Fire, walk with me.
さあ、行くわよ
CHAPTER XXXII
「落ちてくる虚無」
SESSION・121
『生ぬるい毎日に』
渚カヲルは人間にはちょっと捉え切れないほどの微かなその音に、逸早く気が付いた。四つ星ホテルの廊下。その柔かな絨毯の上を、滑る様に軽快に歩く男の足音。数は二つ。
問題はその歩き方だ。歩調だけ見ればそれは特に癖もない普通の歩行なのだろうが、音を聞けばどこか違うことに気付く。
「シロウト――では、ないよね」
カヲルは呟く。この時代の軍人に関してそこまで精通している訳ではないのだが、それでもやはり分かるものは分かる。本人の意思次第で、音はもちろん気配すらも完全に絶つことができる者の歩行法。
明らかに訓練を積んだ人間たちだ。
「荷物はまとまったかい、お嬢様?」
カヲルは大きなベッドの上でスーツケースを広げ、チェックアウトの準備を進める惣流アスカを振返った。シロウトでない人間がこの部屋に近づいてくる理由は一つ。ネルフのエージェントの迎えしか考えられない。
「なんか、アンタにお嬢様なんてお上品に呼ばれると、かえってイヤミか皮肉に聞こえるのよね」
ピタリと作業の手を止めると、唇を尖らせてアスカは言った。
「ん、そうかい? それは困ったね」
カヲルは微笑みを絶やさぬままそう言った。いつもと変わらないその表情は、言葉通り困っているようにはとても見えない。
「じゃあ――」
彼はしばらく首を傾げてなにやら思案すると、再びにこやかに口を開いた。
「荷物はまとまったかい、この野郎?」
キラリ。
無意味に歯を光らせながら、彼は特別さわやかに問い直した。
瞬間、無言で間合いを詰めた飛鳥の剛拳がカオルの顔面に埋め込まれる。
悲鳴をあげる余地さえ与えられなかったカヲルは、後方へ派手に倒れこむと激し地面との摩擦を経てようやく止まった。
「アタシのような美女を捕まえてこの野郎とはどういう了見よ」
アスカは肩を震わせ、伏したカヲルを仁王立ちのまま睨みおろす。
「イタタ……毎日こんな剛拳を叩き込まれて、シンジ君はよくも無事でいられたものだ。この衝撃ときたら使徒も真っ青さ」
カヲルは持ち前の不死身ぶりを発揮して、なんとか立ち上がると呟いた。
「質問に答えなさいよ!」
「いや、だって君がお嬢様なんて呼ばれると厭味や皮肉に聞こえるって言うから、僕は気を利かせて、慣れもしない品のない言葉をわざわざ選んで……」
「その気の利かせ方が、激しく! 著しく! 壊滅的に間違ってんのよう」
むきーっとヒートアップするアスカ。あと一押しするだけで、もう一発殺人ストレートが飛んでくるだろう。
「まあまあ、落ち着いて。以後気を付けるから。それで、用意のほうはどうなんだい?」
息巻くアスカを笑顔で諌めると、カヲルは強引に話しを元に戻した。
「ん〜、ちょっと待ってよ」
アスカは視線も合わせず、作業を再開しながら応える。
「でも、なんで?」
「お迎えが来たようだからさ。たぶん、NERVフランス支部のエージェントだ」
廊下の向こう側から聞こえてくる足音の主を、タブリスはそう予測していた。そしてその予測が正しかったことは、数秒後にあきらかとなる。
ノックが三回。アスカの部屋のドアが叩かれた。
「どうぞ。鍵はかけていない。勝手に入ってきてくれて構いませんよ」
カヲルは言った。本来ならアスカが応えるべきなのだろうが、別に了解を取らずとも構わないだろう。
「失礼――」
入ってきたのは、メン・イン・ブラックというようなそれらしい連中ではなかった。スーツを極めてはいるが、極普通のビジネスマン風の男が二人。内ひとりは、これがエージェントですと言われても信じられないような、小太りで温和な顔つきの中年だった。
「第三新東京市のミズ・アスカ・ソーリュウ。それに、ミスター・カヲル・ナギサですね?」
「フランス支部の方たちでしょう。お待ちしていましたよ」
スーツの男たちの言葉に、カヲルは完璧な微笑で応えた。
――惣流アスカは、裕福な家庭で育った少女である。そう言って良いだろう。
ドイツ人であり大富豪であった父といた頃、そしてその父と離婚した母に引き取られてからも、十分過ぎるほどの養育費を月々与えられていたため、少なくとも経済的には苦労をしたことがない。
そういった面では、人並み以上に恵まれた環境を彼女は享受してきた。だがその彼女にしても、音も振動もこれほどまでに感じられない車内というのは初めてだった。滑らかに……そう、走るというよりはもはや滑るという形容が相応しい。
「世の中には、乗り心地の良い乗用車というのもあるものだね」
黒塗りのリムジンに後部座席に腰を掛けるカヲルは、この車が気に入ったようである。
カヲルとアスカが迎えのエージェントに案内されたのが、ホテルの玄関口に止められたこの高級車の前だった。彼らはこの高級リムジンで、ネルフの施設まで送られていくのだ。それは客人というよりは、要人の扱いに近かった。
「あの頃の馬車とは、えらい違いだよ」
「そりゃ、六〇〇年前と比べればね」クスッと笑いながら、アスカは言った。「ゴムタイヤも舗装道路もなかったわけでしょ。当たり前よね。比べるのがそもそも間違いよ」
「それもそうだ」
そう言って、カヲルも笑みを返す。その後、彼は思い出したように、前部――運転席と助手席のスーツたちに顔を向けた。
「ところで、我々の扱いは今後どうなるんですか? 本部の碇総帥から何か指示が来ているとは思うのですが」
それは、完璧な発音のイングリッシュだった。
そういえば、彼は第三新東京市でジャン・ダランソン=碇シンジを発見するまで、世界中を駆けまわったという話だ。それに使徒は如何なる時代、如何なる場所に派遣されても素早く行動に移れるよう、卓越した語学の才能を与えられているとも聞く。
恐らく、日本語や英語、ドイツ語以外にもあらゆる言語を使いこなすまでに至っているのだろう。使徒なら三日もあれば、その国の言語を大体マスターできる怪物ぶりを発揮してもおかしくない。アスカはそう自分を納得させた。
「あなた方は、お連れのミスター・シンジ・イカリの身柄を保護するまでの間、我々フランス支部でお預かりすることになっております。本部の意向で」
「なるほどね」
カヲルは小さく頷いて見せた。そしてアスカを一瞥する。今のやりとりの通訳が必要かを問うためだ。
アスカはドイツ語、英語、米語、そして日本語をその国に住まう人間と同じように読み書きできる。片言でいいのなら、フランス語とスペイン語もそのリストに加わる。だから彼女は、会話を理解したという証にカヲルに小さく頷いて見せた。
「それで、例の流星は……」
納得したカヲルは、再び視線を前に戻すと訊いた。彼の言う流星とは、もちろんサタナエルの送り出した戦闘兵器 <エンディミオン> のことだ。
「あなた方はあれもご存知で」
フランス支部のエージェントたちは、彼らの情報量に少なからず驚いたようだった。
「この混乱の前に、何度か本部と連絡をとりまして。赤木博士から直接聞いてはいます。流星に偽装された <エンディミオン> と、そして <リヴァイアサン> らしき巨竜のことはね。もっとも、あのサタナエルの演説以降は音信不通ですけどね」
助手席のスーツは、納得したように小さく頷くと口を開いた。
