まだ歌が聞こえる
DARC
−ダァク−
全てを凌駕するもの
CHAPTERXXVI
「オルド・コロナテイオニス」
SESSION・91 『それが、戦争だよ』
SESSION・92 『シャルル勝利王』
SESSION・93 『ファースト・タイム』
SESSION・94 『新たなる声』
SESSION・95 『迷犬がうむ』
SESSION・91
『それが、戦争だよ』
照明の落とされた大部屋と、前方の壁面をまるごと占める巨大スクリーン。
そして、階段状にずらりと並べられた幾つもの座席。
ちょっとしたミニシアターといったところか。
そこは特務機関NERV本部に設置された、視聴覚用の特別室のひとつであった。
そのスクリーンには、嵐のように飛び回る女神が映し出されていた。
無音なのは、画像に何らかの処理が施されているからか。
とにかく鋼鉄の女神の残像があちらこちらへと動き回り、やがて眩い閃光を放ったところで、フィルムは唐突に途絶えた。
「以上が第21期実戦演習の全記録です」
映像が終了され、照明が再び灯されるとスクリーンの脇から白衣の女性が現れた。
NERV技術開発部主任、赤木リツコ博士である。
彼女が向かい合う壇上の座席には、総帥碇ゲンドウの姿があった。
彼の斜め後方には、まるで影のように副司令である冬月コウゾウが控えている。
部屋には彼ら3人しかいないというのに、腰を降ろさないのは何故だろうか。
「全行程89秒……かね」
その冬月が複雑な表情で言った。
十数時間に渡ってみせられた映像が、実際には2分に満たない電光石火の出来事であったのだ。
いくら冬月とて、疲労は隠せない。
「はい。
秒間20000フレームのカメラをドーム中にばら撒いておいたのですが、温度が高かったことと充分な照明を得られなかったことで、鮮明な映像の抽出が困難な状況でして……
とりあえずは、視覚的に提供できる情報はこれが精一杯です。申し訳ありません」
リツコが務めて事務的に応える。
「しかし、あの動き……生身の人間が操縦しているとは、俄かには信じられんな」
「もちろん、生身の人間が実際に搭乗しての操作であれば、絶対と言って良いほど実現不可能です。
遠隔操作とエンクィスト財団の技術の粋を結集したコクピット・システムだからこそ、成せる業です」
ウルドの機動性能は爆発的であった。
飛行中の平均値でさえ極超音速、つまりマッハ5以上の世界にあったほどだ。
これは、1秒間で数KMの距離を飛翔しつづけた計算になる。
当然人間の目には、チラッとさえ写らない。
その為、それを人間の視覚でも認識できるまでにスロー再生する必要があるわけだ。
この場合のことを具体的に言えば、通常、秒間30コマのフィルムで撮影するところを秒間2万フレームのカメラで撮影した。
普通の一眼レフのカメラに例えれば、1秒間で2万回シャッターを切り、それを1秒間に値する30枚ずつ繋げて動画させたことになろうか。
ただ、このクラスになると証明も桁違いに光度の強いものが必要となる。
それが用意できなかったため、どうも映像が鮮明でないということだ。
冬月達が見せられたのは、そういう処理を施した結果の、約670分の1にまで速度を落としたスロー再生映像であった。
それでもウルドの飛行速度は速すぎて、残像を追いかけるのが精々であったわけだが……
とにかく、89秒の映像を670倍の時間を掛けて見ることになるわけだ。
2分に満たない記録も、16時間を超えるものになる。
見る方も大変なものだが――
それはなにより、ウルドが実現した空中戦の次元の高さを雄弁に語っていた。
「ふむ」
冬月は顎に手をやると、暫し思考する。
ゲンドウは例の如く一切口を開かず、ただ沈黙を守っていた。
(……碇、実はこっそり寝ているのではないのか? ずるいぞ)
長時間に渡る映像を、長々と完全ノーカットで見せられた冬月。
ゲンドウの後ろに立つ冬月からは、彼の旋毛しか見えず起きているのか寝ているのかすら分からない。
「遠隔操作ではなく、パイロットの搭乗による操縦も当初考えられてはいたのですが……
これは、初期段階で断念されました」
「ほう?」
「機動性能のシュミレートを行ったのですが、最高速度を計測する以前に搭乗者の躰がもたないことが予測されたからです。
先程のウルドが実現していたハイパーソニックの世界で、あれほどの無茶な動きをすれば意識が途切れるどころか、循環器系や内臓はもちろん、躰自体が崩壊するかもしれません」
「しかし……私には、どちらにしても兵器としては破綻しているように思えるが?
機体性能が人間の限界を遥かに凌駕しているなど、正当な近代兵器とは言えんよ」
「おっしゃる通りです」
リツコは冬月の言葉にきっぱりと頷いてみせた。
「ですが、この <ウルド> のスペックをもってしなければ、天使……監視機構使徒に対抗できないというのもまた確かなのです」
リツコの言いたいことも分かるが、『対抗手段がない』と『対抗手段があってもそれが使い物にならない』とに違いがあるとは冬月には思えない。
あっても気休め程度であろう。
「赤木博士」
突然、ゲンドウが口を開いた。
「総帥、なにか?」
リツコは今まで沈黙を守ってきたゲンドウが不意に喋り出したとあって、些か緊張した面持ちで応える。
「資料によれば、この <ウルド> <スクルド> <ヴェルダンディ> の3機はベースとなった <J.A.> のコアをエネルギー源として起動するとあるが……」
「その通りです。
推進機構であるブースター。
バックパック内部の4基をメインとする各バーニア、スラスターはもちろん……
メイン・ウエポンである <G.R.A.M.> すなわち、ある程度のA.T.フィールドを無効化すると思われる粒子を加速・収束して放つバスター・ライフル。
いずれもコアからエネルギーをパワーソースとしています」
粒子というが、まったくそのものというわけでもないらしい。
それにライフルが発射される際に供給されるパワー・ソースと、駆動系に用いられるそれとではまったく趣が異なるという。
現状では、コアそのものが謎なのだ。
「そして、そのコアの活動は人間の生体エネルギーを喰らうことを前提とする」
「そうです」
ゲンドウの言葉に硬い表情で頷くと、リツコは補足して言った。
「 <J.A.> のコアは、単独の状態では活動しません。
ですがこれにコクピット・システムを接続し、パイロットを搭乗させると、活動が開始されます。
コアはパイロットの――便宜的な表現を用いれば、生命エネルギーのようなものを吸い上げることで機能するのです。
つまり、人間がコアのそのまたコアになると考えていいでしょう」
この時点で、リツコはゲンドウが何を問わんとしているのかを悟っていた。
「では、新型に搭乗するパイロットは <A.T.フィールド> を展開できるか?」
そう。
この新型の行きつく先は、結局そこなのだ。
如何に高い機動性能を有していても、破壊係数が既存の兵器と比較して異質のものであっても、それだけでは絶対領域 <A.T.F> を展開できる使徒の前には全くの無力なのである。
中世のタブリスやリリア・シグルドリーヴァが証明しているように、使徒を倒すには戦術にこのA.T.フィールドという要素を盛り込むことが絶対条件となる。
<ウルド> のメイン・ウエポンは、確かに『ある程度なら』A.T.フィールドを無効化する特性を持っているかもしれない。
だが、それだけでは結果を勝利に結び付けることは難しい。
攻撃手段はあっても、防御手段を持たないからだ。
幾らパワーのあるボクサーでも、ディフェンスを知らなければ必ずKOされる。
それとおなじことだ。
「理論上可能……としかお応えできません」
リツコはゆっくりと言った。
「理論上、とは?」
理論上可能などという言葉は、まったく何の保証もないに等しい。
「MAGIシステムは可能と解答した、ということです。
J.A.は心を持たぬ故にA.T.フィールドを展開することができませんでした。
ですがそのJ.A.をベースとするウルドに、人間を接続するわけです。
これによってA.T.フィールドの展開が可能となっても、おかしくはありません」
「だが、この映像を見た限り、ウルドがA.T.フィールドを展開できるという事実を証明できていないようだが?」
冬月の指摘に、リツコは小さく頷く。
「確かに副司令のおっしゃる通りです。
このテスト・パイロットのオレシア・ドゥドニック少尉には、起動とメインウエポンの発射までは可能であっても、A.T.フィールドを展開することは不可能でした」
「そのドゥドニック少尉だが……
資料によれば、国連軍に新設された精鋭部隊 <エメラルド・フォース> のエースとある。
これはつまり、ある意味で人類最高の戦闘機乗りということではないのかね?」
「はい。ドゥドニック少尉は、我々人類が輩出した最高のパイロットのひとりです。
経験、技術、知識、精神……そして才能。どれをとっても申し分ありません」
「そのドゥドニック少尉でさえ、主砲の一撃を含む89秒の機動が精々。
では、いったいどんな人間がA.T.フィールドを展開するまでの余裕が持てると言うのだね?」
「それなのですが……」
リツコは一旦そこで言葉を切ると、躊躇するように俯いた。
「なんだね?」
冬月が促す。
「――はい。実は、これは私個人の見解と言いますか、要望なのですが……
霧島マナ嬢をこの新型に試験搭乗させてみたいと考えています」
リツコのその言葉に、冬月は狼狽した。
ゲンドウにさえ、少なからず反応が伺える。
「霧島理事長のお孫さん、あのマナ君かね?」
分かりきってはいるのだが、確認しなくてはいられないといった感じの冬月が訊く。
「はい。
ご存知のように、霧島理事長は……
その本人の言葉を借りれば、『霊力』という力にスバ抜けたものがあるようです。
実際それを高め、使徒と渡り合ってみせたことは我々も認めるところです。
そして理事長の血を引くマナ嬢もまた、同じ才能に恵まれているとのこと。
科学的にはまったく解析できないのでハッキリしたことは言えませんが、もし、仮に『霊気』『霊力』というものが、ウルドのコアが必要としている人間のエネルギーと同種のものだとすれば、ドゥドニック少尉以上の結果を得られるかも知れません」
「しかし……」
なんとも突飛な提案ではないか。
冬月は難色を示す。
「そうまでせずとも、予めコアに充分な人間の生体エネルギーだったかな?
