俺も絶対、忘れないから



CHAPTER XXIX
「蘇る銀狼」
SESSION・106 『ネオンジェネシス・クルセイダー』
SESSION・107 『現臨の冥帝』
SESSION・108 『パワーガイザー』
SESSION・109 『魔狼の戦闘形態』
SESSION・110 『蘇る銀狼』



SESSION・106
『ネオンジェネシス・クルセイダー』


■北海
2018年9月10日 12時24分

 北海と一口に言っても、そこは熱圏下層高度一〇〇キロの上空――
 旧世紀において、シャトルの機内放送ではほとんど『宇宙空間』として扱われていた領域である。ゆえに北海と表現するより宇宙とした方が、感覚的には適当かもしれない。
 そんな超高度の空を、銀色に輝く一機のハイパー・ソニック・トランスポーター(極超音速輸送機)が、滑る様に北上していく。その船体には、国連軍のエンブレムが控えめにペイントされていた。
「葛城特佐」
 機内、副操縦席に腰掛けた兵士が、後ろを振返りながら言った。
「ん〜?」
 緊張感のない応答が返る。その声の主は、長い黒髪が印象的な東洋人の若い女性であった。
「見っけたの?」
 葛城ミサト特佐。NERVドイツ支部から派遣され、今回の軍との共同作戦に参加している責任者である。ちなみに特佐とはNERV内での階級で、通常の軍での中佐クラスに相当する。
「はい。補足しました。そちらのモニタに回します」
 その言葉と同時に、ミサトの前のホログラフィを応用したモニタに、拡大映像が投影された。
 映し出されたのは、灰色の卵型をした隕石のような物体である。金属質というわけでもなく、かといって岩石のようにも見えない。一見した限りでは、それが一体なんなのか全く予測もつかないシロモノであった。

「やあっと来たわね。これがウワサの鉄砲弾か。私たちは運がいいわ。コイツが落下する地点に最も近いエリアに配置されていたんだから」
 モニタを一瞥すると、ニンマリと嬉しそうに笑うミサト。監視衛星とトランスポーターの連携で、月面からの突発的なアクションに備えてきてもう数日。監視と偵察を合わせたような、なかなかに神経を使う任務であったが、ようやく面白くなってきたといったところか。
「上は何て言ってる?」
 座席から身を乗り出すと、ミサトは副操縦席に座る兵士に顔を近づけて問いかけた。およそ軍人という仕種ではない。見かけもそうだが、ただのミーハーな女性にしか見えないのは彼女にとってプラスかマイナスか。
「未確認の質量移動としか」
 そんなミサトに、副操縦席の兵士は務めて事務的に応えた。
「ま、そりゃそうよね」
 案の定の答えに、ミサトは肩を竦めながら言う。
「それを確認するために私たちが出張ってるわけだし」
「その通りです。ですが、おどろきですね。まるで金属反応がない。あれにウワサの新型が搭載されているとすれば、ほとんど完全なステルスです。レーダーでは航跡を追うことしかくらいしか出来ません」

 ミサトは、再びモニタされている謎の物体に視線を戻した。
 もっとも彼女にとってそれは既に謎ではなく、新型EVAの輸送用ポッドに値するもの、という結論は出されている。月面からやってきたらしいという情報も、その仮説を裏付けていた。
「目標、大気圏へ到達しました」
 副操縦士がミサトに報告する。彼はミサトとは違い、おかしな表現だが……軍人らしい軍人である。
「問題はこっからよね。孵る前は可愛いものだけど」
 リツコの話によれば、一個の流星に恐らく三機は積まれてるんだから相手は新型巨神の三つ子ちゃんということになるわね。ミサトは声には出さず、そう続ける。
 注意すべきは、その相手の新型がどれほどの力を有しているかだ。
 軍人であるミサトにしてみれば、あらゆる兵器が通用しない敵……などといわれてもピンとこない。なまじ軍という存在が保有しているほとんど全ての兵器の威力・影響力について熟知しているだけに、逆に実感が湧かないのだ。
 こういう荒唐無稽な話は、かえって何の予備知識もない一般人の方が、スンナリと受け容れられるものなのかもしれない。軍人には軍人としての、それなりのプライドがあるというものだ。自分達が全くの無力となると、存在意義うんぬんに関わってくる。
 それは認めたくないところだ。
「目標、速度を落としながら予測ポイントへ向けて降下を続けています」
 副操縦士の言う通り、大気圏に突入したカプセルのようなものは、真っ赤に燃えながら真っ直ぐに落ちて行く。このままいけば、NERVが予測した通り北海に落ちるだろう。
 位置的には、イギリスの首都 <ロンドン> とオランダの首都 <アムステルダム> を結んだ直線上の、ちょうど真ん中と言った所か。どちらにしても陸地からかなり近い。狙っているのだろうか?

 ――もしかしたら今頃、財団幹部会ゼーレの連中は避難の準備でもしているかもしれないわね。
 落下していく隕石モドキを見詰めながら、ミサトはそんなことを考えていた。なにせ、財団はこのヨーロッパの王侯貴族を発祥とする連中だ。本部も欧州にある。
「あ、でも一緒か」
 思わずミサトは呟いた。よく考えてみれば、隕石モドキは世界中に三つ降下しているのだ。北海、太平洋、五大湖。
 ヨーロッパもユーラシアも、アメリカ大陸も駄目だ。逃げ場など、世界中何処を探してもありはしない。
「特佐、何か?」
 副操縦士が、振返って訊ねてくる。どくやら、耳ざとくミサトの呟きを聞きつけたらしい。
「いいえ、こっちの話。それより、オランダやベルギーへの津波の心配はないのかしら?」
 直径一〇メートル前後の隕石だ。これが落下したくらいで津波になるかどうかは知らないが、一応確認のためにミサトは訊いた。
「それは大丈夫でしょう。目標は確実に速度を落としつつあります。ターミナルベロシティとは違う、自然な減速としては明らかに不自然な度合いですが」
「逆噴射でもしてるの?」
「いえ、その兆候は見られません。ですが不自然に降下速度が落ちているのは事実です」
「ふーん、さっそくリドルか。面白いヤツよね」
 おどけたような口調ではあったが、ミサトの目は真剣であった。彼女が集中しはじめた証拠だ。コツコツとペンで下唇を叩きながら、彼女はじっとモニタを見詰める。
「特佐、いかがしますか」
「そうね――」
 個人的には攻撃してみたい所だ。だが、それはこの場合彼女の権限だけでは決定できないし、なにより危険である。まだ、目標が敵の新型と決まった訳ではないのだ。
 あの物体に、何があるか分からない。細菌兵器の可能性だってある。刺激に反応する、未知のトラップという可能性だってあるのだ。
 迂闊に手は出せない。

 ――こういうシチュエーションって、嫌いなのよね。
 ミサトは胸中で愚痴った。相手の目的、狙い、正体すらハッキリしない以上、こちらは後手に回ることを余儀なくされる。それが、かなり気にくわないのだ。
「やっぱ、捕獲ってことでいいんじゃない? 上の計画通りにいきましょ。ここは無難にね」
「了解」
 このまま海に落ちてもらってもいいが、どうにも海洋汚染の危険性がある。陸地に近い以上、上はその危険性を回避したいらしい。だから、着水する前に電磁シールドを応用した『柵』でもって、空中でキャッチする。
 ――これが、作戦だ。
 宇宙空間から飛来してきた物は、どんな『モノ』を運んできているか分からないものだ。隕石自体が、とんでもない毒素の塊で出来ているかもしれないし、感染力がとてつもなく強い未知のウィルスは含んでいるかもしれない。
 映画のように、ただ破壊すればいいという問題ではないのだ。
「じゃ、コースを合わせて。私がマニュピレーター扱うから」
 このハイパーソニック・トランスポーターには、巨大な人型のロボットが搭載されている。NERVがオリジナルJAを研究していた際、副産的に出来上がったやつを改良したものだ。人が搭乗し、かなり細かい動きを再現することが出来る。
 これを以って落下中の隕石に接近し、電子柵に閉じ込めるのだ。大胆……というか、半分無茶な作戦ではあったが、ミサトは気に入っていた。そういう無茶をやり遂げてみせることに、彼女は遣り甲斐を感じるのだ。

「――特佐!」
 座席を立って、機体後部の格納庫へ向かおうとしたミサトに副操縦士が叫んだ。悲鳴のような、緊迫した声だ。
「どうしたの」
 尋常ではない空気を察知したミサトが、駆け寄りながら訊く。そのミサトの言葉が終わらないうちに、応えは素早く返ってきた。
「モニタを。目標に変化が生じています」
「なんですって?」
 急いで座席に戻ると、備え付けのモニタに急いで視線を落とす。瞬間、ミサトは目を見張った。卵型の輸送機と思われるものが、今まさに分解しようとしているのだ。
 ミカンの皮をむくように、カパリと三分割した外壁が剥がれていく。ツボミだった花の花弁が、ゆっくりと開いていくような感じだ。そして、解放されていく花びらの向こう側から現れたのは背中合わせに並ぶ、三つの人型――
 赤、青、紫。
 間違いない。監視機構の新型だ。
「やばっ、上に報告。急いで!」
「了解」
 素早く命令すると、ミサトは再びモニタを凝視する。
 ミサトは、本能的なレヴェルでこの三騎の巨神に恐怖を抱いた。これはただの人形ではない。それが、肌でビンビン感じられる。

「なんか、マズイわね」
 壊れた人形のように、今はグッタリと項垂(うなだ)れている敵の新型だが、もしこれが動きはじめたら?……そう考えると、非常な危険が差し迫ってきているような気がしてくる。
 根拠がないといわれればそうだが、兵士としてのカンが、先程から喧しく警鐘を鳴らしているのだ。
「報告終わったら、この機を捨ててパラシュート脱出よ。私は準備してるから急いでね」
 そう言うと、ミサトは座席を離れた。
「え、特佐?」
 操縦士が、信じられないという顔つきでミサトを呼び止める。
「ただのカンなんだけどね、もうすぐアレ、目を覚ますわよ」
 チラッとモニタに映る <鬼神> を目で示すと、ミサトは続ける。
「そしたら、この機体は間違い無く落とされるわ。その前に脱出するの。映像資料とデータを送って、現状を報告すれば私たちの任務はとりあえずの完了よ。お金はかかるけど、破壊された機体はまた作ればいいわ。でも、私たちという兵士は失われたら戻らない」
 その言葉を言い終えた瞬間、狙っていたように鬼神が動きはじめた。ゆっくりとその面が上がっていき、釣り上がったケモノのような鋭い眼に光が宿る。ミサトはたったそれだけで、背筋が凍りつくような戦慄を覚えた。
「貴方達、急ぎなさい。死にたくなければ脱出よ!」



■同日同時刻
月面一次クレーター <エンディミオン>

「はじめるか――」
 死の大地。無慈悲な月面の荒野に立ち、地球を見やる男は呟いた。
 しかしその格好たるや、尋常ではない。
 真空にありながら、その男は宇宙服も着ず平然としているのだ。少なくとも彼が人間ならば、即窒息し、血が沸騰するはずだ。生きていられるはずがない。
 だが、それでも彼はそこにいる。
 長い銀髪。目を完全に覆い隠す、巨大なバイザー。そしてその下に隠された、真紅の瞳。
 容姿としては変わった部分もあるが、それでも彼は完全な人間に見えた。しかし真実は違う。
 彼こそが、かつて <明星> と呼ばれた大天使。その魔皇三体が一角。最速の魔皇、サタナエルである。
「この素体では、いささか疲れる作業ではあるがな――」
 そう自嘲気味に呟くと精神を集中させ、サタナエルは巨大な特殊領域を形成しはじめた。すぐさま月面を覆い溢れ出すそれは、宇宙空間を漂う宇宙塵と反応しながら時折キラキラと輝く。
 まるで金色のオーロラのようにも見えた。
 瞬く間に全天を覆い尽くすベールとなった不思議なそれは、ゆっくりと地球に向かい、浸潤していった。包み込むように青い球体に、染み込み……やがてそれは全人類に行き渡るであろう。
「聞くがいい、監視機構よ。弱き者たちよ。そして、全てを知る者よ」
 今、この瞬間を以って、ラグナロクは真に開幕されるのだ。



