でも勇気を振り絞って
僕は戦うでしょう
CHAPTER XXXIV
「不味いランチ」
SESSION・131
『消えた少女』
「消えた?」
その予想もつかぬ報告を受けたときも、彼の表情は大して変化しなかった。
それでも驚いたことは確かなようで、いつもより声が一オクターブ高い。が、それはそれでまた、奇妙に音楽的な美しさがあった。報告を入れた職員は、乱れてもなお美しい存在があることに些か感動を覚えた。
「申し訳ありません。我々のミスです。せめて一人、世話役を付けておくべきでした」
部署は知らないが、ペルヌー特尉と名乗った支部の職員が軽くカヲルに頭を下げた。少し狼狽している。
「……いえ、謝罪は不要です。この場合、大した意味を持ちませんから。それより詳しい状況を教えていただけますか? どうも良く理解できない。いきなりアスカ君が消えたなどと言われても」
カヲルは飲料の販売機のある休憩室で一服しているところに、その報告を受けた。と言っても、本当に喫煙していたわけではない。ただ、静かな場所で色々と考え事をしていたわけだ。
「とりあえず、分かっていることから教えてください」
カヲルは手に持っていたレモネードのカップを捨てると、特尉を振り返って言った。
「は、はい」
ペルヌー特尉は、二〜三度小さく頷くと少し顎を上げた。きっと言葉を頭の中で整理しているのだろう。しばらくすると、彼は冷静な口調で語りはじめた。
「我々フランス支部が確認している限りでは、ミズ・アスカ・ソーリュウは六〇分程前にこのフランス支部の施設から外へ出ています。正確に言えば今から、ええと――六八分前です。その際、ゲスト用に登録されたIDパスをゲートで返却しております。それ以後の行方は現在調査中ですが、現在のところ不明です」
「……ふむ」
カヲルは微かに頷くと、無言で先を促した。
彼とアスカは、NERVフランス支部に客人として招かれた人間だ。だからそれ相応の、一時的に限定された施設を利用できるという『ゲスト』登録のパスカードを与えられたのは当然である。これがあれば、まあ、大抵の厚生施設は利用できるようになっている。不便はない。だが当然、職員待遇ではなくあくまでゲスト用のカードなので、施設から出るときは支部側に返却しなくてはならない。事実、アスカはこの施設から外へ出たときに、パスカードを返却している。これは頷けた。六八分前という正確な時間が分かったのも、その記録を調べた結果であることは間違いない。
「――ですから、彼女が支部から外へ出られたのは間違いありません。それから、最後に彼女らしき人物と話をしたという職員にも話を聞きました。その女性職員の挙げる身体的特徴と状況から総合して考えて、まずミズ・惣流に間違いないでしょう」
「その……彼女に最後に会ったという、女性職員は何と?」
「は。外線の繋がっている電話の設置場所を聞かれたそうです。こちらでも確認してみました。確かに彼女に発行したIDを使っての通話記録が一件ありました。それらをプリントアウトしたものがこちら。あと、彼女の通話内容が録音されたものがありますが……お聞きになられますか?」
ペルヌー特尉は、それらの資料をカヲルに差し出しながら言った。返事を聞かずとも、彼がそれを受け取るであろうことは容易に予測できたからだ。
「もちろん、拝見します。それと、拝聴もね。しかし、ここでは通話内容まで録音されるのですか」
良く考えてみれば、NERVとはそれだけ外部に漏れては困る事柄を幾つも抱えているわけだ。外との接点を常に監視しておくのは、当然なのかもしれない。いくら本部が身柄を保証しているゲストといえど、過剰な程警戒しておいても損はない。
「ええ。職員も含め、外線での通話内容は全てマザーによって監視されています。それに関するデータも音声やテキスト、場合によっては映像で保存されるようになっていますし。プライバシーは制限されますが、少なくともウチの支部で外線を個人的な目的で使用する酔狂な者はおりませんから、問題にはなっていません」
なるほど、とカヲルは呟く様に言うと彼から資料を受け取った。そして再びベンチに腰を落とす。彼は、先程レモネードを捨ててしまったのを後悔した。
資料には、少なくともカヲルが思いつく限り詳細なデータが細々と記録されていた。フランス支部も、セキュリティには相当気を使っているらしい。ざっと目を通した限り、先程のペルヌー特尉の報告が整理された要領の良いものであったことが確認できた。
「しかし、アスカ君は一体どこにいったのだろう……」
彼女は決して頭の悪い娘ではない。むしろ、回転だけなら驚異的に速い少女だった。歳相応の未熟さはあるものの、そこも可能性とポテンシャルと好意的にも評価できる。少なくとも、誰にも告げることなくフラフラと外を出歩くような、そんな軽率な真似をするような子ではない。
誰にも断らず外に出た、ということには……だから、それなりの事情と理由があるはずだ。カヲルは、彼女の通話内容を録音したというディスクを再生してみることにした。
ここにはじめてやって来た時は、この手の機械の操作に非常に苦労させられたものだ。ふと、そんな懐かしい記憶を思い出す。
≪……あ、ええと、ハァイ。これってちゃんと貴女に伝わっているのかしら? ちょっと不安だけれど、まあいいわ。ご無沙汰してます。わたし。惣流・アスカ・ラングレーです。突然で申し訳ないけれど、少し会って話したいことがあるの。だから、勝手だけれど今からそちらに押しかけさせてもらうわ。エーベルハルトに彼特製の紅茶、用意させてもらっておいてね。チャオ≫