「流星は大気圏突入のウェーブコースをたどって地球に降下しました。ネルフのエージェントが実際、その目――と言ってもモニタ越しにですが――確認しております。フランス支部にもそのデータが届きました。間違いありません。 <エンディミオン> です」
「 <エンディミオン> ――?」
アスカが怪訝な表情で呟いた。
軍がつけたコードネームにしては、ネーミングセンスが妙にロマンティックだ。彼女が知るエンディミオンとは、月の女神に恋された羊飼いの美少年である。
あるいは、サタナエルが陣取っているクレーターの名前 <エンディミオン> からとったのであろうか。
「流星の動向を観測、偵察していた現場の人間の報告なんですよ」
アスカの言葉の調子から、その疑問を読み取った運転手が言った。
「アレを見た瞬間、心臓を鷲掴みされるような恐怖と共にその名が脳細胞に叩きこまれてきたと」
「それで、その <エンディミオン> はどこに?」
何かを考え込むような表情でカヲルは訊いた。この自由天使のことだ。得られる情報から、出来る限り正確な未来を予測しようとしているのだろう。
「ひとつは北米の五大湖周辺に落ちたらしいです。ふたつめは現在降下中。予測到達ポイントは第三新東京市にほど近い太平洋岸です。みっつめはこの近く、フランスよりの北海。これは既に落下、着水しています」
「それに対するネルフの対応は?」
カヲルは間をおかずに、的確な質問を入れていく。エージェントの能力を知る一番手っ取り早い方法は、その質問の質をみることだ。状況を正しく分析できる優秀な人間は、ズバリ核心に触れる質問をしてくる。そこを見るわけだ。
「まずは、軍にやらせるようです」
支部の人間も、カヲルの口調や言葉の内容、そしてその雰囲気から彼が相当の切れ者であることに気づいたらしい。だんだんと、そのやりとりの仕方がその筋の人間らしいものに代わってくる。一を聞いて十を知ることが出来るもの同士の、素早くて短い、だが奥行きのある言葉の応酬だ。
そしてひとり流れる景色を眺める惣流アスカも、間違い無くそれに着いていっていた。
「全世界を巻き込む、人類規模の戦争――なるほど、狙いと方向性は全く違うとしてもサタナエルと碇総帥とは、その点で考えが一致しているわけだ」
サタナエルが人類全体をこの混乱に巻き込もうとする動機は単純明快だ。なぜなら、彼は人類全てを抹殺すると見せかけているのだから。あくまでリアリティをもたせるためにその寸でのところまで人類を追いこむつもりに違いない。
対して、ネルフ総帥・碇ゲンドウの思惑。これは、サタナエルとは大きく違う。彼はこの混乱と恐怖と悲劇を通じて、人類に戦争というものに対して考える切っ掛けを与えようとしているのだ。
人類の未来を賭けて行われる戦争ならば、人類全体を巻き込んで、人類全体で戦うべきだというのがネルフ総帥の思想である。そのためにも、ネルフだけで戦うわけにはいかないのだ。
まず、戦う相手の存在を軍を通して全世界の全人類に知ってもらわねばならない。もっとも、ゲンドウがそう画策せずとも降下したエンディミオンやそのマスターであるサタナエルが、嫌でも世界を巻き込んでくれるであろうが。
「――それで、降下したエンディミオンの動きは」
「それが、レーダーにまるで引っかからないバケモノでして。今の我々の技術では、移動の痕跡をしらみつぶしに探るしか確認の手段がないのです」
スーツの男も、カヲルのその質問を予測していたのだろう。間髪入れずに回答が返って来た。
「つまり、現状では降下途中であるJPNポイントの一つをのぞいてロストということですか」
「ええ。軍施設でも破壊に出てきてくれれば、動きもつかめるのですが」
恐ろしい存在だ。カヲルは、カヲルだからこそ誰よりそれを痛感した。
そのエンディミオンとやらの性能や戦闘能力は分かっていないが、相手は監視機構の新型として作られたものだ。並であるはずがない。恐らく、一機一機が戦術ではなく戦略級の力を有しているのだろう。
そんなハルマゲドン的バケモノがこちらに動きを察知されること無く神出鬼没に暴れまわるのだ。今から軍が翻弄されて、無残に壊滅していく姿が目に浮かぶ。
サタナエルのやり方は、非常に知能的と言わざるを得ない。
外からと思ったら、内から。内からと思っていたら、今度は外からと、様々な刺激を様々な方向から与えてくる。相手に恐怖を与えるだけの強力なプレッシャーをかけつつも、情報をあたえず謎を孕ませたままチクチクと嫌がらせのようにアチラこちらを突つく。
一番精神がまいりやすいやり方なのだ。これは。
――やはり、手持ちのカードを使い切ってでも彼は封じておかねばならない。
その口元には、少なくとも何時もの微笑は浮かんでいなかった。
SESSION・122
『ここでサヨナラ言うのさ』
彼女は一見、黒い水面に移る自分の相貌をぼんやりと眺めているように見えた。
いや、実際、ぼんやりしているわけだが……
だが思考は凄まじい早さで展開されていた。現状とそして過去のデータを照らし合わせながら、最適と思われる未来を選択する。
綺麗にハッタリめかして言えば、それはそんな作業となるのかもしれないが、当のアスカ本人はその表現を嫌うだろう。これはそんなにポジティブなものではない。
アスカはそう自己評価しているからだ。
これは、遅れを取り戻すための足掻きだ。名誉を挽回するために必要な、己の甘さの清算。……その作業を行う前の、罪のリストアップなのだ。
結局、極めて単純に『悩んでいる』――と、素直にこう表現も出来る。
そして多分、それが1番適切な表現に近かった。
「……えっと」
アスカは、ベンチに腰掛けたままキョロキョロと辺りを見回した。
そこは申し訳程度の観葉植物に彩られた、色気のない空間だった。面積のかなり広い円形のオープン・スペースで、まぁ、表現次第ではロビーと呼ばれるような部屋なのだろう。
北から南に伸びる通路に貫かれる場所にあるので、鳥瞰では串に刺された団子の様に見えるはずだ。部屋の中心部には、二十人は座れそうな数のベンチが数列に分けて配置されている。彼女は、その内の一席に腰掛けているわけである。
惣流アスカは一応ゲストとしてこのフランス支部に招待されたわけであるが、なんの情報も持たず、それ以前にNERVの関係者ですらないのは事実であり……
結果的に、施設に着いて早々適当に放置される格好となった。
その事情は、アスカにも納得できた。 <エンディミオン> なるバケモノが、近くに降り立ったのだ。役にも立たないゲストの相手をしている暇など、職員たちにはない。
哀しかったのは、カヲルだけがアドバイザーとして発令所に案内されたことだ。確かに彼の能力が非凡でないことは認める。監視機構や、天使について多くの情報を持っていることも認める。
だが、この応対の差はなんなのだろう……。一瞬、理不尽な怒りを感じたことは否定できない。だが、感情に任せてそこで思考を中止してしまうほどアスカは愚かではなかった。
「失礼、この施設内で外部と連絡できるような設備はありますか?」
かなり頻繁にその空間を行き来する職員の中から、話しやすそうな女子職員を無意識に選び出すと、アスカは英語で問い掛けた。
制服姿のその女子職員は、私服に身を包んだアスカに一瞬不思議そうな表情を作った。が、胸につけられたゲスト登録のIDを見て納得したらしい。一瞬後には、魅力的な微笑を浮かべて見せてくれた。
「珍しい。ここにお客様なんて」