■同日
第三新東京市ジオフロント <NERV本部>

 圧縮空気の抜けるような音と共に、発令所のドアが滑る様に開いた。ゆっくりとした足取りで現れたのは、NERV総帥・碇ゲンドウそのひとである。
 オペレーティング・フロアを見下ろすような位置に迫り出しているこの指令席には、既に副司令である冬月コウゾウの姿があった。
「碇、来たか」
 入室してきたゲンドウを、冬月が緊迫した表情で迎えた。冷静沈着な彼が、ここまで緊張してみせるのも希なことである。だが、状況を考えてみればそれも無理はなかった。
「遂に……遂にこの時が訪れたな」
 冬月は堅い声で言った。
「三年前、このNERVがエンクィスト財団の先兵として設立された時から、『この時』が来ることを半ば望み、目標とし、そして恐れてきたが――」
「たかが事のはじまりに過ぎんよ」
 珍しく感情的な冬月とは対照的に、ゲンドウは冷静にそう言った。

 NERV本部が混乱とも言える非常事態に陥っているのは、監視機構の新型がこの地球に降下してきたことが偵察と監視を行っていた各チームによって確認されたからだ。
 合計三つの <燃え尽きない流星> 。
 一つはベルギー北西の北海上に。一つは北アメリカの五大湖周域に。そして一つは、この第三新東京市に程近い太平洋岸に。
 魔皇サタナエルが送り込んできた、これら巨神の戦隊はただ単純に地球への侵略者の登場、人類存続の危機を示しているだけではない。
 これまで闇のベールに閉ざされていたあの <人類監視機構> が、今、人類の前でそのベールを脱ごうとしているのと同義なのだ。
 ――そう。ついに、天使と悪魔が歴史の表舞台にその姿を現すのだ。
 裏側から、しかもそれと悟られることのないまま、人類の歴史と進化を操作してきた超越者。そんな存在が、堂々と……あたかも神のごとく現れる。しかも、人類の抹殺を掲げて。
 これから予測される混乱と混沌は、いったい如何ほどのものか。考えるだけで身の毛がよだつ。

「地球の支配者として、『神』の如く振る舞っていた我々の国へ侵攻してくる巨神たち。そしてはじまる最終戦争。……まるで、ラグナロクだな」
「だが、我々に黄昏ている余裕はない」
 冬月の皮肉を込めた言葉に、ゲンドウは短く返す。
 北欧神話における、壮絶な最終戦争 <ラグナロク> 。この世界の終わりは、運命の女神 <ウルド> <ベルダンディ> <スクルド> らによって、予め預言されていた。
 彼女たちは見ていたのだ。神々と巨人たちが戦い、共に滅び、そして世界が終わるという哀しい未来を。
 神々は、その予見された滅びの運命に逆らうべく、様々な準備を進めた。
 戦乙女 <ヴァルキリー> たちに命じ、彼女たちを人間界に送り込んでは、優秀な戦士、英雄、勇者たちを殺し、天界の館 <ヴァルハラ> に連れてこさせた。そして、彼らを来たる <ラグナロク> に備えて、神の軍勢に属する兵士『エインヘリャル』として鍛えさせたのだ。
 また、神々は戦争に備えて巨人達の主力を封じ、自らが持つ強力な武器を鍛えることも忘れなかった。だが、その努力は結局報われることはなかった。

 ――ラグナロクは、預言通りに訪れるのである。
 その世界の終わりは、神の国へ巨人たちの軍勢が侵攻してくるところからはじまる。世界が終わらぬ夜闇に閉ざされ、永遠の吹雪が吹き荒れ、そして世に裏切りと哀しみと混乱が蔓延する中繰り広げられる、神々と巨人たちの壮絶な戦い。
 彼らはお互いの未来と運命をかけて戦い合い、そして滅びる。
 最後は全ての巨人、全ての神々が死に絶え――
 唯一生き残った炎の巨神 <スルト> が、世界に火を放ち、何処かへ消え去る。そして、それと共に世界は終わる。
 それが北欧神話のクライマックス。美しくも儚い、神々の黄昏 <ラグナロク> である。
「人間は、最終戦争に滅び去った神ですらない。黄昏ている余力も、時間も矮小なる我々人類にはないのだ」
 その時、そのゲンドウの言葉を擁護するかのように、発令所に警報が鳴り響いた。赤いハザード・シグナルが、薄暗いホールを切り裂く。
「どうした?」
 冬月が下のオペレーター達に問いかける。
「緊急報告です。 <国連軍> 及び <エンクィスト財団> 所有の衛星、地上波、海底光ケーブル、あらゆる通信回線が何物かによって占拠さた模様。全国各地の公共施設、民間からさえも同様の報告が殺到しています」
「占拠? 一瞬でか」
 身を強張らせて驚愕する冬月。
「多分、魔皇ね。恐らくメディアジャックのつもりでしょう」
 リツコが白衣のポケットから手を抜き、腕組みしながら言った。こんな大規模な、しかも人間業を遥かに超えたまさに神業の如きジャックは、魔皇の仕業としか考えられない。
 問題はその目的が如何にあるかだが――。
「先輩、各国の <NERV支部> 及び関係機関、政府、軍各施設との回線繋がりません」
 オペレーターの息吹マヤが、蒼白な顔で報告しくる。だが、リツコは驚かなかった。落ち着いた物腰で、それを受け止める。
「当然といえば当然ね。ここの通信回線だけ乗っ取った所でどうにもならないし。世界に向けて、宣戦布告でもするつもりでしょうから。とりあえず、マヤ。無駄だと思うけど奪還試みて」
「はい」
 リツコの沈着ぶりに落ち着きと希望を取り戻した彼女は、光明を得た笑顔で元気よく頷く。

 だが、その返答の後、マヤは一瞬にして凍り付いた。マヤだけではない。発令所に居る全てのものが、動きを止めて驚愕に目を見開いている。
 頭の中に……
 脳に直接、呼びかけてくる声がある。

 そして次の瞬間、彼ら全員は月を、月面のクレーターに立つひとりの男を『見て』いた。



■同時刻
フランス ルーアン

 アスカは、帰国のための荷物整理に追われている途中、不意に目眩を感じた。
 いや、正確には目眩に似た別の感覚と言うべきか。言葉にし難い不可思議な感覚であったが、彼女にとってそれは、既に経験済みの現象であった。

 ――そう。かつて、シンジに取り憑いた『ガルムマスター・ヘル』によって、脳内に直接映像を送り込まれ、現実とまったく相違ないようなバーチャル・リアリティ(仮想現実)の世界を経験させられた時に感じた、あの感覚だ。
「なっ……なに、これっ?」
 前回は数百年前であったか、世界の中心 <クロス・ホエン> なる別次元で繰り広げられた、大天使達の強烈な死闘を見せられたのだが――今回は違った。
 少なくとも、そこはクロス・ホエンなどという未知の世界ではなく、写真や映像で見たことのある月面のようだった。
 本来見えるはずのホテルの客室の像が途切れ、代わりに月のデコボコとしたクレーターのヴィジョンが割込んできたのだ。何度経験しても、気持ちが悪くなるほどの唐突な世界のスリ代わりであった。
「ちょっと、誰の仕業よ?シンジ?」
 慌てて叫ぶアスカ。それに応えたのは、隣室からアスカの手伝いに駆り出されていたカヲルである。
「いや、違う。これは……あの男は……」
 どうやらその声から察するに、カヲルも同じく月面に『飛ばされた』ような感覚に浸っているらしい。
「魔皇、サタナエル……!」
 珍しく緊迫した声音で、カヲルは断定する。
「がうむ、知ってましー、あの人、知ってまし」
 ガルムが嬉しそうに叫んだ。
 考えてみれば、この世界に召喚されるまでは魔界にいたガルムだ。そこには当然、魔皇三体が揃って居たわけであり、サタナエルの波動に面識(?)があって当然であった。
「あれが、ヘルと同じ大魔皇 <ルシュフェル> の三身分離の内の一角……サタナエル?」
 アスカが、震える声で言った。人間の――いや、生物としての本能が、サタナエルの無遠慮に発せられる魔力に恐怖を感じているのだ。
 こうして見ると、シンジと同化しているヘルが、如何にその能力を自在に操れていたかが分かる。彼女の場合、常にほぼ完璧に魔皇の力が漏れ出すのを押え込んでいた。恐らくアランソン侯の完璧なまでの <コア> が、そんな芸当を可能としていたのだろう。
 だが、サタナエルの不完全なコアでは、そこまでの制御が可能でないのだろう。もちろん、これから人類に向けて何かを発しようとしているのだ。力を隠す必要など、ありはしないのだが……。
「――間違いない。あれがサタナエルだよ」
「でも、どうやって?」
 NERVから訊いていた情報に寄れば、サタナエルは月面に居たはず。いったいどんな手段で、この地球に居る自分達に干渉してきているのか。アスカが訊こうとしたのは、そこだろう。
 だが、それに応えるだけの余裕はなかった。
「シッ、どうやらはじめるみたいだ……!」
 カヲルもアスカも、そしてジオフロントのNERV全スタッフも。そして、地球に生きる全人類が。
 今、宇宙空間に融合したような幻の中で、月面に立つひとりの男と対峙していた。
 男は、広大な死の大地をバックにその端正な顔を上げた。そして、ゆっくりと形の良い唇を開く。


「開闢以来、この大銀河に生まれ育った希有の存在。……人類よ」


 それは冷たく、小さくな声であったが、全ての人々に衝撃的な言葉として、等しく届いた。
 世界中の全ての人間達が、この銀色の髪の男に注目している。
 NERVと財団に関わる者は、それを超越者『魔皇』の言葉として。そしてその他の大半の人類は、それを未知なる男の言葉として。人間達は突然目前で展開されはじめた非現実に慄きながらも、その男の言葉を一言も聞き漏らすまいと彼に神経を集中させた。

 また、その奇妙な空間においては言語の区別などは無く、全人類が己の母国語でその言葉を聞くことが出来た。彼が何か未知なる手段を以って脳に直接意識を送り込み、それを各々の言語というフィルターを通して理解させているのだ。

 そのことからも理解できる。この男は、尋常な存在ではないと。
 そして何より、アスカがそうであったように……
 あらゆる人々は、この銀髪の男に本能的な畏怖の念を抱いていた。己が絶対的に到達できない高みに立ち、今、その場所から語り掛けてくる存在。

 この男は、『それ』なのだ。

 理屈も何も無く、奥底に眠る獣の本能が、そしてコア欠片が震え出す。

「聞くがいい。瞠目せよ! 今、己が姿を!
 汝は何者か。何故に其処に在るのか。何を担い、何を成すために其処に現れ出でたのか」


 静かな大宇宙に、震えるように意志が伝わってゆく。それはきっと、世界の中心クロス=ホエンの大天使達にも、届いているはずだ。

「成長と変化は同義にあらず。恒常を望み、向上に臨まぬ弱き者達よ。
 汝に与えられた機会は、既に失われた。
 歪は限界に達し、崩壊は今はじまろうとしている。もはや、人類という種にこれ以上の猶予を与える余力も、理由もないのだ」


 奇妙な形状をしたバイザー越しに、その真紅の瞳が光った。その鋭い眼光は、即座に生物たちの精神を射抜く。

「滅びよ、人類!
 専横の時代は終わり、天地は再生に移る! 汝はその障害なり! 死滅せよ、人類! これは要請ではない。願いではない。超越者 <神> が下す、人類への『命令』である!」