そこで、短い内容は終わっていた。
「……妙だな。これだけですか? 相手の声も入っていないし。第一、彼女は一体誰に掛けたのだろう」
通話記録を読み返してみるが、記してあるのは相手先の電話番号だけだ。これだけでは、流石のカヲルも特定はできない。
「相手の声が入っていない訳ではありません。相手が何も喋らなかったのです。ミズ・惣流だけが一方的に喋った。だから、このような記録が残っているわけです。それから、その電話番号はすでに調べがついています。結果は、存在しない番号でした。つまり彼女は、通じてもいない電話先に勝手に一人で語り掛けていたことになります」
「ほう、それは面白い」カヲルは、その言葉を聞いて唇の端を吊り上げた。
これは、ちょっとしたミステリーだ。こういうのが、カヲルは嫌いではない。
繋がらない電話。一方的な会話。だが、意味ありげな会話。いや、この場合相手がいないのだから『会話』という言葉は適当ではないか。
とにかく……特に気になった点は、全部で四つ。カヲルは、素早くその四つについて思考をめぐらせた。
――まず、第一点。『これってちゃんと貴女に伝わっているのかしら?』だ。この言葉は彼女自身、電話がキチンと繋がっているかを疑問としていることを示している。つまり、別にアスカが気まぐれを起こしているわけでも、イタズラを試みているわけでもないことを証明できるセリフであるわけだ。
彼女のこの奇怪な電話には何か意味があって、こうすることで相手に意思が『伝わる』ということを計算に入れた上での行動なのだろう。要するに、一般的には繋がっていない回線のように思えても、これは別の部分で何らかの意味を持っている可能性が高い、ということだ。
問題は、普通でないどのような繋がり方をしているのか。また、この電話に直接会話以外のどのような意味があるのか。この二点であるが、これはまた別の話だ。
二つ目にカヲルの注意を引きつけたのは、彼女が『惣流・アスカ・ラングレー』と名乗っている点だ。確か、『ラングレー』は彼女の父親から引き継いだファミリーネーム。だがそれは、両親が離婚し母についてドイツから日本に渡ったときに、一応捨てたものだと聞いている。だからアスカは、日本で『惣流アスカ』としか名乗っていない。日本に来てからの彼女の知人たちは、『ラングレー』というもう一つのファミリーネームの存在自体、知らない者が殆どだろう。
それにも関わらず、アスカは自ら積極的に『ラングレー』を口にしている。ここから考えられるのは、相手が『ラングレー』を名乗らなくては通じない相手である可能性。もしくは、『ラングレー』そのものに関わる人種である可能性だ。どちらにしても、その相手はドイツに居た頃――つまり、『ラングレー』を捨てる前に出来た知人である可能性が極めて大きい。これは重要なポイントだ。
三つ目のポイントは、『ご無沙汰』と『勝手だけど押しかけさせてもらう』という言葉だ。これは明らかに相手がアスカと既知の間柄にあり、しかも過去実際に会ったことがある人間であることを意味する。うでなければ、『ご無沙汰』という言葉は出でこない。
それに彼女は確かに気の強い少女ではあるが、礼儀を知らない無礼者では決してない。その彼女が『押しかける』と言っているのだ。多少の我侭を許し合えるかなり親しい間柄にあったと考えて、問題はないだろう。それから言葉の使い方を考慮してみると、尊敬の念を抱いている同年の親友か、或いは年上の知人。ことによると血縁者の可能性もある。
最後の第四点は、もちろん『エーベルハルト』という固有名詞だ。彼特製の紅茶というからには、男性だろう。しかも、そのエーベルハルトの紅茶をアスカは飲んだことがあるのだ。だから、それを所望した。そうなると、このエーベルハルトはそこそこの年齢であると考えられる。第3の、相手の年齢に関する推測を裏付けるファクターだ。もちろん、これまでの推測が全て当たっていることを前提としての話だが。
さて、アスカはご存知の通り一〇年以上前に日本にやってきた。つまり、ドイツに居たのはまだティーンになってもいなかった頃である。この時、その『彼特製の紅茶』をご馳走になったと考えると、エーベルハルトなる人物は、三〇歳以上の男性と考えて良さそうだ。
何故なら、おいしい紅茶を入れるには、それなりの経験と技術がいる。彼は、アスカが一〇年以上前ドイツに居た頃、すでにそれを淹れていたわけだ。当時、限界まで若く見積もって二〇歳だったとすると、プラス一〇年で三〇。実際には、それよりかなり年長であることが予測される。
それから、このエーベルハルトが電話では第三者として語られていることも重要だ。つまり、電話の相手とアスカとでは、エーベルハルトという男性は共通の知人であるということだ。そして、その通話相手とエーベルハルトは同居しているか、或いは地理的に非常に近い位置にあるとも推測できる。
「この口調や、話の内容からすると……彼女は、少なくとも面識のある人間に掛けたつもりらしいですね」
ペルヌー特尉が、控えめに自分の見解を述べた。だが、カヲルにとっては何の助力にもならない。思考の展開が遅すぎるのだ。