歌手にでもなれそうな、透き通った綺麗な声だった。
妙なアクセントやクセがないそのイングリッシュから、欧州の人間だとアスカは検討をつける。ついでに、この賞賛に値する声音からすれば、もしかしたら彼女の職種は通信士なのかもしれない……などと無意味なことを考える。
「……北側に歩いていくと、十字路にでるわ。それを西に折れて。しばらく行くと、外線に繋がるヴィデオフォンが幾つか見つかるでしょう。
IDをスロットに通せば、ゲスト登録の貴方にも使えると思うわ。もう通信回線は復旧しているから、世界中何処にでも繋がるはずです。でも、通話記録はこちらのマザーに監視されますから注意して。それでよければ」
「ご親切に。どうもありがとう」
美女たちは、微笑を交し合って別れた。
アスカは再びベンチに腰を落とすと、冷めかけたブラック・コーヒーを飲み干し、空の紙コップをリサイクル・ボックスに放り込んだ。そして教えてもらった区画へと移動を開始する。
日本において……
――日本において、高等学校に通う学生の多くは口先だけの子供。なまじ精神が発達してきて、理屈を捏ね回すようにはなるけれど
語る思想や、主張するポリシーと行動が一致することはほぼ皆無。
要するに、口は達者に動かすけれど、体で実際に行動はできない半人前。
でも、社会的にそれは許される。日本というのは、そういう国だ。だが、重要なのはお国柄なんかじゃない。
個人がそれをどう評価するということ。
私はそれを許せない。……許せなかった。
思想を口にし、声高に己の主張を述べる権利を持つのは、
その言葉に行動を伴わせることができる人間だけ。自分の大層なセリフに、責任を持つ事ができる大人だけ。
じゃあ、私はどう? と、惣流アスカは考える。
碇シンジは、その理由がどうあれ動き出した。行動を示し出した。
それについて、アスカという名の少女は言いたいことだけは言った。自分の正しいと思われる見解を述べ、時に碇シンジのあり方に苦言を吐いた。その言葉の内容が間違っていたとは今でも思わないが、全くの問題がなかったわけでもない。
そう。惣流アスカは、それだけの大口を叩けるほどの人間ではない。
流転する時代の中で。激動する混沌の世界で。果たして惣流アスカはどれだけのことをしてきただろう。
――私はなにもしていない。シンジに意見するだけの資格を獲得するだけの、具体的な行動を何一つ行っていない。ただ日常を謳歌……いえ、ぬるま湯の生活を享受していただけ。
それが一概に <悪> とは思えない。だが、その是非はともかくとして、己の未来のために行動を起こしはじめたシンジに向かって、大口を叩ける人間の生活態度でなかったことは確かだ。
今の渚カヲルと、自分の対応の差がそれを雄弁に語っている。あの自由天使は今まで自分の戦いを続けてきた、行動の男。彼に比較して、自分は今あまりに無力である。だから弾かれた。
戦場を仕事場に選んだこのNERVの人間たちにとって、御託を並べるだけの子供は邪魔――それが現実なのだ。
――このままじゃ、私はただ口先だけの子供で終わる。私がシンジに告げたことが、正しかったと信じるのならば……
私は自らの行動を以ってそれを示さなければならない。
人は、愚かと評価する人間の言葉に心を動かされることはない。人は、尊敬に値する人物の言葉にこそ耳を傾ける。
今の私は、尊敬に値する人間ではなく、むしろ愚かな者の側に位置する。それは惣流アスカではない。私は、今ここで我が振りを直さなければならない。
己の犯していた過ちに、気付いたのだから。
惣流アスカが天才であるかは、人によって評価が分かれるだろう。だが、彼女が聡明であることはその多くの人が認めるに違いない。……今の、この彼女の思考を知ることがあれば。
――私は、多分嫉妬していた。自分より下位にいると思っていたシンジが、急に変わって……
自分の意思で自分の道を選んで、それに向かいはじめたから。
下位にいると安心していた人間に、いつのまにか追い越されていた。その事実を認めることが怖くて、恐らく私は防御に出た。それが、シンジへの攻撃。
シンジを貶めることで、相対的な自分の価値を保とうとした。心理的に考えて……
客観的に精神分析を試みれば、この結論に辿り着かざるを得ない。
認めよう。癪だけど。亀に追い越された愚かな兎。歩みを止めていた私を表現するに最も相応しいのは、たぶん、まさにそれ。
怠けて甘えていた私が悪い。
でも、認めたからにはまたいけるはず。
私には、その自信とプライドがある。兎は、走れば速い。そして、今度はゴールを誰より早く駆けぬける。
惣流アスカはそれが可能な人間であると、私は信じているのだから……
「私は、決して己の期待を裏切らない」
青い瞳は、十年ぶりに本来の輝きを取り戻す。他人から与えられた過分な幸福は、知らぬ間に彼女を堕落させていたということか。だが、今、亀に叩かれて彼女は自分の現状に気づいたらしい。
目覚めた兎は、確かに早い。彼女は、この時代の中で自らそれを証明してみる気になった。幕を開けようとしてる混迷の時代は、そのステージに相応しい。
――戦争というもののなかで、私はあくまで惣流アスカを貫く。シンジの掲げる大義が、過ちであることを私は撤回するつもりはない。過去は受け入れ、現在を生きる。
如何なる理由があろうと、シンジの我侭ではじまる戦争に参戦するなんて死んでもいや。逆らい続けるわよ、私は。これからはじまる戦争を、私はアスカ流に否定して見せる。
「アスカ、行くわよ……!」
その日から、母からも、碇家の面々からも、学校の友人たちからも
全ての知人たちの前から惣流アスカの姿は、忽然と消えた。
SESSION・123
『ENDIMION』
――2018年 9月19日 19:32
ジオフロント NERV本部 第一発令所
ザ……ザ……ッという歪みが生じた次の瞬間、モニタに映されていた映像は途切れた。
その意味することはひとつ。落下して来た未確認の『物体』を補足していた偵察機が、破壊されたのだ。――それも、一瞬で。
「駄目です。VF−23からの応答ありません」
オペレーターのひとりである日向マコトが、事務的に報告した。
「……反応消失ね」
赤木博士は呟く。墜ちたというよりは、消滅したというべきか。応答がないのも当然だ。
「でも、これでもう疑う余地は無くなったわね」
ただの隕石が、偵察機を『破壊』できるはずもない。もはや証明されたのだ。あれは、敵の <新型>に違いない。
そして偵察機の送って来た映像も、それを証明している。
「……マヤ、もう一度再生してみて」
白衣に両手を突っ込んだまま、赤木博士は言った。
「はい」
マヤの指先がキーボードの上を走る。
それと共に、機体ごとカメラを破壊される前までの映像が、再びスクリーンに投影された。映し出されているのは、卵型の無気味な物体である。その傷ひとつない滑らかな表面は、まるで水銀のようだ。
突然、その物体が花開くように割れはじめた。スローモーションを見ているように、やけにゆっくりと。
そしてその内側から現れたのは……
紅、蒼、紫。3騎の巨人。
人類は、何故かその巨人の名を知っていた。
―― <エンディミオン>
その姿を見た瞬間、脳裏に強烈に響き渡ったその言霊。間違いない。
あれの名は <エンディミオン>。
そう名付けられた巨神なのだ。
