−日吉一晨流奥伝−
我等ガ剣ニ弐之太刀無シ
其之初撃ヲ以テ必殺之一撃トセヨ
此レ即チ熱歌之心構也





CHAPTER XXXI
「男たちの熱歌」
CHAPTER・116 『シャルロット』
CHAPTER・117 『致命的な障害』
CHAPTER・118 『エイモスの提案』
CHAPTER・119 『ロンギヌスの魂』
CHAPTER・120 『男たちの熱歌』



CHAPTER・116
『シャルロット』


 ――時は一四三二年九月。
 ラ・ピュセルの死から、早くも一年以上の月日が流れた。だが百年戦争と呼ばれる大戦は、未だ決着を見ていない。ピュセルの死を以って進められた和平交渉も、結局は実を結ぶことはなかった。彼女の死は、時の流れと共に戦争という舞台から忘れ去られていった。暗黒の時代は、まだ終わらない。時代はまだ、混沌と戦乱を求めているのだった。
 そして、それとは別のベクトルで、堕天使たちの戦いもまた続いてた。
「――打倒、 <人類監視機構> 」
 ある者は絆のために。ある者は自由のために。ある者は信念と理想のために。討伐を目指す理由は各々違いこそするが、彼らの目標は一致している。それが団結をもたらし、反監視機構勢力という無視できない存在に成長していた。そんなそんな中世における反監視機構側の兵士たちが、此処 <アランソン城> に集っていた。
『時空障壁』に阻まれ、未来への跳躍実験に失敗してから二週間。アランソン侯とロンギヌス隊の故郷に一旦身を寄せた彼らは、その対策を練っていたのである。だが、もちろん彼らを阻む壁はあくまで高く厚い。未だ有効的な解決手段を講じ得ることもできず、焦りばかりが募っていた。
「あっ、シグルドリーヴァ様」
 与えられた客室から気分転換に庭園でも散歩しようと出て来たクレスに、澄んだ女性の声がかかった。
「……ん?」
 誰かと振返るクレスの目に、二〇歳前後であろうか若い女性のはにかんだような微笑が飛び込んで来た。 明らかに上級貴族であることを窺わせる、その優雅な佇まい。そして、端正に整った美しい相貌。そんななかでも、どこか素朴さを感じさせる優しい微笑み。見間違えることも、ありえない。
「ああ、シャルロット姫」
 クレスは、戦友やリリアといるとき以外には、あまり見せない種の微笑みを浮かべて言った。
「また姫などと。わたくしのことは、シャルロットと呼び捨てて下さいといつもお願いしておりますのに」
 シャルロットは、ほんのりと赤面しながら言った。困ったような、くすぐったがるような、そんな可愛らしい表情と仕種だ。対して、クレスは至極冷静に言った。
「名に関することなら、オレも言った。 <シグルドリーヴァ様> なんて、大層な呼び方をされる身分じゃない。クレスと呼び捨ててくれ、と」
 慣れない者が聞いたら、『この男、機嫌でも悪いのか』と思うような冷たささえ感じる口調だ。が、シャルロットは知っている。クレスはこれが地なのだ。こういう喋り方で、それが普通の状態である。彼はそんな男なのだと。
 なにやら、妙な沈黙と共に見詰め合ってしまうふたり。クレスは照れたような苦笑を浮かべ、シャルロットは慌てて視線を外すと恥ずかしそうに俯いた。
 ――クレスは、このシャルロットが自分に異性としての淡い感情を抱いていることに気付いていた。勿論シャルロットも、クレスにはリリアという決まった女性がいることを知ってのことだ。『だからせめて妹として』……と、両者の想いは重なっている。クレスが例外的にこの女性に微笑みを向けるのは、その為だ。
「でも、貴方様はシグルズの次期領主様。いずれ伯爵位を継がれる方ですわ」
 だから、呼び捨てることなどできない。とシャルロットはどこか困ったような顔で言う。またそんな、どこか幼い表情を残すシャルロットがクレスには可愛かった。
 ――シャルロット・ダランソン。彼女は、アランソン侯の一番下の実妹である。クレスの記憶が確かならば、二月程前に一九歳になったばかりだったはず。栗色のサラサラとした髪に、大きく澄んだ黒の瞳。全体的にほっそりとした華奢な体型。クレスは、初めて少女シャルロットに出会った時、紹介されずとも彼女がアランソン侯の妹であることがハッキリと分かった。それくらい、彼女はアランソン侯に似ている。いや、正確には母親似のアランソン侯と同じく、シャルロットも母ミシェル・マリーに似通った顔立ちをしているのだ。それは、彼女の容姿が非常に優れていることを同時に示す。 <美男侯> と呼ばれた兄を持つだけあって、彼女も花のように可憐な女性に育っているというわけだ。
 もっとも彼女に関して、容姿云々に拘って言及するのは無意味で浅はかな行為であると言わざるを得ない。彼女の魅力は、その人間としての本質にあるからだ。世話好きなのに、そのくせ泣き虫で。でも、芯はとても強くて。姫のくせに何故か洗濯が趣味で。彼女は周囲の人間を、知らぬ間に笑顔に変えてしまうような、そんな力を持っている。
 癒しの力とでも言おうか。一見誰よりも弱そうで、なのに誰をも抱き留めてみせる包容力を持っているのだ。もちろん容姿にもそうであるが、彼女を取り巻く人々はその彼女の人間味にこそ愛情を抱く。彼女が兄のジャンと並んで、アランソンの街のアイドルのひとりであるという事実もそれを証明していた。
 ――さて。アランソン侯ジャン二世には、彼女シャルロットを含め、もともと全部で四人の兄妹がいた。 ここで、一通り彼らの存在を紹介しておこう。
 まず兄のピエール。本来、アランソン候の爵位を継ぐはずだった公家第1子、長男が彼である。だが彼は、悲しいことにジャンがまだ幼い頃に病死している。この時代、たとえ大貴族の人間であろうと幼少の折に病死することは珍しいことではなかった。
 そして2番目の子であり、次男であるのが現アランソン侯として有名なジャンだ。父ジャン一世がアザンクールで戦死したことで、不幸にも幼くしてアランソン侯となった男である。絶世と巷で騒がれる、麗しの后妃ミシェル・マリーの美貌を継いだ彼は、美男候の名でも知られている。
 あとの三人は全員が女子で、皆健在。長女のマリーは、アランソン侯の双子の妹で活発な娘だ。その下は二歳違いの妹、ジャンヌがいる。そしてジャンとは三歳違いの、一番下の妹がこのシャルロットだ。マリーとジャンヌは既に嫁いでいって、故郷にはいない。だがシャルロットは、ひとり城に残ることになってしまった母の面倒を見る為に、持ち寄せられる縁談を全て蹴ってアランソンに残っていた。
 ――この娘が19になったってことは、候もオレも、もう22になるってことか。
 クレスはシャルロットを見つめたまま、ふとそんなことを考えた。アランソン侯はもうこの中世にはいないし、自分も使徒になったから寿命だとか、老いだとかそんなものからは切り離された存在となっている。
「もう22か。改めて考えれば歳くったな、オレも。いや待てよ、オレは確かアランソン侯の一個上じゃなかったか? と言うことは、オレは23か? いや、実は意表をついて13とかいうことも?」
 ――それはない。
 とにかく、自分の年齢も分からなくなって混乱しだすクレス。相変わらず、如何でもいいことで貴重な時間を浪費する男である。そして、そうこうしている内に自分の仕事を忘れて、後でリリアに叱られるのだ。いつものパターンである。
「はい? なにかおっしゃいましたか」
 そんなクレスの『ひとり漫才』が幸運にも聞こえなかったのか、キョトンとした表情でシャルロットが訊いた。チョコンと小首を傾げるような仕種も、やはり少女時代のままだ。
「いや。なんでもない。――で、オレになにか話でもあるのか? 用があったんだろう」
「ああ、そうでした」
 ぱふっと両手を叩きあわせると、シャルロットは思い出したように言った。
「元帥様が、戻られたそうですわ。それで何かお話があるとかで、皆様にホールにお集まりいただく様にと」
 言いながら、シャルロットの表情が急速に曇っていくことにクレスは気付いた。
 どうやら、彼女も何かが動き出していることに薄々勘付いているらしい。
「タブリ――リッシュモン元帥が戻ったか。……そうか。と、なるといよいよ本番だな」
 なにか思案するように声を落とすと、クレスは呟いた。
 その小さな言葉に、シャルロットの表情は更に沈む。
「あの……」
「――ん」
 遠慮がちに声をかけて来たシャルロットに、クレスは向き直った。
「あの、兄様のいらっしゃる遠い異国に……
 クレス様たちも行ってしまわれるというのは、まことの話なのでしょうか?」
 シャルロットをはじめ多くの人達には、アランソン侯は敵方の捕虜に捕られ、未開の遠い異国へ流されてしまったという風に納得させている。
 次元封印だの未来だのと馬鹿正直に説明するわけにはいかないし、仮に真実を話したとしても理解できるとは到底思えないからだ。
「ああ。本当だ。
 オレもリリアも、ロンギヌスの連中も、そして君の叔父リジュ伯カージェス卿も……
 皆それぞれ目的こそ違うが、アランソン侯のいる遠い遠い場所に行かなくてはならない」
「いつ……お戻りになられるのですか?」
 泣き出しそうな顔をしながら、いやに時間をかけてシャルロットは言った。
 きっと、返って来る最悪の答えを恐れたからだろう。
 末っ子ということもあってか、それともアランソン侯の妹であるからか、彼女はひどく寂しがり屋である。
 父が死んだ時も、兄が消えた時も、一月以上泣き暮らしたものだ。
 そして今度は想い人を含む四三人の親しい者たちが消えるとなると……
 その衝撃は想像を絶する。
 だが、それでもクレスにはウソはつけなかった。
「……多分、オレたちは戻らない。もう、二度と」
「――?」
 大きく目を見開いて、シャルロットは驚愕する。
 やはり、ある程度予測はしていたのだろう。
 だが、実際耳にしたその言葉はそれでも彼女に大きな衝撃を与えたらしい。
 丸く開かれた目の縁に、みるみる涙が溢れてくる。
 そして、限界を超えたそれは綺麗な雫となってポロポロとこぼれだした。
「シャルロットが望むなら、連れて行っても良い。
 ……いや、君が望まなくてもオレは連れていきたいと思っている」
 ぽむっとシャルロットの頭に手を置くと、クレスは言った。
 いつもの突き放すような無関心で面倒そうな声ではなく、とても優しい声。
 そんな彼の声を聞いたことがあるのは、クレスの <思い出の少年> と特別な女性 <リリア> 以外には――
 きっと、このシャルロットしかいない。
「オレは、シャルロットがとても……
 その、なんだ、す……、のだな、その……つまり、す……、いや、まぁ、なんと言うのか……」
 クレスは真っ赤になりながら、言った。
 先程までの落ち着いた感じのする彼は、もうそこにはいない。
 悲しいくらいにあせりまくっている。
 別に男女の関係だとか、恋愛感情とは接続されていない話であるというのに、それでも『その一言』の為に赤面してしまうというのは、彼らしいと言えばらしい話だ。
「す……す、す、す……好きだから?」
 何故か最後が疑問形で終わるクレス。
 バカである。
「!」
 だがそれでも、そういった言葉に免疫のないシャルロットは、クレスの言葉にびくっと身を震わせた。
 そして、涙で濡れた瞳で上目遣いにクレスを見詰める。
 案外、彼らは似た者同士なのかもしれない。
 幾つになっても、ウブでシャイなのだ。
「だけど、シャルロットは優しい娘だ。
 母上をひとり残して、オレや兄貴を追うというような選択肢は選べない。
 ……だろう?」
 ポロポロと零れ落ちる涙に気を落ち着けたクレスは、また静かな声で囁くように言った。
「……っ……く」
 鳴咽を堪えるのに精一杯で、シャルロットは満足に答えられない。
 だから、クレスは彼女の頭を撫でながら続けた。
 いつもリリアにゴロゴロと甘えてばかりの彼だが、こういう対応も相手によっては可能だということだ。
 というより、リリア以外の人間はクレスのこのような姿しか知らない。
 リリアに子供のように甘えているなどという事実を知ったら、きっと彼を知る周囲の人間は仰天することだろう。
「――だが、そんな良い娘のシャルロット姫に良いニュースがある」
 何故かお兄さんぶったクレスは、自分にでき得る限りの最高の微笑みを浮かべてみせた。
「それはな、お前さんの兄貴が、上手く行けば一度この中世に戻ってくる可能性があるということだ。
 死んでしまった恋人を、時を越えて連れ去るために」
 クレスはシャルロットの柔かな頬を優しく両手で挟み、そしてその潤んだ黒の瞳を覗き込む。
「そしてあいつは恋人を掻っ攫って、また遠い国へ帰って行く。
 その時……その時にもし、シャルロットがオレたちの場所に来たいと願うのなら。
 その時は追いかけてくるといい。アランソン候にそう伝えておくから」
 分かったか、というように軽く首を捻ってクレスはシャルロットを窺う。
 シャルロットはよく理解できなかったのかもしれないが、とにかく急いで頷いた。
「――よし。相変わらず、いい娘だな」
 気丈なシャルロットの反応に、クレスは満足そうに頷いた。
 だが、僅かに眉根がひそめられているのは、彼女に対する罪悪感の現われだろう。
「いいか、シャルロット。
 政略結婚なんかで、妙な男の所にお嫁に行ったりしないでくれ。
 一緒になるなら、本当に尊敬できる男とだ。
 誇りある真の騎士……そう、お前さんの兄や、父のような」
「……そして、クレス様のような?」
 シャルロットは無理に微笑みを浮かべようと、最大限の努力を払いながら言った。
「嬉しいこと言ってくれるけど、オレはあそこまで勇敢じゃない。
 あいつらは本物の勇者だ。それからすると、オレはただの品格にかけた貴族崩れの傭兵だよ」
 クレスは苦笑しながら応えた。
「……まあ、もしそんなヤツが現れなかったら、その時はオレたちのところに来な。
 妹として――になっちまうが、愛情ならオレが幾らでもあげるから」
「は……い……」
 シャルロットは、か細い声でそう答えた。
「それでいい」
 クレスはひとつ頷くと、シャルロットを抱いてポンポンと軽く背を叩いた。
 彼女を抱くという行為は、これまでずっと避けてきたことだ。
 その行為は、男女を強く意識しあった間柄にある以上、やはり刺激が強すぎるとクレスなりに考えたからだ。
 が、今はそれも許される。
 ……それに、リリアも許してくれる。
 そう思った。
「じゃあ、オレはこれで失礼する」
 シャルロットを抱擁から解くと、照れを隠すようにクレスは急いでそう言った。
 そして思い出したように付け加える。
「――姫。心を強くな」
 だが、言った後すぐに、クレスは自嘲的な笑みを見せた。
「もっとも、こんなのオレの言えた台詞じゃないが……」
 強くもない人間が、『心を強く』などと言っても白々しいだけだ。
 それをクレス自身、自覚していたからだ。
「……」
 シャルロットは答えなかった。
 ただ、クレスの言葉の真意に辿り着こうと必死に思考しつつ、彼の後ろ姿を見送る。
 今の彼女には、それが精一杯だった。



CHAPTER・117
『致命的な障害』


 幾つかの扉と階段、通路を通過し集合をかけられた中央 <大広間> に向かう途中、クレスはリリアと出会った。
 小高く聳える塔と塔とを空中で繋ぐ、眺めの良い渡り廊下でのことだ。
 驚いたことに、リリアは普段では滅多に見せないような綺麗なドレス姿をしていた。
 ドレス――といっても、なにも特別なものではない。貴婦人が普段着とするような、少なくともこの城内ではごく自然な衣服だ。
 が、それでも、その姿はクレスにはひたすら眩しく映った。普段から彼女が、男装に近い格好をしているせいもあるだろう。
 だが理由がそれだけであるとは思えない。これは単に贔屓目ばかりの評価ではないはずだった。
「よう、リリア」
 クレスは何とかそう言った。彼女の耳には、控えめな輝きを放つ三日月の様な形をしたゴールドのイヤリングが揺れていた。
「――こんな所にいました。捜したんですよ、クレス。もう皆集まって、あなたを待っています」
 その言葉から察するに、彼女はなかなか集合場所に現れないクレスを探しに来たらしい。
「その気になればどこの誰のことだろうと感知はたやすいだろうに。わざわざそれを封じて振舞うとは、リリアも随分と酔狂になったな」
「本質が混沌ともなれば、人の目に酔狂とも映るものです」
 なるほど、と首肯しクレスはそれきり口を閉じた。
 眼前の女性は、自らの容姿にまったく頓着や自覚というものがない。いくら酔狂を演じようとも、そこまで人の感覚をトレースする意義を見出すまでではないのだ。だから、不思議そうな視線を返してくる。

「リリア」
 彼女は怪訝な表情で小さく首を傾げる。その動作で、青白い月明かりを浴びた金髪がやわらかく揺れた。光の加減次第で、金色にも薄茶色にも見える不思議なブロンドだ。
「なんて言うのかな……」
 人間には生まれながらに与えられた様々な素質があり、才能がある。
 そして、それらに特別優れた――表現は悪いが――怪物のような者が必ず存在するものだ。リリア・シグルドリーヴァやピュセル、タブリスといった天使達は、美の部門におけるその該当のだろう。
「いや、良いんだ。別に大した事じゃない。シャルロットと話して少し感傷的になったらしい。遅れたのもそのせいだ」
 そう言って一方的に話を打ち切ると、クレスはリリアの肩に手を回して大広間へと歩を進めた。彼女も不思議そうな顔をしつつ、深くは追求せずに並んで歩きはじめる。
 リリアの言う通り、大広間には既に四一の人間が勢揃いしていた。
 リジュ伯カージェス、エイモス・クルトキュイスらを筆頭とする <ロンギヌス隊> 。そして、ここしばらくの間姿を消していたリッシュモン大元帥こと <タブリス> の姿も見える。
「元帥、戻ったか。久しぶりだな」
「一五日と九時間ぶりだね、 <新たなるゼルエル> クレス・シグルドリーヴァ」
 クレスのぶっきらぼうな挨拶にタブリスは笑顔で応えた。

 大広間には、大きなテーブルを幾つか組み合わせて作ったロの字型の巨大なテーブルが作られている。
 そのテーブルを取り囲む様にして無数の椅子が並べられており、多少窮屈だが、四三人全てがそこに腰掛けることが出来た。急ごしらえではあるが大会議室が形成されているわけである。
 そして、残っている二つの空席にクレスたちシグルドリーヴァ夫妻が腰を落としたのを切っ掛けとして、会議ははじまった。
「紳士淑女の諸君、お集まりいただきありがとう。久しぶりにこのアランソンに戻ったからね。今までの報告と、これからのことについて話し合う場が欲しかったんだ」
 椅子から優雅に立ち上がると、タブリスはコツコツと集まった人間達の周囲を歩きはじめながら言った。どこか音楽的でありながら、広いホール隅々にまで届く通りの良い声だ。
「――さて、ではまず僕がこの二週間ほどの間何処へいっていたか。そこで何をして来たかを説明しよう。未来へ渡ろうとする以上、皆にも関係のあることだからね」
 タブリスは淀み無く続けた。
「結論から言えば、僕は南極に < <JA> > を隠しに行った」
「南極?」
 リジュ卿が、怪訝な顔で問い返す。タブリスの言葉の内容から察するに地名であるのだろうが、全く聞き覚えがないのはクレスも同じである。
「南極とは――正確に説明する手間を省くことを許してもらい簡潔に表現してみれば――そうだな、南の果てにある氷に閉ざされた極寒の大地のことだ。今現在、人類の中でその地に足を踏み入れたことのある者は一人もいない。氷に閉ざされているというより、大地自体が氷で出来ていると言うべきかな。あまりの凄まじい冷気に、吐く息すらもたちまち凍てついてしまう。十分な装備なくしては命すら凍てつく、人外の魔境さ」

「そこに、先に倒したあの鋼鉄の傀儡を?」
 エイモスが、口髭を震わせながら訊く。彼の言う鋼鉄の傀儡とは、もちろんJ.A.のことだ。
 タブリスは、エイモスの言葉を頷いて肯定した。
「下半身は別に必要ないだろうから、捨てたというより、消しておいた。南極の永久氷壁に氷付けに封印してきたのは、この前リリア・シグルドリーヴァに仕留めてもらった <JA> の上半身の方だ」
 タブリスは、ゆっくりと四三の背後を周回しながら言った。
 前回の跳躍実験以前から、タブリスはこのチームのリーダー格の存在として、自然とこのような立場に立つことが多くなっている。エージェント個人としても優秀だが、リーダー特性も非常に高いものを持っているのだろう。
 万能とは、彼のような存在のために用意された言葉なのかもしれない。
「死神の鎌は、 <JA> のコアにわずかだが傷を付けるように調節されていた」
 チラとリリアに視線を向けながら、タブリスは言った。
 リリアは、タブリスが <JA> をどのように利用するかに見当をつけ、それに最も適した形で <JA> を仕留めた。それを、タブリスはそう悟っていたのである。
「あの傷が癒えぬ以上、 <JA> は人間でいう仮死に近い状態にありつづける。得意の再生、復元も働かない。安心して扱えるわけだ。六〇〇年後の未来に跳躍している僕の <ファクチス> は、その南極に封じられた仮死状態の <JA> を交渉のネタに使って、結果的にエンクィスト財団を動かすだろう」
「つまり、それは未来への布石か」
 クレスのその確認に、タブリスはまたも静かに頷くことで応えた。
「エンクィスト財団。ここ最近の欧州王侯貴族を発祥とする巨大な組織だ。歴史の表舞台には一度も出たことはない、いわば巨大なフィクサー集団とでも言おうか。国家の垣根を越えて横たわる巨大なギルドと表現しても良いだろう。もう少し時間がたつと、死の商人としての側面も強くなっていくわけだけどね」
「財団と言いますが、その財源は」
 訊いたのはリリアであった。
 とはいえ、彼女自身はエンクィスト財団についての基本的知識を有しているはずだった。その口から財団について語られるのをクレスは何度も聞いているし、そもそも彼女がスウェーデンで活動していたのは、名の源ともなったエンクィスト家が北欧に構えられていたことと全く無関係でもないという話である。
「財源は、さっきも言ったように財団時代が時代の変遷によってその形態を変えていくため、時代によって若干違う。が、大体において軍事産業だね。戦争によって生じるいわゆる特需は、特権階級層に位置する富豪たちを通じ全てこのエンクィスト財団に集まっている。彼らは国家間経済や外交に介入することで紛争を呼び、またそれを操作してその権益と支配力をより強固なものとしている。彼らの構築しつつあるシステムは無駄なく大掛かりなもので、飴と鞭の使い分けを良く知った非常に合理的なものといえるね」
 タブリスは花咲き乱れる庭園を優雅に散策するような足取りで、室内を歩き回りながら続けた。
「この時代ではまだエンクィスト財団は新世紀に見られる体勢を確立してこそいないが、幾つもの世紀をまたがるうち強大な力を持つようになる」
「人類版の <監視機構> か」
 リジュ卿が自嘲的にも、皮肉を込めたようにも見える苦笑を浮かべて言った。

「財団は、 <JA> を利用した僕のファクチスの話に結局は強い関心を示す。当然だ。彼らは既得権の維持拡大を至高とする以上、常に支配者であり続けなければならないのだからね。彼らにとって、 <人類監視機構> の存在は、だから何にも勝る脅威だ。そのため、財団は監視機構の存在を早くから認め、敵と認識し、それに対する尖兵として <NERV> という特務機関を作り上げることになる」
 タブリスは足を止めて、特にロンギヌスの隊員達を見詰めると言った。
「そのNERVの総帥が、新世紀におけるアランソン侯の父親。ゲンドウ・イカリという男だ」
 彼の予想通り、ロンギヌスはその言葉に反応を示した。四〇の男たちが、呻きとも囁きともつかぬ声を交わし合う。
 タブリスは軽く左手を上げることで、それを柔かに制した。
「幸か不幸か、碇総帥はアランソン侯――新世紀では碇シンジと名乗っているが――を溺愛している。彼は財団の思惑とは別に、息子のためにNERVを私物化し操ろうとしつつあるくらいだ」
 そう言うと、タブリスはゆっくりと自分の席に再び腰を下ろした。
「まあそういうわけで、 <JA> はそれなりに有効活用されることになる。新世紀ではNERVの手によって新型兵器への技術転用も成されているしね。僕のこの二週間の行動は、それを見越した準備だと思ってもらえれば良い」
 そこまで言うと、自分の話は終わったと言わんばかりに、タブリスはリリアに視線を送った。
 彼女はそれを受けて小さく頷くと、流れるような動作で立ち上がった。進行役の交代、ということらしい。

「では、ここで状況を整理してみましょう」
 リリアは全席に向けて言った。
「我々の目的は好条件の整った、つまり <NERV> という利害関係の一致する組織の存在する新世紀に渡ることです。そして彼らと連携をとり、監視機構を打倒すること。これにあります」
 彼女の黄金と緑の瞳を四二人の男たちが覗き込む。
「ですが、それを阻む障害が我々には存在します。それが先に明らかになった混沌の <時空障壁> です。これは時間と空間の隙間に張り巡らされた罠であり、壁です。当然ながらこれを破らない限り何人たりとも時を越えることは出来ません。少なくとも、時間旅行という意味合いでは完全に不可能でしょう」
「問題は、その壁を破る術があるのかないのか、だな。そして、タブリス。あんたは、その唯一の術がないこともない。そんなことを言っていた」
 クレスはテーブルに頬杖を突いた格好で言った。
「その通り。僕は確かにそれに近いことを言った」
 タブリスはハッキリとそう応えた。
「して、その唯一の術とは?」
 エイモスが、リリアとタブリスの間で視線を往復させながら訊いた。
「簡単さ。混沌の力を破るのは、 <光> でも <闇> でも、ましてや最強と言われる <無> の力を以ってしても無理。ならば、同じ <混沌> に頼るしかない」
 そう言って、タブリスはリリアに視線を投げた。
「我々はその混沌の力を操ることが出来る人物を知っている。それが、彼女に他ならない。あの時空障壁を破ることが出来るのは、魔皇の黒い鎌を置いて他にあり得ないだろう」

