まるで迫害と孤独の中で見つけた
小さな誇りを語るように


DARC
−ダァク−

全てを凌駕するもの


CHAPTERXXV
「ひとりの力じゃ足りないとき」





SESSION・86
 『元帥と剣匠』



 6月16日 ボージャンシー城


 この日、ラ・ピュセル率いる王太子軍は大いなる援軍を得たこともあって、迅速にこの <ボージャンシー> の町を制圧することとなった。その援軍とは、ご存知大元帥アルテュール・ド・リッシュモンその人である。以前は王家に多大な発言力を有していた彼であるが、今やシャルル王太子の庇護は侍従長のラ・トレモイユの一身に注がれていた。ある意味それは彼の溢れる才覚、そして英雄の気質がそうさせたのかもしれない。
 彼の知将としての名声と大公国ブルターニュ家の高貴な血筋、そして政でも如何無く発揮されるその圧倒的なカリスマ性は、嫉妬深いシャルル王太子と宮廷の席捲を目論むトレモイユにしてみれば脅威でしかなかった。民に英雄は必要かもしれないが、支配者にとって英雄の存在は邪魔であるというわけだ。故にトレモイユはシャルルに働きかけ、宮廷からリッシュモン元帥を遠避けた。
 そんな経緯で、トレモイユとリッシュモンとが仇敵の間柄となってしまったのは有名な話だ。もっとも、元帥本人にしてみればそのあたりのことには一切興味はない。権力にも王太子の庇護にも関心のない彼にとってみては、トレモイユの一方的な裏工作の展開は滑稽でしかなかった。
 それにいくらラ・トレモイユが画策してみたところで、彼の異常なまでの才能は殺しきれない。こうして援軍を率い実際にその見事な指揮を見せ付けられれば、兵士達の間での彼の名は上がっていく。知将、猛将が多ければ戦場で生き残ることのできる確立が上がる。勝利の確立が高まる。だから、前線の兵士達は当然のこと彼の存在を歓迎していた。結局利権争いに躍起になる宮廷の高官たちより、実力を伴う兵士としての貴族の方が彼らには馴染み易いし有り難いものなのだ。
 「……いや、すまないね」
 奪還したボージャンシー城内のホールに、そのリッシュモン元帥がにこやかに現れた。ジル・ド・レ元帥、オルレアンの私生児デュノワ伯、そしてロンギヌス隊のリジュ卿やエイモスなど、軍のトップたちは此度の戦の功労者として彼を温かく迎え入れた。
 「もっと早くに駆けつけたかったのだが、色々と準備があったものでね」

 「とんでもありません、閣下」
 デュノワ伯が声を大にして言う。彼らは当然のことトレモイユの暗躍により、リッシュモン大元帥が色々と不自由していることを承知している。そんな事情を了解している彼らにとって、大元帥が援軍に駆けつけてきてくれたという事実だけであり難いものであった。
 「そう言ってもらえると嬉しいねぇ」
 にっこりと微笑むと、リッシュモン元帥は言った。
 そして部屋の奥――
 白銀の甲冑を纏ったまま椅子に腰掛けているラ・ピュセルに気付くと、ゆっくりと彼女に近寄る。多少疲れは見えるものの、彼女からは生気も気力も感じられた。アランソンで次元封印を使った後の彼女の表情を知っているだけに、その絶望からの復活は元帥にとって嬉しいものである。
 「ごきげんよう、ピュセル殿?」
 少しおどけたように声を掛けると、一瞬後には真顔を作り上げて囁く様に続ける。
 「この戦、君には色々と複雑なものもあるだろうし……日々が辛いだろうとは思う。だががんばってくれ。僕もできるだけのことはさせてもらうよ」

 「……」
 それは王太子軍大元帥としてではなく、自由天使タブリスとしての激励であったのだろう。ラ・ピュセルはそう考え及ぶと、ゆっくりと頷いてみせた。リッシュモン元帥はそれに満足そうな微笑みを見せると、彼女の元から離れ各人との挨拶に戻った。いくら言葉を重ねたところで、所詮彼女に活を入れる事ができるのはアランソン侯だけだ。冷たいようだがその候がいない以上、これからは彼女自身が己を支えるしかないのだ。それができないなら……
 所詮この激動の時代、そして監視機構との戦争を生き抜いていく事はできない。弱者には死だ。
 「……?」
 そんなことを考えていた元帥の視野に、ある兵士の一団が飛び込んできた。一際存在感のある黒の甲冑を纏った、40人ばかりの騎士たちだ。その胸には皆一様に、銀色で一角獣 <ユニコーン> の紋章が刻まれている。フランス国内はもちろん、イングランド軍でさえ知らぬ者はいない。それは一部隊としては世界最強とさえ囁かれる精鋭部隊、 <ロンギヌス> の紋章だ。
 その中央で隊員達と談笑している、当時の貴族たちの風習を完全に無視した長髪を後ろで束ねた無精ヒゲの男。恐らく間違いないだろう。
 「リジュ卿。リジュ伯カージェス殿」
 恐らく最初からこちらが近付いてくるのを待っていたのだろう。呼ばれたリジュ卿は、すぐに元帥に振返った。
 「これはこれは。王太子軍大元帥アルテュール・ド・リッシュモン閣下。……お目にかかれて光栄です」
 両雄の間で不敵な笑みが交わされた。
 「御噂はかねがね聞き及んでいますよ。フランス最強にして、剣匠の誉れも高きリジュ伯カージェス」
 「それはどうも。元帥にあってはその様な噂の先行、お恥ずかしい限りです」