……それを抽出させておけば問題ないのではないかね。
バッテリーで言うところの充電のようなことが可能であれば、わざわざ一般人を巻き込むことなどせずともすむ」
「技術開発部でもそれは検討してみたのですが、無理でした。
コアというのは、まったく未知の原理によって動作するようでして……
おっしゃる通り、バッテリーに充電するように予めエネルギーを送り込んでみても、それは即座に吸収・消失されます。
つまり、蓄積ということができないのです。
リアルタイムでのエネルギー供給以外ないと結論づけるしかありません」
「では、コクピット・システムを複座式にしてはどうかね?
ドゥドニック少尉のような十分な訓練を積んだ操縦者と、それに理事長のお孫さんのようなエネルギー供給者と。
ふたり一組であれば、あるいは……」
「それも不可能です」
リツコは冬月の提案を呆気なく退けた。
「ウルドのコアは、ひとつの魂しか認識しないようなのです。
と、いうより複数同時の接続を拒絶している節があります。
ですから、システムに接続できるのはどうやっても1人だけです。
要するに、起動と操縦の分担も不可能ということです」
リツコの断言に、冬月は沈黙した。
どのみちドゥドニック少尉ほどのパイロットでも歯がたたないのだ。
ならば、あらゆる可能性に賭けてみるしかない。
「しかし、そのテスト・パイロットのドゥドニック少尉の経過はどうなのかね?」
資料には毎回の演習で意識を失っているとある。
肉体的にも精神的にもかなりの負担となっているに違いない。
冬月は幾分眉を顰めながら訊いた。
「心的な疲労は無視できないようです。
やはりウルドに精神力のようなものを吸い取られたせいでしょうか、かなり衰弱しています。
しばらく入院が必要かと」
「搭乗せずの遠隔操作でも、パイロットには通常の戦闘機以上の負荷がかかるというわけかね……
なんとも、恐ろしい機体だよ」
首を小さく左右しなから、冬月は呆れたように言った。
「やはり、そのような危険な機体に一般人を……ましてマナ君を乗せるわけには」
「反対する理由はない」
冬月の声を打ち消すように発せられたのは、ゲンドウの言葉だった。
「赤木博士、やってみたまえ」
「碇?」
驚いた冬月が、思わず小さな叫びをあげる。
その表情には、『反対する理由なら、いまオレがゆったじゃん!』という声がありありと浮かんでいた。
「ありがとうございます。それでは早速実験の準備に取り掛かりますので、私はこれで失礼します」
そう言い残すと、リツコはさっさと消えていった。
もしかしたら、こっそりスキップなどしていたりしたかもしれない。
自分がやりたい実験の許可が上からおりるなんて……リツコ女史はきっと幸せ者なのだ。
「碇……いいのか?」
リツコの後ろ姿を見送った後、はっと気を取り戻して冬月は訊いた。
無論、ゲンドウにである。
「構わん」
総帥は振り向きもせずに即答した。
「しかし、マナ君は理事長の孫娘だぞ。それに一般人だ。巻き込むわけには……」
「冬月」
ゲンドウはそれを遮るように言った。
ふたりしかいなくなった広大な空間に、その低い声が妙によく響く。
「な……なんだ、碇」
「戦争は一機関だけの問題でも、軍人のみが行うものでもない。
その時代に生きる全ての人間を巻き込んで行われるべきものだ」
「何を言うか。
戦争の被害を最小に食い止めるのが為政者の役割であり、軍の存在意義ではないのか?」
「違うな。戦争はある意味、外交政策の一環だ。
確かに、かつては違ったかもしれん。
だが、現代は違う。戦争とは為政者が引き起こす、一種の対外政府活動だよ。
民の犠牲はその内に織り込まれた、戦略的な要素に成り果てる」
ゲンドウは断言した。
「それだけではあるまい?
確かに民族紛争や宗教戦争……。
その裏に為政者や権力者の覇権獲得、権益拡大の要素が絡められていた事実はある。
それのみのために戦争が起こされたことも、民族が虐げられたことも多々あろう。それは認める。
だが、戦争はやはり悲劇だよ。
……人間の力では制御しきれん。
人間の闘争本能や支配欲、破壊的欲求が暴走した結果引き起こされる大いなる悲劇。
その一面も戦争は内包しているのではないか?
あれは人間の理性や誇りを繋ぎ止める、言わば精神の『箍(たが)』を取り払う死神の鎌だよ。
だからこそ、我々のような立場にあるものが大衆を巻き込むのを防がねばならない。
しかも、監視機構を敵に回すのは我々財団関係者の個人的な思想と欲求からだ。
世界は関係ない」
冬月は何時に無く多弁に語った。
彼はその目で戦場を見、その肌で戦争を体験した者だ。
それ故に、胸の内に秘めるものも大きいのだろう。
「そうだ。
為政者や国の意図がどうであれ、大衆はそれとは異なるベクトルを辿ることができる。
戦争というものの中で、自分の大義を掲げ蜂起することもな。
戦争とはその意味で、ただ権力者たちだけの問題という訳では無くなる。
時に大衆の意志は戦争の結末をも変えるからな……。
戦争の本質は、その人間の立場や価値観によって大きく異なってくるのだろう」
「ならば……」
ならば、何故マナ君を巻き込まんとする?
「だからこそだ。
戦争は全ての人間が背負わねばならない。
監視機構は人類という全体を拘束している。
その監視機構を相手に回す時、我々が掲げる <大義> は彼らの支配下からの脱出。
自由の獲得となるだろう。
だが、人類全体のために何故一部の人間のみが命を賭ける必要がある?
人類全体の勝利が結果としてあるのなら、それは全ての人間達で勝ち取らねばならない」
「だが、戦うことを望まぬ人間も存在する! 」
そう。
ある意味で、それが1番の問題だった。
「監視機構の存在を知る者ですら、エンクィスト財団という囲いの中に収まるのだ。
極一部の特権階級だけなのだよ。
その中でも、奴等と戦おうと覚悟を決める人間は少なかろう。
そのごく少数の人間達の都合で、大衆を巻き込むわけにはいかんよ。
特に、意志と力を持たぬ子供はな」
冬月はゲンドウの前に回り込んで、視線を合わせながら言った。
「子供だからこそ、戦争を知らねばならんのだ」
ゲンドウはその視線を真っ直ぐに受け止めながら、応える。
「作り上げられ、先人から与えられた平和的環境の中に生まれた子供たちは、その真の価値を計ることはできん。
権利も自由も、平和も……全ては自らの手で勝ち取るべきなのだ。
今、自分達が持っているものを『持っていて当然のモノ』と思い込む人間が多すぎる。
だからこそ知らねばならん。気付かねばならんのだよ。
身の回りに当然のように存在するものが、決して当たり前ではないという事実に。
若い世代に必要なのは、膿や腐敗を生み出す社会の歪み……これを正すシステムではない。
膿と腐敗を受け止め、その中で己を保てる強さと広く高い視野なのだ」
「だが、戦争を起こすとなれば、多くの犠牲がでるぞ?
この世のものとは思われぬ、地獄が形成されるのは必至――」
冬月は尚も難色を示す。
絶望的と思われる戦争に、無関係の人間を巻き込みたくはない。
「それに、碇。お前の言い分は、独裁者の論理に他ならん」
「冬月。では、主要国の特権階級層を取り込んだエンクィスト財団――
これに属する我々が独裁者でないと言い切れるか?