 実際のところ、このタブリスの表現は便宜的なものであり、細かく考えればかなりの語弊があると言わざるを得ない。
  <混沌> とは元々、存在しない存在なのだ。
 いや、存在だとか存在しないだとかいう概念を超越しているというべきか。すなわち <在> と <無> という、矛盾を内包する破天荒なものなのなのである。
 だから、 <混沌> を破るだとか滅ぼすだとかいう挑戦は無意味であるし、意味をなさない。滅ぼそうにも、既に滅びている存在であり、そもそも存在しないものであり、だがそこにあり続ける存在なのだ。滅ぼす、超える、変えるといった観測点からは認識できないものであると言っても良い。
 そんな無茶なものだから、我々の知るこの宇宙などにその特性を召喚し、顕現させるのは非常に難しい。 <混沌> の制御とは結局、どのくらい忠実に低い時空間で <混沌> を再現しきれるか。これを意味する。
<混沌> 自体、 <全てを知る者> 以外には未だ謎多き未知の存在なのだ。あのエンシェント・エンジェルたちにとっても、事情を変わらないというから筋金入りだと考えてよいのだろう。
 ただ、同じ程度の <純度> というか <強さ> を誇る混沌同士をぶつけ合わせた時、そこに何らかの反応が生じることだけは間違いないらしい。

「より忠実に混沌を再現できれば、不完全な混沌は場を乱され、秩序や摂理に抑え込まれるか、より深い混沌に取り込まれる。その意味ではタブリスの言う通り、私が <カオス> として現在使いこなせるだけの力を全開すれば、恐らくあの時空障壁を破ることは可能でしょう」
 そのリリアの言葉に、ロンギヌスの男たちは「おお」と小さな喚声を上げた。
 だが、そんな彼らの無邪気な反応を諌めるようにリリアは冷たく続けた。
「ですがこの事を考慮に入れたとしても、やはり私たちが時を駆けるには、致命的な障害が存在します」
「どういうことだ、リリア。 <時空障壁> とやらを破れるなら、他に障害はないはずだ」
 聞いている限り、時空障壁さえ破ることが出来れば問題は解決のように思える。
 クレスは、傍らに立つリリアを見上げながら訊いた。
「それを説明するには、まず、未来へ渡る為の手順を正確に理解してもらう必要があります」
 そう言って、リリアは手を開き五本の指を真っ直ぐに伸ばしてみせた。
「時空跳躍――仮に未来への時間的・空間的ジャンプをこう呼ぶとして、これを実現させようとした場合、そこには幾つかクリアしなければならない絶対条件が生じてくるでしょう」
 そう言うと、リリアは右手の開かれた五本の指の内、親指を折り曲げた。
「まず第一に、渡るべき時空連続体上の座標を正確に示すことです。これらを設定せずにランダム・ジャンプを敢行することも理論的、技術的には確かに可能です。ですがその場合、私たちはどこに飛ぶのか結果を予測することができない」
「つまり」リジュ卿がテーブルの上に腕を組んだまま口をはさんだ。「時空跳躍の際、行き先を設定しないと、過去に行ってしまうかもしれないし、勢いあまって目的としていた地点の遥か未来に行ってしまう可能性があると?」
「その通りです。もっと言えば、それ以前に地球に行くかどうかすらわかりません。跳躍の際、その媒介として使う亜空間はこの時空連続体――すなわち、過去・現在・未来の全宇宙空間のどことも繋がっているからです。下手をすれば、太陽の中心に跳び出てしまうかもしれませんし、理解できないかもしれませんが、この銀河系の遥か外側に出る可能性も大です。むしろ、地球に首尾良く到達できる可能性の方が低いでしょう」

「――そのために、 <時空跳躍> には僕の存在がどうしても必要なんだ」
 リリアの言葉を継ぐようにして言ったのは、タブリスだった。
「僕は、自分と全く同じ存在である <ファクチス> と常に繋がっている。時空を越えて、見えない糸で繋がっていると言っても良い。そして、その <ファクチス> は僕たちが目的としている新世紀という時代に、都合よくいるんだ」
「そうか……つまり、タブリスなら <ファクチス> と繋がっているその見えない糸とやらを辿ることで、正確な座標を固定することが可能なわけだ」
 これで、タブリスが必要だと言われていた理由が完全に理解できた気がした。
「その通りです、クレス。逆に言えば、その座標を見出すことはタブリスにしかできません。私だと手間がかかりますが、彼なら非常に楽なのです」
 リリアは言った。
「なるほど、ファクチスってのはそういう使い道もあるんだな」
「ありがとう、クレス・シグルドリーヴァ」
 タブリスは、ニコリと微笑んで言った。
「――話を戻しましょう。 <時空跳躍> に必要な条件、その二。それは、時空のゲートを開ける人物が二人以上必要だということです」
 リリアは、親指に続けて人差し指を折り曲げると言った。
 これで立っている指は、小指・薬指・中指の三本だ。
「 <時空のゲート> とは、時空間に開けられた穴のことです。時空跳躍には最低でも入口と出口、二つの <ゲート> が必要となります。まず入口とされるゲートはから入り、亜空間という名のトンネルを進んで、出口となるゲートから通常空間に戻る。このふたつのゲートを生み出すには、 <次元封印> を使える使徒が必要となってくるのです」

「本来なら」
 タブリスが、またリリアの解説を補足するべく口を開いた。
「入口用も出口用も、僕やゼルエルならひとりで生み出すことが出来る。時空に穴を二度連続して開けることくらい容易いことだ。素人のピュセルがぶっつけ本番でやってのけたくらいだからね。――しかし今回のケースだと、話はちょっと変わってくる」
「何故なら」と、リリアが続けた。「時空跳躍の場合、ただゲートを開くほかにも座標の固定、亜空間内での肉体および精神の保護、時空障壁の排除などやるべき作業が多々存在するからです。これらの作業をこなしつつ、ゲートを二つ連続して作り出すのは私にも、かのエンシェント・エンジェルにとて不可能でしょう。ですから、少なくとも今回の場合は二人以上の働きが出来る使徒が必要なのです。そして、その条件は私とタブリスでなんとか満たされています。つまり第二の条件も、余裕はありませんがクリアということですね」
 クレスが勘定に入っていないのは、まだ時空のゲートを開く――すなわち <次元封印> を扱えるまで熟練していないからだ。まだA.T.Fを展開するのが精々であるため、高度な使徒の技術を扱いこなすのは不可能であった。
「次に第三の条件。それは、A.T.Fを展開できる能力、もしくはそれに代わる能力を持っていること。これです」
 言葉と共に、リリアの中指が折られた。
「亜空間は、かなり特殊な空間です。人類がこれから将来に渡って発見していく物理法則のほとんど全てが通用しません。酸素などもありませんし、時の流れすらもありません。それから、これが肝心なのですが――人間の肉体を保つことも出来ないのです。つまり、我々使徒が時空跳躍に利用する特殊な亜空間では、人間の肉体は崩壊してしまうことになります」
 これにはロンギヌスの男たちが敏感に反応を示した。
 もちろん、人間としての感性を色濃く残したクレス自身、ほとんど本能的に近しい戦慄を覚える。幾ら使徒として生まれ変わったような状態とは言え、はいそれじゃあと、簡単にものの見方や価値観を変えられるものではない。

「亜空間に入れば、人間は即座に死へ至るわけです。当然、我々使徒も同様の憂き目に遭います。ですが、我々使徒はコアさえ残っていれば肉体など幾らでも再生・復元できます。問題なのは、が人間にそれが不可能だということ。さらに言うなら、亜空間内で様々な作業に追われる関係上、今回ばかりは私たち使徒もそう簡単に肉体を崩壊させるわけにもいきません。そこで、自らをA.T.Fのような絶対領域で保護する必要が生じてくるのです」
 そして、リリアはそっとクレスに目を向けた。緑と金色の瞳が微笑みかけてくる。

「今回、その役目はこのクレスに負ってもらいます」
 彼女の手が優しく肩に置かれるのを感じた。
 まったくの不意打ちである。一言も事前の相談、あるいは予告がなかったことだった。
「次に、第四の条件」
 狼狽する相棒を尻目に、リリアは薬指を折り曲げて説明続ける。
「これは、先程から話題となっている時空障壁を破ることです。跳躍を阻むこの強大かつ迷惑極まりない壁を一時的にでも無効化しない限り、試みは成功し得ません」
「ここで、話を総合すると共に、実際の手順を追っていこう」
 タブリスが再び口を開いた。
「まず、最初の <ゲート> は僕が開く。その時、既にリリア・シグルドーヴァは溜めに入っている。儀式前の瞑想状態、あるいはトランス状態とでも解釈してもらえれば良い。障壁となっている混沌を破るには、彼女をしてもそれだけの前準備が必要だということになるね」
 タブリスのその言葉を認めるように、リリアは小さく頷いてみせた。
 それを受けて、タブリスは先を続ける。
「とにかく、最初の <ゲート> が僕によって開かれる。その瞬間、クレス・シグルドリーヴァがありったけの力を解放する。それによって展開したATフィールドで、四三人の旅人を包み込むんだ」
 タブリスが視線で合図を送ってきたことには脳のどこかが気づいていたが、満足に反応できる状態ではなかった。タブリスは困ったように小さく肩をすくめると、何事もなかったように解説を再会する。
「フィールドで全員が保護されるのを確認したら、僕がそれを時空跳躍の対象に設定する。そして開いた入口ゲートから亜空間に飛び込ませる。そして、向かうべき未来の座標指定および固定に入る」
 その後言葉を続けたのは、リリアだった。
「タブリスが座標を絞り出す一方で、私は全エネルギーを解放。できる限り再現率の高いな <混沌> で一種の場を形成し、時空障壁に干渉。破壊します。これは、分厚い鉄板を熱線で溶断するような時間のかかる作業になるでしょう」
「そして、その作業が首尾良く終了した瞬間、僕は <時空障壁> の向こう側に目標を転送させる」タブリスが言った。「口で言う分には易く聞こえるが、実際これは非常にシビアな作業となるだろう。死神の計算によれば、時空障壁に干渉し裂け目を作り出せる時間はコンマゼロ八秒。この一瞬の隙に、僕は君たちを <障壁> の向こう側に転送させなければならない。転送自体そうだが、これらは全神経を集中して行わなければならない、大作業だ。そして、その後出口用の時空の <ゲート> を僕かリリア・シグルドリーヴァが開き、皆をあちら側に実体化させることで、未来への時空を超える跳躍は完了する」
 タブリスの言う通り、これは言葉で言う分には簡単に聞こえるかもしれないが、凄まじく卓越した技術と精度が要求される神業の領域にある。
 リリアとタブリスがいなければ、絶対に成功はないだろう。いや、彼らでさえも非常な困難を極める作業であるといえる。なにせ、短時間の内に奥義、禁咒とされる技を連発するのだ。しかもそれを、絶妙のタイミングで組み合わせなければならない。
 一瞬の狂いは、即失敗に繋がる。

「なんともギリギリ……話としてはかなり苦しいものがあるが、不可能じゃないな」
 リジュ卿が無精ひげを撫でながら言った。
 眉間に寄せられた皺は、全く役に立てないどころか、足手纏いにさえなっている自分達の無力を恥じてのものだろう。
「いえ。それが不可能なのです。覚えていますか? 私が挙げた条件は、五つの内のまだ四つ目までに留まっています。ここで、残っていた最後の条件が問題となってくるのです」
 リリアは、最後に残った小指を折り曲げると静かに告げた。
「五つ目の要件は、前回のように <時空跳躍> の気配を読み取って襲来してくる刺客を退ける力を有していることです」
 その言葉に、全員がハッと息を呑むのが分かった。
「そう。監視機構の刺客は、今度は更に強力になっているはずです。前回の < <JA> > は五騎。あれは、我々に対する単なる牽制でした。――お前たちは常に監視されている。実験ならこの程度だが、本当に時を越えようとすれば、その時は容赦はしない。監視機構にはその準備がある、とあれはそういう意思表示だったわけです。それを考慮した時、次回我々が <時空跳躍> の本番に挑むに当たって、監視機構が確実に前回以上の戦力を投入してくるであろうことは想像に難くありません」
「材料と時間さえあれば無尽蔵に投入できる <JA> は最低でも二、三倍。下手すりゃ一〇倍、二〇倍。当然、 <JA> よりも強力な使徒そのものもくるだろうな。これは少なくともピュセルを捕らえたという四騎は加わってくるから……」
 計算していくうち、額にみるみる汗が噴出して来るのを感じる。
「どう少なく見積もっても、鋼鉄の傀儡一〇体。そして、監視機構天使が四騎。総合的な戦力は前回の二〇倍近くになりますかな」
 エイモスが低い声で、そう言った。
 その眼光は、限りなく鋭く研ぎ澄まされてきている。

「使徒であろうが、 <JA> であろうが、普通なら私たちの敵ではありません。ですが、今回ばかりはそうもいかないのです」
 リリアは、そう言って僅かに俯いた。
「私は障壁を破るため、タブリスが先程言ったような準備に集中します。一瞬の攻撃に全ての力を集中する以上、無意識展開レヴェルの結界に回していた力さえも、これに使わざるを得ません」
「つまり、君は <時空跳躍> の際、完全な無防備状態に陥ると? 敵からの攻撃に防御手段を講じることも、微弱な防御結界さえも張れないような」
 リジュ卿の言葉にリリアは苦々しく頷いた。
「通常、私やタブリスのようなトップレヴェルの使徒は、天使の心臓ともいえる <コア> を、非常に強力な結界でコーティングして常に守っています。ですが、時空障壁を打ち破るだけの力を掻き集めるには、その結界に回していた力さえも利用しなければならないのです。つまりこの間も私は完全な無防備状態に陥ることになります」
「じゃあ、もしその時に使徒に攻撃されたりしたら……」
 クレスは蒼白になって言った。
「その時ばかりは、どうしようもありません。我々に、真の死が訪れることでしょう」
 そのリリアの言葉に、一同は身を強張らせた。
 混沌の時空障壁とは、魔皇カオスに目覚めつつあるこの死神にそこまでさせるほどに強力なものであったことを、ようやく思い知ったのである。
「彼女と同じような無防備状態に置かれるのは、実は僕も同じなんだ」
 悪戯を仕掛けたことを告白する子供のような表情で、タブリスは言った。
「ゲートの解放、跳躍対象の認識と誘導、座標設定、固定の作業は、どれもミスの許されない非常に繊細なものだ。全神経を集中して対さねばならない。外敵に備えた警戒態勢はもちろん、迎撃などは論外といった状態になる。次元封印はね、そもそも四三人もの人間を安全に時空跳躍させるなどというデリケートな作業の為に生み出されたものじゃないんだ。無茶をする分、このタブリスも危険を冒さざるを得ない」
「じゃあ、なにか? オレたちの主力であるリリアとタブリスは、全く戦力として勘定できないばかりか、 <コア> に一発入れられれば死んじまう状態にあるわけか」

「申し訳ありませんが、クレスの言った通りになります」
 リリアは心底すまなそうに言った。
「頼りになるのはオレが展開する <ATフィールド> だけ……しかし、敵に四騎以上の使徒が含まれると考えた時、とてもオレだけで防ぐことはできない。しかも、今回は恐らく二〇騎以上の <JA> がそれに加わる。奴等の放つエネルギー波は、天使の金色をある程度まで無効化することが明らかになっている。それが二〇本が一点突破を目指してきたら、とてもじゃないが」
 前髪を鷲掴みにして、クレスは言った。
「オレたちじゃ、第五の要件を満たしきれない」
「全員、現状を正しく認識していただけたようですね。時空障壁の存在は、作戦全体に渡って大きな影響を与えるということです。たとえこれを破る手段があったとしても、これに集中している隙に背後をとられてしまう様では、完全な策とは言えません」
 リリアは、室内に集った全員を見回しながら言った。
「この場を設けたのは、皆さんにこの状況を知っていただき知恵を拝借できないかと考えたからです。なんでも結構です。有効と思われる策を考え付かれた方は、私かタブリスに申し出て下さい」
 リリアのその言葉で、とりあえず会議は終了し、解散となった。
 だが、大広間から退出していく面々の足取りは一様に重々しいものであった。
 それも無理はなかろう。
 策とは言うが、一体そんな妙案がどこにあるというのだろう。
 ――ありはしなかった。