「その通り。知人、もしかすると友人といえるくらい気心の知れた人でしょう。彼女は全くの他人や、あまり信頼を置いていない人間にこういう喋り方をする子ではない。まあ、『ご無沙汰』というからには、しばらく会っていないのでしょうが……これは、彼女が日本に居たからと考えることもできますね。かつて彼女は、ドイツで暮らしていた。それから、両親の離婚の都合で日本に渡ったと聞いています。その辺りを考慮してみると、電話の相手は日本に渡る前に知り合った知人とも考えられる」
「それはつまり……」
ペルヌー特尉は正直驚いた。資料と記録にざっと目を通してから数秒。目の前の青年は、既に説得力のある筋のとおった仮説を用意していたのである。
「彼女の行き先は――ドイツ」
カヲルは、フッと笑ってみせた。
「少なくとも、仮説のひとつとしては、もっとも説得力がある考え方です」
SESSION・132
『不味いランチ』
発令所のスタッフたちは、絶望的な思いでその光景を見つめていた。
既にマナの乗る <スクルド> は戦闘不能。
最後の望みを賭けた碇ユイの <ウルド> であったが……
それが、今、エンディミオンの高速コンビネーションの前に無残にも敗北しようとしている。
前後から強力な打撃と斬撃を食らい、一瞬だが態勢を崩したところへゼロの <聖光> によるトドメの一撃。
蒼穹を流れる光の大河に <ウルド> は飲み込まれ、その肉体の大部分を抉り去られた。
意識を失うパイロットと、力無く自由落下していく半壊の機体。
――もう、エンディミオンに対抗できる手段をNERV本部は持っていなかった。
≪ウルド、中破。素体損傷率66.8%。再生、復元追いつきません。作戦続行不能、危険です!≫
≪スクルド、ウルド、両パイロット意識喪失≫
≪両機、完黙≫
≪エンディミオンは『アスク』『エンブラ』『ゼロ』、3機とも以前健在。本部上空13577Mの地点で、静止しています≫
≪表層都市はほぼ壊滅。兵装ビル稼働率0.21%まで低下≫
次々と、絶望的な報告が入る。
どれもが確実な敗北を裏付ける言葉ばかりであった。
「パイロットの意識を取り戻せる?」
赤木リツコは、この日はじめて伊吹マヤに直接顔を向けて訊いた。その声音は、この最悪の状況に陥ってなお平静を保っている。精神が鋼鉄で出来ているか、不感症としか考えられない神経であった。
「両者とも、危険です。可能性があるとすれば、 <スクルド> 機ですね。マナちゃんです。 <ウルド> の方は、パイロットが回復しても損傷が大きすぎて動くこともできません」
マヤは蒼白な表情で、弱々しく首を左右した。
「暴走でもいいから動かないものかしらね。まあ、いいわ。こうなった以上、可能性の高い方に賭けるしかない。マヤ、 <スクルド> のパイロットにコンタクト。意識の回復を試みて」
「――了解」
冷静沈着のリツコに、マヤも若干落ちつきを取り戻す。赤木リツコという名の天才が諦めない限り、活路は開ける。その想いが、今の彼女を支える。そして、それは発令所全体に広がっていった。
総帥 碇ゲンドウ。
副司令官 冬月コウゾウ。
そして技術部主任 赤木リツコ。
この三人は、この状況下でも平時と変わらぬ表情をしている。動転した様子も見うけられず、的確な指示を各方面に飛ばしている。
まだ、NERVは死んだわけではないのだ。
「しかし、失敗だったわね。まあ、時間が無かったから仕方がないんでしょうけど。パイロットたちに、コンビネーションや戦術に関して重点的に訓練を積ませるべきだったわ」
キーボードを高速で叩きながら、ボンヤリとリツコは呟いた。
「なにより、パイロットたちが実戦を恐がって満足に戦えなかったのが問題ですよ」
マヤが作業を進めつつ、律儀に言葉を返す。
まったく予測しなかった事態ではないが、まさかあれほどまで浮き足立つとは考えていなかったのだ。
しかし、それもある意味しかたがないかもしれない……とも思う。
ユイにマナ。
どちらも、殴り合いの喧嘩すら経験したことがないであろう、いたって普通の主婦と高校生だ。
蹴り、拳、あまつさえ一撃必殺のエネルギー波までもが飛び交う超音速格闘戦に、いきなり放りこまれたのでは、緊張して当然というものだ。
「だけど、よかったじゃない?」
リツコは、突然マヤに言う。
「えっ……?」
言葉の意味が理解できず狼狽するマヤであったが、お構いなしにリツコは続けた。
「今後の方針がひとつ立ったわ。また仕事が増えたということ。貴女、知っていて? マヤ。忙しいのは、いいことなのよ?」
その言葉が終わるか終わらないか。
絶妙のタイミングで、けたたましい警報が鳴り出した。
真赤なハザードランプの光が、発令所の空気を切り裂いていく。
絶体絶命のピンチという、滅多に遭遇できない――
滅多に遭遇したくもない状況にただひたすら呆然としていた職員たちは、このいきなりの騒音に一瞬ビクッと身体を震わせる。
「なにごとかね?」
オペレーターたちの頭上、迫り出すような司令席から冬月が顔を覗かせて言った。
そのノンビリとした印象すら抱かせる口調が、緊張の走る発令所に良い意味でリラックス効果をもたらす。
「第三新東京市上空に、突如『時空異常』発生!
G−812エリア、上空13500M……エンディミオンに極めて近い空域です!」
逸早く自分の作業に復帰したオペレーターのひとり、青葉シゲルがその冬月を振り仰いで言う。
それを補足するかのように、日向マコトも報告のため首を捻り上げた。
「状況は先の『バルディエル戦』において、ガルムが異空間より現われた時に酷似しています」
「先輩、例の計器が反応してます!
何者かが亜空間よりワープアウトしてくる模様!