財団の最高幹部会ゼーレは、監視機構との戦争を全面的に推し進めて地球の覇権を握ることを画策している。
奴等は監視機構の存在を表に出し、これを打ち破るというパフォーマンスに臨むだろう。
NERVはそのための組織であり、我々はその尖兵なのだ。どの道、戦争ははじまる。
そして財団は、それに世界を……全人類を巻き込むことを望んでいる」
「冗談を言うな。お前が財団の意向に素直に従うような人間だと、私に信じろというのか?」
「無論、NERVは財団の敷いたレールを走ることはない。
だが、戦争が全人類規模になることに異存はない。財団とは別の思想でな」
「碇、一体なにを考えている」
眉間に皺を寄せ、冬月は詰問するように問うた。
「人類の成長に独裁者の存在が不可欠とあれば、エンクィストがその役割を担えば良い」
ゲンドウはあくまで冷静に応える。
「碇、お前は……!」
絶句するしかなかった。
「無関係の者を巻き込み、戦う意志を持たぬ者を飲み込み、そして大いなる悲劇を渦巻く。
……冬月」
ゲンドウは、ゆっくりと貌を起こすと続けた。
「――それが、戦争だよ」
SESSION・92
『シャルル勝利王』
ラ・ピュセルはただそれを眺めていた。
大聖堂に響き渡る大歓声も、どこか遠い。
ヒラヒラと無数に舞う紙ふぶきは、掠れた幻のようだ。
それは、故郷の村を飛び出した時には、夢にまで見た光景であったはずである。
だが今、それが現実となっても……
もはや何の感慨も感じられることはなかった。
聖油の四騎士が騎乗したまま、詩編の歌声に誘われるように大聖堂に現れる。
正面の大扉は開放されていて、詰め寄った観衆達が外にまで溢れかえっていた。
シャルルの宣誓。
祝別される王杖、黄金拍車、そして王冠。
四騎士が運んできた聖油を、大司教がシャルルの頭、胸、両肩、両腕に印を押すように塗ってゆく。
それから彼にマントが掛けられた。
次は手袋、そして <統一> 及び <民と王> の結合を意味する指輪だ。
最初は純白のシャツしか身に纏っていなかったシャルルが、印璽に見られるような威厳ある王の姿にかわってゆく。
典礼の内もっとも重要視される塗油と戴冠の儀である。
そして最後に……
12人の重臣たちの手によって王冠が、ゆっくりとシャルルの頭にかぶせられた。
フランス王国の正当なる支配者――
勝利王シャルルVIIの誕生である。
割れるような大歓呼があがる。
聖堂のステンドグラスが揺れる。
拍手と、ひらめく白の紙片が吹雪く。
「ノエル(万歳)」とファンファーレが鳴り響く。
全身で喜びを表現する者がいる。
叫ぶ者がいる。
感涙にむせぶ者がいる。
ランスの大聖堂は、熱気と歓喜に溢れていた。
そんな光景さえも、今のラ・ピュセルには……なんの感動も与えることはなかった。
全てがただ、無意味で、乾いていた。
――勝利王計画
作戦名 <オペラシオン・ヴィクトリュー>
オルレアン開放後、乙女の姿に救世主を見た各地の <アルマニャック(国王)派> が蜂起。
シャルル王太子の元へ集結し、1万2000を越える一大勢力となった。
これを受けて、シャルルは王国の北半分を主な勢力下とする <イングランド・ブルゴーニュ連合> へ進撃。
究極的には、代々フランス聖王の戴冠式が行われる <ランス大聖堂> 奪還及び、シャルルの戴冠挙式を目的とする軍事行動。
これが、勝利王計画である。
オペラシオン・ヴィクトリューはその計画の一環で、王太子のランスへの進行の障害となる周囲の連合勢力の鎮圧を目標に掲げる。
具体的には、ロワール川周域に点在する連合の砦、またランスへのルートに位置する連合勢力下の町村の解放。
そして計画阻止のために襲撃してくる敵軍の殲滅が挙げられる。
歴史書の語るところによれば、その総指揮者はジャン・ダランソン二世。
美男侯の誉高き、フランスの若き英雄である。
だがしかし、これは人類監視機構が改変した偽りの記述に過ぎない。
実際にはこの作戦の指揮を採ったのは、ラ・ピュセル以下、リッシュモン大元帥、ジル・ド・レ元帥、そしてデュノワ伯ら軍首脳陣であった。
ジャルジョー、マン、ボージャンシー、ジアン、オーセール、トロワ。
そしてパテにおける大勝と、彼らは僅か1ヶ月間で幾多の町を奪還し、破竹の勢いでランスへと突き進んだ。
特に被害数3対4000という例の <パテの日> のウワサは、遠くパリに恐慌すら巻き起こした。
不敗神話を築きつつあるフランスの魔女に、連合の一部は戦意すら失うほどの恐怖を抱きつつあったのである。
この心理効果が効を奏し、トロワをはじめとする一部の都市においては無血開城も実現した。
そして7月16日の日没後、ラ・ピュセル率いる王太子軍は遂にランス入城を果たしたのである。
翌17日日曜日。
シャルル王太子は慌ただしくも慣例に乗っ取った聖別を終え、シャルル7世となったわけである。
「出よう……此処は、今のオレたちにはそぐわない」
大聖堂の壁に背を預ける様にして佇むリジュ卿が、ロンギヌスの仲間達にそっと告げた。
先程まさにシャルルの頭上に王冠が称えられた。
周りにいる大勢の観衆達は今や大フィーバーだ。
先王の発狂、王妃の裏切り。
混乱を極めた王家が、苦節の末ようやく落ち着いたのだ。
それなりに嬉しいものなのだろう。
「そうですな。
この王国を誰が統治しようと、我々には関係のないこと。
アランソンが無事であれば、それで構わん。
我等が剣を捧げたのは、あのような形ばかりの王にあらず……
真の指導者に相応しきアランソン侯なのだからな」
エイモスも頷く。
ロンギヌスの四〇、誰ひとりそれに異を唱えるものはいなかった。
彼らが守るのはアランソン公領であり、若君と慕うその領主アランソン侯だ。
フランス国王ではない。
この勝利王計画に参戦したのは、どちらかといえば彼らなりのけじめのようなものだ。
アランソン公領も建前はフランス国王の元にある。
実質的にはアランソン侯を頂点とするひとつの小国なのだが……
仮にシャルルが連合に破れることとなれば、その体勢が崩壊するかもしれない。
それを危惧したから、勝利王計画に参加したまで。
アランソン侯を掲げる彼らにとって、誰が王につこうなど構いはしないのだ。
「どうだったかい、式典のほうは?」
大聖堂から抜け出したロンギヌスをにこやかな笑顔で迎えたのは、リッシュモン元帥であった。
彼は王家……とくにラ・トレモイユとの確執から、シャルルに列席を許されなかったのである。
本来は大元帥としてシャルル戴冠の真横で聖剣を掲げるという、大役を約束されるはずの彼が、この様に蔑ろにされるのは歴史的に見ても異例のことである。
「閣下……このようなところで」
エイモスが些か狼狽したように言う。
大元帥ともあろうものが、群集の輪から離れた場所にポツンと佇んでいるのである。
戸惑いもするだろう。
「国王陛下は、何故にこのような惨い仕打ちをなさるのか。
閣下のお力なくしては、この作戦の成功もあり得なかったことは承知のはず」
若い隊員が憤慨したように言う。
「フフ……。いいのさ。僕は正直、退屈に付き合わされずにすんで幸運だと思っている」
リッシュモン元帥はその紅い瞳を細めながら言った。
その屈託のないもの言いに、ロンギヌスも救われる。
「しかし、勝利王とは……多少滑稽かな?」
意味深な笑みと共に、また大胆な事を言い出すリジュ卿。
だが実際のところ、この場にいるものは皆リジュ卿と意を同じくしていて、誰ひとりとしてシャルルが王の器にあるとは考えていない。
「 <移り気、猜疑心、その上をいく嫉妬> ……だね?」
リッシュモン元帥が、にっこり微笑みながらシャルルを皮肉る有名な文句を口ずさむ。
「ええ。王としての気質はなにひとつ備えていない。
……あの性格はどちらかといえば宰相向きですね」
リジュ卿が顎鬚に手をやりながら言った。
「そうですな。
この戴冠で連合が洗兵を考えるとも思えませぬ。
この戦争を終わらせるには、我々がもう一肌脱がねばなりますまい」
「……」
エイモスのその言葉に応えること無く、リッシュモン元帥はその柳眉を若干顰めると何事か思案している。
「閣下、なにか?」
怪訝に思ったエイモスが聞いてみた。
「真実がどうであれ、形だけはまとまった。
シャルルも落ち着いただろう。
オルレアンも取り戻した。戴冠もした。ピュセル効果で人も集まった」
元帥は面をあげると続ける。
「この後、彼がどう動くか……気にならないかい?
王太子、改め国王陛下にはお世辞にも度胸があるとは言えない。
そうだろう?」
エイモス以下、幾人かの隊員が頷いて応える。
「ここまで王家はラ・ピュセルに賭けて、奇跡のような勝利を得てきた。言わば大勝だよ。
とりあえず欲しいものを手にして……
これ以上の奇跡を高望みし、シャルルがギャンブルを続けたがると思うかい?」
その問いに一同は沈黙した。
臆病で消極的な国王のことだ。
思いがけぬ収穫を得て欲をかく、ということはなかろう。
その逆だ。
ツキに味方されて、想像以上に儲かった。
流れが変わらないうちに、清算して退こう……そう考えるだろう。
「それに移り気、猜疑心の上をいく <嫉妬> というのも気にかかる。
国王となった今、オルレアンとパテを筆頭に数々の戦果を上げて英雄となったラ・ピュセルがどう見えるのか。
何も持っていなかった状態なら、英雄の存在は有り難いが……」
「支配者となった今、英雄の存在は邪魔。嫉妬の対象ともなる、か」
リッシュモンの後を継ぐようにリジュ卿が言った。
その表情は硬い。
「十分、考えられることだ」
元帥は深く頷き、肯定する。
「まあ、使徒として覚醒しているラ・ピュセルのことだ。
宮廷がなにを画策しようがどうこうできる相手ではない。多分問題ないと思うが」
ランスでの戴冠、聖別。
シャルル勝利王の誕生。
それはあらたなる時代の幕開け。
そしてひとつの時代の終わりである。
「今、時代が変わろうとしている。それが吉と出るか凶と出るか……」
勝利王誕生とともにはじまる新たな時代。
では終わろうとしている時代と共に、何が消えてゆくのか。
SESSION・93
『ファースト・タイム』
青き星、地球。
そして漆黒の大銀河。
瞬く星々のパノラマをバックに、爆砕された月の大地が舞い上がる。
月面を取り巻くような巨大な邪竜と、その主である銀の魔皇。
その周囲を人の目では到底追いきれない速度で、青、赤、そして紫の旋風が走る。
<EVANGELIZAR>
監視機構の新型J.A.をめぐる月面の闘争は、佳境を迎えようとしていた。
接近戦闘を専門とする紫の <アダム> が、サタナエルに猛進する。
だが魔皇は慌てない。
繰り出される右ストレートを躱すと、そのままガッチリと腕をホールドする。
その体勢のまま肘関節を一瞬で極めると、さらに力を込めて叩き折らんと試みる。
が、すぐにフォローがやってきた。
<ゼロ> の破壊光線である。
一瞬で判断を下すと、サタナエルは <アダム> を解放し回避運動に入った。