 アランソンの自然は、本当に素朴だ。
 心が休まる。
 間違いなくこの場所は、我が故郷なのだ。
 今、改めてそう思う。
「まことに……良い街だ」
 ひととき、監視機構も時空障壁の問題も忘れて感傷に浸る。
 バルコニーに出れば、心地良い風が吹いてくる。
 眼下には城下町が広がり――、
 空には星が出ていた。
 ――思えば閣下と初めて出会ったのも、
 この様な星降る夜でありましたな……。
 エイモス・クルトキュイスは傭兵だった。
 ただの傭兵ではない。
 当時、頻繁に発生していた要人暗殺事件。
 その裏で暗躍する、暗殺を専門とする孤高の傭兵。
 すなわち、暗殺者。
 それが、若き日のエイモスであった。
 ――一四〇七年一一月二三日
 王弟 <オルレアン公爵ルイ> 暗殺。
 フランス王国を震撼させ、現在の戦争の切っ掛けを作ったこの事件にも、エイモスは荷担していた。
 ある理想境をこの世に創り上げる為に。
 暗殺者たちを統べる者。
 その実体を知る者は極限られていたが、その理想だけは皆が理解していた。
 その理想とは、即ち <修羅の世界> 。
 戦いの支配する、破壊と混沌の世。その構築と実現である。
 人の本質は修羅。常に戦い続ける業を背負いし者。
 それが人であるが故に、彼らは秩序を破壊し――戦を導く行動に出た。その手はじめが、オルレアン公の暗殺である。
 当時、自分の命にすら、その存在意義を失っていたエイモスには……
 その死と隣り合わせの世界が、あたかも自分にとっての理想境のように見えていた。
 だから、彼はその世界を創り出す為に暗殺者となった。
 だが、そんな彼も生まれ落ちたその瞬間から傭兵であった訳ではない。
 いや、むしろかつて彼は、そんな暗殺者集団とは対極の位置にあった人間だった。
 エイモスは、永きに渡って続く戦争で滅びた、ある貴族の生き残りだった。
 たった一人の、生き残りだったのである。
 秩序と理性の崩壊した <戦争> という名の混乱の中で、彼はこの世の地獄を目撃した。
 虐殺と略奪。
 失われた故郷と一族。
 血と炎と、灰塵の大地。
 復讐を考える気力もなかった。
 ただ、戦争を生み出す本能を内包する人間と、その人間が形成する社会というものに対する絶望のみが、彼に残った。
 だから、全てを無くし、自らのその生に意義を見失った若き日の彼は、傭兵稼業へ身を落とした。
 一時も早い死を望んだからだ。
 常に殺るか殺られるか、そんな世界に生きる危険な兵士。
 最も死の確率の高いフィールド、即ち戦場。
 傭兵社会には、エイモスの求める死が最も身近にあった。
 そんな彼の元に、その任務が下されたのは一四一〇年のことだった。
 標的は、アランソン侯爵ジャン一世。
 目的は、暗殺。
 ジャン一世は、王家とも近しい血縁にあるアランソン候爵家の現当主。
 闘将と呼ばれ、兵法全般、剣の腕にも非常に優れた名立たる武将である。
 それに彼は非常な研究家としても知られていた。
 噂では、彼の居城には世界各国から集められたあらゆる種の研究書、学術書が蔵されているという。
 また、ジャン一世は非常に柔軟な思考の持ち主でもあり、その領内で非常に先進的なシステムを導入した善政を敷いているとの評判もあった。
 国家の腐敗が進行していた当時のフランスにとって、彼の存在は異常で異質すぎた。
 だからこそノルマンディ侵攻に際して、このアランソン侯一世の存在を恐れたイングランドの宰相は、このアランソン侯の抹殺を望んだのである。
 エイモスは、この任務をたったひとりで請け負った。
 聞けば、アランソン侯は月に二度ほど、護衛も着けず自分の街へ散策に出かけるらしい。
 何のためだかは知らないが……
 エイモスには、その情報だけで任務の達成を確信できるものだった。
 イスラムのアサシン(暗殺者)がそうするように、ショートソードに致死性の猛毒を塗り、日が落ちた後城に戻るアランソン侯を斬殺、もしくは刺殺する。
 エイモスの立てた暗殺計画は概要は、こうであった。
 剣が掠り、皮膚一枚分でも彼を切り裂くことさえ出来れば、任務は成功だ。
 剣に仕込んだ毒は、即効・致死性のまさに暗殺のためにあるような毒なのだ。
 しかも、解毒剤は巷には出回っていない。
「……易い仕事だ」
 エイモスは、そう考えていた。
 剣の腕には絶対の自信がある。
 本来、毒など用いずとも贅に肥えた貴族程度、一合で切り伏せられる。
  <闘将> だの <名将> だのは、誇張され肥大した噂や伝説に過ぎない。
 今までもそうだった。
 前々回の任務で消した、『雷帝』だとかいう大層な渾名を持っていた武将も然り。
 あの男でさえ自分の気配を察知することすらなく、死んでいった。
 騎士でありながら、命乞いをする者。
 金と引き換えに、命だけはと縋り付いてくる者。
 誇りも恥も捨てて、声を上げて泣き出す者。
 貴族も将軍も、皆クズのような人間ばかりだった。
 この世に、闘将などおらぬ。
 噂を呼ぶほどの傑物などおらぬ。
 皆、英雄を求める愚民どもと、それを利用する宮廷が作り上げた虚像なのだ。
 そんな者に、自分が遅れをとるはずもない。
 そう確信していたエイモスは、任務の成功を疑いもしなかった。
 ――そして、決行の時はやって来た。
 情報通り、夜闇に紛れてアランソン侯はノコノコと現れた。
 御忍びで城下町をうろつき回った、その帰りだ。
 護衛もいない。
 遠目には、帯剣すらしていない様に見える。
 場所も絶好だ。
 人気のない、小川にかかる橋の上。
 逃げ場も無ければ、民家も周囲には見当たらない。
「……一体、何を考えているのだ」
 彼は狂人なのか。
 そんな疑問さえ湧いてくる。
 護衛も付けずに、最高位の大貴族が街中をうろつくなど正気の沙汰ではない。
 政敵の放つ刺客に狙ってくれ、殺してくれと言っているようなものだ。
 では、何故彼はこんな無謀なまねをするのか。
 それは、エイモスが事前に収拾したアランソン侯についてのデータが語っていた。
 城の執務室で受け取る資料だけでは、街の実情を正しく知ることはできない。
 平民に紛れ平民の目線から街を己が目で見、己が耳で聞き、己が身で感じることでようやく真実の姿を知ることができる。
 それが、アランソン侯ジャンの思想であった。
 エイモスは、今まで多くの貴族を闇に葬って来た。
 任務の度に、その者に関する多くの情報を集めて来た。
 だが、この男のような標的は初めてだった。
  <貴族> といえば、権力と贅に堕落したゴミとして簡単に結論づけられたはずだ。
  <政> に関心を持つどころか、それに意義すら見出すことのない連中が全てだった。
 民から搾取し、ひたすらに権益の維持・拡大に走るのが支配者だったはずだ。
 が、その男は……なにか、根本的に違っているような気がした。
 護衛も付けず、みすぼらしい平民の服を纏い、街中をうろついて視察する領主などこれまで御目に掛かったことがない。
 真正の馬鹿か、或いは――
 だが、エイモスはそこで思考を遮った。
 これは任務である。
 それ以上でも以下でもない。
 ジャン・ダランソンを殺す。
 ただそれだけの為に、自分はここに存在する。
 仮に失敗したとしても、それでいい……。
 その時、ようやくオレは死ねるのだから。
 決意を新たにすると、エイモスは物陰から身を躍らせた。
 致死性の猛毒を塗った、黒い刀身のショートソードを音も無く抜く。
 そして、アランソン侯の背後に滑るような足取りで忍び寄っていった。
「ジャン・ダランソンだな……?」
 気配を完全に絶ったまま間合いに入り込むと、小さくそう囁きかけた。
 訊いたのではない。
 確認したのではない。
 それは、死の宣告だった。
 毒の刃が、闇に閃いた。
 ――ギンッ!
 エイモスは今、自分の目にしている光景を、俄かに信じることができなかった。
 驚愕。
 ただそれである。
 だが、電撃のように右腕に走る痺れは、紛れもなくそれが現実であることを語っていた。
 絶対の自信をもって放った、必殺の一撃が。
 猛毒の刃が、跳ね返されたのだ。
 背後を見せた、完全な無防備状態にある男に、跳ね返されたのだ。
「――?」
 どこにミスがあった?
 何故、気付かれた?
 この男は、暗殺者の存在を知っていたのか……?
「何奴か」
 身を強張らせるエイモスに、静かな誰何の声が掛かった。
 体の芯まで響き渡る、低く深みの在る声。
 エイモスの躰が、凍り付いたように動きを止めた。
「問うまでもないか……」
 アランソン侯は、軽く笑いながら言った。
 それがまた、若いエイモスを更に驚かせる。
「貴様……オレに気付いていたのか?」
 エイモスは、恐怖と驚愕に慄きながら言った。
 アランソン侯の右手には、何時の間に抜いたのか小さなナイフが握られていた。
 懐にでも隠してあったのだろう。
 あれで、猛毒の刃を弾き返したのだとすると――
 相手は、恐るべき手練ということになる。
「まあ、あれだけの熱視線で監視されておればな……。
 嫌でも気付く」
 アランソン侯は、自然体のままそう応えた。
 暗殺者と対峙しているというのに、全く緊張の色はない。
「残念ながら、此処は私の死に場所ではない。
 ……お前には気の毒だが、任務は失敗だ。立ち去るがいい」
「見逃すというか?」
 エイモスは、純粋に驚いた。
 普通なら憤りを感じるものではないのか、自分を殺そうとした男に。
「見逃す意外に、如何なして欲しいというのだ?」
 二四歳の若き侯爵は不思議そうに言った。
 別に遊んでいる様子はない。
 本気で疑問に思っているようだ。
「オレはお前を殺しに来た刺客ぞ! 何故捕らえぬ! 何故裁かぬ!」
 エイモスは、不意に得体の知れない激情に駆られ叫んだ。
 アランソン侯はその咆哮にも顔色ひとつ変えず、ただじっとエイモスを見詰めた。
 心の奥まで見透かすような、深い深い瞳。
 それが、エイモスの姿を静かに映し出す。
「……まるで殺して欲しいような言い様だな」
 僅かな沈黙のあと、彼はゆっくりと続けた。
「――刺客か。
 確かに、客観的に見ればお前は刺客。暗殺者なのかも知れぬな。
 ……が、私にはなかなかそうは見えぬ」
 その侯爵の言葉の意味が、エイモスには分からなかった。
 何を言っている、この男は。
 それが、彼の正直な感想であった。
「お前は私を殺すというよりは、自分を殺したがっているように見えるが。
 ……如何か?」
 その言葉に、エイモスは壮絶な衝撃を受けた。
 ――この男は、我が心の内を見抜く!
 確かにエイモスの望むものはただひとつ、己の死。
 暗殺を請け負う傭兵を続ける限り、いつか必ず死の瞬間は訪れる。
 ただ、それをひたすらに待つ。
 それが、今のエイモスの全てであった。
「他者を抹殺すると言うよりも、むしろ己の抹殺を望む人間。
 そのような輩に命を狙われたとあっては、怒りも湧いてこぬものだ。
 ……捕らえて裁こうにも、どうにも戸惑う相手よな」
「黙れッ!」
 はじめて見透かされた、胸の内。
 若きエイモスに動揺を隠すことは、できなかった。
 エイモスはそれでも動揺を誤魔化そうと怒鳴りを上げると、ショートソードをアランソン侯に突き出した。
 が、侯爵はそれを難なく躱す。
「死に場所を求めて戦場に挑む、か。
 意味が違えば或いはそれは幸せなことなのやも知れぬが……
 今のお前のような者にあっては、それは新たなる悲劇の生産にしかなるまい」
「黙れと言っている!」
 エイモスは、再び侯爵に切りかかった。
 しかし、今度もその刃が標的を仕留めることは無かった。
 それもそのはず、このアランソン侯ジャンという男――
 後にフランス最強の剣士として、 <剣匠> と呼ばれることになるリジュ伯カージェスが、師と仰いだ男なのだ。
「汝にひとつ問う。
 暗殺を専門とする傭兵の内ではその任務の性質上、上下の関係が絶対だと聞く。
 任務遂行のため上が自害せよと命ずれば、下の者は躊躇無く己の首を跳ねるとか」
 眉を微かにひそめると、僅かに間を置いて侯爵は言った。
「……お前もそうか? お前も、上の命令に妄信的に従う者か」
「頭は、我に道をくれた。死へと至る、修羅の道を! その頭に従うことに、何の疑問を持てという。人は、今その日を生きることで精一杯。それで丁度いいのだ。生きる為に戦場で戦い続ける。人の本質は闘争。修羅。故に、それを追求できる環境を世に作る。それが頭が理想とされる世界なのだ!」
 なまじ、秩序など作り上げるから。
 平和など、存在するから。
 だから、脆弱なその理想郷が崩壊したとき、人はあんなにも悲しまなくてはならない。いずれ大いなる崩壊と悲しみが生産される理想郷など、無かったほうが良かったのだ。
 なければよかったのだ。
 繰り出されるショート・ソード。
 嵐のような連続攻撃を候は躱し、受け流す。
 技量の差は明らかだった。
「それは本意か。お前はそれを本当に望んでいるのか? 自己欺瞞はやめろ、傭兵。崇拝など下らぬ。狂信になんの意味がある」
 襲い来るショートソードを踊るように避けながら、候は問いかける。
「崇拝は神に向けるもの。だが、それを向けたところで、人は一体何を学べるのだろう? 崇拝の感情を向けられた者は、その感情に一体何を学べるのだろう? 少なくとも、私の心は動かせぬ」
「黙れ。黙れッ」
「崇拝は、相手の全てを認めてしまう。無条件に、受け容れてしまう。もてはやされ、称えられ……だが、そんな感情ばかり向けられては、自分の欠点を知ることができなくなるのではないか?」
 アランソン侯は、目を細めながら尚も語る。
「貴方様は、素晴らしい。貴方様は、尊い。貴方様は、偉大だ。そんな評価で、人は自らを高められようか。時には至らぬ部分を指摘され、時には在り方を否定してくれるような、批判の声も必要なのではないか」
「何が言いたい?」
 エイモスは肩で息をしながら言った。
 アランソン侯の動きに付いていくので、精一杯。
 かつてない苦戦を強いられた状況下で、冷静さすら失ったエイモスの敗北は既に決していた。
「人と人との間に、崇拝も信仰も必要ないのだよ。人は永遠に神にはなれん。故に神に向けられるべき崇拝も無用。崇拝という名の感情が絡めば、人は双方伸びることがなくなる。大切なのは、互いに影響し合い、相互を成長させることができるような関係なのだ。必要なのは、人と人とで行われる補完なのだ」
 アランソン侯は、微かな笑みを浮かべながら言った。
「攻め合ってもいい。時に傷つけ合ってもいい。それが純粋なのだ。本物の絆なのだ……」
「……」
 エイモスは、遂に沈黙した。
「傭兵よ。お前はオレに学ぶ。オレはお前に学ぶ」
 侯爵は、静かに告げた。
「……それで、よいではないか」
 それは、なんという瞳だったのだろう。
 その時侯爵の黒い瞳に彩られていたその何かを、エイモスは未だに表現しきれない。
 優しさ? 慈愛? 共感? 赦し?
 確かにそうであって、そのどれとも少しずつ違うような気がする。
 あまりに深い瞳だった。
 ――この男は……
 違う……
 エイモスは、本能的に己の敗北を悟った。
 理屈や激情で心を偽っても、この男にはそれが尽く通用しない。
 心の壁が、この男には通用しないのだ。
 癪な話だが、自分の心の内にズカズカと勝手に入り込み、この男は隠していたものを無理に引き摺り出して目の前に付きつけて来た。
 本来、恨みにすら思って良いはずであるのに、今はなぜかそれが心地良い気もする。
 神は、何故にこうも残酷なのか。
 エイモスは、そう嘆かずにはいられない。
 唯一地獄に自分を取り残したあげく、死の機会すら奪い去り……
 何故に、こんな男を我が前に送り込む。
 何故、今更こんな男に出合うのだ、オレは。
 このオレに……
 神よ、こんなオレに、貴様は今更何を見せようというのだ。
 なぜ、もっと早くにこんな瞳を持つ男を、我が前に送り込んでくれなかった――
 なぜ、故郷が焼け落ちる前に――
 なぜ、なにゆえに――
 この男はこんなにも深い瞳をしているのだ。
 気付けば剣を落とし、大地に崩れ、
 エイモスは、泣いていた。
 おおォ……
「ウオォ……!」
「――お前は優しすぎる人間なのだ」
 侯爵は、吠えるように崩れたエイモスにポツリと言った。
「……オレのところに来ぬか、若き傭兵よ。
 お前を活かせる場所は、オレの国にしかない。
 だから、オレのところに来い」
 侯爵は自らも大地に片膝を落とすと、エイモスの肩に手を置いて続ける。
「……そして、お前は騎士になれ。
 お前は、修羅の道を歩み自らを殺そうとする程に繊細で優しい男だ。
 その資格は十分に在る。
 お前と同じような人間をもうこの世に生まぬ為にも、騎士となってみろ」
「オレが、騎士に……」
 幻聴を聞いたかのように、エイモスは掠れた声で繰り返した。
「そう。
 世には……お前のような人間にしか、救えぬ者が多くいる。
 お前は、心が打ち砕かれるほどの悲劇を知っている男だろう。
 そんなお前にしか見えない、お前だからこそ見える世界がある。
 王も、宰相も、教会も救えぬが、お前なら救える者がいるのだ。
 オレは、世界にその可能性を見た」
 あたりは、完全に夜の漆黒に包まれていた。
 空には星が煌きはじめている。
 侯爵は、その夜空を見上げた。
「――強者がいる。この世には、強者と呼ばれる者たちがいる。だが、彼らは真実の強者ではない。私はそう考えている」
 侯爵は、悲しそうに言った。
「彼らは自分達よりも弱い者を作り出し、相対的な力の差を認識することで『強者』となった、弱き者だ」
「では、真の強者とは何者か?」
 エイモスは、地に跪いたまま訊いた。
 なぜか、この男の考えを知り、それを心に刻みつけておかねばならない。
 今、そうしなければならないような……そんな気がしたからだ。
「自ら <弱者> であり続ける者だ。若き傭兵。真に強き者とは、己に対する <弱者> を作り出さぬ者だ」
「では、この視察は……」エイモスは、ハッと目を見開き呟いた。
「支配者である己が、民に対する <強者> とならぬためか?」
「……いや、そんな大層なものではない」侯爵は軽く首を傾げて言った。
 別に、それを理屈にして考えてみたことはないらしい。
 彼はただ、そうすべきと感情が判断したからそうしたまでだ。
「――ただ我々貴族というやつは、民の税で生かしてもらっているようなものだ。彼らが納めてくれる税で、我等は餓えずに済んでいるのだから。違うか?
 だから本来、貴族は生かしてもらっている側の人間なのだ。ならばその見返りとして、せめてもの善政を敷く。これが私のような支配者の、最低限の義務だと心得ている」
 星空から大地に崩れたエイモスに視線を戻すと、彼は言った。
 綺麗な微笑みを浮かべて、夢見るように言った。
「――私は、弱者の心をなくしたくない。たとえ、世界の覇王となろうとも、常に平民の価値観を持っていたい。そのほうがきっと、オレは満たされる。オレはそう確信しているのだ」
 力によって人が変わるのは、悲しいことだと侯爵は思う。
 強者になることで、弱者であったころの心を失ってしまう。力を手に入れることで、その力に溺れてしまう。
 たとえ世間に強者と呼ばれる者でも、力に飲まれてしまうような輩が強い人間であるとは決して言えない。侯爵はそう考えるからこそ、常に弱者に学び続ける。
 いつも、弱者の視線を失わぬよう己を戒める。
「いるもの……か……」その言葉に、エイモスは項垂れた。
「力に飲まれぬ者もやはりいるものか、この現実に」
 自分が、赤子のように思えた。
 目の前に佇むこの若き侯爵は、それ程までに強大なのだ。今まで出会ってきた、どんな人間とも似ていない。
「信じられぬ……」
「お前も、他人に『信じられぬ』と言われるような偉大な騎士になれる。
 だから、自らを抹殺しようなどと思うな」
「だが……オレにはもう、何もない。
 家族は皆、殺された。故郷は灰になった。
 残ったのは魂の抜け殻と、そして血に汚れたこの手だけだ」
 荒れ果てた自分の両手を視線の位置に掲げながら、エイモスは自嘲的に言った。
「オレがどのように生きようが、もはや如何でも良かろう。
 一日も早く、一時も早く消えるが世のため。
 オレの死を哀しむ者など、もうどこにもいはしないのだから……」
 囁くような小声で、エイモスはそう呟いた。
「――オレが歓ぼう」
 アランソン侯のその言葉に、エイモスは顔を上げた。
「お前の死を、オレが歓ぼう。
 ……それでは足りぬか」
「なに」
 エイモスは耳を疑った。
「歓ぶ? ……オレを愚弄しているのか」
「そのような意味ではない。
 お前がオレの元で生を送り、そして死ぬ時。
 その時がくれば、私の言葉の意味も理解できよう」
「……」
 エイモスは、もう何も言わなかった。
「今一度言う。
 お前はまだ、死ぬな。自らを殺そうなどと考えるな。
 捨てるつもりならその命、私に預けよ」
 アランソン侯は言った。
「強者は、勝利者となってはならない。
 負け続ける戦いを、挑み続けろ。
 そして、お前は、そのための兵士となれ。
 ――誰よりも強き、弱者となれ」
 エイモスは、侯爵のその真意を伺うべく、彼の瞳をまっすぐに見詰め返した。
 が、そこに彼が語る言葉以上の裏は見出されることは無かった。
「お前は……
 この戦争の中で故郷を焼かれ、家族を失った者の悲劇を――
 お前は、良く知っているはずであろう」
 その言葉に、エイモスの脳裏にあの光景が蘇る。
 焼け爛れた大地。
 崩れ落ちた廃虚の街。
 街道をドス黒く染める生臭い血と、悪臭を撒き散らしながら醜く腐敗していく屍の山。
 切り落とされた首を晒された父。
 拷問の末に、細切れにされた母。
 自らを犠牲にして、幼き自分を逃がしてくれた兄。
 全てが、一夜にして焼き尽くされそして灰になった。
 残ったのは、絶望と……
 もはや哀しみも怒りも感じることのできない、空虚に打ち捨てられた心。
 あの空しさは、一五年経った今でもまだ消えない。
「知っている……」
 突然襲い来る悲劇。
 そのあまりに不条理で大きすぎる波に飲み込まれ、消えていくもの。
 残されたものの、たとえようもない哀しみ。
「この世の誰より、知っている……!」
「ならば、オレと一緒に人類の新たなる歴史を作らないか。
 かつて人類が目指した、もう悲劇を生まない――
 そんな歴史ではなく、たとえ生まれてもそれを超えていけるだけの強き、新しき人類の歴史を」
 そこで言葉を切ると、侯爵はエイモスに合わせて着いていた膝を伸ばし、立ち上がった。
「我が名はアランソン侯ジャン。貴殿の名を窺いたい」
「エイモス……」
 エイモスは、涙を拳で拭いながら応えた。
「エイモス……クルトキュイス……」
「……エイモス、オレと来い。
 滅びたはずの楽園を、お前に見せてやろう」
「オレの命に、再び意味を見出せるというのなら……
 このエイモス・クルトキュイス、生涯この剣を貴方に捧げよう」
 遠くから、彼を呼ぶ声が聞こえてきた。
 城に戻らない主を探す幾つもの声が、聞こえてきた。
 ――衝撃的な出会いとは……
 あのようなことをいうのかも知れませぬな。閣下。
 自室のバルコニーの手すりに肘をかけ、エイモスは微笑んだ。
 ――貴方の言葉通り、私の命は救われた。
 貴方の国の中で、貴方の手の中で、私の命は再び意味を取り戻した。
 このアランソンの国で。
 考えてみれば……
 あの出会いはもう二二年も前の話になる。
「早いものだ」
 思わずエイモスは呟いた。
 色々なことがあったが故に、尚更あっという間に感じられる。
 光陰矢の如しとは、まさにこのことだ。
 自分を殺しに来た暗殺者を、自らの城に招いた前代未聞の男。
 アランソン侯爵ジャン一世。
 彼に連れられ、エイモスはアランソン城の正門を潜った。
 ただし、暗殺専門の傭兵としてではなく――
 アランソンの騎士見習いとして。
 ここから、彼の新たなる人生がはじまるのだ。
「ああ、帰っていらした……」
 城門を潜って庭園をしばらく歩いていると、遠くからそんな声が聞こえて来た。
 声の主は、なかなか城に戻らない侯爵を心配し、自らも外まで捜しに出ようとしていた女性だった。
 格好から察するに、かなり高位の貴婦人だろう。
 いや、よく見れば頭に略式の <冠> を頂いている。
 ということは……領主の一族か。
 目を凝らして彼女を観察した結果、エイモスが導いた結論である。
「一体どこに行ってらしたのです。とっても心配したのですよ」
 ゆっくりと距離を詰め、アランソン侯の前に辿り着くと彼女は言った。
 そこで初めて彼女の相貌が夜闇より照らし出され、浮き上がった。
 松明の明かりの下に姿を露わにした彼女は、エイモスがこれまで出会ったどんな女性よりも綺麗だった。
「いや、すまん。ミシェル。もう門限は破らないから許してくれ」
 そう言って、立腹しているらしい彼女にひたすらペコペコと謝っているのは、エイモスをここに連れて来た張本人、アランソン侯その人である。
 先程の剣豪と、とても同一人物とは思えぬ姿だ。
「いいえ。いくら謝っても駄目です。私は、泣いてしまうほど心配したのですから。ええ、実際泣きましたとも。ほら、涙の筋が残っているでしょう」
 謝るアランソン侯から、プイと顔を逸らしながら貴婦人は言った。
 どうやら、戻ると約束していた時間を大幅に破って帰宅した侯爵に、相当機嫌を悪くしているらしい。
 恐らく、暗殺者に襲われていた――などという事実は知らないのだろう。
「うむ。確かに見える」
 その言葉通り、彼女の頬に薄っすらと残る涙の筋を見出したアランソン侯は、深々と頷いた。
「もう!『うむ。確かに見える』ではありません。やはり、私との神聖な約束を反故にするようなあなたには、罰が必要ですね。よって、今日の夜のお食事は抜きです。いえ、三日間断食の刑です」
「なに! それはあまりに酷すぎはしないか、ミシェルくん?」
 アランソン侯は即座に抗議しだした。
 どうやら貴婦人の涙は、大貴族の食事三日分に相当するらしい。
 それが高いのか安いのかは、エイモスには分からなかった。
「いいえ、駄目です。
 私の涙は、それだけの価値があるのです。
 私に寂しい思いをさせた挙げ句、心配をかけてさめざめと泣かせたのです。
 よって、五日間断食の判決は覆ることはないのです」
「……ミシェル! いつの間にか刑期が二日増えているような気がするのは、私の気のせいか?  果たして、気のせいだろうか?」
 有罪を宣告するとさっさと帰って行こうとするミシェルという女性に、アランソン侯は縋り付く。
 ……本当に、この男は本当にさっきの男と同じ人物か?
 エイモスは、何度も目を擦ってみた。
「ええ、気のせいですとも」
 ミシェルは、無慈悲にそう突っぱねた。
 この城の主であるアランソン侯に、ああまで言いたい放題言えるのだ。
 恐らく彼女こそが、候の后であるのだろう。
 エイモスはそう考えることで、なんとか自分を納得させようと試みた。
「はぁ……」
 プンプンと怒ったまま城に帰っていく妻を見送り、アランソン侯は小さな溜め息を吐いた。
「酷いよ、ミシェルさん……」
 どうやら稀代の傑物である彼も、妻には全く頭が上がらないらしい。
 この時代、珍しいと云えば珍しい夫婦関係だ。
 実際、こんな変わった夫婦はエイモス自身はじめて見る。
 しかしそうなると、このアランソン最強は彼女か……。
 エイモスは、その事実を胸に刻み込んだ。
「ああ、すまぬ。見苦しい所を見せたな。
 あれは私の妻、ミシェル・マリー・ダランソンだ。
 普段は女神のように優しいのだが、怒らせるととても恐ろしい女性なのだ」
 照れ隠しだろうか、苦笑を浮かべながら侯爵は言った。
「では、我が城を案内しよう。着いてきてくれ、エイモス」
 エイモスは、その言葉に素直に従った。
 騎士としてこのアランソンに免れた以上、その領主である侯爵とは必然的に主従関係が成り立ってくる。
 そう自覚するからだ。
 周囲は、既に完全に夜闇に包まれていた。
 あちこちで焚かれる松明の明かりが、城の警護にあたる守備兵達の姿を闇に浮き上がらせる。
 侯爵は、寝ずの番を続けるのであろう彼らに親しげな笑顔を向けつつ、労いの言葉をかけていった。
 そんな彼に、衛兵達も心からの敬礼を返す。
「王様、今度はいつやりますか?」
「ん〜、そうだな。そのうちにな。
 ワインを持って、私の方からコッソリ訪れるとしよう。
 それまで、せいぜい腕を磨いておけい」
「なにをおっしゃいますか。
 このまえ負け込んで、身包み剥がされて泣いてたのは王様でしょう」
「……ええい、そんなことは忘れたわ!」
 エイモスは呆れた顔で、そのやり取りを聞いていた。
 どうやらこの男、一介の衛兵とカードゲームで遊んでいるらしい。
 とても一国の王がやることとは思えない。
 信じられないことに、アランソン侯は何十といる守備兵や従者の <顔> と <名前> を全て知っていた。
 いや、それだけではない。個々の能力や、人柄、個性、特徴。
 全てが侯爵の頭の中に入っているようだった。
 ただの雑用にでさえ廊下ですれ違うそばから、気さくに声をかけていく。
 この調子だと、恐らく城内に仕える数百の全ての人間と、彼は友人関係にあるのだろう。
 更に驚くべきことに、彼らの主従関係と言うものには、緊張感というものがまるでない。
 本当に、単なる友人関係のようなものであるらしいのだ。
 そして、そのことは侯爵自らが認めていた。
「主従関係とは、どうもこう……堅苦しくて好かん。
 それに、こっちが主人面していては、相手はなかなか心の内を見せてはくれぬものだ。
 私は命令するのも、されるのも気に入らん。
 それより、気さくに談笑できる友人関係の方が日々楽しかろう?」
 その言葉に、エイモスは改めてこの男の特異性を思い知った。
 アランソン城は広く、美しかった。
 石畳の状態や、装飾品、柱や壁の色などから察するに、城自体はできてそう時は経っていない様だ。
 一〇〇年以上の歴史を誇る……ということはまずあるまい。
「アランソンの爵位は、私の祖父代から受け継がれている。
 祖父、父と <アランソン伯爵> が続いてな。
  <アランソン侯爵> となったのは、五年前の私の代からだ」
 コツコツと長い廊下に足音を反響させながら、侯爵は言った。
 つまり、彼は上位第3位の <伯爵> であった位を、最上位の <侯爵> まで上げさせたということだ。
 これだけ見ても、彼の才覚の一端は窺える。
「それから妻のミシェルは、元はミシェル・マリー・ド・ブルターニュであってな。
 その名の示す通り、彼女はブルターニュ公爵の娘だったのだよ。
 それを私が嫁に貰ったのだ。
 素晴らしい女性だが、怒らせると非常に怖いので気を付けるように」
 そう言って、侯爵は豪快に笑った。
 が、すぐに真顔に戻る。
 彼女に、五日間の <断食> を命じられたことを思い出したのだろう。
 そして周囲に誰もいないことを確認すると、声を潜めてこんなことを言い出す。
「――ときに、エイモス。
 お前の分の食事、これから五日間こっそり私にも分けてくれんか?」
「……」
 エイモスは、呆れてものも言えなかった。
 これがアランソン候領を統べる支配者のセリフだろうか。
 ――それからしばらく歩くと、アランソン侯は立ち止まった。
 どうやら目的地に到着したらしい。
 彼は、エイモスに振返ると言った。
「……ここだ。この部屋をお前にやろう。
 今日からは、ここで寝起きするがいい」
 そう言って、侯爵は廊下に等間隔に並ぶ客室のドアのひとつを開いてみせた。
「さあ、遠慮することはない。ここはもう、お前の家なのだ」
 ――あれから、二二年。
 私は、ずっとこの部屋に居続ける。
 エイモスは、住み慣れた自室をバルコニーから振返った。
 質素で装飾の少ない、実用本位な部屋だ。
 室内を飾る調度品と言えば、候自らが描いた風景画くらいであろうか。
 あれは、あまりにも下手なので『絶対にいらない』とエイモスが拒絶するも、候に強引に押しつけられたものだ。
 それ以来、捨てると侯爵に怒られそうなので渋々飾っておいたのだが……
 今では、掛替えのない何より大切な思い出の品だ。
 当時、絵を無理矢理押し付けられた時の様子を思い出して、エイモスは微笑んだ。
『滅びたはずの楽園』か……。
 閣下からこの部屋を与えられたあの日から――
 故郷を失った私にとって、ここは新たな住いとなった。
 帰る場所となった。
 城の人間は気さくな連中ばかりで、直ぐに打ち解けた。
 エイモスさん、クルトキュイス殿と、出歩く度に声をかけられる。
 皆がにこやかに自分を受け容れてくれた。
 城に住まう者全員が、アランソン侯爵の元に集った一つの大家族を形成していたのだ。
 そして皆がそれを喜び、誇りに思っていた。
 私は……
 失ったはずの <家族> というものに、再び巡り会えた。
 私に、新しい家族が出来たのだ。
 あの時、あの方と出会った時から、私はアランソンのファミリーの一員だった。
 だから確かに――
 ここは、楽園であった。
 そして、これからもそう在り続けるであろう。
 永遠に。
 ――そして、若君。
 今ではもっとも大切な家族のひとりである貴方に……
 初めてお会いしたのは、その翌日のことでしたな。
 エイモスは目を柔らかく細めると、回想する。
「――おお、エイモス。ここにいたか。捜したぞ」
 初めてアランソン城で夜を明かしたその日の午後、城内を歩き回っている内に巨大な図書室を見つけ出したエイモスは、そこでしばらく時間を潰していた。
 そこは高大な空間だった。
 円形をした吹き抜け2階の図書室で、見渡す限り三六〇度書物の山だ。
 1階と、中2階の開けたスペースには、上等な木製のテーブルと椅子も設置されている。
 また、設備だけではなくその蔵書量も素晴らしいものがあった。
 アランソン侯が読書好きなのか、特に北欧、ローマ、イスラムあたりを中心とする、世界中から書物が集められている。
 宗教、思想、天文、数学、自然、イスラム医学、歴史、神話、伝説、古代文献。
 驚くべき事に、異端の禁書とされている <黒の魔術書> の類まである。
 とにかくその空間には、出所が怪しいものから、パリ大学の蔵書庫から盗んで来たとしか思えないような貴重な資料や古文書の写本などが所狭しと並んでいた。
 勿論、ルーン文字やイスラム独自の文字など、エイモスには解読できないものがほとんどだったが、なんとかラテン語に翻訳されたものや、フランス語の書物を見つけ出し、彼はその内の何冊かの本に目を通していた。
 そこに笑顔と共にやって来たのが、アランソン侯とその麗しの后ミシェル・マリーであった。
「閣下、私に何か」
 読みかけの本を閉じると、エイモスは椅子から立ち上がって彼らに会釈した。
「閣下とは堅苦しいな。
 ……まぁ、そんなことはどうでもいい。
 実はお前に、改めて私の家族を紹介しようと思ってな。
 ほらこの通り、ここに連れて来たのだよ」
 そう言って、アランソン侯は嬉しそうに微笑んだ。
「まず……だ。
 なんとこれが、私の長男。その名も『ピエール』だ。
 なんとも渋い名前だろう。私が三日間徹夜で考えたのだから、まあ当然だがな」
 そう言いながら、候は三歳になる長男の肩をポンポンと叩いた。
 ―― <ピエール> は、フランス中どこにでもいる。
 それどろか、 <ジャン> と並んで最もありふれた名前のひとつである。
 が、エイモスはあえて突っ込まないことにした。
「そして!
 ミシェルが抱いているこの赤子こそが、つい半月程前に生まれたての双子の兄妹『ジャン』と『マリー』だ。
 可愛かろう?可愛いな?可愛いよな?」
 そう言ってズイッと、ジャンとマリーを器用に抱くミシェルごとを見せびらかす候。
 やたらと嬉しそうだ。
 ――この方は、こういうキャラクターなのだろうか。
 初対面の時の印象があまりに強烈すぎて、エイモスはギャップに苦しむ。
 あの毅然とした、真の騎士としての姿。
 そして今ニコニコと楽しそうに笑う、父親としての姿。
 一体、どちからが本物のこの方の顔なのだろう。
「なに?
 ジャンとマリーがあまりにも可愛らしいので、是非抱いてみたい?
 ……ふ〜む、それはどうしたものかな」
 エイモスは何も言っていないというのに、なにやら勝手に会話を進めるだす候。
「本来なら、私とミシェル以外には抱かせてやらないという決まりなのだが……
 まあ、今日は良い天気であることだし、特別に抱かせてやろうではないか。
 だがいいか、今回だけ特別。――特別だぞ?」
 そう言うとミシェル妃の胸からヒョイとジャンを担ぎ上げ、アランソン侯はエイモスに差し出した。
「え……いや……」
 突然の展開に、エイモスは狼狽した。
 これまでの人生で、生まれて半月しか経っていないなどという赤子など見たことがない。
 ましてやそれを抱くなどと、どうしていいのか皆目見当も付かないのである。
 だが上機嫌で息子を差し出す候を見れば、どうも断る気にもなれない。
 困り果てた表情で、エイモスは候と眠る赤子の顔を交互に見交わす。
「ん、どうした?」
 なかなか手を出さないエイモスに、アランソン侯は怪訝な顔をする。
「いや、その……」ひたすら困るエイモス。
 幾人もの人間を殺めてきた自分だ。一度は修羅道に墜ちた自分だ。血で汚れ尽くした自分だ。
 こんな、柔かに眠る美しい赤子を抱くことなど、果たして許されるのだろうか。
 限りなく純粋な、この小さな命に触れる資格などあるのだろうか。
 すると、そんなエイモスの思考を読んだかのようにアランソン侯が言った。
「……案ずるな、エイモス。赤子に限界などない。学ばねばならないことが、知らねばならぬことが世界に溢れているからな」
 そして、小さなジャンに慈しむような視線を投げ掛けながら続けた。
「全てをゼロから学ぶ故に、赤子は何も拒まぬ。世界を在るがままに、全てを受け容れる。故に傷つきやすくはあるがな。
 お前はやり直すのであろう? 新たなる道を、歩むのであろう? ならば、この子を傷つけることもあるまい。赤子は、これからのお前を見る。お前の歩む後ろ姿を見続ける。そしてそれが、この子にとってのお前の全てとなる。この子は、過去を責めたりせぬよ。それどころか、新しき命は他者の過ちと罪を全て赦した存在なのだ。お前はもう、この子に赦されている」
「……もう赦されている?」
「そうだ」エイモスの呟くような声に、候は力強く頷いた。
 そして再びジャンをエイモスに差し出す。何かに導かれるように、エイモスはそれを受け取った。
「……」エイモスは驚いた。
 腕に抱いた赤子は、くすぐったいようなミルクの香りがした。そして――
「あたたかいだろう。あたたかくて、やわらかかろう。小さな命だが、間違いなく生きているのだからな」
 目を見開いて赤子を抱いた心地に驚くエイモスに、アランソン侯は言った。
「見ろ、エイモス。この小さなゆび。可愛らしいではないか。とても小さいではないか。だがな、こんなに小さいにも関わらず、なんと律義に爪までが完備されているのだ! どうだ、エイモス。驚いたか? 驚いたな?
 ……こうして見ると、神とは小さな細工が余程得意らしいな。そう思わんか、エイモスよ」
 なにやら嬉しそうにアランソン侯は言った。
 はしゃいでいるようにも見える。とにかく上機嫌だ。
「――と言うわけで、今日からこのピエールとジャン、マリーの世話はお前に任せる」
 その言葉はあまりに唐突だった。あまりにもさり気なかった。
 だから、エイモスの脳に染み渡るまでに、幾分時間を要した。
「……なッ?」
 そしてその言葉の意味をようやく認識した途端、エイモスは絶句した。
 昨日知り合ったばかりの、  しかも自分を殺そうとした暗殺者に、生まれたばかりの赤子と幼い息子を預けるか?
「正気ですか?」
 というより、何が『――と言うわけで、』なんだ?
「無論だ。私はいつ如何なる時も正気を失わぬ」
「し、しかし! 后様も、それで構わぬのですか?」
 アランソン侯には常識は通じないと悟ったエイモスは、矛先をミシェルに転じた。
 彼女なら止めてくれるかもしれない。が――
「ええ。この人が信じたのですから、私も貴方を信じましょう。エイモスといいましたか。ピエールとジャン、それからマリーを宜しくお願いしますね」
 と、予想を裏切る完璧な微笑とともにミシェル后妃は言った。
 もはや声も出ない。
 ――おかしい。この夫婦は、絶対にどこかがおかしい。何かを著しく間違えている。
 エイモスは確信した。変人はアランソン侯だけかと思っていたが、なんとこの品の良い貴婦人までもが、普通とは違い過ぎる精神構造をしている。夫婦揃って、どうしようもなくおかしいのだ。この二人は。
「というわけで、頼んだぞ」
 ぽんっとエイモスの肩を叩き爽やかにそう告げると、アランソン侯は妻の腰に手を回し、彼女とふたり仲良く図書室の出口に向かった。エイモスをひとり残したまま。
 それがあまりにも自然で颯爽とした行動だったので、危うくそのまま見送りかけたエイモスだったが、ハッと我に返ると慌てて彼らを呼び止めた。
 何故なら、今尚彼は生後6ヵ月の赤ん坊を抱いたままであるし、下半身を見れば三歳のピエールが自分のズボンをシッカリと握り締めている。
 おまけに、傍らのテーブルにはジャンの双子の妹マリーが置去りにされている。
 ――このパターンは、ヤバイ。危険だ。彼は直感したという。
 今まで殺し屋一本で生きて来たエイモスだ。
 子供と共に取り残されるのは、ある意味拷問に近かった。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ!」
「ん、どうした、エイモス」エイモスの叫びに、アランソン侯は振返る。
 そしてすぐに手をポンと打つと、言った。
「……ああ、そうか。いや、流石の私もお前にそこまでは求めんよ。というより、もしお前が出せたのなら――私はお前を斬らねばなるまい。妖魔の退治は、騎士の務めであるが故に」
「は?」突然に意味不明な事を言い出した侯爵に、エイモスは思わず首を捻った。
「いや、だから母乳であろう? その角張った顔はどう見ても男そのものだ。お前から母乳が出ないことくらいは、朴念仁と言われる私でも流石に分かる。と言うより、お前が出すことは許さんし、出たところで絶対飲ませるな。
 ……ミルクに関してだけは、侍女にでも言いつけるがいい。乳母が何人かいるからな。彼女たちを紹介してくれるだろう。或いは、この私のミシェルに頼め」
 そう言いたいだけ言うと、もはや用は済んだと言わんばかりに侯爵は再び踵を返した。
「い、いや、そのようなことではなく……!」
「――エイモス」侯爵は、振返らず背中のまま応えた。
 あの時の、はじめてエイモスとまみえた時の、その声で。
「生を受けこの世に生まれ出でた赤子は、何も知らぬ。全ては学ぶべきもので構成された世界に生きる。  ――対して、我々大人という奴は違う」
「……」
 相変わらず、侯爵が言わんとすることをエイモスは理解しきれなかった。
 が、それでも黙って話に耳を傾ける。それほどに、この男の一言は何故だかエイモスの心に響く。
「我々はある程度の時をこの世界で過ごし、赤子より多くの物事を知り、経験している。だから、赤子に物を教える立場にある存在なのだろう。……が、それだけではないのだ」
 侯爵は振返ると、エイモスと視線を真っ直ぐに合わせて言った。
「本来、 <学ぶべき者> 、 <学ぶ一方の者> と考えがちな赤子であるが……
 その小さな命との触れ合いは、我々 <教える者> にも多くのことを学ばせてくれる。いや、或いは我々大人の方が、赤子により多くの事を教えられるのかもしれぬ。
 言ったであろう。――汝は我に学ぶ。我は汝に学ぶ。
 それは、如何なる関係であっても変わらぬものだ。互いに学び合い、教え合い、伸ばし合う。そこに……そこにこそ、真の絆は生まれるのだよ」
「……」
 お前はオレに学ぶ。オレはお前に学ぶ。それで良いではないか。
 確かに、その言葉にエイモスは何かを感じ取った。
 アランソン侯のその言葉に、心を動かされた。
「お前は、その子達との触れ合いの中で人として最も重要なものを知り、学び取ることとなるやもしれぬ。オレはそう思っているのだよ。そして、そうなることを大いに期待している」
 ――人として最も重要なもの
 あの時、閣下はそうおっしゃられた。
 愚かにも、私はあの時その言葉の意味を理解することが出来なかった。
 だが、若君。貴方と共に過ごした時の中で、私はそれを理解できるようになりはじめたのです。
 そして、貴方は――幼い日の貴方は、閣下の求めたそれを、自らの言葉でこう表現された。
 全てを凌駕するもの、と。
 貴方様がはじめてその言葉を自ら口にされた時、不覚にもこのエイモス、涙を流しました。
 嗚呼、この方はお父上の意志を継いでいなさる。
 この方は、亡きジャン一世の魂を受け継いでいなさる。
 そう、確信できたから。それに、なによりの歓びを感じたからに御座いまする。  ――一四一五年
 閣下は、旅立たれた。
 ミシェル様や、まだ幼き若君、そしてこのエイモスを残して。
 ――今度の戦は……拙い。騎士道精神を否定するかのような、イングランドの長弓。
 あれを防ぐことは、今のフランスには出来まいよ。
 恐らく、アザンクールにおいて、フランスは歴史に残る大敗を経験することとなろう。
 オレも色々と宮廷に進言して、どうにかその未来を回避できるように努力はしてみたが……
 宮廷にオレの言葉を正しく理解できる人間などいないのが現状だ。
 ――では……!
 ――うむ。この戦、間違いなく負ける。恐らく全滅だろうな。
 そうなると、オレも無事でいられるとは考えない方が良さそうだ。普通にいけば戦死、よくて捕虜。どの道アランソンには、五年は戻れまい。だから、エイモス。お前は此処に残ってくれ。
 ――何故でありますか? 私もお供させて下さい! そのための私でありましょう?
 閣下を死なせなどさせませぬ。一命に代えてもお守りいたします!
 ――愚か者。お前まで死んでどうする。無論、私も死ぬ気など更々ない。
 私にはミシェルも子供も、まだ作りかけの街もある。
 特にミシェル……彼女を残して死ねようはずもない。彼女は弱いのだ。私を失ってしまえば、どうなるか分からぬ。だから、殺されても死ぬわけにはいかんのだよ。
 ――ならば、尚更!
 ――いや、お前は残れ。案ずるな。なんとか早めに投降して、捕虜で済むようにやってみるさ。
 だが、そうなれば身の代金として、莫大な財を失うことになる。街は再び荒れ、私不在の間アランソンは極度の混乱状態に陥るだろう。その間、この国を支えられるのはお前しかいない。
 だから、頼む。お前は、オレが戻るまでの間アランソンとオレの家族を守ってくれ。
 こんなことを頼めるのは、エイモス。お前しかおらぬのだ。
 ――閣下……。
 ――頼んだぞ、エイモス。
 心配ない。オレとて、死ぬのは大いに嫌だ。死にはせんよ。
 帰ったらまたミシェルを抱きしめて、接吻をねだるという野望もある。
 それから、もう二〜三人子供を作るつもりもあるしな。
 だから、エイモス。そう世界が終わったような顔をするな。第一お前、この顔が死の運命にある男の顔に見えるか?
 ……それが、閣下と最後に交わした言葉だった。
 アザンクールの会戦は、閣下が予測されていた通り、フランスの大敗に終わった。
 騎士道にのっとり正面から突撃するフランス騎士隊に対し、イングランドは新兵器『長弓』を放ち、遠距離からこれを壊滅させた。
 結果、フランス軍は壊滅。
フランスの主な貴族や武将は、そのほとんどが殺されるか、あるいは捕虜として囚われた。
 全てが、閣下の予測通りになった。
「我はアランソン侯ジャン一世。イングランド国王ヘンリー5世に降服を申し入れる!」
 アザンクールの会戦を生き残った兵士によれば、それが閣下の最期の言葉であったと言う。
 聞くところによると、閣下は最終的に二〇人を上回る敵兵に包囲されたそうだ。そこで閣下は、降服を宣言なされた。が、一瞬早くイングランド兵たちは、閣下を斬り捨てたという。
 主を失ったアランソンは荒れた。
 これも、閣下が予め予測されていた通りだった。
 閣下の戦死に次ぎ、長男のピエール殿下までもが病死。悲嘆に暮れるミシェル様と卑小なる私に、崩壊の流れを食い止めることはできなかった。
 加えて伝染病の流行、傭兵くずれの野盗の襲撃。失われる秩序と、執政官たちの腐敗と汚職。
 閣下の手により、理想境として半ばまで完成されつつあったアランソンは、瞬く間に混沌の廃都と化していった。
 そんな中、空位となったアランソンの爵位を継いだのは、五歳になる次男のジャン殿下であった。
 混迷を極める中の、アランソン侯ジャン二世の誕生。だが、本人にそんな自覚があるはずもない。
 若君は、お父上との永久の別れに日々を泣き暮らした。
 それを責めることができる人間は、私も含めいるはずもなかった。
 閣下の抜けた穴は、誰も埋めることなどできないほどに、あまりにも大きすぎた。
 アランソンは終わった。このエイモスを含め、誰もがそう思った。
 ……だが、アランソンは滅びなかった。
 双子の妹、マリー姫に苛められては泣いてばかりいた、気弱で大人しい若君。
 剣の稽古をサボっては、図書室に篭り本を読み漁っていた若君。
 音楽が大好きで、よくミシェル様とそれは楽しげに歌っていた若君。
 繊細で泣き虫で、傷つきやすく感じやすい少年。そんな若君が、突然に変わられたのだ。
 後に御本人が語られたところによると、ミシェル様のある姿を偶然に目撃されたことがその切っ掛けであったそうだ。
 閣下の死後、ミシェル様は気丈に振る舞われ、他人の前では表情を曇らせることすらなかった。
 閣下に代わり政を引き継ぎ、まだ幼いお子様たちの世話もきちんと見られた。
 が、閣下の言う通り、ミシェル様はそんなに強い方ではなかった。
 自分達の前では微笑みを絶やすことのない母君が、誰もおらぬ場所でひとりひっそりと涙を流すその姿に、幼いながらも若君は何かを感じ取ったのだろう。
 まだ五つだったあの方は、ある時私にこう申された。
「……エイモス。父上みたいに強くなれる方法を、僕に教えて」
 剣も。政も。全部、教えて。僕、一生懸命がんばるから。もう、ないたりしないから――
 その時、その瞬間から、私と若君の新たなる夢は走りはじめた。
 ――なあ、エイモス……。
 誰もが皆、幸せに生きられる社会などあると思うか?
 争いごとのない、永遠の平和などありえると思うか?
 哀しみも痛みも憎しみもない世界など、実現すると思うか?
 私は思わない。人には、その本性の一部として狂気があり、破壊への羨望があり、殺戮の欲求があり、痛みがある。それを拒み、否定し、消し去ろうというのは、人間という自己の否定に他ならない。
 狂気あり、破壊あり、殺戮あり、痛みあるからこそ人間であり、それを超越してしまっては人間はその存在意義を失う。
 だから、戦争があってもいい。平和でなくてもいい。
 哀しみがに溢れ、痛みに満ち、憎しみの支配する世界でもいい。――いいのだ。
 だが、環境や世界や社会がどうであれ、それに責任を求めず、その中でもあくまで人間として生きていけるそんな可能性はあるように思えるのだ。
 今はまだ幼さが残るかも知れぬが、そんな『覚醒』は、理想でも夢でもない。
 オレは、そう思っているのだよ。
 閣下が。アランソン侯ジャンが。あの偉大な男が目指した、楽園を――
 滅びたはずの楽園を、今一度我等の手で。
 教育係と、幼き子供から、同じ夢に向かう同志へと、全ては変わっていった。
 全てははじまろうとしていた。  あの若君が、自ら幼さと甘えを捨てその道を選ばれたのだ。
 このエイモスが、それを支えぬわけには――断じていかなかった。
 閣下を剣術の師と仰いでいたリジュ卿も、我等に共鳴された。
『……エイモス。父上みたいに強くなれる方法を、僕に教えて』
 全ては終わったと、絶望しかけていた私を、たった五つの君主が、開眼させてくださった。
 このエイモスを、リジュ卿をたった一つの言葉であの方は動かしたのだ。
 やはり、この幼き少年はジャン・ダランソンなのだ。
 私たちはそう確信した。そして、私たちはこの男に自らの夢を見出すようになった。
 リジュ卿は若君に剣術を、馬術を、兵法を叩き込んだ。
 私は閣下の続けてきた政について、知ること全てを若君に教えた。
 涙は流すが、決して声を上げることはなく、若君はその訓練に堪え忍んだ。
 そして若君……。
 成長した貴方は、完成間近まで進みながら閣下の死と共に崩壊したアランソンの街を再建していかれた。
アランソン侯ジャンの名を継ぐ者として。アランソン侯ジャン二世として。
 そして、アランソンは蘇った。長い長い日々の中で、貴方は遂に成し遂げた。
 閣下が目指した、アランソンの街を、貴方はその手で完成させたのです。
 ――町を見るがいい。
 若君の名を知らぬ者は、誰もおらぬ。
 若君の存在を、誇りに思わぬ者は誰ひとりおらぬ。
 ピュセル殿、貴女もその目で見られたでありましょう。若君の我が子の名を授かり、歓喜する町人の姿を。あの方を心からの笑顔で迎え、周囲に群がってゆく民の姿を。
 それは、滅びたはずの楽園をあの方が自らの手で、民と共に再建していったことを、皆が知っているからなのです。
 野盗に襲われて壊れた家屋。秩序の崩壊と共に、荒れ果てた町並み。
 焼けて崩れ落ちた街を、あの方は一から蘇らせていった。
 人手不足の職人達の代わりに働く男たちの間で、自らも上半身裸になって一緒に孤児院を建てた。
 木材を担ぎ上げ、領主自らの手で釘を打つ。そんな姿を、町人達は一〇年もの間ずっと見守り続けて来た。
 だからこそ、皆に伝わった。だかろこそ、皆が知っているのです。
 貴方が、あのジャン・ダランソンと同じ魂を持つ男であると。
 貴方が、自分達の希望を残らず預けて良い男であると。
 そして、私はそんな若君を守り続けると誓った。
 人である意味を、その生き様を以って自らこのエイモスに与えて下さった――
 ジャン・ダランソンという名の男たちのために。同じ時代の中に出会い、同じ夢を追った男の為に。
 エイモス・クルトキュイスは、彼らの盾となり、剣となる。
 私はそうこの命に誓ったのだ。いや、私だけではない。
 閣下や若君の生き様に心を動かされた、多くの若者達がこの地にやって来た。
 そして、私と心を同じくする39の男たちが集い、ロンギヌス隊は生まれた。
 それは、 <崇拝> からなるものでも、 <狂信> からなるものでもなくて。
 家族が互いを……そう補完し合うような、もっと素朴で、人らしい感情から繋がる一個の兵士。
 その関係は <主従> ではなく、 <友人> 。繋ぐものは <忠誠> ではなく、 <絆> 。
そんな我々だからこそ、自らの道を信じて進むことができる。
 ――閣下。ロンギヌスの魂を、どうか見届けてやって下さい。
 エイモスは、決意を固めた。
 たとえ死に別たれようが、時空に別たれようが、ロンギヌス隊とジャン・ダランソンたちは、常に繋がっている。
 いつも、同じ夢を追い求めている。
 だから、どんな結果に終わろうとも――悔いはない。そう、信じたから。
 だからもう、エイモスに迷いはなかった。
 ――だから、エイモス。オレにはな、ひとつ夢というやつがあるのだ。
 それは、言わば <人類の覚醒> 。
 対面や保身を捨てて、ただその瞬間に全て賭けることができるような……
 そんな新たなる人類への覚醒だ。
 オレの生き方で、世界ではなく、人類を変えたい。
 賢政などいらぬ。システムや環境や、社会などある程度どうでもよいのだ。
 ただ、どんな劣悪な世界環境の中でも、それでも明日は変えられると、きっと未来は変えられると、そう心から信じ、自ら剣を持って戦うことを知らない人間すらも動かすそんな大いなる意志の力。
 我々がこのまま敗北するわけはない。何故なら、我等は人類であるから。
 そう、全ての人間達が言えるような……
 そんな希望ある人間達の生きる、厳しい世界。
 オレは、そんな人類を創りたい。





