との決着にも、深い関心はない。今の肉体の支配権や、己の持続的な存在の可能性など、もはやどうでも良かった。ただ、彼女は知りたかった。観察してみたかった。

 全てを知る者が投げかけたリドル。そして、人間がもたらす予測不可能にして未知の領域。
 魔皇ヘルにとって、それが「面白い」と思えるのなら、自身すらその研究・観察の対象となる。
 それがガルムマスター=ヘルであり、彼女が超越者『魔皇』である所以である。
「……」
 彼女は無言で、星の瞬きはじめた空を見上げていた。
 先ほどまでの鮮やかな茜色はすっかりと薄まり、夜闇に溶け込みはじめている。
 彼女が振り仰ぐのは目に映る空ではなく、空間を超えたその裏側だ。
 人間は感覚的に、そこを『亜空間』と呼ぶ。

 世界が今、激しく身悶えし絶叫をあげているのが、ヘルには分かる。
 魔皇カオスが降臨し、自分の体内にルシュフェルが甦る瞬間を、この世は恐れているのだ。
 かつてクロス=ホエンすらを震撼させた大魔皇の、そのあまりに強大な存在力をこの世は拒んでいる。
尤もだ。……ヘルはそれに納得している。
 魔皇一体ですら、この世にはあまる。その器に対して、魔皇という名の超越者の存在は大きすぎるのだ。

 もともと、究極の中心『クロス=ホエン』に存在していた自分たちだ。
 こんな低次元の幼稚な世界に降り立つには、多少無理がある。
 下手をすれば、魔皇三体が終結した時点で時空連続体そのものが崩壊してしまうやもしれない。
 それはどこか、魔皇に相対した人間が精神崩壊をおかす実態に似通っていた。
「カオス……」
 時空の向こうからでも、己の半身たる存在が放つ強烈なプレッシャーを感じる。
 究極にして最強とされる『混沌』の力を使い、監視機構使徒の時空障壁すら打ち破り、まもなく彼女はこの地に降り立つだろう。

 最近、ヘルは魔皇カオスを考察してみる時間を多くとっていた。
 何故カオスは、サタナエルと共謀してまで、こんなにも回りくどい真似をしたのか。
 仮人格『リリア・シグルドリーヴァ』に己の支配権を奪取されたのは、真に事故であったのか。
 カオスほどの者が、それしきのことを全く予測すらしていなかったというのか。

 ……確かに、人間の心が織り成す「揺らぎ」の効果は不可思議だ。
 ヘル自身、これを完璧にシミュレートすることは難しい。
 むしろ、そんな性質をもつからこそ、アランソン候の観察を続ける気になったのだ。
 それ故、カオスが『心』という名の知恵の実を手にし、予想外の力を身につけた『リリア』という仮人格にその身を乗っ取られたと言われても、納得できないことはない。

 だが――やはりどこかに違和感が付き纏うのも確かだった。
 ヘルがカオスについて考えたのも、そこに不審を抱いたからだ。
 そして彼女は、様々な要素を加味し熟慮を重ねた結果、魔皇カオスの真意に到達したと思わしき仮説を構築することに成功した。
 その仮説とはつまり、リリア・シグルドリーヴァが、魔皇カオスを制圧したのではない。
 魔皇カオス自らが、リリア・シグルドリーヴァに制圧されることを望んだ。即ち、これである。

 カオスは恐らく、『混沌』と『知恵の実』の類似点に着目したに違いない。
 両者は、絶えず揺らぎ、そして魔皇を持ってしてもシミュレートが困難であるという点で、確かに似通っている。
 だから魔皇カオスは、究極の『混沌』という力を完全な形で召喚し、使役するために……
 人間の持つ『心』という名の『混沌』を我が内に取りこもうと考えたのであろう。

 だが、魔皇が人間のレヴェルまでその存在のグレードを落とすことは不可能。
 そこでカオスは、人間に近しい仮人格『リリア』を作り出し、これを適当な人間と混じり合わせることで、人間の心を習得しようとした。クレス・シグルドリーヴァは、たまたま、カオスにその道具として選ばれたのであろう。
 彼との交流によって『リリア』に心が芽生えるように導き、その人格に己を支配させる。
 人間の揺らぎをもった、魔皇カオス=リリア・シグルドリーヴァの誕生である。

 そして、ヘルが評価するに、カオスのこの試みは見事に成功したと言えよう。
 何故なら、魔皇カオスは単体で監視機構の大天使たちが展開した『混沌』製の時空障壁を打ち破り、この新世紀にやってこようとしているからだ。
 カオスは恐らく、ほぼ完璧に近いまでに混沌を使いこなすまでになっているに違いない。

 エンシェント・エンジェルたちが躍起になろうが、混沌を使いこなせなかった理由がこれで説明がつく。混沌の制御には、人間の要素が必要だったのだ。
 これは仮説に過ぎないが、恐らくジャン・ダランソンの精神が復活した時点で、あるいは証明がなされるかもしれない、とヘルは考える。

 アランソン候が目覚め、魔皇ヘルの力をその強大な人間の意思の力で制御するようになった時……
 おそらく、彼もカオスと同レヴェルでの『混沌』の制御が可能となるのではなかろうか。
 人間の揺らぎと心を持つた、超越者魔皇。
 それは単体で、かつての明星ルシュフェルを凌駕する存在ともなり得る。
 魔皇カオスは、誰よりも早くその結論に到達していたのだろう。
「近いな……」
 やはり、貴皇は面白い。差し迫るその瞬間に、冥帝は囁いた。




 ■第3新東京市 ジオフロント NERV本部 第一発令所
 九月一三日 二四時二七分


 あり得ない例えではあるが、もし部外者がこの発令所へと続くドアを潜り、初めてその場の雰囲気を目の当たりにしたとしたら……
 恐らく、その異様な緊張感に少なからず驚愕したことだろう。

 発令所には、深夜であるにも関わらず既に総帥・碇ゲンドウ、副司令・冬月コウゾウ、技術部主任・赤木リツコをはじめとする主要スタッフがそれぞれの指定席について状況を見守っていた。
 ……何の状況か。それは、広大なこの空間の壁一枚を半ば占拠するかのように設置されたメインスクリーンに表示されている『カウント・ダウン』が物語っている。

 現在、0:57:24と表示されているその巨大な電光デジタル表示は、約五七分後に「約束の時」が訪れることを意味していた。
 このカウントは、中世にいる『自由天使タブリス』から新世紀の『渚カヲル』、そして『特務機関ネルフ』へ、というルートを経て伝えられた情報で、つまり魔皇カオスがこの新世紀に到着する予定時刻を示すものであった。
「一時間、切ったわね」
「はい」
 コンソールの背後から覗きこむ様に身を寄せてきた赤木博士に、息吹マヤは頷いて見せた。
 マヤは勿論、普段から冷静沈着な赤木博士の表情にも若干の固さが見られる。
 いや彼らだけでなく、程度の差はあれこの場に居合わせる全てのスタッフたちがそうであった。
 魔皇カオスの到着が、戦況にもたらす真の影響力というものを正しく認識している証明である。
「先程、フランスの渚顧問官から連絡がありました。間も無く、現地に到着するそうです」
「作戦部長に迎える予定の……葛城特佐も一緒だったかしら?」
「はい」マヤの返答に、赤木博士は一言「羨ましいわね」と呟いた。
 できることなら、時空の壁を破りカオスが降臨する瞬間をこの目で見てみたい……
 そんな欲求が彼女にはある。

 それに際するデータ採集の準備は万端なのだから、直接目視で観察する必要性はない。
 その意味で彼女らしからぬ我が侭であったのかもしれないが、いくら赤木博士と言えど、科学者としての価値観しかもたないというわけではない。
 純粋な人間として、世紀の瞬間が訪れるともなればミーハーにもなる。
「それより、先輩。この計器を見てください」
 そう言ってマヤが示したのは、赤木博士本人が製作した例の怪しげな探知機だった。
 Order of celestial(天上階序=天使の階級)の頭文字「O」と「C」をとって、通称『OCシステム』。使徒や魔皇の力を感知して、計測器やレーダーとして機能するというあれである。
「まだ実体化していないのに、既に反応が出てるんですよ」
「……まさか」物理的にあり得ない話だった。
 何故なら、今カオスたちがいるのは時空と時空を繋ぐ、言わば『亜空間』とでも表現すべき場所である。
 ある「一軒家」をイメージして、その中に幾つかあるドア付きの「個室」を、其々ひとつの独立した『宇宙』として考えたとき、『亜空間』とは、例えるなら「部屋と部屋の隙間」や「屋根裏」にあたるような、辺鄙で特殊な空間なのだ。
 つまり、彼女たちはまだ、この宇宙には存在していない。時の狭間、空間の狭間をさ迷っている段階。
それなのに既に計器に反応がでるなどということは、どう考えても異常な事態である。
「検出される反応の強度は、パターン・パワー。能天使級。全9ランクの内、上から6番目にあたります。
これは、現在確認されるエンディミオンと同階級です」
 マヤの言う通り、ヒエラルキー・グラフの内上から6番目の『Power(s)』と記された部分に蛍光が点っている。計器に誤りはない。すべてが正常に稼動している。
「これは、面白いわね」赤木博士は嘆息した。
 この太陽系に実体化していない存在が、物理法則を超えて計器に反応する。
 確かにそんなことをやってのける魔皇カオス自体も凄いが、それを検知できるシステムを構築したリッちゃん女史もまた偉大である。
「もっと面白いのは、レーダーの方です。ショートレンジに反応したかと思えば、今度はロングレンジ・太陽系外に光点が現れる。また、複数同時に反応があったかと思えば、次はたったひとつ、レーダーの範囲外から反応がでる。タイミングも距離も場所も個数も、てんでバラバラ。
 最初見たとき、早速故障したかと思……ひっ?」
 マヤは不意に強烈な殺気を感じて、小さな悲鳴を上げた。
『故障』というキーワードを発した瞬間、赤木博士にギンッと世にも恐ろしい目で睨まれたからだ。

「あ、いえ、とにかく、反応に統一性がないというか、滅茶苦茶というか……」
 恐怖に口元を引きつらせながら、マヤは何とか誤魔化す様にそう言った。
 なまじ整った顔をした美人であるだけに、赤木博士の睨みには凄みがある。それも滾る怒りの炎というよりは、なんの気配も感じさせず、突如後ろから包丁でブスッ! ……っと来そうな、冷たく静かな危険を醸し出すのだ。
「……」
「……」
 発令所内にあちこちに感じられるものとは、また別の緊張感が二人の間に形成されつつあった。
「あの、先輩?」とにかくこの窮地を免れようと、恐る恐る声を掛けてみるマヤ。

 と、その時だった。天の助けか地の恵みか、計器から注意を促す電子音が発せられた。
 これ幸い。渡りに船と、マヤは当然のことながらそれに飛びついた。
「あ、反応の強度がシフトアップしました。パターン、『パワー』から『ヴァーチャー』へ。これで既に、人型時のガルムと強度が並びました」

 ちなみに、この波形パターン・ヴァーチャーに、あの死神・ゼルエルはランキングされたと予想されている。あくまで予測でしかないが、子供の姿をしているときの <ガルム> と <死神ゼルエル> の戦闘力は、丁度互角くらいであっただろうということだ。

 合計九つしかランクが設けられていないため、一階層の内部でも、時に力的に大きな相違と格差が生まれることはある。
 それ故、同じ階級に位置付けられたからといって、必ずしても両者の力が均衡すると言うわけではないが、それでも目安くらいにはなる。
「この時点で既にヴァーチャー……。となると、実体化すれば第3位ソロネ第2位ケルプ
 下手すると、最上位のパターン・セラフが観測できるかもしれないわね」
 新たな展開に、沈黙と怒気を解いて赤木博士は言った。だが彼女、こう見えて割りと執念深いタイプなだけに、一時的に難を逃れたからといって油断はできない。マヤも長い付き合いで、その辺りのことは充分理解していた。
「パターン・セラフ――最強位の『熾天使』級ですか。まだ覚醒していないサタナエルは別として、現在可能性があるのは魔皇ヘルかガルムちゃんくらいですからね。対監視機構戦に向けて、大きな戦力補強になります」
 魔皇との相対差を考えると、クロス=ホエンのA.A.たちは、間違いなくこの『熾天使級』に位置する存在であろうと考えられている。
 逆にいえば、カオスもそれくらいの力を持っていてくれないと、話にならない。
 これから敵に回そうというのは、神として君臨するバケモノたちなのだから。
「……時間まであと四五分。マヤ。これからのデータは、今後の研究の貴重な材料となります。一瞬たりとも気を抜かないように。今夜は、徹夜になるわよ」
「了解」