 男は荒れ果てた月の大地をバックに、地球に両手を広げて呼びかけた。

「我が名はテトラグラマトン。不浄なる者への天の裁きを!
 天と地に代わり、我は今ここに、人類抹殺を宣言する!」


 そして、その言葉と共に全人類が体験していた仮想現実空間への旅は、唐突に終わりを告げた。
 奪われていた視界が取り戻され、人類は通常の生活空間に復帰する。脳裏から月面と銀髪の男のヴィジョンは消え去り、今そこに在る正常な眺めが視界に戻ってきた。
「な……なんだったのよ、今のは……」
 ホテルの絨毯に、ペタンと座りこんでアスカは呟いた。力のないその表情は、まるでキツネに化かされて幻でも見ていたかのようだ。
「サタナエルの宣戦布告さ」
 こうなることを予期していたカヲルは、然程の動揺を見せず、ベッドに腰掛けたまま言った。
「――どうして、大した役者だよ。サタナエルも。なかなかユーモアに理解のある魔皇らしい」
 カヲルは唇を歪ませた。サタナエルのような魔皇と、人類とではその価値観が全く違う。まさか『環境破壊』と『種としての進化・成長の限界』を理由に人類抹殺云々を言ってくるとは……
「……面白いね。最近聞いたうちでも、もっとも斬新と思われるジョークだ」
 サタナエルとしては、人類が存在しようとしまいと、関係ない。ただ監視機構のエンシェント・エンジェルを、 <クロス・ホエン> から引っ張り出すための餌として、利用できればそれで良いはずである。
 環境保全も、進化も文化も、サタナエルにとってはどうでもいいことなのだ。
「それで、結局なんだったのよ、あれは?」
 なんだかいいように遊ばれたようで、アスカは気に入らない。声を荒げながら、カヲルに怒鳴りつけた。
「だから、宣戦布告よ。ただし……人類にではなく、人類『監視機構』に対してのね。サタナエルは、ああやって人類を脅迫することで、監視機構を煽り挑発しているのさ。君たち人間の死滅の危機は、そのままA.A.への挑戦状となる」
「あ、てえび!」
 人類に属さないガルムは、そんな事情には興味がないらしく、ただ面白そうに叫びを上げた。見れば、クッションのきいたベッドをトランポリン代わりにしてぴょんぴょん跳ねながら、短い指でTVを指差している。
「はぁ?」
 緊張感のない声に、面倒そうに反応するアスカだが、一瞬後にはその表情が凍り付いた。
「あ゛っ?」
 小さなガルムが指差していたのは、ホテルの客室に備え付けてある大型TVであった。恐らく、何故かTV好きであることが判明しているガルムが、何時の間にか電源を入れたのだろう。問題は、その画面に先程見たのとまるで同じ、月面をバックにしたサタナエルの姿が映っていたことだ。
「TVだけじゃない。ラジオもそうだ。外線に繋いでみたんだが、電話からもサタナエルの先程の『演説』が聞こえてくる。……どうやら敵さんは、地球の通信回線網のあらゆるものに細工を施したらしい」
 受話器を耳に当てて面白そうに微笑みながら、カヲルは言った。まるで、この状況を楽しんでいるかのようにも見える。
「じゃあ、なに?
 あの魔皇とやらが本気になれば、人類の文化は簡単にジャックできるってこと?」
 人類の通信をこうも易々と奪ってみせたのだ。それを麻痺させることも、各国のコンピュータシステムに侵入して乗っ取ることも、また破壊することも簡単なはずだ。
 IT万能のこの時代だ。コンピュータと情報通信をやられることは、滅亡に直結してくる。そして自分にとってそれが造作もないことであるという事実を、魔皇は既に証明しているのだ。
「冗談じゃないわよ――」
 アスカはその事実に気付き、戦慄する。
「そうさ。その冗談ごとでないことを、魔皇は簡単に実現できるということだ。もっとも、別にそんな手間をかけなくても、魔皇クラスなら――
 う〜ん、多分、超銀河団クラスなら一瞬で破壊できるはずだよ。
 太陽系はおろか、銀河をまとめて幾つも消去できるってわけさ。人類抹殺なんて、昼寝しながらでもできる。君たちが呼吸をしてみせるように造作もない事さ」
「そ……そんなに凄いの、魔皇って……」
 呆気に取られたアスカは、絞り出すようにそう言った。大体、超銀河団とはなにごとか。それを破壊するのに、いったいどれほどのエネルギーが必要なのか。
 それすらも分からないのだが――
 多分、人類が考えても考えるだけ意味のない次元の話であることだけは、何とか理解できる。
「今頃何を言ってるんだい?」
 呆れたように肩を竦めつつ、カヲルは言った。
「君は、中世でリリア・シグルドリーヴァや僕の本体の力を見たはずだろう。僕らは別空間で <対消滅> を起こし、そこで発生したエネルギーを無尽蔵に召喚して行使できるんだよ?

 そんな面倒をしなくても、デュラックの海をこの通常空間に解放してやるだけでもいいさ。地球の破壊なんて、それだけで事足りる。僕に言わせれば、魔皇でなくても太陽系の破壊くらい容易いことだよ」
 彼の言う <対消滅> とは、物質と反物質の反応のことである。例えば『電子』に、対する『陽電子』をぶつけるとする。そうすると物質(粒子)・反物質(半粒子)に反応が生じ、物質としての存在形態は失われ、質量が完全にエネルギーへと変換される。
 ――これが対消滅である。
 質量が完全にエネルギーに変わるということは、エネルギー源の効率として、それが考えられ得る最高のものであること意味する。我々の良く耳にする、核融合や核分裂の比ではない。
 具体的に言えば、対消滅ではそれぞれ一Gの物質と反物質を反応させると、180兆ジュールのエネルギーに変換される。これは、広島原爆の4倍のエネルギーに当たると言う。
 たった二Gから、それだけの莫大なエネルギーを作り出せるのだ。当然、制御にも相当の制度が要求される。
 故に、このあまりに桁違いに大きなエネルギーを扱いきれるのは、 <魔皇> 以外には <A.A.> のみ。使徒に至っては自由天使タブリスが唯一の存在だと言われている。どちらにせよ、次元封印と同じく『禁呪』として通常は使用が禁じられている奥義だ。
「対消滅は、この時空連続体――この『宇宙』では最強の力かもしれないが、魔皇以上のクラスになるとより上位の宇宙に属するエネルギー元素 <ダークマター> も扱えるはずだ。勿論、これはかつて人間が仮想していたものとは全くの別物だけどね」
「なによ、その <ダークマター> って。凄いの?」
 含みを持たせた言い方に興味を覚えたアスカが、憮然とした表情のまま訊いた。
「対消滅で得られるエネルギーなんて、 <ダークマター> に比べれば小さな花火さ。ダークマターは、暗黒物質。つまり、 <闇> の力だ。魔界の摂理に従う、別宇宙のエネルギーだよ。
 君にも理解できるように、便宜的な表現を借りれば――
 そうだな。『悪魔の力』『魔力』そのものってことになるかな?

 更に、その <闇> の力を凌駕する <無> の力もあると聞く。ここまでくると、僕でさえ彼岸の存在になるけどね。それでも、A.A.や魔皇なら使えるはずさ」
「 <無> って力なの?」
 アスカから言わせれば、闇とは暗いこと。無とは存在しないことだ。それとエネルギーが結びつくとは思えない。
「どちからというと、 <無> を力として使えるアビリティが凄いというべきかな。ま、どのみち人間の認識じゃ理解できないよ。電卓と同じさ。桁に限界がある。表示できる限界以上の位で計算を進めれば、 <E> 。エラーが出る」
 そういうことさ、とカヲルはアスカに微笑みかける。
「――はぁ?」
 また意味不明なことを言い出したカヲルに、柳眉を顰めながらアスカは言った。このヘラヘラした男に理解できることを、自分が理解できないなどと言われては……
 猛烈に腹が立つ。
「人間にはどうやったって、理解できないって事だよ。己の知るべき事が何かを知っている。知るべきでない事が何であるかをまた、知っている。これが賢人だ。君もそうあるといい」
「はあぁ……?」
 もはや理解不能だった。アスカには、ただため息にもにた吐息を洩らすことしか出来ない。
「それに、多分……」
 カヲルは真顔に返ると、続けた。
「――ヘルの言っていた <カオス> 。その <混沌> の力は、『闇』も『光』もそして『無』すらも内包する絶対にして究極の力。
 伝説によれば魔皇ルシュフェルはその <カオス> の力の制御に尽力し、そして不完全ながらも、扱いこなすまでに至ったとか……。その未完の混沌制御技術は、3身分離の後、魔皇 <カオス> に継承されたというが……」
 そして、中世のリッシュモン元帥は、魔皇カオスがそれらしい力を使っているのを『見た』。青い三日月に代わり、闇色に輝く漆黒の三日月を。
「ちょ、ちょっと! ちょっと! アンタなにひとりでシリアスやってんのよ?
 今は、そんな難しいこと考えてる場合じゃないでしょうが」
 なにやら思考の海に埋没していうこうとするカヲルを、アスカは慌てて呼びとめた。
「――すまない。確かにその通りだね」
 苦笑しながら、カヲルは言った。確かに、この危急の事態。考えるより行動すべきだ。
「しかしサタナエルの動きがこんなに早いとはねぇ……。NERVやアンタの予測、随分とずれ込んだんじゃないの?」
 この前、旅行の日程の変更を余儀なくされたニュースが飛び込んできた時、NERVの予測するサタナエルの次の一手は聞いてあった。地球への進行。確かにカヲルもNERVも、その事態を予測していたが……

 サタナエルの動きは、アスカにとって早すぎるとさえ映った。
「うん……。流石は魔皇といったところかな」
 それはカヲルも同感だった様で、顎をさすりながら彼は神妙な顔つきで頷いた。
「こうなった以上、もはや一刻の猶予もない。情報はNERVが一番多く収拾できているだろう。ここはシンジ君と合流し、このフランスのNERV支部に身を寄せよう。……本部からの情報と、指示がそこにいれば来るはずだから」
「荷物纏めるの、まだもう少し掛かるんだけど……。そんなこと言ってる場合じゃないかしらね?」
 赤いスーツケースに詰め込む途中であった、散乱する衣服に囲まれてアスカは言った。
「手ぶらで大丈夫だろう。僕の予測が正しければ、シンジ君とガルムには――」
「わふ?」
 話に自分の名前が上ったガルムは、キョトンとした顔で振返る。彼女はキチンと状況を理解しているのだろうか……。謎だった。
「シンジ君とガルムには、北海に落ちると予測されていた新型の相手を依頼されるだろう。それに付き合って、少なくとも僕は当分の間欧州に留まると考えた方が良い。アスカ君はどうなるか分からないが、もし送還が決まったとしても、君の荷物は僕が責任もって処理するよ」
「わかったわ……」
 こんな時、この自由天使の存在は確かに心強い。アスカはそう痛感する。
 的確な状況分析と、判断。冷静沈着で落ち着いた物腰。そして、迅速な行動。なるほど、中世で一流のエージェントとして名を馳せていただけのことはあるということだ。並みの使徒の及ぶところではない。
「で、NERVのフランス支部に身を寄せるっていっても……具体的にどうするの?
 通信回線は全部死んじゃってるんでしょ?
 電話も何も通じないんじゃ、連絡のしようもないじゃない」
「いや。何をしなくても、ここで待っていれば迎えが来るだろう。彼ら(NERV)は僕らの行動やタイムスケジュールを、逐一把握しているはずだからね。それに、一般のネットワークから切り離された、一部の守秘回線なら生きていると思う。外部から隔離された侵入経路がない回線なら、普通に考えればジャックのしようがない」
 問題は、その相手である魔皇は『普通』ではありえないということだが――

 自分の予測が正しいなら、乗っ取られたのは全世界的な通信回線網と、各国各地が所有する衛星や施設、中継所の類だ。これらから切り離された、一部の専用回線にはサタナエルは手を出していないだろう。今のところ、カヲルはそう考えていた。
「サタナエルの目的は、僕らを完全なパニック状態に陥れることではない。一時的な混乱をもたらし、人類の内部崩壊を助長することだ。……おそらく、現代版の <十字軍> を結成させるつもりなのだろうね。あの魔皇は。
 サタナエルは、 <テトラグラマトン> ――つまり、神を名乗った。そして、それに相応しい力を、全人類ひとり一人に直に見せ付けた。今後も <新型J.A.> を用いて、その力を披露し続けていくだろう。
 やがて人々は、彼の存在を受け容れていく。そこまで人類は追い込まれるからだ。そして、本物の <神> があらわれたとすれば、それを盲信する人間は過去にはありえなかった規模で出現する……」
 エンクィスト財団が、今一番恐れているのはそれに違いない。地球圏の支配者を自負する彼らにとって、神は紛れも無く自分達なのだ。サタナエルの存在は、脅威意外の何者でもない。
 財団もいよいよ追い込まれたというわけだ。監視機構本隊にくわえて、別勢力の魔皇サタナエルの相手もしなくてはならない。更に、サタナエルを崇拝する人類の反対勢力も台頭してくると予測されれば、まさしく四面楚歌だ。
 そして、それは同時にNERVが置かれている厳しい局面を示すこととなる。本質は如何にせよ、形としてNERVは財団の管理下に置かれた、その尖兵なのだから。
「僕は、サタナエルを神と認め、狂信・崇拝し、その言葉に従おうとする人間が、必ず出てくると予測する。そして、彼らは『人類抹殺』を謳うサタナエルの意向に沿った行動を起こすことだろう」
「それってまさか……」
 ここまで聞けば、アスカにも悟ることが出来た。蒼白な顔で呟く。
「――そう。彼らは、全人類を『神』の名において抹殺しようと考えるだろう。新世紀版クルセイダー(十字軍)の誕生さ。自分達は、『神に選ばれた崇高なる戦士』であると信じ込み、問答無用で他者を排除する。
 ただでさえ、『最後の審判』を聖書の記述通りに実行しようとする連中や、自分達を絶対にして無二のキリスト教徒と考え、他の様々な流れのキリスト教徒を根絶しようというテロリストたちもいるんだ。新たなる新興宗教も、多数生まれてくるだろう。
 今、確実に目の前に舞い降りた『神』――サタナエルを、自分達の信仰する神と同一視、あるいは教義に取り込む人間達が大勢現れる事は、想像に難くないさ。サタナエルを相手に戦争をはじめるまでも無く、史上空前の規模の宗教戦争が勃発し……、