そこに狙い澄ましたかのような真紅の <イヴ> の蹴りが襲いかかる。
さすがのサタナエルも、これは躱せなかった。
2桁の音速を軽く凌駕する速度で駆けるEVAに、体が付いてこない。
何とかA.T.Fで防御したものの、勢いまでは殺しきれずサタナエルは音速の弾丸となって弾き飛ばされた。
そのまま月面に叩き付けられ、新たなるクレーターを形成する。
月の石が派手に舞い上がった。
実質的なダメージこそないが、苛ただしい。
「ちいっ、やはり不完全なコアでは……」
休む暇も与えず、 <ゼロ> の聖光――絶大な威力を誇る光の奔流が降り注ぐ。
止めを刺すことを目的とした、一際破壊力のある一撃だ。
今から回避に入っては間に合わない。
そう判断したサタナエルは、咄嗟に次元封印を応用して、空間を彎曲させた。
曲がった空間にそって進む <ゼロ> の聖光は、あたかも鏡に反射されたが如くサタナエルとはまったく別方向に流されていった。
「魔皇の反応速度に、体がついて来んかッ」
ヘルが自在に魔皇の力を行使できるのは、十分な純度を誇る <ルシュフェル・コア> を持っているからだ。
驚異的なまでの純度を誇るアランソン侯のコア。
そして代々、神降ろしの一族として名を馳せてきた <碇家> の巫女、後に <綾波レイ> となるはずだった人間のコア。
このふたつの強大なコアには、魔皇の力を100パーセント発揮できるだけの素養があった。
恐らくカオスもそうだろう。
最強の使徒 <ゼルエル> のコアと、それが憑依したアイルランドの夢魔の女王 <モリガン> となるはずであった人間のコア。合わせてリリア・シグルドリーヴァ。十分だ。
だが、サタナエルは違う。
一般の人間と比較すれば強大といえる部類に入るであろうが、彼が手にしたキールという人間のコア純度はシンジやリリアのそれとはまったく比較にならない。
魔皇の力を発揮するには、明らかに不十分である。
それが枷となって、このような人形にも苦戦を余儀なくされる。
サタナエルが不満を覚えるのも無理は無かった。
A.T.Fの強度も落ちれば、反応速度にも、そしてファースト・タイムにも影響が出るだろう。
「ファースト・タイムか……。
この躰で如何ほどまで発揮できるか、試行しておくべきだな」
如何に能力が制限されていようと、サタナエルの実力を持ってすればEVAシリーズを葬るのは容易い。
次元封印を行使し、月ごと異次元に放り込めば御終いだ。
この次元封印から逃れるには、空間を左右するほどの強大なA.T.Fが必要となるが、EVAのそれはそこまでのレヴェルにない。
つまり、回避は不可能ということだ。
それを実行しないのは……
そう、さしずめ久しぶりの通常空間における、魔皇としてのリハビリと言ったところか。
完全体とは言い難い状態で、どれほどまで魔皇の力を再現できるか。
このEVAという機械人形は、それを試すには最適な相手である。
――ロード
不意に心の奥底に、何者かの呼びかける声が響いてきた。
サタナエルの使役する魔皇守護者 <リヴァイアサン> である。
彼女は主であるサタナエルを <ロード> ……つまり <君主> と呼ぶ。
「如何なした、リヴァイアサン」
――天使共が、此処へ
その言葉と共に、次々に次元門が開かれる。
月面の通常空間に、幾つもの裂け目が現れては……
監視機構使徒達が現臨してきたのだ。
「来たか、下賎共が……。総数300程度。監視機構もこれが限界といったところか」
――如何なさるか
「その為にお前を召喚した。
私はまだこの人形を相手に、現状を見極めねばならんからな……」
――御意の侭に
次の瞬間には、リヴァイアサンは宙に咆哮していた。
音声というレヴェルではない。
不可思議な衝撃波とでも言おうか、魂に直接響くような凄まじいまでの雄叫びだ。
宇宙よりも尚黒い、次元の裂け目から次々と降臨してくる使徒達。
擬似的な肉体を纏ったその姿は、まさに人間達が描く美しき天使そのものであった。
淡く躰そのものが発光しており、重武装という程ではない簡単な鎧のようなものを纏っている。
監視機構なりの皮肉であろうか……その背には一対の白く美しい天翼があった。
その数は、サタナエルの目算通り300あまり。
恐らく、監視機構が現在保有する全兵力の半分程度にはあたるだろう。
ゼルエルとタブリスの離反により、中世から使徒の生産を凍結してきた結果が……これだ。
ノーマルレヴェルの使徒が、何百集まろうとインペリアルガードには及ばない。
「リヴァイアサン。必要なら言え。場合によっては <ベヒーモス> も召喚する」
――了解
サタナエルは、ヘルやカオスと違って2体のインペリアルガードを使役している。
海王リヴァイアサンと、そして地王ベヒーモスがそれである。
ヘルのガルムと比較して戦闘能力がどれ程であるかは不明だが、少なくとも使徒風情が太刀打ちできる相手ではない。
事実、使徒300程度が相手ならリヴァイアサンには、ベヒーモスの援護は必要ないらしい。
次々と襲ってくる使徒達を、問答無用で食らい尽くそうとしている。
人間サイズの使徒なら、リヴァイアサンの巨体なら一度口を開けば4〜5体は簡単に飲み込める。
しかも、ただ飲み込むと言ってもそれがまた普通ではない。
リヴァイアサン自体が一種の異次元へのゲートなのである。
彼は、その体内に異次元へのチャンネルを保有しているわけだ。
飲み込まれたが最後、その者は別の宇宙に放り込まれたと同義の状態に置かれ、まず脱出は出来ない。
「チャンネルは魔界に設定しておけ。
奴等とて天使。次元封印を行使できる者もあるやも知れん。
通常空間であれば、それで脱出してくる可能性がある」
――御意
サタナエルの言う魔界とは、彼の故郷のことだ。
エンシェント・エンジェルとの戦いでルシュフェルが封印された、あらゆるA.T.Fを無効化する粒子で構成される例の特殊空間である。
そこではA.T.フィールドを用いたあらゆる技術が、効力を打ち消される。
次元封印も然りだ。
神である <監視機構> が自ら作り上げた特殊空間 <魔界> に、彼らの僕たる天使をご招待。
それは或いは、サタナエル一流の皮肉だったのかもしれない。
「さて、こちらはこちらで楽しもうか……木偶共。
光栄に思うがいい。お前達にも魔皇が魔皇たる所以、ファースト・タイムを体験させてやろう」
サタナエルはゆっくりと立ち上がると、3騎のエヴァに向き合った。
<ADAM> <EVE> <ZERO> 。
巨神それぞれは、十分な距離をとったポジションから、サタナエルの隙を窺っている。
どうやら1度コンビネーションを怒涛の如く繰り出した後は、一旦間合いを取って仕切り直す、というのが彼らのパターンらしい。
「お前達は我が配下となる。
……となれば、それなりに新たなる名を与えてやるべきであろうな」
その言葉と共に、サタナエルは <ファースト・タイム> を発動した。
ゆっくりと静寂が訪れ……ある一瞬から突然に、世界が静止する。
リヴァイアサンも、使徒たちも、そして向かい合わせた3騎のEVAたちも。
舞い上がった細かな月の土砂すらも、全てが凍り付いたように動かない。
いや。
彼らが動かないと言うよりは、まるで時が……止まったようだ。
その現象が現れると共に、得体の知れぬ脱力感がサタナエルを襲ってきた。
魂が軋むような、言葉では表現しきれないプレッシャーだ。
「ヌウッ、やはり、この躰ではきついか……最速の魔皇の名が泣く」
奥歯を食いしばると、絞り出すようにサタナエルは言った。
やはりコアの純度が不足していると、負担も大きければ出力もない。
この調子では、そう長くは持つまい。
限界が訪れないうちに、サタナエルは行動を開始した。
「福音を齎す者……。その名は返上せよ。貴様等の新たなる使命には向かぬ名だ」
別空間で核融合を起こし、生じたエネルギーをA.T.Fでコーティングして背面に召喚する。
それを適切な角度をつけて解放することで爆発的な推進力を作り出すと、サタナエルは極超音速の速度でEVA達に接近した。
凍り付いた時に閉じ込められたかのようなEVAは、まるで巨大な彫像にでもなってしまったかのように動かない。
「このクレーターの名に因み、貴様等を <ENDYMION> と名付けよう」
まずは紫の一角獣、 <ADAM> だ。
サタナエルは急速接近すると、がら空きのボディを渾身の力を以って蹴り上げた。
A.T.Fでコーティングされた強力な蹴りに、流石のEVA、いやエンディミオンのボディもついて来ない。
腹部が衝撃で消し飛び、胴が両断され飛散する。
「貴様は、 <ADAM> を改め <ASK> 。…… <エンディミオン・アスク> だ」
次に、近接格闘・中距離白兵・遠距離戦闘を平均的にこなすリベロタイプ。
……深紅のEVA、 <EVE> だ。
「イヴか、ならばお前は <エンブラ> と名乗るが良かろう」
赤の鬼神の背後に回り込むと、その手刀を唸らせ首ごと頭部を刈り取る。
切断された首が弾け飛び、闇の彼方に飛び去っていった。
それに目もくれず、新たなる目標に <ZERO> を定めると、サタナエルは再び飛翔した。
一瞬後に青の機体に取り付くと、力任せに宙にブン投げる。
「貴様は <ZERO> と言ったな。……ならば消し飛び、ゼロとなれ」
今度は対消滅反応だ。
核融合とは比較にならないほどのエネルギーを、掌サイズの球状A.T.Fに閉じ込めて召喚すると、ZEROに向けて線上に解放する。
押し寄せる怒涛の奔流に飲み込まれて、ZEROは魔皇の言葉通り消し飛んだ。
一見他愛もない、簡単なことのように思えるが……
この召喚系の技には、最高度の技術と経験が要求される。
別空間でエネルギーを生み出し、それをフィールドで包んで召喚するまでは比較的簡単なのだが、これを解放する時が大変なのだ。
特に対消滅によって生み出されたエネルギーは、他の反応から得られるエネルギーとは桁が違う。
解放し、放った後も放射範囲や射軸などを、緻密に正確に制御しなければ自身の身も危うくなる。
場合によっては惑星を消滅させるレヴェルでの召喚も行うのだ。
魔皇クラスでなければ、とても制御しきれない。
不完全なコアのせいで、かなりの能力に制限を受けているサタナエルだが、彼がもつ本来の技術だけはコア如何によらず完全に発揮できた。
これは、それ故に可能となる戦法であるのだ。
全ての行動を終えたサタナエルは、その動きを止めると静かに地に降り立った。
そして、ゆっくりと瞳を閉じる。
時が戻った。
不意に爆発の連続が周囲で巻き起こり、しばらくの沈黙の後に瓦礫と化した2騎のEVAが残された。
紫の巨体は腹部がごっそりと失われ、壊れた無残な人形のように横たわっている。
深紅の巨神は、頭部を失いヨロヨロと数歩歩くとやがて崩れ落ちた。
青の機体に至っては、影すら残されていない。完全な消滅だ。
魔皇三体とインペリアルガード、そしてエンシェント・エンジェルのみが持つ特殊能力がある。
