伝説を超えろ。



CHAPTER XXXVI
「炎立つ」
SESSION・141 『ジャック・オブ・スペード』
SESSION・142 『老人と少女』
SESSION・143 『慟哭』
SESSION・144 『ラングレー・フォン・シュトロハイム』
SESSION・145 『炎立つ』



SESSION・141
『ジャック・オブ・スペード』


 ある意味で、それは砂漠よりも性質たちが悪かった。
 無限に続くとも思われる、厚く大地を覆った純白の結晶。
 それはもちろん、雪原などという可愛げのあるものではない。
 激しく吹きつける風速七〇Mを超える豪雪の嵐は、人間の歩行はおろか、満足に立っていることすら許さない。そのアベレージは、油断すれば、体ごと風に攫われてしまう数値である。
 また、その暴風が運んでくる凍てついた硬い雪は、例えば充分な装備を持たない者が迷い込んできた瞬間、彼の体を叩き付け、無数の凍傷を生み出し、そしてその生命力を奪っていくだろう。
 完全密閉のヘルメット、そしてパーティの周囲に張り巡らせている『エネルギー・フィールド』がありながらも、その殺人的な烈風と豪雪には恐怖を感じる。白い悪夢だ。
 そう、まさに白。白1色。世界はその色に塗りつぶされていた。他には、何一つ目だった色彩などない。
 数百、数千万年の後に、人類が生み出すブリザードという概念――
 これは猛吹雪を伴う強風であり、通常は秒速一四メートル以上の暴風雪で、視界が一五〇メートル以下のものと定義されるわけであるが……今、彼らが体験しているそれは、明らかにブリザードなどという言葉では片付けられない猛威を振るっていた。なにしろ、前に自分の手を真っ直ぐ伸ばしただけで、激しい雪の嵐に遮られて、手の先が『見えない』。
 視界一五〇メートル以内どころか、一.五メートルもありはしないのだ。
 おまけに、大樹すらも根こそぎ倒して吹き上げていくかのような、この凄まじい風。
 それはもはや、強風ではなく狂風と表現すべき暴力であった。
 とにかく壊滅的なまでの雪と風が外界から全てを遮断している。
 つまり色彩も視界も、その内の一つだということだ。

 そんな限りなく視界ゼロに近いブリザードの中で、彼らがそれを発見できたのは、優れた科学力のおかげであった。
 すなわち、乱れる磁気と荒れ狂う天候の中でもその能力を失わない、優れたレーダーである。
 これが封じられた彼らの肉眼の代わりを果たし、そして目的とされていたものを逸早く見つけ出したのだ。
 吹きすさぶ暴風雪の中、突如それは彼らの前に姿を現した。
 白く閉ざされた世界の中、ぼうっと揺らめく幻のように広がる眼前の黒い壁。
 レーダーで走査し、縮小モデルを作成してみなければその全容はとても窺い知れなかったであろうが……
 それは、全長数KMというレヴェルの巨大な『箱舟』であった。
 視界を覆う黒い壁は、その船壁に他ならない。
 ノルンが全ての希望を託し送り出した、次元間航行漂流船 <ヘルヴェル=アルヴィート> 。
 ――遂に彼らは、それを探し当てたのである。
「見つからなかったわけだ……よもや、こんな低次元の時空連続体の片隅に送り込まれていたとはな」
 卵型をした抗ブリザード仕様の熱エネルギー・フィールドに包まれ、五人パーティの戦闘を行く者が言った。
 今回の、ノルンの漂流船捜索隊の指揮をとる者である。
「それだけ、ノルンも必死だったということであろう」
「――左様。彼らはあまりに追い詰められすぎた。逃げ場を与えなかった我々にも責任はあるだろう」
 彼ら五人の捜索隊のメンバーは、皆一様に漂流船 <ヘルヴェル=アルヴィート> を見上げながら言った。
「我々とて、滅びの危機に瀕していることは変わらぬよ。この任務を終えクロス=ホエンに戻ったところで、すでに我々もノルンも死滅しているやもしれぬ」
「ならばいっそ、我らもこの漂流船のポッドでノルンと共に永久の眠りに就くか?」
「……それも面白い。が、これも任務だ」
「そう。それ故にこそ、我々に与えられた責務は大きく重い。時間もあるまい。船内の調査を急ごうではないか――」
 防護服のヘルメット越しにくぐもった音声で言葉の交換を済ませた彼らは、同時に頷きあった。

 絶対封印オリハルコンに閉ざされた、漂流船 <ヘルヴェル=アルヴィート> 。
 オリハルコンは、封印に触れようとする者の意識を探知すると、それを意図的に曲げ、或いは別方向へ誘導し、相手に悟られぬまま相手を遠ざける。
 つまり、ファクチスの情報を流し、本体をあくまで隠蔽して通すような働きをもつのである。近付く者は例外なく、無意識の間に、自らそこから遠ざかってしまう。
 ノルンたちの持つ一種の『ステルス機能』であった。
 この漂流船は、そのオリハルコンで封じられているのである。
「正攻法で内部に侵入するには、時間がかかりそうだな」
「船壁の一部を破壊するか」
 ハッチらしきものは見当たらない。
 当然だ。これは時が来るまで、ノルンの最後の生き残りたちが眠りつづける為の、二重螺旋の揺り篭。いつしか内部から外へ出る必要は生じても、外部から内へ入り込む必要のない船だ。
 恐らく、内側から何か特別な操作を行わない限り、普通のやり方では出入り口は出現しないだろう。
 宇宙服のような装備で固めた五人の内の一人が、仲間たちに向かって、闇色の船壁から離れるようジェスチャーで指示する。
 彼は皆が充分な距離を取り、用心のため断層を持って閉鎖空間を作りだし、己を外界から隔離したことを確認してから、亜空間回路構成装置のダイヤルを回した。
 彼らが『無』を共同利用する際の座標にそれを合わせ、虚ろな存在を『力』としてこの時空間に召喚する。
 呼び出された『無』はあたかも黒いレーザーの如く、溶断するような感じで船壁を切り裂くいていった。やがて彼らが三人並んで通れるほどの大穴が、船壁に生み出される。
 それを見計らって彼はダイヤルを元に戻し、『無』の照射を中止した。
「――往くぞ」
 先頭を切って中に身を躍らせる彼の言葉に、四人は無言で後に続いた。

 中に入り込むと、早くも吹雪が吹き込み、船体内部を白く染め上げようとしているのが分かった。金属と風が擦れ合う不協和音が、黒い箱舟の中に悲鳴のように響き渡っていく。
 五人の探査隊員が船内に無事入り込んだ数瞬後、泡状の物質がどこからともなく現れ、空けられた穴を瞬く間に塞いでいった。気がつけば、何事もなかったかのように船壁は元の状態に復元されていた。
彼らがもたついて、もう少し船に入り込むのが遅れていたら、恐らくもう一度船体に穴を空け直すハメになったであろう。
 ノルンの備えは、かなり行き届いたものらしい。
「これが、漂流船 <ヘルヴェル=アルヴィート> か」
「内部構造から言って、恐らく目的のものは中心部に安置されているはずだ」
 船体内部は、非常に無愛想だった。はやく言えば、何もない。だがよくよく目を凝らしてみてみると、だだっ広い空間を包み込む船壁そのものが、無数に用意された遺伝子のデータバンクであることが分かる。
 ノルンたちの住まう惑星群に生息していた、数々の動植物たちの標本である。
 時が来た時、ここから彼らを復元し自らの住まう惑星環境を、この星に再び再現するつもりなのだろう。これはそのための箱舟なのである。
「船、というよりただのホールだな」
「儀式船とでもいうべきか」
「ある意味、そうだろう。必要なのは遺伝子情報とノルンの冷凍保存だ。そしてこの船は何時か訪れるであろう復活の儀式のための神聖な場となる。少なくとも……ノルンにとっては」
 彼は口々に感想を交し合いながら、数キロ四方に渡るだだっ広い船体内部を、ただ中心部へ向けて歩いて行く。
 全生命種に渡り、ひとつひとつの復元・復活用のゲノム・データをおさめた個室コンパートメントは、ズラリと天井の見えない船の壁を幾何学的に彩り、時折不思議な光を放つ。
 後にこの地球に現われ出でるであろう感傷生物ヒトならば、それを恐らく幻想的と表現したであろう。だが、探査隊の五人はなんらそれらに特別な印象を抱くことはなかった。
 巨大な箱状の空間内部は、薄暗かった。時折、そのコンパートメントが放つエメラルド色やサファィア色の光がその中に映える。
 しかし薄暗いとは言っても、まったく視界が利かないほどではなく、ナノマシンの暗視機能を作動させずとも、それなりに周囲を見渡せるだけの明るさはあった。
 カツカツと広い船内に、五人の立てる足音が反響していく。
 その硬質の音を奏でる船床も微かに発色していて、それは恐らく、床裏に無数に走るエネルギー・パイプ・ラインの内部を流れる、様々な粒子が織り成す科学的な発光によるものと思われた。