 「それに、お国の一件。……アランソン侯が行方知れずとは。彼とは懇意にしてもらっていました。僕としても、彼の捜索に関して協力は惜しまないつもりです。入用がありましたら、ご遠慮なく何なりと申し付けていただきたい」
 リッシュモン元帥のその言葉に対してもリジュ卿の表情は勿論変わることはなかったが、こういうやりとりに不慣れなロンギヌスの若い隊員達には明らかな反応が見られた。
 「これは忝けない。我々が至らないばかりにこの様な事態を招いてしまい、誠に面目ない限りですが……
 お言葉は有り難く頂戴させていただきます」
 ラ・ピュセルの話によれば、リッシュモン元帥は彼女が次元封印を行使しアランソン侯を未来へ送り込んだことを既に知っているはず。その上で『協力を惜しまない』と言うのなら、それは彼が反監視機構側のロンギヌス隊やシグルドリーヴァ夫妻に着くということだ。しかもアランソン侯が抜けたというブランクを埋める裏工作にも、助力してくれるというのだろう。
 「まあそのあたりは後程ゆっくりと語り合うこととして、今はこの作戦に専念しましょう」
 リッシュモン元帥は微笑みと共にその話を打ち切った。確かに、彼の言う通りアランソン侯は600年後の未来に飛ばされたのだ。こちらの動きが何箇月遅くなろうが、実質的な影響は皆無であるに違いない。それはともかくとしても、リジュ卿には自由天使に聞きたいことは山とあったのだが、彼が後程時間を作ると言うのだからここは控えることにした。
 「……そう言えば、シグルドリーヴァ夫妻はどうしてるんです?
 今回の作戦も彼らが参加してくれれば心強いんですが、彼らはまだロレーヌに?」
 普通なら、その戦場で一際目立った活躍を見せてくれる彼らの姿が見えなかった事を思い出して、リジュ卿は訊いた。
 「ああ、彼らなら確かにまだロレーヌに篭っていますよ。5ヵ月はかかると言っていたから、今回の作戦には残念ながら彼らの参戦は望めないでしょう。まあ僕としては、クレス・シグルドリーヴァがどう化けるかのほうに興味がありますね。なにせ、あの死神が着きっきりでコーチするというのだから」

 「それは確かに期待できますね。オレも楽しみにしていますよ。強い人間がひとりでも多くこちらに着いてくれるというのは、いつでも歓迎ですからね」
 リジュ卿の言葉に、元帥も頷く。
 「僕もちょくちょく顔を出しているんですが、なかなか順調みたいですよ」
 「ほう……」
 リジュ卿とてクレス・シグルドリーヴァが使徒としての強化訓練を受けている事くらいは知っていた。その経過が順調ということは、彼を戦力と考える事が出来ると言う事だ。確かに頼もしい。
 ただ、リジュ卿は現実問題として、監視機構を自分達の手で潰せるとは思っていない。これまでの情報収集で、彼は監視機構の輪郭をぼんやりとだが掴んだつもりでいた。その上で冷静に、客観的に考えてみる。果たして、人間や使徒のゲリラ的な活動で監視機構にダメージを与えられるか。――リジュ卿のはじき出した結論は『否』であった。人類監視機構はあまりに大きい。そう、人類にとってはまさに神にも等しい存在なのだ。
 それは天使である <リリア・シグルドリーヴァ> にしてもそうだ。彼女がたったひとりで世界を滅ぼせるだけの力を持っている事は認めるが、その死神でさえ結局は降り掛かる火の粉を払うのがやっとというのが現状だ。それを知りながら監視機構を倒せると本気で信じられるほど、リジュ卿は無邪気にはなれない。考えてみればまだ自分達は監視機構が何者によって組織されているのか。相手が如何ほどの戦力を有しているのか。そんな基本的なことさえ把握できていないのだ。
 ――人類監視機構