 ■フランス ノルマンディ地方 古都ルーアン
 九月一二日 一七時四九分

 キュンキュンと、風を裂くローターの回転音が徐々に収まっていく。
 そこが野原であったら、周囲の草木が多大な迷惑を被ったであろう烈風も、今はその猛威を失いつつある。
 頃を見計らっていたのか、迷彩色に塗装された機体の腹部が一部剥離するように展開し、横にスライドしていった。

 NERVフランス支部が誇る、軍用ジェットヘリ。
 そのタラップから身軽に降り立ったのは、ご存知自由天使タブリスのファクチス、渚カヲルであった。
 まだ微かに収まり止まぬ風圧に、長い銀髪が踊る。
「いい眺めだ」
 夕陽も沈み、中世の姿を色濃く残すルーアンは、静かな夜の衣を纏うはずであったのだが……
 生憎と、高層ビルから見渡す街は、まだ当分落ち着きそうにもない。
 この調子で行けば、今夜眠りが訪れることもないだろう。

 カヲルたちを乗せたヘリが着地したのは、地元企業が所有するビル屋上に設置されたヘリポートである。
 魔皇ヘルが巻き起こした災厄のせいで管理部との連絡がつかず、実は無断借用なのだが、NERVの権限があれば特に問題は生じないだろう。
 本来、ヘリを出動させる以前に着陸場所を確保し、それを事前に届け出なければならないものだが、これもまたNERVの特権を駆使。カヲルはそんなことには頓着せずに、ここ数日ヘリや音速飛行機を使って世界中を駆け回っていた。
「これは……思っていた以上に酷いわね」
 高層ビルの屋上から静かに町並みを見下ろすカヲルの横に、黒髪を躍らせながら葛城ミサトが並ぶ。
所々で上がる真っ赤な火の手。人々の喧騒と夜を切り裂く救急車両のサイレン。
 魔皇ヘルの力の解放がもたらした都市崩壊の光景は、葛城特佐の柳眉を顰めさせるに充分な悲劇を演出していた。
 特に酷いのは、旧市街地だ。歴史ある建造物は、ほぼ全滅。瓦礫と化している。
 夜の薄闇の中でも煌煌と燃え上がる火災の火の手が、それを厭でも照らし出して見せ付ける。
「シンジ君は……魔皇ヘルは、何をしたということもないんです。ただ、魔皇の力をまとった、精神状態の不安定な少年がいた。それだけの事実が、これだけのものを生み出す」
「それが、魔皇の力」
 カヲルの呟くような言葉に、葛城特佐は改めて超越者・魔皇の脅威を認識する。
 ただ存在しただけで。少し力を解放しただけで……都市ひとつを灰燼に帰す存在。

 その少年の身を思えば、特佐の心は痛んだ。
 何もしてはいない。ただ、そこに存在しただけ。
 そんな言い訳が通用するほど、人間という生物は大人ではない。
 今は、テトラ・グラマトンを名乗るサタナエルが、明確な『敵』として立ちはだかっているからまだいい。
だが、この戦争に勝てたとして、その後はどうだろう。超越者の知識と力を手にした碇少年の存在を、人類は赦せるだろうか。

 否……。
 人類は、必ず碇シンジを抹殺しようとするはず。人間というのは、そういう生き物だ。
 己とは異なる存在、とりわけ、人類より強い力を持ち得る脅威を見過ごせない存在なのだ。
 近い将来、碇シンジが世界を敵に回し迫害されていく様が、葛城特佐には目に見えるようだった。

 そして、自分にはそんな少年を救う力も、守る力も、支える力すらない。
 それがあまりに悲しかった。いっそ、魔皇の力を持つ優しき少年に世界を支配させてみては……そんな荒唐無稽な案さえ浮かんでは消えていく。

 だが、特佐は知っていた。それもこれも、彼が魔皇の力を使いこなせるようになればの話。
 もし、彼がそれを持て余し、それが人類の脅威となる方向に向かうのならば、自分は、躊躇なく彼の敵と回り、そしてその命を奪うであろう。
「この戦い、必要な覚悟は半端じゃないのね……」
 囁くような彼女の声に、カヲルは無言で頷いた。
 敵は監視機構や天使だけではない。曝け出される人間の弱さ。そして逃れられぬ性。
 葛城特佐ならば、その本質に逸早く気付けるだろうと、そう思っていたから。
「これは、ただ単に神と人間の戦いではありません。それでさえ絶望的な話である上に……人間はあまり弱い生き物であるという問題もある。神と戦う以前に、自我崩壊を起こしても決して僕は驚かない。サタナエルも、それを狙っている。100%勝ち目はない戦争です」
「なら、アナタは何故こちら側についたの?」
 崩れ落ちた市街から、傍らのカヲルへと視線を移しながら葛城特佐は訊いた。
 詳しい経緯は知らないが、聞けば彼は元々 <人類監視機構> 側に付いていたところを、死神に懐柔されたという。それが特佐には信じられない話だった。
「自由が疼いたんですよ」
 カヲルは微笑を浮かべた。
「僕は自由天使です。自由を失えば、それはレゾンデートルの崩壊に等しい。自由であり続けることを選び、結果死すか。或いは存在理由を失いつつ、勝利者となるか。葛城特佐。貴女ならばどちらを選びますか?」
 紅の視線と、黒の視線が出会う。
 僅かな沈黙の後、葛城特佐は微笑みを以ってそれに応えた。カヲルもまた、それに微笑を返す。その間に会話はなかったが、それでもふたりには充分過ぎた。
 北欧神話の壮絶なクライマックス――最終戦争 <ラグナロク> 。古ノルド語で運命の結末を意味するこの戦争を、神々の黄昏と詩的に訳したのが、かの有名なワーグナである。
 だが、今目前に迫ろうとしている <ラグナロク> は、神々の黄昏となるようには思えない。
 むしろ、このラグナロクは『人類の黄昏』へと向いている。
「それも良いかもしれない」、葛城特佐はそんな風にも思う。
 神との直接戦争に挑み、そして滅びるなら、人類のラストとしては最も壮絶かつ納得のいくものだろう。

 そう考えれば、逆に冷静にものを考えられそうだった。
 もはや結果を考えても仕方がない。精々、華々しく散ることができるよう、全力で挑むまでだ。
 人類が奮起せねば、このラグナロクは盛り上がるまい。
 そのために、最も効率良く自分を生かせるポジションが既に目の前にある。覚悟を決める時間を与えられ、最高の環境を手にして戦うことができる。自分は恐らく、とんでもない強運の持ち主なのだろう。
「葛城特佐、渚准佐!」
 そんなことを考えていた葛城特佐とカヲルの元に駆け寄って来たのは、彼らをここまで送り届けてくれたヘリの操縦士であった。
「お話のところ失礼します!」
 ビシッと敬礼を決める彼に、特佐は同じくNERV式の敬礼を。カヲルは苦笑交じりの笑みを返す。
フランス支部所属のNERV職員であるが、口の利き様といい、敬礼といい、背筋に矯正用のフレームでも仕込んでいるかのような姿勢といい、軍歴のあるベテランであることは歴然である。
「なにか?」
 パイロット用のヘルメットを小脇に抱えた操縦士に、およそ軍人などといった雰囲気とは程遠いカヲルが穏やかな声を掛ける。
「はっ。我々は御二方をルーアンにお連れするようにとだけ、命じられておりましたもので。今後の指示を承りたく思います」

 その問いに、一瞬カヲルは特佐の顔を仰ぎ見たが、無言で「任せる」との答えが返ってきた。
 階級としては、葛城特佐が准佐であるカヲルの1階級上に位置するわけであるが、実際この場で最大の権限を持つのはカヲルの方である。
「……お疲れ様でした。それでは、もう支部の方に帰ってもらって良いですよ。僕らはここで用を済ませたら、直で第三新東京市に戻りますから」
「はっ。それでは、失礼致します」
 再び敬礼を決めると、操縦士は走り去り、そのままジェット・ヘリと共に東の空へ消えて行った。
 カヲルは楽しげな視線で、それをボンヤリと見送ると、再び葛城特佐に向き直って言った。
「あと半時間もすれば、ここに魔皇カオスがやってきます。それとほぼ同時に、ドーヴァー海峡を渡ってこのノルマンディに上陸した <エンディミオン> 三騎もやってくるでしょう。特佐には、それを観察してもらいます」
「エンディミオンが、このルーアンに? 何故?」
 フランスの北部、ノルマンディ地方においてルーアンは確かに軍事的要所であった。
 だがそれは何世紀も前。ラ・ピュセルの時代の話だ。現代社会において、このルーアンの街はエンディミオンの標的になるほど重要な拠点とは言い難い。
「無論、カオスに引かれてくるんですよ。エンディミオンは不穏分子を察知し、それを殲滅することを目的として作られた存在。本来地球上にはあり得ないはずの、しかも強烈極まりない天使の波動。
 魔皇の存在は、エンディミオンにとって芳情の蜜の香りといったところです」
「なるほど……」特佐は軽く頷くと、考えをまとめるために口を開いた。
 彼女は他愛のない会話の中で、自分の思考を練っていくという技術に熟練している。
 長い軍人としての生活と、生まれ持った才を活かした能力である。
「カオスが到着するとほぼ同時に、エンディミオンもここに着く。実体化すると同時に、エンディミオンとの戦闘が開始される。魔皇カオスの戦いと、そして敵であるエンディミオンの戦闘能力もこの目で確認できる。つまり私をここに引っ張ってきた理由は、それね」
「正解です。あなたは科学者や研究者ではない。兵士であり、軍人であり、そして戦術家だ。
 数値としての情報ではなく、戦場で敵の力を肌で感じることで、1番効率良くデータを吸収するタイプでしょう。だから赤木博士ではなく、貴方をここにお連れした」
「慧眼、恐れ入るわ。渚カヲル准佐。貴方は、私の良い刺激になりそう。やっぱり、近くに出来る人間がいると、燃えてくるわよね」
 かつて、ひとりだけ葛城特佐には好敵手と認める存在がいた。
 その歩む道の違いから、今では遠く離れてしまったが、あの頃は本当に良かったものだ。
 彼女が側にいたときはいつも、日々が緊張感に溢れていて……そう、スリリングだった。
 握り締めた拳に、ジンワリと汗が滲んでくるような瞬間の連続。
 良くも悪くも、葛城ミサトは敵がいなければその本領を発揮できない。
 それもただの敵ではダメだ。殺るか殺られるか、一瞬たりとも気の抜けない強力な敵だ。
 張り詰めた精神と肉体の極限状態。これが、葛城ミサトの『本気』には不可欠なのである。
「……三〇分後」
 カヲルは右手に付けた腕時計をチラリと覗き込むと言った。
「貴方好みの、燃えるシチュエーションが訪れますよ。イヤでもね。活目して見ていてください。世紀の瞬間というわけです」



SESSION・154
『第3の魔皇』


 初めてあの人と出会ったのは、もう数年前のことだ。
 いや、まだ数年というべきなのか。私は人間ではない故、そのあたりの感覚は良く判らない。
 地図にもない、北欧の小さな寒村。その寂れた小さな路地で、私たちは出会った。
 周囲には二七人の部下。その中心に、馬上の彼がいた。
 彼らは傭兵。あの人はそのシェフ――つまり、長だった。

 私の姿は、人間の目に大層美しく見えるという。
 それ故か、それまでにも私を我が手に収めようとする輩が、幾度となく襲撃を仕掛けてきた。
 つまり、美しい容姿をもつ女の肢体は高く売れるらしい。彼らもまた、そんな輩と同じ目的を持っていたのだろうか。
「いや。あの時リリアがあの場所にいたのは偶然だ。近くの村の宿に、絶世の美女が近頃逗留しているってウワサは耳にしていたけれど」
 かつて私がそのことを問うた時の、彼の返答。
 多分、真実なのだろう。初めて視線が交差したとき、そのブルーの瞳は確かに驚愕に見開かれていたから。

 ――この者と、しよう

 その深い青の目と出会った時、私の奥底でそんな声が聞こえたような気がする。
 今思えば、あれが魔皇カオス本体であったのかもしれない。
 カオスは、自らの表層に『リリア』という擬似的な人格を作り出し、そして彼女が人間と交わることを望んでいたらしい。

 状況から考えて、恐らく人間の内包する混沌、『心』というものに興味を抱いたのではないだろうか。
あるいは、魔皇ヘルと同じくそれを研究しようと考えたのかもしれない。
 目的は多分、混沌をより自在に使役するためだろう。