「――これ、か」
 やがて船内中央部に到達した彼らは、そこに厳かに横たわる幾つかのコールド・スリープ用ポッドを発見した。
 それはノルン一人が横たわるに充分な大きさを有するカプセル状のもので、クリーム色の金属質なマテリアルによって構成されていた。だが上部――つまり、内側から見れば『天井』にあたる部分には、ガラスのような透明色のパーツが嵌め込まれており、おかげでポッド内部に横たわっている者の様子を目視で窺がうことができる。
 ポッドは全部で六つ。
 一端を船の中心部で束ね、そこから放射線状に広がるような配置で並んでいる。
 だがその内の一つは空で、実際にポッドで眠りについているのは五人のノルンに過ぎなかった。
「遂に、見つけたな」
「間違いない。ノルンだ」
 彼ら探査隊は、微弱に計測されるノルン特有の『クラウ=ソラス』の反応を計器で確かめながら言った。
 追求しつづけていた、彼らの漂流船とその乗組員。多くの犠牲を払って求めていたものを、彼らは遂に手に入れようとしているのだ。
「――長き眠りの日は終わりだ。早々にお目覚めいただこうか」
 彼らの任務は、クロス=ホエンを脱出したノルンの発見・捕獲にあった。
 これはその最後の機会だ。これを逃せば、彼らは永遠にノルンのサンプルを入手することは不可能となる。
「ポッドごと運び出せぬか?」探査隊員のひとりが、言った。
 下手にノルンを起こしてしまうと、逃げられる恐れがある。彼らの特殊能力『クラウ=ソラス』は、それを可能とするのだ。
 自らの存在確率を不確定にすることにより、己を無にも混沌にも変えることのできる特殊種族。
 彼らのその能力がどこからくるのか。原理と秘密を解明すれば……
「いや、無理だな。このポッドは言わば氷山の一角。表面的に見えている部分にすぎないようだ。恐らく、この箱舟とシステムが連動しているのだろう」
「つまり、この箱舟自体が一種のコールドスリープ用のポッドということか」
「それでは、一部を切り離して護送するのは不可能に近いな」
 どちらにしても、コールドスリープからの解凍作業はそれなりの手順を踏んで行わなくてはならない。スムーズに作業を進めれば、ノルンを起こさずしてポッドから運び出すことはそう難しくはないだろう。
 コールドスリープの装置を切りました。はい、眠っていた者が目覚めます、というような簡単なものではないのである。
 ――だが、彼らはもうひとつの可能性を、この時もう少し慎重に考慮しておくべきだった。

「むっ……?」
 探査隊員のひとりが、コールドスリープのポッドを開こうと開閉用のパネルに手を伸ばした瞬間、突如船内にけたたましい警報が鳴り響いた。
 赤いハザードランプのようなものが放つ光の筋が、薄闇の箱舟内部を切り裂いていく。
「しまった。ここにきてトラップか」
 気が付いたときには遅い。六基のコールドスリープ用ポッドが、低い唸りを上げて高速演算を開始しはじめた。
 対侵入者用の対策か。ノルンは、彼ら探査隊が考えていたよりも用心深い連中だったようである。
「クラウ=ソラス・エネルギー反応増大!」
「ノルンめ! 最後の最後に、巧妙な非常警戒用システムを走らせていたというか」
「まずい。ポッド内部のノルンたちがクラウ=ソラスに包まれていくぞ。この時空連続体に対する存在確率も大きく変動していく。既に計測器とデータ上では、半分この世界からその存在を消している」
 示される結論はひとつであった。
 これまで彼らが『ノルン』の捕獲に手間取ってきた最大の理由。それは、彼らノルンが有する能力『クラウ=ソラス』による時空間、延いては次元間転移能力によって翻弄され続けたからである。
 クラウ=ソラスによって、一種のワープを自在に行うことのできるノルンは、彼らを一度逃してしまえば再び見つけ出すのには多大な労力を強いられる。何故なら、普通のワープならば空間の歪み方、亜空間の航跡などから、時空移動の痕跡を辿りその移動先をある程度まで割り出すことが可能であるが……クラウ=ソラスの場合はそれが全く不可能だからである。
「このままでは、非常警戒用システムにノルンを逃がされてしまうぞ」
「今度逃れられては、もうどうあっても間に合わん」
「逃すわけにはいかぬよ」
 そうする間にも、ポッドに嵌め込まれたガラス質の覗き窓越しに、ノルンたちの体が急速にぼやけていくのが分かる。
 この世界から消え、再び誰も追うことの出来ない時空の旅に彼らは立とうとしているのである。
 つまり、漂流船 <ヘルヴェル=アルヴィート> の備える非常警戒用・最終システムとは、侵入者が入ってきた時、ノルンを安全な場所に退避させるために『箱舟』そのものが、彼らの持つクラウ=ソラスの力を代わって行使しようとするものなのだ。
 一言で表現すれば、『乗組員をワープさせて逃がす』となろうか。

「どうする! 時間がないぞ」
 流石の彼らも焦りはじめる。
 今回のノルン探査は、恐らく最後の機会。彼らの故郷クロス=ホエンの行く末が混沌としているゆえ、ノルンと共に自らの種族が滅びようとしている今、時間はどうしても限られてくる。
 これを逃せば、恐らく永遠にノルンを手に入れる機会は失われる。彼らはそれを知っていた。
「手段は選べぬ! この箱舟と直結されているシステムなら、それからポッドを切り離すしかあるまい」
 言うが早いか、彼らは手にした各々の武器を使って、箱舟の床の部分から伸びている様々な用途のパイプラインを破壊しはじめた。
 このパイプを全て断つことができれば、或いはシステムとポッドを切り離せるかもしれない。
 もしそれができたなら、緊急退避用のプログラムも中断されるか、エラーがでて中止されることだろう。
 超小型縮退炉の出力を、指に嵌め込んだサファィア・レーザーに流し込み、それを重力閉鎖空間で収斂。
 直径、数百万分の一ミリメートルのビームとして、全てを溶断する。恐らく無重力合金性と思われる船内装備は、それで次々と破壊されていった。
 だが……
「駄目だ! 到底間に合わん」
 一人が、悲痛な呻きを上げた。
「いや、見ろ。我々の干渉でシステムの実行段階で設定にノイズが混じったらしい。クラウ=ソラスが暴走をはじめている」
 確かに、彼の指摘通り、彼らが装備しているバイザー内側に表示されている『クラウ=ソラス』エネルギー反応を示す計器は、その計測値をゼロとしたかと思えば無限大へ、かと思えば今度はマイナス無限大へと、激しくそして無茶苦茶な揺らぎを示していた。
 それは、いうまでもなく最悪の展開であった。これでは、時空はおろか次元さえも超えてしまう。
 しかも、ノルン自身が設定していた時間と空間ではなく、まったく別の、それも予測不能な場所まで無作為に飛ばされてしまうことになるだろう。
 それはノルンたちにとっても致命的な事故となるであろうが、彼ら探査隊員たちにとっても残酷な現実となる。