……3、」
マヤの叫びと共に、メインスクリーンに投影されたそのポイントに黒い大穴が開いた。
「2、」
エンディミオン3機も異常を察知したのか、慌てて散開し出す。
「1!」
だが、一瞬遅かった。
「――来ますッ!」
開かれた時空のゲートから突如、凄まじい勢いで巨大な獣の牙が飛び出す。
最後尾を逃げていたゼロが、それに捕まった。
以前、あのJ.A.の装甲すらたやすく噛み砕いて見せたその鋭い牙は、あの時と同様、一瞬にしてゼロの装甲を粉砕していく。
それは、まるでバキバキという乾いた音が聞こえてきそうな、お世辞にも気分の良い光景ではなかった。
「……出現した目標を映像で確認。ガルムです」
メインスクリーンにでかでかと投影されているわけだから、今更の報告ではある。
が、それでも一応日向は言った。
彼らが知る限り、エンディミオンを噛み殺すことができる巨大な黒狼といえば、魔皇ヘルのインペリアルガード『ガルム』しかいない。
「がうむが、おかえりなさいまし〜」
ガジガジと、見るからに硬そうなゼロを噛み砕きながらガルムは言った。
喋り方はいつもの調子だが、どうもテンションが低い。
察するにあまりご機嫌といえる状態ではないようだ。
ハミハミハミハミ……
しばらく、1万メートルを越える上空に浮かんだまま、大人しくゼロを咀嚼するガルム。
だが突然、魔が差してついつい『ワサビ』に手を出してしまい、大人の味を知ると共に、迂闊で子供な自分に大後悔する3歳児のような複雑な表情を形成すると、
「ぺっ……ぺっぺっ!」
と、ゼロの残骸を吐き出しはじめた。
バラバラに噛み砕かれた、エンディミオン・ゼロ・ガルム特製『よだれ』ブレンドは、散り散りの無残な姿となって地表へ落下していく。
もちろん、細切れに噛み砕かれた段階でコアも破壊されている以上、既に再生・復元は利かない。
こうなっては、エンディミオンもただの鉄屑だった。
「まじゅっ! これ、マズそうろ〜!」
どうやら、ゼロはとってもお口に合わなかったらしい。
自分から食いついたくせに、ガルムは涙を浮かべながら嫌そうな顔でブーブー文句を言う。
ただでさえ、ヘルと別行動するはめになったおかげで機嫌が悪いところに、この不味いランチだ。
がうむの不機嫌は、頂点に達した。
彼女は、おいしくないご飯がこの世の何より嫌いなのである。
エンディミオンにとっては、迷惑極まりない話だったが。
しかし、そんな常識的な理屈はガルムには通用しない。
ヘルと引き離される原因を作り出した存在――
即ち『敵』に向かって、正義の鉄槌の名を借りた『八つ当たり』を下すために、間合いを計る残り2機を猛追する。
そして、丁度今頃ネヴァダを無に還しているであろう竜王 <ビ'エモス> と同じく、口を大きく開き『虚無』のプレスを真紅のエンディミオン・エンプラに向かって放つ。
この強力なゼロの奔流を、エンディミオンはまだ学習したことがない。
攻撃範囲の広さに回避は不可能と見た『エンブラ』は、レンズ状の <A.T.スクリーン> を展開し防御に転じる。
エンディミオン最高の防御結界。
これで、あらゆる物理攻撃を完全無効化することが可能であるはずだった。
だが……
彼らは、世界を犯しながら強引に実体化するその『無』が、『天使の光』より遥かに上位の存在であることをあまりに知らなかった。
最強の無存在『虚無』を凝縮して放たれたブレスの前に、A.T.フィールドなどハリボテ以下の存在と成り果てる。
そう。
完全無効化されるのは、逆にエンブラの <A.T.スクリーン> の方だった。
容赦なく押し寄せる虚無。
その波に攫われて、エンディミオン・エンブラはこの世から完膚なきまでに消滅した。
SESSION・133
『ガルムVSアスク』
――良いか、ガルム。
今後第三神東京市は、確実に最も激しい戦場の一つとなる。
これからの時代の流れの、中心となる地だからだ。
その状況は、たとえNERVが財団から孤立することになろうとも変わらぬ。
よって、お前がNERV本部を守ろうとする限り、幾度も戦闘を繰り返すこととなろう。
その時、インペリアルガード以上のクラスが敵でない限り、あまり無闇に『虚無』を使うな。
無でこの通常空間を犯せば、失われた欠損部分が再び存在によって修復され、
『空間』としての姿を取り戻すまで、規模によっては数年、数十年の時を要することになる。
人間は、核における環境汚染にすら影響を受ける脆弱な生き物だ。
いらぬ破壊は、研究のためにも避けておきたい。
今後、監視機構との戦いでどんな影響が出るとも、どんな利用のされ方をするとも
限らんからな。 「……あ」
ガルムは、世界の一部を消してしまってからその言い付けを思い出した。
「そういえば、『む』は余程のことがないと使っちゃダメって言われてたような……」
パタパタと振られていた尻尾が、ピタリと動きを止める。
そして、居るわけがないのだが――
もしかして『へうさま』に見られてはいなかったかと、ガルムは慌ててキョロキョロしだした。
かなり怪しい行動だったが、本人はそれなりに必死なのである。
だが結局、直接見ていようといまいと、あの主を誤魔化せるわけがないことにガルムは気付いた。
きっと、しばらく『抱っこ』はおあずけに違いない。下手をすれば『ぺろぺろ』も当分禁止だ。
「わふ〜。へうさまに怒られてしまいまし〜」
がくう……っと項垂れるガルム。
――と、その瞬間であった。
隙を突いて、残された1機、エンディミオン・アスクが高エネルギー収束帯を放ってきた。
ゼロの <聖光> 最大出力とまではいかないが、まともに食らえば並の使徒ならコアごと消滅ものの、極めて強力な一撃だ。
それが、ボンッ! と、ガルムのお尻にヒットした。
流石に無意識レベルで常時展開している防御結界は、ブチ破られたらしい。
「みぎゃっ?」 後ろから来た突然の衝撃に、思わず踏み潰されたカエルのような声を上げるガルム。
シューシューと白い煙のようなものが上がってはいるが、なんとか無傷のようだ。
だが、痛いことは痛いらしい。
とりあえず、また涙目になっている。
「わふぅ〜」
しっぽで直撃を受けたオシリを器用にさすりながら、クル〜リと振り向きアスクを睨みつけると、ガルムは言った。
「もー怒った!
もう、怒りまし〜! 憤怒でこざいましーっ!