 獣であった人間という生物の「魂」。それにルシュフェル・コアの「欠片」が融合し、不可思議な反応を起こして生まれた存在。それが人間の、いわゆる『心』と呼ばれるものだ。
 脆弱で儚いが、微かな因子の挿入で時に魔皇の存在力すら凌駕する人間の精神。
 ある意味、それは魔皇カオスにとっても魔皇ヘルにとっても、非常に興味深い研究対象だったのだろう。
着目の仕方こそは違ったが、結局彼らは同じモノに関心を抱いたということだ。

 カオスは、この『揺らぎ』と『絶対性』の同居する人間のソウルを学習、あるいは研究することで、未だ監視機構の4大天使でさえ完全には扱いきれなかった『混沌』の力にアプローチしようとしたのではあるまいか。
 私なりの仮説ではあるが、それなりの説得力はあるように思える。
 それに内なるカオスも、私の導き出したこの結論を否定するような素振りは見せない。

 結局、魔皇カオスの試みは成功したと言って良いだろう。
 私は自分でも窺い知れない動機から、このクレス・シグルドリーヴァと行動を共にするようになり……
そして恐らく、人間の持つ混沌を垣間見たのだから。


 ――ペドロ。
 その少年の名が、初めてあの人の口から語られたのは正確に五一二日前のことだ。
 途切れ途切れ、努めて淡々と話そうとするあの人の言葉を総合すれば、『ペドロ』というまだ10に満たない少年との出会いは、あの人の心に大きな影響をもたらしたらしい。

 あの人は、そのペドロ少年を『たったひとりのオレの友人』と表現した。
 その時以外、あの人が『友人』『友達』といった類いの表現を用いたことはないと記憶している。
 つまり、その表現を用いたことに、かなりの大きな意味があったと解釈できるだろう。実際、あの人にとってペドロ少年の存在とそのプライオリティは絶大なものだったようだ。

 だが、あの人はその友人を失った。
 あの人の故郷に傭兵が襲来し、その時、少年は惨殺されたという。
 あの人は……それを崩壊するほど哀しんだ。
 この世に、現実というものに絶望したあの人は、貴族も、故郷も、家族も捨て、傭兵になったという。
もともと伯爵家の嫡男だった彼は、普通に行けば母が持つ爵位を継承し、小さいながらも一国の支配者として生きるはずだった。だがそれでも、彼は傭兵にその身を自ら落としたのである。
「人生なんて、ゴミだ」
 命なんて邪魔なだけだ。あの時、オレはそう考えていた。いや、正確には今もそれは変わらない。
 この話は、まだ誰にもしたことがない。
 いくつもの仕事を共にこなして来た傭兵仲間にも、母親にも、誰にも。誰にもだ。

 屑みたいな、絶望だけの救いのない物語。
 だけどこの時代にはどこにでも転がっている、珍しくもない小さな物語。
 小さな小さな出会いと別れの物語。

 そんな話を聞きたがる奴なんて、何処にいる?
 いやしない。聞く価値もない。だから誰にも話さなかった。誰にも話したくなかった。
 これはオレの記憶であり、命の標であり、傷だ。
 オレ一人が知っていればいい。ただ、オレだけが。
「そう、思っていた」

 あの人は……クレスは、常人の何倍も情操豊かな人だ。
 感じやすくて、傷つきやすい。
 だからあの人は、世界が寝静まった夜、不意に寝台から起きあがり、声を殺して、ただ震えながら泣きだす。月に一度は、必ずそんな夜があった。それは、今も続いている。

 心に欠損を負ったのだろう。私はそう判断した。
 ペドロ少年との死別があの人の精神に深刻な打撃をもたらし、結果、あの人の心は欠損した。
 修復されないまま現在に至るため、その事態を表層化して己と周囲に報せるため、彼は哀しみという感情を表に現し、涙を流す。

 あの時は、私自らによる補完が必要だとは、思わなかった。
 ただ、あの人が自らそれを修復できないのならば、私が介入することで修復をサポートする方が好ましいと思っただけだ。だから、人間が良く使うらしき表現を用いて、私はこう言ったことを覚えている。
「私は、あなたを癒したいのです」
 だが、あの人は寝台の上、私の傍らで涙しながら静かに首を左右した。
 疑問に思った。欠損が生じたなら、修復を望むのが生物として適当な反応だ。
 おそらく本能レヴェルでもそうプログラムされているはずだ。しかし、それにも関わらず、彼がそれを拒むのは何故であろうか、と。

 静かな夜の時の中で、彼は囁くように言った。
「癒しちゃいけないんだ……」
 私たちの寝台は、両開きの大きな窓際に置かれていた。
 開かれた古い木製の戸は開かれ、そこから月の光が差し込み、あの人の涙にぬれた頬を青白く照らし出していたのを良く覚えている。
「クレス・シグルドリーヴァは、ペドロと云う名の少年が、とても、とても好きだった。
 二人は親友だった。歳は離れていたけれど、掛け替えのない絆で繋がれた、この世でたった一人だけの友達同士だった」
 あの人は、涙を拭うことも忘れて、ただ月明かりに照らされたまま語った。
 私に向けて話し掛けているのか、それすらも定かではなかった。だが、私はそれを興味深く聞いていた。
それが、あの人の核――そう、まさにコアに触れる何かだと思ったからだ。
「ペドロは死んだ。オレたちはもっと、ずっと一緒にいたかったのだけれど……その願いは、最悪の形で破れてしまった」
 薄い月光に、彼の体が小刻みに震えているのが分かった。
 何故だか、嗚咽の変わりに彼が涙の理由を語っているように思えた。
 彼の声は、今こそ言葉として外に出されているが、本質はそのまま慟哭そのものなのだと思った。
「悲しかった。とても、とても……。心が壊れてしまいそうになるほど、哀しかった。オレは、ペドロの亡骸を抱きしめたまま、そこで1晩中泣いた。常人の一生分の涙を、オレは1夜で流し尽くした。  その残酷な現実と悲劇に、自分の精神が歪んでいく奇妙な感覚さえ感じていた」

 そして、彼は傭兵になった。
 恐らく、奪われる側から奪う側に回りたかったのだろう。壊されるものを持つ者より、壊す者になりたかったのだろう。ある意味、それは俗に言う『逃避』というものではないかと、私はその時思った。

「だけど……」あの人は涙に塗れた顔を上げて、その潤んだブルーの瞳を私に向けて言った。
「あいつが好きだったから、オレは悲しいんだ。死ぬほどあいつと仲が良かったから、こんなにも哀しいんだ。オレたちの間にあったものが、掛け替えのない本当の絆だったから、壊れちまうほど痛いんだ」

 また、彼の瞳から新たな涙がポロポロと零れ出した。
 月の光に弾かれて、それは……
 そう。今なら分かる。その時はその感覚が何なのか理解できなかったが、私は確かに、それを見て『美しい』と感じていたのだ。
「――大きくて強い絆だったからこそ、こんなに辛いなら。オレの想いが本物だったからこそ、こんなに胸が軋むのなら。これがペドロだったからこその哀しみだと言うのなら……」
 彼は涙を流しながら、静かに目を閉じた。
 口元に、柔らかな微笑が浮かぶ。そして、まるでそこにあの時の少年の姿を見ているかのように、両腕をゆっくりと広げ――
「不思議なもんだな。あんなに泣いたくせに」
 あの人は、月の光ごと、虚無を抱きしめた。
「この痛みさえ、たまらないほど愛しい」
 ――その時、私は思った。そして悟った。
 私は敗れたのだ、と。

 私は、ペドロという名の少年に永遠に勝利することはできない。
 使徒最強の称号をもつ『死神ゼルエル』である自分の戦闘力など、この少年との戦いには何の効力も持たない。私は、その事実を衝撃と共に悟っていた。

 だが、それより驚愕に値したのは、私自身のその反応だった。
 何故なら『敗北』という観念は、私がクレス・シグルドリーヴァの価値観を支配したいと望んでいたことを意味する。
 あまねく全ての存在と相対し、クレス・シグルドリーヴァの心にとって、『リリア』という存在が常に頂点に君臨し続けることをどこかで望んでいたことを意味する。
 ……そう。私は、あの人を征服したいと考えていたのだ。  そして、それは心持たぬ『使徒』にはあり得ない観念であった。
 勝利を望まなければ、敗北は成立しない。私は勝ち取りたかったのだ。クレスという人間を。
 欲しかったのだ。いつしか、欲しがっていたのだ。あの人を。
 思えば、あれが、リリア・シグルドリーヴァの――
 そして一〇〇〇年の恋の、はじまりだったのかもしれない。


 カオスの目論見は成功した。
 クレス・シグルドリーヴァを選び、彼と行動を共にさせることで、表層人格『リリア』に人間の心を芽生えさせる。天使が、知恵の実を手に入れる。
 それによって死神ゼルエルこと『リリア』は、リリア・シグルドリーヴァとなり、そして人間の持つ混沌、すなわち揺らぎあるココロというものに目覚めた。
 これを我が内に取りこむことで、魔皇カオスはさらにその力を強めることになったわけだ。

 クロス=ホエンより、この次元に『混沌』の力を召喚し、それを自在に使いこなす。
 かつてのルシュフェルすら使いこなせなかった混沌を、ほぼ完全なまでに制御する。
 まだ監視機構のエンシェント・エンジェルたちでさえ成し得ていない偉業である。

「しかし……私には、そんなものはもうどうでもいい」
 私はもう、リリア・シグルドリーヴァなのだから。
 我が内に魔皇の力が眠っているというのなら、それすら使いこなして見せよう。
 たとえ魔皇カオスの目的が、『混沌』という力そのものにあったとしても……
 リリア・シグルドリーヴァにとって、その混沌の力とは、『この先ふたりが強く在る』という目的に対する、ただの手段でしかないのだから。
「――ここだ。このタイミングでゲートを開く。それによって、この時空跳躍は完了される。僕らは、新世紀に降り立つんだ」
 クレスが展開する遮蔽領域に守られながら、自由天使が宣言する。
 既に『時空障壁』は超えた。もはや我々をさえぎる壁は、なにひとつない。
 新世紀。全ての決着を、この時代で着ける。私はそれを全てにかけて誓おう。
「私が開きます。タブリス」
 禁咒を以って時空のゲートを開こうとする自由天使の背に、声を掛ける。
 監視機構の大天使たちが四人掛かりで展開した『障壁』を単独で破った直後だ。
 これまでにないほど、私は疲労している。だが、この扉だけは……何故だろう。自らの手で開きたかった。

 あの男たちの最期を見届けたからだろうか。
 人間的な感傷だ。自分でも、思う。だが、それがどこか嬉しい。
 ……恐らく、これすらも人間的な感傷なのだろう。
 良い兆候だ。あの人は、クレスは多分、そのことを喜んでくれると思うから。
 だから私も、それを喜びと共に迎え入れられる。
「大丈夫なのか、デス=リバース。貴女は、時空障壁を破るため力を使い果たしたはずだ」
 タブリスが振り返って言う。表情こそ変えていないが、彼自身、禁咒とされる奥義の連続詠唱でかつてないまでに力を弱めているはずである。
「そうだぜ、リリア。無理はするなよ。向こうに着いたら着いたで、敵さんの新型と、すぐに鉢合わせなんだろう?」
 亜空間の猛威から我々一向を守るため、広域の閉鎖空間を展開しつづけているクレスも既に限界が近い。まだゼルエルとして完全覚醒したわけではない彼の疲労は、その息も絶え絶えな口調だけでも明らかだ。
「いえ。この死鎌を一閃すれば済むことですから」
 私は、その手に構えたシルバー製のステッキの先端に、再び『混沌』製の刃を生み出す。
 混沌の三日月。カオス・ブレイバー。
 それは掠れるような、弱々しい混沌ではあったが、時空の壁を一時的に切り開くには、十分過ぎる力を秘めている。
「いきます――」
 精神を手にした死鎌に集中し、呼び集めた混沌に乗せ、
 眼前に立ち塞がる遍く全ての障害を断つ。

 そして、時空の門は開かれた――



■第三新東京市 ジオフロント NERV本部
九月一三日 〇一時二三分

 市の地底に構えられた本部の中枢、第一発令所には今、大きく2種類の人間がいた。
 即ち、データ収集と現地との通信に目まぐるしく動き回り、数多の処理に忙殺される者たち。
 そしてその様と刻一刻と迫るその時を知らせるカウントダウンを固唾を飲んで見守る指揮官たちである。