「これでは、もうなにもかも……」
 隊員たちの絶望的なその囁き声と共に、ポッドに横たわっていたコールドスリープ中のノルンたちは忽然と消え去った。影も形も無く、どことも窺い知れぬ次元、時空間に飛ばされてしまったのだ。
 一体、彼らはどこに再びその姿を現すのか。
 数万年前の、遠く離れた銀河の中心部か。それとも、数億年後のこの地球か。
 或いは、もっと別の宇宙の特異点の深層にワープしてしまったのかもしれない。
 どの道、彼ら探査隊にはもうなんの希望も残されていなかった。
「……いや、まて。これを見ろ。飛んだのは二体だけだ」
 膝から崩れかけようとしていた彼らの間に、その声が響き渡ったのはどれくらいしてからのことだったか。彼ら五人は、とにかくその叫びに我を取り戻した。
「なに?」
 慌ててポッドを覗き込むと、確かに五人の内三人までのノルンがまだそこに静かに横たわっていた。
 クラウ=ソラスに飛ばされたのは、結局二人のみにとどまったらしい。
「おお!」
 暗雲に厚く覆われていた視界に、彼らは一瞬の光明を見た。
 システムの暴走は、必ずしも負の結果しか齎さなかったというわけではないらしい。探査隊員たちは暗く天井の見えない箱舟の空を仰ぎ、その幸運に感謝した。
「だがしかし、この三体のノルンはシステムの暴走の影響で既に絶命してしまっている……」
「正確なデータは取れぬか」
「だが、たとえ遺骸であろうとも、全てを失うよりかはプラスに転じたことになる」
 ノルンは事実上の全滅。種としての観点からも、もしかしたら死滅となるかもしれない。だが、一度は絶望しかけた彼らにとって、たとえ死体だけでも残ってくれたのはありがたい。
 幸運にも、その死体はコールドスリープ中という最高の保存状態で彼らの前に横たわっているのだ。
「これで、ノルンの特殊能力を解明するに必要なサンプルは手に入ったというわけだ」
「左様。我々の進化もまた、一つ二つは早まるであろうな」
 彼らはヘルメット越しに頷きあった。
 クラウ=ソラスにはじまる、ノルンの数多に渡る特殊能力。この世の覇権を握るに充分なその力を、彼らは無欲にもあまり行使しようとしなかった。
 だが、探査隊員たちはノルンたちとは違う。
「遂に……我々は、 <全てを知る者> への栄光の道を歩みはじめるのだ」



SESSION・142
『老人と少女』


 スイスアルプスのトーマゼーという湖に源を発し、広大なヨーロッパ大陸の中央部を横断して北海へと注ぎ込む全長一三二〇KMを超える大河がある。
 ――父なるライン。
 ドイツ人たちは、その河をそう呼ぶ。
 他にもこのライン川はラテン語ではレーヌス、フランス語ではラン、オランダ語ではリエンと、国によって様々な呼ばれ方をする。
 それも当然で、ライン川はこれらすべての国々に密接に関わっているのだ。
 具体的には、まずドイツとフランスの国境を北に向かうストラスブールを越え、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、クレーヴェを通り、オランダ国内へと入り込むと、そのロッテルダムから北海へと繋がって行く。
 幾つもの国々をまたぐラインだが、そのうちドイツを流れるのは六九八km。これは実に全体の半分を占める割合である。

 ――なだらかな平地が続くヨーロッパにおいては、航空産業が発達し、音速で空を駆ける旅客機が登場したにも関わらず、この新世紀に至っても河が重要な物資の輸送路であることはやはり変わらなかった。
 中世においてはなおさら。
 ライン川は中世の八〇〇年間を通じて、帝国領域の中央を流れ、ヨーロッパの南北を結びつける重要な交易路であったのだ。
 当然のことながら沿岸には都市が数々発達し、都市の間に同盟が結ばれていった。
 そして、往来する船舶の通行税という利権をねらって、近隣諸侯の争いの舞台となったのである。
 そんな歴史的背景もあって、『ロマンティック・ライン』と呼ばれ、ライン下りの観光ルートとしてよく知られるマインツ〜コブレンツ間の両岸には、幾つもの古城が点在している。

 今はホテルとなっているが、かつては、ライン川を渡る船を襲う盗賊騎士の根城だったライヒェンシュタイン城。
 その盗賊粛正のための基地として利用された同城は、九〇〇年頃立てられた歴史ある城で、当初は税関の役割を果たしていたと言う。
 それから更に下ると、ホーエンシュタウフェン王家の居城だったシュタールエック城。ブラウバッハに君臨するマルクスブルグ城。カウプ中州には川面に白が映えるプファルツ城。ザンクト・ゴアルスハウゼンには“猫城”として有名なカッツェルネルンボーゲン城と、枚挙に暇ない。

 さて、ライン川下りの観光船を管理・運行しているのは、 <KDケルン・デュッセルドルファーライン観光汽船> という会社で、この状況は旧世紀から依然として続いているものだ。
 今、ラインを下って行くモダンな感じの白い観光船も同社所有のもので、リューデスハイムを午前9:00にたち、コブレンツへとライン川最高の見所を下って行く一般的なものであった。
 ……しかし流石はライン河下りのハイライトである、ロマンティック・ライン。
 その中でも葡萄畑の丘陵に古城が次々と現れる、リューデスハイムからローレライまでの、出色の区間を行く船である。

 午前出発でありながらも観光客はいつも多く、船内は結構込み合っている。
 初めてこの地を訪れ、切符を買って胸を躍らせながら船に乗り込んだ者は少し驚くかもしれない。
 そんな観光客の中でも目立つのは、やはり旧世紀末から急に増えた日本人の団体観光客の姿であろうか。
 ミーハーな彼らは、近づく秋の気配を感じさせる少し冷たい風が吹き抜けるデッキで、肌寒さを我慢しながら、川岸に現われた古城を見つける度、カメラのシャッターを競うように切っていた。
 ライン川をいく観光船では、見慣れた光景である。
 だが、そんな余所者の輪から外れたところで、ポツリと独り川面を静かに見つめている少女に、老人は気付いた。

 彼はこの地で生まれこの地で育って六五年という根っからの地元の人間であるが、それでもこのラインの風景に飽きることはなかった。
 いや、それどころかこうして幾度となく河を下るその度に、その景色は新たなる発見と喜びを提供してくれる。
 それ故に、彼は度々観光客たちの間にその身を紛れ込ませては、こうして古城と父なるラインが織り成す自然と人工の芸術をその目に焼き付けるのだ。
 なのに、少女はそれらの景色に特に感傷を抱かないらしい。
 珍しいと言えば珍しいタイプの人間だ。

「父なるラインは、お気に召さないかな。お嬢さん」
 少女にどこか興味を抱いた老人は、彼女にゆっくりと歩み寄ると穏やかに言った。
「……ううん。そんなことはないわ、おじいさん。この眺めは、とっても素敵よ」
 中型の白い観光客船の甲板。その左舷側の、上品な装飾の施された手すりに身を任せた格好のまま、少女は静かに首を左右する。
 近くで向かい合うと、少女はハッと息を飲むほどに美しかった。
 一見幼く見えたのは、純血のゲルマンではなく東洋の血が混じっているからだろうか。
 成熟した女性の美しさと、だがどこか少女のあどけなさのようなものが同居する、不思議なその相貌。
 海外からやって来た者を含め、幾多の観光客を見届けてきた老人であったが、彼女ほどに人目を惹く人物ははじめてだった。

「それは良かった。私には貴女の目にこの景色が映っていないように見えたのでね。君は、観光客かね?」
「ええ。でも、生まれはこの国なんですよ」
 そう言って、少女はその青い瞳を老人に投げかけた。
「……これから、ママが違う兄姉たちに会いに行くの」
 その言葉に、老人は納得した。
 なるほど、複雑な家庭の事情があるため、素直に景色を楽しめるほどの余裕がないのだろう。
 彼女のどこか物憂いげな表情も、それで説明がつくというものだ。
 内心で頷くとともに、老人は自分の好奇心を少しばかり後悔した。