がうむは怒り心頭、観音袋の尾が切れそうろ〜!」
言葉の内容からなんとかその怒りは伝わってくるものの、口調が口調なのであまり迫力はない。
オマケに日本語を激しく間違えていた。
だが、放たれる殺気は狂気的に高い。
人間が浴びせ掛けられたら、それだけで精神崩壊を起こしてもおかしくないほどだ。
それだけは確かである。
「わっふ〜!」
恐らく『怒りの雄叫び』と思われる咆哮を上げながら、ガルムは敵に向けて突進を開始した。
同時にエンディミオン・アスクも、玉砕覚悟であろうか真正面から挑んでいく。
数十KMはあった両者の間合いが、急速に縮まっていく。
――先に仕掛けたのは、アスクであった。
巨大な狼の顔面に、加速そのままの勢いでストレートを繰り出す。
それに対しガルムは、インパクトの直前『ぽんっ!』……と、少女の姿に変身することでそれを回避した。
電光石火の分子配列変換である。
黒い狼犬の状態より、人間の小さな女の子の姿の方が当然ながら身体の体積が小さい。面積もだ。
10Mを軽々と越える狼犬に一撃くれるつもりだったアスクの拳は、当然空を切る。
回避成功を確認すると同時に、再びガルムは狼の姿に戻った。
そして、反撃。
渾身の力をもって、前足でアスクを殴りつける。
丸太のように太い足が、空間を強暴に切り裂きながらアスクに襲いかかった。
が、そこは流石にエンディミオン。
その攻撃を予測していたのであろう、紙一重ではあったが急速回避に成功する。
――計算通りだった。
相手の動きを予測しながら戦っているのは、なにもアスクだけというわけではない。
ガルムはインペリアルガードの予測能力をもって、エンディミオンの更に先を読む。
ガルムの次の1手は、回避完了後に生まれるアスク一瞬の無防備状態を狙って放つ、全身からの『毛針』だった。
黒く艶やかな彼女の体毛が、まるで鋼のようにピンと伸びると、そのまま弓矢のように無数に飛び出す。
しかも、その一本一本が強力無比なA.T.フィールドで丁寧にコーティングされていた。
念のために断っておくが、ガルムの黒い毛は身体自体が尋常でないビッグサイズであるため、かなり長い。
数十CMから……長いものでM単位に及ぶ。
だからそれは、一口に毛針と言ってみても、実際の感覚としては黒い『長剣』に近かった。
よりイメージを明確にすれば、レイピア(細身の剣)あたりになるか。
そんな代物が、数百・数千という単位でばら撒かれたのだ。
初体験する攻撃パターンを前に、流石にここまでは予測できなかったのであろう――
アスクは完全に虚を突かれた。
この時点で、少なくとも予測合戦に関しては、ガルムに軍配が上がったわけである。
しかし、それでも流石に新型。
機敏に反応して見せる。
それは女神と戦っていた時以上の、凄まじい反応速度であった。
襲いくる数百単位の毛針を回避すべく、アスクは最大速度で急速上昇。
間に合わない分は、A.T.スクリーンで受け流す。
ここから、熾烈な空中戦ははじまった。
一見、ガルムの毛針を全て交わしたかに見えたアスクだが、その毛針がまるで独自の意思を持つかのようにその動きに付いて追尾しはじめたのだ。
無数のホーミングミサイルを、スピードで振り切ろうと画策する戦闘機。
その光景は、あたかもそんな風にも見えた。
音を置き去りにして逃げるアスク。追尾するガルム・ニードル。
スピードだけならアスクに軍配が上がるのだろうが、何せ追ってくる数が多い。
しかもそれぞれが複雑な動きで展開しながら追尾してくるので、それなりに軌道を予測しながら回避しないと、すぐに追い詰められる。
少なくともこの時のエンディミオンに、G.O.D.戦のような余裕はなかった。
「がうむは逃がしませう〜!」
アスクの誤算は、ガルムにあった。
毛針を振り切ろうと演算処理を高速で行っていたために、ガルム本体にまで気が回らなかったのだ。
いや、処理が追いつかなかったと言った方が正確か。
逃げ場を塞ぐように現われたガルムに対し、アスクに一瞬の迷いが生じる。
それをガルムは見逃さなかった。
幾重ものフィールドでコーティングされた前足が、巨神に向かって再び振り下ろされる。
エンディミオンも <A.T.スクリーン> を展開して防御を試みるが、インペリアルガードのフィールドを不完全なエンディミオンのそれが防ぎきれるはずもない。
ラップを棍棒で殴りつけたかのように易々と <A.T.スクリーン> を破ると、ガルムの一撃は防御の腕ごとアスクを弾き飛ばした。
弾丸のような勢いで、雲を突き破り真下に落下していくアスク。
ガルムは間髪入れずその後を追う。
風を切り裂きながら、壊れた人形のように真っ逆さまに落ちていくアスクの腕は、肩から下が消し飛んでいた。
背骨も普通ではありえないくらい、奇妙に変形してしまっている。
だが、コアはまだ無傷だ。
放っておけば、やがて再生・復元を終え何事もなかったように復活するであろうことをガルムは知っていた。
やがてN2爆雷でも投下されたかのような凄まじい衝撃を撒き散らしながら、人形は地表に激突した。
そのあまりの落下のエネルギーに、大地がもたない。
まるで地球が悲鳴を上げているかのような轟音と共に、地表が崩壊していく。
それは同時に、第三新東京市の表層都市崩壊を意味していた。
ガリガリと激しく地層と摩擦しながら、アスクの身体は厚い地殻を突き抜けて、市の地下に広がる巨大な空洞――ジオフロントにまで到達した。
ガルムも当然、その後を追う。
やがて、1万Mを越えるスカイダイブは間欠泉のように勢い良く舞いあがる土煙と共に終わりを告げた。
『アスク』が、ようやくジオフロントの地底部に到達したのである。
さほど間を取らず、ガルムもそのすぐ隣にフワリと着地を決める。
それからすぐに、彼女は攻撃を再開した。
「あんたキライ! あんた、キライでございましー!」
地中に半ば埋まり込んだアスクに追い討ちを掛けるが如く、ガルムは前足でベシベシと叩く。
その大きな肉球が一発ヒットするたびに、ジオフロントの大地が地震でも起こったように激しく振動した。
ドーム型の天井――つまり第三新東京市の地表の裏側から、パラパラと土砂が崩れ落ちてきた。
5発ほど叩いた頃だろうか。
明らかに、アスクの生命の伊吹が消え去ったのが分かった。
恐らく、コアが砕けたのだろう。
ガルムもようやく、攻撃を止めた。
「……エンディミオン・アスク、完全に沈黙」
発令所のメインスクリーンに、巨大な黒の狼と動かなくなった機械人形の姿が映し出されている。
青葉シゲルの報告通り、確かにエンディミオン3機に動きはない。
コアを完全に破壊された彼らは、人間で言う死を迎えたのだ。
「先輩の探知機にも、エネルギー反応ありません。やりました!