CHAPTER・118
『エイモスの提案』


 涙が、見える。
 紫色の海に浮かび上がる、限りなく透明に近い涙。
 その涙たちがクリスタルのようなグラスのなかで、軽やかに踊る。
 それだけでも、これが最高に近い品質を誇っていることが分かる。
 タブリスは自室の長椅子に深く腰を落としたまま、軽く回したグラスを唇に傾けた。
 口付けを終えたかのように、小さく漏れる吐息。
 彼は無言のまま、グラスを傍らのトレイに置いた。
 そして長椅子に躰を埋め込むように、体重をかけると顎を上げて天井を仰ぐ。
 ――此処に来て、よもやこれ程の難題に突き当たろうとは。
 勿論、その脳裏を占めるのは時空障壁という名の厚く高い壁だ。
 ――この中世には無限といえるほどの時間がある。
 だが、新世紀はそうはいかないサタナエルが動きはじめてから、既に二週間。
 エンディミオンも降下した。リヴァイアサンも地球での活動をはじめている。
 彼らからこの二週間で受けた打撃は、大きい。
 しかもGOD試作型は、 <ウルド> <スクルド> 二機とも大破。
 二号機 <ヴェルダンディ> は、ネバダのアメリカ支部と共に消滅。第三新東京市は半壊。
 その上、サタナエルは一週間後に三〇〇騎のエンディミオンを地球に追加降下させると、予告した。
その護衛として付けられるのは、恐らくサタナエル第2のガード――竜王ビ'エモス。
 更にリヴァイアサンは、レヴィテスと云う名の女に化け、神よりの親善大使として潜在的な十字軍を懐柔・扇動し、次々と蜂起させている。
 エンディミオンの追加降下の予告は、向こうの思惑通り人類にプレッシャーを与えた。
 タブリスは、目を閉じると眉を露骨にしかめた。
 世界は既に大パニックだ。恐ろしいまでの混乱状態に陥っている。
 国によっては、各地で既に戦争がはじまっている程だ。
 おまけに、シンジ君は完全に内に閉じこもってしまって、今じゃヘルが表に出ている。
 ヘルがアランソン候のブレインとして機能しているときの方が、戦力としては強大というのもまた皮肉な話だが。
 どちらにしても、現状は極めて厳しい。
 サタナエル、リヴァイアサン、ビ'エモス。
 それに加えて、大量生産が開始されている巨神エンディミオン。
 武装蜂起する十字軍。時間は……ない。
 このままいけば、予測よりも早い時機に <監視機構> は動くかもしれない。
 そう。エンシェント・エンジェルが、この世界に降臨するのだ。
 最低でも、その時点には向こう側に渡っておかなくてはならない。
 少なくとも、せめてリリア・シグルドリーヴァだけでも送り届けなければ……
 ヘルとサタナエルだけでは、勝率はゼロに近い。
 魔皇三体だけは、揃えなくては。
「だが、どうする……タブリス」
 ――ひとつだけ、策があるにはある。
 これを使えば、確実かつ安全に時空跳躍を成功させられるだろう。だが、これは奥の手だ。ジョーカー中のジョーカーと言ってもいい。
 しかも、ここで使ってしまっては、本来使うべき時に全く役に立たなくなるばかりか、将来的に自らを窮地に追いやることになる危険性も高い。
 使えば今を切り抜けられるが、次にやってくるハードルを、自らの手で高めてしまうことになる。
 それは、あまりに拙い。
「監視機構はあれ以来、常に僕らを監視しているに違いない。恐らく、死神が <混沌> の溜めに入った時点で動き出す。相手の隙を突いて、時空を跳躍するのは限りなく不可能に近い」
 タブリスは右手を、額の上に叩くように被せた。
 八方塞だ。状況はあまりにも厳しい。
「混沌の時空障壁か……。厄介なものを作り上げてくれたものだ、大天使達も。きっと彼らは何年もかけて、しかも四人掛かりであれを築き上げたんだ」
 エンシェント・エンジェルが総力を上げて作り上げた障壁を、リリア・シグルドリーヴァひとりで切り崩せというのがそもそも無茶な話だ。
 だが、彼女がそれをやって見せると保証してくれたからには、彼女にこれ以上の負担をかけたくない……。
 やはり、この窮地を切り抜ける一案を捻り出すのは、自分の役割なのだ。
 タブリスは、そう考えていた。
「だが……どうすればいい……」
 ふたたび思考はそこに帰って来る。メビウスのように、ループを繰り返し脱することはできないのか。
今回ばかりは、そんな不吉な考えすら脳裏を過る。
 と、不意にドアが控えめにノックされた。
 もう深夜を超えて、どちらかと言えば明朝に近い時分だ。
 思考に没頭していたタブリスは、最初それを空耳かとも思った。
 が、コンコンと再びノックの音が聞こえてくる。
「どうぞ。鍵はかけていない」
 こんな夜更けに何者だろうか。考えられるのは、人間社会の常識が欠落している死神か、あるいはリジュ伯カージェスか。そんなものだろう。
「失礼致します」
 だが、予想に反して、ドアの向こうから現れたのは、意外にもロンギヌス隊の長老格、エイモス・クルトキュイスであった。
「夜分申し訳在りませぬ、元帥閣下。どうしても御相談したいことがありまして。閣下のことでありますから、この時分にでもまだ起きていらっしゃるだろうと」
 眠らない男として、リッシュモン元帥は結構有名だった。皆が一晩眠っているうちに、彼ひとりで信じられないような激務を完了させていた……という事例が多々あるからだ。
「時間のことならいいよ。あまり拘らない主義だし。実際、君の読み通り僕はまだ就寝していなかったわけだしね。丁度、考えるのにも疲れたから、気分転換でもしようと思っていたところなんだ」
 深夜の訪問に萎縮するエイモスに対し、タブリスは笑顔で応えた。
「それより、貴方ほどの方がわざわざ出向いて来るんだ。なにか、重要な話なるのでしょう。
 そんなドアのところに突っ立ってないで、こっちに来てかけられるといい。こんなに離れていたんじゃ、声も届かない」
「はっ。それではお言葉に甘えまして、失礼させていただきます」
 エイモスは硬い表情で部屋を横切ると、タブリスの向いのソファに腰を落とした。
「……それで、話とはなんでしょう。クルトキュイス卿」
 タブリスは、エイモスにもワインをすすめながら訊いた。
 幾度か戦場で作戦を共にすることで、エイモスをはじめアランソンの人間達の性格を彼は良く知ることとなった。
 当然、エイモスが礼儀を心得た人間であることも知っている。だからこそ、その彼がこんな夜更けに訪ねてくるとは余程のことに違いないという推論にも行き着くわけだ。
「そんなに大した事ではないのですが……。話は、今日の会議の議題となったことです。
 そのことについて私からひとつ提案と言いますか、お願いのようなものがございまして」
 エイモスは普段となんら変わりのない声で、本当に大した事ではないのですが、と付け加えた。
 そして、自らの提案とやらを静かに語り出す。
 だが、その話を聞くにつれタブリスの顔色は急速に変化していった。
「反対だ! 無茶にも程がある。以前少し触れたはず。人間のそれは、天使のそれに比較してあまりに弱い」
「……」
 珍しく感情を露わにするタブリスだったが、対するエイモスは至って冷静であった。
 いつもとはまるで反対の構図である。
「簡単に見えたかもしれないが、あれにはとてつもないエネルギーが必要となる。天使と人間のそれとでは、大まかな分類上は同じものでも厳密には質が異なってくるんだ。あの時クレス・シグルドリーヴァが注ぎ込んだ分でも、それは十分使徒のレヴェル。それに、僕が外側から支えていたこともあるんだ。
 完全に僕の制御下から離れた状態で、しかも人間のみの手であれを顕現させようなど……
 正気の沙汰じゃない。無茶な相談だよ。即死だ」
「はい。恐らくそうではなかろうかとは思っておりました。
 無論、それが人間を超えたレヴェルでの話であることは、あの <JA> とやらとの戦闘を間近に見ることで認識したつもりです」
 エイモスは一言一言を噛み締めるように、ゆっくりと言った。
「ならば何故そのようなことを」信じられないという表情で、タブリスは訊いた。
 実際、人間が考えることはいつも突飛だ。使徒の感覚や感性からはちょっと及びつかないことを、平気で考え出す。
「あの時の閣下の説明をお聞きしまして、これが論理的に可能であると考えたからです」
 エイモスは淀み無く応えた。だがタブリスは切って捨てるように、素早くそれを否定した。
「無理だ。いや、無茶だよ。何度も言うようだけどね。確かに論理的には可能だ。実行しようとすれば、不可能じゃない。机上ではそう言える。……だが、それでも我々に十分なだけの時間を稼ぐことはできない」
 タブリスは、ワイングラスを傾け舌を湿らせると続けた。
「――僕も興味を持って、ちょっとした気まぐれのつもりで計算してみたことがある。
 いいかい、クルトキュイス卿。貴公の望む力の顕現の為には、人間が通常生み出せるだけのエネルギーではとても足りない。だから力を十分な形で生み出すには、人間の持つ力を瞬間的に全て引き出すしかない。そのために、まず魂を臨界発動フル・ドライヴ……いや、超臨界発動オーヴァ・ドライヴさせ、暴走を引き起こす。  そして、そこで生み出される全生命エネルギーを一気に注ぎ込む必要があるんだ。
 そうすることで、確かに人間の持つ力だけでも、それなりの <もの> を作り上げることができるだろう。だが、たとえそれを実現したにしても、二つの大きな問題が生じてくるのを忘れてはならない」
「……それは?」
 エイモスはある程度その『問題』とやらを予測していたが、確認の意味も込めて訊いた。
 それに対して、タブリスは即答を返す。
「ひとつ。力を維持できる時間が、極めて短いこと。ざっと計算してみても、平均的な人間の魂で形を保てる時間はコンマ3桁を割る。いや、それ以下だ。これでは、花火にもならない。攻撃はおろか、牽制にも役に立たないだろう。
 ふたつ。魂をオーヴァ・ドライヴさせると、後に必ず『崩壊』に至るということ。
 魂からたとえ瞬間的にでも、その許容限界を超えるエネルギーを爆発的に引き出す為、魂に歪が生じ崩壊を起こすんだ。
 正確には魂と融合している、 <ルシュフェル・コア> の欠片となるか。まぁ、この際どちらでもいい。とにかく、その数千、数万分の一秒程度の時間のために、人間は必ず死を迎えることになる。……こんな無意味なことはない」
「我々は平均的な人間ではありませぬ。命と魂を限界まで燃焼させることのできる者。騎士であります。
 死を躊躇わず、恐れず、信念に全てを賭けることができる者にございますれば、並みの人間には実現できぬ領域で、その力を練り出すことも可能でございましょう」
 エイモスは、あくまで譲らない。珍しく強弁に、タブリスに詰め寄る。その目には、揺るぎ無き決意が見て取れた。
「確かに君たちの意志は強い。並みの人間は一秒にも遠く及ばないだろうが、君たちほどの男なら、あるいは数秒ほどにまで時間を引き延ばせるかもしれない。だが――」
 エイモスの提案は、タブリスとしては到底受け容れることのできないものであった。
 なにより、そんなことをして未来に渡ったとして、あのアランソン侯がそれに耐えられるかどうか。