「月の女神が恋した、美しき青年か……。だが現物を見れば、そんなロマンティックな感傷は消し飛ぶな」
司令室で冬月が言った。
「なんとも似合わぬ名前だよ」
「……以後、目標を <エンディミオン>と呼称する。各国の支部にもそう伝えろ。間違いなく、あれは <我々>の『敵』だ」
ゲンドウのその声は低く囁くようなものであったが、確実に発令所の全員に届いた。
「すでに国連軍は迎撃シフトを敷いているようだが……
J.A.にすら通用しなかった通常兵器が、その新型に通じるか?」
ゲンドウの傍らに影のように控えながらも、冬月副司令は懸念を口にした。
「やりたいようにやらせるさ。財団が既に動いている。指揮権は、間も無くこちらに渡されるだろう」
各国の特権階級層を取り込んでいる <エンクィスト財団>の発言力は、当然の事ながら国連関連の組織にも多大な影響力を持っている。というより、国連の幹部自体を財団は理事として取り込んでいるのだ。ゲンドウの言う通り、彼らが手回しさえしてくれれば <NERV>は自由に動けるようになるだろう。
だがそのためには、 <軍>が敵の脅威を正しく認識する必要が……
<エンディミオン>に自分達では敵わないと、そう悟らせる必要があった。支配者とは、往々にして自分の無力を認めることをよしとしないものだ。
だから、エンディミオンに無理矢理にでも思い知らしめてもらうしかない。
「マヤ、目標…… <エンディミオン>の反応は?」
赤木博士が、マヤに素早く視線を走らせながら訊いた。
「駄目です。通常のレーダーからは反応が検出されません。完全にロスト。少なくとも <市>に入り込んでこないと、 <MAGI>でも捉え切れません」
だが、マヤは目を細めて続けた。
「でも先輩の探知器は、 <天使>の反応を捉えています。ルーアンから検出された <魔皇>からすればかなり弱いですが、間違いなく3つ。高確率で <エンディミオン>のものと思われます」
今回、地球に降下してきた <エンディミオン>の輸送機は全部で3つ。1つ目は <北海>に。2つ目は <五大湖周辺>に。そして3つ目は <日本の太平洋岸>に落ちた。
今NERV本部が問題としているのは、この3つ目に収容されていた奴だ。何故なら、それはここ <第三新東京市>に極めて近い地点に落ちているからだ。目的が <NERV本部>であることは明らかである。
「……なるほど。そうなると、その <天使>や <堕天使>の発する力の差で、それが何者かある程度は識別できそうね。計器を作り直す時の参考になるかもしれないわ」
リツコは、白衣のポケットから手を出すと腕組みして言った。
「それで、マヤ。私の探知器が検出した反応の、その後はどう?」
『私の』をさり気無く強調して、自分の偉大さをアピッールするリツコ女史。自分の発明品に関しては、なかなかに顕示欲が強いらしい。まぐれのクセに……。
「海中に降下した後、そのまま本所に向かって進行中。この探知器では、正確な高度までは知ることはできませんが……
速度からいって、海中を進んでいると思われます」
マヤは、計器と探知機の示す3つの光点を分析しながら言った。
「目的は、間違いなくこの第三新東京市ですね。このままの速度を維持し続けると仮定すると、市への到達予想時刻は、13分後になります」
そのマナの言葉に被さるように、オペレーターの叫ぶような報告が入った。
≪現れました、 <エンディミオン>です!
上陸したところを、国連軍が映像で確認。メイン・スクリーンに回します≫
≪目標、第一次防衛ラインに到達!≫
≪UNFの迎撃が開始されました≫
発令所の巨大なスクリーンに、3騎の巨神の姿が映し出される。赤、蒼、紫。4M近くあると思われる人型が、地を這うように飛行を続けていた。
赤を先頭とし、そのやや後方に蒼と紫。完璧な正三角形の頂点を形成するフォーメーションを組み、一糸乱れぬ進行を続けるその様は、高度な訓練を受けた軍隊の行軍を思わせるものがある。
その一方で、スクリーンの向こう側では海岸線にズラリと配置された重戦車の主砲が、早くも一斉放射を開始していた。だが、砲弾は全てエンディミオンの超硬質装甲に跳ね返される。兆弾が、外れたミサイルが、周囲の山林に炎を巻き起こしていった。
「使えんな……」
冬月は、その無駄な攻撃を見て呟いた。感情を押し殺したような、酷く冷淡な声だ。
「あれでは、相手の基本性能を知ることすらかなわん」
国連軍はおろか、NERVにとってすら <エンディミオン>の能力は未知数だ。武器は? 特徴は?
現状では、J.A.の新型であること意外何も分かっていない。
どれほどの速度で動き、どれほどの破壊力を秘め、どれほどの兵器を搭載しているのか……
どうせ無駄と分かっている兵力を投入してまで足掻くなら、その謎のベールを少しでも剥ぎ取ることができるような、有効な手段をとってほしいものだ。
冬月の、正直な思いであった。
「 <エンディミオン・ゼロ>に高エネルギー反応!」
そう報告した後、青葉シゲルは自分の発した言葉に慄然とした。
―― <ゼロ>?
ゼロってなんだ?
何でオレは……
いや、違う。青葉だけではない。発令所の全員が、その名を知っていた。
巨人の姿を見た者全員に、不思議とその名が浮かんできたのである。
赤の巨神は、 <エンディミオン・エンブラ>
紫の巨神は、 <エンディミオン・アスク>
蒼き巨神は、 <エンディミオン・ゼロ>
現場で、その巨神と直に向き合う兵士。無線で指示を出す司令官。スクリーン越しに戦況を報告するオペレーター。
全ての人間が、何故だかその名を何時の間にか知っていた。
カッ――!
突如、白光が……眩い閃光がスクリーンから溢れ出した。 <ゼロ>が、そのメイン・ウェポンであるエネルギー波を放ったのだ。使徒の <A.T.F>すら易々と貫通してみせるその <聖光>に、海岸線に陣取っていた国連の戦車隊は一瞬にしてこの世から消滅する。
爆心地からは十字架を思わせる巨大な爆炎が、上がっていた。
「……なるほど。少なくとも、ひとつの武器の存在は分かったわけだ」
冬月は、直立不動のまま呟いた。
「目標は、3騎とも依然健在。現在も第三新東京市に向かい、進行中」
「航空隊の戦力では足止めできません!」
マヤの報告に、日向マコトの声が重なる。彼らの言葉通り、3騎のエンディミオンは豪雨のように降り注ぐミサイルと砲撃の中を、涼しい顔で前進して行く。
「厚木と入間の戦闘機も、全機上げさせたか。……何にせよ、あれを足止めできる戦力などありはせんよ」
冬月は、ポツリと呟く。
その言葉に異論を示すように、スクリーンの内で、戦闘機の発射したミサイルが真紅の <エンブラ>に直撃した。閃光と爆炎を伴って、凄まじい爆発が起こる。だが、晴れていく黒煙の向こうから現れた <エンブラ>はまったくの無傷であった。
「やはり、あれが我々の知る <J.A.>とは決定的な違いとなるな……。新型は、天使の <防御結界>を備えるか」
「――ああ。奴に対し、通常兵器は役に立たんよ」
冬月の言葉に、ゲンドウが応えた。物理的な衝撃を完全に防ぎきる <超硬質装甲>に加えて、天使の防御結界。フィールドというほどのものではなく、1方向にレンズ状のスクリーンを展開するのが精々らしいが、それでも人類にそれを破る術はない。
「 <A.T.スクリーン>といったところか。……戦車大隊は壊滅。誘導兵器も、砲爆撃もまるで効果なし。容易に予測され得た、当然の結果だな」