 それは人類が相手に回すには、あまりにも強大な存在なのだ。リジュ卿は、監視機構を『敵』と考えている訳ではない。ただ好奇心と探求心でその影を追っていたに過ぎないのだ。人類が知らない所で暗躍する彼らの実体を暴き、歴史の裏に隠された真実を知りたい。その真実を求める飽くなき想いが、リジュ卿を駆り立てていた。彼にとって監視機構は挑むべき敵ではなく、追い求めるべき <謎> であり……ある意味 <夢> であった。
 だから他人はどうでもよかった。誰が監視機構の駒となり、誰がその被害を被ろうが構わなかった。その事実を自分が把握さえしていれば。今もその考え方は変わっていない。監視機構の存在に気付きもせず、自分の知らない所で利用されるのはその人間が悪いのだ。弱肉強食。弱さ故、何者かに利用され潰されるのは、リジュ卿にとっては至極当然のことであった。
 何時からそんなことを考えるようになったのだろう。今振返っても、切っ掛けらしい切っ掛けは思い浮かばない。ただ政に興味を持ち、自分なりに色々と学んでいた時、それを裏から操る糸のようなものを見たような気がしただけだ。確証があったわけではない。ただ漠然と、その気配を直感で感じ取ったのだ。
 そう。リジュ卿は早くから歴史の裏側に潜む <監視機構> の存在に気付いていた。そして独自の調査を進めていた。あらゆる国のあらゆる事件を具(つぶさ)に洗い、ひとつひとつ徹底的に検証していった。そして浮上してきたのが、 <人類監視機構> の存在だった。尤も、当初はまだ監視機構などという明確な形ではなく、朧で無気味な裏社会の影に過ぎなかった。だがリジュ卿はやがて使徒に行き着き、リリア・シグルドリーヴァと知り合う。監視機構の尻尾を掴んだのだ。
 それから彼は、更に監視機構に踏み込んでいく事となる。力天使ゼルエルの協力者として、監視機構に認められたのだ。願ってもない事だった。彼に与えられた役割は、フランス王家と宮廷の監視。監視機構のシナリオに沿って宮廷を操作し、用意された歴史から逸脱せぬように調節するのだ。使い走りにも等しいポストであったが、リジュ卿には有り難かった。組織に与えられた役割と、使徒との協力。監視機構の実体を確認できたからだ。
 追い求めていた巨大な影は、幻は現実に在った。 <人類監視機構> は実在する!
 震えが走った。何年も追い、狂おしいまでに探し求めた財宝を遂に発見したトレジャー・ハンターのようにリジュ卿は舞い上がった。
 誰も気付いていない、誰も知らない人類の影の支配者に自力で行き着いた。この世の最高の謎を解き明かしたのだ!
 もうリジュ卿を止める事は不可能だった。監視機構は新たな謎を、更なる探求心の種を生み出す最高のブラックボックスだった。 <人類監視機構> とはなにか。何者によって構成されているのか。何処に存在するのか。目的は何か。人類は彼らにとって何なのか?
 何故に歴史を操作するのか?

 考えるだけでゾクゾクした。もっと監視機構を知りたいと思った。だから彼は諜報活動を続けた。監視機構の注文通り、フランス王家直属の諜報機関『国王顧問情報局』のエージェントとして宮廷に入り込みこれを監視した。一方で監視機構の内情をより明確に知るべく、各国に存在すると思われる使徒の発見に尽力した。
 ラ・ピュセルのことは監視機構から知らされていなかったが、早くから目は付けていた。リッシュモン元帥についてもそうだ。単独行動が基本の使徒達には、横の繋がりがほとんどゼロに近いほどない。だからリリアと知り合っても、他の使徒の情報は入ってこなかったのである。リジュ卿は独自の調査でラ・ピュセルとリッシュモン元帥に注目するようになった。そして、問題はここからはじまった。
 彼の甥、アランソン侯がこの両者と絡みはじめたのである。これはリジュ卿にとって想定もしてみなかった展開であった。確かに他人が監視機構にどう利用され、捨てられていこうが関係ない。だがアランソン侯は彼の身内だった。彼の弟にも等しい家族で、そして友人なのだ。
 リジュ卿のアランソン侯に対する想いは、ロンギヌス隊の隊員達とまったく変わらない。彼は心からジャン・ダランソンに愛情を注いでいた。そんな中、やがて明らかになっていく真実。ラ・ピュセル=監視機構の密使、月天使リリス。そしてアルテュール・ド・リッシュモン=自由天使タブリス。
 そして、ラ・ピュセルに急接近するアランソン侯。それは彼が監視機構に接近すると同義であった。やがて2人の間に仄かな恋心にも近い絆が生まれた。そして候は知る。使徒と監視機構の存在を。
 ――最悪だった。
 人類監視機構の実体を知ってしまった以上、もう後戻りは出来ない。彼もまた、リジュ卿側の人間になってしまったのだ。そして事態は加速度的に悪化していく。アランソン侯がラ・ピュセルとの絆を確固たるものとしていき、そして彼女を動かしたのだ。おかげでラ・ピュセルは監視機構から離れていった。当然のこと、監視機構がそんなことを許すはずはない。
 対してアランソン侯も監視機構に対する敵意を露わにした。ピュセルを呪縛する監視機構から、彼女を解放するため彼は戦う決意をする。少しずつ壊れていく世界を、リジュ卿はただ見守る事しか出来なかった。そして遂に、事を決定的にする事件が起きた。ラ・ピュセルが次元封印を行使し、アランソン侯を未来へ送ったのだ。
 もはやリジュ卿の力ではどうしようもない綻び。
 守るべき者が運命の渦中に投げ出された時から、他人の戦いであったはずのそれは……