対象とする領域の、時間の流れを一時的に遅滞させる能力だ。
世界を超スローモーションの世界に置去りにすると表現すれば、分かり易いか。
これも一応はA.T.Fを応用した技術で、次元封印よりも高度な制御が必要となるらしい。
ただ、要求される消費エネルギーも桁が違う故、並みの天使では扱いきれないのだ。
この技術を発動すれば、周囲の時間を数千万〜数億分の1というレヴェルまで落とすことが出来る。
これは如何に極超高速の運動を実現するEVAにあっても、実質、時間が止まって見える単位だ。
その中で発動者自身は自由に動けるわけだから、その効果は絶大である。
時そのものを操るのか、重力制御で時間に影響を与えているのか……
詳細は定かでないがインペリアルガード以上の天使達は皆、程度の差はあれこの能力を有す。
止められた側から見れば、術者は想像を絶する高速領域を形成しているように見える。
究極の高速運動の実現。
これが、ファースト・タイムである。
また、このファースト・タイムには個人差がある。
魔皇三体でいうならば、このサタナエルが最速のファースト・タイムを実現できるらしい。
サタナエルが最速の魔皇たる所以である。
これに続くのが、ガルムマスター・ヘル。
結果的にカオスのファースト・タイムが最も落ちることになるが、3者の差は極めて小さい。
あって無きが如く、その程度だ。
だがそれでも、カオスとサタナエルが互いにファースト・タイムを発動した時、カオスはサタナエルの動きを捉えるのに苦戦を強いられることであろう。
0.000000……たとえその格差が極小であったとしても、魔皇たちの主観からすれば無視できない誤差となるのだ。
因果律が破れるまでに高めると、効果は切れるらしいが……
とにかく、これが <使徒> と <上位天使> とを差別化する要素のひとつとなっていることは確かである。
――ロード
「……リヴァイアサンか」
呼びかけに、サタナエルは周囲を見渡した。
どうやらリヴァイアサンも、その戦闘を終えたらしい。
周囲にはコアを破壊された使徒たちの死骸が、無数に散らばっている。
生き残った数十ばかりの使徒達も、恐らく監視機構の手によって開かれた次元門に向かい、退散しつつある。
「他愛もない。EVA……いや、 <ENDYMION> を諦めたというのか」
――彼の使徒、如何なさるか
使徒達が退却に用いている次元門を潜れば、或いはこのまま監視機構の本拠 <クロス・ホエン> まで乗り込めるやも知れないが……。
この場合、向こうへ行ったところで何が出来るわけではない。
「捨て置け。あの様な雑魚、このプラントが手に入った今、何の障害にもなりはせぬ」
――では
「うむ」
サタナエルは、バイザー越しの真紅の瞳を細めると、微笑んだ。
「人類監視機構、すなわちエンシェント・エンジェル共を倒すには、奴等を <クロス・ホエン> より引き摺り出さねばならぬ。
奴等は <全てを知る者> なる超越者の命に従っていた。
そして其奴は、人類が存在していなければ困るらしい。
ならば……人類が絶対的な滅亡の危機に際した時、如何なするであろうな?」
<クロス・ホエン> とは、実質エンシェント・エンジェルのコアの様なものだ。
実際、それそのものというわけではないが、感覚としてはそれに近い。
だから <クロス・ホエン> にいる限り、エンシェント・エンジェルに死も滅びもないのだ。
彼らを倒すには、あそこから、例えばこの三次元の空間に引き摺り出すしかない。
それとは別に、 <クロス・ホエン> そのものを破壊するというやり方も考えられるが、実際、それも不可能だ。
「世界の中心」「究極の高次元」たる <クロス・ホエン> 自体が無を内包している。
あれは、カオスなのだ。
破壊や無への回帰という概念そのものが成り立たない空間。次元。
それが、 <クロス・ホエン> なのである。
だから、ある意味 <クロス・ホエン> にいるからエンシェント・エンジェルは、神でいられるのだ。
彼らが下界での作業を全て下級使徒にまかせ、不穏分子である死神やタブリスの抹殺も自らの手で行わないのはだからこそだ。
行わないのではなく、行えないのである。
彼らが <クロス・ホエン> から離れて、この地球にやってきたとすれば、存在確立が確定してしまう。
カオスの存在ではいられなくなるのだ。
地球が内包される宇宙の法則に捕われることになれば、彼らにも滅びや死の概念が生じてくる。
「それ故に、奴等をクロス・ホエンより導く必要があるのだ。
<堕ちる> とはよく言ったもの。
1度摂理に取り込まれれば、クロス・ホエンに帰っても2度と神には戻れぬ。
まずは、奴等の神聖を暴く。そこからよ」
――故に人類を
「そうだ。
<全てを知る者> は、何故か妙にあの動物たちに拘る。何があるのかは知らぬがな。
奴は人類に滅びてもらっては困る理由が在るらしい。ならば、それを利用するまで。
魔皇に人類殲滅の意志あり。
これがクロス・ホエンに届けば、エンシェント・エンジェルを派遣せずにはおれまい。
もはや監視機構の主力 <EVA> も我が手の内。
駒はもう、エンシェント・エンジェルしかないのだ……」
中世からつづく全てのシナリオは……この為だけにあった。
カオスが中世に行き、タブリスを引き込んだことも。
それによって監視機構の主力を、心無き木偶に切り替えさせたことも。
新型の木偶 <EVA> を取り込んでみせたことも。
全ては、監視機構を追い込むため。
追い込んで、この宇宙に引き摺り出すためだ。
「……次なる目標は地球。人類だ。
リヴァイアサン。お前は、人型をとり <ENDYMION> の指揮に当たれ」
――人型に
リヴァイアサンの声には、怪訝そうな響きが在った。
彼女もガルムと同じように人型をとれないこともないが、必要性が理解できない。
「人間とは己の常識からあまりにもかけ離れたものに直面すると、正しくそれを認識できなくなるという欠陥品だ。
……お前のその姿は些か、派手すぎる。
奴等に正しい恐怖と危機感を抱かせるには、より人間らしいやり方の方が良いのだよ。
……この <ENDYMION> を利用するのは、その為でもある」
――では、此れよりは
「……そうだ。
これより我々は、ENDYMIONを率い――人類に宣戦を、布告する」
サタナエルは、鋭利に微笑んだ。
「……全ては、此処からはじまるのだ」
青い月を見ていた。
まだ2人が一緒だった頃、彼から色々なことを教えてもらった。
そのうち、彼女が特に関心を抱いたものが4つ。
その1つが、この青月。
<ブルームーン> であった。
「ねえ、ラ・ピュセル。青い月って見たことがある?」
アランソン侯がそんなことを訊いてきた。
彼女は、首を小さく左右した。
今、ふたりが草原に腰を落として見上げているのは、いつもそこにある白い月だ。
時に金色に見えたり、赤みがかったりすることもあるが、青い月は見たことがない。
「あのね、ラ・ピュセル。
あの夜空に浮かんでいる月がね、淡く奇麗な青い光を放つことが希にあるんだよ」
「……?」
青い月。
想像がつかないラ・ピュセルは、ちょっと首を傾げた。
「僕もただ1度しか見たことがないんだけど……。
それは、なんて言えば良いのか、言葉ではとても表現できないような、柔かで神秘的な青なんだ」
三日月を見上げながら語るアランソン侯を、ピュセルはただ見つめていた。
「そう言えば、あのブルームーンの青……
ピュセル。君の髪の色にも、似ていたような気がするよ。
うん。僕にとってはどちらも同じような――神秘的な青だ……」
そっと優しく髪を撫でてくれたアランソン侯の微笑みは、今でも忘れていない。
ごく希にしか現れない、青き月。
だから、それは <かなわない夢> の象徴だと言われているんだ――
光のカーテン、オーロラ。
空と大地を繋ぐ、ビフレスト。
生命を生み出した大いなる母、海。
そして、かなわない夢を司る青月。
彼はラ・ピュセルがまだ見たことのない、自然の存在を幾つも教えてくれた。
滅多に姿を現さない、地球が見せる奇跡のヴィジョン。
人はそのオーロラや、虹に……一体何を見ていたのだろうか。
遥か昔――
夜空を見上げる人々が、ブルームーンに見出したのは、 <叶わない夢> 。
それは取り残された想い。掴めなかった未来。
今、その青月を見上げるラ・ピュセルの願いもまた、叶わないものなのだろうか。
今一度、逢いたい人がいる。
アランソン侯に、もう一度逢って――
逢って、伝えたいことがある。
まだ、想いを伝えきれていない。
言いたいことも、聞きたいことも数え切れない程あるというのに。
伝えたい感情が生まれて
伝えたい人が現れて
だけど、そのことにやっと気付けた時には
もう、その人はもういなくて
その人が何を思い
何を見て
どんな夢を追いかけていたのか
知りたいことも、伝えたいことも、言いたいことも
何一つ、言葉を交わせないまま――
ただ、届かなかった想いと思い出だけが、
いつもそこに取り残される。
「水の大地なんだ。
見渡す限り、四方八方すべてが水なんだよ。信じられないでしょ?
でも本当なんだ。
とても青くて、空を映し出したようにそれは青くて……奇麗なんだ。
そして潮の香りがするんだ。
初めてでも懐かしいような、不思議な香りだよ。きっと君も気に入るよ。
大きな大きな水の絨毯。いつか船に乗って一緒に見に行こうね」
そう。
いつか、一緒に見に行きたい。
彼女も、そう思っていた。
「初めて見た時は、その目を疑ったよ。
光の橋なんだ……。
七色の奇麗な光が、空と大地を繋いでるんだ!
もう、本当に、なんて言って良いのか。
あの向こうに何があるのか、本当に探しにいった旅人の話を吟遊詩人に聞いたことがある。
北欧の伝説にもね、登場するのは知っていたんだ。
この世界と異世界を跨ぐ、光の架け橋 <ビフレスト> の伝説……。
天と地を結ぶ、そう、七色の虹の伝説をね」
いつか、ふたりで渡ってみたい。
それを夢見ていた。
「クレスさんから聞いたんだけどね、スウェーデンを更に北上すると氷の大陸が現れるらしいんだ。
土や草で覆われたこの大地とは全然違う、そこは全てが氷で出来きた氷の世界なんだって。
そこではね、希に……本当にごく希に光のカーテンが現れるそうなんだ。
ヒラヒラと光り輝く天布のように、空に煌く大きなカーテン。
オーロラっていうそうだよ。1度は見てみたいよね。きっと奇麗なんだろうなぁ……」
いつか、それを求めて2人旅立てたら――
そう願っていた。
でも……
全ては、夢なのだろうか。
叶わない、夢に終わるのだろうか。
――それでもいい。
『掴めない夢でかまわない。時空を超えても、ふたり、求め合えるのなら』
不意に、ピュセルは柳眉をしかめた。
うそ……
それは、うそ。
私は、心にうそをついている。
哀しい夜、泣かずに眠れるまでの泡沫の偽りを。
掴めない夢でかまわない?