「剣と引き換えに、君たちは確実に死ぬよ?」
 脅すように、タブリスは言った。あまりにもリスクが大きすぎる。
 成功しても、誰かが必ず死ぬ。失敗すれば、全滅。簡単に認められる話ではない。
「それは分かりませぬ。このような試みは、史上初めてでありましょう。何かの間違いで、生き延びることも可能であるやも知れませぬ」
 エイモスは、短くそう応えた。
 タブリスをしても、もう彼を動かすことはできまい。そう思わせる、強い意志のこもった口調だ。
「閣下。今、我等の若君に必要なのは、剣です。共に強大な敵と戦い、そしてあの方の力となれる剣です。我等ロンギヌス隊は、同じ夢を追う者として若君を支えるを至上とします。
 我等は戦友であり、家族であり、同志であるのです。私個人にしてみれば、あの方は我が子も同然。
我が子が命を賭して未来の為に戦うとあれば、それを全力でサポートするのは親の務めでありましょう」
「しかし……」
 なおも渋るタブリスの言葉を遮るように、エイモスは続けた。
「アランソン侯の為に命を投げ出し、あの方を守ろうとする者なら我等ロンギヌスの他にもおりましょう。ですが、それでは足りぬのです。どんな苦難も乗り切り、生きて、生き抜いて、常にあの方の側で戦い続ける。
 今、若君に必要なのはそんな死を超越した兵士なのです。我々は死ぬ為に戦うのではありません。死んでも死なぬ兵士が、今、あの方には必要なのです」
「聞き及んでいるよ。君たちのその思想はね。
 アランソンのロンギヌス隊が、如何なる戦場においても一人の死者も出さず、必ず全員揃って生還するという伝説を作り上げていることは、僕も確かに知っている」
 ロンギヌスのそのジンクスは、確かに伝説にもなりつつある。
 これまで、全滅に近い被害を被った戦場においても、彼らは鬼神のような働きを見せ、必ずアランソン侯を守り、そして自らも生き延びてみせた。
「だから、卿が安いヒロイズムの為にこの提案をしたのでないことも分かる。だが、それでもあまりにリスクが大きすぎる。確実な死が目の前にあるというのに、みすみすそれに突撃させるわけには……」
「では、一体他にどのような策があるというのですか、閣下!」
 エイモスは、目の前の卓に拳を叩き付けながら言った。
「やらせて下さい! 不可能であるならまだしも、このプランは実行可能なのです。
 必ず守ってみせます! 必ず、防ぎきってみせます! ここで退いては、問題の解決にならないばかりか、騎士として失格です。いえ、人間としても。我々にチャンスを下さい! 閣下!」
「……」
 タブリスは、エイモスと睨み合うように沈黙した。
 もう夜が明けようとしている。その静けさの中で、彼らふたりの間では凄まじい気迫が交差されていた。
「ひとつだけ、訊かせて欲しい」しばらくして、タブリスは小さく言った。
「……それは、君たち40の総意なのか?」
「いえ」エイモスは静かに首を左右した。
「これは、あくまで、私個人の提案でしかありません。ですが、ロンギヌス隊全員が必ずや私に同調してくれると、私は確信しております」
「……分かった」
 しばしの沈黙の後、決心したようにタブリスは頷いた。
「この話は、僕のほかには?」
「閣下にはじめてお話します」
 エイモスは、一瞬たりともタブリスから視線を外すことのないまま応えた。
「――そうか。事が事だけに、内密に運ぼうと思う。協力を得る為に、リリア・シグルドリーヴァには話すが、それは構わないね?」
「はっ。閣下にお任せします」
「では、二週間……いや、一週間だけ時間をくれ。君のプランにそったプログラムを組み上げるのに、多分それくらいの時間が掛かる。それだけ貰えれば、彼女に協力してもらって四〇人分は揃えられるだろう」
「では……?」
「――ああ。君の熱意には負けた。僕の命を、君たちの魂にかけよう」
 夜明けも近いその時間、エイモスとタブリス以外にもまだ眠りに就いていない者たちがいた。
 リリア・シグルドリーヴァと、クレス・シグルドリーヴァである。
 アランソンに逗留している間、彼らにはそれぞれ個室が与えられていた。
 婚姻に近い意志は交わし合っているものの、二人はまだ正式な婚儀を挙げていない。
 それゆえ、一般的には他人。よくて恋人、婚約者同士としか扱われない。
 だが、そんなことで二人の別室を容認するクレスではない。就寝の際はクレスがリリアの部屋を訪れることで、寝床を共にすることにしていたのである。
 リリアは別としても、クレスは傭兵などやってはいるもののそれでもシグルズ伯の長男。立派な貴族の出である。彼らに与えられた客室も当然それに見合う立派なものであった為、二人して同じ寝台に寝ることも余裕でできた。
「流石につかれた……」
 まだ少し早い呼吸を整えながら、クレスは言った。
 ちょっと気だるそうなのは、言葉通り本当に疲れているからだろう。
 彼の細身ながらもよく鍛えられた白い裸体には、全身汗が滲んでいた。
「そうですか」
 彼の左胸に頭をチョコンと乗せる様にして寄り添うリリアは、対して呼吸も乱さず、汗も流してはいない。いつもと変わらぬ口調で、言った。
「……タフだな、リリアは。本当に」半ば呆れながら、クレスは言った。
 彼女の体力は底無しか。そう言えば、彼女が息を弾ませていることなどほとんど見たことがない。
「それにしても、クレス。凄く汗をかいていますよ?」
 クレスは、戦闘時意外はあえて人間として躰を機能させるようにしている。だから、リリアやタブリスと違って呼吸も必要だし、食事も排泄もする。当然、体力を消耗すれば体温が上がるし、呼吸も荒くなる。汗もかく。
 まだ彼ら上級使徒のように意識のスイッチひとつで、一瞬にして原子配列を変換させ、人間から使徒へ、使徒から人間へと躰を造りかえるなどという芸当は可能でないのだ。
「ああ、だろうな……」クレスは他人事のように言った。
 今日はシャルロットとの一件もあり、無性にリリアに縋り付いていたかったのだ。
 ある意味、シャルロット程魅力的な女性を、無碍にふってしまったのである。
 罪悪感と、それでも譲れないリリアへの思慕の念が、彼をいつもより感情的にさせた。
 ある意味、シャルロットを傷つけたことによって受けた痛みを、彼女に慰めてもらいたかったのだろう。
 そして、そのクレスの願いは結果的に叶えられたようだ。
 リリアは、やはりクレスを受け容れてくれたし、優しかった。
 クレスは、それがとても嬉しかった。
「……ちょっと、水を浴びてくるよ。沐浴場で」
 クレスはベッドから上半身を起こしながら言った。
 勿論、リリアの頭を落とさない様にゆっくりとだ。
「リリアをオレの汗なんかで汚したくない。せっかく綺麗なリリアの躰に、失礼だ」
「私は別に構いませんが」
 リリアは失ったクレスの代わりに、その頭を枕に置きながら言った。
「……オレが構う。親しい中だからこそ、払っておきたい礼儀があるんだ。オレはそれを怠って、リリアに捨てられたくない」
 本来、彼女のその身体には例えが本人が許してくれようとも、自分など触れることは許されないのではないか。クレスは、時々そんなふうに思う。
 まして、毎夜彼女を異性のそれとして認識し、その対象として触れるなど、冒涜にも等しいとんでもない行為だと、不意にそんなことを考えてしまうのだ。
「私にはそんな人間的な感傷はありませんよ」
 心配性が過ぎるクレスに、思わず苦笑しながらリリアは言った。
 まるで子供だ。時に頭にくるほどに子供だ。
「そうかもしれないが、これはオレの気持ちの問題なんでね」
 そう言われると、リリアはもうクレスに何も言わなかった。
 律義で頑固な男なのだ、彼は。それを、もう五年になる付き合いの中でリリアは学んでいた。
「ではその間、私はシーツをかえておきましょう」
 クレスは普段は身につけない長衣を身に纏うと、着替えを持った。
 そして「頼む」とリリアに一言告げると、そのままドアを開けて廊下へ出た。
 ――どうも、オレは女性の身体というものに、なにか強迫観念のようなものを抱いているらしい。
 クレスは、自己をそう分析していた。
 神聖視し畏れているのか、あるいは、恐怖しているのか。それとも、女性の肉体的な弱さに同情しているのか。奪われる対象であり続けたその存在に、情けをかけているのか。
 傭兵をしていた間も、彼は一度も女を襲わなかった。
 自衛の為に女を殺すことはあっても、力で女の身体を奪うことは絶対にしなかった。
 その欲求はあったのに、そうしたいと思ったことは何度もあるのに、だ。
 何故だろうか。
 多分、原因があるはずだ。そうクレスは思っている。
 トラウマ――と言うにはちょっと違うだろうが、なにか自分に罪悪感を抱かせる出来事が過去にあったのだろう。
 それはモラルや倫理観、正義感からくるものではなく、もっと別のものなのだろうということは、なんとなく分かっている。
 だが、それがなんなのか、クレスには思い当たらなかった。
 そんなことを考えているうちに、クレスは自分が帰り道を歩いていることに気付いた。
 気がつけば、何故か自分はもう身を清め終えている。
 汗は完全に洗い流され、その水滴はタオルで拭われ、そして着替えも完了させて部屋に戻る途中。
 なんと、思考に没頭している間、無意識の内にそれだけの時間と作業が流れていったらしい。
 ――オレは、バカなのかもしれない。
 なぜか、クレスはそう思った。
 城の中庭に面した眺めの良いその通路に、奇妙な人影を見出したのは次の瞬間だった。
 ――刺客か?
 一瞬、クレスは戦慄した。そして、油断して武器を持ってこなかったことを後悔する。
 が、すぐにそれが刺客ではありえないことに気付いた。
 人影からは天使の波動を感じないし、シルエットからして <JA> でもない。
 相手がもし人間の暗殺者かなにかなら、武器など無くても倒せる。
 少なくとも、命の心配はいらないということだ。
 クレスは一応緊張を保ちながらも、自らそのシルエットに近付いていった。
 やがて、微かに明るくなりかけた周囲に、その男の相貌が明らかとなる。彼は刺客などではなかった。
「……クルトキュイス卿」クレスは、呟くように言った。
 通路の手すりに肘をかけ、手入れの行き届いた中庭をぼんやりと見詰めていたのは、他ならぬエイモス・クルトキュイスであった。
「おお、これは……シグルドリーヴァ殿」
 何やら考えことでもしていたのか、声をかけられてようやくクレスの存在に気付いたらしいエイモスは、振り向くと驚いたように言った。
「こんな夜更けに、奇遇ですな」
「え……まあ、そうですね」
 何故、こんな時間にエイモスがこんな場所にいるのか、怪訝に思いながらもクレスは頷いてみせた。
「丁度良い。実は、最後に貴方と是非ゆっくり話しをしてみたいと思っておりまして」
 口髭を揺らしながら、エイモスは笑った。
「夜が明けるのを、ここでボンヤリと待っておったのです。リッシュモン元帥とは違って、貴方はすでに眠っておられると思っておりましたから」
「はあ……」エイモスの意外な言葉に、クレスはただ呆然とそう返した。
「若君が言っておられたのです。『みんな僕の事を繊細だとか賢いとかいうけど、クレスさん程じゃないよ。あの人は、僕なんかよりもずっと繊細で、頭のいい人だ』とね」
「アランソン侯が?」
 クレスは一瞬、なぜアランソン侯がそんなことを言ったのか、まったく分からなかった。
 彼にそんな大層な評価をさせるようなことを、自分はした覚えがない。
「ええ。あの方の人を見る目は確かです。ですから、是非とも貴方と話しをしてみたいと兼ねがね思っておったのです」
 エイモスは、にこやかに微笑みながら言った。
 エイモス老なんて呼ばれてはいるが、まだまだこの男は若い。50前後ではなかっただろうか。
 平均年齢の若いロンギヌス隊にあってはたしかに長老的存在なのであろうが、気力・体力ともに申し分ない。第一線で十分活躍の期待できる、本物の騎士である。
 クレスは、少なくとも彼をそう評価していた。
「それで、オレに話っていうのは?」
「いやいや、そんなに大層なものではありませぬ。ただ、シグルドリーヴァ殿のものの考え方とでもいいますかな。それを色々と聞いてみたかっただけです」
「はぁ」クレスはとりあえず、適当に頷いてみせた。
「しかし、『色々』とただ漠然と言われても……それでは何を話していいのかわからない」
「――そうですな。では、この戦については? ピュセル殿の死を以ってすら、未だ終わらないこの戦争を如何見られますか」
「……戦争は終わらない、それは予測していたさ」
 クレスは少し考えながらといった感じで、言った。
「国民はもう <戦争>というものに疲れている。フランス宮廷も大方はそうだ。
 平和を望む気運は高まっている。それだけは確かだろう。だが、それだけでは戦争はなくならない。

 既得権を捨てる気のない支配者。そして、平和を勝ち取る為に自ら剣を取って戦おうという強さを持てない民。この二つの要素が改善され、人類がもうワンステップ上の進化の段階まで昇っていかないことには、たとえのこの百年戦争は終結したとしても、この世から戦争が無くなることはないだろう」
「ほう……」エイモスは、内心驚いていた。
 このクレス・シグルドリーヴァという者、ただ偉大なる死神の後ろを付いて回り、甘い汁を啜ることだけを考えている男なのではなどと危惧していたのだが――どうやら、その認識は改めなくてはならないようだ。
 ズバリと核心に触れてくるあたり、ただの傭兵風情とは違う。
 考えてみれば、クレス・シグルドリーヴァはあの死神が認めた男なのだ。
 彼女は英邁だ。その彼女が選んだ男ならば、それなりの人間だと考えてもおかしくはない。
 そんなエイモスの胸の内など知らないまま、クレスは続ける。
 面倒だからあまり下らない話はしたがらない男なのだが、こういう意義のある会話には意外に積極的なのである。
「オレも含めて、人間ってのは自分の人生や日常生活に不満があると、すぐにそれを社会や環境のせいにしたがるっていう悪癖がある。そして、その社会環境の改善を為政者達に求めるんだ。
 自分の人生を充実させる為に、自ら動こうとは最後の最後の瞬間まで考えない。
 なにかと言うと支配者のせい、社会のせい、執政官のせいだ。国の頭が腐ってるってのは、その国の民が腐ってるってことなんだろう。
 もっとも、これは本来、支配階級にある伯爵家出身のオレが言っても説得力をもたない言葉なんだろうが、――事実は事実だ」
「戦争の根本的な原因は、変わられない人間の体質にあると?」
「戦争には元々なんの責任もないさ。ナイフと同じだ。ナイフは色々役に立つ文明の利器だ。使い様によっては、確かに武器にもなるけれどね。
 だが、たとえそれが人殺しに使われようとも、その責任はナイフにはない。
 使った奴が、それを人殺しの道具にしてしまうだけのこと。だから当然、問題はナイフを人殺しの道具として使った人間の側にある。簡単な話だ。
 戦争もまた、それ自体にはなんの問題もない。
 問題は、その戦争という形でしか己の内の『負』の衝動を顕現できない人類の内面にこそあるのだろう。
簡単に言えば、ナイフが人殺しに使われるからって、ナイフの売買を禁じるのが今の人間のやり方。  ナイフにその罪と罰を擦り付けている。だけど、それじゃ変わらないって事さ。
 人はまたナイフに変わる何かで、罪を犯す。本当に必要なのは、ナイフの販売や存在そのものをシステムや法で規制することではなく、ナイフを持ってもそれを武器や兵器として使うことのない、強い精神を育てるという思想と運動なんだ」
 エイモスは、何故アランソン侯ほどの男が、このクレス・シグルドリーヴァに関心を抱いたかが、なんとなく分かったような気がしていた。
 この男は、どうやら物事の本質を見抜く目が卓越して優れているようだ。
 悟りを開きやすい体質というか、難しい論理の構築など煩雑な作業は素通りして、問題を見た瞬間、人間としての直感ですぐに解答に辿り着ける男だ。
『問題』→『式』→『解答』、この3段階の『式』の部分がスッパリ省略されている。
『問題』からいきなり『解答』を示してみせるものだから、他人には余計にこの男は頭が良く見え易くなる。反面、大抵の人間はこの男の言葉や思想を理解できないのだ。
 誰も理解できないものだから、余計に彼は孤独になる。
 だからこの男はいつも独りで、もの悲しい表情をしているのだ。
 アランソン侯のような感受性の豊かな人間には、その表情がなにか特別なもののように思えてくる。
リリア・シグルドリーヴァのような感情の無かった死神を引き付けたのも、あるいはこの孤独と馴れ合った彼が持つ、悲壮感のようなものなのかもしれない。
 ――損な男だ、と思う。
 もう少し器用であったなら、あるいは <賢者>と呼ばれるに相応しい人間になれるやもしれないものを。
だがそうなるには、この男はあまりに不器用なのだ。
「だから、オレはロンギヌスの連中が好きだよ。尊敬できると思っている」
 エイモスの思考を余所に、クレスは話を続ける。
「ロンギヌスの魂には、勇気がある。強くて健全な精神がある。間違っていると感じたら、それを自らの手で正そうという行動力と勇気。それがあるってのは、本当に凄いことだ。
 対して、オレにはそれがない。怠惰でグウタラで。しかも臆病者だ。なるべく楽に、なるべく適当に、そんな事しか考えてない。……面倒が嫌いなんだな。
 あまりにゴロゴロしていい加減に生きてるから、いつもリリアに叱られる。
『なにやってるんですか、あなたは。ほら、はやく仕事を片付けて下さい。
 でないと、もう一緒に寝てあげませんよ』……ってな感じで」
 恥を晒すような話に我ながら苦笑しつつ、クレスは言葉をそこで一旦切った。
「――なるほど」多少呆れながらも、エイモスは相槌をうった。
 まったく違うタイプでありながら、死神とこの男の仲が上手くいっているのはそのせいなのだろう。
それはどことなく母子の関係にも似ているような気がした。
 あるいは、姉弟でもいい。合理的で強大な力を持つ出来の良い『姉』と、意味不明で適当な出来の悪い『弟』。姉は、隙さえあらば何かと怠けようとする弟を監視し、背中を押す。
 弟は大好きな姉に嫌われたくないから、叱られれば仕方なく真面目に行動する。
 その結果、実は弟は持てる力を一二〇%引き出すことができる。
 頑張った後、姉にもらえる御褒美と誉め言葉が、彼にはなによりの幸福の元なのだ。
 姉は姉で、そんな怪しくも不出来な弟の存在が、可愛くて仕方がないのだろう。
 彼との生活はかなり疲れるし、たまにかなり鬱陶しく感じることもあるだろうが。
 それでも、飼い主にピットリと付いてくる小犬のように、無邪気に姉を想う弟の存在が悔しいけれど姉にはとても可愛らしく見える。
「――だから、オレは考え方を変えた」クレスは、唐突にポツリとそう呟いた。
「考え方を……?」怪訝に思って、エイモスは訊いた。
「そう。オレも最初は、気に入らないこの世界や社会を変えてやろうかと思った。だけど、それは正しくない」
 クレスはゆっくりと歩を進めて、通路の手すりに背中からもたれかかった。
 庭園に面したそこからは、首を伸ばせば満天の星空を見上げることができる。
 東の方は、朝日が顔を出そうとしているのか、微かに明るくなってきているような気がした。
「一部の人間が社会を改善する為に戦い、それで世界を良くしたところでそれがどうなる?
 確かに理想的な社会が出来上がるかもしれないが、それを形成する弱くて怠惰で、勇気もない腐った民は結局変わることはない。
 彼らは労することもなく理想の社会を享受し、のうのうと生きる。自ら戦い、勝ち取ったわけでもない社会の中で当然のような面をして生きるんだ。感謝するにしても最初だけ。甘い暮らしの中で、すぐに感謝の心は薄れていく。

 ……人間が幼いまま、弱いまま、社会を改善したところで意味がない。
 理想的なシステム、偉大なる賢政。そんなものを完成させたとしても、人間に力が無くてはいずれ歪みが生じ、崩壊に至るさ。
 優れた社会や、完成されたシステムは、いわば一際切れ味に優れた上等のナイフだ。扱う人間しだいで、それは一際切れ味に優れた人殺しの道具ともなる。問題は人間。人間の本質。人間そのものなんだ。
だから、たとえそれが神の作ったような素晴らしい社会だとしても、一部の人間によって作られてものでは、それに意味はない。