 ――人類は、自らの足で破滅へと向かっていくかもしれないね」



SESSION・107
『現臨の冥帝』


 アスカとカヲルが、NERVが、そして全人類が、サタナエルの『人類抹殺』宣告に戦慄していたまさにその時。シンジもまた、ルーアン城の廃虚でサタナエルの姿を見ていた。

 ――滅びよ、人類

 サタナエルのその行動が、戦争のはじまりを意味することは良く理解できていた。
 そう、戦争ははじまった。もう誰にも止められない。
 戦争は人の命を弄ぶ。世界は極度の混乱状態に陥り、結果多くの人々が死んでいくだろう。また惨めで無意味な破壊の時代がはじまる。
 ピュセルを殺した奴等が、今度は歴史の表舞台に上がり、その全てを焼き尽くそうとしているのだ。
「満足なんだ」
 ピュセルが石床に刻み残した文字を、ボンヤリと見詰めながらシンジは言った。
「あなたたち超越者は、人類の権力者たちは何度でも、何度でも罪のない人達を巻き込んで、無意味な破壊を繰り返して……そして、彼らを殺して満足なんだ」
 今、シンジとアランソン侯は非常に危険な精神状態にある。それが、顕著に窺える声音。
「ピュセルを殺した」
 ポツリ、呟く。
「おまえたち <神> は、彼女を殺した」
 囁く様に言いながら、俯いていたシンジは気だるそうに顔を上げる。
 そこには、強い意志を感じさせる凛としたいつもの力強さはなく焦点の定まらない瞳。痙攣するような無気味な笑みを浮かべた、どこか狂気じみた表情が浮かんでいた。
「ゆるさない……って、いったでしょ」
例え如何なる理由があろうとも
 彼女を奪う全ての者よ

「たとえ <神> であろうとも、ゆるさないって」
 クスクスと笑い出しそうな、それでいて今にも泣きそうな顔で、シンジはポツポツと呟く。
「――僕、ちゃんといったよね?」
 それでも、はじめるんだね? そしてまた、同じような悲劇を繰り返すんだね?
「だったら、殺すしかないよね。きみたちが、ぼくのピュセルをそうしたように。殺すしか、ないよね?……もう」
――候、
 アランソン侯
 如何なした
 気を落ち着けろ
 今の汝は不安定すぎる


 奥底から、魔皇の声が聞こえる。
「知ってるはずだ、ヘル」
 狂気の表情から一転、知性の光を宿した瞳で空を睨みつけながらシンジは言った。
「許せないんだよ。みんな勝手だ。権益が何だって言うんだよ。そんなもののために、またピュセルを殺されてたまるか……!」
――やめておけ、候
 今ここで奴を潰すわけにはいかぬ
 奴のシナリオ遂行と、人類の大量虐殺容認せねば
 我々の手は、監視機構の大天使どもには届かぬのだ
 抑えろ、候


「うるさい、うるさい、ウルサイッ! アイツらはピュセルを殺したんだ。僕の好きな娘を殺したんだ! 焼き殺したんだ! また、殺しに来るよ。放っておいたら、また殺しに来る! そして、ピュセルと同じような哀しい人が再び現れる! 時代が悲劇を求めているのなら、僕はその時代ごと全てを破壊するッ!」
 何とか諌めようとするヘルの言葉に激しく頭を振りながら、シンジはヒステリックに叫んだ。

――候……
 何故今になって自らミスを犯すのだ、人間は



「ヘル! 僕に力を貸せっ!」


 悲鳴をあげるように、シンジは叫んだ。

――愚かな
 アランソン侯とて、やはり人間、やはり弱者
 ここに来て歪みが限界を超えたというのか……


 もはや、シンジにその憤りを制御する術は無かった。
 哀しみ、怒り、苦しみ、恨み……。これまでの永きに渡り抑圧されてきた様々な種の負の感情が、制御不能なレヴェルまで膨れ上がり、ピュセルの残した文字と、魔皇の宣戦布告を切っ掛けに一気に爆発したのである。
 彼は、ピュセルの死に耐えられるほど、強くはなかった。
 狂気的な怒りに我を忘れたシンジは、心の奥底に眠るのヘルの <コア> にアクセスし、今や完全な能力の発揮が可能となっている魔皇の力を一気に引き出し、そして躊躇無く解放した。
 周囲の温度が、急激に……下がった。シンジの髪が逆立ち、まるで一本一本に別の生命が宿っているかの如く、踊るように暴れ狂う。同時に、艶やかな黒髪は『銀』へ、その怒りに見開かれた瞳は『鮮血の赤』へと変わっていった。

 ――冥界の女帝 <ガルムマスター・ヘル> 現臨の瞬間である。

 全ての箍は弾け飛び、もう全てが見えなくなっていた。
 嘆きが怒りに変わり、復讐で曇った彼の真紅の瞳には――
 もう、敵となるべき存在の姿しか見えていない。
 暴走をはじめた魔皇ガルムマスター・ヘルの強力な魔力が、黒い旋風となって絶え間無くシンジの躰から噴出しはじめた。
 押さえ切れず制御下から零れ出たエネルギーが、ルーアン城の廃虚を瞬時に消し飛ばした。まさに、一瞬の出来事である。石造りの塔が瞬く間に崩壊し、建造物を構成した巨大な石片がルーアンの町に猛烈な勢いで飛散していく。
「我が全てを奪い、ピュセルを殺したッ!――人類監視機構! 叩き潰してやるッ」
 月に向かって殺意の咆哮を上げる、ヘルと化したシンジ。
 その怒りに合わせて、凄まじい暴風が堰を切ったように暴れ出していた。ドス黒く着色された重い疾風が、町をまるでミニチュア模型のように切り刻み、破壊していく。ルーアンの町は一瞬にして、壊滅状態に陥った。
 中世の頃から残る古い建築物は崩壊し、木々は根こそぎ旋風に攫われ、看板が、乗用車が、街行く人が、竜巻に呑まれたかのように空高く舞い上がっていく。

 二度目の咆哮と共に、瓦礫の山に立つシンジは地を蹴った。その爆発的な勢いに、大地が抉れ土砂が撒き上がる。
 次の瞬間には、シンジは上空数千Mの高みにまで舞い上がっていた。そのまま空を切り裂き、更に加速を続けると、彼は真っ直ぐに <月> を目指す。

――鎮まれ
 鎮まらぬか、候! 怒りに任せて力を解放するとは……
 地上に、甚大な被害を齎しているのが分からぬか
 この様な所行、汝が望むところではあるまいて


 だが、我を忘れたシンジに、ヘルの冷静な声が届くはずも無かった。
 シンジは深紅の瞳に、実も凍るような殺気を湛え、更に速度を上げる行動に出た。まず、ATフィールドを飛行形態に適した形状、角度で展開し、あらゆる抵抗を受け流す。無論、形成された絶対領域は重力をも完全に遮蔽する。
 そしてある程度の高度に達すると、異界より召喚したエネルギーを下方へ解放し、推進力とすることで、更に爆発的な加速を得た。殺人的な加速がATフィールドで仕切られた空間を、更なる高みへと押し上げていく。
 推進力に用いられた噴射によるエネルギーは、やがて地上にまで届き、さながらダウンバーストの如き猛威をふるうことでルーアンの町に深刻な被害を与えた。

 ――なんと荒々しい波動か

 魔皇という超越者に、人間のような激しい感情は必要ない。仮にそのような感情があったとしても、完全に制御できる。だが、この人間という生物は……

 喩様もないほど愚かで脆弱であるにも関わらず、狂気的とも言うべき強い感情を、こうも易々と産み出せる。ヘルは、アランソン侯の存在に、魔皇である自分が敗れた理由を悟ったような気がした。

 ……だが。

――候、鎮まれ
 感情に呑まれた状態で、汝が扱いきれるほど魔皇の力は甘くない

 現に、今汝が制御下に置いている力など
 我の本来の力の一割にも満たぬ

 如何に完全体でないと言えど
 これで勝てるほど、サタナエルも甘くはないぞ


 事実、魔皇の力を全開できたなら、被害はルーアンが壊滅する程度では済まなかったはずだ。力を解放するだけで、惑星クラスなら跡形もなく消し飛ぶ。超新星爆発にも匹敵するエネルギーが、恐らくは放出されることだろう。
 それが、魔皇という存在なのだ。

――人間にブレインを任せておくのは、まこと世話が焼けるものよな

 ヘルの説得にも、シンジはまるで応じようとしなかった。恐らく今の彼を止められる者がいるとすれば、それはかのラ・ピュセルのみであろう。だが、彼女は六〇〇年前に死んでいる。
 ヘルは思わず舌打ちした。こうなった以上、『説得』ではなく『実力行使』に手段を変更せざるを得ないからだ。

――ガルム=ヴァナルガンド

 聞こえるか、我が僕(しもべ)よ
 召喚に応じ、此処に出でよ

 また、魔皇ヘルの名において重ねて命ず
 アランソン侯の暴走を止めよ
 この際、肉体を破壊しても構わぬ

 今、候にサタナエルを殺させるわけにも
 そして宿主を失うわけにもいかぬのだ


 ヘルの前に、漆黒の宇宙に浮かび上がる白い月が、迫ろうとしていた。



SESSION・108
『パワーガイザー』


「あの……先輩っ」
 幾つものモニタに目を走らせては、凄まじい勢いでキーを叩いていた伊吹マヤは、後方を振返ると直属の上司である赤木リツコ博士に呼びかけた。

「なに、マヤ」
 伊吹マヤは優秀なオペレーターである。リツコの目から見れば、まだ成長の余地はあるわけだが、なんにしても日本で間違い無く5指に入ると断言できるほどの経験と能力、そして知識を備えている。
 彼女にまかせておけば、相当のことがない限り自分が口を挟む必要はない。少なくともリツコは、部下であるマヤをそう評価していた。そのマヤが、ここしばらく忘れていた表情でリツコを呼び付けたのである。
 当然、気になった。
「何かあったの?」
 怪訝な表情で、リツコは訊いた。
「はい。あの、この計器なんですが……」
 身体の位置を変えてスーペースを作り、マヤがリツコに見せたのは――
「私が作ったヤツね?
 ……まさか、反応があったの?」
 リツコの表情が変わった。その口調からすると、本当に反応を検出できるとは考えていなかったというところか。
「は、はい。それが、あったんです」
 戸惑いがちにマナは言った。
 彼女たちの話題に上っているのは、渚カヲルこと自由天使タブリスのアドバイスを得て、リツコ自らが開発に尽力していた <使徒の発するエネルギーを探知・検出・計測する装置> である。
 きっかけは、霧島理事長が <ヘル> が放出する『気配』というか未知なる『波動』を、感覚的に捉えることができていたことである。理事長に言わせれば、『霊気』や『邪気』といった人類の知らないエネルギーを、科学的に感知することができないか。
 そう考えたリツコは、彼女の知る使徒たちの強力を仰ぎ、何やら適当に作り上げてみたのだが……
「ま、間違いないのかしら?」
 そう言いつつ、リツコは自作の怪しげな計器を覗き込む。
「間違いありません。いきなり爆発的な数値が計測されて振り切られてしまいましたが――
 フランスのルーアンを中心に、突然反応が現れたのは確かな事実です」
「ルーアンって言ったら、シンジ君……魔皇ヘルとガルムがいたはずよね?」
 彼らの行動は、NERVのフランス支部の職員の管理下に置かれている。当然、彼らの行動計画はここNERV本部にも伝わってきていた。サタナエルに通信回線を乗っ取られたおかげで、連絡が付きにくくなっているが、予定通りなら彼らはまだルーアンの町に滞在しているはずだ。
「はい。恐らくは、そのどちらかが <天使> の力を解放したものと思われます」
 いささか興奮気味に、マヤは言った。またもや自分の理解を超えた装置を完成させた先輩に、感動を覚えているのだろう。案外単純な娘である。
「 <天使> の力じゃないわ。魔皇(まこう)は、神である監視機構に反逆し、魔界に落とされた堕天使。――つまり、悪魔よ。まだ結論を出すには早いけど、もし本当に検出できたのだとすれば、これは <魔力> と言うべき存在ね」
「はいっ。そうですね」
 今が緊急事態にあることも忘れて、マヤは嬉しそうに頷いた。