ガルム、エンディミオン『ゼロ』『アスク』『エンブラ』の殲滅に成功です!」
赤木女史の怪しげな探知機で、マヤはガルムの勝利を確認した。
そして満面の笑みを浮かべると、その場にいる全員に向けてそれを宣言する。
G.O.D.の敗北で絶望しかけていた彼らは、それに歓喜の声をあげた。
だが、表情の優れない者もいる。
総帥・碇ゲンドウと、その副官である冬月コウゾウである。
彼らは勝利に舞いあがる職員たちを眼下に見下ろしながら、思い沈黙を守っていた。
たとえガルムの活躍でNERV消滅の危機は免れたにしても、G.O.D.が完膚なきまでに敗北したことは変わりない。
彼らにとっての問題は、むしろそこにあった。
G.O.D.の敗北は、彼らにとっての敗北でもあったわけだ。
責任者として、命を拾われて飛びあがる職員たちのように無邪気に喜ぶわけにはいかない。
「問題は、山積みだな」
冬月の重々しいその言葉が、階下から巻き起こる歓喜の声に掻き消される。
それでもゲンドウには届いたはずだったが……
総帥は何も応えなかった。
そして彼ら二人とは別に、やはりその口元に笑みを浮かべることのなかった人間が、もうひとり本部第一発令所にはいた。
技術部主任、赤木リツコ博士である。
彼女は口々にガルムの検討を湛えては喜ぶ職員たちを無感動に見つめながら、状況の纏めにかかっていた。
彼女も技術部を総括する責任者。
ゲンドウや冬月とほぼ同様の理由で、歓喜の声を上げるわけにもいかないのだ。
「……」
リツコは、コツコツとボールペンでコンソールを叩きながら無言で思考する。
――G.O.D.は負けた。
それは、認めざるを得ない。
ガルムが来てくれなかったら、どうなっていたことか……
NERVが消滅していてもおかしくなかった。
だが、これからも敗北が続くかと問われれば……
リツコは否と答えられると、考えていた。
――今回は負けた。
でも、まだG.O.D.の限界は見せてもらっていない。
パイロット……乗り手が今壁として存在するものを越えることさえ出来れば
エンディミオンにも、充分対応できる。
既に、世界各国に存在するNERV支部でG.O.D.の量産ははじまっている。
もはや9割方完成。後は微調整を残すのみという報告が入っている機体が、すでに6機。
この戦いで <ウルド& <スクルド>の2機を失いはしたが、すぐに兵力の補充は利く。
それに、遠隔操作はやはり大きい。
パイロットは意識を失いはしたが、外傷はゼロだ。
この大敗の中でも、貴重なパイロットを失わずに済んだ。
霧島家の者――理事長と、マナ。
それに碇ユイ。
G.O.D.の機体と同様、この三人の限界もまだまだ見えていない。
理事長はまだ女神を操ったことはないが……
特に、その孫娘の霧島マナは、今回の戦闘でその底知れぬポテンシャルをリツコに見せつけた。
彼女はまだまだ伸びる。
――それに、NERVはG.O.D.のパイロットの発見・養成機関として『マルドゥック』という部署も新設した。
これから様々な人材が、パイロット候補生として誕生してくるだろう。
不謹慎かもしれないが、リツコとしてはそれも楽しみである。
研究課題は山とある。
しかも、今だ人類の誰もが手をつけていない領域、カテゴリーにだ。
赤木リツコにしてみれば、未知は魅惑の果実。
研究者という生物として、初めてそれに手を伸ばす人間となる。
それは彼女にとって、なによりの幸福であった。
――そして今、ここにもうひとり、束の間の幸福に微笑む者があった。
「わふ〜。言いつけ通り、がうむは悪者をやっつけ仕り。これで、へうさまから言い渡された任務は、ひとえにかんりょーしたわけでございまし」
ようやくつまらない仕事が終わったとばかりに、ガルムは実に嬉しそうだ。
足元にはアスクの残骸が無残に散らばっている。
彼女の言うとおり、とりあえず第三新東京市に襲来したエンディミオンはこれで全滅ということになるわけだらから、その言い分には頷ける。
「じゃ、そういうことで、がうむは御役ごめんでごさいまし。さっそくへうさまの元に帰りまし。……それでは、ねうふの皆さん、ごきげんたてまつり〜」
しっぽをパタパタと振ると、嬉しそうに別れを告げるガルム。
彼はさっさと時空のゲートを開くと、嬉々として亜空間へ身を躍らせた。
ヘルのいるルーアンに瞬間移動で帰るつもりである。
「ジオフロント上で時空の歪みを確認。時空のゲート……です。ガルムは亜空間へ突入しました。ワープ・イン」
見れば分かることでも、律儀に報告する青葉。
どうやら亜空間を利用した、天使たちの一種の <瞬間移動> を、NERVは『ワープ』と呼ぶことにしたらしい。
やがて水面を乱す波紋が消えていくように、時空の歪みは拡散し、平均化し、そして無くなっていった。
静けさが戻る。
少なくとも、数瞬はそんな状態が維持された。
しかし、それは突如破られた。
――お前は第三新東京市に戻れ。
そこで、あの特務機関を保護しておけ。
グワッと何の前触れも無く、時空に大穴が開ける。
「先ほどとまったく同じ座標に、ふたたび時空異常!」
その報告に、発令所に一瞬の緊張が走った。
今度は一体何事か。
「何者かが、ワープアウトしてきます!」
人類が知るどの空間にも属さない場所から、ノッソリと現われたのは――
大方の予想通り、ガルムであった。
ノロノロとした動作でゲートをくぐると、再びジオフロントに彼女は降り立つ。
「……」
気のせいかもしれないが、まだ黒い狼の姿をした彼は、プスッと膨れ面をしているように見えた。
そしてその見解は、妥当だった。
一呼吸置いて放たれた、彼女の言葉がそれを証明する。
「わふ……そういえば、へうさまにここにいろって言われていたんでございまし……」
彼女はショボンと、見ていて気の毒なほどに肩を落としたまま、悲しそうにそう呟いた。