 さて、彼らのそんなやり取りの間にも客船は順調にラインを進み、やがて3番目の寄港地『バッハーラッハ』に止まった。
 酒の神バッカスの名に由来するこのバッハーラッハは、一〇〇〇年以上の歴史を誇る古い街で、その事実は船着場から見える聖ヴェルナー礼拝堂や、城門、数多く点在する中世建築からも容易に窺い知ることが出来る。
 また、その背景に葡萄畑が広がっていることからも容易に予想できる通り、この地ではワインの生産が盛んである。
 それに加え木材の販売、そしてライン川を往来する船舶にかける通行税によって、長年豊かな財政を誇ってきたことでも有名なバッハーラッハ。

 この地でもまた、大勢の観光客が船を忙しく乗り降りしていく。
 つまりこのバッハーラッハにも、それ相応の見所が多く存在するということである。
 しばらくの後、新たな乗船客を書き入れた船は、その喧騒も冷め止まぬまま再び川面を滑り出した。
 全行程二時間程度のこの船旅では、寄港時間はそう長く取れないのである。
 その左舷側デッキ。
 老人はなにを話すと言うこともなく、バッハーラッハに定着している間もずっと少女の傍で彼女を観察していた。
 やはり彼女は他の観光客とは一線を画す存在で、他の乗客たちの喧騒を余所にただひとり身動ぎすることもないまま同じ姿勢を保ちつづけていた。

 再び船が走り出しても、少女はあれきり一言も口を利かず、じっと渦を巻く川面を見つめている。
 そしてそんな少女を、風景と共に老人は眺めていた。
 よくよく考えてみれば、こんな少女が一人旅というのも物騒な話である。
 しかも少女は誰の目にも美しい。
 観光客で賑わう辺りはそれに比例して治安も悪化するのが常で、特にそれが東洋人ともなればそれなりの危険を覚悟しなくてはならないだろう。
 生粋のドイツ人である老人には、少女が明らかに東洋の血を引いていることが分かる。
 大き目の赤いスーツケースを傍らに抱えていることからも、彼女が外国人観光客は一目で明らかだ。
 それ故に、同伴もいない若い娘の一人旅を見ると、道中を心配したくもなるというものだ。
 ドイツでは女性が乱暴されるという事件は、決して珍しいものではないこともある。
 そんなことをぼんやりと考えていると――

「シュトロハイム……」
 ポツリと少女が呟いた。
「えっ?」
 だが、右舷に集った観光客たちが急に大きな歓声を上げたせいで、その少女の囁くような声は老人にはよく聞き取れなかった。
 船は何時の間にかオーバーヴェーゼルを通過し、ライン随一の名勝『ローレライ』にさしかかっていたのだ。
 老人はその事実を、雰囲気を盛り上げるためにローレライ付近で必ず船内に流されるハイネの詩とジルヒャーの曲で有名な『ローレライ』のメロディと、そして川底に横たわる岩礁や渦のために揺れはじめた船体から知った。
 川幅が約九〇Mと狭まく、流れも急なこのローレライは難所としても有名である。
 右手に見える一三〇M級の岩壁でこだまが良く聞こえるため、そこから美貌と歌声で船乗り達を誘惑して遭難させるという『ローレライ伝説』が生まれたほどだ。

 あと一月早くこの地を訪れていれば、恐らく少女は、毎年夏にローレライの岩の上にあるローレライ野外劇場で催されるという、その名も『ローレライ・フェスティバル』に参加することが出来ただろう。
 これは、『サマー・カルチュラル・フェスティバル』の一環として開催されるもので、古城とブドウ畑を望むローレライの谷と、四〇〇〇人収容の古代ローマ式円形劇場という最高の舞台上で世界トップレヴェルのオペラが上演されるとあり、これを目当てに駆け付けるオペラ・ファンも少なくない。

「この近くに、シュトロハイム城という古城があるのでしょう?」
 少女はまっすぐに老人と視線を合わせながら言った。
 それは質問と言うより、むしろ確認であったのだろうか。
 彼女の口調には奇妙な力が込められていた。
「シュトロハイム……」
 老人は、掠れてた声で唸るように言った。
 自分でも眉間にシワが寄せられていくのが実感できる。
「そうか。お嬢さんは、シュトロハイム家をご存知か」
 老人は、掠れてた声で唸るように言った。
 自分でも眉間にシワが寄せられていくのが実感できる。
「昔、母からウワサを聞かされたわ。ねえ、あれは真実なのかしら? おじいさん」
 少女は真摯な瞳で、老人の顔を見上げて言った。
「もし良かったら。もし、シュトロハイム家のことをご存知だったら、話を聴かせていただけないかしら」

 老人は、一時の間逡巡せずにはいられなかった。
 古くからこの地に住まう人間、もしくは長い歴史を持ち、先祖の話を代々語り継いでいる家庭においては、シュトロハイム家の名を知らないケースは珍しい。
 だが、知る人ぞ知るシュトロハイム家についての話題は、彼らの間では長い間タブーとされていた。
 しかし、相手は幼い観光客だ。
 ここで土産話のひとつとして、シュトロハイム家について語ったところで、別段問題が生ずるとは思えない。
 老人は、ひとつ軽く頷くとゆっくりと口を開いた。
「私は、生まれた時からこの地に住んでいる。記録も残っていない先祖の時代から、私の一族はここにいたんだよ。お嬢さん。もっとも……我々はただの農民にすぎなかったがね」
「――ご存知なんですね」
 少女ははっきりとした声で言った。
「シュトロハイム家のこと」
「ああ。知っておるよ。もちろん、深くシュトロハイム伯爵家について熟知しているというわけではない。言わば、あの一族にまつわる伝説を知っているわけになるがね」

 予めそう断っておいてから、老人はゆっくりと語りはじめた。
「古代ローマ時代より受け継がれるヨーロッパ総合格闘術の宗家、シュトロハイム伯爵家。その一族直系の者は、剣術は無論、体術・格闘術全般における天才的な才、更には人知を超えた異能ともいうべき不可思議な能力を有しているとも聞く。現在のシュトロハイム家当主は三六代目。セフィロス・ラングレー・フォン・シュトロハイム」
 その当主の名に、一瞬少女の目が鋭く細められる。
 だが、それはあまりに刹那的な出来事であった。
 語りに入り込もうとしていた老人は、当然それに気付くこともなかった。
「――シュトロハイム家は、その優れた武術と超然たる能力により、代々ヨーロッパの王朝の警護に当たっていてな。今でも各国の王室が外遊のおりには、一族配下の者をシークレット・サービスとして遣わしていると聞く」
「…………」
「だが、それは表面上のことに過ぎない。ヨーロッパ王位継承の内紛や、政変には必ずシュトロハイム家が裏で動き、多くの血が流されたと聞く。それ故、シュトロハイム家はドイツの影の支配者的な位置にあるとの噂も絶えないのだよ。聞くところによると、現在でも裏世界を支配する巨大な『財団』があり、その最高幹部会の一席をシュトロハイム家は占めているとさえいう」
 老人が気付いた時、少女のその青の目は厳しく細められていた。
 ただ彼には、少女の胸中にある感情がどんな種のものであり、それが何故に彼女をこんな表情に至らしめているのかを窺がい知ることはできなかった。

「セフィロス……」
 少女は唇だけでそう呟いた。
 その時、右舷に集まっていた観光客たちが、どよめきとも悲鳴ともつかない歓声を上げた。
 少女とともにその反対側、左舷側デッキにいた老人であったが、彼にはその歓声を呼び起こしたものの正体は容易に予想できる。
「お嬢さん。我々も右舷側に行ってみようではないかね」
 にこりと柔らかな微笑を浮かべて、老人は青い目の少女に手を差し伸べた。
 少女はそれに優雅に応え、彼とともに右舷側へと移動した。
 そしてデッキの反対側に辿りついた老人が、少女を促がすように指差した先――
 果たして、そこにそれはあった。
 ライン右岸の絶壁。
 ナイフで削ぎ落として作ったかのような鋭利な崖の上に、天を突き刺すかの如く聳え立つその異様。
 建築様式も、そして風格、威圧感、そのどれもがこれまでラインの両岸を流れていった古城群とは一線を画す。