最初から結果を知っていたため、冬月の表情に焦りはない。
「こうなると、 <J.A.>に <バルディエル>が憑依した……あの状態に近いな。触れることはおろか、近付くことすらままならん」
≪目標、3機ともDエリアに侵入しました≫
そのオペレーターの言葉が切っ掛けにでもなったかのように、巨神を取り囲むようにしていた重戦闘機群が、一斉に全速離脱していく。
≪国連軍全機、速やかに目標から離脱していきます≫
――『N』作戦…… <N2地雷>か。
冬月がその推論に行き着いた瞬間、スクリーンから視界を焼き尽くすかのような光が襲って来た。大地が震えるような、凄まじい大爆発である。
それは、旧世紀に起こった世界大戦の時この国に投下された……
あの <原子爆弾>炸裂の再現を、冬月に思わせた。巨大な爆炎が、火山の噴火のように天高く噴き上がっていく。
爆発に伴って発生した衝撃波は地上を舐め、山を崩して築き上げた新市街を破壊していく。まるでミニチュア模型のように、一瞬にして街は脆くも崩れ去っていった。
≪衝撃波、来ます≫
オペレーターの言葉通り、次の瞬間モニターはノイズに支配された。
「……その後の目標は?」
「電波障害のため確認できません」
リツコの問いに、マヤが素早く応えた。
「ですが、先輩の探知器からは依然 <天使>の反応が消えませんね……。恐らく、エンディミオンは健在と思われます」
そして、その言葉はすぐに証明された。
「――映像、回復します」
青葉シゲルの声と共に、スクリーンに再び戦場の映像が映し出される。
……いや、そこはもう戦場といえる空間はなかった。大地は完全に消滅している。蒸発した木々。融解した岩石。
そこに在るのは、焼け野原と表現するにもおこがましい、歪なクレーターだけだ。――『焦土』。一言で言えばそれだろう。
そして、その中心に――3騎の <エンディミオン>はいた。完全に無傷で。
国連軍の指揮官たちは、驚愕と絶望に天を仰いだに違いない。
≪目標は健在。なおも進行を続けています≫
≪第3防衛ラインまで、あと300秒≫
「これで軍の切り札などは、敵には無力であると分かってもらえたかな」
冬月は、あたかも人類最強の通常兵器の炸裂など無かったかの如く進行を続ける <エンディミオン>を見詰めながら言った。
そしてそれに応えるかのように、ゲンドウのデスクに設置された旧型のフォンから呼び出し音が鳴り出した。
「……はい」
きっちり1コール待ってから、ゲンドウは受話器を取った。
「――了解です」
相手の言葉を聞いてからゲンドウはそう応え、直ぐに受話器をフックに戻した。
「――今より本作戦の指揮全権は、NERV総帥に移った」
またデスクの上で手を組むと、ゲンドウは発令所の面々に向けて言った。つまり、今からオレが指揮を執るということだ。
「国連軍はお手上げか。どうするつもりだ?」
冬月がゲンドウに問う。ゲンドウは、沈黙を守ったまま応えなかった。
「そうだな。準備不足は否めんが……『出す』しかないか」
分かりきった結論か、と冬月は苦笑を浮かべる。
「――ああ」
デスクにドッシリと構えたまま、ゲンドウは応える。
「だが問題は、2騎で敵の新型に対応できるかということだ」
「それ以前に、パイロットはどうする。候補は大勢いるが、機体を完全に扱いきれるものは1人もいない」
冬月は、眉根をひそめて言った。
「現状で、最高の人材を使うさ」
ゲンドウは微動だにせず言い放つ。
「と、言うことは……碇?」
冬月副司令の声を掻き消すように、ゲンドウは音をたてて席を立った。そしてゆっくりとした足取りでスペースを横切ると、簡易式のエレベータに乗る。
「――では、後を頼む」
それだけ言い残すと、ゲンドウは返答を返す間も与えず降下して行った。
「妻の前では、やはりあいつもただの男か」
ゲンドウの消えた空間を見詰めたまま、
「……当然だな」
冬月はそう呟いた。
SESSION・124
『GOD起動』
――NERV本部第一発令所・作戦管制室
≪目標接近。速度変わらず。Bエリアに侵入しました≫
「モニターを」
オペレーターの報告を聞いて、冬月は言った。今は総帥であるゲンドウが席を外しているため、副司令である彼に指揮権があるわけだ。
≪既存の目標探査システムでは、目標を正確に捉えることはできませんが≫
金属反応が出ない上、 <エンディミオン>は非常にレーダーにかかりにくい。現状で <エンディミオン>の反応を検出できるのは、リツコが生み出した、怪しげな探知器だけだ。
つまり目視、あるいは映像で直接確認するしか、確実に相手を発見する術はないわけである。恐るべきステルス(隠密)性といえる。
「直接画像でいい。出したまえ」
このステルス性……
ともすれば、今後 <エンディミオン>の最高の脅威になるかも知れんな。冬月はそう考えながら言った。
≪了解。……目標を映像で確認。最大倍率です≫
黄昏迫る山間を、3機のエンディミオンが行く。日が暮れてしまえば、今度は赤外線での映像に頼らざるを得なくなる。となれば、ますます相手の状況は捉えにくくなるだろう。
「――状況は?」
抽象的な問いだが、オペレーターは正しく質問の意図を読み取った。直ぐに応えが返って来る。
≪迎撃システム、稼働率7.8%≫
「残弾は?」
≪再装填を含め、5.8%です≫
少ないな……
冬月は、内心で舌打ちした。急造の迎撃システムだ。仕方ないか。
「かまわん。復旧と装填が間に合うシステムだけでも立ち上げてくれ」
≪了解≫
――同 パイロット控え室
バシュッという圧縮空気を抜くような音と共に、ドアがスライドして開いた。既にパイロット・スーツに着替え待機していたユイとマナは、その音に振返る。扉の向こうから現れたのは、見上げるほどの長身。見慣れた仏頂面。
――碇ゲンドウであった。
「出撃だ」
ゲンドウは室内に一歩踏み出すと、彼女たちを見下ろし開口一番そう言った。
「やっぱり、私たち2人ですか……」
この事態を予測していたのだろう、ユイは冷静に言った。最も長時間に渡る起動を実現し、メイン・ウェポンである <G.R.A.M.> をまともに使えるのは、自分達しかいない。
ユイはその事実を知っていた。
「すまん、ユイ。マナ君」
ゲンドウは僅かに顎を引いてみせた。恐らく頭を下げているのだろう。だが、もしかしたらただ頷いただけかもしれない。
「――敵が3機、ここに向かっている。敵の新型 <エンディミオン>だ。国連軍の保有する兵器では、足止めは叶わなかった」
そして、その言葉を補足するかのようにスピーカーから現状報告が入る。
≪目標接近、第三次防衛ラインに到達≫
≪総員、第一種戦闘配置≫
ゲンドウは、サングラスを右の中指で押し上げながら言った。
「現状で最も高い勝率を期待できるパイロットは、君たち2人だ。ユイは試作1号機 <ウルド> 、マナ君は試作3号機 <スクルド> で出撃してもらう。NERVの命運は君たちの双肩に掛かっている。宜しく頼む」
「わ……わかりましたー! がんばりまっす!」
マナは緊張の面持ちで応えた。
戦う覚悟を決めたから、ここまで厳しいパイロットとしての訓練を受けて来た。怖さと緊張で、確かに躰は震えてくる。だが、逃げ出すつもりは毛頭無かった。
戦う為に、霧島マナはここにいるのだから。
「――でも2機だけですか?