 リジュ卿自身の戦争となっていた。













SESSION・87
 『ひとりの力じゃ足りないとき』



 シンジは心地良い揺れを感じながら、ゆっくりと目覚めていった。コトコトとゆるやかな振動。まるで赤子に戻り、揺り篭の中におさめられているようだ……
 一瞬そんなふうにも思ったが、体を起こして辺りを見回すとそこがまだランスへ向かう列車の中だということが知れた。
 「あ、へうさま。起きまつり〜
 傍らの席にはガルムがちょこんと座っていた。彼の場合躰が小さいので、深く座席に腰掛けると膝が曲がらない。短いから縁まで届かないのだ。だから本当に <ちょこん> という表現が似合う。
 「ガルム……僕、寝てたんだ……」
 四人掛けの席の向かい側は完全に空いている。どうやら隣にいるガルムを残して、アスカとカヲルは席を離れているらしい。恐らく食事だろう。
 「へうさま、へうさまがいなくなったら、へうさま、へうさまなのに寝ちゃいまし
 ガルムが一生懸命説明してくれるが、はっきりいって一聞した限りでは意味不明である。だがシンジには理解できた。
 そうだ。ガルムマスター=ヘルに躰を一時期明け渡していたのだ。そこで彼女はカヲルとアスカに <カオス> について語っていた。説明を終えてまた眠りに入ったヘルだが、シンジが意識を失っていたため結果として躰は睡眠状態に陥ったという事だろう。
 「そうか……」
 まだハッキリしない頭を、軽く2〜3度左右しながらシンジは言った。客もまばらな車内は、穏やかに静かでこうしてコトコトと揺られていると、妙に感傷的になってくる。車窓には長閑な田園風景が流れていた。ふと隣に座っていたガルムがシンジの膝の上によじのぼり出した。そしてシンジの両の頬をそのもみじのような手で挟み込むと、そのまま彼の瞳をじっと覗き込む。
 「わふ……
 ガルムに遊んでいる様子はない。シンジをひたむきに見詰めるその瞳は真剣そのものだ。
 「な……、なに? ……ガルム」
 そのあまりにも真っ直ぐな黒の瞳に、シンジはいささかたじろぎながら言った。
 「へうさまは、今きっと調子悪いと思いまし
 何かを確信したようにガルムは応える。
 「えっと、悩み事? そういうのがございまし
 驚いたのはシンジだ。まるでその胸の内を見透かされているような、そんな錯覚さえ抱かせる何かがガルムの言葉にはあった。
 「どうして……」
 呟くようなシンジその問いに、ガルムはゆっくりと応えた。
 「がうむはへうさまの為に生まれて来たんだからぁ、それくらい当然でございまし。へうさまのことは、隠しててもぜ〜んぶ分かっちゃいまし
 どうやら本人にとっては、随分と自慢なことらしい。彼女は胸を張って誇らしげにしている。
 「ガルム……」

 そう言われてみれば、ガルムはヘルの守護を目的として作られた生物だ。人知を超えた話だが、ヘルとガルムが見えないネットワークで繋がっているということも考えられないことはない。しばらく思考すると、シンジは結局自分の悩みを打ち明けることにした。どのみちガルムがこのまま引き下がるとも思えないからだ。
 それに……
 昨夜ヘルに裸にされた己。そして示された未来、その選択。滅びの容認か、或いは絶望か。確かにシンジひとりが抱え込むには、あまりにも大きすぎる問題だった。
 「僕はね、ガルム。ただ強くならなきゃいけないって思っていた。哀しみも痛みも、辛い事も……自分の分だけじゃなくて好きな誰かの分まで支えてあげられるような、そんな強さを持たなきゃならないって思っていた。そうじゃないと、伴侶を失い長男を失った母が壊れてしまいそうな気がしたから……。だから僕は自分を鍛えた。心の強さが欲しかった。強くなりたかった。子供の頃から強くなる事だけを目標に生きてきた」

 語るシンジの瞳は揺れていた。そこには、彼の目指した強さはない。我武者羅に走り続けてきたアランソン侯が、ヘルの言葉に立ち止まった。そして己を省みた。そこにあったのは、彼がずっと押さえつけていた己だった。
 「不安になったんだ……何故だか分からないけど……
 ヘルの言葉を僕は否定できなかった。……急に、自分に自信が持てなくなったんだ……
 僕は……自分は本当に強いのか……
 僕は本当に、あの泣き虫だった子供の頃から強くなれたのだろうか……
 そう、思えてきて……今、なんだか……とても……不安……なんだ……」

 ひとつひとつ言葉を区切りながら、シンジはゆっくりと言った。吐息が感じられるほど近く向き合いながら、ガルムは黙ってその言葉を聞いている。
 「ヘルは言った……
 僕の言葉は戯れ言だと。自己欺瞞だと。僕はただ <全てを凌駕するもの> 、そんな決して掴めない理想を作り出し、それを遮二無二追う事で何かから逃避しようとしている弱者だと……」

 ――そうかもしれない

 あの時シンジの心は正直に、そう思った。それが真実を言い当てていると。どこかでそれを認めてしまっていた。だから……

 「違うって言いたかった。でも、言えなかった。
 ――魔皇の力を手にし、それを振るう。それは滅びの容認。力によってやがて引き起こされるかもしれない <悲劇> と <哀しみ> の容認。
 ――魔皇の力を拒絶し続けること。それは絶望。可能性の自らの放棄、それによって残されるただの絶望だ」

 もはや相談という体ではなかった。それはガルムを相手にした、鬱積の吐露だった。
 「僕はどちらも嫌だ……
 どちらかを選ばなきゃならないのは分かる。でも、選べない……選びたくないんだ……。選ぶ事は、時に何よりも辛い……知っていたはずなのに……」

 俯くシンジに、ガルムはゆっくりと口を開いた。
 「でも、それが責任なんだとがうむは思いまし
 シンジの肩がピクリと震えた。
 「へうさまは約束仕り?
 600年の時を越えて、また中世に戻るって。それから、あのへうさまのお友達を悪者の呪縛から解き放つって。それはへうさまが悪者をやっつけるって約束したのと同じ事だと、がうむは思いまし