 オレがジーザスが嫌いなのは、それだからだ。
 救世主だかなんだか知らないが、人類にそんなものは必要ねぇ。一人の優れた英雄や救世主が自らの命と引き換えに……なんて美しい話と共に作り上げた社会なんて、意味がないんだ。
 世界は、その大地に生きる全ての人間達の意志と行動によって動かさなければならない。
 一部の英雄や勇者達によって作られるべきではないんだ。全世界の人間達の総意で、世界は変わらなきゃならない。
 たとえそれが誤った方向でもいい。人はそこから、過ちを学べる。
 そして少しずつでも軌道修正しながら、あるべき方向へ進むさ。――それが、人類の真の進化なのだろう」
 かつて、その <人類の進化>を自らの夢に重ねた男がいた。
 エイモス・クルトキュイスは、誰よりその男を知っている。
 エイモスは、その男の背中を絶えず見守って来たからだ。
「二二年前……」
 あまりにも時代の先を走り過ぎた男。
 早く生まれ過ぎたがあまり、時代に認められなかった男。
「ある男は、今の貴方と同じようなことを私に語った。その男は、貴方の言う人類の進化を『人類の覚醒』と呼んだ」
 男の名は、ジャン・ダランソン。
 エイモス・クルトキュイスの、永久の盟友である。
「人類の覚醒、か。……なんか、そっちの言い方の方が格好良いな」
 クレスは、なにやら思案しながら言った。
「ま、オレの場合は『人類の総意』じゃないからってことを言訳にして、ただ社会を改善していこうという運動をサボろうとしてるだけかもしれないけどな。さっきも言ったように、オレは怠惰で口で言うだけの男だから」
「フフ……自分を良く理解していらっしゃる」
 自分の欠点を簡単に晒してみせるあたり、なかなかに面白い。
 これをなかなか口にしたがらない頑固者も、世の中にはいるものだ。
「いや、リリアのおかげですよ。あの人を見てると、自分がどれだけ適当で口先だけの情けない人間か良く分かる。それに、彼女はオレの欠点や弱点を澄ました顔でビシビシ指摘してくるからな。
 ……まったく、遠慮ってもんを知らない」
 クレスは唇を尖らせて、文句を言う。
 そんな子供のような仕種が、またエイモスには面白い。
「とにかく、オレは決めたんだ。もう社会なんざどうでもいい。平和だろうと、戦争が起きていようと。どんな社会だろうと、どんな地獄のような世界だろうと、オレはオレの世界だけは守ってみせる。
オレはオレとリリアの幸福だけは絶対に守り抜く。
 環境や世界は関係ねえんだ。小さな奴と言われたこともあるが、別にいい。家族という最小の社会を守り抜く。
 クレス・シグルドリーヴァにとっては、それが至上。地球人類よりも家族の方が重いんだ。あくまで目先の小さな世界に拘って見せるさ」
 クレスは、その若さ故に感情的に熱くなってきた自分に気づいたのか、そこで一端言葉を切った。
 そして幾分でも落ち着きを取り戻そうと、声の調子を若干落として続けた。
「……オレは自分の世界のための戦いには、命を賭けても良いと思っている。
 いや、賭ける。そして、勝つ。しかも生き残る。そして、リリアと添い遂げる。
 毎日、優しくて心地いいリリアの隣で今日を閉じる。
 以上がオレの戦争であり、これ意外にオレの戦争はない。オレの剣は、オレの気に入った人間の為だけにあるのであって、世界なんざ関係ねえ。社会運動や世界平和の為に命を投げ出すのはまっぴらゴメンだな」
「フ……」エイモスは、遂にそれを堪えきれなくなった。
 小刻みに肩を振るわせるその波は、やがて大きく全身に伝っていく。
「愉快。いや、実に愉快! このエイモス、久方ぶりに愉快な気分になれましたぞ」
 黒い口髭を震わせながら、エイモスは豪快に笑った。
「シグルドリーヴァ殿、あなたはまさに傭兵に相応しい。正直に人間らしい。
 貴族である貴方が、傭兵として生き、その極みに辿り着かれるとは実に愉快ですな」
「そんなに面白いですかね」
 エイモスがなにを笑っているのかは分からないが、クレスは悪い気はしなかった。
「貴方は、真にあの方を……リリア・シグルドリーヴァという女性を、死ぬほどに愛しているのですな」
「ああ」クレスは珍しく満面の笑みを浮かべてみせた。
 子供が夢を語るような、無邪気な迷いのない笑みだ。
「オレは、もう壊滅的にリリアが好きだ。もう五年も一緒にいるのに、あの娘の顔を思い浮かべただけで、何時も胸がドキドキする。なんかこう、訳も無く燃えてくるんだよな。その存在そのものに」
 クレスは、嘆息する。
「――リリア・シグルドリーヴァ。あいつは、とんでもねぇバケモンだぜ。なんか間違えてる存在だ。殺人的だ。だから、好きなんだ」
 さっきから、この男がなにを言っているのかさっぱり理解不能である。
 だが、想いというか感情はストレートに伝わってくる。
 若さもあるのだろうが、それ以上のものも確実に含まれている。
 若さを失った今もまだ命を賭けられる夢をもつエイモスには、その熱さが理解できた。
 それに、言葉の意味が理解不能。あるいは、それで正しいのかもしれない。
 きっと、言葉で表現できるような簡単で小さな想いではないから、聞いたところで意味が分からないだけだろうから。しかし、それもやはり若さ、なのだろう。
 夢は、いつも男を子供にする。夢は、若さ。そして武器だ。
 だから、そこにエネルギーがある。
「なるほど、若君の人を見る目は確かであったようですな。貴方は誰よりも賢者に近い存在でありながら、その根本があまりにも単純だ。まるで、子供のように自分勝手で我が侭である」
「あ、なんか似たようなことをリリアに言われたことがあるな、そう言えば。良くも悪くも子供のようだ、手がかかってならない。時々、なにか与かった幼児の面倒を見ているような錯覚に襲われるって」
 クレスは頭をかきながら言った。
「あれは、どういう意味なんだろう」
 エイモスはそんなクレスを、楽しげな薄い笑みと共に見つめていた。
「貴方は、あの方にどこか似ておられる。若君が貴方に関心を抱いたのも、あの方に似た貴方に不思議な懐かしさを感じたからかも知れませぬな」
「えっ?」アランソン候ジャンに似た男。
 そんな人間は、現れるはずもないと思っていたが、どことなくそのイメージがダブる。面白い話だ。
「フム。貴方になら、託せそうですな。若君は、真に良い仲間を作られた」
 エイモスは呟くように言った。
 その目はどこか遠くを見詰めているようで、クレスはその言葉の真意を訊くことができなかった。
 クレスは父親の存在を知らないが――
 ただ、父親というものが子を想う時、もしかしたらこんな目をするのかもしれない。
 そう、思った。





CHAPTER・119
『ロンギヌスの魂』


 ――一週間後
「……で、こんな山の中に皆を集めて何をするつもりだ」
 憮然とした表情で、クレスは言った。
 例の会議から一週間後。
 ろくな説明もないままに、突如リリアに連れ出される形で田舎の山中までの長旅を強いられたクレスは、実に不機嫌だった。
 彼は、自分の察知しないところで話を進められるのが嫌いな人間なのである。
「いや、すまない。クレス・シグルドリーヴァ。
 話が急なのは分かっているが、一刻も早く実行したかったのでね」
 タブリスがクレスに、というよりはその場にいる全員に向けるように言った。
 全員とは勿論、クレス、リリア、そしてロンギヌス隊の四一名のことである。
 これにタブリスを含めた総勢43の兵士達が、この山奥の開けた広場に終結していた。
「実行? なんのだ」
 クレスはキョトンとした表情で訊いた。
 訳が分からない。
 例の <時空跳躍> の件は、まだクリアしなければならない問題が色々とある。
 実行段階ではないから、それでないことは分かるが……。
 では、こんな山の中で皆を集めてやらなければならない事とはなんなのか。
 想像もつかなかった。
 またタブリスが暇つぶしに、面白いショーでもはじめるつもりなのだろうか。
「オレも聞きたいね。こんな人里離れた山奥で、一体何をやらかすつもりなんだ」
 クレスの傍らで、リジュ卿も同じように首を捻る。
 それに直接答えたのは、沈黙を守っていたリリアだった。
「まあ、見ていて下さい……」
 彼女は静かにそう言うと、その片方ずつ色の違う瞳をゆっくりと閉じた。
「リリア……?」
 怪訝な表情で問いかけるクレスだったが、彼女は応えなかった。
 どうやらそのずば抜けた集中力をもって、精神統一に入ったようだ。
 普通の人間ならいくつかの段階を踏んで徐々に意識を埋没させていくものだが、彼女は一瞬で己の精神をトランス状態にまで持っていける。
 ピンと張り詰めた、一際鋭い沈黙と静寂が場を支配した。
 うっかり触れると、切り裂かれそうな緊張感。
 それはクレスに真新しい紙を連想させた。
 未使用の新しい紙は、ヘタに触れると人間の皮膚を切り裂いてしまうほどに鋭い。
 鋭い痛みが走ったと思ったら、指先にまっすぐな真紅の傷痕が付いていた……
 そんな経験が誰にも一度はあるものである。
 この場の空気は、そんな切れそうな危険さを秘めていた。
 少なくともクレスはそう感じていた。
 山の木々が、俄かに騒ぎ出した。
 周囲に住まう鳥達は、呼吸を合わせたかのように木々から飛び立ち、慌てて空へ非難していく。
 小動物たちもまた、まるでレミングのごとく八方に逃走をはじめた。
 そしてクレスは、リリアを中心として凄まじいエネルギーが収束していっていることに気が付いた。
 大地の龍脈からも、桁外れの <精>がものすごい勢いで吸い上げられていく。
 嵐を予感させるあの生ぬるい風が、ふいに暴れだした。
「はあぁぁぁ……」
 リリアは、己の深層に封じられたカオスの意識に呼びかけを続けていた。
 今はまだ完全な覚醒を迎えていない、魔皇 <カオス>の宇宙を覆い尽くすかのような魔力。
 できるならばそのまま隠しておきたかった、その禁忌・禁断の力を今、自らの意志で呼び起こす。
 亀裂の入ったプレートの狭間から、怒涛の勢いで噴出する溶岩の如く――
 光も、闇も、虚無すらも凌駕する <混沌> が溢れ出す。
 神すらも扱いこなせぬその究極の力が、リリア・シグルドリ―ヴァに収束していく。
 重なり連なる幾つもの宇宙を、一瞬にして破壊することができる程の……
 天使にとってすら狂気的なエネルギーが、己の肉体に充満していくのをリリアは感じていた。
「彼女の計算では、このまま溜めを続けること四六〇秒前後。
 それで必要なエネルギーを、大体練り出せるらしい」
 タブリスは内心冷や汗を流しながらも、いつもと変わらぬ表情と顔を保ちながら言った。
 ――この……
 この力が混沌……
 これがカオスか
 やはり、尋常ではない
 この前シンジ君が生み出した、ヘルの力とはまるで違う……
 この時空連続体に存在するエネルギーを残らずかき集め
 それを暴走させたかのような
 あまりに狂気的な力だ
 この僕ですら、そのエネルギー量を計測できない――
 自由天使の認識できる限界というものを遥かに超えているのだ、混沌というものは
 肥大していくその力に、タブリスは本能的な恐怖を覚える。
 動物たちが暴走するかのように逃げ出したのも、そのせいだ。
 ちょっと考えただけでも分かる。この力は、あくまでこの宇宙に必要ないほどに強い。
 時空連続体が、軋み悲鳴をあげるような……そんな力だ。
「後四〇〇秒ほどで、僕は時空のゲートを開く。そこから対象の認識、座標の指定、固定、跳躍の連続作業に突入する。心の準備を整えておいてくれ」
「ちょっと待った。……どういうことだ、これは」リジュ卿が些か慌てたように言った。
「まさか、時空跳躍をはじめるつもりなのか?」
「その通り」タブリスはあっさりと頷いた。
「今、既にDEATH=REBIRTH……いや、もはやCAOS=REBIRTHと呼ぶべき彼女は、その名の由来ともなった『混沌』の力を顕現、溜めに入っている」
 ――CHAOS=REBIRTH
 混沌の化身。カオスの現人。
 確かに、今の彼女にはその名は相応しいのかもしれない。
「待て、聞いてないぞ。オレはそんな話……」
 予想外の話の展開に、クレスは狼狽しながらも叫ぶように言った。
「話している時間はないんだよ、クレス・シグルドリーヴァ」
 タブリスはクレスの言葉が終わるか終わらないか、素早く言った。
「事はもう実行段階にあるんだ。話は付いている」
「オレとの話はついてねー!」
 クレスは噛み付くように怒鳴った。
「大体、抱えていた問題はどうなったんだよ?色々、今回の話には障害があっただろう。
 あれはクリアできるのか?」
 クレスは全員に視線を巡らせながら訊いた。
 お前達は納得できているのか、とその目で問いかける。
「オレも、ロンギヌス隊を代表して説明を要求するよ。
 君たち天使は内々で話を進めていたようだが、オレたちには全く訳が分からない」
 リジュ卿も些か混乱した様子でクレスに同調した。
「偉大なるソード・マスター。今は、例え貴方にでも説明している時間がないんだ。
 新世紀は既にかなりの混乱にある。それよりなにより、時を無駄にすることは彼らの決意を無にすることともなる」
「それで説得しているつもりか?」
 納得できないクレスは、タブリスを睨み付ける。
 また仲間はずれにされたようで、彼はそれが相当気に入らなかった。
「詳しい話は、向こうでするよ」
 タブリスは静かにそう言った。だがその妙に沈着とした態度がまた、クレスの神経を逆撫でする。
「オレたちは同志じゃなかったのかよ!」
「如何にも同志だ。だから、ここは黙って僕を信じて欲しいんだ。僕と、騎士達の決意のほどを」
 その紅い瞳には、並々ならぬ感情が揺れていた。流石のクレスも沈黙してしまうほどに。
「それに、ほら……。僕らを常に監視していた彼らが、虎視耽々として狙っていたその瞬間の到来に動き出した」
 その言葉と共に、降下ははじまった。
 風を、空を切り裂く音。凄まじい勢いで天空より落下してくるそれは鋼鉄の天使。
 ―― <JA> だ。
 見上げれば、幾つもの黒点が空に散らばっている。
 あの一つひとつが監視機構の刺客だとするならば、その数は100近くに及ぶだろう。
 いや、100では利かない。それを優に越えている。
 そして最初は砂のような小粒であった黒点は、急速にその大きさを増し、陽光を反射して銀色の輝く人型に変っていった。
「本気か……」クレスの顔色が、蒼白となる。
 予測していた四〇〜50という数のざっと倍。その数の <JA> が、続々と天空より降下してきているのだ。
 それはまるで、連続して地上を打つ落雷だった。
 耳を劈く轟音が連発して響き、大地を地震の如く激しく揺さ振る。
 その縦の大きな振動は、四三人の兵士達を大地に立ったままでいることを困難にさせる程のものだった。
 木々に囲まれた開けた広場……
 そこはかつてクレスとリリアが特訓を行い、使徒とも戦ったロレーヌの例の山中なのだが、そこから五KMほどの地点に <JA> たちは着地した。
  <JA> の重量で、乱暴に圧し折られる木々の雷鳴のような轟音。
 舞い上がる土煙。月面のそれのように、次々と出来上がる数十個のクレーター。
「合計、一五六騎だ」
 落下音の数でも数えたか、それとも数を直接目で捕らえたか。
 タブリスは降下して来た <JA> の数を静かに告げた。
「それだけじゃねえ。使徒の気配を感じる。間違い無く天使の波動だ。オレやタブリス程じゃないが、それでも中堅クラスが――五騎」
 クレスが震えるような声で、言った。
 不思議と、ロンギヌスから起こってもいいはずのざわめきや悲鳴はなかった。一同揃って唇を真一文字に結び、気を引き締めた状態のまま、じっと <JA> たちの落下点を見詰めている。
「距離は平均五六七〇M。陣形としては固まっているね。かなり離れた場所に降り立ったのは、恐らく僕らのフェイクを警戒したせいだろう」
 タブリスは冷静にそう分析した。
「フェイク……?」ロンギヌス隊の隊員が訊いた。
「今ここで我々が時空跳躍の実行をキャンセルし、急遽、敵の殲滅に作戦を移行するという可能性さ。  この時空跳躍のパフォーマンスそのものがフェイクである可能性を、彼らは1番恐れているはずだ」
「……なるほど」リジュ卿が納得したように頷いた。
「使徒5に <JA> 150程度、タブリスやゼルエルが本気になれば一瞬で全滅だ。彼女はたとえ『億』単位でこようと瞬殺してみせると言っていた。事実、彼女と元帥ならそれをやってみせるはずだ。確かに、監視機構はそれを1番警戒しているだろう。だから、例えフェイクを仕掛けられても逃げ切れる場所に陣取ったわけだ」
「……ってことは、こちらが無防備状態に入るまでは奴等は動かないな。
 逆に、時空跳躍に入ってことのキャンセルが利かなくなった瞬間、一気に襲い掛かってくるだろう。具体的にはタブリス、あんたが時空のゲートを開いた瞬間になるか」
 クレスは厳しい表情で言った。
 一同の間を、危険なほどの緊張が支配する。
 1ヵ月前の実験の時には、刺客として現れた <JA> は『五騎』だった。
 それが、今回は予想を大きく上回る『一五六騎』。そしてそれを指揮する <監視機構使徒>が五騎。
戦力としては、前回のざっと数千倍となるだろう。
 そしてそれだけの敵勢を、自由天使と魔皇カオスの抜けた戦力で防ぎきらねばならない。
しかも、クレスはA.T.Fを展開した状態のまま、亜空間での自分達の身を守り続けなくてはならないのだから、実質戦力からは除外される。
 つまり、事実上使徒と <JA> と自由に戦えるのは人間であるロンギヌス隊の40だけなのだ。
 勝率は限りなく『ゼロ』に近い。皆が、そのことを充分すぎるほど理解している。だからこその緊張と緊迫が、そこにはあった。
「……三〇〇秒経過だ。僕はこれより奥義を用いて、 <時空の門>を呼び出し亜空間とのチャンネルを開く。そして、ここからは僕も奥義連発による『完全無防備状態』に入る。本当の勝負は、ここからだ」
 タブリスのその言葉に、一同は更に身を硬くした。
 常人ならば恐怖のあまり発狂してもおかしくないような、そんな絶望的な緊迫感が更に勢いを増していく。
 敵が目の前にいる。だが、対抗手段はない。時空跳躍に入った瞬間、死は確定する。
「奥義系の技術は、一旦発動・顕現させたならばキャンセルは利かない。少なくとも、僕には不可能だ。つまり、僕が時空のゲートを開いたが最後、後戻りは出来なくなる。作戦を成功させて未来に渡るか、全滅するか。二つに一つだ」
 タブリスが確認するように言った。
「じゃあ、止めようぜ! だって当たり前だろう? やつらの攻撃を防ぐ手立てはない。オレのA.T.Fだけじゃ絶対に無理だ」
 クレスは両手を広げて主張した。
「オレも彼に賛同する。まだ我々の準備は十分じゃない。こんな強行は自殺行為に等しい。ここは計画を一端打ち切り――」
 クレスに同調してタブリスを説得しにかかるリジュ卿だったが、その言葉は意外な人物によって遮られた。
「……隊長」口を開いたのは、ロンギヌスの若い隊員だった。
 大剣を得意とする、イギリス出身のウィリアムという男だ。
「なんだ、ウィリアム。今のこの状況が理解できないのか? 話なら後で聞く。今は控えろ」
 ウィリアムを一瞥して早口にそう告げると、リジュ卿はそれで彼との会話を打ち切ろうとした。
 だが、
「隊長!」ウィリアムは音量を上げて、リジュ卿に呼びかけた。
 ロンギヌスの他の隊員たちは、落ち着いた様子でそんな彼らを見つめていた。
「……ウィリアム?」時と状況を理解しきれない人材は、ロンギヌスにはいない。リジュ卿は怪訝な表情で、再びウィリアムに視線を戻した。
「隊長、オレたちは状況を理解しています。そして今からやるべきことも、その行動が何を意味するかも良く知っています」
 ウィリアムは、ひとこと一言をかみ締めるように言った。
「なに?」
「それはオレだけじゃない。隊長を除いた39全てが、既に理解し、そして決断したことです。
 二週間前、エイモス老から話をもちかけられたその時から」
「……おい」リジュ卿は訳が分からず、ウィリアムの後ろに控える他の隊員たちに視線を投げた。
が、そこでハッとする。皆が、ウィリアムと同じ表情をしていたからだ。
 それは、このウィリアムが39のロンギヌス隊を代表して言葉していることを意味していた。
「リジュ卿」ウィリアムに並ぶように1歩進み出ると、エイモスが言った。
 もっとも古くからアランソン家のために尽くしてきたエイモスの存在は、ロンギヌスのひとつの柱として機能していた。
 隊長であるリジュ卿も、エイモスの同意なくしては簡単には動けないほどだ。
 エイモス・クルトキュイスは、ロンギヌス隊の魂だった。
「これを、若君に渡してくだされ」そう言ってエイモスが差し出したのは、一振りの剣だった。
「……どういうことなんですか、エイモス老」
 その剣は手間のかかった装飾の施された、見事な鞘に収められていた。
 だから刀身は見ることができなかったが、それでも名工の手による大業物であることは容易に見て取れた。
「これは、我らロンギヌス隊39名がデザインし、名匠ラクサ―ルの協力を得て鍛え上げた剣です。
名を、そのままロンギヌスの剣と付けました」
 その言葉を聞きながら、リジュ卿はそのロング・ソードを受け取り、抜刀してみた。
 見事な剣だった。戦士として思わず嘆息してしまうほどの、芸術的とさえ思えるほどの業物である。
これを使えば、鋼鉄製の分厚い甲冑すら易々と両断してしまえそうな気さえしてくる。
 だが、その長剣はただそれだけのものではなかった。
 その濡れたような刀身に、アランソン候が研究していたルーン文字で何かがビッシリと刻み込まれているのである。
 目を凝らせば、それは細かな文字でロンギヌス隊の隊員たちの名が全員分記されたものであることが分かる。
 そしてもうひとつ、その名前よりも大きなルーン文字でなにやらメッセージらしきものが掘り込んであったが、北欧の滅びたこの文字を完全には解読しきれないリジュ卿には、その意味を知ることはできなかった。
「未来に辿り着いて、無事若君と再会できた時……どうかその剣をあの方に渡していただきたい」
「何故、オレに頼むんですか。
 エイモス老、貴方が直接渡されればよいものを」
 リジュ卿は、この時点でロンギヌス隊の連中が自分に何か隠し事を秘めていることに感づいていた。
「実は、我々はロンギヌス隊を辞めることにしましてな」
 エイモスはまるで世間話でもするように、あっさりとそう言った。
「……辞める?」
 リジュ卿は、驚愕する自分を誤魔化すことができなかった。
「隊長、実は私もエイモス老と同じくロンギヌスを抜けようと考えていたのです」
「僕も一身上の都合にて、脱隊させていただきます」
「某も、右に同じく」
 追い討ちをかけるように、次々に辞意を明らかにしていく隊員たち。
 リジュ卿はいつの間にか、自分がロンギヌス隊から孤立していたことに気づいた。
 いや、違う。
 知らぬ間に、ロンギヌス隊という存在が失われていたのだ。
「オレも、その、持病の癪が……」
「オレは、その、腎臓結石が……」
「いや、俺なんか女房が産気づきまして」
「おい。ロンギヌスは独身者だけで構成されてるんじゃなかったか?」
「あ、じゃあ、えっと、妹が産気づきまして」
「と言うことは、オレは姉が産気づいたということで」
「じゃあ、僕は婆さんが産気づいたということで、緊急帰郷」
「ならば私は、祖父に産気づいていただきましょう」
「ならば……ならば、えーと、ならば! オレはオレ自らが産気づく!」 どどーん!
「おい、マシューズの野郎――」
「ああ。前々から思ってたんだが、本物のバカだな」
「馬なみにバカだ」
「怒涛のバカだ」
「頑なにバカだな」
「みんな、笑ってやれぃ!」
「だぁ〜っはっはっはっはっ!」
「……と、言うわけでオレも辞めます」
 結局、リジュ卿を除く三九人全員が、適当な理由をでっち上げてロンギヌスを抜ける意思を表明した。そして彼らは誇りあるロンギヌス隊の騎士の証、ユニコーンの紋章をあしらった肩章を自らの甲冑から剥ぎ取った。
 更に、自分の剣を鞘から抜き放ち、全員そろって大地に叩きつける。
 あらかじめ亀裂でも入れておいたのか、三九本の剣は簡単に真っ二つに折れた。
 彼らは自ら騎士の誇りである剣を折り、紋章を剥ぎ捨てたのである。
 それは、これ以上ないと言うほどの決別の意思表示であった。
「お前たち……一体何の真似だ」
 目を見開いたまま、リジュ卿は三九人の顔を見渡し言った。
 隣に居るクレスも、まるで突然の裏切り行為に出くわしたかのように、呆然とした表情で事態を見守っている。
 青天の霹靂。まさにそれだった。
「我々はもうロンギヌスではありませぬ。
 それ故、今後我らの身に何が起ころうとも――未来におられる若君とは関係のないこと」
 エイモスは微かな笑みを浮かべながら言った。
「ロンギヌスを抜けた我らは、若君とはもう他人。
 だから、互いの生き死にに感情を爆発させる必要も、義理も今後生じない。
 そう言うことです、リジュ卿」
 一方――
「よう、クレス」
 突然呼びかけられたクレスは、ロンギヌスの突然の解体劇を目の当たりにして呆然としていたこともあり、その言葉に一瞬飛び上がるほど驚いた。
「な……んだ、アクセルか。驚かせるな」
 身を強張らせてしばらく声も出なかったクレスは、慌てて身を取り繕うと何とか返答を返した。
「なにビクビクしてるんだよ、お前」
 アクセルと呼ばれた隊員は、笑いながら言った。
 ――アクセル・マッケイヴ。
 彼は、クレスと同じスウェーデン王国の出身である。
 しかもアランソン候に魅入られてロンギヌス隊に入隊するまでは、自国で傭兵をやっていたこともあり、クレスとは妙に仲が良かった。
「……う、うるせえな」
 クレスは憮然として言った。
「それよりお前ら、一体どういうつもりなんだよ。いきなりロンギヌスを辞めるなんざ、本気か?」
「本気も本気、大マジよ」
 アクセルは、即答した。
「なんでだ? アランソン候の思想に共感して、ロンギヌスに入ったお前が……
 あんなに候を敬愛していたじゃないか、お前」
 クレスは納得いかないといった様子で、些かのオーバーアクションを交えながら言った。
「オレは今でも、心底あの人を尊敬しているよ。
 あの人と一緒に戦えたこと、あの人の為に何かできたこと、あの人と同じ夢を追いかけてきたこと。
……その全てがオレの誇りだ」
 そう言ってアクセルの浮かべたその笑顔は、かつてクレスに『ロンギヌス隊に入る』という夢を語った時の彼の笑顔と何も変わってはいなかった。
「だったら、何故――?」
「分からないか、クレス」
 アクセルは感情的になるクレスとは対照的に、静かな声音で言った。
「分かるかよ!」
「……お前なら分かるぜ、きっと。
 ああ。お前なら、絶対分かる。分かってくれる。
 だから良く見ていてくれ。今からお前に、オレの心意気ってのを見せてやるからよ」
 アクセルは笑った。
「お前が言うように、地球の女神だって感動させてみせるさ。
 最高の生き様、女神が一生忘れられないほどのドでかいハートでな。
 オレたちには、その自信があるんだ」
 そう言うと、彼はゆっくりとロンギヌス隊の隊列に戻っていった。
「よし。皆、用意は良いな?」
 エイモスの声が、響き渡った。
「オオッ!」
 38の声が重なる。
「――ロンギヌス隊、出撃!」
 言葉と共に掲げていた手を振り下ろし、エイモスは隊の先頭を切って歩き出した。
 その後に、38の騎士たちが迷わず続く。その見据える先には、銀の兵団。
 天使たちの軍勢があった。
「おまえたち……」
 踵を返して足早に去っていくロンギヌス隊の背中に、リジュ卿は呟く。
 男たちは、振り返らない。
 だから少しだけ俯いたリジュ卿は、その前髪に表情を隠したまま低く告げた。
「――すまん。今ここで未来に渡る。そして、あの男にこの剣を手渡す。
 それがお前たちへの恩返しだ。勝手にそう思わせてもらう」
「リジュ卿!」
 顔だけ振り返ったエイモスは、それでも歩を止めずに怒鳴った。
「若君を、頼みましたぞ!」
 その言葉に、リジュ卿は力強く頷いた。
「おい、アクセル! お前……」
 クレスも、ここにきてようやく彼らの考えてることに気がついた。
「無茶考えてんじゃねえ! 人間が、天使相手になにしようってんだ!」
「無茶じゃねえ、クレス。オメーは、大人しく未来にでも何でも行きゃいいんだよ。
 なんと言おうと、もうオレたちを止められる奴なんざいねーんだから!」
 揃って行進を続ける隊列の中から、アクセルは怒鳴り返した。
 そして、歩を止めることのないまま歩み去っていった。
 結局、リジュ卿もクレスも、彼らを止めることはできなかった。
 彼らの顔には、迷いが無かった。何かを決断した顔をしていた。
 だから、止めることはできなかった。
 止められなかった。
「――いいか、お前たち」
 クレスやリジュ卿からある程度離れたところまで進むと、エイモスは隊の先頭に立ってJ.A.の大群に向かいつつ言った。
「今、我らの主であるアランソン候は……若君は未来におられる。できるなら、我々も未来へ渡り若君の夢のお手伝いをしたいところだ」
 ザッザッと一糸乱れぬ行進を続けながら、隊員たちはエイモスの言葉に耳を傾ける。
「だが、若君が臨む天使との戦争に、我々人間は口惜しいことに助力できるだけの力を持っていない。
しかし、今この中世には若君の助けとなれる力を持った同志がおられる。これからの天使との戦いに、大いなる力となる強き兵士たちだ。
我々自らが剣になれぬなら、せめて剣となれる方々を若君の元に送り届ける。それがロンギヌス隊だ。今回の我々の仕事は、若君が必要とされている力を持つ彼らを、新世紀まで送り届けることにある」
 声を張り上げながらも、あくまで彼らの歩みは止まらない。
「今後の戦争には無力である我々だが、今彼らを未来に送り届けられるのは我々しかいない。これはロンギヌス隊にしかできない、ロンギヌス隊にならできる仕事だ。……いいか、今ここで先に彼らに恩返しできることを光栄に思え!」
「オオッ!」
「――なに考えてるんだ、あいつら」
 J.A.の大群が陣を構える方向に直進していったロンギヌス隊。
 山の木々に遮られ、もう見えなくなってしまった彼らの後姿を見つめながらクレスは呟いた。
「相手は物理攻撃を、完全無効化する装甲を持ったバケモノ150だぜ。
 それに、使徒も五騎。人間四〇人が向かっていってどうこうできる戦力じゃねえ。
 死ぬ気かよ……」
「彼らは確実に死ぬだろう。……だが、そう諭しても彼らは死ぬことを承知しなかった。
 ロンギヌス隊の全員はあれだけの戦力を敵に回しながらも、自分たちは勝利できると本気で考えている」
 タブリスは、騎士たちが消えていった方向を見やりながら言った。
「何を知っている、タブリス」クレスは鋭く問うた。
「僕が知っているのは、彼らの覚悟だけさ」
 タブリスは、呟くように言った。
「魂をオーヴァドライブさせることで、たった七秒前後だが、使徒に対抗できる力を顕現させる。
 その代償として、魂は崩壊するだろう。そうすれば、まっているのは確実な死だ。
 僕が知っているのは、それを知った上で彼らは天使に戦いを挑み、時間を稼ごうとしてくれていること。そして、この作戦を立案したのは他ならぬエイモス老であること。それだけだ」
「魂をオーヴァドライブ――
 暴走させて使徒に対抗できる力を顕現させる……。まさか、A.T.フィールドか?」
 クレスはハッとして叫んだ。
「人間の魂の力を暴走させて、崩壊に至ったときに生まれる爆発的エネルギーを……
 無理やりA.T.フィールドに変換するつもりか?」
「その通りさ、クレス・シグルドリーヴァ。クルトキュイス卿は、まさしくそれを考えた」
「しかし、一体どうやって……? A.T.フィールドは、天使だからこそ使える力のはず。
 人間にはどうやったって、あれを生み出すことはできない」
 それができるなら、とっくに自分がやっている。リジュ卿の言い分はもっともだった。
「普通の人間には無理だ。
 だが、彼らほどの強い心力――揺るぎ無き魂の力を持つ者ならば、数秒だが可能なんだ。
 僕が特別に作り上げた、プログラムを応用すれば」
 そこまで言うと、タブリスは空を仰いだ。
「さあ、時間だ。彼らの稼ぎ出してくれる時は一瞬も無駄にできない。今こそ再び、時空の扉を開く!」