技術教官の話では、 <試作機>は3機とも実戦配備できる状態だということでしたが」
ユイは左手を頬に軽く触れさせて言った。ゲンドウは知っていた。それは何かを考えたり、思い出したりしながら喋る時の彼女の癖なのだ。
「――試作2号機 <ヴェルダンディ>は、アメリカ合衆国で建造されたものだ。調整もアメリカで行っている都合、あれは現在も向こうにある」
そこで言葉を切ると、『口にするだけでも不愉快極まりない』と言わんばかりに、心底嫌そうな表情を浮かべてゲンドウは続けた。
「今、アメリカにはあの小煩い <ヒゲ>のバカが向かっている。 <ヴェルダンディ>は、あの小憎らしい <ヒゲ>の大バカが操ることとなろう。あれの唯一の取り柄は、悪魔と契約して得たとしか思えぬ化物じみた『霊力』だけだからな」
自分のその言葉で、治療が終わった途端『ワシをアメリカに連れて行けィ!』と騒ぎ出したあの <ヒゲ>の騒々しさを思い出してしまい、ゲンドウはひとり顔を顰めた。
「……精々、敵と一緒になってアメリカ本土を滅ぼさんよう祈るのみだ」
奴なら――
奴なら、それをやりかねん。ゲンドウは、真剣にそう考えていた。
あの男は、敵にすると怖いが味方にしても油断できない。どこかそういう危険なところがある。と言うより、そういう危険しかない。
「そう……。ここは私たちが守るしか、ないのですね」
ユイは神妙な顔つきで言った。
「そうだ。君たちでなければ無理だ。だから、呼んだ」
ユイは <ジオフロント>を更に掘り下げて建設された、特別訓練施設で。マナは軌道衛星上に用意された、低重力下での特殊訓練施設で。それぞれ24時間体勢で訓練を積んでいたところを、急きょ呼び戻されたのだ。
「君たちは軍属ではない。あくまで民間の協力者だ。よって拒否は自由。……だが、時間がない。今、この場で決断してくれ」
ゲンドウのその言葉に、しばらくの沈黙の後、ユイとマナは頷き合った。
「……やります」
「私たちが、出ます」
――数分後、第一発令所・作戦管制室
ウィーンという微かな機械音と共に、下の階で止まっていたエレベータが昇って来る気配を冬月副司令は感じた。だが、振返って何者か確かめるまでもない。ここに昇ってくる権限を持っているのは、今のこの施設には自分を含め2人しかいないからだ。
「――状況は」
NERV総帥・碇ゲンドウは作戦管制室に戻ると、直ちに訊いた。
「絶対防衛線を突破し、市街地に入った。直上地点到達まで150秒を切っている。……間も無くだ」
冬月は、メイン・スクリーンに目を戻しながら渋い顔で言った。それを訊いて、ゲンドウは即座に動く。
「――ガデス・オブ・デスティニー試作1号 <ウルド> 及び、試作3号 <スクルド> 、出撃準備」
ゲンドウは、眼下の赤木博士を一瞥すると告げた。いよいよ、NERVの新兵器 <GODシリーズ>の起動である。
「分かりました」
リツコは硬い表情で頷くと、ケイジへと繋がる内線に向けて問いかけた。
「……機体の準備は?」
シグナルはグリーンだ。これを信用すれば、準備が整っていることは分かる訳だが――
確認の為である。
≪完璧です。いつでも行けます≫
メカニックの力強い返答が返って来た。
「――了解」
リツコはひとつ頷くと、直属の部下である息吹マヤに視線を向けた。
「……いくわよ。システム、起動」
「了解。 <GODシステム> 起動。第一次接続を開始します」
マヤの声と共に、各種コンソールやモニターに光が灯っていく。既にパイロットのスタンバイは完了している。後は、彼女たちの仕事だ。
まずは、遠隔操作用のコクピットに待機しているパイロットを、システムに認識させる接続作業だ。パイロットの被った航空機用のものを改造したヘルメットが、ユイとマナの頭部を走査し、データを読み取っていく。
そうして得られたパイロットの脳波をはじめとする各種データは、そのヘルメットを通してシステムに伝達されていくわけだ。スーパーコンピュータ <MAGI>のサポートもあるから、その速度は迅速を極める。
やがて、接続完了のシグナルが灯った。
「第一次接続完了、異常なし。システム正常」
「 <コア>に接続」
リツコは事務的に命じた。流石に、幾度かの起動実験でリツコもオペレーターたちも手慣れている。作業は至極順調に進んでいった。
「了解。第二次コンタクト、開始」
システムがパイロットを認識した後は、いよいよGODの <コア>とパイロットとの接続だ。 <GODシステム> を仲介役として、女神本体と操縦者との連絡を取り持つ。女神とそれを操る者が、ある意味一体化するのである。
この一体化によって、女神の動力源である <コア>にパイロットたちの <霊的> <精神的>なエネルギーが注ぎ込まれる。車でたとえるなら『エンジン』にあたる <コア>に、『ガソリン』に相当するパイロットの <霊的エネルギー>を注入すると言ったところか。
とにかく、パイロットがその生命の息吹を吹き込む作業が、ここで行われる。
そして、その生命の <力>がコアに充填され一定量に達すると、運命の女神たちは遂に目を覚ます。
「初期コンタクト、オール・クリア
――GOD <ウルド> および <スクルド> 起動します」
「双方回線、開きます」
オペレーターたちの報告に、リツコはゲンドウを見上げて、頷いてみせた。
「碇、本当にこれでいいんだな?」
ゲンドウの傍ら、視線を合わせずに冬月は小声で訊いた。応えは分かっている。だが、冬月自身の確認のためでもあった。
「……ああ」
妻とまだ幼いともいえる少女を、遠隔操作の機体でとは言え戦場に送り込むのだ。ゲンドウの返答に一瞬の間が入ったことを、責める者はいなかった。
≪第2サイトより入電。目標はB01を通過≫
≪直接迎撃半径到達まで、あと30秒≫
次々と状況報告が入る中で、発進準備と換装作業は着々と進んでいく。そして遂に第三新東京市街に侵入する巨神の姿が、モニターに捉えられた。
「目標、最終防衛ラインに侵入!」
青葉の緊迫した報告に、流石の冬月も少々焦り出す。地上の <第三新東京市>が滅びるのは、まあいい。だが、ここ <NERV本部>を失うわけにはいかない。
ここを失えば、人類は自力での対抗手段を失うのだ。
「GODは、どうか?」
「現在、1番から8番までの拘束具を除去。発進準備中です」
リツコの言葉通り、GOD本体から <ガントリーロック>が解除される。続いて、鉄格子状の <拘束具>も外されていった。それに伴い、美しい女性の相貌を模した銀のマスク――
ゆるい曲線を描く胸部の装甲などが、徐々に露わになっていく。
あの醜悪な <J.A.>を原形とするとは信じ難い、優雅で洗練されたデザイン。その流れるようなプロポーションは、女性の体型に合わせた甲冑を纏う北欧の <戦乙女>を思わせる。GODシリーズに、運命の女神の名が与えられた由縁である。
≪1番から18番までの安全装置、解除≫
≪解除完了≫
――そして遂に、女神たちは全ての呪縛から解き放たれた。
パイロットの生命エネルギーを注ぎ込まれた <ノルン>たちの双眼が、エメラルド色の淡い光を放つ。
「了解。1号機 <ウルド> 、3号機 <スクルド> 射出口へ」
マヤの指示に従い、2機の女神は固定台ごと発進口へ送り出され、昇降機にセットされる。あとは、このNERVの地下基地から地表に送り出すだけだ。それを可能とすべく、カタパルトから続く射出口の多重装甲シャッターが次々と開いていった。
やがて、全てのシグナルが <赤>から <青>に変わった。
「シグナル・オールグリーン」
「 <ウルド> 及び <スクルド> 、発進準備――完了!」
日向と青葉の報告に、ゲンドウは重々しく言い放った。
「……ガデス・オブ・デスティニー、発進」
次の瞬間、2機は凄まじい勢いで射出された。地上へと続く4本のレールが、激しい摩擦に火花を散らす。もしパイロットが乗っていたら……果たしてGに耐えられたかと考えてしまうような、殺人的な速度で女神たちは上昇していく。
「2人ともはじめての実戦です。気をつけて」
日向は、ふたりのパイロットに向けて力強く言った。
≪ありがとう≫
≪ど……どうもありがとごじゃます≫
ユイは落ち着きを払った声で、マナは緊張で上手く回らない舌でそれぞれ言った。
第三新東京市のビルの谷間から、ゆっくりと姿を現す3騎のエンディミオン――
<アスク> <エンブラ>そして <ゼロ>。まるで目的地へと続く道筋を正確に理解しているように、迷うことなく彼らは飛行を続ける。
が、その時まるで行く手を阻むかのように、地が2つに割れた。数秒の空白を経て、地下から迫り上がって出現したのは――
運命の女神の名を冠す2機の機動兵器、 <ウルド> <スクルド> 。
人類の切り札である。
暮れていく夕日に、白銀の特殊装甲が煌いた。
「……最終安全装置、解除」
赤木博士の凛とした声が、発令所に木霊する。
「G.O.D. <ウルド> 、 <スクルド> !