 「それは……」
 狼狽するシンジを横目にガルムは続ける。
 「へうさまはぁ、悪者がとっても強い事を、あの時からちゃんと知っていたはずでございまし?
 それに戦いには必ず犠牲というものが付き纏う事も、知っていたはずでございまし?
 その上でへうさまは戦うと決めそうろう。それは悲壮な選択を迫られた時も、きちんと責任を全うするって決心したのと同義だと思いまし

 「……」

 「それに……
 ガルムは改めてシンジを見つめると言った。
 「へうさまは、何か勘違いしてると思いまし
 「……僕が?」
 シンジはあっけにとられて訊いた。その小さな女の子のような外見にすっかりと騙されていたが、ガルムの精神は決して幼くない。彼は今更ながら、それに気付かされていた。
 「へうさま、昔、あぁんそん侯って呼ばれそうろう?
 その時は戦争が起こっててぇ、弱者は強者に何をされても当然だって言う世界だったわけでぇ……
 だからへうさまは、何時の間にか『自分が弱かったら全部終わっちゃう』って考えるようになってたんだと思いまし。へうさま、きっと今でもそうで仕り?

 でも、がうむはそれは違うと思うんでございまし。へうさまの他にも戦っている人は沢山おりまし。へうさまが勝てなくても、もし負けちゃったとしても……
 それでもみんなで勝てれば、それはへうさまの勝ちと同じなんでそうろう。……だからへうさまが弱くても、全部終わっちゃうなんてことはないんでございまし!

 ガルムの凛としたその声に、シンジはまるで雷に打たれたように震えた。
 確かにガルムの言う通りだった。アランソン侯はいつも、誰かを支えてあげられるのは自分しかいないと考えていた。全てを自分ひとりで守らなければ、全てを失ってしまうと――そう考えていた。
 頼りと出来る父親が戦死し、兄も病死した。残された母親は悲嘆に暮れていた。だから幼子の彼は思ったのだ。自分が強くなって母を支えなければならないと。それがいつしか、母が哀しむのは自分の弱さ故だと考えるようになっていた。
 自分が。自分ひとりが。
 「昔はどうだったか、がうむは知りませう。でも今のへうさまには、いっぱい同志がおりまし。とっても頼りになりまし。全部合わせたらとっても強いと思いまし。がうむだって、とっても強いでございまし。おっきくなって、ぎんぎら銀で、本領発揮でございまし。だからへうさまがダメでも、他のみんなが頑張れば穴は埋められまし。たとえ <えんしぇんと・えんじぇう> と一対一では負けても、皆合わせて勝った事になれば、それでオッケーでそうろう?


 ――そうだ

 シンジは愕然としていた。アランソン侯という男が倒れれば、敗北は決まると考えていた。自分が <エンシェント・エンジェル> に勝てなければ、全てが終わりだと思っていた。誰よりも強くなければ、ラ・ピュセルを救えないと思っていた。だが、それは誤りだ。ガルムに言われるまで気付きもしなかったことだが……

 アランソン侯が負けても、皆が勝てれば良い。
 エンシェント・エンジェルは強い。魔皇よりも、ヘルよりも、シンジよりも。それでいいではないか。
 自分だけじゃない。時を隔てたラ・ピュセル。混沌の死神リリア・シグルドリーヴァ。そしてその夫、クレス・シグルドリーヴァ。自由天使渚カヲル。それにネルフも、霧島理事長だっている。アスカもマナも皆が応援してくれる。
 たとえ個々がエンシェント・エンジェルに破れたとしても、結果として皆が勝ち残れば……
 それは勝利なのだ。それでラ・ピュセルは救えるのだ。
 僕は負けても、僕たちは負けない。
 簡単な事なのに……
 こんなに単純な事なのに……
 何故に今まで気付ないでいたのか……?

 「自分ひとりの力じゃ足りないとき……
 それを認めて誰かの力を借りる事が出来る勇気もぉ、がうむは強さのひとつだと思いまし。がうむなら、がうむ1人じゃへうさまを守れないと思った時は、誰かに手伝ってってお願い仕り。もし、助けてくれそうなひとがいなかったら、そんなひとを探しまし。お友達、作りまし。なんなら、へうさまががうむを作ったみたいに、自分で作れば良いと思いまし。
 へうさまは強くならなきゃいけないっていう意志が強くなりすぎて、それが強迫観念になって……
 きっと、自分の無力が許せなくなったんだと思いまし。自分が弱いこと、認めること。自分の力が足りないことを認めることが出来なくなってたんだと思いそうろう