ならば、何故に毎夜毎夜アランソン侯が現れてくれるのではと、空を仰ぐ?
求められているという事実だけで、ただ、それだけで満足と言うのなら……何故に、胸の痛みをいつも感じる?
ひとりは、不安定だ。
とても脆い。
最初は、どんなことがあってもアランソン侯が必ず迎えにきてくれると信じていた。
最後まで信じきれると、そう思っていた。
でも、それが揺らぎはじめる。
だって、彼女はあまりにひとりだから。
戦場を掛け続け、命のやりとりをすることで人の心は乾いてゆく。
混乱と非情のフィールドの中で、やはり安堵と温もりを求めてしまう。
そこに見るのは、いつもアランソン侯の横顔なのだ。
だが、その彼が再び時を渡り、この中世にまでやって来てくれるという保証は何処にもない。
ほんの少し前までは、求めればその顔も声も手の届くところにあったのに。
今は、ただ思い出と縋るような希望の中にしか、その人はいない。
もう探しても何処にもいないのだ。
――未練がましい
我ながら思う。
自分で決めたことではないか。
彼を未来に送ることで、待ち受ける確実な死の運命から逃れさせる。
絶対な死別という別れより、幾許かでも希望の残る時に別たれる方がいい。
だから、時の扉を開いた。
それを決意したのは、ラ・ピュセル。
私自身なのだ。
なのに、残された自分を哀れんで……
孤独を持て余している。
ただただ、彼が迎えにきてくれるという希望に、縋り付いて日々を維持している。
縋り付く……
それを、そんな人間を、アランソン侯が望むだろうか。
ラ・ピュセルはひとり考えてみた。
勝手に相手に希望を見出し、その人が起こしてくれるであろう奇跡をひたすらに祈る。
それは……
それは、まるで神に対する信仰のようだ。
ハッとした。
信仰と崇拝。
自分は、己の孤独を癒すために縋っていた対象を、ただ『神』から『アランソン侯』に挿げ替えただけではあるまいか?
信じる心 <信頼> を、無責任な希望を一方的に押し付ける <信仰> と一緒にしてはいなかったか?
信仰と崇拝。
それは、絆とは違う。
アランソン侯はかつて、感情を昂ぶらせながらそう語っていた。
それらの感情と姿勢は、相手の成長を促すことはない。
崇拝を受けても、信仰を受けても、人は成長することはない。
彼はだから、崇拝と信仰を嫌っていた。
絆とは互いを結び付ける、見えない力。
ひとに強さと支えを与える、大事な力。
互いに影響を与え合い、互いの成長を促進させる……人間として最も重要な相互関係を <絆> と呼ぶならば、『崇拝』はそれと一線を画す。
崇拝は、相手の全てを無条件に認めてしまう。
相手に自分の理想を勝手に重ねて、勝手に希望を見出す、生産性のない行為だ。
アランソン侯はそう考えていたようだ。
確かに崇拝する方は、理想の体現者がそこにいるわけだから、それを精神的な支えとして生きていくことが出来る。
だが……それは、絆ではない。
例えるなら、 <崇拝> とは絵本の中の妖精に恋をするようなものだ。
アランソン侯はこうも言っていた。
絵本の中に登場する妖精は、美しく、汚れのない存在である。
まさに人が理想とする存在そのものであろうと。
だが、それに恋心を抱き、勝手に自分の恋人だと思い込んで、勝手に幸せになったところで、それが何を生み出すというのか。
それは所詮、理想を体現した、ただの <虚像> でしかのだ。
その恋に人は何も学べないし、無論、その絵本の中の妖精が、注がれた恋心で更に美しさを増すということもない。
神に対する信仰も崇拝も同様だ。
触れ合えないのなら、それは存在しない <虚像> でしかない。
神が実在すると仮定したとしても、その神と触れ合えないなら、それはいないのと同じなのだ。
人は互いに励まし合い、支え合い、弱点を曝け出し、過去をばらし合い、そして強くなることが出来る。
その関係の方が、何倍も何倍も重要で大切なのだ。
それが、その関係そのものこそが、僕の求める人間の力。
すなわち、 <絆> なのだ……と、そうアランソン侯は言っていた。
今の自分はどうだろう。
ただ哀しくて。どうしようもなく寂しくて。
かつて神に縋り、孤独を癒そうとしたけれど……
今はアランソン侯がいる。
だから、彼を求めている。
はやく迎えに来て、と。
迎えに来て、私の孤独と寂しさを癒して、と。
私を心を満たして、と。
縋って、縋り付いて、希望と理想の未来を彼の起こす奇跡に重ねて……
ただ、それを祈っている。
それは――
アランソン侯は、まさにその姿勢を <信仰> と <崇拝> と定義付けていたのではあるまいか。
彼は王子様か?
白馬にのって私を迎えに来てくれる、王子様か?
幸せは彼がきっと運んできてくれると、そう信じている無邪気な姫君が自分か?
ならばその姫君は、彼にどんなことをしてあげられるだろう。
他人が与えてくれる幸福をただ待ち望んでいる、そんな姫君の生き様に、いったい王子は何を学び取れるというのか。
彼が得るものなど……なにひとつ、ありはしないではないか。
なぜ、迎えを待つ必要がある。
自分で決めて、彼を送り出した。
だったら、自分で追いかければいいではないか。
もう一度逢いたいなら……本当に逢いたいなら、追いかけいって捕まえればいいのだ。
何故……
何故に、そんな簡単なことに気付けなかったのか……
一体、自分はアランソン侯に何を学んだというのだろう。
彼は色んなことを教えてくれたではないか。
偽らず、隠さず、時には感情を露わにして、沢山のことを真摯に語ってくれたではないか。
心も絆も、大切なこと、たくさんたくさん教えてもらったはずなのに……
――私、馬鹿みたい
恥ずかしくて
自分が、あまりにも愚かで
何も知らない、ただの無知な娘のようで
それが哀しくて、情けなくて……
ピュセルの頬を涙が伝った。
ごめんなさい……
ごめんなさい……
わたしは――
「わたしは、逃げていました」
ラ・ピュセルは青い月に、囁いた。
「わたしは、ただ、貴公との楽しかった思い出だけに縋り付いて……」
「自ら未来を作り出そうという意志を、放棄していました」
「未来は貴族が作るものではなくて……」
「領主が作るものでも、宮廷が作るものでも、王が作るものでもなくて……」
己の生活の安定を、社会とシステムと政治家たちに任せきりで。
自分の幸福と安息の日々の創造を、全部他人任せにして、自分は動こうともせず。
そのくせ、不幸と不満を叫び、その全てを他人に向ける。
結局は、その姿勢こそが、今のこの国の荒廃を齎したことにも気付けぬ、愚かな民。
「――私が望む未来は、私が自分で掴まなくてはならない」
ラ・ピュセルは、自分がその軽蔑すべき人間のひとりであったことに、気がついた。
「自分の足で立ち上がろうとしない者に、未来を望む資格などない」
私は、未来を変えようとする努力さえすることなく、ただただ貴公に全てを押し付けていた。
そして今は目の前にある戦争に流されるまま、ただ生きているだけの存在に成り果てている。
自分が何を見据えるべきか、何を目指すべきか、考える事すらせずに。
ただ近くにある悲劇と孤独に浸って、逃げていた。
そんな弱い人間が、あの人の側にいたところで何の意味があるだろう。
私は、神という存在に縋り付き、ただ命ぜられるまま流されるように生きていた、人形のようなあの頃から……
なにひとつ変わってはいなかった。
「やっぱり、貴公はすごいひと」
ラ・ピュセルは思う。
こんなに遠く離れていても、残してくれた言葉ひとつで……
自分を変えてしまう。
だったひとつの思い出で、自分に多くのことを学ばせてくれる。
「そして、やっぱり……わたしに、何より必要なひと」
本の中の妖精なんて嫌だから。
ちゃんと言葉も交わせる、時にはケンカだってできる、ひとりの人間として想われたいから。
色んなことを教えてもらうからわりに、私を見て、色んなことを知って欲しいから。
私と関わったことで、貴公がほんのちょっぴりでも素敵になってくれたとしたら、それはとても嬉しいことだから。
だから、私はひとりのヒトになる。
自分の足で立って、自分の足で歩いて。
世界を見て、現実を見詰めて。
自分の頭で考えて、心で判断する。
そして、そんな自分の隣にいつも貴公がいてくれたら……。
それが、私の新しい夢。
掴めないかもしれないけれど。
でも、目指す夢。
――ピュセル……
不意に、彼女は温かい風に包まれた。
そして聞いた様な気がする。
アランソン侯の声を。
「侯……?」
そう。
すごく薄っすらと、儚いほど微かに感じる。
まるで風が、彼の体温を少しだけ運んできたように……
でも、確かに感じるのだ。
間違いなく、それはアランソン侯の気配。
「何処にいるの……?」
驚きにその目をまるくして、ラ・ピュセルはキョロキョロと辺りを見回した。
だが、彼の姿は見えない。
なのに、直ぐ近くに感じる、候の存在。
「お願い、姿を見せて……お願い、お願い……逢いたい……」
一生懸命お願いするラ・ピュセルに応えるように、アランソン侯の香りが今度ははっきりと届いた。
そして、優しい温もりがその白い頬を撫でる。
きっと彼の柔らかな口付けだったのだろう。
ラ・ピュセルはそれに瞳を閉じて感じ入っていた。
――ごめんね……今はこれで……
そう聞こえたような気がした。
そしてそれと同時に、ゆっくりと彼の気配が希薄になっていく。
ゆるやかな風に流されていくように。
「待って……どこにいくの……待って……!」
今度はその懇願も届かなかった。
やがてまた、ひとり青月の下に取り残されるラ・ピュセル。
だが、不思議とひとりになった寂しさは感じることは無かった。
きっとあれは、時空を超えた彼のエールだろう。
そう思えたからだ。
アランソン侯も、応援してくれている。
自分が見出した新たなる道は、過ちではないのだ。
今、ここに戦争がある。
混乱が百年に渡り続き、国は荒廃し、秩序が崩壊し、民は苦痛に叫びをあげている。
まずはこの戦争に戦う意義を見出そう。
そして、自分なりの決着を着けよう。
この乱世の中で、自分を育てたい。成長したい。
もし、この流転する時代の中でも、自分をしっかりと保てたのなら……
少しだけ、大人になれるような気がする。
そうしたら、自信を持ってアランソン侯を追いかけることが出来る。
不思議な風に勇気づけられ、そして思い出に学んだラ・ピュセルは――
叶わない夢の象徴にすら、微笑んでみせることができた。
SESSION・95
『迷犬がうむ』
「やっぱり、僕たちも、たまには皆に連絡いれたほうがいいかな?」
麗らかな午後。
シンジたち一行は、ランスのとあるレストランで昼食をとっていた。
通りを見渡しながら食事の出来る小粋な席に陣取ったシンジが、アイスコーヒーのストローから口を離すと向かいのアスカに話し掛ける。
「そうねぇ。そう言えば私たちって、今、高校を休校しているんだっけ」
こざっぱりとした白いレースのかけられたテーブルに肘を突きながら、アスカは呟く。
「……ヒカリとも随分顔合わせてないし、確かに電話くらいはした方がいいかもしれないわね」
「トウジとケンスケ、今頃なにやってるかなぁ」
シンジも柔かな日差しを見上げながら、小さく言った。
「あんたの場合、休んでいた分の勉強の遅れを心配するべき何じゃないのぉ?」
アスカが意地悪く微笑みながら、妙に抑揚を付けて言う。
「はうっ?」
痛いところを突かれるシンジ。
定期試験で常にレッド・ゾーン(赤点領域)スレスレをひた走る、3バカトリオの一角、碇シンジ。
「これはもう、留年は決定ね」
「そ……そぉんなぁ……いじわる言わないでよ、アスカぁ」
泣きそうな表情で、弱々しくシンジは言った。
「カッコ悪いわよねぇ。私はまあ、高校レヴェルの授業なんて楽勝だけど、あんたは……ねぇ?