 だが、立場と組織的な位置付けによって、その瞬間を迎える態勢こそ若干異なるものの、かつてない緊張感を抱き着実に減っていくカウントダウンの電光掲示に注目するという点において、両者は共通している。
 それだけ、訪れ様としているその時は、NERVにとって大きな意味合いを持つ瞬間なのだ。
「予定時刻まで、あと五九秒。音声によるカウントダウンを開始します。……五八……五七……五六……五五」
「ルーアン上空に時空異常を確認! 空間の歪みが徐々に顕著になっていきます」
「OCレーダーの反応が、フランス・ルーアン市に収束していきます。検出される波形パターンもこれに応じてシフト。加速度的に強まっていきます」
「パターン・ヴァーチャー(第五位・力天使級)から、ドミニオン(第四位・主天使級)へ……
 あ、いえ、パターン・ソロネ(第三位・座天使級)へ! 止まりません!」
 矢継ぎ早に入るオペレーターたちの報告に、流石の赤木博士も対応に追われる。
 様々な方向から声が上がるたびに、白衣を翻し計器やデータの流れるモニタに熱い視線を注いでいた。
「先輩、いよいよですね」
 レーダーを瞬きするのも忘れて見守っていたマヤが、振り返りざま赤木博士に言った。
「ええ。カウント・ダウンも一分を切った……もう空間にも歪みが観測されはじめてるし。
 それで、マヤ。欧州に落ちたエンディミオンの反応は?」
「はい。エンディミオン三機は未だ高速で移動しています。速度は音速を超えていますね。
 ドーヴァー海峡は既に抜けて、ノルマンディに上陸。この速度を維持した場合、時空異常の観測されるポイントまで、あと……四三秒で到達されると予測されます」
 広い発令所のどの位置からでもハッキリと見ることができる、巨大なカウントダウンのデジタル表示。
あと、四七秒。ほぼ、カオス降臨とエンディミオン襲来のタイミングは一致することになる。
「――面白いわ。魔皇に引かれているのかしら。それに、この時代に到着した瞬間、エンディミオンと戦ってくれるわけね。……興味深いデータが収集できそうだわ」
「はい。準備は万端です」
 赤木リツコと息吹マヤ。NERV技術部のトップに君臨する師弟は、神妙な表情で頷きあった。



■フランス ノルマンディ地方 古都ルーアン
九月一二日 一八時二四分

「……来た」
 高層ビルの屋上、暗く夜闇に沈んだ地平線の彼方を微動だにせず見詰めていたカヲルは、不意にそう呟いた。同時に、その口元に浮かんだ微笑が、冷たく鋭利に尖っていく。
 その鋭い目と笑みは、狩りの獲物を捉えた猟師のそれを見る者に連想させた。
「来たって、どっち?」
 傍らに立つ葛城ミサトは、勢い良くカヲルに首を振って訊いた。
 彼女は使徒の暗視能力も、天使の波動を感知する能力も持ち合わせていない。
 なんとなくカヲルの隣に並んで、遠くドーヴァー海峡へと続く地の彼方を見詰めていたりするが、ハッキリ言ってその行動に意味はなかったりする。
「どっちが来たの? 中世のチーム? エンディミオン? どっち?」
「ちょ、苦し……首、首絞まってます特佐……」
 興奮を隠しきれない特佐に、首を絞められガクンガクンと揺さぶられるカヲル。
 普段、朝日を浴びて煌く処女雪のような白くて艶やかな肌が薄らと紅潮していることから見ても、どうやら本気で苦しいらしい。
「で、どっちなの?」
 言われて大人しく手を離した特佐だったが、それでも興奮はまだ冷め止まない。
 グッと顔を突き合わせて詰め寄る。
「どちらもですが……」
 赤くなった首筋を片目を瞑ってさすりながら、カヲルは苦し気に言う。
「一足先においでになったのは、エンディミオンの方らしいですね。もっとも、中世組の方もすぐそこまで来てるようです。両者の差は数秒といったところでしょう。ほぼ同時と言って良いですね」
「あ、そう言えば、遠くから聞こえるこのモーターが高速回転するような甲高い音……」

 流石の特佐も、ソニックブームを撒き散らしながら地平線の彼方より接近してくる人型の気配を察知したらしい。
 夜の暗闇に紛れて判別し辛いが、土埃か粉塵か、濛々と空高く舞い上げられているのが分かる。
 高速移動に伴なう強力な衝撃波が、大地を抉り、ただでさえ打撃を被って崩壊寸前の町並みを破壊し尽くしているのだ。
「こっち……こっち来てるわよ、なんか?」
「そうみたいですね。まぁ、当然でしょう。彼らは、僕らのすぐ側に『ワープ・アウト』する予定の中世組を目指して遣って来ているわけですし」
 国連軍自慢の最新鋭・戦闘機編隊も、最強の非核兵器『NN地雷』すらも通用しないバケモノの接近に慌てる特佐と、それとは対照的に落ち着きを払ったカヲル。
 二人が漫才を繰り広げている間にも、エンディミオンは足を緩めることなく走り続ける。
 火災に焼かれ燃え上がる家屋や建築物の炎が、無機物で固められたエンディミオンの銀の巨体を凶々しく煌かせていた。
「……ちょっと、大丈夫なんでしょうね。『観察』とか言っといて、巻き添え食って死んじゃったら洒落になんないわよぅ? 世界は、葛城ミサトという大いなる財産と優秀な兵士を失うの! まだピチピチの一八歳なのに! 肌だって、水弾くし!」
 再びカヲルの首をガックンガックンと揺さぶりつけながら、特佐は半泣きで叫ぶ。
 彼女も自分が本気で死ぬとは思っていないらしいが、それでも不安なものは不安なのだろう。
 どさくさに紛れて、さりげなく自分の若さを怪しくアピールする余裕は、流石数々の修羅場を潜りぬけてきた一流の兵士といったところか。
「大丈夫ですよ、ほら、上を見てください。空間が、歪んで見え、るでしょう。時空異常……亜空間に通じるゲート、が、開こうとしている前兆……ですよ」
 グラグラと揺さぶられながら、息も絶え絶えにカヲルは宙を指差す。
 手を止めた特佐がその方向を見上げると、確かに夜空がグニャリと歪んで見える。そう、例えるなら石でも投げこまれたか、波紋に揺れる透明な水面。波立つように、夜空が歪に曲がりくねっていた。
「ホント……月が、ハート型に見えるわ……」
 同じ歪みを、エンディミオンたちもまた、見上げていた。
 既に走行を止め、カヲルと特佐がいる高層ビルを取り囲むように包囲している。
 第三新東京市で、G.O.D.と戦った時と同じである。待っているのだ。標的が現れるその瞬間を。
 微動だにしないその姿は、銀で象られた巨神像のようだ。
「はじめまして、エンディミオン」
 紅の瞳に見下ろす巨神たちを映しながら、カヲルは言った。
「……もっとも一〇秒後には、サヨナラを言わなければならないけれど」



SESSION・155
『カオスの戦乙女』


■フランス ノルマンディ地方 古都ルーアン
九月一二日 一八時二三分

「特佐、楽しかった談話はここまでです。これから起こることを、全神経を集中して良く見ていて下さい。ここで見て、経験して、実体験したものが、今後、貴方にとって大きな財産となるはずですから」
 ルーアン上空、歪み捻じれはじめた空間と、それを見上げるエンディミオン。対峙する両者を観察する者、渚カヲルは口調を改めて言った。口元にはいつもの涼しげなアルカイック・スマイルはない。
 それだけでも、これから起ころうとしている事態が、ただならぬ大事であることが分かる。
「……了解」葛城ミサト特佐も、モードを切り替えた。
 その表情に、兵士としての緊張感が宿る。まるで多重人格者のペルソナが入れ替わる瞬間だ。先程お茶らけていた女性とは、完全に別人である。

 歪んだ空間に、空気が吸い寄せられていく。生身の人間である特佐にも、何かが起ころうとする瞬間が肌で感じられた。いよいよ、である。
「来るわね……!」



 ■第三新東京市 NERV本部 第一発令所
 九月一三日 〇一時二四分

「エンディミオンの進行が止まりました。場所は、ルーアン旧市場広場付近。聖ジャンヌ・ダルク教会から北西一六メートル地点。フランス国軍指標参考、ポイント座標EZG一MY8Z+32.44M」
「ルーアン市上空の時空異常、さらに加速していきます。これに伴ない、磁気嵐と空間の歪みによって電波障害が発生。モニタできません」
 発令所前面の壁一枚を占拠する巨大メイン・スクリーンには、現地の様子が映像として映し出されているが、
報告通り確かに、時を追うにつれ混じるノイズが大きくなってきている。
 そう遠くない未来、映像が完全に途切れるであろうことは容易に予測できた。
「予定時刻まで、あと一〇秒。……九、八、七、六」
 遂にタブリスが予告した時刻まで、一〇秒を切った。
 スペースシャトル打ち上げの瞬間を連想させる、緊迫感に満ち満ちたカウントダウンが、スタッフの一人青葉シゲル上級特尉によって行われる。
 データ収集と通信に追われる作業員以外の者たちは、皆その様子を固唾を飲んで見守っていた。
 異様な熱気と、それに相反する凍りつくように冷たく、張り詰めた空気が場を支配する。
 そんな中、たった一人だけ興奮を内に抑え込み、その瞬間を最高の状態で迎えようと未だ努力を続ける者がいた。技術開発部最高責任者、赤木リツコ博士である。

「マヤ。映像記録は超越者たちの音速を遥かに凌ぐ高速戦闘では、どの道役に立ちません。問題は、計測されるデータよ。一〇秒以内に、全ての探知機、レーダー、計器を再点検。異常がないか確認して」
「了解」
 上司の指示に、マヤは素早く事故診断プログラムを立ち上げると、同時に自分の目と勘を総動員して自らチェックを行いはじめた。経験と慣れから極度に合理化されたその動作は、一種、芸術的と言えるまでに洗練されている。マヤは指定された時間内に、課された仕事をやりこなした。
 一方、赤木博士も最も頼ることになるであろう、自作のOCシステムの点検に自ら立ち会う。
 その瞬間にも、刻々と時は近づいていた。
「五セコンド……四、三、二、一」
 ――それは、カウント・ゼロの瞬間に起こった。
 空間をフレーム化した、擬似的な三次元ホログラフィに巨大な亀裂が走る。
 発令所内にけたたましい警戒音と、紅いハザードランプが走った。
「ルーアン上空に再び時空異常発生!」
「空間が……空間が、外側から斬られました!」



 ■フランス ノルマンディ地方 古都ルーアン
 九月一二日 一八時二四分

 空間の歪みが極限に達し、その姿を保ちきれなくなった瞬間……
 彫像のようにそれを見守っていた三機のエンディミオンたちが宙に舞った。
 歪みと捻じれが限界を超えた時、千切れるように空間は弾ける。そしてそこに、欠損が生じる。
 それが、時空門。人類の住まう空間とそれとは異なる空間とを繋ぐゲートである。
 エンディミオンたちは、それが実体化する瞬間を狙っていたのだ。
 ゲートを潜りぬけてくる目標が、この時空に姿を現したその無防備な一瞬に仕掛ける。もっとも的確で、もっとも合理的な判断だった。
「ど、どこ! 消えた……?」
 エンディミオンの飛翔は、人間である葛城特佐の目には捉えきれないほどに早かった。
 ただ爆発音のようなものが轟き、次の瞬間、三機の巨神の姿が掻き消えるように無くなっていた。
 特佐にとっては、それが全てだった。
「上です、特佐!」
 慌てて周囲に視線を巡らせる特佐に、カヲルの鋭い声がかかった。
 急ぎ見上げると、確かにいた。月の光を反射して、三機のエンディミオンの無機質の装甲が鈍く光る。
「ゲートから出てきた瞬間を狙い討つつもり?」
 だが、エンディミオンたちの思惑は完全に読まれている。
 何故なら、この時空の「渚カヲル」と亜空間の「タブリス」とは意識レヴェルで同調しているからだ。
こちらの出来事は、全て亜空間にも伝わる。何より、タブリスもカオスも、エンディミオンのその行動を既に予測していた。

 突如、夜空に黒い閃光が走った。
 空間の捻じれに歪んで見える星空……そこに流れる、闇色の流星。
 特佐の目には、少なくともそんな風に見えた。
 だが、違う。それは、流星ではなく斬撃の軌跡。死神の鎌の、一閃であった。
 亜空間側から切り裂かれた夜空は、まるで切り傷を負った皮膚の様だった。
 二つに裂かれた裂傷から、吹き出す鮮血。
 だが流れたのは空間の血液ではなく、エンディミオンの体液だった。
 時空を裂いた死鎌は、付近で待ち構えるエンディミオンの内一機を巻き添えにして両断したのである。まるで熱したナイフでバターを切り裂くように、何の抵抗も無くあっさりと切断された赤のエンディミオン。エンブラと呼ばれる、接近戦を得意とする機体である。
「一撃……! 一撃であのエンディミオンを!」
 胸から腰に掛けて斜めに切りされたエンディミオン。
 上半身と下半身、二つに分断された無機質が力なく自由落下していく。
 威力が拡散するとは言え、非核兵器としては最強を誇る――あのNN地雷ですら傷つけることができなかったエンディミオンの装甲を易々と……!
「いや、エンディミオンの装甲だけじゃない。防御用に展開していた、遮蔽スクリーンごとです」
 カヲルのその言葉に、もはや特佐は絶句するしかなかった。
 それはエンディミオンも同じだったのだろう。幸運にも一撃目の被害から逃れた紫のアスクと、青のゼロ。残された二機は、クモの子を散らす様に慌てて散開していく。恐らく、間合いを取ったつもりなのだろう。
「無駄なことを……」
 カヲルは不敵に笑った。