CHAPTER・120
『男たちの熱歌』


「よし、全軍停止!」
 エイモスは、後続の隊員たちに向けて怒鳴った。もう <JA> は目前だ。木々の隙間から、彼らの銀色の体躯が小さく見え隠れしている。
「いいか、皆。念のために最後に今一度確認しておく」
 ロンギヌス隊を円陣を組むように固めると、エイモスは再び声をあげた。
「元帥の話によれば、人間の力で <天使の金色> の生み出すこと自体は、確かに可能である。だが、そのためには我々の生涯を数十年にわたって持続させている生命力――いわば魂ともいうべきエネルギィを瞬間的に燃焼させる必要がある。それでさえ、普通の人間には刹那の時しか、 <天使の金色gt; を生み出すことはできん」
 グルリと全隊員の顔を見渡しながら、エイモスは続ける。
「しかし、その刹那のため己が命を躊躇いなく使える覚悟のある者であるなれば、その単位をいましばらく伸ばすことが可能であるやもしれぬそうだ。――良いか、戸惑いも迷いも捨てよ。その生涯をこの瞬間に賭けることができる者以外は、即刻この場より立ち去れ」
 そう言ってから、エイモスはしばらく待った。
 だが、その場を動くものはひとりもいなかった。

「元帥閣下の計算によれば、我々の心力で <天使の金色> を生み出せるのは、平静にした人間における七拍程度。心臓が七度打つだけの間のみである。若干の誤差はあれど、皆、これを前提として挑んでほしい。この七拍のうちに、我ら三九名は鋼鉄の傀儡一五六、天使五、総計一六〇体からなる敵大隊を完全殲滅する。わずかでも迷えば突破されるぞ。心して掛かれ。良いな!」
「応!」
 円陣を組んだ男たちの声が重なる。
「よし、皆、抜刀!」
 エイモスの掛け声に、39の騎士達がスラリと一斉に抜刀する。真中から綺麗に折れた剣が陽光に煌く。そして彼らは、その剣をかざして互いに重ね合った。
「我等が剣は、未来のために!」
 三九名の男たちが威勢良く叫ぶ。それは出撃を目前と控えたロンギヌス隊が常に行ってきた儀式だった。
「アランソンの明日のために。遥かのために!」
 そして、隊の長老格エイモス・クルトキュイスは隊員達の相貌をグルリと見回し、一際太い声で怒鳴る。
「アランソン侯の元に集いし、四〇の精鋭達よ――」
 エイモスの瞳に更なる光が宿った。 「未来は見えているか」
 男達の太い叫びがあがる。
 未来なら、いつも見えていた。目を閉じるだけで、いつも。
 ジャン・ダランソンという名の男からはじまった壮大な夢。彼の抱いた野望。
 男は志し半ばで戦場に果てたが、その夢は次の世代に受け継がれた。彼の志と共に。
 そしてジャン・ダランソンの名を継ぐ者は、ジャン・ダランソンと同じ夢を見た。
 彼らが夢見た未来に惹かれ、そしてその実現を本気で信じた者しか今、この場所にはいない。
 はじめて出合ったの時から、未だ変わらぬ夢。
 ジャン・ダランソンと共に作ったアランソンという名の理想郷を、世界に広げたい。
 その礎になるために、命を使うことに躊躇いなどあるわけがない。
「周知の通り、我らの主は臣下の死をなにより悼まれるお優しい方だ。良いか、若君と再会するその時まで断じて一人足りとも死ぬでないぞ。死んでも生き残れ。殺されても生き延びろ。皆揃って全員で生還せよ。これが我が隊の至上命題である」
 エイモスのその無茶とも言える命令は、いつもアランソン候自らが命じてきたものだった。
 彼は兵士個々の経験と判断を尊重し、ほとんど指示らしきものを下さない。ただ、こう語りかけるのみである。
 ――みんな、生きて戻って。終わったら、みんな揃ってまた宴を開こう。その時は、最高のエールを奢るよ。
 ロンギヌス隊は、その命令を忠実に守ってきた。
 アランソン候ジャンは自分を守るために部下が死ぬことを嫌悪する。
 己の死より、他者の死を痛みと感じる。
 そんな男を主に持ってしまったのだ。彼に無用な心痛を抱えさせぬためにも、ロンギヌス隊の騎士たちは是が非でも死ぬわけにはいかなかった。
 そして――負けはする。だが、必ず皆が生還する。決して死なないアランソン精鋭騎士団 <ロンギヌス隊> は生まれた。
 だが今、この目の前の突撃を目の前にして、初めてその命が守られることなく終わることを彼らは知っていた。
 しかし、それで良いのだ。
 なぜならこれは、アランソン候を守るための戦いだけではなく、己が追い求める夢ゆえの、野望ゆえの戦い。自分のための戦いなのだ。
 兵士はいつも、死に値する戦場を求め戦いつづける。
 ある日、夢を見て。いつしか命を懸けるに値する大いなる野望となって。それを命の限り追い、たとえ命尽き果てようとも、夢追い人になんの迷いがあろうか。
 死ぬつもりは毛頭ない。だが、その結果として死に至るならそれでも良い。それも良い。
 アランソンの男たちは命半ばに倒れても惜しくないだけの大望を見出したのだ。その短いヒトの生の中で、それを見つけたのだ。
 それに向けて全力で駆け、今、自分の存在を賭けた最後の挑戦に挑もうとしている。

 感謝せねばならない。  エイモスをはじめとするロンギヌス隊に共通した認識だった。
 幸せなのだ、俺たちは。
 この世界中の誰よりも、その生を燃焼しきれるのだから……
 彼等はその想いを噛締めていた。不思議なほど穏やかな胸中のなか、深く静かにそんな思いがあった。
 ロンギヌス隊、最初で最後の我侭。主たるアランソン侯爵はそれを悲しむだろうが、それでもきっとこの境地を理解してくれるはず――
 そう信じられるから。
 やはり、ロンギヌス隊は幸せだった。

「これが――」
 思わず、喉が詰まる。だが、エイモスは無理やり続けた。
「これが、最後の御奉公ぞッ!」
 男たち、女たちは、叫ぶ。
 心の限り、時の彼方へ届けと叫ぶ。
 時空を超えて、あの男へ届けと。
 ――そして、最後の命令が下された。
「ロンギヌス隊、突撃!

 閃光が弾けるような破裂音と共に、時空のゲートが開き出す。
 だがそんな音を掻き消すように、五キロ先のロンギヌスの出撃命令は、リジュ卿たちにも届いていた。
「なにが辞めるだ……。あいつら、完全にロンギヌス隊のままじゃないか」
 リジュ卿は囁くように、言った。
「あの単細胞どもが。辞めたなんて理屈が通じるような男か、お前たちが選んだ盟主は」
「ロンギヌス隊を辞めたことにすれば、自分たちの死は候から切り離されたものとなる。
 だから、たとえ自分たちに死が訪れても、候が悲しむ必要はない、か?
 ……あの熱血バカたちが考えそうなことだぜ」
 悪態を吐くような、クレスの声。
「あいにくだけどな、あいつはお前たちのヘタなウソなど、すぐに見破るぞ。
 お前たちが骨の髄までバカだってことは、誰よりあいつが良く分かってんだからな。
 ……ったく、そんなすぐバレそうなウソしか考え付けなかったのかよ」
 クレスは、もうロンギヌス隊の思惑すべてを汲み取っていた。
「本当、バカ野郎だぜ……」
「――サンダルフォン」
「ああ」
 サンダルフォンと呼ばれた銀髪の男は、微かに頷いて見せた。
「賢しい人間どもが動いているな」
「人間では <JA> にすら及ばん。放置しておいても任務に支障はあるまい」
 そう言ったのは、サンダルフォンと同じ銀の髪、そして真紅の瞳を持つ若い女だ。
 まるで兄弟、姉妹のように似通った容姿をもつ者が、全部で五人。
 全てが……監視機構から送り込まれてきた、天使である。
 彼らに課せられた任務はただ一つ。
 時空を跳躍しようとする者どもの行動を阻み、彼らを抹殺すること。
 ターゲットはあくまで、魔皇カオス、自由天使タブリス、そして新ゼルエルである。
 そのために、彼らは <JA> と云う名の機動兵器を一五六騎も与えられた。
 追い詰められているのは、監視機構も同じである。
 もしここで時空の跳躍を許し、あの死神が未来に渡れば――
 魔皇 サタナエル
 魔皇 ガルムマスター・ヘル
 魔皇 カオス
 かつて、最強のエンシェント・エンジェルと謳われた、大魔皇ルシュフェルを構成する <魔皇三体> が新世紀1箇所に集結することになるのだ。
 しかも彼らは、魔皇そのものに匹敵するほどの戦闘能力を持つインペリアルガードをそれぞれ使役している。
 最強の魔狼 ガルム=ヴァナルガンド(フェンリル)
 大海の竜王 リヴァイアサン
 大地の竜王 ビ'エモス(ベヒーモス)
 剛の戦乙女 ブリュンヒルド
 柔の戦乙女 クリームヒルト
 これだけの戦力が揃えば、監視機構の大天使たちにとって、至上最悪の脅威が誕生することとなる。
 なんとしてもここでカオスだけは叩いておきたい。それが監視機構の思惑である。
 そしてそれが <JA> 一五六、使徒5という数に反映されていた。
「……確かに人間は無力。だが、奴等には魔皇カオス、なにより自由天使タブリスという強力なブレインが付いている。警戒しておくべきではあるまいか」
 背中まで伸びた真っ直ぐで艶やかなシルバーブロンドの女が言った。
 水天使、ガギエル。それが、エンシェント・エンジェルから与えられた彼女の名である。
「時間がない。奴等が現れたぞ」
 鋭く指摘したのは、空間系の奥義をゼルエル・タブリス以外で唯一使うことのできるレリエル。
 やはり他の四人の天使の生き写しだ。
 遠目では、それぞれ見分けることはかなり困難であろう。
「我々はカオスとタブリス、新ゼルエルに備える。人間の相手には、 <JA> を数機回せばこと足りよう」
「……十分だ」
 胎児を司る天使サンダルフォンの言葉に、イロウルが頷いた。
 男性形態を取っているのが、このサンダルフォンにイロウル、そしてレリエルだ。
 ガギエルとマトリエルという名の天使は、逆に女性の姿をしている。
 それぞれ、地上に降臨した天使にふさわしい非常な美しさを備えている。
 銀と氷でできたような、冷たく鋭い美しさだ。
 山の木々の狭間から、天使たちが陣を構える開けた場所に人間たちが踊り出てきた。
 ■[――ロンギヌス隊]
 ■[アランソン候専属の護衛隊。遊撃中隊としては恐らく世界最強。構成員40]
 ■[主に近〜中距離での白兵戦を得意とする]
 ■[ヒノモトは日吉流の剣士により伝授された剣術を取り込んだ、柔剛融合の剣客集団]
 ■[筆頭、剣匠リジュ伯カージェス。アランソン家血縁]
 ■[長老格、エイモス・クルトキュイス。元暗殺者]

 使徒、そして <JA> たちは蓄積されたデータを瞬時に彼らと結び付けて見せた。
 数は39。距離は、約900。
「タブリスが時空のゲートを開いたぞ」
 恐らくタイミングを合わせたのだろう。五KM離れた空間に時空の歪が生じたのと、ロンギヌス隊が突撃を仕掛けてきたのはほぼ同時だった。
「カオスの力も、銀河を震撼させるほどに高まっている。……頃合だろう」
「よし、いくぞ。全力でカオス、タブリス、そしてゼルエルを叩く!  <JA> は、人間の部隊を殲滅。その後、速やかに我等に合流。使徒殲滅に移れ!」
 サンダルフォンの事務的な指示が、戦場に木霊する。
「行かせぬ!」
 それを遮ったのは、ロンギヌス隊の先頭を走る兵士。エイモス・クルトキュイスその人であった。
「退け、人間。汝らの出る幕ではない」
 ガギエルが、ピッと空を切り裂くように手を振り切ると言った。サラリと整えられた銀髪がゆれる。

「退かぬ!」エイモスは、口ひげを揺らすほどの怒号で応えた。
「その野望ゆえ! 我々は、未来の主に剣を送り届けねばならぬのだ! 邪魔だてすれば、たとえ神の御使いと言えど――斬る!」
「お前たちの持つ剣は、我々の絶対領域を破ること適わず。お前たちの纏う甲冑は、我々の攻撃を阻むこと適わず。お前たちのその肉体は、我々の神速に対応すること適わず。
 いわば、お前たち人間は手足をもがれたダルマも同然」
 イロウルが冷笑を浮かべながら言った。所詮どうあがいたところで、人間は人間。
 想いの強さだけでは、情熱だけでは越えられぬ壁とてあるのだ。
「――如何にして我ら天使を斬るというか」
「魂で斬る!」エイモスは吼えた。
「……愚かな」哀れむようなガギエルのその声が、戦闘のはじまりの合図となった。
 一五六騎の <JA> たちが、突っ込んでくるロンギヌス隊に挨拶代わりの一撃を加えるため、エネルギーを収束させていく。白い光の粒が、ゆっくりとその口唇部に集まり、固まっていった。
 それを見据えるエイモスが、指令を下した。
「ロンギヌス隊! 陣形アーム・ド・ロンギヌス!」
「了解!」
 突撃を敢行するロンギヌス隊の陣形が、高速で移動しながら変形していく。
 ――アーム・ド・ロンギヌス。
『ロンギヌスの魂』と名づけられたこの陣形は、エイモスがこの時、この瞬間の戦いのためだけに考案したフォーメーションである。
 それは、三九の騎士を前から順に3・10・10・10・5・1の計六列に振り分け、最前列の三人から順に特攻をかけるという玉砕覚悟の陣形・戦法であった。
 実力で劣るロンギヌス隊に、小細工を考える余裕はない。ただ己の魂を信じたまま、正面から突撃を仕掛ける。先陣を切るのは、たった三人の騎士だ。
「血が騒ぐぜ。たまらねェ」
「ああ。最高の気分だ!」
「こいつで燃えなきゃ、男じゃないぜ――!」
「愚かなる人類よ。 <天罰を下す者> の裁きの雷を受けるがいい」
 レリエルのその言葉と共に、 <JA> 一五六騎がチャージしていたそのエネルギーを一気に開放した。
 昼間の太陽すら一瞬霞ませるほどの、まばゆい閃光が世界を照らし出す。クレスの防御結界すら打ち破った、 <JA> 必殺のメインウエポン炸裂の瞬間である。
 光り輝く細いレーザーのようなエネルギーの奔流が、束となって無謀にも天使の大群に突撃を仕掛けた愚かな人間に降り注ぐ。直撃を食らうのは、隊の先頭を走る三人の騎士だ。
 いや、彼らだけですむはずはない。
  <JA> のエネルギー波は一本でも、凄まじい貫通力と破壊力を秘める。それが一五六本、束となって放たれたのだ。山ごと、39の兵士は一瞬にして消し飛び蒸発するに違いない。
 それは魔皇ヘルほどの予測能力がなくとも、容易に予測できる絶対の未来であった。
 ……だが、彼らはその天使の定めた未来を信じなかった。
「来たぞ! 敵天使の光線、集中放火。一五六」
「上等。限界まで引き付けろ。引き付けて――受けとめるぞ!」
 先頭の三人が、揃って咆哮をあげる。
 ――僕には信じられないし、いくら君たちでも、それが可能であると思えない。
 いや、できる。やって見せる。
 ――このプログラムは、君たちの魂の力に感応するように組まれている。
 君たちが魂を砕け散るほどに加速させ、強大なエネルギーを生み出したときのみ、はじめてプログラムは発動する。そのエネルギーを <天使の金色> に変換するという形で。
 だが、やはり信じられないよ。いかに人間とはいえただの一瞬に全生命力を、しかも意識的に傾けるなど。口で言うと易く聞こえるが、生存本能をはじめこれを無意識のレヴェルで阻もうとする壁はいくつも存在する。それすらも打ち破る意思の力。……悪いが、僕はどうしてもそれを信じる気になれないんだ
 出来ぬわけがない。この壮大な夢を想って、いつも子供のように笑っていられたから。
 戸惑いも迷いも捨てて、ただこの瞬間駆けることに歓びすら感じるから。
 ずっと、最高の部隊で追い求めてきた、最高の夢だから。
 だから揺ぎなき想いと共に呼びかける。
「我が背に太刀傷なし。その獅子心以って盾と成し、その身をもって壁と成す。我等アランソンの守護者、ロンギヌス隊なれば――」
 押し寄せてくる光の奔流。
 使徒の絶対領域すら無効化して見せる、裁きの雷。
 向かい来るその一五六の光を、正面から見据え、心から、魂から願う。
「胸に熱歌を、前のめりに朽ちん」
 かつて誰もが到達し得なかった領域で想いは加速していく。
 やがて限界を超えるまでに加熱した魂は、自らの崩壊と引き換えにその力を迸らせた。
 そして男たちは、その大いなる力を以ってひとつの奇跡を呼び起こす。

「ロンギヌスの――」
 そして男たちは、その大いなる力を以ってひとつの奇跡を呼び起こす。
 それは、一五六の白光が矮小なる人間を飲み込もうとしたその瞬間の出来事だった。
「盾!」
 腹を貫く程に重く激しい、爆発音の如き重低音と共にそこに現れたのは――
 光り輝く金色の盾。何よりも眩い、輝光の盾。
 ロンギヌスの騎士が、何者も犯せないその魂と引き換えに生み出した、盾。
 今、三人の人間が、視界を覆い尽くすまでに巨大な光のベールを生み出し、そして一五六本の裁きの雷を受けとめている。
 それは、紛うことなき現実の光景であった。
「オオオオオォォォォォォッ!」  貫けない。ゼルエルの力を得たクレスの防御結界すら打ち破った、あの光がこの盾を貫けない。
「馬鹿な!」
 五人の天使たちは驚愕した。何よりも、人間たちが生み出した一瞬のその光に。
「人間が天使の金色を……」
 それは、たった一瞬の瞬きであった。天使ほどには持続できない、束の間の光だった。
 だが、だからこそだろうか。
 それは、かつて生み出されたどんな金色よりも、強くて美しい輝きを放った。
「すげェ。あいつら人間なのに……」
 五キロ離れた場所からもはっきりと見える、その巨大な金色の盾にクレスはかつてない感情を感じていた。
 そのあまりに美しい輝きに、涙が流れはじめる。だがそれは、悲しみではなく――
「人間なのに……あんなに輝いたフィールド、見たことねぇ」
 人間がこれほどの輝きを生み出せるということに覚えた、感動の涙だった。
「どうした、鋼鉄の天使。こんな水鉄砲で、オレたちの野望を挫ける気か!」
 魂と引き換えに得た、その奇跡の時間は――七秒。ロンギヌスの余命、あと七秒。
 だから、退かない。三人の男たちは、巨大な盾で一五六の光の束を弾き返しながら、なおも止まらない。
走る。前に、走る。
 ――七秒九二。
 三人の騎士は <JA> の光線を完全に防ぎきり、尚も前に走りつづけながら力尽きた。
 前だけ、未来だけ見据えたまま戦場に倒れる。エイモスは、隊の最後尾に構えそれを見守った。

「マシューズ、ノトス、モルターニュ、見事也。ロンギヌス隊筆頭エイモス・クルトキュイス、お前たちの生き様、確かに見届けた」
 安心しろ。我等の想いは、必ずや届く。あの方に届く。
 例え幾百の時を隔てても、それがジャン・ダランソンという男なのだから。
 だから安心して、死ね。
「どうした、天使ども。それで撃ち止めかよ」
 倒れた三人の屍を飛び越えたロンギヌスの騎士たちが、怒涛のごとく天使たちの本陣に斬りこむ。
 時間的に追い詰められた敵側が、突撃をしかけてくる敵に対し先制の一撃を入れてくるのは計算済みだった。そのために敢えて三人を防壁用に割り当て先頭を走らせた。
 本番はここから。先陣の三人の後ろに付いて、敵陣との間合いを詰めた次の波から戦いははじまる。
 一〇、一〇、一〇の三波が間髪居れずに敵陣に斬りこむのだ。
 その攻撃本隊第一波の一〇人の中に、クレスとの別れを交わしたアクセルがいた。
「見てろ、クレス」
 第一陣の三人は見事にやりきった。
 人間の力で、 <JA> のエネルギー波を上回る盾を生み出し、カウンターの先制攻撃を防ぎきった。今度は、自分たちの番だ。
 アクセルは、横一列にならぶ九人の仲間たちと共に一五六の <JA> の大群の中に踊りこんだ。手には、真中から圧し折られた騎馬兵用の槍。アクセルは、ロンギヌス隊最高の槍の使い手だった。

「我が内にも宿る、アランソンの魂よ。鋼の誓い、剣の歌よ」

――ニーサ?
 ああ。まぁ、名前はどうでもいいんだけどな。
 その大地母神がどうしたよ。
 昔色々あってな。こんな乱世だ。オレも色々な死に立ち会ってきた。そんな中で、いつも思ってきた。大勢の死の中にまぎれて誰にも知られることなく、誰にも省みられることなく、歴史にも、心にも残ることのないまま孤独に惨めに生きて、そして死んでいった儚い命は一体何のためにあったのか。
――確かにな。今の世の中、どこを歩いてもつまずいて転んじまうほど屍が転がってる。誰も知らないところで一生を終える奴らも多く出るだろう。
 だから、オレは願うんだよ。せめて、オレたち人類を生んだ母なるもの、オレたち全ての生を見守り、一つひとつの死をその心に刻み込んでくれたらいい。もし摂理が神で、摂理を生み出したのが星なら、偉大なる地母神が報われることのなかった我が子の生と死を受けとめてくれればいい……
 彼女はオレたちがその命を燃焼させることを望んでいる。思う限り生きて、そしてその生き様をもってドラマを生み出すことを望んでいる。そして、それに感動を望んでいる。
 そう、思うことでせめて暗黒時代の中、塵のように消費されていく人の魂は救われる。