 勘違いをしていたのは、シンジだけじゃない。彼を取り巻く全ての人々がそうだった。父の死、兄の死、母の哀しみ。それらを受け止め果敢に挑んでいった少年。自分の弱さを見つめ、それを努力で乗り越えていったアランソン侯。
 人は彼を真の強さをもつ人間として、慕っていった。
 だから、彼らは気付けなかったのだ。彼は神ではない。ヒーローでも、スーパーマンでもない。彼はまだ18歳の少年なのだ。悲劇と幾多の困難から培われた彼の強さは確かに本物であったかもしれないが、その強さを背負い続ける彼に無理が無かったわけではないのだ。
 強さもあるかもしれないが、彼もまた弱い人間のひとりだ。彼は哀しみによって力を着けた。悲劇と残酷すぎる現実が彼を育てていった。世界から、社会から強くなることを強要された少年。
 それは、哀しいことだ。
 哀しみは強さに変わる。だが、それでも人はひとりでは生きられない。ヘルが言ったように、人間には超越できないハードルがあるのかもしれない。アランソン侯とて、それを越えることはできない。ひとりになれば寂しい。心が傷つけば、痛い。誰かを失えば、哀しい。
 彼も、また、ひとなのだから。
 ある意味、弱くて当然なのだ。それは心有る故の弱さ。人間が誇るべき弱さなのだから。なのに、候はそれを認めてはいけないと思い込んでいた。哀しみに追いつめられて。
 でも、今……

 かつてひとりで世界と戦っていたときのように、彼は孤独ではない。父親は死んだ。兄もいない。成る程、あの時母を救えるのは、彼だけだったかもしれない。彼が踏みとどまらなければ、全てが崩れ去っていたかもしれない。誰もいない。誰にも頼れない。ひとりで戦わねばならない。
 確かに、過去、彼はそんな状況に追いつめられていた。
 だけど……
 今は、違うのではないだろうか。シンジはガルムの言葉を受けて、そう考えはじめていた。
 ふと、目を閉じる。何かが壊れそうになった時、また世界が壊れそうになった時、それを食い止めようと奔走するのは果たしてひとりだけか?
 頼れるものは、本当に誰ひとりとしていないのか?

 否。答えは断じて否だ。
 自分を支えてくれると、心から確信の持てる人々が今、彼のまわりには大勢いた。こうして向き合ってくれているガルムも、そのひとりだ。アスカも、カヲルだってそうだ。彼らは誰が何と言おうと、どんな状況に追い込まれようと、信じられる。いつも、どんなときも。
 いっしょに戦える人がいる。心から信じられる人がいる。そんな絆を持っている。それは、人としての強さのひとつではあるまいか……?

 アランソン侯は……シンジは今、そう思う。
 今まで狂おしいまでに他人との絆を求め、それを大切に抱いてきたのは、それを心の何処かで悟っていたからではあるまいか。
 「ガルム……」

 静かにガルムを抱き寄せると、シンジはゆっくりと言った。ガルムの躰はとても小さくて……
 でもあたたかで
 やわらかで……

 「ありがとう」

 自然と出た言葉だった。心の底から今、お礼を言える人がいる。
 それもまた、強さ、か……

 「わふ?

 迷いが完全に晴れたわけではない。闇から抜け出ることが出来たわけではない。だけど、光明は見えた気がする。
 「ガルムのおかげだよ」

 その黒髪に頬を摺り寄せながら、シンジは言った。
 ――僕は、弱い。ヘル。今こそ、それを認めよう。
 貴方の言う通り、今までの僕の姿勢には何処か逃避の傾向があったかもしれない。強さを求める余り、自分の弱さを認める勇気を逸していた。確かに、その通りなのだろう。
 戯れ言、欺瞞。或いは、そうだったのかもしれない。
 貴方の指摘に、僕は <全てを凌駕するもの> を見失いかけた。それは僕の心が揺れたからだ。自分が逃げていた対象を、目の前に突きつけられたからだ。
 でも、おかげで、少しだけ分かったよ。
 僕たち人間は、魔皇なんかに比べたらどうしようもなくちっぽけで、愚かで、非力だ。誰かがいなくちゃ、寂しくて、孤独で、何も出来なくて……
 生きてはいけない。それゆえに、ひとは群れたがる。他人を求める。絆を求める。そう。人間はどうしようもなく弱い生き物だ。
 それを弱さと呼ぶのなら……いいさ。とことんまで弱くなれば良い。弱さを極めれば良い。貴方に、愚かと言われても構わない。
 裏を返せばいいんだ。
 群れなきゃ弱いなら、群れればいい。他人を求めるのが弱さなら、求めればいい。絆が無ければ弱いなら、手に入れれば良い。
 でも、それを手にしたとき、何より弱くて愚かだった僕たち <ひと> は……

――きっと最強になる。
 悪いけど、僕は人間であることを辞めるつもりはないよ。
 越えられない弱さを抱える人間という存在に、魔皇の力は扱い切れないというけれど……
 その魔の力、人の心で扱いこなしてみせる。 <僕> には無理でも、 <僕たち> ならきっと使いこなせるはずだ。
 本当に、幼くて愚かだったのは僕の方だ。周囲の人間が力に影響されて変わるなんて……そんな人は僕の側にはいないよ。そんな人が、監視機構と戦おうなんて考えられるわけないじゃないか。
 皆で越えるさ。僕が魔皇になるんじゃない。僕と僕をとりまく全ての絆たちで <ガルムマスター=ヘル> になるんだ。
 そして、僕たちは必ず……勝つ。
 僕は、ラ・ピュセルを迎えに行くんだ。