■第三新東京市 NERV本部 第一発令所
九月一三日 〇一時二四分

 水を打ったような静寂。
 あの赤木博士さえも、OCレーダーに視線をじっと注いだまま動かない。
 カウント・ゼロの一瞬。まさに、一瞬だった。
「く……空間の裏側から……」
 物理法則もなにもあったものではない。
 人類はまだ、自らの住まう空間と、それとは異なる宇宙に属する空間との狭間に存在する壁を超えることすらできていない。
 だがエンディミオンは、その壁もろとも『あちら側』から切り裂かれたのだ。
「エンディミオン一機、反応消失。恐らく、コアを両断されたものと思われます」
 それは事実上の死だった。エンディミオンは、コアを破壊しない限りどんな損傷も再生・復元して見せる。だが心臓部にあたるコアを粉砕されれば、その自己再生の能力も働かない。
「オ……OCレーダーに極大の反応! かつて計測されたことのない程、強大なエネルギー反応です! こ、こりゃ、スゲェ……!」
 NERV本部勤務と言えば、その世界では屈指のエンジニアたちだ。そんな一流の人間に、まともにオペレートさせないまでに、その数字は桁が違った。青葉シゲル、彼が有能な人間だからこそ、そのとてつもなさが誰よりも正確に認識できるのだ。
 彼の凝視するレーダーには、巨大な光点が現れていた。
 エンディミオンなど、比較にならない。力の強度を示すパターン・グラフは、大震災の震度を感知した地震観測計のように上下に振り切られるような巨大で鋭い波を形成していた。
「パターン・ケルブ! 強度にして、エンディミオンのおよそ……およそ七億四二〇〇万倍! 上位第二位……智天使級です!」



■フランス ノルマンディ地方 古都ルーアン
九月一二日 一八時二四分

 パックリと口を開けた空間の傷口。
 それを内側から更に抉じ開けるようにして、彼女はその身を現した。歪んだ月の光を背後に浴びて、身に纏う魔皇の証、パワーゲイザーにそのブロンドが踊る。
 まず目に付くのは、エメラルドとゴールド。左右片方ずつ違う瞳の色。
 そしてタイトな黒の戦闘服と、手にした二枚刃の黒い死鎌。
「……ッ!」
 葛城特佐は彼女のその瞳を見た瞬間、言い知れぬ感情に襲われてその身を震わせた。
 妖艶と表現するとまた違う、ゾッと冷たいほどの美しさ。
 明らかに人間を超越している。確かに、その容姿を見れば一目瞭然だった。
 人間の姿をしてはいる。だが、ただそれだけだ。例え人型をしていようとも、隠しきれない超越者としての存在感と強烈な重圧感。あんな完全な美が、この世のものであるはずがない。いや、そもそもあれを『美』と表現することが許されるのか。

 空間の割れ目から身を躍らせた彼女の背から、それは現れた。
 淡く、白く、自ら光を放つ四枚の天翼。伝説の大天使ルシファーの背にあった、一二枚の翼。
 特佐は即座に悟る。その、三分の一なのだ、あれは。
 封印空間に墜とされたルシュフェルは、その身を三つに割り、魔皇三体と化した。
 即ち、魔皇ガルムマスター=ヘル。魔皇サタナエル。そして、第三の魔皇……
 ――魔皇カオス降臨の瞬間だった。


「ああ……」
 吐息が漏れる。何処から生まれたのか、薄い涙が頬を伝った。
 それは、はじめて彼岸の存在に触れた人間の覚える恐怖だった。
 生ける者がその目に触れてはならない、不浄なるもの。神だけに観賞することの許された、天上の芸術品を覗き見てしまったかのような後ろめたさと罪悪感。
 葛城特佐は、自分でも無意識のうちにヨロヨロと数歩後ずさっていた。
 そんな特佐を尻目に、フワリと重さを感じさせない身のこなしで彼女は宙を舞う。
 まるで時の停まった世界に踊る、ケルト妖精。幻想的だった。
「――ご苦労でした、渚カヲル」
 スタリ、特佐とカヲルが立つ屋上に優雅に着地すると彼女は言った。
「貴女こそ長旅ご苦労様でした、リリア・シグルドリーヴァ」
 巨星交わる。――現世と中世が繋がり、遂に一つとなった。
 この接触は、監視機構が遮二無二なって回避したかった事態である。
 だが時空障壁はカオスの前に破られ、刺客として送り込まれた天使たちはロンギヌス隊の前に散っていった。
 そして、神々がもっとも恐れた戦力がこの新世紀に終結した。

 魔皇三体。古の昔、世界の中心クロス=ホエンに君臨した最強の天使『明星ルシュフェル』。
 最強にして最悪の不穏分子は絶対封印を自ら打ち破り、復活を果たした。
 いや、今や魔皇たちは当時のルシュフェルとは比較にならないほどの力をつけている。
 人類監視機構の知るルシュフェルを超えた彼らの脅威は、極大と言えた。
「いやっほ〜〜〜ぅ!」
 先陣を切ったリリアに続き、奇声と共に後続の中世組が時空のゲートから飛び出してきた。
 夜空を舞うその人影は四つ。団子状態で一気に踊り出た彼らは、ゴチャゴチャともつれ合いながら、先のリリアとは対照的に無様に転落した。とにかく、とても着地とは言い難い。
「く、ぉおお……いってェ〜! 尻が……オレのお尻リリアの愛撫専用が〜!」
「オ、オレもだ! オレの尻も痛いぞ! 完っっ璧に二分割だ!」
 特にクレスたちは、着地の際、盛大にお尻を打ち付けたらしい。
 ゴロゴロとお尻を押さえながら、呆れ顔のリリア、微笑のカヲル、茫然自失の特佐の周囲を転げまわる。
 一方、彼らとは対照的に、タブリスに抱えられるような形で無事着地を決めたのはリジュ卿。
 当然タブリスの方も、クレスに多大な迷惑を被りはしたが、優雅かつエレガントにスタリと新世紀の地に舞い降りた。
「は〜、痛かった……。とんだ第1歩だぜ」
「ハハ……時を越えても相変わらずってとこか」
 眼の端に涙をためて吐息をつくクレスたちを見下ろしながら、リジュ卿は苦笑する。
 ロンギヌス隊の最期を見届けた後だ。だからこそ、明るく行きたい。クレスの気持ちは痛いほど分かるつもりだった。あいつらは、オレたちが哀しむことなど望んではいない。リジュ卿もクレスも確信している。
「ここが……新世紀か」
 痛むお尻を撫でながら、クレスは立ち上がってリリアの隣に並び立った。
 三九人の男達が、文字通り命懸けで渡してくれた新世紀への掛け橋。
 彼らが送り届けてくれたこの世界を、その目にしっかりと焼き付けておきたかった。
「なんか暗くて良く分からないが……戦でもやってるのか?」
 クレスが生きてきた中世というのは、電気で夜中も煌煌と無駄な程に明るい、現代のような贅沢さとは対極にある厳しい時代だった。
 ランプと松明で夜を凌ぎ、基本的には日が暮れてしまえば寝るという実に素朴な生活を送ってきたのだ。
したがって、暗闇にも慣れている。当然、現代人とは比較にならない程、夜目も利く。

 そんなクレスの目には、瓦礫と化した街、まだ収まらない市街地の火災などがハッキリと見えていた。
そう、その光景はどこか戦後の焼け野原を連想させる。
 滅びた街の凄惨な風景は、時代を超えても変わらないものだ。
「戦……というわけでもないのだが。
 街がかなり深刻なダメージを受けたことに間違いはないね」
「ふーん」
 渚カヲルの言葉に、クレスは曖昧な返事を返すと、じっと夜のルーアンの街を見渡していた。
 六〇〇年の時を超えやってきた異世界が、果たしてどんな場所なのか……クレスでなくても、それは興味も沸くことだろう。

 だが、敵はのんびりと感傷に浸る時間を許してはくれなかった。
 風を切り裂くカマイタチのような音。
 ふと気付けば、弾丸ような勢いでエンディミオンたちが間合いを詰めてくる。
「――タブリス。貴方は人間達のガードを」
「了解した。……特佐、リジュ卿。僕から離れないで下さい」
 鋭く素早いリリアの指示に、タブリスは即座に行動を開始した。この場には、葛城特佐やリジュ卿といった生っ粋の人間達がいる。彼らを戦闘で生じる衝撃波や流れ弾から守る能力者が、最低一人は必要だった。
「ところで、僕もそのガードしてもらえる『人間達』の中に入るのかな?」
 使徒でありながら、使徒の能力をほとんど持たないタブリス・ファクチスこと渚カヲルはポツリと呟いた。

 唸りを上げて襲いかかるアスクの正拳と、ゼロの蹴り。
 リリアとクレスは、使徒の反応速度を以ってそれを回避する。
 勢いを殺しきれない二機のエンディオンたちは、彼らがつい先ほどまで立っていたビルの屋上の床を粉砕し、そのまま階下に突き抜けて行った。
「流石……監視機構の新型。動きが速ぇ!」
 その速度といい、一撃で分厚いコンクリートを打ち砕くパワーといい、まだゼルエルの力を使いこなせていない自分に、充分匹敵する。
 J.A.が相手なら、三機ほどまとめて相手に出来る自信はあるが、エンディミオンと言ったか、この新型はそう余裕をもって対処できる相手ではない。

 ――ちょっと、分が悪いか?
 ただでさえ、時空跳躍の際に亜空間から全員の身を守るため、高出力の遮蔽フィールドを張り続けて疲労している今だ。コンディションは、ほぼ最悪と言って良い。
 クレスは、誰にも気付かれないように舌打ちした。
「タブリス! そっちは大丈夫か」
 粉砕され、衝撃で宙高く舞いあがったコンクリート片がバラバラと降り注ぐ中、人間達を守りに入ったタブリスに声をかける。
 あの自由天使のことだ、任せておいて問題はないだろうが、如何な彼とて、使徒の奥義とされる技を連発した後だ。一抹の不安が残るのも事実だった。
「僕らのことは心配ない。エンディミオンは、一方向に限定してA.T.F.を展開できることが確認されてはいるが、そこまで強力なシロモノじゃないからね。僕や君のA.T.F.でなら、簡単に弾き返せるはずだ」
 そう応えたタブリスの周囲にはドーム型の防御結界が広域に展開されている。
 その中にこの場にいる全ての人間達が保護されていた。確かに、ああしていれば問題はあるまい。クレスは納得し、己の仕事に専念することにした。
 丁度、床を突きぬけてビルの最上階に埋もれていたエンディミオンたちが、何事もなかったかのように起き上がって来ているところだ。戦闘が本格的に熾烈化していくのは確実である。
「それは良いとして、リリア」
「……はい」
 応えたリリアの背中には、もう天使の羽は見当たらなかった。どうやら一時的に出したり引っ込めたりできる便利な代物らしい。
「リリアも、ロンギヌス隊の戦いは――見届けたよな?」
「はい」コクリ、とリリアは小さく頷く。
 クレスはそんな彼女に真っ直ぐ顔を向けて、その左右色の違う不思議な瞳を真摯に覗き込んだ。
「あいつ等の行動に、なにか感じたか?」
「……」リリアは暫し、クレスの青い瞳を見詰めた。
 そんな二人の会話を、タブリスやリジュ卿をはじめ、周囲の人間たちも興味深く見守っている。
 エンディミオンもまた、彼らの戦闘力を測りかねているのか未だに動きを見せない。
 恐らく、先ほどの回避行動から予測されるリリアとクレスの力を弾き出し、戦術修正を行っているのだろう。
「何を感じたか、言葉で説明するのは困難です。ですが、何かを感じたのは事実だと思います。
 ……貴方の表現を借りれば、心は、動きました」
 リリアは、夜闇よりもなお黒い死神の鎌を構えながら言った。
「――それをエモーションと呼ぶのなら、私は確かに感動を覚えたのでしょう」
「そうか……!」リリアのその言葉を聞いて、クレスは破顔した。まるで我が事のように喜ぶ。
 その目は、イタズラが成功した子供のような歓喜に満ちていた。
「動いたかよ」