ヒカリや私が卒業して、大学やら就職に進路を決めている頃、シンジ君はひとり高校生で頑張ってるんだぁ。
年下の子たちに周りをか・こ・ま・れ・て♪」
「やあ、お待たせしたね」
そこに席を外していたカヲルが帰ってきた。
「おや……?」
椅子を引いて腰を落としながら、彼は小首を傾げる。
「シンジ君。何か哀しいことでもあるのかい?」
「あうぅ〜、カヲル君、助けてよ。アスカが……アスカが苛めるんだぁ」
シクシク泣きながら、カヲルに縋り付くシンジ。
「なんだ。アスカ君、またシンジ君に意地悪したのかい?
泣かせちゃ駄目じゃないか。彼の心は繊細なんだよ。傷つき易いんだ」
シンジの頭を撫でてあげながら、カヲルはにこやかに言った。
「なにを人聞きの悪い。私はシンジが現実をただしく認識する手助けをしただけよ。
たるみきっているシンジには、時々危機感を抱かせないといけないわけ。
これは親切なのよ。親心のなのよ。愛情なのよ」
「ふ〜ん、そんなものなのかい」
あっさり納得するカヲル。
特に論理的に破綻している個所が無ければ、彼は頓着しない性格だった。
「そんな、あっさり引き下がらないでよ、カヲル君。
アスカ、僕を苛める時妙に嬉しそうなんだよ。あれ、絶対楽しんでるよ」
「ちょっと。何言ってんのよ、シンジ。
優しく慈母のような微笑みをたたえながら、叱ってくれる人なんて滅多にいないんだからね。
大事にしなさいよぉ?」
「ふむ。確かに。それは貴重な存在だね」
「でしょう?」
カヲルの相槌に、アスカは満足そうに頷いた。
「シクシク……もういいよ。酷いよ、みんな」
「あ、そうそう。バカシンジの言いがかりで忘れるところだった。
向こうはどうだった? 連絡とれたの?」
アスカが思い出したように、カヲルに訊く。
「ああ、そのことなんだけどね……」
ウェイトレスが運んできたスパゲッティを受け取りながら、カヲルは言った。
「東京の主任と話してきたよ」
カヲルが席を離れていたのは、第三新東京市のNERVに現在の状況の確認を取るためだった。
こうしてフランス行きの許可を貰ったとは言え、月には魔皇サタナエルがいるのだ。
そう呑気に構えているわけにもいかない。
「主任って、技術開発部の赤木リツコ博士?」
記憶を探りながら、アスカが訊いた。
一連の事件に巻き込まれる形で関与しているアスカだが、NERVとは直接的な接点はない。
「ああ。彼女だよ」
「それで、どうなっているって?」
真顔に戻ったシンジが問う。
「うん」
カヲルもいつものアルカイック・スマイルを引っ込める。
「月面で、大規模な時空歪曲が確認されたらしい。
多分、時空のゲートが開かれたんだ。
次元封印に類する <召喚系> の技術が発動されたのだろう……」
「召喚系、ねぇ」
いまいち理解できないアスカが、適当に呟く。
「月面での抗争が、佳境に入ったっていうことだと思うよ」
シンジがアスカに説明するように言う。
「次元門が開かれたってことは、監視機構がサタナエルを倒すために使徒たちを月面に送り込んだか、或いはサタナエルがインペリアルガードを召喚したと考えるのが自然だから」
「なるほどね。そのどちらにしても、事はクライマックスってことか。
……となると、決着が着くのも時間の問題ね」
「そういうことになる。この旅も早々に切り上げた方が良さそうだ。
もう何日も時間がないと考えた方がいい」
「そうだね……」
シンジも厳粛に頷いた。
「それから、シンジ君。これを見てもらいたい」
そう言ってカヲルがテーブルに差し出したのは、数枚のカラーコピーだった。
「月面にはかなり高レヴェルの時空歪曲領域が展開されていて、状況がよく掴めないようなんだ。
プラントを潰すために発射されたミサイルの類も、これに全て阻まれたという話だ。
そんな中、辛うじて軌道衛星のカメラが捕らえたのが、この写真らしい」
カラープリントには、画像の荒い月面と、それを取り巻くような……
なんだろうか。
蛇のような巨大な生物が写し出されている。
「なにこれ。やたらとでっかいわね。ドラゴン?」
何故か嬉しそうに訊くアスカ。
なにやら燃えているらしい。
ドラゴンという言葉が、彼女の燃える闘魂に火を付けたのか。
「……これをどう見る、シンジ君。ヘルとしての君にならなにか心当たりがあるかもしれない」
――これは、リヴァイアサンだ
カヲルの言葉に応えるように、シンジ、アスカ、カヲルの脳裏にその声が響き渡った。
シンジの奥底で眠るヘルが、直接彼ら3人の脳に働きかけたのだろう。
「……リヴァイアサン?」
カヲルが眉を若干ひそめながら、訊いた。
「たしか、ホッブズの著書にそんな名前のがなかった?」
「誰だい、そのホッブズというのは」
アスカの言葉に、カヲルが重ねて問う。
「哲学者よ。17世紀あたりのイギリスの哲学者。
<リヴァイアサン> は確か、旧約聖書に登場する巨大な海獣ね。
人間の負の象徴だとか、ルシファーの化身だとか言われることもあるらしいけど。
ホッブスは、絶対権力を持つ『国家』をその <リヴァイアサン> に見立てて、その存在の必要性を語ったわけよ。
それがホッブスのリヴァイアサン。ま、政治思想書ってとこね」
――ガルムと同じく、リヴァイアサンはサタナエルが使役する魔皇守護者。
インペリアルガードだ。
基本形態は、巨大な獣……想像上の幻獣 <竜> にも似通った姿をしている。
間違いあるまい。
「じゃあ、月面で観測された時空歪曲というのは……」
シンジが低く呟く。
――このリヴァイアサンの召喚の際生じたものであろうな。
だが、サタナエルが何の意味も無くガードを召喚するとも思えぬ。
監視機構も天使どもを、月に送り出したのであろう。
「ふむ……。どちらにしても、やはり月での決着はもう着いていると考えて良さそうだな。
魔皇ヘル。貴方は、EVAのプラントの支配権を握ったのはどちらであると考えている?」
――サタナエルは、リヴァイアサン以外にも、もう一体 <ベヒーモス> という
インペリアルガードを使役している。
そのベヒーモスの姿が、これには見えぬ。
となれば、サタナエルにはベヒーモスを温存できるだけの余裕がある……
と、そう考えるべきであろうな。
「要するに、サタナエルの勝ちってことね」
アスカが纏める。
「そういうことになるかな。
……まあ、とにかくだ。
シンジ君。やはりこの旅は早めに切り上げた方がいい。
サタナエルや監視機構が、今後どう動いてくるか予測がつかない以上、こちらもあらゆる事態に迅速に対応できる体勢を整えておくべきだ」
「そうだね。確かにカヲル君の言う通りだ。
予定を繰り上げて、次は最終目的地 <ルーアン> に行こう。
あそこにはどうしても行かなくちゃならないから……。
それでこの旅は終わりだ。日本に戻って、向こうの動きに備えよう」
「よぅっし! そうと決まれば、そのルーアンとやらに出発よ!」
すっくと立ち上がると、拳を握り締めてアスカが言った。
道中、やたらと元気なアスカ嬢。
結構、旅好きなタイプらしい。
「ルーアンか。少しあるな……。
まあ、1週間後には間違いなく第三新東京市に戻れるだろう。異論はないね」
「うん。じゃあ、行こうか」
一行は会計を済ませると、レストランから出た。
次の目的地となるルーアンは、ラ・ピュセルが投獄されていた地。
セーヌ川を溯って、ノルマンディー地方へ北上しなければならない。
またしばらく、列車の旅になることだろう。
「さっ、ガルム。外は人が多いし、迷子になると困るから手を繋ごうね……って」
ふと気付くと、何時も側をちょこちょことうろついているはずのガルムの姿がない。
「ああっ!? ガルムがいないっ!」
思わずシンジが叫びをあげる。
「ん、そう言えばいつも『わふ〜♪美味しまし〜』とかいってお肉をおいしそうに食べているはずなのに、食事中1度も見かけなかったわね」
「僕も、視界に入らないほど小さいものだから、気付かなかったよ」
「ど……ど、どこいっちゃったんだろ?」
オロオロと慌て出すシンジ。
辺りを見回してみるが、なにせランスはそこそこの都市だ。
街を行き交う人の数も当然多い。
一度見失った存在を、再び見つけ出すのは困難を極める。
当然、ガルムの姿は何処にも見えなかった。
「迷子ね」
「迷子だね」
アスカとカヲルが頷きあう。
「ど、ど……どうしようっ?ガルム大丈夫かな?」
これ以上ないというくらいに、うろたえるシンジ。
「う〜ん、どうだろうねぇ」
「そうねぇ」
アスカとカヲルは、2人揃って顎に手をやり何事か思案する。