――それで、地母神ニーサか。
 そう。オレの故郷に伝わる地の精霊の信仰だ。
 なるほど。少なくとも、教会の恩着せがましい救世主や神よりかは馴染むわな。異端だが。

「アクセル……」
 クレスは、その使徒の視覚を最大限に高めて友人の戦いを見つめていた。
「お前」

――じゃあ、オレもそのニーサちゃんとやらを動かさねえとな。一生懸命生きてよ。
 前に言ってたロンギヌス隊か?
 ああ、オレはロンギヌス隊に入る。アランソン候が目指すものを一緒に追いかけるんだ。あそこでなら、自分を活かせる。お前の言葉を借りるなら燃焼できそうな気がする。オレはそれに懸けてみるよ。そうしてやってれば、いつかお前のいう地母神の心も動かせるかもしれない。
 アランソンの兵士は歌いながら死ぬ。二の太刀は考えねえ。分かるだろう。死ぬ気はないが、死ぬ気で行く。たとえ斃れることがあっても気にすることはない。後は、オレより強い仲間がやってくれる。だから安心して突っ込める。ロンギヌス隊にはそんな奴等がうようよいるんだ。他じゃあり得ねえ。オレもあの男たちの立ってる場所に行って、眺めてるものを見てえのさ。

「見てろ、クレス。今日こそがその時だ。絶対、動かしてやるぜ!」

 アランソンの目指すものってのは何なんだ?
 興味出てきたか、クレス。まあ、お前の考えてることとそんなに大した違いはない。今はうちの若頭が継いでるが、源泉は先代にあってな。あの人なりの革命の思想なのよ。
 革命とは言っても、初代ジャン・ダランソンがいうのは政治経済や社会のシステムと繋がるものじゃなく、人間の精神のあり方についてのもんだ。
 人間にも色々いるだろう。自分の街が敵兵の侵攻を受けたとき、自ら剣をとって戦える者。剣を取らず流されるまま隷属の道を歩む者。人生を活用できるやつ。溜息ついて、ただ老いていくやつ。
 どっちが良いかは誰もが知ってることなのに、人間は割れる。
 だが、先代曰く、一概に戦わぬ者、戦えぬ者を責めるわけにはいかないんだそうだ。連中の中には、かつて戦いを挑み苦杯を舐めたり、負け戦の連続に疲弊しきったような奴もいるからな。
 リスクを恐れる者。守るべきものに縛られて動けない者。人間は色々いる。
 オレが目指すのは、そんな人間を動かす力だ。
 やりなおそう。剣をとろう。そう思わせて背中を押す、起爆剤代わりだ。それは唯一、勇気ある行動と生き様が呼び起こす、感動によってのみ生み出される。
 だから、ロンギヌス隊は戦場に身を置く。絶望と言われるものに、負けつづける戦いを挑みつづける。何度も、何度も繰り返す。
 変えられないという体質を変えて見せる。滅びた街なら蘇らせる。救えないと言われるものを救うべく挑む。
 何故そうまでする、何故あきらめぬ。そう言わしめてこそ人は心を開きだす。
 誇るべきは勝利者ではなく、挑戦を放棄しなかった敗者だと信じる。
 負けてもいい。死んでもいい。あとは志を継ぐ者たちがやってくれる。オレたちの敗北を活かしてより強固になった仲間たちがやってくれる。
 アランソンの騎士は歌いながら死ぬ。だけど、途切れることはない。歌い継がれていく。
 俺たちの声が、いつか歌うことを知らなかった人間たちを口ずさませることができたなら――
 この世に倒せぬものなど、なにもない。

「だから、たとえ相手が天使でも悪魔でも。神だろうと魔王だろうと、普通の人間が名を聞いただけで戦意を失うような相手でも、オレたちは退けない。勝てないと分かっていても、戦えば死ぬと分かっていても。勝利を確信して、歌いながら行く。オレたちだけは退いちゃいけねえんだ――」

 勝てずともよい
 敗れてもよい
 我が友よ
 例え負けても、我等の戦うその姿が、勇気に至る絆を生み出すことを信じて
 人間の共感という名の力を信じて、心だけは負けず、我らは歌い続けよう

「負けられない。オレたちは永遠を生きる天使じゃなくて、命に限り在る人間だ。だから。この一瞬に懸ける想いの強さだけは、絶対天使なんざに負けられねえ!」
 アクセルは、長年連れ添った相棒――半分に折られた、長い槍を振りかざす。
 そして、己が内に秘められた魂に呼びかける。
 鋼鉄天使の大群のど真ん中に飛び込んだ一〇人のロンギヌス兵に、 <JA> はすばやく反応をはじめた。再びその口の窪みに光が宿っていく。
「させるかよ」
 同じ時代の中で、同じ夢を追った男と共に、いつしか抱いた限りない想いを。
 女神に、全てに還すために。
 この夢を追う中で死ぬのならそれで構わない。されば我が核よ。叫びに応じ今こそ其の大いなる力を解放し現れ出でよ。
「いくぜえ――ッ!」


ロンギヌスの――
「槍!」

 瞬間、唸りを上げて凄まじい黄金の光が放たれる。今、この世に現れ出でたのは輝く金色の槍。
 その想いに応じ魂が作り上げた、強大な光のロンギヌスの槍。
 いや、アクセルだけではない。彼と同時に敵本隊に斬りこんだ九人全員が、光の武器を各々生み出している。
 折られた剣、折られた槍、折られたハルバード。
 しかし、それは決別の証ではなく、隊崩壊の象徴でもなく――
 ただ魂の強さ分だけ輝く、彼ら最後の武器だった。
 魂で斬る。エイモス・クルトキュイスの言葉は決して妄言ではない。
 二つに折れた剣の先から、失われた部分を補うように精一杯に煌く金色。
 その金色が、知っている。
 アクセルは、光り輝く金色の大槍を気合と共に振るった。
 全長一〇メートル、太さも大の男が両手を回して届かないほどに大きな槍。大樹を思わせる尋常でない代物だ。
 が、魂を具象化したそれに重量などない。まるで短剣でも振り回すかのように、アクセルは神速に乗って槍を振り抜く。
 新世紀の科学者たちがもてる技術力を総動員しても傷一つつけることができなかった、あの <JA> の装甲がロンギヌスの槍に易々と切り裂かれていく。
 押し寄せる鋼鉄天使の海を、光が閃き、根こそぎ薙ぎ倒していく。
 一〇人の騎士たちは、鬼神のごとく戦いつづけた。
 彼らに近づく <JA> たちは、片っ端からぶった斬られていく。
「アクセル、お前……」
 クレスは一時も目を離さずその光景を見つめていた。
 まるで、 <JA> と云う名の海を切り裂くモーセの奇跡のように、戦いつづける騎士たちのその姿を。夢に懸けた人間の、ある意味究極の姿がそこにあった。 「あいつら、オレに隠れてこんなことを企んでいたのか」
 リジュ卿が遠く視線を投げながら呟いた。
 哀しんでいるのではない。彼らの死という結果を哀れんでいるのではない。
 それはクレスと同じ。あれだけの金色を放てる彼らと共に戦えたということに感じる、誇りと歓喜の熱情であった。
「今、お前たちを羨ましくさえ思うぞ」

 自ら殻に閉じこもる者は、目を閉じ耳を塞ぐ者は、何としても動じないものなのか。
 いかなる叫びも届きはしないものなのか。
 私、ジャン・ダランソンは全ての人に問いかける。
 今、戦いつづける者のその姿に、何を思うこともないのだろうか。その心には何も芽生えないはしないのだろうか、と。
 もし、何かしら感ずるものがあったとしたら、それは剣にはなるまいか。他者の行いに、生き様に胸打たれたのなら、それは活力となるまいか。
 それは君の武器にはなるまいか。

 勇気は伝染する。絶望と同じように。
 だからこれは、絶望と希望。
 どちらが先に人類を支配するか、挑戦なのだ。
 オレたちは、熱歌と云う名の病をばら撒くそのウイルスとなる。  蔓延する、諦めと絶望にまけない様に――
 オレのこの歌で世界を変えたい。


「星よ――」
 クレスは叫ぶ。
 大いなる蒼穹を仰ぎ、溢れる涙を隠そうともせずに、心の限り呼びかける。
「ニーサよ。母なるものよ」
 もし、もしも本当に貴女が大地に宿っているのなら。
 もし、星という名の大いなる意思が、生きとし生ける全ての命のその生き様を見守ってくれているのならば……!
 今、全霊をかけて乞い願う。
「どうか、見ていてやってくれ。あいつらのあの姿だけは刻んでやってくれ。どうかその御心に、後生だ。刻んでやってくれ」
 溢れ出す涙と、その想いに声は震える。
 しかし、叫び伝えたかった。
 彼らのあの姿は、母なる女神が人間に望んだ到達点にあると信じられるからだ。
 見ていて欲しい。そう願う。
 母なるものに与えられたその命を極限まで高めた、その子供たちの姿を。
 そして、忘れないでやってほしいと思う。どれだけ時が流れても。幾千、幾億の生死を見続けても、忘れないでやってくれほしいと祈る。
「オレも絶対。忘れないから!」

 その声を残してクレス、タブリス、リジュ卿、そしてリリア・シグルドリーヴァはこの時空のゲートに消えていった。

「――よし。立たれたか」
 エイモス・クルトキュイスはアーム・ド・ロンギヌスの最後尾に構えながら、呟いた。
「あとは、死神殿が時空障壁を打ち破るまで、時間を稼ぐのみ。これからが本番ぞ。ロンギヌス隊、全霊をかけろ」
「応!」
 叫び返しながらもアクセルは、一〇人の騎士たちは、その魂の限り剣を槍を振りつづけた。
 誰が見ていなくても自分たちの戦うその姿は、必ず未来のあの男の心に残ることを信じて。
 ただ、自分の命を誇れるように。
 命を燃焼させ、自分は生きたと。世界中の誰より生きぬいたと。心からそう言えるように。戸惑いも、迷いも捨てて、ただこの七秒間駆ける。
 その結果に死が待ち受けていることなど、もはや念頭になかった。
 夢中になれるものを見つけて、それに命がけで挑める今のこの自分が誇らしくて、ただそれが嬉しくて。後のことはどうでも良かった。
 たとえここで自分たちが力尽きようとも、未来にいるアランソンの名を冠した男は、その夢を完遂するだろうと。
 何故なら、彼はあのアランソンの街を築き上げたからだ。
 力による蹂躙でも、恐怖による支配でもなく、ただあの男は微笑みながらアランソンの街を一つの大家族にしてみせた。
 未来なら、いつも見えていた。

 ――八秒一五。
 アクセル・マッケイヴは、その生命活動を永遠に停止した。
 ただその体は大地に横たわることはなく、彼が切り倒した一八体の <JA> の中心に彫像のようにたち尽くした。
 その血と泥に塗れた顔には、爽快なまでの笑みがあった。
 攻撃第一波一〇人が倒した <JA> は、合計八一体に及んだ。既に <JA> 部隊は人間一三人の突撃によって半壊したことになる。
 そこに、第二波の一〇人。続いて第三波の一〇人が怒涛のごとく押し寄せるのである。
 平均七秒のスパークの後、命を保てる隊員は誰一人としていなかったが、彼らは確実に天使たちの軍勢を全滅に追いやっていった。少なくとも <JA> に、彼らの突撃を止めることはできなかった。
 だがそれでも、五騎の監視機構使徒たちは今だ健在である。
「空だ。上空に退避せよ。地を這う奴らは、中空に逃れれば無力と化す」
 サンダルフォンは、もはや壊滅しつつある <JA> 大隊に顔色を蒼白に変えながら他の四天使に告げた。
「小賢しい人間どもめ」
 レリエルがサンダルフォンの指示通り上空に退避しながら、眼下の人間たちを憎々しげに睨みつける。邪眼の能力でもあれば、そのまま呪い殺そうとでもするかのようだ。
「構うな、レリエル。これ以上人間などに足止めを食うわけにはいかん。早々にカオス、タブリス、ゼルエルに向かうぞ。お前の時空を操る能力なくしては、ゲートの向こうに逃げ込んだ奴等を追えぬ」
 見惚れるような美しい銀髪を風になびかせながら、マトリエルは言った。
 レリエルの特殊能力は時空系の技にある。死神ゼルエルという特殊な例外を除いて、 <次元封印> などという奥義を使える使徒は皆無。だが、レリエルだけはエンシェント・エンジェルより時空を操る特殊能力を授かっている。禁咒とされる <次元封印> もそのひとつであった。
 タブリスが死神と同じように次元封印を自由に使えるのは、このレリエルの能力を持っているからだ。彼は、ゼルエルを除く全使徒の特殊能力を、自在に操ることができる特例。死神ゼルエルと並び、使徒の頂点と称される所以であった。

「――急ぐぞ。意表を突かれ、既にかなりの時間を浪費した。このままでは最悪手遅れにもなりかねん」
 ガギエルはその言葉とは対照的に、微塵の焦燥感も感じさせない声音で言った。あくまで銀と氷の女である。 「やむを得ぬな」
 レリエルはもう一度人間たちを睨みつけると身を翻した。そのまま門の向こう側、すなわち亜空間に消えたカオスたちを追跡しようとする。
 が、それを阻んだのはまたしても人間だった。
「言ったはずよ、この先には行かせぬと!」
 ロンギヌス隊に生涯を託すものは、何も男たちばかりではない。精神と生命力の強さでは、ある意味で男性を大きく凌駕する女性も、アランソン候の元に集っている。
「我ら五名が、何をもってここに残ったか知っていて?」
 三・一〇・一〇・一〇・五・一
 直接敵本陣に斬りこむのは、第四番目に位置する最後の一〇人までだ。
 では、その後の五は何の役割を担うか。それは、彼女たちが白兵戦を挑む突撃兵ではなく弓兵であることに関係している。
 そう。天使がある程度の被害を受けた段階で上空に逃れようとすることは想定の内。彼女たち五人の長弓部隊は、この上空の天使を――
「射落とすためよ!」

 かつて、偉大な狩人があった。
 その神弓は、風に乗って地平の彼方の獲物を射とめた。
 高く遠く、美しい弧を描いて飛ぶその男の矢に、世の狩人が憧憬した。
 男の名はルートヴィヒ・ド・バイエルン=インゴルシュタット。
 アランソン候ジャン一世の姉、カトリーヌの夫。すなわち義兄であり、そして親友であった男。ジャンの理想と夢に惹かれ、彼と共にその夢を追った偉大な男である。
 今はもう彼は亡いが、彼の教えはまだロンギヌス隊の胸に残っている。
 世界最高峰の技を教授されたというときめきと、そして誇りと共に。
 ――弓は心と心得よ。
 彼はそう説いた。
 射る者の心が矢に宿る。夜闇の中、岩を家族の敵の姿と見違え渾身の一撃を放った哀しい男の矢が、その岩を貫いたという話を聞いたことがあろう。同じだ。弓矢は心で飛ぶ。揺るぎない意思の力を込めろ。そして波紋に揺れぬ、鏡の如き静かなる水面の精神で挑め。それができるようになったとき、この射ち方を試してみるといい。おれはいつも、こう念じなから打つ。 「いまこそ、我等が愛しき公王のために」
 卿等もここぞという瞬間はその射法にて放ってみよ。
 陽光、月光と自らで標的を挟み、曇りなき眼で一点を定めよ。そして引き絞れ。
「放たるは、クルトキュイスの弓」
 そこに太陽が見えたなら、太陽に向かって。
 五人の弓兵たちは、天使が宙に舞い上がった瞬間渾身の力を込めて弦を引き絞る。
 揺るぎない意思ならここにある。命を使うべき瞬間が、ここにある。
 今この瞬間、全霊を付してただ一矢を射る。最後にして無二に矢を射る。
 見据えるのは翼を持つ天使ではなく、いつも心に描いた未来。
 五つの声が、重なる。調和する。
 そこに陽が見えたなら、陽に。
 そこに月があったなら……

ロンギヌスの――

月に向かって撃て。

「弓!」

 空を疾る。
 風を裂き、五本の煌く光の矢が蒼穹を駆ける。
 それは遠く、高く、美しい弧を描いた。
「――しまったッ」
 一気に音速の領域に突入しようと、加速のための溜め行っていた使徒たちは不意を突かれる。まさか人間が宙に舞う自分たちにまでしかけてくるとは、さすがの彼らも予測はできない。
 そして、予測を超えていたのはロンギヌスの男たちがこの一瞬に懸ける想いも同じであった。
 その想いの強さ分だけ、人間の放つ金色が輝くというのなら、天使の絶対領域を破れぬはずがない。
 その放物線の頂点に到達した光の矢は、陽光を浴びて一際輝いた。
 そして本領はそこから発揮された。五本の光矢が閃光を放ちながら弾けたのだ。
 分裂した矢は、まるで戦艦がレーザー砲を一斉発射したかのように数え切れぬほどの光の筋と変わって、宙に浮かぶ天使たちに降り注ぐ。
 それは、彗星のスコールだった。
 光の尾を引く幾筋もの矢が、土砂降りの雨のように天使を叩きつける。
 天使も防御結界を展開するが、及ばない。その不可侵の壁を易々と突き破ると、矢は天使たちを怒涛のごとく貫く。それでも光のシャワーは収まらない。
 矢は地上に陣取る <JA> たちの残存部隊にも襲い掛かった。絶対領域A.T.フィールドでさえ防げなかったその魂の矢を、 <JA> がどうこうできるわけもない。ズタズタに貫かれた鋼鉄の天使たちは、そのコアすらも射ち抜かれ大地に残骸をさらした。
 五人の女兵たちは、七秒の間に合計一〇本ずつの光の矢を放った。
 降り注ぐ光は、上空の天使、マトリエル一体を殲滅。 <JA> 部隊を壊滅させた。

「レティシア、ジョアン、マリ、レジイヌ、テレサ。――見事。敵は残り使徒四騎。ロンギヌス隊、残り一一名でこれを叩く。最後の仕上げぞ、抜かるな!」
 エイモスの怒号に、攻撃第三陣の最後の一〇人が突撃を敢行する。
 サンダルフォン、レリエル、ガギエル、イロウルの四騎はコアこそ守り抜いたが、光の矢で甚大なダメージを受け、地に墜落していた。地に墜とされた天使など、今のロンギヌス隊の敵ではない。
「よし、我々一〇人で決着をつけるぞ」
 最後の一波を駆ける騎士が、気合を込めて吼える。
「我等には七拍もいらぬ。ただ刹那。使徒の速度をも超える神速があれば――」
 彼らが突撃すれば、残るのは最後の一。すなわち、エイモス・クルトキュイスのみ。
 ここで決めなければ、突破される。
<JA> は二〇人の突撃と、弓隊の攻撃で全滅した。残るは四騎。天使四騎。
 最後の一波を勤める一〇人は、ただの突撃部隊ではなかった。
 かつてシチリアに難破した、東方の男。日出国の武人。その異国の剣士を拾ったアランソン候が、彼らより習得した東洋の剣術。それは体系化されていなかった欧州の無骨な剣技と融合し、独自の発展を見せた。
 ロンギヌス隊は、その先代とリジュ卿とを剣師と仰ぐ男たち。故にその奥義をも引き継いでいた。
 ただ一瞬を駆け抜ける、神速の剣。今の彼等にもっとも相応しい最高の剣技である。
「我等が剣に弐の太刀なし」
 一瞬でいい。天使たちより速く。風よりも、雷迅よりも速く。神速の世界へ。
「その初撃を以って必殺の一撃とせよ」
 これ即ち、

ロンギヌスの――
「熱歌」

 一〇の男たちが一斉に地を蹴った。
 その殺人的な力に体が耐え切れず、踏み切った足の膝から下が爆発するように消し飛ぶ。
 だが、男たちはそれを全く意識することはなかった。
 細く鋭く特注された半身の剣が、鞘に収められたまま金色の光と変わる。
 そして彼らは、風も、天使も、音すらも置き去りにして一瞬を疾走した。その爆発的な加速に、天使たちは対応できない。ロンギヌスの男たちは雷迅と化し、四騎の使徒たちを駆け抜ける。
 心臓が一拍する間に、彼らは天使たちをすり抜けその背後に着地を決めていた。
 金色の結界に守られた体が、地を抉り徐々に勢いを殺しながら彼らを止める。
 天使を駆けぬけ、その背後の大地を削ると彼らはようやく停止した。
 ――もう、生者はいなかった。
 ただ、剣を鞘に収める微かな金属音が一〇。奇妙に静かな戦場に響き渡る。
 瞬間、硬直していたかのような時の流れが元に戻る。
 同時に、凄まじい斬撃音が幾度も幾度も爆発し、続いて大地に何かが倒れこむ音が聞こえた。
 四騎の使徒の内、実に三騎までが斬撃によって絶命していた。
 細切れになったその体は、原型を留めていない。ただ、突然のカマイタチにやられたように鋭利な切り口を残したまま大地に散っていた。
 男たちは魂の光に変えたそのロンギヌスの剣を、天使たちの横を駆け抜け様に幾度も振りぬいたのだ。その一瞬の剣技は、音速をも超え天使の目に映ることもないままに完了された。
「まさか……こんな、ことが」
 残ったのは両腕を斬り落とされ、胴を両断されて地を這うレリエルのみ。
 この天使のコアだけは、ロンギヌスの居合を辛うじて免れたのだ。
「エイモス・クルトキュイスは、傭兵でした」
 ひとり残った甲冑の老兵の呟くような声が聞こえてくる。
「故郷を焼かれ、家族を惨殺され、魂の抜け殻となったまま現世を彷徨する亡霊でした」
 レリエルは任務の失敗を悟っていた。今のこの肉体の損壊程度は、最悪の値である。
 復元・再生すれば復活は出来るが、それを待っていてはとてもカオスたちの後を追うことはできない。それに今、目の前にはひとり残った騎士がいる。
 己の死と引き換えに、使徒のそれを超える恐るべき金色を放つ騎士だ。
 ――ならばせめて、貴様だけでも。このコアの自爆と共に、貴様だけでも道連れに。

「ある日、エイモス・クルトキュイスはひとりの御仁に出会いました。名をジャン・ダランソン。若君。貴公のお父上にございます」
 エイモスは、薄い微笑みを浮かべた。
「私はあの方に救われました。故郷をいただきました。家族をいただきました。人としての尊厳と誇りを。そして、このロンギヌスの魂をいただきました」
 左の肩当には、ユニコーンの紋章を引き剥がした痕。腰には真っ二つに叩き折った長剣。
 もう、自分がロンギヌス隊の一員であることを示す物はなにもない。
 でも、エイモスはそれでも自分はロンギヌス隊の一員であると信じていた。
「申し訳ありませぬ。若君。生きて戦場より戻れ。戦で命を落とすな。その命に、今回ばかりは従うことは出来ませんでした。――ですが、我等は命を捨てたわけではありませぬ。死を求めて戦ったわけではありませぬ。ただ、この瞬間だけは我侭に生きてみたかっただけなのです。もっとも命を燃焼させることができると予感した、この場の中で」
 夢があり、志があって。
 だから、譲れなかった。
 たとえそれを追った結果として、死が待ち受けていることを知っていても。
「今、あなたのために果てようとする男がおります。あなたのために果てた女がおります。されど、その死を哀しまれる必要はありません。ただ、心の片隅でその散り逝く命を糧として、あなたは未来を作って下さい。あなたの望んだ未来を作って下さい」
 それが、エイモス・クルトキュイスの願いである。
「此度の戦は確かに貴方のためのものでありました。ですが、それ以上にこれは私たち自身の戦いでもあるのです。貴方を守ることが、貴方を信じることが、我々の夢へと繋がる。我等が勝手に夢を見て、夢に懸けた。ただ、それだけのことです。そして、ロンギヌス隊が命を懸けるにそれは十分過ぎる力でありました」
 ――我等は幸せなのです。心の限り生き、子供のように夢に夢中になって、そしてその夢に抱かれながら死ねるのだから。
「だから、哀しまれることなどなにもありませぬ。悲しみよりも、祝福を。出来ますれば我等の死を、どうか歓んでやっていただきたく」
 そこで、エイモスは気づいた。
 二二年前の、あの男の姿が――その言葉が、脳裏によみがえる。
 今、エイモスは時を遡り、心を交し合った盟友と向き合っていた。
 はじめて出会った、あの時の姿のままに。
 オレにはもう、何もない。
 家族は皆、殺された。故郷は灰になった。残ったのは魂の抜け殻と、そして血に汚れたこの手だけだ。オレがどのように生きようが、もはや如何でも良かろう。
 一日も早く、一時も早く消えるが世のため。
 オレの死を哀しむ者など、もうどこにもいはしないのだから……
――オレが歓ぼう。


お前の死を、オレが歓ぼう。
……それでは足りぬか

 エイモスの頬を一筋の涙が伝う。
 今、はじめてエイモス・クルトキュイスはその意味を理解した。
 その言葉に込められた意味を理解した。
――歓ぶ。おれを愚弄しているのか。若き日のエイモスはそう返した。  そのような意味ではない。お前がオレの元で生を送り、そして死ぬ時。その時がくれば、私の言葉の意味も理解できよう。
「閣下……!」
 不覚にも、涙を止めることが出来ない。このエイモス、愚かにも今、この瞬間になってはじめてその意味を解しました。遠く呼びかける。
 懸命に生きた者の死は、祝福すべきものなのだ。人が生きぬき、その命を完全燃焼させて果てた時――共に歓びを分かち合ってくれる者こそが真の友なのだ。死に際に微笑んだ男を、同じ笑みを浮かべて見送ってくれるものこそ……本物の絆で繋がれた同志であったのだ。
 出会ったばかりだったはずだ。初対面だったはずだ。自分の命を狙いに来た、憎むべき敵であったはずだ。
「なのにあの方は既に、その私に対して、これほどまでの言葉を……」
 なんという男と共に歩んでいたのだろう。エイモス・クルトキュイスは。
 魂が震える。あの男の言葉が二二年の時越しに心を打つ。
「笑ってください、閣下。貴方のその言葉、二二年もかかりました」
 ――殿下。やはり、貴方の父君は生涯最大の友でありました。最高の騎士でありましたぞ。
 エイモスは、ゆっくりと鞘から剣を抜いた。折られた刀身がその姿を現す。エイモスはその柄を硬く握り締めた。そして、ゆっくりと歩き出す。
「エイモス・クルトキュイスは三国一の果報者にございました。もし更なる願いが叶うのならば、再びこの地に生を受けた折には、またジャン・ダランソンの名を持つお方にお仕えさせていただきとう、存じます」
 エイモスの歩が徐々に早まっていく。ゆっくりと、だが確実に。
 そしてそれはやがて、疾走へと変わっていった。手には光り輝く金色の剣があった。

 レリエルは突撃してくる最後の騎士の姿に敗北を覚悟した。任務は失敗。もうカオスもタブリスも止められない。預かったJ.A.部隊も全滅。自分以外の使徒も全て倒れた。
「だが、ただでは死なぬ。せめて貴様だけは、我と共に消えてもらう」
 コアを暴走に導き、レリエルは自爆の準備に入った。
 閣下、またお会いできますな。エイモスは微笑った。そして、静かに呼びかけた。
 若君。永久盟主、アランソン王。
 エイモス・クルトキュイス、これにて――

「おさらばに御座います」










 そして、光が溢れ出した。












to be continued...


←B A C K |  N E X T→
I N D E X