 リジュ卿もまた、クレスと同じ様に、リリアの言葉に人知れず笑みを浮かべていた。
 別にそう大した物じゃない。あの男たちにはただ、信念と夢があって。それをひたすらに追い求めただけだ。
 きっと、結果は考えなかったに違いない。その瞬間、未来のためにその行動がどうしても必要で。だからそれを、命懸けでやり遂げた。たった、それだけのことだ。
 だが、彼らのその真っ直ぐな生き方に誰かが感動を覚えてくれたなら……
 ロンギヌス隊の長であり、そしてあの男たちと同じ夢を追っていた者として、これほど嬉しいことはない。

 その時、カッと対峙していたエンディミオンの眼孔に鋭い光が宿った。
 瞬間、音の壁を突き破る勢いで紫の巨神がクレスに突進してくる。
 クレスは、正面からそれを迎え撃った。

 ――ロンギヌス隊……!
 クレスは唇の端を吊り上げ、ルーアンの夜を疾走する。
「オレの夢……」
 アスクと、クレス。両者、真っ向からぶつかり合い、最初の一撃を共に防御し合って、再び間合いを取る。音速を超える人型同士の激突は、周囲にすさまじい衝撃波を撒き散らした。
「オレの夢を……」
 心を封じられた使徒。笑顔と感動を知らない、凍てついた死神リリア。
 彼女と出会って、彼女をはじめて綺麗だと思った時、彼女のことが好きなんだと悟った時、彼女に微笑んで欲しいと願った時――
 その時から、ずっと自分の生き様を以って彼女の心を呼び覚ますこと。感動させること。
 大いなるエモーショナル・エクスプロージョン。天使を人間にしてしまうほどの爆発力。
 これを以ってリリアを動かすことが、クレスの生涯に渡る最大の目標であり夢となっていた。
「オレの女を……」
 信念と誇りある生涯を生き。地母神ニーサと、死神リリア。ふたりの偉大な女神の心を動かす。
「オレの女を、オレより先に動かすとは……!」
 ちょっと悔しいが、あんなものを見せ付けられたとあれば、文句も言えない。
 何故ならクレス本人さえ、衝撃と震えが止まらずにいるのだから。だから何故だか、クレスは嬉しかった。

「上等じゃねぇか!」
 クレスは咆哮と共に、宙を蹴る。ハンドガンの初速すら超えるその疾走に、舞いあがった家具の細かな木片や周囲を漂う塵が、摩擦熱で一瞬の炎を上げた。
 月の輝く夜空に真っ赤な軌跡を描き、クレスはアスクへ駆ける。
「オオッ!」
 自然に発せられた気合いの声と共に、リリアから受け継いだ <デス=クレセント> を渾身の力を以って振り抜く。
 だが、そんな直線的な攻撃を食らうほど、エンディミオンも甘くはない。直前で斬撃の軌道を見切ると、回避と共にカウンターの左ミドルキックがクレスに向けて放たれる。
 死鎌をかわしながらのその一撃は、サッカーでいうオーバーヘッドキックにも似ていた。
「チィ……ッ!」
 慌ててそれを死鎌のフレーム部分で受け止めるが、エンディミオン・アスクは既にその先を行っている。
気が付いたときには、右斜め後ろ――死角となる部分に回り込まれていた。
「ヤバイ!」と頭で認識した時には、もう遅い。間髪入れず、左、右、左と続く正拳と、右ハイキックのコンビネーションがクレスに唸りを上げて襲いかかってきた。

 ヒットはさせないものの、この嵐のような連続攻撃にクレスは防戦を余儀なくされる。
 それこそが、アスクの役割だった。攻撃を防ぎきるに精一杯で動けないという状態に敵を置く。
 そこへ、全く意識外の方向に控えていたエンディミオン・ゼロが長距離攻撃で決着を着ける。
 第三新東京市で、「霧島マナ」と「碇ユイ」の駆るG.O.D.を倒した――
 ゼロ必殺のエネルギー波『聖光』の一撃である。

 ――しまった……!

 アスクに全神経を集中させていたクレスは、その攻撃に虚を突かれる。
 その一瞬を利用して、アスクはクレスを置き去りとし距離を取る。
 今からでは、回避も防御結界の展開も間に合わない。その光の奔流に飲み込まれれば、死にはしないだろうが、再生・復元に多大な時間を強いられる甚大なダメージを被る事になるであろう。一秒で数十回のやりとりが行われる高速戦闘において、それは致命的とも言える打撃であった。

 だが――
「コンビネーションなど、とらせると思いますか」
 ゼロとクレスとを結ぶ直線上に、一瞬にして身を滑り込ませたリリアは、囁くようにそう言った。
 そして右手をそっと眼前に翳す。
 瞬間、襲いかかってきた『聖光』の奔流を、彼女は文字通り握り潰した。ゼロの放った渾身の一撃も、それによって何事もなかったかのように霧散していく。

 疲弊しているのは、クレスもタブリスも、そしてリリアも同じである。
 だが、彼らはそれぞれ立っている場所があまりに違いすぎた。
 どんなに疲労困憊の状態であろうとも、全ての力を使い切ろうとも、それでも魔皇とエンディミオンの間には埋め切れない次元的な断層が存在する。今の魔皇カオスは、それを証明していた。

 ……いや、リリア自身、まだ魔皇カオスの力を完全に引き出せているわけではない。
 魔皇の力を我が物としたは良いが、明星ルシュフェルであった時からの『魔皇』としての「知識」や「記憶」等は、ほぼ完全と言って良いほど欠落している。
 これは、魔皇カオス本体から仮想人格リリアがその能力を奪い去ったために起きた事態であった。

 言わば、今の魔皇カオスは記憶喪失状態に近い。ある意味で、魔皇ヘルの力を手中とした碇シンジと同じである。
 ただし、碇シンジにはブレインであり魔皇としての全ての知識と記憶を有した『ヘル』の存在があり、彼女と同じ肉体に同居しているわけであるが、リリアにそんな都合の良い同居人はいない。
 時と共に、コアの奥底から湧き出ずるようにカオスの記憶が甦りつつあるが、全てを取り戻すまでに果たしてどのくらいの時間を要するものか……リリアにも分からない。

 ただ確実なのは、今の魔皇カオスはかつて封印空間『ニブルヘイム』にいた時よりも、格段にその力を増していることだ。
 クロス=ホエンのエンシェント・エンジェルたちでさえ、今だ制御に成功していない『混沌』の力を、ほほど自在に召喚し、使役できる。
 考え様によっては、単独でかつての明星ルシュフェルに匹敵する戦闘能力を引き出すことも可能だろう。
「リリア、助かった……」
 窮地を救われたクレスが、アスクから間合いを取りリリアに寄って来た。
 そのまま、パートナー同士背中合わせに寄り合い、夜空に浮遊するアスクとゼロと其々睨み合う。
「あいつら、強いぜ……。一体一体だけでも充分過ぎるが、さっきので分かった。予測能力と、そして他機とのコンビネーションっていうのか? 連携の上手さが半端じゃない」
「タブリス提供のデータから予測するに、あのエンディミオンという機体は、恐らく魔皇サタナエル自らが組んだ戦術プログラムを搭載しているのでしょう。……それに加えて、データの蓄積とフィードバック及び、自律的な自然淘汰型のアルゴリズムの相乗効果。確かに使徒を相手にするには、充分過ぎるスペックです」

 全てが万事、J.A.とは格が違った。特に、クレスの言う予測能力とコンビネーション。
 魔皇サタナエルが手を加えただけあって、その戦術プログラムの妙はほぼ芸術品の域にある。
 タブリスもまた、実際エンディミオンの闘いぶりを見て、感嘆の吐息を漏らしていた。
「……素晴らしい機体だ。あのマスタークラス同士のチェスの試合を見ているような、徹底的なまでに合理化を追求した戦闘パターンと、絶妙にしてダイナミックなコンビネーション。まさに、アートだ。一機欲しくなってきたよ」
「もはや人間の目には捉えられない速度で動くと言う意味で、オレには全く同じに見えるが……
 そこまで違うものなのかい?」
 タブリスの展開する防御結界に守られる中、リジュ卿が無精ヒゲをさすりながら感心したような口調で言った。
「もう、全く違いますよ。J.A.と一緒にしては冒涜というものです。旧型をマリオネットとすれば、新型は人間そのもの。滑らかさと柔軟性が、まるで違う。……本気で欲しくなってきました。芸術の心を知るものならば、あれは是非床の間に飾っておきたいと願う一品でしょう」
 だが、その芸術の心とやらを知る者は案外少ない。
「クレス……タブリスのあれ、理解できるものなんですか。人間は」
「いや。断固無理だ」リリアの言葉に、クレスはキッパリと首を左右した。
 どう考えても、あれを家に持ちかえって飾って置きたいとは思えない。少なくとも彼には、タブリスを理解することは難しかった。
「それは兎も角として、あれどうするよ」
 ピッピと、対峙するエンディミオンを親指で指しながらクレスは言った。
 リリアが入り込んできたことで、また新たにデータを解析し戦術修正を行っているのだろう、二機の巨神はリリアとクレスを挟むようなポジションを維持したまま、宙を浮遊している。
「貴方は下がっていてください。もう充分です」
 背中合わせのクレスに向かって、リリアは短くそう言った。
 ピクリと、クレスが反応したのが肌越しに伝わる。彼にとって、その言葉は意外なものだったのだろう。案の定、責めるような口調で反論が返って来た。
「何でだよ……確かにJ.A.の要領で相手してたから、油断はあった。不覚もとったぜ。だけど、オレでも勝てない相手じゃない。何故退く必要が――」
「気付きませんか」皆まで言わせることなく、リリアは遮るように言った。
「なに」
「先ほどの動きを見て分かりました。貴方は今、戦えるコンディションにありません。亜空間で大出力のA.T.F.を長時間持続的に展開しつづけた貴方は、もう9割方の体力を使い果たしています。本来、使徒の戦闘を行えるだけの力はもう出せないはずなんです」
「いや、しかし現に――」
 そう。現に、クレスは戦えている。死鎌だって作り出せるし、エンディミオンとそれなりの戦闘を繰り広げることが出来た。だが、それが既に異常だった。
「今の状況を考えると、あのエンディミオンを相手にここまで戦えたこと自体が不可思議です。
 よほど、精神的に充実しているのでしょう。想念が肉体の限界を超えて、貴方を突き動かしている……そうとしか思えません。ですが、その状態が長く続くことは、貴方にとって大きな負担となる」

 トンと、リリアはクレスの肩を押した。宇宙遊泳をするアストロノーツのように、クレスはゆっくりと宙を漂い、リリアとエンディミオンたちから遠ざかっていく。クレスはそれに、抵抗しなかった。
「今は身体を休めてください。本番で、存分に戦えるように。ここはまだ、貴方が意地を通す戦場ではありません。……後は、私に任せてください」
「分かったよ、任せる――」観念したように、クレスは頷いた。
 リリアもそれに小さく頷いて応える。そして彼女は、改めてエンディミオン達と向かい合い、死鎌を構えた。
 その、時だった。


 ――その程度の人形相手に、魔皇自ら出て貰うようでは困るな


「……!」
 脳裏に直接響く、女の声。カオスのコアが、共鳴するように震えだす。
 何故だか、リリアにはその声と波動の主に心当たりがあった。知っていた、と言っても良い。
「魔皇、ガルムマスター・ヘル」


――記憶障害があるか。それも無理はあるまい



 クレスやタブリスには聞こえていないようだった。
 となると、ヘルは自分だけに直接語りかけてきているらしい。リリアには、納得できるものがあった。
元々、魔皇カオスと魔皇ヘルは『ルシュフェル』という一つの存在だった。今では異なる価値観、異なる意識、異なる肉体を纏い、ほぼ別の存在として生きてはいるが、それでも例えるなら自由天使タブリスとそのファクチス・渚カヲルのような、非常に近しい半身同士として、どこかで繋がり合っている。