 ――それにしても、さすが私ね。ジョークのつもりで適当にでっち上げたシロモノなのに、まさか本当に反応が出たなんて。……ミステリーだわ。

 実は、自分でも構造原理を把握していない赤木博士であった。
「もしこれが成功作だとして――の話だけど。どちらにしても、計器を作り直さなきゃ駄目ね。反応が強すぎて、探知器としてしか働かないわ」
 リツコは真顔に戻ると言った。流石は魔皇とその使い魔といったところか。先のバルディエルのような、下級天使をベースに作った計器では対応しきれないというわけだ。
 ――力の次元が違う。
「それで、その反応は?」
「はい。それが……位置的に上昇しているみたいです。それも凄い速度で。既に第二宇宙速度を超え、大気圏を突破しています」
 二人の女性が、モニタを覗き込む。そこは、観測される <魔力> 反応が移動していく軌跡が光点で示されている。
「まさか……」
 リツコは短くそう呟いただけであったが、マヤにはその意味するところが分かったらしい。彼女はコクリと頷くと、リツコのその推測を肯定した。
「はい。既にMAGIにかなりの回数シミュレートさせました。結果はやはり、月に――しかも1次クレーター <エンディミオン> に向かっていると」
「つまり、シンジ君だかガルムだかの狙いは <魔皇サタナエル> だということ……ね」



■同時刻
フランス ルーアン

 キッチンから繋がるドアが開けられると、途端に芳しい香りが室内に漂って来た。カチャカチャと耳に心地良い音と共にドアの向こうから現れたのは、アルカイック・スマイルを浮かべた渚カヲルである。
「やあ、お待たせ」
 彼はリビングでTVを眺めているアスカとガルムに、にこやかに微笑みかけた。手に掲げたトレイには、コーヒー、紅茶、そしてオレンジ・ジュースがそれぞれ載せられている。香りの正体はもちろん、自由天使が煎れて来たカップからのものであった。
「あんたもマメというか……。この緊急事態に、呑気なもんよねぇ」
 TVに延々と流れ続けるサタナエルの姿を見ていたアスカは、部屋に戻って来たカヲルに目を向けると呆れたように言った。本当に、あくまでマイペースな男である。
「なに、僕らに出来ることはここで迎えを待つことくらいだからね。慌てたところで損なだけさ。――はい、アスカ君。シンジ君の母君、ユイさんから教わった方法でいれた紅茶だよ」
 ニコリと笑って、カヲルはアスカにカップを手渡した。
「ん。どうも」
「それから、ガルムにはオレンジ・ジュースだ。本当はお皿にミルクを入れてこようかと思ったんだが、後でシンジ君に怒られそうなのでやめておいたよ」
 キラリと無意味に歯を光らせながら言うと、カヲルはガルムにグラスを差し出す。
 が、それはガルムの手に渡ることはなかった。
 暴風が一瞬目の前を通り過ぎていったような音と共に、突如として世界は激しく揺れた。
「なにっ?」
「キャッ」
「わふー」
 大地の振動に揺られたカヲルは、その手に持ったグラスを手放してしまった。空を踊る透明のグラス。そして、飛び散る黄色い雫。
 一瞬後には、ガルムのぽんぽんの中に収められるはずであったオレンジ・ジュースは、アスカの頭に見事にぶちまけられていた。
「あぅ〜、おえんじ・じゅーしーが〜」
 ぽよぽよの眉をしかめて、誠に残念そうなガルム。丸っこい指を口にくわえて、じーっとアスカ(にかかったジュースの水滴)を見詰める彼女の瞳は、涙で潤んでいた。
「そういう問題じゃ、ないでしょうが!」
 ジュースを頭から被って黄色くなったアスカは、肩をプルプルと震わせながら言った。
 だが、ガルムはそんな叫びなど聞いちゃいない。ならばとばかりにアスカに躍り掛かると、オレンジ味の彼女の顔をぺろぺろと舐めはじめた。まさに犬である。
「こ……コラ、ガルム! やめなさい! ……やっ……く……くすぐったいってば……ガルムっ」
「わふ〜、がうむのじゅーしーが〜」
 ばたばたと暴れるガルムを何とか引っ剥がすと、アスカは魂の抜け落ちるようなため息を吐いた。
「まったく。それで、いったい今のはなんだったのよ。欧州は地震が少ないって聞いてたけど、あれってウソだったのかしら?
 ねえ、カヲル。アンタはどう――」
 カヲルを振り仰いだアスカの言葉は、そこで途切れた。窓から蒼白な顔で、そとをジッと見詰める彼の姿に気付いたからだ。その口元からはいつもの微笑は消え失せ、胸苦しくなるような緊迫感が感じられる。
「ど……どうしたの?」
 アスカは立ち上がると、背後からカヲルに近付きながら訊いた。彼の雰囲気からして、ただ事とは思えない。恐らく、先程の地震のような大地の揺れに関係するのだろう。
「こんなとき、純粋な人間が羨ましいよ……。君は感じないのかい、この押しつぶされそうなほどの力の奔流を。このタブリスから見ても、これは狂気的としか言えない。もう天使だとか悪魔だとか、そういったレヴェルを遥かに超えている。――アスカ君。あれを見てごらん」
 ルーアン市内を一望に見渡せるスイート客室の窓辺に立つカヲルは、スッとある一点を指差した。それに導かれるままに、アスカは視線をその方向に向ける。
「んなっ?」
 想像もしていなかった光景に、アスカは小さな叫びを上げた。
 見れば、ルーアンの旧市街地――
 ルーアン城の廃虚があったあたりから、天を突き刺すかの如き巨大な黒い竜巻のようなものが放出されている。いや、 <竜巻> と言うより地上数十Mにまで舞い上がる、巨大な <間欠泉> と言ったところか。
 それにしても、見る者を圧倒する凶々しいばかりの暗黒色である。
「……パワーガイザーだ」
 カヲルは、驚愕の面持ちで呟いた。



SESSION・109
『魔狼の戦闘形態』


 燃え上がる巨大な黒い炎。天を突き刺すかのようなその巨大な火柱を中心に、町が――ルーアンの町が崩壊していく。それは実際その目にしていながらなお、信じ難い光景であった。
「ルーアンの中世の町並みが、消えていく……」
 一瞬にして瓦礫の山と化していくルーアンに、呆然と呟くアスカ。
「一体あれは、なんなの」
 その言葉に応えたのは、カヲルであった。
「極高い戦闘能力を持つ、使徒のトップに君臨する天使達――
 例えば <死神ゼルエル> 、 <自由天使タブリス> 、 <雷天使ラミエル> などは、東洋で言うところの『気』のようなものが、他の者と比較して恐ろしいまでに強く高い。
 下級天使である彼らでさえ、その天使の能力を引き出すと力の一部が一度その制御化から離れ、体から溢れ出したそれが周囲に集まり暴走し出すんだ。吹き上がる間欠泉の如く、または燃え盛る炎の如く使徒の身体の周囲に渦巻く力。
 それを、天使の間では <パワーガイザー> というように呼ぶ。
 そのパワーガイザーを再び制御下に引き入れ、防壁として練り上げたのが、天使の戦術防御結界 <ATフィールド> さ。普通の使徒は、意識してフィールドを産み出さなければならないが、上級者ともなれば無意識の内にも絶対領域を形成しているものだ」
「一時制御下から離れ、体から溢れ出した力の一部……」
 アスカは顔を顰めると、言った。
「あの凶悪な台風みたいなやつが、そんな可愛いレヴェルで落ち着くとは思わないんだけど?」
 アスカの言う通り、大型の台風のような猛威を振るいつつ町を破壊していくその黒い力の奔流は、とても『零れ出した力の一部』などとは思えない。それ程までに、凶悪な存在であった。
「無論、あんな大規模の闘気は、使徒風情ではとても練り出せない。それに人間の目にもハッキリと見えるほどにまで高まった、この狂気的な聖魔の力。フフフ……、誰がどう見ても間違いない。あんな常識はずれなパワーガイザーは、間違いなくこの世に現臨した魔皇かA.A.のものだ」
 カヲルは笑った。それは例えば、目の前にサッカーボール程の大きさもある天然のダイヤモンドを見せ付けられたときの反応と似ている。あまりにも常識外れで冗談のようなその存在は、逆に滑稽にさえ見えてくるものだ。
 カヲルは自由天使タブリスとして、目の前に展開されるパワーガイザーをまさにそのように捉えていた。

 ――躰が震えてくる……
 止まらない。兵士としての本能が、恐怖を感じているんだ……。
「でもさ、魔皇のパワーガイザーってことは、あれはシンジだってこと?」
 アスカはようやくシンジとこの騒動との関連性に行き着いたらしく、カヲルに問い詰めてきた。
「――そうだ。あれは、冥界の女帝、魔皇ヘルのパワーガイザーに他ならない。シンジ君は何らかの理由で、遂に魔皇の力を行使することを承認したんだ。彼は、ガルムマスター・ヘルとなったんだよ」
 鋭い目付きで荒れ狂う暗黒のパワースレイブを見据えながら、カヲルは言った。しかしそこで顎に手をやって俯きながら、声のトーンを落として続ける。
「……だが、狙いはなんだ?」
「シンジが魔皇を受け容れた……?
 そんなわけないわ。あれはシンジじゃない」
 アスカはカヲルの隣に並ぶと、崩壊していく町並みを睨み付けながら断言する。
「シンジは、この町を破壊した。下手すれば、死者が出ているかもしれない程に。あの小心者のバカシンジが、自ら望んでそんな大それたことをできるわけがない」
 あれはシンジじゃない、アスカはもう一度唇で呟いた。
「では一体……」
 訊き返そうとしたカヲルの言葉は、突然襲って来た爆風に消し飛んだ。凄まじい衝撃波が襲って来たのである。パワーガイザーからかなり離れた場所にあるはずの彼らのホテルの窓が、ソニックブームをくらったように次々に叩き割られていく。
「キャアアアッ!」
 窓際に立っていたアスカとカヲルに、散乱するガラス片が飛び掛かる。思わずアスカは悲鳴を上げた。カヲルはアスカを背中に庇おうとするが、一瞬遅く間に合わない。
 だが、結果的にふたりは奇跡的にも無傷であった。見れば、飛び散った窓ガラスの破片は、まるで二人の間にあった見えない壁に阻まれたように、綺麗に彼らを避けて床に散らばっている。
 ガルムが防御障壁を展開し、守ってくれたのだ。
「ありがとう、ガルム。おかげで怪我をせずにすんだよ」
 カヲルはニッコリとほほ笑んで、ガルムの頭を撫でてお礼を言った。
「皆のことは、へうさまから宜しく頼まれておりましー。だから、がうむが守って存知ましー」
「そうか、シンジ君が……」
 納得したように、カヲルは頷いた。
 シンジ君は、或いはこうなることをある程度まで予測していたのかもしれない。自分がピュセルの死に耐えられないことを、予め知っていた……。そう考えれば、急に別行動をとると言い出したことにも頷ける。
「哀しい人だ……あの人は」
 カヲルは囁くような小声で言った。
 結局、誰にも何も打ち明けることもできずに、一人で抱え込んで崩壊する。アランソン侯と碇シンジの悪癖である。孤独な彼は、肝心なところで誰かに心を委ねることが出来ない。
 かつて彼の傍らにいた、あの少女以外には。

 ――ピュセルよ、
 やはり彼には、君の存在が必要なのだ。必要なのだよ。
「ね、ちょっと! 炎が無くなったわ! シンジがいないわよ?」
 窓辺で叫ぶアスカの声に、カヲルは我に返った。枠とガラスの吹っ飛んだ窓から外を見下ろせば、確かに先程まで町を暴れ狂っていた <パワーガイザー> の存在が消えている。
 ただ崩れ落ちた廃虚の町が、痛々しく広がっているだけだ。
「……上だ」
 遥か上空に、強大なパワーガイザーの反応を見出したカヲルは言った。
「シンジ君は真っ直ぐ上昇している。凄まじい速度だ。音速の二桁に突入している。さっきの爆風は、飛行に入った時の反動か」
 ということは――