「――あれが、シュトロハイム城だよ」
 老人は、努めて事務的にそう言った。
 これまでのように、けたたましくカメラのシャッターを切る者は現われなかった。
 それどころではなかったのだ。
 観光客たちは皆、その一種異常なまでに威圧的なシュトロハイム城の姿に、ただ呆然とするばかり。
 中には、畏怖の念さえ抱く者もいたに違いない。
「あれが……」
 少女は険しい視線を以って、その古城を見上げる。
 川面を吹き抜ける風が、彼女の茶色がかったブロンドを躍らせた。
 シュトロハイム城をバックに見るその少女の姿は、一枚の絵画のように美しい――
 そう老人は思った。


 ――その後、少女が次の船着場で船を降りると言うまで、彼らの間に会話はなかった。
 老人も少女も……シュトロハイム城の存在は、彼らから言葉を奪い去るに相当する力があったことは確かだろう。
 だがそれよりも、少女が古城へと向ける鋭い視線に、老人は投げかける声を失っていた……と言った方が正解に近いのかもしれない。
 ただの観光客にしては、やはり少女の存在は異質だった。
「もしや、お嬢さん。シュトロハイム城に行くつもりかね?」
 船を降り桟橋の方へと向かう少女の後姿に、老人は言った。
 少女は陽光に映える真っ白な帽子を被ると、振り返りながら首を縦に振った。
「そうか……だが、シュトロハイム城周辺の警護は異常なほどに厳重だ。そのせいで治安は良いかも知れぬが……道中気をつけてな」
「たのしかったわ、おじいさん。素敵なお話をありがとう」
 透き通った笑顔を見せて、少女は言った。
「こちらこそ。私も楽しいひと時を過ごさせてもらったよ。
 こんなに楽しい河下りは久しぶりであった」
 その言葉にもう一度微笑を見せると、少女は踵を返した。
 老人は、その立ち去ろうとする少女を慌てて呼び止めた。
「お嬢さん!」
「……?」
 不思議そうな表情をして、少女は再び老人に目を向ける。
 小首を傾げるような仕草を見せる彼女に老人は言った。
「私は、ロレンスという。素敵なお嬢さん。宜しければ、貴女の名を窺がいたい。この二人の出会いを記念して」
 その言葉に、少女はとびきりの微笑を見せた。
 老人に、遠き日に過ぎ去った若き日の想いを思い起こさせるほどの。
「私はアスカ。アスカ・惣流・ラングレー」

 ――これから、ママが違う兄姉たちに会いに行くの

 老人は、ようやくその言葉の真の意味と……そしてこの少女が何者であるかを、驚愕と共に悟った。
「はじめまして、そしてさようなら。ローレンスさん。私もあなたに会えて、楽しかったわ――」



SESSION・143
『慟哭』


 迂闊だった。
 あまりの愚かさに、己を呪う。
 幾ら地理的な距離があるとはいえ、地図上の隣町がやられたという過去があるのだ。こういう事態も予測されて然るべきであったと言える。
 シグルズの街は良くも悪くも長閑で平和過ぎたのだ。この戦乱の時代にあって、危機管理の意識があまりにもお粗末過ぎる。それがこの最悪の状況を招いたのではないのか。
 そしてその甘さは、支配者である領主が責任をもって清算しなければならなかったのに。
 だが、幾ら自分を叱責したところで、もちろん目の前の事実が変わるわけではない。
「頼む、たのむ! ペドロ」
 濛々とした黒煙が、掠れたような雲が申し訳程度にしか点在していない青空へ、高々と昇っていく。木造の家に火が放たれ、真赤に炎上している。発生源は間違いなくそこだ。まだ遠く離れているはずなのに、その熱気が伝わってきた。
 また、同じ方角から剣撃と兵士たちの怒号が微かにだが聞こえてくる。
 戦いはもう、はじまっているのだ。
 つまりそれは、野盗がこのシグルズの街に現われたからそれなりの時間が経過していることを証明していた。平和ボケしていた守備隊の連中が、野盗の襲撃に予め備えていて、それに迅速な対応を見せたとは、どうしても思えないからだ。

「どうして、もっと早く気付かなかったんだ」
 もうかなりの距離を全力で駆け抜けて来た。
 漂ってくる血の香りと、遠めにも明らかな大きな火の手。それらを最初に発見したときは、体が凍りつくような戦慄を覚えた。
 ペドロは――
 ペドロは大丈夫だろうか。
 最悪なことに、彼と遊び場にしていた古い空き家は、町の中心部にある。野盗がシグルズ街を襲うとして、一番優先して狙われやすい地帯だ。危険度はすこぶる高い。
 そしてペドロ自身が、無茶をしやすい性格にあることも大きな不安要素のひとつだ。
「ちくしょう! ヘバってる場合じゃねェぞ、クレス」
 もう一五キロ近くに及ぼうか。
 本来、身分を考えるなら当然のように馬で行く距離を、全力疾走しつづけてきたのだ。既に体力は限界に近かった。
 一時足を止め、軽く曲げた両膝に両手をついて激しく喘ぎながら、自らを叱咤した。
 自分が行ったところで、事態が大きく変えられるとは思えない。だがそれでも、どうしても変えなくてはならないものがある。
 それが、ペドロの命運。<彼の、命だ。
 まだ一〇に及ばない小さな友人を守れるのは、自分しかいない。
 その事実を痛いほど実感していた。

 ――なのに、オレの油断であいつは野盗の群れの中にひとり取り残されている。
 ある日突然、森の中に現れたちいさなちいさな友達。生まれて初めて、心からの笑みを交し合えた掛け替えのない絆。
 ペドロは天使のようにいいやつだった。
 まだちっちゃな子供だけど、大人の誰にも負けない勇気。
 そしてクレスが自らを恥じなくてはならないほどに、真っ直ぐな瞳を持っていた。
 にこにこと、はじめて見た時女の子と見間違えてしまったほどに愛らしい笑顔を浮かべ。
 いつもチョコチョコと、ペドロは後をついてきた。
 舌足らずで、まともに彼の名前すら発音することのない、そのあどけない少年は、この街の領主である母にも身の回りの世話をする従者たちにも、この世の誰にも秘密の友達。
 荒みかけていた心を癒してくれた、ちいさな天使。
 ふたりで色んなことをした。ふたりで色んなところに行った。
 欺瞞も偽りもない、ただ純粋な心を真っ直ぐに向けてくるペドロとの触れ合いに、クレス・シグルドリーヴァはいつしか掛け替えのないものを学び取るようになっていた。

「あいつは、オレをまともな人間にしてくれた」
 叫びを上げながら、クレスは街の入り口を示すアーチ型をしたゲートを潜った。
 入り口からでも街の惨状は窺がえる。予想はしていたが、実際目にすると思わず足を止めて呆然と見入ってしまうまでに悲惨なその光景。
 慌てて抜刀すると、今日、遊ぶ約束をしていたペドロとの待ち合わせの場所へ急いだ。
 見なれたはずの自分の支配する街の姿が、足を速めるに連れて急速に視界の両側を流れ去って行く。
 そこは異世界だった。シグルドリーヴァ伯爵家が治めるスウェーデン王国北東部に位置する辺境の町シグルズ。
 クレア・シグルドリーヴァ女伯のひとり息子であり、将来この街の支配者としてその爵位を継承するはずのクレスは、無論この町の姿を隅々まで熟知し、慣れ親しんできたはずだった。
 だがその街は、良く知るそれとは全くと言っていいまでにその姿を変えていた。
 原型を留めている民家はどれひとつとしてない。<貴族でもなければ石造りの建造物など持てないこの時代、彼らの家屋はすべて木材で造られている。火矢を放たれれば、瞬く間に燃え上がり灰燼と消えて行く。
 そして、累々と横たわる斬殺された町民たちの死体。
 彼らから流れ出す鮮血が、大通りを赤黒く染めている。
 焼け落ちた家屋がその死体と血痕を焼き、吐き気をもよおすような強烈な死臭を周囲にばら撒く。