ガルム=ヴァナルガンドにとって、主と地理的な距離を置かざるを得ないという状況は、人間が想像する以上に辛く、そして悲しいものだった。
SESSION・134
『シュトロハイム城にて』
「青年」
その呼び声に、セフィロス・L・シュトロハイムは顔を上げた。
『目』を向けると、彼女はこちらに顔もよこさずタロットカードを見つめているようだった。
ただそれはセフィロスの予想であり、一見して窺えるのは木製の椅子の背もたれと、そして彼女の長いブロンドだけだ。
背中を向けたまま、一方的に呼びつける……。
一般的感覚でいけば、それは無礼に値する行為だったのかもしれないが、セフィロスはそんなことを気にもしない。
「なんです、J.D.?」
「君にも関係があるよ。なつかしい知人からの連絡だ」
やはりセフィロスに背を向けたまま、彼女は言う。
特徴的なハスキィ・ヴォイスだ。
セフィロスは、彼女の声が大好きだった。
「知人……ですか?」
彼は小首を傾げながら、椅子から離れ彼女の元へ向かった。
自分とJ.D.で共通する知人など、世界中探しても両手の指で事足りるくらいしかいない。
一体誰であろうか。
傍らまで寄ると、彼女の背後から覗きこむようにその手元に視線を落とす。
距離の縮まった彼女の髪から、甘い香りが漂ってきた。
セフィロスは、彼女の香りもまた好きだった。
「ここはなんて言う国なんだろう……」
J.D.はそう呟きながら、ひとりでに複雑な舞を見せるタロットカードを見つめている。
シュッシュと機敏に動く数十枚のカードは、空中で素早く組合い、分離し、また組み合う。
その連続が、J.D.とセフィロスだけに理解できる『言の葉』を形成するのだ。
「フランス……からみたいですね。
国家と言う意味合いでは、御隣さんなんです」
セフィロスは驚いた。
J.D.が、フランスという国家を知らなかったからではない。
送られてきた言葉の内容と、その発信者にだ。
「懐かしいですねぇ。彼女が日本に経ってからどれくらいになるでしょう?」
この城には、時計がない。
セフィロスも、そして彼の妹も、時間と言う概念を必要としたことはないからだ。
世間で通用している尺度に依存せずとも、彼らはそれで充分生活していける。
第一、何故『変化』を「分」だの「秒」だのと一々計りながら生きていかねばならないのか。
セフィロスにすれば、不思議でしょうがない。
狂気の沙汰である。
もちろん、J.D.も同じように考えていることだろう。
「ここに来るらしいね」
じっとタロットを見つめながら、J.D.は言った。
確かに、まるで一枚一枚が独自の意思を持つかのように舞い踊るタロットカードは、彼女の言うような意味をその身で表現している。
まあ、暗号のようなものだろうか。
彼ら以外のものが見れば、カードがひとりでに動くマジックにしか見えまい。
或いは、念動だとかいう超能力だと思うか……。
「客人なんて久しぶりですね。
お望み通り、エーベルハルトにお茶の用意を頼んでみなくてはなりません」
セフィロスは微笑を浮かべながら言った。
彼女が本当にここに来るつもりなら、それはつまりまた彼女と出会えると言うことだ。
最後に出会ってから随分と経つ。
彼女も変わったはずだ。
「――何の用だろうね?」
J.D.は言った。
彼女がこんな無意味な発言をするなんて……
珍しいこともあるものである。
普段の彼女なら、こんな質問はしない。
セフィロスが同じことを訊いたとしても、「来れば分かるよ」と一言で返されるだろう。
そんなJ.D.が、訊いても何の情報も得られないことが分かっていながら、口にする。
本当に珍しいことだ。
きっと妹も、彼女の訪問を知って機嫌を良くしているのだろう。
セフィロスはそう考えた。
「きっと、またおねだりでしょう。
彼女が他の理由で、我々に会見を求めるなんてありえるとは思えませんしね。
無茶なことを頼まれるかもしれませんよ」
彼女にとって、J.D.の能力は面白い見世物だったのだろう。
幼かった彼女はJ.D.に色々なことをやって見せてくれと、いつもねだっていたものである。
懐かしい記憶だ。
「空腹だ」
不意に、J.D.は言った。
いきなりだ。脈略がない。
ここで一瞬、彼女のその言葉が何かのジョークだったのか? ……と考える者はJ.D.に関しては素人だ。
「では、食事にしましょう」
「無論、するさ。エーベルハルトにそう頼んでおいたから」
セフィロスの言葉に、J.D.は短く応えた。
なるほど、執事のエーベルハルトに既に食事の用意をさせていたわけだ。
セフィロスはその事実を全く知らなかったが、J.D.は距離を全く無視して、世界中のどんな生物とも意志の交換をすることができる。
「また、彼女と食事ができるわけですね」
「多分、そうなるね」
J.D.は無表情にそう言った。
だが、セフィロスにはやはり、その言葉もどこか弾んでいるように聞こえる。
さっさと出口に向かい食堂へ出かけようとする彼女を、セフィロスは慌てて追った。
SESSION・135
『予兆』
いつから、この物語ははじまったのだろう。
まったく覚えがない。
いつもなら深く考えこむことだったが、今は、それもどうでも良い。
今だけは、他になにも考えたくない。
今はただ、この夜の儀式に身を委ねていたい。
今この時こそが、全てに優先する瞬間なんだ。
……ぴっぴ、と軽く服を引っ張られた。
もちろん、彼女の仕業だ。
小さな身体の彼女は、抱きしめると僕の胸の辺りまでしか頭が届かない。
だからそっと顎をひいて、彼女の顔を覗きこんだ。
視線が、出会う。
「……わたしのこと、だいじ?」
上目遣いに、ピュセルは訊いてくる。
こうして抱かれていると言うのに、それなのに彼女はとても真摯だ。
言葉を誤れば、深く傷ついてしまうだろう。
それが容易に窺えるほどに、彼女は切実に問い掛けてくる。
いつも。
毎晩。
「わたしのこと、だいじ?」