 カヲルは、ようやくアランソン侯ヘルの目的を悟った。
「月か!
 ……はやまったことを」
 カヲルは思わず舌打ちした。あまりにも、慎重な性格のアランソン侯らしくない行動だ。
 街中で魔皇の力を解放し、その後月面へ真っ直ぐ向かったという事実などは、彼が如何に感情に溺れてしまっているかを雄弁に語っている。アスカの、『あれはシンジではない』という言葉はあながち的外れでもないということか。
「クッ……!」
 カヲルは拳を堅く握り締めた。
 もっと、アランソン侯という人間を理解していれば――
 もっと、人間に近ければ、こうなることを予測できていたはずなのに!
「タブリスもまだ甘いか……」
「別に、あんたのせいじゃないわよ」
 アスカは、項垂れるカヲルに言った。
「人の境界線なんて、誰が定められるわけじゃないわ。手が二本、足が二本の、言葉を操る文化的生命体を人間だと定義するのなら、パーツが欠けて生まれて来るヒトは完全な人間じゃないってことになる。
 ……でもそれじゃおかしいし。
 結局、精神的っていうか……
 心に頼るしかないじゃないの? 人間だのなんだのってのは。
 それにね、人間はアンタが思ってるほど、他人の全てを理解できる動物じゃないわよ。でも理解しようと務めるわけ。今のあんたみたく、他人を知ることができずにいたことを悔やみながらね」
 アスカは腰に手を当てると、例の如く踏ん反り返って続けた。
「まったく、何度も言わせないでよね?
 ……アンタはもう、立派な人間よ。渚カヲル。誰が境界線を引けるものじゃないってことは、逆に言えば、誰もが好きな境界線を持てると言うこと。それに、自分の甘さを認識できるのは人間である証拠ってもんよ」
「アスカ君……」
「ま、とにかくアンタがどうこうして避けられたもんじゃないわよ、この騒動は。今のバカシンジを止められる奴は、誰もいやしないわ。後はあいつが死なない程度に、サタナエルにコテンパンに伸されて、逃げ帰ってくるのを祈るのみね」
 安らぎにも似た諦めの表情を浮かべながら、アスカは言った。
「リリア・シグルドリーヴァがいれば……。彼女なら、殴り倒してでもヘルを止められたはずなんだが」
 もうじき現れてもいい頃なのだが、残念ながら彼女たちはまだ『ここ』に辿り着いていない。カヲルはアスカの言葉通り、静観を決め込むしかないと諦めた。だが、諦めなどとは無関係の位置にある存在が、自分の側に一人だけいたことを彼は失念していた。
「がうむが行きまっし!」
 突然、ふたりの会話に割込んで来たのは、黒髪のガルムであった。
「ガルム?」
「あんたがぁ?」
 カヲルとアスカが、一人だけ元気なガルムに向けて怪訝な表情で言った。
「へうさまが呼んでましー。食い止めましー。ぎんぎらぎんで、おっきくなれましー」
 にこにこと嬉しそうに、また意味不明なことを言い出すガルム。相変わらず、他人には理解不能な言語を用いるキャラクターである。
「じゃ、行ってきまっし!」
 シュタッと手を掲げて挨拶すると、ガルムは意気揚々と部屋を出ていった。それを呆然と見送るアスカとカヲル。
 先に我に返ったのは、アスカであった。
「ち……ちょっと、ねぇ。止めなくていいの、あの犬。あんなのがしゃしゃり出ていった日には、更に状況が混乱するわよ?」
 ちなみに、ガルムは正確にはオオカミの血の混じった犬。すなわち狼犬である。
「確かにそうかもしれないが……」
 カヲルもなんだか難色を示す。だが、彼にとってもガルムの実力は未知数だ。期待は出来るかもしれない。
 少なくとも、戦闘能力では全力を出した自由天使タブリスと同等。いや、確実にそれ以上だろう。
「今はガルムに賭けよう。現状で、ヘルを失うわけにもサタナエルを失うわけにもいかない。それに、このままシンジ君を止めなければ、彼はまた傷つくことになる」
 神妙な顔つきで、カヲルはそう結論づけた。
「あ、下見て。ガルムが出て来たわよ」
 窓から上半身を乗り出したアスカが、ちょうど彼らの部屋の真下に当たる、ホテルの正面玄関を指差す。カヲルが視線をその方向に向けると、確かに無意味に楽しそうなガルムが、跳ねる足取りで表に出て来たところだった。
「あんなちっこいのに、一体なにが出来るっていうわけ」
「――いや、ガルムはただの子供じゃない。多分、形態を変えるよ。見ているといい。彼女の、いや彼のかな?
 ともかく、魔狼と呼ばれるガルムの本来の姿を垣間見ることができるさ」
 だが、カヲルは知らなかった。彼が知る黒い狼が、必ずしもガルムの本来の姿であるとは言えないことを。
「それはいいけど、なんであのオバカはよりにもよって全裸なのよ」
 訊かれたカヲルが、直接その問いに応えることは無かった。ガルム自らが、その答えを示してくれたからだ。そう、ガルムはアスカの目の前で、その姿を黒の狼に変えたのである。
「な、なっ?」
 驚きの余り、言葉を失うアスカ。ガルムがはじめてターミナル・ドグマに現れ、J.A.に憑依したバルディエルを倒した時、確かにアスカも本部にいたのだが、その戦いは発令所でしか中継されなかった為、彼女はガルムの本来の姿と能力を知らなかったのである。
 はじめて見る、ガルムの威容。先程のサタナエルの時と同じ恐怖にも似た感情を、アスカは感じていた。
「黒い……狼……?」
 呆然と呟くアスカに、カヲルは解説を加えてやることにした。
「これは僕の推測に過ぎないが――
 恐らく、ガルムはその形態を変えることで、自分の能力を制御しているのだと思う。魔皇直属のインペリアルガードともなれば、僕ら使徒を遥かに凌駕する能力を有していたとしてもおかしな話ではない。
 当然、通常の状態では、その溢れる力を押え込む必要が生じてくるのだろう。人間の姿を力をセーブする為の形態だとすれば、あれは一段シフトアップした姿。ガルムの戦闘形態と言ったところだろうか……」
 カヲルが言うところの戦闘形態をとったガルムは、前方の空間に自分が潜ることが出来るほどの大きな穴を開けた。それは、使徒たちが <次元封印> と呼ぶ、亜空間へと通じる時空のゲートに酷似している。
 普通なら、四つ星ホテルの正面玄関でこのようなものを出現させれば大騒ぎになるところだが、魔皇ヘルのパワーガイザーによって混乱したルーアンの町には幸運にも人影がない。
「なるほど……。今からヘルを追っても追いつけない。亜空間を用いた瞬間移動で、先回りするつもりか。――正しい判断だ」
 ガルムの思考を読んだカヲルは、そう評価した。
「それにしても、瞬時にあれほどの規模の歪みを作り上げるとはね。流石は戦闘形態と言うべきか」
 ここで、カヲルはひとつ読み違えていた。彼が見る『黒い狼犬』の姿は、ガルムの <戦闘形態> ではない。その事実を、彼はこれから思い知ることとなる。
「あ、ガルムが穴に飛び込んでいくわよ?」
 大丈夫なの、という表情でアスカはカヲルを振り仰いだ。
「大丈夫さ。ガルムもまた幾重にも及ぶ <防御結界> で絶えずその身を支えている。あの穴は、月面へ向かう為の入り口だ。SFでいうところのワープみたいなものさ」
 カヲルがそういう間に、ガルムの姿は空に浮かび上がった黒穴に消えて行った。しばらくすると、その空間の歪みも希薄になり消えはじめる。
「もうこの瞬間には、ガルムは月面に辿り着いているだろう」
 最強のインペリアルガードと、魔皇サタナエルとの対面がなされているわけだ。
「なんとも興味深い組み合わせだよ。ヘルの話によれば、サタナエルはもう一体の使い魔である <ベヒーモス> を温存しているとのこと。一体……どうなることやら、非常に気になるね」
「あんた、なに呑気にそんなこと言ってんのよ」
 ため息交じりのアスカの批判も、カヲルには聞こえていなかった。彼は自分のその言葉で、ある大事に思い当たっていたからである。

 ――そうだ……。サタナエルの使役するガードは二体。その内 <海王リヴァイアサン> は、既に召喚されている。
 だが、先程見た月にはリヴァイアサンの姿は無かった。月には、サタナエルひとりがいただけ。では、リヴァイアサンはどこへ消えたのだろう……?


SESSION・110
 『蘇る銀狼』


 不思議な色をしている。地球と呼ばれる惑星を見ると、不意にそう思えて来た。太陽とも、この月ともまるで異なる、異様な姿。
 あれが、美しいものなのか。人類にとっては。
 だが、住まう者が変われば、星もまた変わる。一見した限り地球は何も変わらないが……
 その内部は激動を繰り返しているのだ。
 そして、もっとも新しい衝撃的な混乱は、このサタナエル自らによって齎された。
 すなわち、人類抹殺宣言。現状で、地球という惑星を支配する位置にある人類。 <全てを知る者> が、何故あの生物に拘るのかは不明だが、そのことを利用できるという事実があれば、サタナエルにはそれでよかった。

 今のところ、事は全てシナリオ通りに運んでいると言えた。
 マイクロサイズに分割した <A.T.F> それぞれに、特殊なプログラムを施し、これを幾千億と地球に放った。その小さなA.T.Fは、全人類に行き届き、そのコアを通して月面からの『宣戦布告の映像』を再生してくれたはずだ。

 これによって、人類は勝手に動きはじめるだろう。
 死滅を畏れ、パニックに陥る者。サタナエルを我等が『神』、あるいはその『代弁者』と捉え、人類抹殺を自ら実行しようとする者。そしてそれとは逆に、サタナエルにあくまで反抗し種の存続を守ろうとする者。
 人類はその多様性故に、幾つにも割れ、内部分裂を繰り返しながら、種族同士で戦争をはじめることになる。更にそれを助長する為、サタナエルは、自律戦闘兵器 <エンディミオン> 及び、新世紀十字軍となり得る陣営に対する『親善大使』として <リヴァイアサン> を送り込んだ。
 人類は……
 サタナエルに届く前に、自ら滅びの道を歩んでいく。
「そして、人類が自らの崩壊をはじめた時――
 遂に <人類監視機構> は、この次元に現れ出でることであろう」
 サタナエルにとっての本当の戦いは、そこからはじまるのだ。人類の滅亡を盾に、四騎のエンシェント・エンジェルを敵に回し、これに勝利しなくてはならない。これは言うまでもなく非常に厳しい戦いとなる。
 だが、それに挑むだけの価値が <魔皇> にはあるのだ……

 サタナエルの思考は、そこで途切れた。というより、思考を中断せざるを得ない何かを、彼は感知したのである。
「これは――」
 かなりの速度で真っ直ぐにここへ接近してくる、巨大な波動。その波長は、サタナエル自身が放つそれに酷似している。間違い無かった。
「……ヘルか?」
 言葉と共に、サタナエルは地を蹴って真横に跳躍した。一瞬後、サタナエルが先程までいた空間を、光線のようなものが狂暴に抉っていった。
 続いて地表で凄まじい爆発がおこり、月面の地殻が数キロに渡って地割れを起こしていく。岩石が、土砂が、火山の噴火のような勢いで高々と舞い上がった。
 暫しの沈黙の後、噴煙の中ようやく現れたそれは――間違いなく、魔皇ヘルの拳であった。
「なぜ貴様が――」
 ヘルの突然の襲撃。それは、サタナエルの予測の範囲を超えていた。いや、これが真の魔皇ヘルであるのなら、ここに現れるわけがない。
 では、この <ガルムマスター・ヘル> の力を有する者は、一体何者なのか。

 激突した拳によって月面に新たに形成された、新たなる巨大クレーターの深き中心。瓦礫を飛散させながら、ユラリと立ち上がる人影がある。
 白銀に揺れる髪。明かりのない寒い夜を湛えたような、冷たい輝きを放つ真紅の瞳。そして、周囲に散らばる月の岩石を、凄まじい勢いで取り込みながら吹き上がる黒の間欠泉。
 ――パワーガイザー。
「ヘルでありながら、ヘルにあらず……。何者か」
 サタナエルの誰何の声に、陽炎のように佇む影は囁くように応える。
「……碇……シンジ……」
「なに――」
 銀の柳眉を顰めながら、サタナエルは言った。魔皇カオスとは一時的な同盟を結んだものの、独自の行動を起こしていたヘルに関しては、サタナエルはさして関心を抱いていなかった。
 例え単独であろうとも、監視機構だけは潰すというのがサタナエルの意志だ。監視機構への復讐に積極性を見せなかったヘルは、計画から除外していたのだが……
「カオスに続いて、貴様までもが人間の意識に取り込まれたと言うか」
「……サタナエル。お前を破壊する」
 冷たく言い放つと、ヘルの力を解放したシンジは再びサタナエルに襲い掛かった。凄まじい勢いで間合いが詰められる。次の瞬間には、溢れる黒の波動を乗せた剛拳が、サタナエルの顔面に放たれていた。
「チィッ!」
 舌打ちと共に、狂乱のヘルの拳を躱すサタナエル。距離をとって間合いを計ろうとするものの、間髪いれずに躰を反転させたヘルの裏拳が飛んで来た。これは、屈んで躱す。
 と、同時に刈り上げるようなヘルの蹴り。これを躱すのは流石に無理と悟ったサタナエルは、両手を十字に組んで、ガードを作る。
 次の瞬間、猛獣の突進を正面から受けたような、鈍く重い衝撃が襲って来た。パワーガイザーを利用し幾重にも展開されていた防御結界が、一瞬にして数枚消し飛ぶ。ダメージこそ無かったが、やはりこれは宇宙を統べる <魔皇> 同士の戦いであることを、サタナエルは再認識した。