 ――強い。
 ただの野盗にしては、死体に見られる切り口が見事だ。
 急所を一突き。鮮やかな斬痕。
 つまり、殺し慣れている。
「傭兵かよ……!」
 この時代、ヨーロッパ各国どこへ行っても似たようなものだ。
 旅商人から聞いてはいたことだった。
 つまり国王も、各公領、伯爵領などの領主たちも金に困っている。戦争が長引き、それを続けて行くだけの財政が圧迫されているのだ。だから戦力増強のために傭兵を雇ったとしても、約束していた給金を支払うことができなくなるケースも多いと言う。
 また、その傭兵たちにしても、そう頻繁に働き口が見つかるわけではない。戦争と言うと安易に剣と剣の切り合い、大砲や弓の打ち合い、兵士たちの激突を想像しがちだが、その時間の大半は膠着状態や睨み合い、交渉などに費やされる。
 仕事はない。仮に見つかっても、約束された分の給料がキッチリと支払われる保証はない。しかも、味方側が敗北し雇用者である貴族が滅びたり没落したりすることがあれば、最悪ただ働きである。
 では、そんな傭兵たちはどうやって日々を生きて行くのか。戦争がない時、戦えない時、給金が支払われなかった時、彼らはどうするのか。
 答えは簡単。
 彼らはあっさり傭兵から野盗へとその姿を変えるのである。
 つまり、今シグルズの街を襲っているのもそんな傭兵たちの一団なのである。
 彼らは生きるために村や町を襲撃し、金品・食料を略奪し、精神を圧迫される戦場で蓄積されたフラストレーションと本能的な欲求、そして刹那の快楽のために住人たちを殺し、それが若い女性であった場合体を奪う。
 中世、戦国の時代とは、そんな地獄の中にあった。

 ――おまえ、女の子みたいな顔してるけどさ。もしかしたら、戦場にいかなくちゃならない時がくるかもしれない。また、街が野盗に襲われるかもしれない。そんな時、男だったら戦わなくちゃならないんだぜ。分かるか、ペドロ。
 たたかう?
 ――そう。勇気を出して、たとえ勝てないと分かっていても、戦わなくちゃならない。らしいぜ。

 ペドロは心の澄んだ子だ。
 そして強い子だ。
 きっと、自分の言い付けを馬鹿正直に守ろうとするに違いない。
 焦りはそこにあった。
 この危惧が杞憂に終わればどれほど良いか。だが、ペドロが街を襲ってきた野盗に無謀な戦いを仕掛けていった可能性は高い。もし、それが現実なら、ペドロはただでは済むまい。
 彼本人の言葉を信じるなら、ペドロはまだ四歳。
 剣一本持ち上げられる腕力はない。戦場で戦ってきた傭兵たちに敵うわけがない。

 ――オレはなんてことを。

 冗談半分に諭した事実だ。四歳の子供に求めるには、酷過ぎる現実だ。
 たとえ正しい姿勢ではあっても、まだあの子に教えるようなことではなかったのだ。
 勝てないと分かっていても、戦わなくてはならない。
 ペドロ。そいつは時と場合によるんだぜ。
 お前はまだ子供だ。守るものも誇りも、自己すらも完全には確立できてない。まだお前は、命をかけて戦うような段階じゃない。
「はやまるなよ、ペドロ」
 だがクレス・シグルドリーヴァのその願いは、その少年と残酷な現実には、届くことはなかった。
 ――どうして、僕はこんなに小さいんだ。
 そう泣き叫びながら戦った小さな少年。
 駆けつけたクレスが見たものは、轟々と火の手を揚げる二人の秘密の遊び場となっていた空き家。そして、斬撃に原型を留めることのできなかった柔らかな子供の肉体と、切断された右腕。
 その切り離された右腕には、いまなお少年が武器とした木の棒が握られていた。
 どうして、ぼくはこんなに弱いんだ。
 どうして、ぼくはこんなに小さいんだ。
 己の非力を悔やみつつ消えていった少年の頬には、泥と血に塗れた涙の跡があった。

 視界が鮮血色に染まる。
 自分の精神が、グニャリと歪んでゆく感覚が奇妙に意識できた。
 どこかで耳を劈くような、聞くに絶えない絶叫が上がっている。
 焼けつくような喉の痛みとともに、その悲鳴が自分の腹から搾り出されていることに気付いたのは、一体いつのことだったか。
 流れ尽くした涙が、真紅の雫に変わったのはいつのことだっただろうか。
 それはまだ、リリア・シグルドリーヴァと出会う前。
 まだ貴族を、家族を、そして故郷を捨てて傭兵となる前。
 クレス・シグルドリーヴァという少年に起こった、小さな物語だった。



SESSION・144
『ラングレー・フォン・シュトロハイム』



 自分の父とエンクィスト財団との関連性に気がついたのは、ごく最近のことだった。
 母である惣流今日子。彼女はかつて、キョウコ・惣流・ラングレーを名乗っていた。
 そのことは、確かな記憶にある。
 だが夫との離婚を契機に、母は夫方のラングレー姓をその名から切り捨て、ただ旧姓の惣流とだけ名乗るようになった。
 そんな一家離散の際、母親に引き取られることになったアスカは、幼少期を過ごしたドイツを離れ母の母国である日本へと渡った。帰ったと言ってもいいだろう。
 もう一〇年以上も前のことである。
 それから第三新東京市で長い時を過ごすうち、何時しかアスカ自身、かつて自分の姓にラングレーが加えられていた事実を忘却するようになっていた。
 アスカ・S・ラングレーではなく、名実ともに惣流アスカへと変わっていった。
 つまり、そういうことなのだろう。
 これは同時に、父親のことを家族として考える機会がなくなっていったことも意味している。
 それに、たとえ父ルドルフのことを思い出すことはあっても、母親が決まって哀しい顔をするその話題は極力避けるようにしていた。

 そんなこともあって、父親のことを詳しくは知らない。
 知っていることと言えば、彼の名がルドルフ・ラングレーであったこと。彼がキョウコとの離婚の後、あるドイツで再婚したらしいこと。母と父との離婚の理由が、父の合理主義と危険な思想にあったこと。
 ――それくらいだった。
 だが、人の繋がりとは不思議なもの。
 アスカは碇シンジに巻き込まれるようにしてNERVに出会い、そしてエンクィスト財団、その最高幹部会ゼーレの存在を知った。
 そしてそのゼーレの一席を、ドイツ代表として占めていた男。
 その男の名が、ルドルフ・ラングレー・フォン・シュトロハイムであったことを知った時、自分は変わったのかもしれない。そんな風にも思う。
 シンジがフランスへ行くと言い出した時、高校に休学届けを出してまで随行を申し出たのは、自分しか知らない理由があったからだ。
 この旅の当初から、既にフランスで姿を消し、ドイツへと向かうことをひとり画策していた。
 ――ゼーレと父ルドルフ。
 両者の関連を調べるのは一介の女子高校生である自分には無理であったが、ルドルフ・ラングレーの経歴を調べるのは容易かった。
 ドイツにおいてシュトロハイム伯爵家の存在は著名であり、その一族に関する基本的なデータなら、ネットでドイツ国立図書館のデータベースにアクセスしただけで容易に入手できたからだ。
 そうして得られた結果は、予想通りであり、そしてある意味で恐れていた通りであった。


 ルドルフ・ラングレーは惣流キョウコとの離婚の後、すぐにシュトロハイム家三四代当主の一人娘エルザ・フォン・シュトロハイムと結婚していた。
 そして、エルザの父が亡くなると、三五代目当主としてシュトロハイム伯爵を継承していたことが分かった。
 ルドルフもエルザも若くは無く、そして過去に結婚した経験があるという点で両者は共通していた。ただし、エルザの方は離婚ではなく、夫を病で亡くしていたらしいので、そこはルドルフとは違ったようだが。
 なんにせよ、状況から考えて、ルドルフがシュトロハイム家当主の座を目的にエルザに近づいたことは明らかだった。母キョウコが語った離婚の原因、「合理的な思考」と「危険なまでの野望」とはこのことであろう。
 確かに、アスカもルドルフのこの行動には嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