彼女は、繰り返した。
誰も気付けはしないだろうが、僕には分かる。
彼女は泣き出しそうなほど、今、心細い。
「大事だよ」
僕は応えた。
いつもと同じように。
心からの、想いを込めて。
「どれくらいだいじ?」
小さな子供のように、彼女は一生懸命に問い掛ける。
それは懇願だった。
その言葉を聞かせて欲しいと言う、懇願だった。
世界に迫害され、虐げられてきた彼女は、自分に価値を見出してくれる人間を……
その存在を、心から確認したがっている。
だから、信じさせて欲しいといつも訴える。
それが、この毎晩の儀式だ。
「とても、大事だよ。ピュセル。
宝物だよ。
とっても貴女がだいじだよ……」
「だいじ……」
彼女は、遂に僕の口から発せられたその言葉にウットリとした表情をする。
そしてしばらくすると、心から嬉しそうに微笑む。
まるで小さな少女のように。
「じゃあ、わたしのことずっとだいじにしてくれる?」
また、一生懸命に彼女は訊いてきた。
真ん丸く握られた白い彼女の拳の中には、僕の夜着が固く握られている。
壊れそうなほど、彼女は確かめたがっている。
その気持ちが、僕には良く分かった。
分かるから切ない。
心から信じさせてあげたい。
――安心、してほしい。
腕に力を込めた。
伝わるように。
己の優しさの限界を超えて見せるが如く、囁く。
「ずっと、ずっとだいじにするよ。
あなたのこと、好きだから。
だいじなんだ。とてもだいじなんだ。だから、だいじにする」
言葉が終わった瞬間だった。
「侯。私は、貴方が過ちを犯しているように……」
一瞬で、彼女の声音が変わる。
もう、不安に慄くピュセルではない。
凛とした……
「思えます」
腕の中に抱きしめていた彼女は、突如変化した。
いや、変化したのは場面だ。
彼女だけじゃない。
「ピュセル……」
彼女は、泣きそうな顔をしていた。
赤い瞳が、ものすごく潤んでいる。
とても、悲しそうだ。
……何故
なぜ、そんな悲しい顔をするの……?
「だから――
たとえ相手が天使でも、悪魔でも。神だろうと、魔王だろうと。
普通の人間が、名を聞いただけで戦意を失うような相手でも、オレたちは退けない」
突如、世界に声が響き渡った。
空いっぱいに木霊する、叫び声。
何故だろう、その男の声に、僕は聞き覚えがあった。
「エイモス・クルトキュイス。これにて……
おさらばに御座います!」
空が、揺らぐ。
風が、騒ぎ出す。
声が響き、そして世界が震えだす。
「ロンギヌスの……!」
「たとえこの試みで、この命失われようとも構わぬ!
今こそ我の叫びに応え――」
「安心しろ。
我等の想いは、必ずや届く。あの方に届く。
例え幾百の時を隔てても」
「オレも!
オレも絶対! 忘れないから!」
これは――
これは、一体……
「何を、願うの?」
腕の中で、彼女が微かに身動ぎする。
「えっ……?」
「今、何故あなたは世界に背を向けるの」
世界に……
僕は、背を向けているの?
僕は、背を向けているのだろうか。
「侯、私には貴方が過ちを犯しているように思えます」
――男だったらシンジ。
女だったらレイと名付けよう。
突然、また世界が切り替わった。
目まぐるしく流れていく世界の中で、僕はただ、戸惑う。
本当は、全部分かっているくせに。
「若君。お父上がおっしゃっておりました。
洗練された美しき剣術を教えてくれた、ヒノモトの男がこの様な言葉を残したそうです。
『礼にはじまり、礼に終わる』。
教えを請おうとするならば、まず、「お願いします」と。
教えを戴いたならば、「有難う御座いました」と。
礼節を重んずるは、ヒノモトの剣士も我々騎士も変わらぬことなのですな」
――エイモス。
「私なら、大丈夫です。ジャン。お行きなさい。
私とてジャン・ダランソンを夫と選んだ女。
ジャン・ダランソンの誇りを、歩みを妨げられるなどと思ってはおりません」
――母上。
「お兄様、御武運をお祈りしております。どうか、ご無事で……」
――シャルロット。
「若君! そんなに我々は頼りになりませぬか?
……まったく、いつもいつも無茶ばかり。
貴方にもしものことがあれば、アランソンの母君に何と申し上げれば良いのですか?」
――ロンギヌス隊のみんな。
嗚呼……
みんな、どうしているだろう。
六〇〇年もの時に隔たれて……
僕は一体……
ここで何をしているのだろう……
ここで……
こんな場所で……
「貴方、誰?」
何時の間にか腕の中から消え去っていたピュセルの声が、聞こえてくる。
「今のあなたを、私は知らない」
「あなたは、誰?」
「名は」
「あなたは、今、己の名を言えますか?」
その言葉は、衝撃だった。
僕は、誰だ。
僕は……僕は今、何者なんだ?
碇シンジか?
ジャン・ダランソンか?
魔皇ヘルか?
不可思議な内なる星海原を漂いながら……
僕は、それすら分からない自分に気付く。
我は……何者ぞ。
「貴方は、過ちを犯している」
「今の貴方に、ジャン・ダランソンを名乗る資格はない」
「侯爵よ、私が唯一愛した存在よ」
「汝の魂は、何処にある」
「汝のコアは」
「ジャン・ダランソンはどこにいる……」
分からない。
応えられない。
もう、何も……
分からなくなってしまった。
何もかも泡沫の夢だったように
あまりにも儚い
儚い幻だったように……
このまま消えてしまうのか。
この空虚。
黄昏。
これが、絶望……
これが、ラグナロクなのか……
「分からなくなったら、分かる処まで戻ればいい」
優しい声が響く。
唯一、僕が愛した乙女。
今、僕は己を忘れてしまったが……
貴方のことだけは、なによりも良く覚えている。
貴方の名は、ピュセルだ。
乙女と呼ばれた、少女だ。
「今、貴方のその言葉を、私は喜びとしない」
「ジャン・ダランソンに愛されたい」
「今の貴方は、ジャン・ダランソンを名乗る資格はない」
「どうか、思い出して」