 ――やはり人形相手とは勝手が違うか、
 パワーガイザーを利用した無意識レヴェルでの <防御結界> では、直接攻撃すら耐え切れんな

 だが、それ以上考えている暇は無かった。
「ハアッ!」
 足元を刈るような低い軌道の蹴りが、唸りを上げてサタナエルに飛んで来たのである。だが、視覚でものを捉えるわけでもなく、また重力その他の制約を受けない魔皇にとっては、高低差を意識した攻撃は意味を持たない。
 難なく上昇して躱すサタナエルは、月上空で体勢を立て直す。
 しかし猪突猛進、怒りに任せた攻撃をヘルは続けてきた。休む暇もない。並みの使徒なら、 <A.T.F> ごと躰を消し飛ばされる程の威力を持つ突き、蹴りがコンビネーションで矢継ぎ早に繰り出される。
「何が目的だ、ヘル!
 ここで我等が戦うことに如何な意味を見出したというのだ!」
 魔皇であるサタナエルには、感情に支配されたシンジの行動に意義を見出せない。ましてやヘルも自分と同じく、超越者である魔皇三体の一角なのだ。狂気的な激昂と接続して考えられるものではない。
「ヌオオッ!」
 サタナエルの声に耳を貸さないシンジは、更に怒涛のような攻撃を続ける。
「何故だ――」
 呟きながらも、サタナエルは攻撃の回避に専念することにした。襲い来る右ストレートを躱し、続けて下から襲い掛かってくる膝を腕で払い落とす。更に顔正面に向けて放たれる頭突きを、後方へ飛び退いて回避する。
 シンジも、逃れるサタナエルを懸命に追いかけていく。故意に速度を落した、だが高い威力を込めた上段蹴りをガードさせると、そのままサタナエルにタックルを仕掛けた。
 それを切っ掛けに、空中での『撃ち合い』から『組み合い』に移行するつもりである。
 上手く組み付いたシンジは、素早くサタナエルの足を捕るとそのまま自分の両足を絡め、足首と踵を極めに入る。いわゆるクロス・ヒールホールドと呼ばれる関節技だが、これは失敗であったと言わざるを得ない。
「ぐあッ?」
 本来、悲鳴を聞く側にあるはずであるシンジのうめきが、形成された防御用の絶対領域の振動を介して、サタナエルに届いた。大量の鮮血が飛び散り、丸い水泡として宙を漂う。
 激痛に顔を顰めるシンジの左腕は、肩先から完全に切断されていた。
 見れば、サタナエルの左足から光り輝くサーベルのようなものが、ヤマアラシの針のように無数に突き出ている。魔皇の絶対領域を凝縮して形成された、使徒のA.T.Fをも易々と切り裂く剣だ。これが、関節技に入ろうとしたシンジの無防備な腕を切り裂いたのである。
 魔皇が <攻撃用> に作り上げた高出力・高密度のエネルギー・フィールドは、パワーガイザーを利用した無意識レヴェルでの防御結界では防ぎきれない。これを防ぐには、同程度のエネルギーを消費して意識的に形成した、より高いレヴェルの防御結界が要求されるのである。
「何処で入手して来たか……、その <コア> の純度は本物らしいな。この次元で、完全体として機能するだけの素体を見出したか。――なるほど、お前の不可解な単独行動はそれ故のものであったと見た」
 完全切断されたはずのヘルの左腕が、サタナエルの目の前でみるみる復元されていく。一瞬、切断面が無数の光の粉のようなものに包まれたかと思うと、次の瞬間には、元の状態に戻っていた。幾ら切り口が鋭く、比較的復元の容易な傷痕であったとは言え、恐るべき速度である。
 純度の不十分な <コア> しかもたない今のサタナエルには、真似できない芸当だ。

 ――どのような術を用いたかは知らぬが、やはり人間に封じられた我等がコアの欠片、
 その使い様によっては、この忌まわしき呪縛から自らを解き放つ鍵となるか。計画が順調に進んでいる以上、その方面も同時に当たってみる価値はあるな。完全体への復帰は、監視機構との決戦に欠くことの出来ない要素となるが故に……

 そのサタナエルの思考は、またもやヘルの怒涛のような連続攻撃に妨げられた。
 鞭のようにしなる左ハイキックが、この戦闘に乗り気でないサタナエルに襲い掛かる。思考のために一瞬反応を遅らせるサタナエル。後方に飛び退いて何とか回避を成功させたが、空間を抉るように飛んでいったハイキックが、彼の目を部分を覆う巨大なバイザーを掠って行った。
 粉々に粉砕される金属製のバイザー。破片が宙を舞う中、サタナエルの冷たい美貌の素顔が曝け出された。冷たく鋭利な光を放つ真紅の瞳が、ヘルのそれとはじめて出会う。
「チイッ……」
 あくまでこの無意味な戦闘に拘るヘルに、舌打ちを禁じ得ないサタナエル。怒気をそのまま込めたヘルの連続攻撃を躱しながら、彼は、ようやくこの戦闘に本腰を入れる決意を固めた。
「――よかろう。理由は知らぬが……」
 怒りに我を忘れた荒々しいヘルの拳を躱すと、サタナエルは渾身のカウンターをそのボディに叩き込んだ。躰をくの字に折って動きを止めるヘル。サタナエルはそれに容赦無く、右のハイキックを放った。
 多重展開される防御結界をブチ破ったハイキックは、そのままヘルの側頭部にクリーンヒットした。ゴキリと首の骨が砕ける感触を残し、ヘルは弾丸のような勢いで月の地表に突き刺さる。凄まじい土砂が舞い上がり、また月の大地に新たなるクレーターが形成された。
「それ程までに戦闘に固執するのならば、相手をしよう。ガルムマスター・ヘル」
 その声に応えるように、ヘルが噴煙舞い上がる月の地表から飛び出して来た。まるでダメージを負った様には見えない。蹴り折られたはずの首も、瞬時に復元されたのだろう。
 ヘルは真っ直ぐにサタナエルとの距離を縮めると、再び肉弾戦を仕掛けて来た。
 拳に魔皇の強力な魔力が収束し、闇色のナックルを形成する。一発で、並みの使徒ならATフィールドごと肉体も魂も、粉砕できるほどの威力を持つ剛拳だ。その拳が、音速を遥かに超える速度でサタナエルに激突した。
 見事に標的の胴に直撃し、貫通するヘルの拳。が、衝撃を受けたのは、攻撃を放った方のヘルであった。目を見開いて、打ち抜いたはずのサタナエルを凝視する。

 攻撃をヒットさせたものの、手応えがまるでない。まるで、雲を殴り付けたかのようだ。明らかに、異常な感覚である。
「――動きが直線的過ぎるのだよ、汝は」
 頭の中に直接飛び込んでくるその <声> は、明らかに自分の背後から発せられたものであった。慌てて振返るヘルの網膜を、白光が貫く。眩い閃光を感じた瞬間、凄まじいエネルギーの奔流がヘルの上半身を抉っていった。
 異界から瞬時に召喚した爆発的なエネルギーを、サタナエルがヘルに向けて放ったのである。本能レヴェルでそれに反応し、回避行動をとりはしたものの、完全には間に合わなかった。右の大胸筋から以下、右手と呼ばれるパーツがゴッソリと <消失> している。
 それは、さすがの魔皇でも、『再生・復元』にかなりの時間を要する致命的なダメージであった。
「スピードとパワーは認めよう。流石は完全体だ。が、幻術に猛進する程度の能力しか持たぬ者が、我に勝利することは永久にない」
 冷たく、静かにサタナエルは言い放った。
「今の汝では、地球に降下させた人形ども――エンディミオンにも勝てまいよ」
 使徒を超えるレヴェル……
 例えば、新型J.A. <エンディミオン> 、 <インペリアルガード> と呼ばれる超上位使徒、その主である <魔皇> 、そして <エンシェント・エンジェル> 。
 これらの能力者たちが繰り広げる戦闘は、チェス・マスター同士のゲームにも等しい。
 高い『復元能力』と、無意識レヴェルでも数十層に及び展開される『防御結界』。そして音速を遥かに超える、『超高速移動』と、それに対応できる脅威の『反応速度』。極め付けに、 <コア> という心臓部の完全破壊を為し得ぬ限りの、『完全なる不死身の肉体』。
 これらに『召喚系』の高度技術や『ファート・タイム』と言った特殊技術、限りなく予知に近い『未来予測』などの諸要素が複雑に絡んでくる。戦闘に勝利する為には、これらの特性・技術を総動員した激戦を制し、相手のコアを破壊することが絶対条件となってくるわけである。
 つまり、神の領域にも近い相手の『未来予測』を超える行動を選択し、相手の不死身とも言うべき肉体に致命的なダメージを与え続け、再生・復元が追いつかないうちに <コア> を破壊する。これが、彼らを殺す唯一の術なのである。
 これを為し得るためには、数手、数十手、時には数百手先を常に予測し、フェィク、牽制を繰り返しながら、相手の読みを上回る戦術を実現するしかない。一手ずつ駒を進め、緻密な戦略を以って相手の鉄壁の陣を切り崩し、最後に『チェック』を仕掛けるという名人達のチェス・ゲームのように。

 今、ヘルの能力を完全に我が物と出来るシンジが、不完全な復活しか為し得ていないサタナエルに及ばないのは、そのあたりに原因がある。感情に溺れ、ただ我武者羅に猛進し、相手を破壊するしか念頭にない存在が、銀河を破壊できる程の力を振るおうと、絶対に魔皇に勝利することは出来ないのである。
 何故なら、多少の差はあれ相手は同等の力を持つ、超越者なのだから。だからサタナエルの言う通り、この勝負にヘルであるシンジの勝機はなかった。

 そもそも <魔皇三体> にはそれぞれ個性的な特徴があり、それをもって均衡を保っている。

 魔皇 <サタナエル> は、最速の魔皇。『ファースト・タイム』を最も高度に、長時間に渡って操ることが出来る。純粋なパワーやテクニックでは他の2者に一歩譲るものの、彼はこのスピードを以ってそれらをカバーするのだ。
 魔皇 <カオス> の特性は、その名の示す通り『混沌の力』。完全な制御は未だ実現できていないが、全ての力を無効化する『混沌』を操るカオスの前には、如何なる防御手段も、攻撃手段も意味を持たない。
 そして、魔皇 <ヘル> の特性は、その正確無比な『未来予測』。不確定要素すらも加味したかのような、その恐るべき予測の早さ・的確さは、他の魔皇の追随を許さない。数百・数千の手番を正確に予測し、無限に存在する選択肢から一筋の光明を見出す。まさに、『神の目』を彼女は持っているのだ。

 魔皇三体は、それぞれの特性を生かすことで実力を互角へと運ぶことが出来る。魔皇同士の戦いが実現された場合、その勝敗の行方は運とコンディションが決定する可能性が高い。その事実を理解しないまま、荒ぶる感情に呑まれているシンジ。
 己の最強の武器を行使できぬまま、最強同士の戦いに挑む彼に、勝機などあろうはずが無かった。
「何があっかは知らぬが……、汝は最早ヘルではない。凍った時の狭間で、永久の眠りにつくがいい!」
 サタナエルの紅の瞳が、煌煌と輝き出す。 <禁呪> 発動の瞬間である。完全体ではない今のサタナエルには、ヘルのコアを完全に破壊するほどのエネルギーを作り出すのはいささか酷。
 それ故、彼は次元封印を応用して開発した、オリジナルの <封印系奥義> を行使することとしたのである。自らが創生した特殊次元に、相手を封じ込むまでは通常の <次元封印> と同じ。その次元の扉が続く先は、 <凍った時の狭間> 。
 時の流れが止まった、世界である。

 ――対象が実体化した瞬間、時の流れが止まるようプログラムされた特殊空間。その『時空制御のシステム』そのものが、空間内に設置されている為、
 時間の止まった空間内には、如何なる存在も入り込めないという特性を考慮した際、
 それは開封手段のない、究極の <絶対封印> となる。
「名付けて、絶対封印 <時封咒> !
 対象者が魔皇クラスの場合、実体化した瞬間 <ファースト・タイム> を発動することで、プログラムの起動を一時的に遅らせ、その間に脱出することも可能であろうが……
 今の汝に、そのような緻密な技術の実行は不可能と見た!」
 永遠の静止は、存在しないことと同義。サタナエルが、対A.A.戦の秘策のひとつとして用意していた奥義が、今ヘルに襲い掛かろうとしていた。そして、今のヘルにはそれから逃れる術はない。

 だが、サタナエルが次元のゲートを開こうとした刹那、予期せぬ『別の』ゲートが突如現出した。月の空間に大きな歪みが生じ、それが収束しやがて大きな黒い穴になる。ポッカリと空いた亜空間へと続くゲート。
「ぬうっ、これは……?」
 突然の時空異常に、サタナエルは奥義の発動をキャンセルして警戒態勢をとる。通常空間を歪に捻じ曲げるその力に、只ならぬものを感じたからだ。まだ姿すら見えぬにも関わらず、ゲートの向こう側から凄まじい殺気が噴出してくる。
 一瞬後、闇よりそれは現れた。白い月の大地と見事なコントラストを形成する、漆黒の獣。凄まじい魔力に身を包んだ、魔狼――

ちょっと、待ち候!