――混沌の現人にして我が半身
 貴女にも、魔皇を……
 教えてやろう



 ほぼ言葉と同時。鈴振るようなヘルの言葉が夜闇に消えてしまう前に、それははじまった。
 例えるなら、意識と知識、そして情報の奔流となろうか。嵐で増水した大河の濁流の如き勢いで、リリアの脳裏に膨大な量の情報が流れていく。抗う術もなく、リリアは翻弄されながらも必死にそれを受け入れようと努めた。
 カオスの――魔皇としての知識は、確かに今後の戦いに必要となる。この様な形でその知識を取り戻せるとは想定していなかったが、些か荒療治とは言え、確かに話は速い。
拒む理由はなかった。
「妙だな……彼女の様子が変だ」
「ああ。リリアの奴、なにか企んでるのかな?」
 人間達と共に傍観を決め込んでいるタブリスとクレスが、急に動きを止めたリリアを見詰めて顔を見合わせる。今の彼女は、普段から想像もできないほど無防備。隙だらけだ。
 宙に浮かんだまま棒立ちするその姿は、彼女なりの策なのか……或いはエンディミオンに仕掛けた罠なのか。
二人は首を捻った。
「エンディミオンたちも戸惑ってるな……」
「無理もない。相手は魔皇だ。迂闊に近寄って良い相手ではないからね」
 ちなみに、スタジアムの外野席でポップコーン片手にプロ野球を観戦しているような、そんな呑気な態度でエンディミオンと魔皇の対決を見守っているのは、クレスとタブリスだけだ。
 特に天使関係に免疫のない葛城ミサト特佐などは、エンディミオンの戦闘能力と、それと互角以上に渡り合う人間モドキの熾烈な戦闘に、半分放心状態である。

 先ほどから、アングリと口を開けたままピクリとも動かない彼女は、この様子だと、口を利く余裕などしばらくは持てないだろう。J.A.に続いて、エンディミオンと使徒最強とされるタブリスやゼルエル、なにより超越者魔皇を目の当たりにしたのだ。無理もない話である。
 一方リリアは、自分の『コア』から間欠泉の如き怒涛の勢いで噴出してくる知識と記憶の奔流に悪戦苦闘していた。一瞬でも気を緩めればそのまま押し流され、人格ごとその波に飲み込まれてしまうような、そんな恐怖すら感じる。
 クロス=ホエンに、大天使ルシュフェルとして存在していた頃の意識。監視機構に一心を抱き、敢えて謀反を企てた時の想い。堕天後、絶対封印から逃れるため三身分離を敢行し、魔皇カオスとして目覚めてからの記憶。

 存在とは。虚無とは。混沌とは。全てを知る者とは。
 様々な問いと、それに関するルシュフェルと魔皇カオスなりの解答。
 使徒の奥義、混沌の研究、オーバーロードたちの思惑。
 全てが、開けたパンドラの箱から、凄まじい勢いで外へと飛び出していく業と咎と罪の様に溢れ出してくる。リリアはそれに流されぬよう、翻弄されぬよう、己を常に意識しつつ正面から受け止めようと試みた。
 この時空連続体すら覆い尽くすかのような情報の洪水が、決壊した堤防より飛び出し、そして再び潮干くようにリリアの元へ吸い寄せられていく。

 ルシュフェル以外には、エンシェント・エンジェルしか知らぬ <クロス=ホエン> と人類監視機構の最高機密。
 そこに在りながら、有り得ないもの。究極の絶対『無』存在、混沌の謎。
 かつて自らが生み出した、二体の守護者。魔皇カオスのインペリアルガード。
 その全てを、リリアは胸に刻み込んだ。


 ――ああ、この知識があれば……
 その過程が無意味であることを知りながらも、リリアは思った。
 ――あの時既にこの知識を有していれば、ロンギヌス隊を失わずとも済んだものを。
 だが、リリアは思う。人間のことはまだ良く理解できない。だから、これは憶測でしかない。
 だが思えるのだ。それでも、彼らは『後悔はしていない』だろうと。

 何故なら、彼らは笑っていたから。死は人間にとって最大の苦痛であるはずにも関わらず、あの男達は楽しそうに笑っていたから。だから、仮に自らを省みる機会があったとして、やはり彼らは己を後悔したりはしないだろう。
 いや、それどころか、再び同じ事態に直面した時ですら、男達は躊躇うことなくまた同じ道を選ぶであろうとさえ思える。

 この世に生を受ける度、何度でも。そう、何度でも。
 彼らは不敵な微笑を浮かべながら、駆けて行くに違いない。
 あの笑顔とは、自らの行動を後悔する者が浮かべる表情ではない。彼女は、そう学んでいた。

 リリアは、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
 ――世界が、変わっていた。見るもの全てが、存在そのものは変わらずとも、覚醒以前と以後とでは少しずつ違うように見える。
 違和感、と言うと少し違うが、だが確実に前とは同じものを見つつも、見え方が異なる。
 観点、視点が、使徒ゼルエルのそれから魔皇カオスのそれへとシフトしたのだ。

 だが、価値観がリリア・シグルドリーヴァのまま変わっていないのもまた事実。
 だから、依然として変わらないものもあった。それが例えば……
 リリアはそっと、瓦解したビルの屋上で、人間達と共に此方を見守っているクレスに視線を向けた。そして微かに微笑む。
 新たな知識が身に付こうとも、数百万年に渡る記憶を譲渡されようとも、彼に対する想いは以前も今も、変わらない。それが確認できたことが嬉しかった。

 ――魔皇ヘル。そんな義理はないのでしょうが……貴方に感謝します。

 ヘルはただ、合理的な判断から半身に手を貸したに過ぎない。
 今後、人類監視機構の大天使達と事を構えるならば、友軍の力は強いほど良い。ただ魔皇カオスの眠っている情報を呼び覚ますだけで、その戦力増強が望めるのならば、考えるまでも無くその仕事には意味がある。
 ヘルはそう判断した上で、リリアに魔皇としての『知識』と『記憶』の覚醒に必要なアシストを施したに過ぎないのだ。だから、礼を言う必要もないし、ヘル自身そんなものには全く興味を示さないであろう。
 だが、リリアはそれでも彼女に礼を言いたかった。そんな感傷に浸りたかったのかもしれない。
「――我今、魔皇カオスの名に於いて汝に命ず」
 咒文の詠唱の様に抑揚をつけた口調と共に、リリアは夜空を振り仰いだ。
 そして、かつて絶対封印 <グレイプニル> と共に自らが封じられていた特殊空間『ニブルヘイム』へと繋がるゲートを開きにかかる。
 座標さえ分かっていれば、次元の門を瞬時に開いて見せるなど魔皇にとっては造作もない。
「……!」
 それが召喚の儀であることにようやく気づいたのか、エンディミオンたちが慌てて阻止に動き出す。
 だがゲート開放に伴なう時空の歪みと、そして魔皇の身の内より発せられるエネルギーの乱気流に飲まれ、その間合いに近づくことすらままならない。
 こうなると、肉弾攻撃やエネルギー波と言った、3次元レヴェルでの通常攻撃手段しか持たないエンディミオンには何も出来ない。近づかなければ打撃は届かないし、ゼロの遠距離射撃とて、空間が捻じれていては軌道が歪められて充分な効果を期待できないのだ。

 所詮は、擬似的な魂のサンプリングでA.T.F.を使える程度の機械人形。
 相手が神話レヴェルの超越者とあっては、全くの無力。ただ『魔皇』がその空間に存在するというだけで、戦闘能力を完全に奪われるのである。
 いや。エンディミオンに力がないのではない。むしろ、並みの使徒たちよりも、彼らは強力な戦闘兵士である。ただ、住む世界が違いすぎるのだ。冥界を統べる魔皇と、天使とでは。
「古の盟約に従い、我が召喚に応じ現れ出でよ。汝、戦乙女ブリュンヒルド。並びに、戦乙女クリームヒルト」
 凛と響く言葉と同時に、月夜に空間が渦巻き出す。
 シュバルツシルト半径を越え、分解されつつ特異点に吸い込まれていく星々のように、捻じれ、歪み、そして収束していく空間の密度は加速度的に高まっていく。
 やがてそれが無限大に至ろうとする時、宙に二つのゲートが現れた。
「なに……! 何が起こっているの……?」
 ビルの屋上、タブリスの展開する結界に守られながら、葛城特佐が小さな叫びを上げる。
「まるでさっきと同じ……」
 ルーアンの夜空で、局地的に起こる時空異常。それは先程、魔皇自らが降臨してきた際に起こった現象と酷似していた。ただ、前回のそれが過去と現代を繋ぐ時間転移の門であったに対し、今回は地球が属する次元と、それとは全く異なる超高次元とを繋ぐ、次元間のゲートである。おのずと、迫力が違った。
「ブリュンヒルドに、クリームヒルト……」クレスが顔面を蒼白にして呟く。
「おいおい、それってオレの故郷に伝わってた伝説の乙女たちじゃないか?」
 それを言うなら、彼の傍らにいる自由天使も、彼のミストレスであるリリアも伝説上の存在なのだが、  この場合、故郷に伝わる神話と伝説と言う意味でまた感覚が異なるのだろう。
「戦乙女ブリュンヒルド……、彼女は確か、北欧の伝説的英雄ジークフリートの婚約者だったはず。そしてクリームヒルトは、そのジークフリートの妻となった伝説の王女か。
 ジークフリートは戦乙女ブリュンヒルドと恋に落ちるが、秘薬で彼女の存在を忘却してしまい、結果クリームヒルトと結ばれると言うが――」
 カヲルは上空に現れたゲートとクレスとの間で、視線を往復させながら呟く。
 クレス・シグルドリーヴァもよくよく戦乙女に魅入られたものだ。
「お、見ろ! ゲートから誰か出てくるぞ」<珍しく、リジュ卿が大きな声を上げる。
 彼の指差す方向に目をやれば、確かに、二つ並んだゲートの向こう側から、其々何者かがその姿を現そうとしている。
 間違いない。――冥界、地獄、黄泉、そして魔界。時として様々に象徴化される、 <ニブルヘイム> と云う名のその異世界から、魔皇カオスのインペリアルガードが呼び寄せられているのだ。
「二体……魔皇カオスは、サタナエルと同じく二体ものインペリアルガードを使役しているのか」
タブリスは、その降臨の瞬間をただ呆然と見上げていた。
 魔皇ヘルは、最強のインペリアルガード『ガルム=ヴァナルガンド』を使役するが、それ一体のみ。  対して魔皇サタナエルは、そのガルムより能力的には劣るものの、『ビ'エモス』と『リヴァイアサン』という竜王を二体有している。
 そして今、残された最後の魔皇カオスのインペリアルガードたちがその姿を現そうとしていた。
「来たぞ……完っっ璧に美女だ!」
 最初に見えたのは、リリアに良く似た女性の相貌だった。
 闇色の湖の底から、波紋も立てずにゆっくりと浮上してくるように、その輪郭が形作られる。
 次いで、長く真っ直ぐな金髪と、胸の前で祈るように合わせられた白い両手が露となっていった。
「どっちだ? ブリュンヒルドか、クリームヒルトか。……いや、この際どっちでも許す!」
 リリアに似た、かなり好みのタイプの絶世の美女とあって、クレスはやや興奮気味である。
 良く状況が掴めないが、もしそのリリアの『ガード』とやらが男だったりしたらどうしよう……
 或いはコッソリ殺そうかと思っていた矢先、かなり安心したこともあるらしい。その表情はだらけ切っていた。

 彼女は、徐々に明らかとなっていく全身に、伝説のヴァルキリーを思わせる女性用の甲冑を纏っていた。
一目見る限り、あのラ・ピュセルが特注して手に入れた甲冑に良く似ているなと、クレスは思った。
普通のものとは違い、全体的に細りしているし、装飾も芸術的に優雅だ。何より、女性の緩やかな身体のラインに合わせて、胸部に膨らみがあるのが最大の特徴だろう。
 だが彼女が、見る者の目を何より惹き付けるのは、甲冑ではなかった。両耳とこめかみの中程の位置から生えている『翼』である。そう。天使のそれを思わせる白く美しい翼が、彼女の即頭部を優雅に彩っていた。

 フワリ、舞うような身のこなしで、彼女はゲートから踊り出た。
 女性にすれば、結構な長身である。リリアよりも若干上背があるし、それに彼女の耳の横で羽ばたく天使の翼が、彼女を高く大きく見せている。
「戦乙女ブリュンヒルド、求めに応じここに参上致しました。ケイオス=マイ・ロード」
 フランス宮廷でも滅多にお目に掛かれない程の優雅な仕種で、彼女はリリアの前に一礼した。
 腰まで伸びる艶やかなブロンドがサラサラと風に踊る。まさに女神の降臨かと思わせるほどに彼女は美しくかった。
 リリア・シグルドリーヴァや魔皇ヘルと同じ、彼岸の美である。

「こんにちは〜☆」
 続いて、ブリュンヒルドが醸し出した、厳かでどこか幻想的な雰囲気さえ漂う空気を粉砕するかのように、少女の大きな声が周囲に木霊した。
 それと共に、ピンク色の影がバーン! と勢い良く夜空の大穴から踊り出る。魔皇カオス2番目のインペリアルガード、戦乙女クリームヒルトの登場だった。
「カオス様期待の切り札、クリームヒルト推参」
 ゲートから飛び出し、そのまま元気にリリアの前に進み出た彼女は、満面の笑みを湛えつつリリアにペコリと頭を下げた。何とも活きの良い性格である。容姿もそれに見合った天真爛漫、元気いっぱいの少女の姿をしていた。