「ガルムは本性はとりあえずとして、子供の姿をしている時はすこぶる可愛いからねえ」
「確かに。ま、私のラヴリーさには遠く及ばないとしても、なかなか愛嬌はあるわね」
「最近、屈折した愛情をもてあます人間も多いし……」
「可愛さあまりに、『誘拐』したくなる人間がいてもおかしくないわよねえ……」
「ゆ……ゆうかい……」
さぁ〜っと血の気が失せて、顔面蒼白となったシンジが呟く。
「ありえるね」
「ガルムは人見知りしないし……」
「しかも、人を疑うことを知らないからねぇ」
なにやら、妙に息の合ったところを見せて、シンジに止めを刺しにかかるアスカ&カヲル。
鬼である。
「『お嬢ちゃん可愛いねぇ。おじちゃんが御馳走してあげよう』……なんて言われれば」
とカヲル。
「『えっ?ホントでございましぃ〜?行きませう〜♪』……とかなんとか言って」
とアスカ。
「トコトコ嬉しそうに着いていったり……」
「するかもしれないわよねぇ?」
フィニッシュとして、2人はふかぁ〜〜く頷きあった。
「うわぁぁぁぁ、ごめんよ、ガルムぅ〜!」
滝のような涙を流しながら、頭を抱え込むシンジ。
「僕が不甲斐ないばっかりに……」
「そうよ。だいたい、ガルムはあんたのペットなんでしょ。
ちゃんと面倒見なくちゃ駄目じゃない。ほんっと、バカシンジなんだから」
呆れたような言葉で、アスカが追い討ちを掛ける。
「うっ……うっ……ガルムはペットじゃないよ。家族だよ」
「まあまあ、そう落ち込む事はないよ。
ガルムは一見ちいさな女の子だが、実際は魔狼だ」
「そう。変態がイタズラしようったって、しようがないし」
「第一、妙なことをしようとしたら、逆に叩き殺されるのは誘拐した方さ」
「そうそう。『たべちゃいまし〜』とか言って、食べちゃうわよ。
例え殺しちゃっても正当防衛だしね。ま、多少、過剰防衛になりかけてるような気がするけど」
「そ……それはそれで困るよ……」
ガックリと肩を落として呟くシンジ。
「しょうがないわねぇ。いつまでもこうしているわけにもいかないし」
アスカが溜め息交じりに言った。
「シンジ君。僕も手伝うから、一緒にガルムを探そう。
なに、ガルムは普通じゃない。ある程度近くまで行けば、気配を察知して寄ってくるさ」
「カヲル君……そうだよね。ありがとう」
「ちょっと、シンジ。私にお礼はなし?」
アスカが腰に両手をあてて催促する。
「うん。アスカもありがとう」
弱々しい微笑みを見せて、シンジは言った。
「……よろしい」
アスカは満足そうに頷くと、続けた。
「それじゃ、バカシンジ。あんたはここまで来た道を逆に辿りなさい。
ヘッポコ天使。あんたは向こうの通りよ。
私は、このメインストリートを探してみるから。
30分したら、見つからなくてもここに1度戻ってくるのよ。
見つかったら、他の2人に携帯電話で連絡。いいわね?」
「了解した」
「分かったよ、アスカ」
カヲルとシンジが真顔になって、頷きあう。
「時計は皆合ってるわね?」
アスカのその声に、各自、自分の腕時計の時刻を照らし合わせて確認する。
「よし。問題ないみたいだね」
「じゃあ、解散よ」
その合図と共に、3人は散り散りに街の人込み消えていった。
一方、そのガルムはといえば――
レストランに辿り着くまでは、確かにシンジたちと一緒だったのだが、途中で見かけた野良犬が気になって、その後ろをひょこひょこと追いかけているうち……案の定、迷子になっていた。
その野良犬というのが黒の大型 <狼犬> で、要するに大きくなったガルムにそっくりの姿だったのだ。
だからなんとなく興味を覚えて、後を追いかけていたわけなのだが……。
しばらくすると、流石に自分がシンジから離れてしまったことに気付いた。
「わふ……?」
我に返ったガルムは、慌てて辺りを見回しシンジの姿を探す。
が、いるわけがない。
知らないうちに、辺りの景色はガラリと変わっていたのである。
最後の記憶によればメインストリートを歩いていたはずなのだが、ガルムが今いる通りはどう見ても人影の少ない裏通りだ。
「あうぅ〜、へうさま〜?」
とりあえず、小声で呼んでみる。
だが、返答は無し。
「へうさま、へうさま〜ぁ」
今度は、ちょっと音量を上げて呼んでみる。
だが、相変わらず返答は無し。
ひくひくと鼻をならしてみるが、シンジの匂いは感知できない。
近くにはいないということか。
胸の内に不安が込み上げてくる。
主はいったい何処に行ってしまったのか……。
きょろきょろと辺りを見回しながら、ガルムはトコトコと通りを駆け回る。
あっちへ行ったかと思えば、直ぐに引き返し、今度はこっちへ。
何も考えず、あたりを隈なく走るが、シンジの影は掴めない。
「わふ〜ぅ」
ぽよぽよの眉をしかめて、ガルムは立ち止まった。
どうしよう。
何処を見ても、どっちに行っても主の姿は見当たらない。
完全にひとりぼっちになってしまった……。
「……あぅ……ぅ……」
こまった。
かんぺきに、こまった。
どこいっちゃったのだろう。
とぼとぼと力無く歩くガルムの目に、やがてじわ〜〜っと涙が湧き出てきた。
「……ぅ……っく……ぁ……ぅ……」
ガルム、充填中。
滲み出した涙と共に、ガルムの小さな躰が細かに震えだした。
徐々に徐々に、その肩の揺れが大きくなっていく。
「……う……へぅ……さま……ぁ……ぅ……」
もはや、シンジを探すその声も震えてまともに聞き取れない。
満水のダム。
やがて不安がそれに小さな亀裂を入れる。
一度入った亀裂に、処置を施してくれるものは側におらず……
その圧力は、ヒビを蜘蛛の巣のように張り巡らしていった。
そして、限界は訪れる。
「あうあ〜〜〜、へうさま〜〜〜」
ああ、泣いた。
ついに泣いちゃった、ガルム。
堰を切ったように、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出してくる。
「わふぁ〜〜ぁうあうあうあう」
もう、ここぞとばかりに大声を張り上げて泣くガルム。
たまりにたまったエネルギーを一気に解放したような、一種の爆発力がそこにはあった。
もみじのような小さな手で、一生懸命涙を押え込もうとしているようだが、とても及ぶものではない。
後から後から、止めど無く雫はこぼれてゆく。
「へぇ〜う〜さぁ〜ん〜まぁ〜〜」
人目はばからずの大声。
もはや超音波の領域にまで達したガルムの鳴き声は、ランスの街の大空に響き渡る。
周囲を歩いていた人々が、鼓膜を押さえながら地を這うようにもがいているのは気のせいか。
「へぇぇぇうぅぅぅさぁぁぁ……わふ?」
ほとんど嫌がらせのように、ヘルの名前を叫び続けるガルムの泣き声が、ある瞬間ぴたりとやんだ。
「が〜る〜む〜」
自分を呼ぶ、主の声が遠くから聞こえてきた様な気がしたのだ。
「わふ、へうさま?」
名を呼んで、耳を澄ます。
「ガルムぅ〜!」
今度ははっきりと聞こえた。
ガルムはぱっと顔をあげると、鼻をひくひく言わせて匂いを嗅ぐ。
背後の方向から、シンジの匂いが……した。
間違いない。
近くまで来ている。
ガルムは走り出した。
「ガルムっ!」
向こう側から、小さい人影が駆け寄ってくる。
ガルムの名を叫びながら。
シンジだ。
「へうさまぁ」
ガルムは超高速ダッシュで間合いをつめると、思いっきり主の胸に飛び込んだ。
その速度は、ワールドレコードを遥かに凌駕していたという。
ドゴフッ☆
「ぐっはぁぁぁ」
なんだか、とてつもなく鈍い音がしたような気がするが……
シンジの躰がくの字に曲がって、呼吸困難に陥っているような気がするが……
まあ、気のせいだということにしておこう。
「わふぅぅ、へうさまぁ」
すりすりとシンジの胸に頬擦りするガルム。
一方、シンジは生死の境をさ迷っていた。
「ぅ……ぐ……っ……。
なかなか……腰の……入った……素晴らしい……タックル……だったよ、ガルム」
ごほごほと咳き込みながら、絞り出すようにシンジはそう言った。
「勝手にどこかに行っちゃ……ダメじゃないか。もう、僕から離れちゃだめだよ」
「わふ〜」
ガルムはにっこりと微笑んで応えた。
「それじゃあ、皆のところに戻ろう。ね」
「はいぃ〜♪」
微笑みあうと、シンジはガルムに手を差し出した。
ガルムはその手に、もみじのような手を重ねる。
シンジとガルムは仲良く手を繋ぐと、ランスの街に消えていった。
まるで仲の良い兄弟のように。
ほのぼのムードに突入した2人を見送るように……
ガルムの超音波攻撃で悶絶する人々は、未だに地に伏してひたすら助けを求めていた。
――合掌。
TO BE CONTINUED……