SESSION・88
 『パテの日』


 息を弾ませ、純白の裾をひらめかせながら軽快に走る。風になびく髪。日の光を反射してキラリと煌く、汗。
 なんて爽やかで、美しいのだろう……

 ――等とは誰も思わなかった。少なくとも、彼が息を切らしながらホールへ駆け込んできた時、それを歓迎した者はまずいなかったはずだ。しかも彼が運んできた報せときたら、悪夢としか思えないものであったのだ。
 「た、大変だぞッ! ……じゃなかった、大変ですことよ、皆様っ」

 ラ・イールが軍首脳陣の前に姿を現したのは、リッシュモン元帥とリジュ卿が簡単な挨拶を済ませた直後のことであった。勝利王計画のために馳せ参じた武将の中には、ラ・イールの奇人変人ぶりを知らない者も少なからずいたわけであり……
 とにかく、その場にいた大勢の人間がラ・イールのその姿に反射的に目を背けるか、或いは驚愕に我を忘れていた。
 筋骨隆々の巨体を、聖職者用の純白ローブに窮屈そうに詰め込んだようなその格好は異様としか言えない。なにせ190CMと、当時の成人男性の平均身長と比較してあまりに大きなその躰に、合うようなローブなどない。見れば丈は精々膝くらいまでしか届かず、彼の見たくもない脛の部分を露出しているではないか。……おぞましい。しかもこの姿で戦場に出て、彼のその威容に呆然としている連合兵を、小柄な女性の躰ほどはあろうかという超大剣イール・クレイモアでなぎ倒しまくってきたというのだから、もはや犯罪である。
 「フッ、相変わらずみたいだな……ラ・イールは」
 アランソン侯と共にオルレアン攻防戦に参加したおり、直にラ・イールの変身を垣間見たリジュ卿が苦笑いを浮かべながら言った。とは言っても何時ものようなどこか飄々とした感覚のある苦笑ではなく、多少唇の端を引きつらせたような笑みである。
 「なるほど、噂には聞いていたが……確かに、ほとんど人格が変わってるねぇ」
 リッシュモン元帥もあからさまな動揺こそ見せていないものの、呆れたような微笑を浮かべている。
 「これもラ・ピュセルの神秘性カリスマの成せる業、と言ったところかな?」
 「確かに……あのオルレアンでの勝利はまさに奇跡と称するに値するものだった。イールがその奇跡を引き起こした張本人であるピュセルに魅せられたのも、理解できるというもの」
 傍らに並ぶように立ち、リジュ卿は言った。
 勝てるはずのない戦場。そこに彼女は立ち、そして民と兵士たちを勝利へ導いた。誰かがあれを奇跡だと言ったとしても、リジュ卿自身それを否定する気にはなれない。
 「それでラ・イール大隊長。一体如何なされた?」
 ロンギヌスの長老格、エイモス・クルトキュイスが皆を代表して訊いた。
 「おお、エイモス殿……じゃなかった、エイモス様。それに皆様も、ちょっとわたくしの話に耳を貸しやがりませんこと?」
 怪しげな丁寧語を操りながら、ラ・イールは急使の持ってきた報せを話し出した。
 「連合が近付いてきてやがりますことよっ!
 もう、すぐそこまで。……きっと明日にでも正面衝突に縺れ込みますわっ」

 「連合が?」
 武将のなかから、声が上がった。こちらから撃って出たのだ。当然連合が対応に動き出すことは予測されていたが、思いのほか動きが速い。
 「して、敵勢力は?」
 エイモスが問う。
 「イングランドの軍勢、兵員1000あまり。……率いるのは英国の闘将と謳われる、あの <タルボット> らしいですことよっ?」
 「タルボット……?ジョン・タルボットか!」
 その溢れる財力で王太子軍を支える、ジル・ド・レ元帥が苦々しげに言った。
 シュローズベリ伯 ジョン・タルボット――

 イギリス文学史上では <アキレス> の名で知られ、イングランド本国の王家はもちろん、敵国であるフランス側もその実力を認める名立たる武将である。国王からの庇護も厚く、軍神・猛将の誉高き連合の英雄としても広く知られている。ラ・ピュセルとはオルレアン攻防戦で激突した経験があるが、破れてた。だが直接的に敗北したわけではない。
 その逆だ。援軍を導いて攻囲軍の戦力を固めたのも、サン=ローラン砦に立て篭もったのも、サン=ルー砦を建て直したのもタルボットだ。彼は最善を尽くした。ラ・ピュセルだからこそ、その彼を退けられたのだ。
 「タルボットか……こっちの士気の低下が怖いな」
 リジュ卿が呟いた。タルボットの名前が出ただけで、敵側の身構えは変わる。彼の名はそれだけの影響力があった。タルボットはそれだけの武将なのだ。
 「大丈夫でしょう、隊長。こっちにはラ・ピュセルと大元帥の絶対的なカリスマ性があります。あの方達の前には、タルボットの名も霞みますよ」
 事実、オルレアンでラ・ピュセルは勝った。ロンギヌスの若い隊員の瞳はそう語っていた。
 「無論、勝つさ」
 リジュ卿は力強く頷く。そして幾分、声のトーンを落とすと続けた。
 「ここだけの話、オレはシャルルの戴冠にはまったく興味がない。……が、とにかくこの戦争という名の混乱と悲劇を終わらせるためには、今回の作戦を成功させて連合を駆逐するか、或いはフランスが滅びるかするかしからないからな。どちらが良いかと問われれば、やはり自分の祖国が名前だけでも残る方が良かろう?
 だったら、勝つしかないさ」