 ブリュンヒルドをそのまま幼くし、瞳と口元にイタズラっぽさを加えたと表現すれば分かり易いか。
姉貴分と良く似た腰まで伸びる真っ直ぐな髪は、使徒を思わせるプラチナブロンド。光加減によってはどこか薄桃色に見える不思議な銀髪だ。
 そしてくりくりっと良く動く、真ん丸いブルーアイズ。確かに姿格好はブリュンヒルドやリリアに通ずるものはあるものの、纏う雰囲気が全く対照的である。
 物静かでクールな物腰の主や姉貴分と違って、クリームヒルトは真夏のひまわりを思わせる健康美に溢れていた。とにかく、やたらと元気である。
「……なにやら、えらく場違いなのが出てきたな」
 エレガントな登場を決めたブリュンヒルドとは、容姿といい雰囲気といい一八〇度違った『チンチクリン』の出現に、クレスは半分呆れたような声で言う。
 ブリュンヒルドの美貌で盛り上がったテンションが、一気に急下降といった感じである。
 彼は跳ね返りの小煩いガキが嫌いだった。子供のクセに女だというのが、また複雑で扱い難いから面倒である。
「むむっ!」そんなクレスの呟き声を、耳聡く聞きつけるクリームヒルト。
 キッとクレスを睨みつけるや否や、ばびゅん! と神速を以って彼との間合いを詰める。
 一瞬にして彼らの立つビルの屋上に降り立った彼女は、タブリスの結界などまるで存在しないように打ち破り、その中に進入した。
「む〜」
 そして、タブリスや人間達と共に避難していたクレスの周囲をぐるぐると周りながら、彼を眺め回す。
時々ぺたぺたとクレスの胸板を叩いてみたりしているところを見ると、何かを確認しているらしい。
右手をあごに、左手を腰に当ててピョコピョコと忙しなく動き回りながらクレスを観察するその仕種は、ティーンの少女のあどけなさと重なるものが多分にあった。
「むむ〜」
 そんな様子でしばらくクレスをじろじろと眺めていた彼女は、やがて納得したように一つ頷いた。
 そしてクレスを指差しつつ、宙に浮かぶ主魔皇カオスに向けて問う。
「カオス様、カオス様。……これが、あの、例の、クレスですか?」
 ガルムといい、このクリームヒルトといい、主の容姿が記憶と異なっていても、まるで頓着する様子はない。彼らは外見や纏う肉体などとは異なった、もっと深い部分で主を認識するらしい。
「これ、クレスですよね。そうよ、絶対、これがクレスだわ」
「――そうです。貴方の言う通り、彼がクレス・シグルドリーヴァです」

 リリアの肯定の言葉に、「ほ〜ら、やっぱり」等と意味不明に威張りながら、クリームヒルトはうんうんと頷く。どうやら彼女、カオスの意識を通して『クレス・シグルドリーヴァ』の存在を知っていたらしい。
 主が興味を持った人間がどんなものか、興味津々だったのだろう。
「……おい、一体何なんだよこの落ち着きのないガキは。役に立つのか、リリア?」
 胸のあたりでちょこまかと動き回るピンク色の頭を、ぽんぽんと叩きながらクレスはリリアを見上げた。「ちょっと! あたしはガキじゃないわよ! カオス様の切り札なんだから!」
 そのクレスの手を振り払いながら、クリームヒルトと眉を吊り上げる。
 だがそんな幼い仕種が、余計にクレスの不信感を募らせるのだった。大体、見るからにして、あんまり頭の良くなさそうな子供である。しかも女の子。魔皇守護者とは、どうしてもイメージが重ならない。
「なによぅ、その疑惑の目は! その目、あたしのこと疑ってるんでしょう!」
「おい、リリア。やっぱ間違ってよ、近所の喧しいガキを召喚しちまったんじゃないのか?」
 とりあえず、ギャースカとうるさいクリームヒルトの左右のこめかみを拳骨でぐりぐりと苛めながら、クレスは言った。
「ちょ、いた、いたたたた!」バタバタと暴れ、慌ててクレスから身を離すクリームヒルト。
 目の端に涙をためて、抗議する。が、クレスは完全無視を決め込んでいた。
「なにすんのよぅ! あたしは何にも悪いことしてないのに〜! ……カオス様に言いつけてやるぅ!」
 そのカオス様は一部始終をその目で見ていたわけだが、クリームヒルトには関係ない。
 ダッと空へ駆け出すと、リリアにしがみ付いてクレスを睨みつけた。
「な、なんなの……一体……」状況に着いていけないのは、特佐だ。
 突然現れて、何をしだすかと思えば、ただ子供の様に騒ぐばかり。
 一体、彼女たち――ブリュンヒルド、クリームヒルトとは何者なのか。大体、彼女たちは何処から現れたのだろう。
「特佐、彼女たちはインペリアルガードと呼ばれる、魔皇専属のボディガードのようなものです。
 第三新東京市のガルムのウワサは聞いたことがあるでしょう?」
 呆然と彼女たちを見上げる特佐に向けて、傍らのカヲルが苦笑交じりに言った。
「ああ、あのエンディミオンを瞬殺したとかいう狼ね」
 実際見たわけではないが、話では聞いている。第3新東京市のNERV本部に襲来した三機のエンディミオンを、単独で撃退した魔皇ヘルの使い魔。それが信じられないことに、普段は小さな子供の姿をした生き物だというから凄い。
「そう。インペリアルガードに外見も容姿も関係ない。彼らは恐るべき能力を持った、人外の生物兵器です。あのクリームヒルトと言いましたか、彼女もああ見えて人間より遥かに崇高な存在なんですよ。知能も戦闘能力も、そして存在そのものが我々人類を遥かに超越している」
「彼女たちも、エンディミオンより強いの……? やっぱり」
 信じられない、と言った表情で葛城特佐は問う。
 だが、考えてみればエンディミオンや使徒の存在自体『信じられない』世界の存在だった。
 こんな事態に陥ることのないまま、平時にそれを聞いていれば特佐とて一笑に伏した話である。
 だが、彼らは現実に存在し、そしてたった九機で世界を滅ぼそうとしている。
「インペリアルガードは、魔皇に迫る能力を持っていると聞きます。最強の誉れ高きガルム=ヴァナルガンドに至っては、パワーだけなら主に比肩し得るとか。エンディミオン如き、何億かき集めても一蹴されるのがオチですよ」
「そ……そんなに……」
 付き合いは浅いが、渚カヲルは決して誇張表現を用いるタイプでないことは分かっている。
 彼が億を一蹴すると言えば、本当にするのだろう。つまり、インペリアルガードの戦闘能力は、それほどまでに高いというわけだ。

 考えてみれば、現在九機のエンディミオンに成す術なく悲鳴を上げている人類だ。
 それを億単位で相手に出来るバケモノとなれば、一体で確実に世界を滅ぼせる。
 そう考えると、自分が目にしているあの幼い少女と若い女達が、とてつもないバケモノなのだと言うことが実感できるような気がした。
「何せ、インペリアルガードになると、『ファースト・タイム』とかいう技術で、時を止めてしまうらしいですからね。時間を止めてしまえば、当然敵側も動きが凍ってしまいますから、その間にゆっくり倒せば良いわけです。その当たりを計算に入れると、億だろうが兆だろうが、エンディミオンを何機集めようが同じことです。……ゼロは幾ら足してもゼロ以上にはなりませんからね」

 もう、言葉もなかった。
 時を止めるということは、自分を構成する部分も含めて粒子の速度を自在にコントロールできるということだろうか。そう言えば、彼らは対消滅を使った攻撃も可能だと言う。
 地上でそれを行使された日には、規模によっては冗談ごとではなく地球はおろか太陽系ごと丸ごと吹っ飛ぶだろう。例え威力を押さえたにしても、周囲を包囲している軍の半導体、電子機器関連は全滅だろう。そうなると、此方は手足をもがれたダルマに等しい。
 人間が幾ら小賢しく対策を練ったところで、手出しできる次元ではない……。

 ――相対論的バケモノである。
 彼らを相手に戦う方法を考えるよりかは、どう綺麗に死ぬかを考える方が余程建設的というものだ。
まさに、神の名を冠して余りある。
「見に来て、正解だったわ……」
 特佐は人知れず呟いた。少なくとも、これで監視機構を相手にすることはスッパリ諦められそうだ。
バケモノはバケモノに任すとして、NERVは人間世界にこれから起こるであろういざこざに備えたほうがいい。
 ――彼女の祖国日本には、分相応という言葉がある。
 今、ここでそれを思い知って良かったと考えるべきだろう。無意味な抵抗をするより、避けられない現実を受け入れてその中で出来る事を考えたほうが良いからだ。

 上級特佐になった瞬間、首を切られることになるかもしれないが……
 本部に出向した折には、NERV上層部に『人間界のことだけに尽力し、監視機構は頭から捨てる』よう、進言しようと葛城特佐は決めた。
「――時に、カオス様」
 クリームヒルトに泣き付かれて困惑しているリリアに、ブリュンヒルドは恭しく声を掛けた。
 物腰といい、雰囲気といい、彼女はクリームヒルトとは対照的に、いかにもリリアのインペリアルガードといった感じである。それ程、両者には共通点と類似点が多く見受けられた。
「ブリュンヒルド……私は貴方の知る魔皇カオスでありながら、反面きっぱり魔皇カオスとは一線を画す存在です。私の名は、リリア・シグルドリーヴァ。魔皇カオスと呼ばれるには、些か違和感を伴なうのです」
「はい」心得ている、というようにブリュンヒルドは頷いた。

 実は、魔皇カオスのインペリアルガード『ブリュンヒルド』と『クリームヒルト』には、他のガードたちと決定的に異なる点がある。それは、彼女達のコアと人格だ。
 ヘルの使い魔ガルムにしろ、サタナエルのビ'エモスやリヴァイアサンにしろ、彼らは皆一様に独立した己の人格を持っている。主である魔皇とは、きっぱり別の存在だ。

 だが、ブリュンヒルドとクリームヒルトは違う。
 彼女達は、カオスの一部なのである。だから、主である魔皇カオスが死ねば、彼女達も死ぬ。
 だからといって、ガードたちが死ねば主であるカオスも死ぬかといえば、そうでもない。
 こう考えれば分かり易いだろう。つまり、魔皇カオスが『心臓』だとすれば、彼女達は『右腕』・『左腕』だ。腕が無くなっても生物は死にはしないが、心臓が失われれば身体全体が死を迎える。
 ――そういうことだ。

これはコアだけに限らず、人格面においても言えることだ。
元々、カオスの仮人格『リリア』と、『ブリュンヒルド』、『クリームヒルト』の人格は、三つ合わせて完全体になるように設計されている。
逆に言えば、魔皇カオスはある人格を作りだし、それを三つに分割して、それらを其々『ブリュンヒルド』、『クリームヒルト』、そして自分の仮人格『リリア』に分け与え、移植したことになる。
だから、クリームヒルトはリリアの持たない天真爛漫で、明るく朗らかな子供らしい性格をしているし、ブリュンヒルドは、リリアの性格を更に極端にし、それに性悪さを加えたような性格をしている。

良く『一心同体』という表現が使われるが、彼女達の場合『一心異体』なのだ。
表面的な性格や価値観は個々で異なるものの、コアとなる根本の部分は共通しているわけであるから、リリアが心の奥底に抱いている価値観は三人共通した価値観となるし、リリアが心から愛した者は、全員が愛すことになる。
その最も良い例が、クレス・シグルドリーヴァになるだろう。
三位一体とは、まさに彼女達のことを示す言葉だ。
「――ブリュンヒルドも、クリームヒルトも。今後私のことは、出来うる限り名で呼ぶよう心がけて下さい。そう大した問題ではないので、躍起になることはありませんが、心に留めておいてもらえれば幸いです」
「分かりました!」
「……御意の侭に」

リリアの要請に、当然クリームヒルトとブリュンヒルドは快く頷いた。
根本で同じ心を持つ存在とは言え、彼女達インペリアルガードはリリアに従い、彼女を守るためだけに生まれてきた存在である。
そして何より、彼女達自身そのことに疑いも迷いも抱いていない。
「それから、もう一つ。今後の参考のためにも、貴方達の戦闘能力を再確認しておきたいのです。
その意味も含めて、あの監視機構の新型――エンディミオン二機を殲滅してください」
それが、魔皇カオスとしての、リリアの最初の命令となった。
「分かりました。リリア様。あたしがあれをやっつけます!」
「戦術レヴェル、目標確認。排除、開始します」
そして戦乙女と、巨神たちの戦闘が――開始された。


to be continued...


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