――リフトオフ!」
突如現れた <女神>の姿に、国連の戦車大隊も、最新鋭の戦闘機群も、N2爆雷ですら止められなかったエンディミオンの進行が――
はじめて……止まった。
そして3騎は、ゆっくりと大地に降り立つ。
<巨神>と <女神>が、向かい合った。視線が、出会う。交差する。
「いよいよか――」
冬月の小さな呟き。
――そして、エンディミオンが動いた。
SESSION・125
『落ちてくるゼロ』
――2018年 9月19日 22:09
アメリカ合衆国 ネヴァダ州 NERV第2支部
「……月が出ているな」
特務機関ネルフの第2支部である、このネバダ基地。発令所の司令席から、マクシミリアン・マクレーン司令はポツリと呟く様に言った。
周知の通り、ネヴァダ州は自然の厳しい場所だ。この第2支部も、砂漠の真中にある。しかも第三新東京市の本部と違い、地下ではなく地上に施設があるのだ。
ずっと西に行ったと違って、霧などとは無縁の地であるわけだから夜になれば当然月くらい出る。
「――満月ですな」
下部の喧騒を他所に、マクレーン司令の傍らでマッケンジー上級特尉が口を開いた。
もとは陸軍将校だった男だ。複雑な経緯を経て、このNERVにやってきたらしいが……
軍人色の抜けない、どこか硬い感じのする巨漢である。
NERV支給の制服が、奇妙なほどに良く似合う。第2支部を預かる最高責任者、マクシミリアン・マクレーン司令の参謀的存在であった。
「なにか、不気味なものを感じる。……赤い月。こんな状況では特に歓迎できんな」
マクレーンは、その柳眉を顰めて言った。もうじき40代に差し掛かる彼であるが、素晴らしい経歴と容姿の持ち主であり、さらに独身であることもあって、女子職員の間ではかなりの人気を誇る。
もっとも、本人はそのことにまったく気付いていないのだが。
「不気味なもの……ならば、既に我々の前に現れているのでは?」
しばらくすると、マッケンジー上級特尉は硬い表情でそう告げた。マクレーンは、もちろん彼の言葉の意味するところを容易に察することが出来た。彼の言う、『不気味なもの』――
それは、五大湖に落ちたという、奇妙な流星である。
地表に激突したそれの中から現れたのは、3つの人型。だが、もちろん生粋の人間というわけではない。人間の大体3倍ほどの背丈を持つ巨人。
全長4〜5Mの……
そう、それは鋼鉄の巨人であった。
報告によれば調査に向かった特殊部隊は、全滅したらしい。一瞬で。現在のところ、それ以上の情報は入っていない。
「……ここに来ると思うかね」
マクレーン司令は、肩の後ろに立つ自分の <片腕>に月を見上げたまま訊いた。
「欧州に落ちたやつは、各国の軍事施設を無差別に破壊して回っているようです。本部からの情報からも、もはや間違いないでしょう……」
マッケンジー上級特尉は、そこで一端言葉を切った。そして、緊急作業に忙殺されている作業員やオペレーターたちの姿を見下ろしながら続ける。
「――エンディミオン。五大湖に落ちたやつも、そのバケモノの仲間であると言うのなら……
間違いなくこの基地は最優先で狙われるでしょうな」
そう。このネヴァダ基地には、唯一そのバケモノに有効『かもしれない』兵器が存在するのだ。
全世界で、既に30機の量産機の建造が開始されているらしいが――
実働できる機体は、現状で試作型の完成機がたったの3機。その内、2機は第三新東京市の本部地下基地に。
そして残りの1機が、このネヴァダ基地に存在する。
その兵器の名を、NERVは運命の女神――G.O.D. <スクルド> と呼んでいる。
超越者テトラグラマトンを名乗った魔皇 <サタナエル>は、恐らく察知しているはずだ。この女神たちの存在を。ならば、彼が送り出したエンディミオンがそれを狙った来ることは充分考えられる。
本部も、それを警戒するようにと言ってきている。
だからこそ、今この基地は蜂の巣を突付いたような騒ぎになっているわけだ。『通常兵器完全無効』を謳う悪夢の存在が、まず確実にここにやってくる。慌てたくもなるというものだ。
「パイロットとして本部の碇総帥が選んだのは……
我等の母体である、エンクィスト財団のトップ。キリシマ理事長。まさか御大自らがご出陣とは、ことはますます大げさになりつつありますな」
マッケンジー上級特尉は、表情を完全に殺したまま言った。
はっきり言って、今の段階で彼ら指揮者にできることはない。必要な指示は既に出してある。あとは、あの女神を動かすために作業員たちに全力を尽くしてもらうしかないのだ。
だから、彼ら2人がこの緊急事態を前に特別余裕たっぷり――
というわけではなく、ただ単に仕事がないから月でも見上げている他ない。という状況なのだ。
「その財団代表だが……」
「旧世紀の戦略爆撃機で、こちらに向かっているとか。マッハで飛んで来ているらしいですから、まもなく到着するのでは」
そう言うマッケンジー上級特尉の表情は、珍しくも少し崩れていた。それも無理はない。シロウトが戦略爆撃機ですっとんでくるとは、滅茶苦茶にもほどがある話だ。
なにせ全速で飛ばせば、ベテランパイロットでも鼻血を出して気絶するような機体なのだ。戦略爆撃機とは。
「……キリシマ代表は、先のJ.A.との死闘で瀕死の重傷を負ったと聞いていたのだがな?」
マクレーンも、困惑を隠し切れない。瀕死の重傷を負って1か月も経っていない人間が、どうやったら戦略爆撃機に乗れるまでに回復するというのか。
「日本では、モンスターとウワサされる人物らしいですからな。……せいぜい期待させていただきましょう」
複雑な表情で、マッケンジー上級特尉はその会話を打ちきった。意味不明なバケモノは、敵だけで充分。その表情は、それを如実に語っていた。
砂漠の夜に、沈黙が下りる。いや、正確に言えば彼らの階下では職員たちが慌しく雑務に追われているのだが……
それは今、彼らにとって遥か遠い別世界の出来事であった。
と、突然、発令所にけたたましい警報が鳴り響いた。
泡沫の静寂が、それに易々と引き裂かれる。各種モニターに『非常警戒』の文字が踊った。ただでさえ慌しかった場は、瞬く間に戦場の如き混乱に陥った。
「どうした! 何事か?」
マクレーン司令は、手すりから身を乗り出して眼下のオペレーターたちに問い掛けた。
「軌道上の監視衛星から非常通信!