 さて、入手したデータによると、父の再婚者エルザにはセフィロスという名の男児があった。
 その名に聞き覚えがあった。
 幼少のおり、父の友人の子息として紹介された彼と遊んだ経験がある。
 彼は少し年齢は上だったが、自分を実の妹のように可愛がってくれたことを覚えている。
 それに彼は光を持たない――すなわち視力がないという決定的にして衝撃的な特徴があった。
 そして周囲の大人たちを含めて、自分より頭が良いと認められる初めての人間でもあった。
 それ故、その記憶は鮮明である。
 これらの点と添付されていたルドルフの写真から、彼女は確信を得た。
 このルドルフ・ラングレー・フォン・シュトロハイムは、母のかつての夫であり、そして自分の父親であるルドルフ・ラングレーに違いないと。
「だけど、ルドルフは六年前に死んでいる……その後、ドイツ国立図書館のデータには、ひとり息子であったセフィロスが三六代目の当主として伯爵位を継いだとある」
 ――だが、それはおかしい。
 アスカはタクシーの後部座席で、プリントアウトしてきたデータを睨みながら呟いた。

「あ、あの。お客さん、なにか言いました?」
 若い女性の運転手が、バックミラー越しにアスカに視線をよこしながら訊いた。アスカの小声を聞き止めたのであろう。耳の良い人らしい。
「いいえ。なんでもないの。行き先の変更もなしよ。最初に言った通り、シュトロハイム城までお願いします」
 慌ててそう断ると、アスカは再び思考に没頭した。
 ――私の記憶が正しければ、セフィロスには妹がいた。いつもイニシャルでJ.D.と呼ばれていた女性が。それにも関わらず、公式のデータに彼女の名がないのは何故?
 そこで、ひとつの可能性に行きついた。
 J.D.は、危険過ぎた。あの人が大変な異能者であったのを覚えている。
 神童と恐れられていたセフィロスですら及ばない、惣流アスカの眼から見ても彼女の才は飛びぬけたものがあった。
 シュトロハイム家は、恐れたのだ。J.D.の存在そのものを。
 人間を超えた存在を生み出してしまった、一族最悪の奇跡を。
 だから、抹殺した。
 全ての記憶と記録から。
 ――J.D.という存在に関わる全てを抹消したんだわ。

 だが、今アスカが必要とする力こそ、その化物の力であった。
 世界中のサイマスターを集めても、彼女ひとりに敵わない。新世紀で魔皇ヘルの力の一片を垣間見たアスカであったが、J.D.の能力がそれに劣っていたとさえ思えない。
 無論、冥界の女帝であるヘルの力が、たったあれだけで完全に示されたとは思えない。
 彼女は底知れぬ実力を、まだまだ秘めているのだろう。
 だがそれは、J.D.とて同じだ。
 アスカは確信する。
 幼い頃、まるでマジック・ショウを見るような感覚で、色々と彼女に珍しい能力の披露をせがんでは、それを目を輝かせて眺めていたアスカであるが、近年に至って冷静にその内容を吟味してみた時……正直、心臓を鷲掴みにされるような恐怖と衝撃に襲われた。
 TVに度々登場する似非サイキックたちの主張する能力など、J.D.に比べれば学芸会のお遊戯。
 なにしろかつて、彼女はネコに襲われ出血死したスズメを見て大泣きしていたアスカを慰めるため、そのスズメを蘇生してみせたのだ。
 アスカの見る目の前で、J.D.の掌に横たえられたスズメの死骸は瞬時にその傷を癒し、そして生命を宿し大空へ飛び去っていった。
 当時三歳程度だったアスカは、それを見て無邪気に大喜びしたものだ。
 その真の意味にすら気付かずに。

 ――サイコ・ヒーリング

 それは、そんな言葉で一言にしてしまってよいものだろうか。
 アスカは恐怖と共に、それを否定せざるを得ない。
 或いはそのスズメは死していたのではなく、瀕死の重傷だったのかもしれない。だからそれは、生命を呼び戻した奇跡などではなかったのかもしれない。そう考えることもできる。
 だが、その小さな小鳥が、命に関わるほどの大きな傷を負っていたことは間違えようがないのだ。
 彼女は、それを片手間で癒して見せた。一瞬にして。
 折れた羽、食いちぎられた足、破損した肉体の一部すら補い、完全に。
 使徒に肉体の再生能力があるというのなら、J.D.は一瞬にして『再生』はおろか『復元』すらしてしまう。
 なんの躊躇いもなく。そして、造作もなく。
 少なくともその面で、人間J.D.は天使すら超えている。
「J.D.はね、己の壊滅的なまでに絶大な能力を抑え込むために、その能力の大半を費やさねばならないほどの使い手なんです。だから、あまり困らせないであげてください」
 いつか聞いた、セフィロスの言葉。
 底知れぬという意味では、アスカにとって魔皇ヘルもJ.D.も似たり寄ったりだった。
 どちらも、とても人間とは認めがたい。
 アスカの個人的な評価では、両者は間違いなく同列に配置されていた。
 加えて、セフィロスとJ.D.は、アスカが初めて自分より頭の良い人がいたと驚かされた人物たちである。
 電子工学の分野で高名な科学者、研究者として世界的に認知されている母キョウコですら、アスカにそう思わせるには至らなかったというのに。
 セフィロスとJ.D.は、なにから何まで次元が違った。
 彼ら二人だけ、人類から切り離されたように――そう彼岸にいる。
 それは生まれながら天に与えられた、才でしか埋め合わせることの出来ぬ大きな隔たり。
 世界は二一年前、唯一にして致命的な過ちを犯した。
 J.D.、そしてジャスティス・D・L・フォン・シュトロハイムという、間違えた人間の誕生である。
 そして今、『魔皇サタナエル』『人類監視機構』と、真性の超越者たちを相手にするには、J.D.のような人類の限界を超えた化物を使うしかない。
 彼女を同志として迎え入れれば……
 惣流・アスカ・ラングレーは、最強の兵器を手にしたと同義である。
 考えるにも単純だ。
 例えばNERVの新型、G.O.D.にジャスティスを乗せてみれば良い。
 彼女なら、あの鋼鉄の人形を、地上に降臨した本物の『女神』にまで高めることができるだろう。
 そしてその女神たち数百機を、たった一人で自在に使役して見せるに違いない。
 それも半永久、持続的に。
 今、マルドゥック機関が血眼になって、G.O.D.のパイロット発見に尽力しているが……そんな彼らが求める人材の有する能力の総量を、将来一〇〇〇年に渡ってカバーできるひとりの女。
 それがジャスティスなのだ。
 そしてそれこそが、アスカが世界に殴り込みを掛けるに当たって用意する、最強のカード。ダンシング・ドールシステム。
 ジャスティスを利用した、量産型G.O.D.の戦術・戦略的運用。
 G.O.D.のコクピット・システムの基礎理論を構築したのは、惣流キョウコ博士である。
 彼女が無防備に自宅の端末に保存してあった、G.O.D.の青写真的なデータは既に出掛けに複写してきた。
 このデータとシュトロハイム家から惣流アスカに保証されている財の一部を有効活用すれば、そのシステムを搭載した兵器を世界に送り出すことも可能となろう。
 そして、自分をあるいは敗北させてくれる初の存在となるやもしれない『魔皇』と『エンシェント・エンジェル』に、ジャスティスが興味を示すであろうことは既に約束されているようなものだ。
 彼女は、敗北を求めている。
 ジャスティス・シュトロハイムは動く。
 そして、ダンシング・ドール・システムを実用に漕ぎ着ければ――
「世界を相手に、戦えるわ……」