 魔皇ヘルのインペリアルガード、ガルム=ヴァナルガンドである。
「ガ……ルム……」
 シンジは、呟いた。もちろん音声でではない。直接意図した者の脳裏へと届く、魔皇の声だ。
「何用か、ガルムよ。貴様もこのサタナエルが目的か」
 サタナエルは、紅い目を細めながら訊いた。もちろん、確認と牽制の為だ。訊かずとも、主が危急の際にそれを救うのはガードの務め。存在意義そのものだ。魔皇であるサタナエルなら、そのことは誰よりもよく理解している。
「魔皇さたなえう、へうさまにこれ以上の手出しは許しませう。へうさまは、がうむが連れて帰りまし。退きまし。だから、素直に帰しまし」

 右半身を失ったシンジ、そしてサタナエルの間に身を割込ませながらガルムは言った。主を守る。ただそれだけの為に、ガルムは生まれて来たのだから。
「フッ、ガード風情が随分な口を利いてくれる。第一、仕掛けて来たのはヘルの方だ。我はそれを受けて立ったまで。それをそちらの都合次第で見逃せとは……随分とムシの良い話ではないか」
「いつか、へうさまはさたなえうと戦うことになるかもしれませう。でも、今はまだその時にはないんでごさいまし。この勝負は、がうむが預かりそうろう」
 主と同等の存在を相手にしても、ガルムは一歩も引けを取らない。その自信は、ガルムの圧倒的な実力に裏打ちされていた。インペリアルガード最強。ガルム=ヴァナルガンドの実力は、並みではないということだ。
「面白いことを言う……。お前が勝負を預かるだと? 大層な自信ではないか」
 挑発するように、サタナエルは言った。彼には、まだ <地王ベヒーモス> というカードが残っている。それに、人類監視機構から奪い取ったEVAのプラントもここにはあるのだ。稼動する範囲でも戦力に加えれば、大きな力となるだろう。
「……さたなえう。これは提案でございまし。受け容れられない時には、がうむは実力を行使仕り」
 ガルムの声音が微妙に変化した。言葉づかいは相変わらずだが、いつもの間延びした、ホノボノ雰囲気が影を潜める。目に見えない圧力が、そこにはあった。
「ほう、それは更に面白いな」
 サタナエルは、既にヘルとガルムを計画推進の上での <障害> と見なしていた。ガルムが、魔皇三体が使役するガードの中で最強と囁かれているのは知っているが、正確な実力は把握できていない。ここで、それを見ておくのも一興と判断する。

――交渉は、決裂のようだな。仕方あるまい。ガルムよ、魔皇ヘルの名において、 <ヴァナルガンド> 発動を許可する。
 月の宙を漂うヘルが、シンジの意識の底から呼びかけた。
「わふーっ! 遂に、おっきくなって、ぎんぎら銀で、ぱわふりゃがうむに変身仕り――!」
 黒のガルムは、ヘルの下した許可に歓喜の声を上げる。実際、ガルムが <ヴァナルガンド> の形態をとるのはこれが初めてのことである。彼は、常に力を抑制し続けることを義務づけられていた。
 それが今、誕生以来はじめてその力の解放を承認されたのだ。ガルムは、この瞬間をいつも夢見ていた。全力で暴れられるこの時を。
「ムッ……?」
 ガルムが発する気の属性が、急速に変化しつつあることにサタナエルは逸早く気がついた。魔素がガルムに吸い寄せられていくかのように、静かに集中していく。
「グゥルルルルルル……」
 低い唸り声が、サタナエルの頭に直接響き渡る。ガルムが体内で、闘気を練り上げていることが顕著に窺えた。急速に魔力が膨れ上がっていく。
 禍々しいまでの濃度だ。

 ――ガルムを縛っていた見えない鎖が、解かれようとしている。サタナエルはそう感じた。いや、縛るというより、封じていたというべきか。
 確かに、サタナエルの使役するインペリアルガードは強い。従来の使徒など相手になるまい。例え、使徒最強と謳われる <ゼルエル> や <タブリス> が束になって掛かったところで、勝利することは出来ないだろう。
 だが <ガルム=ヴァナルガンド> は、サタナエルの知るそんなインペリアルガードたちとは、全く異質な存在である。サタナエルはここに来てようやくその事実に気が付こうとしていた。
「この、壮絶な闘気は……!」
 サタナエルをして、慄然とせざるを得ない。ガルムの狼の躰が、徐々に巨大化していく。と共に、その内に秘める聖魔の力も爆発的に肥大していくのが分かる。
 もはや、サタナエルのガードである <リヴァイアサン> や <ベヒーモス> を上回る力だ。尋常ではない。

 ――我ながら、恐ろしいものを作り上げたものだ。
 ヘルはつくづくそう感じていた。それは、さながら銀河の中でも希有の美しさを誇る『地球』という惑星が生まれ、その星の中で高度な知能と文化を持つ『人類』が奇跡的に生まれたような……そんな天文学的な偶然の産物だった。
 ガルムは、ヘルの創造物である。原料は、開発に失敗しうち捨てられた天使の残骸。これを改良し、独自の能力を付与して彼女は自分を守護するガード <ガルム> を作り上げたはずであった。
 だが、出来上がったのはヘルですら予測もできなかった、怪物であった。突然変異。生易しい表現でいいのなら、そうなるだろう。
 奇跡と、信じ難いような偶然の産物。使徒のコアを食らうことで、底無しに力を高めていくバケモノ。それが、ガルム=ヴァナルガンドである。
 既にガルムの全長は、二〇メートルを超えようとしていた。黒い狼犬であったころの三、四倍近くまで膨れ上がってきている。また、それに比例するように闘気もグングンと上昇する。天井知らずだ。
 サタナエルは目を見張った。突如、ガルムの全身の体毛が、針鼠のトゲのように逆立ったのだ。そして、その『黒』の毛並みが、徐々に煌く『銀色』に変色していく。
 そして、爛々と輝く黒の瞳は、血の滴るような真紅へと。
 数瞬後には、巨大な銀狼の姿が――そこにはあった。
「これがガルム=ヴァナルガンド! 最強のインペリアルガードか」
 北欧神話の最高神。オーディンという名で知られる神がいる。神槍グングニルを操り、八本足の怪馬スレイプニルに跨る彼は、あらゆる魔術を操る万能の神でもあった。
 だが、その最高神オーディンは、最終戦争ラグナロクにおいてある怪物に食い殺される。その怪物の名は <フェンリル> 。その上顎は天に、下顎は大地にまで届くという巨大な狼であり、北欧神話最強の魔獣である。
 そして、その <フェンリル> の別名が『ヴァナルガンド』。
 古代ノルド語において、それは <破壊の杖> を意味する。

 ガルムは、解放された力に歓喜の咆哮を上げた。途端、凄まじいパワーガイザーがその牙の並んだ口から発せられる。それは強烈無比な衝撃波となって、サタナエルを飲み込んだ。
「ヌウッ! 咆哮だけでこの圧力かッ!」
 咄嗟に展開した防御結界が、数枚、瞬く間に消し飛ばされる。一瞬でも気を抜けば、幾重にも展開した結界全てをぶち破られそうだ。いくら完全体でないサタナエルが相手とは言え、これは異常な力と言えた。
 それに、サタナエルが盾となったことで辛うじて無事ではあるが、直撃していれば月が崩壊を起こしていたかもしれない。現に、月の大地が壮絶に振動している。地殻が乾燥したパンを裂くかのように、ボロボロに崩壊していく。
 この規模では、恐らく地球にも影響が出るだろう。
「ヘルよ、汝、とんでもない化け物を作り上げたようだな――ッ!」
 怒涛の如く襲い来るパワーガイザーを何とか凌ぎきると、恨めし気にサタナエルは言った。
 この銀狼の力、下手をすれば我等魔皇にも匹敵しかねん。
 ――異常。そう、ヴァナルガンドと化したガルムはサタナエルをして異常と言わしめるほどの化物であった。

――我が <ガルムマスター・ヘル> と名乗る由縁を理解したか、サタナエルよ。このガルムを使役することこそが、或いは我の最強の武器やも知れぬのでな。汝のように、もう一体このガルムのようなバケモノを使役できれば、
 A.A.とも良き勝負ができるというものなのだが、二度とこんな傑作は生み出せまい。

「まったくよ。己が強運と、偶然に感謝するのだなヘル」
 面白い見世物である。それがサタナエルの正直な感想である。とんだ珍獣を見せられた気分だ。
 自分のガード <リヴァイアサン> <ベヒーモス> 、カオスのガード <ブリュンヒルド> <クリームヒルド> 、このいずれもが戦闘能力という面では、ガルムには遠く及ぶまい。なるほど、確かに最強のインペリアルガードである。
 完全体であるヘルには僅かに届かないが、不完全体である今の自分になら十分比肩し得る。ガルムはそれ程の力を有していると、サタナエルは見た。
「ここはそのガルムの実力に免じて、見逃そう。早々に退くがいい。我の気が変わらぬうちにな……」
 サタナエルは、鋭利に笑って言った。このままでは計画の障害として排除するべき存在となるが、上手く自軍に引き込めば、ヘルとガルムは強大な戦力となる。サタナエルは、そう悟っていた。
「クッ……ま、だ……終わって……」
 シンジは、意識を朦朧とさせながら今尚戦意を失っていなかった。ただ、右半身を消失するほどのダメージを受けた為、シンジの精神の支配力が弱まっている。もともと激情に支配された不安定な状態にあったせいもあるだろう。
 今なら、 <ヘル> が一時的に表面化することも可能である。事実、 <ヘル> はそれを実行した。消耗したシンジの精神を押え込み、その肉体の支配権を一時的に奪取する。
 同時に、シンジの髪と瞳の色が、それぞれ銀と赤から通常の黒に戻っていく。女性のようにふっくらと丸みを帯びていた胸なども、シンジの中性的なそれへと変化していった。

――しばらく眠って頭を冷やすがいい、候よ
 ガルム、地球へ帰還するぞ


 その呼びかけに、ガルムは『ぽんっ』という怪しげな煙を上げると、一瞬にしていつもの少年と少女を混ぜ合わせたような、人間型に戻った。この人間型を <封印型> 、黒い狼犬を <守護型> とするなら、銀狼の姿こそ <戦闘型> となるだろう。
「ヘルよ、ひとつ聞いておきたい」
 地球へと繋がるゲートを開き、そこに身を滑り込ませようとしていたヘルに、サタナエルが呼びかけた。頭に直接飛び込んでくるその声に、ヘルは静かに動きを止める。

――何か
「汝の目的は何か。その男と共に、何を目指す」
 それは、サタナエルの抱いた純粋な疑問であった。今回の突発的な行動を含め、ヘルには不可解な点が多い。サタナエルを以ってしても、その真意に辿り着くことは難しかった。

――当面は、汝と同じよ
 打倒人類監視機構、そうなろうな

「では、何故に我に仇なす」
――それは、この男が人間だからだ。サタナエルよ。確かに、この男の目的は、監視機構を倒すことにある。そのためには、汝の策に乗り、人類死滅の危機を利用するが最善であろう。
 だが、この男にとってはそうでもないらしい。
 人間の属性は、あるいはカオスであるのやもしれぬな。汝も知ってみるがいい、我が半身よ。人間は、面白いぞ。


 その言葉を残し、ヘルは時空のゲートの向こうに消えて行った。子供の姿に戻ったガルムも、その後を追う。
 かくして、第一次頂上決戦は幕を閉じた。一見、痛み分けに終わったように思えるこの戦いだが……
 この暴走の代償。シンジの負った傷は、大きい。

 恐らくそれを、ヘルは理解していた。


to be continued...


←B A C K |  N E X T→
I N D E X