質量……巨大な質量移動を感知……」
オペレーターが、何度も言葉を途切らせながらようやく告げる。その表情は、気味が悪いほどに青ざめていた。
「み、未確認の高速移動物体が、大気圏に突入。こちらに……この第2支部にまっすぐ向かっています!
は、はや……なんで……!」
それ以後は、もう報告になっていなかった。その女性オペレーターは、我を忘れたようにただ何かに怯えていた。
実際に、計器が示す数値を確認していたのは彼女だけだ。だからこそ、彼女にしか分からなかった。なまじ常識ある人間だから、その数字はなにかの間違いか――
或いは、なにかの狂気にしか見えなかったのだ。
そして、彼女はそれが……
その数値を示す存在が、狂気の方に属するものであることを本能的に悟ったのである。
彼女の次に、その狂気を目撃したのは――
マクレーンの傍らにいたはずの、マッケンジー上級特尉であった。
「……」
そしてその彼の異変に逸早く気付いたのは、もちろん、彼にもっとも近い場所にいたマクレーン司令その人である。
背後から、苦労して搾り出すかのような声が聞こえたのだ。とてもあの冷静沈着なマッケンジー上級特尉の発したものとは思えない、言葉にすらなっていない意味不明なうめきだ。
「どうしたんだ、上級特……」
怪訝に思って振り返ったマクレーンは、口元に浮かべていた苦笑をそのまま凍りつかせた。
マクレーンの知る限り、マッケンジー上級特尉は表情を滅多に変えないアルゴンのような男であった。しかし今、マッケンジー上級特尉は、月を見上げて震えていた。ガタガタと、怪談話を聞かされて怯える幼子のように。
「なにが……起こっている」
マクレーンは、釣られるように月を見上げた。生涯最後に目にする光景。ネヴァダ最後の月を。
そして、彼らはそれを目撃する。
新円を描く、無慈悲な夜の女王。血塗られたかのような、砂漠の満月。狂気の象徴、ルナティックを背後に……
それは――いた。
奇妙に大きく見える今宵の月を、まるで覆い隠してしまうかのような巨体。それは何かの見間違いであろうか。それとも、これは悪い夢なのか。
「バサリ――」
1……2……、
……4枚。
闇夜に広げられる、合計4枚の翼。もちろん、その尋常ではない形状と大きさは鳥のものなどではない。かといって勿論、天使のそれでもない。
あえて似たようなものを挙げれば、蝙蝠だ。
コウモリの、翼。
だが、それよりもっとあれを表現するに相応しい言葉を我々は知っている。そう。――悪魔。それは、まさに悪魔がもつ巨大な翼だった。
月の光を浴びて落ちてくる、銀翼のシルエット。肉食恐竜を思わせる鉤爪と頭部。ズラリと並んだ鋭い歯牙。巨大な胴体。
……そして、煌々と輝く真紅の瞳。
それは、明らかに地球上には存在しない生物であった。動物と呼ぶには、それはあまりに禍禍しい。そしてどうしようもなく巨大過ぎる。
だが、人類はあの生物の名を知っている。恐怖から生み出された、数多の生物たちを統べる王として。幻の中で生きる、最強の魔獣として。
かつて我々人類は、彼をこう名づけたのだ。
――ドラゴンと。
だが、彼はただの竜ではない。その存在が、様々な文献に記されていることからもそれは明らかである。旧約聖書にも登場するが故に、その名を知るものは多かろう。
見よ、 <彼>を。汝を創造せし我は、この獣をも造った。此れは牛のように草を食らう。
見よ、その生命の躍動を。尾は杉の枝の如く撓み、腿の筋は硬く絡み合っている。骨は青銅の管、骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたが如く。
此れこそ神の傑作、創造主をおいて剣をそれに突きつける者は――ない。
<彼>は、ヨブ記にこのように記されている。
さらに伝説は、語る。神は、 <リヴァイアサン>を大海の獣。そして <彼>を陸の獣として作り出したと。
時に犀、水牛、巨象、河馬などに喩えられる彼だが、その肉体的特徴をなぞっていくと寧ろそれら全てに属さない純粋な殺戮兵器を人々に悟らせるであろう。
悪魔と認められながらも、その性格は無意識。闇よりも、むしろ混沌に近い強大な獣。
「な……なんだ、あれは……」
見てはいけない――!
彼の本能が、大声でそう怒鳴り散らしていた。
考えるな、理性的になるな!
あともう少しでいい!
無事に『死ぬ』まで、意識をアレに向けるな! マクシミリアン!
大気圏に突入したという報告が来たのは、数秒前だ。なのに、奴は何故ここにいる?
なんで、こんな奴がいるのだ?
全長……
全長は一体……
一体、何千Mあるのか……
信じられない
アレは、生物なのだ
この世の物じゃない、生物なのだ
見たくない
考えたくない
月を覆い隠す巨体
夜よりも闇色の、その精神
こんな奴のことなど、考えたくもない
そんな存在の持つ力など
いやだ……
もし出会ってしまったら……
マクレーン司令は、子供のようにいやいやをしながら、後ずさった。凍てつく恐怖が、魂から流れ出してくる。全身は凍ったようにガチガチだ。
カタカタと、噛み合わない歯が他人の立てる音のように喧しい。
いやだ……
見たくない……
もし、であってしまったら……
もし、あんなものと目を合わせてしまったら……
だが、もう遅かった。血の滴るような真赤な瞳が……
1つの街ほどの面積を誇る巨竜のシルエット、その頭部から、こちらに向けられる。
目と目が、出会う。瞳、逸らせない。恐怖と絶望の束縛。
瞬間、あのバケモノの精神が、流れ込んでくる。人間が抱えきれないほどの闇。
闇すらも超えた、虚無。
マクレーンは、絶叫した。
――今、ネヴァダに現れた彼は、眼下の人間たちをその真紅の瞳で睨みつけていた。そして無造作に首をもたげる。と同時に、人間が空気を吸い込むように、口元に『それ』を収束させていく。
次の瞬間、彼はそれを吐き出した。
それは、偉大なる大地の竜王が誇る、 <虚無>の力だった。人間が内包する狂気の源、漆黒の <闇>も。天使が操る金色の <光>さえも凌駕する、最強の無存在。
全てを <虚無>へと還す、『ゼロ・ブレス』である。
闇も、光さえも超えたそのエネルギーに、この世界が悲鳴を上げる。激しく身を捩ってもだえる世界。空間が、時空連続体が歪む。裂ける。
我々人類の所属する宇宙は、その存在を拒む。それは、自分には受け止めきれない存在なのだ。自分の許容限界を超えた、バケモノなのだ。
我々の知る宇宙は、それを受けとめるにはあまりに弱すぎた。だが、その虚無は嫌がる世界を力尽くで犯しながら、そこに実体化した。世界はただ、それを闇までとしか表現できない。
そして、その無表情な闇は真っ直ぐに人間たちの楽園へと降り注ぐ。周囲の空間を、ゼロに還しながら。
「本施設上空で、超大規模時空異常を確認。じょ……上方の空間が無くなっていきます」
オペレーターが、悲鳴を上げる。だが、報告すべき上官は既に彼女が知らぬ遠い場所に行っていた。
「神よ……」
ビ'エモスの血塗られた真紅の瞳に見つめられた瞬間から、マクレーンの精神は既に崩壊していた。
壊れた人形のように、空っぽの目で月を見上げながら彼は呟く。
「虚無が落ちてくる」