SESSION・145
『炎立つ』


 父なるラインを下り行くその左岸の絶壁に、天を挑むかのように突き立てられた古城。
 その周囲に敷かれる厳重極まりない警備・警戒のラインを、もし奇跡的にでも潜りぬけることができた者があったとしたら、その日その人物は朝日の差し込むその城の食堂にて、彼らの姿を幸運にも見つけることができただろう。
 かつて神童と呼ばれ、シュトロハイム家はじまって以来の天才と称される男。
 シュトロハイム伯爵家三六代当主、セフィロス・フォン・シュトロハイム。
 そしてそのシュトロハイム家すらが見せつけられた才に恐怖し、その存在を外界に対して頑なに封じてきた――
 J.D.こと、ジャスティス・D・L・フォン・シュトロハイム。
 一二しかないゼーレの椅子内の一席を代々のシュトロハイム家当主が占めていることを考えても、その一言でドイツはおろか、世界を動かせる人間たちである。
 捉え様よっては、事実上世界の覇権を握っている兄妹と表現してもよい彼らだ。
 だが、医学界で著名なセフィロスはともかくとして、J.D.の存在は世界に対しあまりに希薄であった。
 つまり、彼女のその存在を知る者は、世界全体を見回してみても両手でこと足りるほどしか居ないのである。
 だがそれで良かったのかも知れない……セフィロスは、ある意味そんな残酷とも言えそうなことを考えていた。
 J.D.の存在は、世界にとってあまりに危険過ぎる。
 下界に住まう人間たちが、これまで『人間』として定義していた存在の限界をあらゆる面から完全に超越してしまっている存在。
 まだ幼い彼らにとって、J.D.は刺激的過ぎるし、彼女を受け入れられるとは思えない。
 世界的に認められ、その底知れぬあまりの才能に『天才』と呼ばれる他の存在から恐怖の視線すら向けられることのあるセフィロス。
 その彼にとってすら、J.D.は彼岸の存在だった。
 能力を意図的に制限して、しかもその状態を維持しておかねば何が起こるか分からない。
 なにを生み出してしまい、世界にどんな影響を与えてしまうか分からない。
 壊滅的。
 その意味で彼女の存在は、魔人――悪魔的だった。
 今の人間たちに彼女の存在を明かすのは、文明を持たない原始人に核兵器のスイッチを握らせるようなものだ。
 彼女の存在の、その真の意味を悟った時はもう遅い。

 後に魔皇ヘルですら、彼女との出会い驚愕したくらいだ。
 そして彼女の存在をこう表現したくらいだ。
「アランソン侯も、そして魔皇カオスの苗床となった魔女モリガンすら比較にならぬ。もはや、この女を人類と呼ぶのは過ちであると評さざるを得まい。この女の存在は、人間という存在に生まれてきたことが足枷となっているが故、総合的には些か見劣りするが、ある面において、我々魔皇に匹敵する」
 人類の超越者――
 すなわち『神』となるべくして生み出された魔皇ヘルですら、その存在に衝撃を受けたのだ。
 人間がただで済むはずがない。

 だが自分は、そんな女性とこうして向かい合い、二人して朝食を楽しんでいる。
 あまつさえ、彼女は血縁者であり、妹ですらある。
 考えてみれば、自分はとてつもない強運の持ち主なのかもしれない。
 セフィロスは、J.D.を眺めながらそんなことを考えた。
「――今朝、起き掛けに父の夢を見た」
 緑に囲まれたライン川を一望できる、大きなガラス窓の嵌め込まれた食堂。
 柔らかな日差しに無造作に束ねられた豊かなブロンドを煌かせながら、J.D.は言った。
 彼女のその微かにハスキィな声は、広い室内に流れるセフィロス作曲のクラシックの調べに乗せて、音楽的に響く。
 J.D.と向かい合って食事を進めるセフィロスは、自分がどう努力しても彼女の声が嫌いになれないことを知っていた。
「夢、でございますか」
 黒の執事服をごく自然に着こなし、二人の主人たちの給仕を努めるエーベルハルトが言った。
 彼はJ.D.と直接会話を交わすことができる、世界で三人しかいない人間の内の貴重なひとりであり、先代よりシュトロハイム家に使えてきた侍従長である。
 分かりやすく表現すれば、アランソン侯・ジャンにおけるエイモス・クルトキュイスのような存在だ。
「ああ」
 見るからに値の張りそうな白のティカップを傾け一息吐くと、J.D.は頷く。
 女性でありながら、その口調はどちらかと言えば男性的であり、乱暴さがあるが……それでも彼女の立ち振る舞いには、どこか気品と優雅さがある。
 特に何と言うわけではないのだが、見る者にそんな印象を抱かせるのだ。
「何か私に話し掛けているようだったが……聞き取れなかった。少し、気になってね」
「それは、虫の報せとかいうものでしょうか」
 J.D.が自分の見た夢の話題を持ち出すなど、記憶にないことだ。
 もっとも、これも彼女の特徴の一つである解析不能、予測不能な気まぐれの一環なのであろうが――
 今まで小鳥が啄ばむ様に静かに食していたセフィロスは、興味を抱いて問いかけるようにそう言った。
「さあな」
 だが、兄であり夫でもあるらしいセフィロスのそんな言葉に返すJ.D.の反応は、あまりに素っ気ない。
 しかしまあ、これもいつものことだ。セフィロスもエーベルハルトも、長い付き合いでそれは承知していた。
「……ん?」
 突然、J.D.は手に持っていたティカップを受け皿から持ち上げた格好のまま、微かな声を上げた。
 怪訝に思ったセフィロスが視線を寄越すと、彼女は目を細めてカップを凝視していた。
「どうかしましたか」と彼が問おうとした瞬間、彼女のカップがピシリという乾いた音を上げ、そして真っ二つに割れた。
 J.D.に握られた取っ手の部分だけを残し、割れたカップは半分ほど残っていた紅茶と共にテーブルに舞い落ちる。
 ガチャンという陶器がぶつかり合う硬い音が響き、それが広い食堂に微かに反響して消えていった。
「これは失礼を」
 J.D.の傍らにいたエーベルハルトは、珍しく軽い動揺を見せながら慌てて主人に駆け寄った。
「すぐに代わりを用意致しますので」

 だが、J.D.は応えず、ただ軽く目を閉じて鋭利な笑みを見せただけだった。
 そして手に残ったカップのとっての部分を握りつぶしながら、楽しそうに呟く。
「今日は、何か変わったことが起こりそうだ」
 PKの補正を受けた彼女の五指は、半ば物理法則を無視した力を彼女にもたらす。皮膚上にも膜状の理力が張り巡らされているため、肉体が傷つくこともない。
 そんなプレス機紛いの圧力を以って握りつぶされたカップは、メキメキという悲痛な断末魔を上げ、粉砕されていった。
「楽しみなことだ」
 彼女は冷たい微笑を浮かべながら言うと、握っていた手を開放し、ほとんど粉末になってしまったカップの残骸を食卓に落した。
 そして流れるような動作で席を立ち、素早く踵を返す。
「自室にいる。
 ――客人が来たら、丁重にもてなすように」
 言い残すと、エーベルハルトが頭を下げて見送る中彼女は食堂から去って行った。

 客人が来たら……?

 彼女の後姿を見送り、再び静かに朝食を再会したセフィロスは、残されたその言葉の分析をはじめた。
 まあ、そんなことをするまでもなく、結論はひとしかないのだが。
 どうやらJ.D.は、彼女がまもなく――今日中にここに来ることを予知したらしい。
「そうですか……今日、会えるのですね」
 生まれてから一度も開いたことのない瞼を、ゆっくりとライン川を見渡せる窓辺に寄せる。
 シュトロハイム城には変化というものが、若干欠けている。
 J.D.もあれで、新たな刺激が訪れることに期待のようなものを抱いているのかもしれない。
 なにせ、義理ではあるが……間違い無く血の繋がった自分たちの妹がやってくるのだ。
「嬉しいですね、エーベルハルト」
 セフィロスはヴィーナスも嫉妬しそうな、見事な微笑を浮かべて言った。
 長く伸びた美しい金髪と、ハッと息を呑むまでに整った中世的な相貌。
 セフィロスもまた、J.D.とは別の意味でジェンダーを超越した魅力をもつ男性である。
「はっ。あの方にお会いするのは、真に久しぶりであります」
 軽く頭を下げながら、だがどこか弾んだ様子でエーベルハルトは言った。
 彼もまた、気付いているのだ。
 侍従長の座は伊達ではない。
「これからしばらくは、すこぶる機嫌の良いJ.D.の顔が見られます。私の1番の幸せなんですよ」
 むしろ、自分はそんなJ.D.の表情を作るために生き、それを喜びとするために生まれてきた。
 セフィロスはそう思っていた。
「J.D.ではありませんが」
 ――本当に、楽しみですね。

 ゆっくりと、だが確実に。
 真紅の炎は、燃えあがろうとしている。
 やがてそれは世界を震撼させる炎となるだろう。
 J.D.も、セフィロスも、何故かそれを知っていた。


to be continued...


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