 「しかし、現状で1000ということは……
 ここに来て陣を敷く頃には、恐らく4〜5倍にはなりましょうな」
 エイモスが厳しい表情で言った。
 「こっちは援軍の合流が相次いで正確な数が把握できてないが、約6000といったところか」
 オルレアンの私生児、デュノワ伯が合いの手を入れる。彼もオルレアンで知り合ったラ・ピュセルの戦友のひとりだ。
 「だが数だけで純粋な比較はできないね。向こうは武装が圧倒的だ。連合の長弓を甘く見ているとアザンクールの二の舞だ。しかもこちらは <マン> そしてこの <ボージャンシー> と連戦続きで、兵達も疲労している。今日明日にもやってくるというのなら、これも無視できない要素となるね。1000違うが、総合力は敵側が上と見ておくべきだろう」
 リッシュモン元帥がまた辛いことを言い出すが、分析は正確であると思われた。
 それが証明されたのは、翌日――6月17日のことであった。
 日没近く、ボースという名の平原の彼方から黒い影のようにイングランドの軍勢は進行して来た。その数、目算にして4500〜5000。その動きを察知していたラ・ピュセル率いる王太子軍は、敵勢がボージャンシー近くまで到達すると、敵側を見渡せるよう小高い丘の上に迎撃の陣を敷いた。総数6000の部隊である。
 「早かったな……さすがは闘将タルボットといったところか」
 リジュ卿が顎の無精ひげに手を当てて感心したように言った。彼が隊長を務めるロンギヌス隊40は、完全な独立遊撃隊として戦場での自由行動を約束されている。如何なる戦場においても、勝利の中全員が帰還を果たすという伝説を作り上げた精鋭達だ。特に指示をあたえるまでもなく、彼らは各々が独自の判断で最良と思われる準備を備えていた。
 「どうやら向こうは何時もの戦法で来るようですな」
 ロンギヌスを支えるもうひとつの柱であるエイモスが、リジュ卿の傍らに並び敵勢の布陣を眺めながら言った。
 「確かに……。例の如く最前列に長弓部隊を配置して、その前面に逆茂木を刺し並べている。あれでこっちの騎馬隊の突撃を防ぐつもりだ。不用意に突っ込むと、あの逆茂木の壁に阻まれた挙げ句、至近距離からだと鋼鉄甲冑すらも貫通させる長弓の雨アラレ。15年前のアザンクールでは、この戦法でこっちは全滅した」

 「あの会戦で、若君のお父上……先代のアランソン侯一世は、戦死なされた」
 エイモスは俯きながら、低い声で呟く。
 「だが、犠牲は無駄にならない。人間は過去から学べる生き物です、エイモス老。皆がそうとは言わないが、少なくともオレたち <ロンギヌス> はそれが出来ぬ程愚かではない……
 違いますか?」
 「確かにそうですな。しかし、分かっていてもあの陣形はそうそう破れるものではない」
 「フム……」
 エイモスの指摘も尤もであっただけに、リジュ卿は沈黙した。
 「やあ、ロンギヌスの諸君。準備は整っているかい?」
 その時、場違いなほどあっけらかんとした表情でやってきたのは、リッシュモン元帥であった。
 「閣下、無論ロンギヌスの40、何時でも出撃できますが……」
 エイモスが応えるが、その声にはどこか覇気がない。タルボットが相手となれば、いくらラ・ピュセルやこのリッシュモン元帥のカリスマ性で兵の士気が上がろうと、正面からぶつかり合って勝てるものではない。そのことを悟っていたからだ。
 「向こうもなかなかだね。闘将ジョン・タルボット伯をはじめ、フォールスタッフ、トーマス・レーミストン……。いずれも知将、猛将と伝え聞く英雄ばかりだ」
 「フォールスタッフまで来ているのですか……?」
 元帥の言葉にエイモスは目を見開きながら言った。フォールスタッフもレーミストンも、なかなかのビッグネームだ。相手側の意気込みも、どうやら並みではないらしい。
 「と、言うことでここが正念場になるようだね?
 恐らく此処を乗り切れば、ランスまではそこそこ快適に進めるだろう。敵はここで我々を倒すつもりらしいからね」
 「こちらも策が無ければ、勝つのは至難……か」
 リジュ卿もいつになく表情が硬い。
 「向こうの布陣を破るのも手間だが、タルボットのことだ。こちらがアザンクールの愚策を再び繰り返すことなど、きっと期待していないだろう。それならば、向こうもあの何時もの布陣とは別に、何らかの秘策を用意していると考えるべきだろうね?」
 「確かに。杞憂に終わるやも知れませんが、相手が相手であります故ここはそう想定すべきでしょうな」
 リッシュモン元帥の、相変わらず一歩引いたところから戦局を見つめるような分析に納得して、何度も頷きながらエイモスは言った。
 「問題は、あちらさんが具体的に何を考えているか……だな。何か仕掛けてくるのが分かっていても、それが何か分からなければ意味はない」
 「尤もだ」
 リジュ卿の言葉に、今度はリッシュモン元帥が同意した。
 「例えば、エイモス老。貴方がタルボットだとして……どんな腹案を抱きますか?」
 「わ、私ですかな……?」
 リジュ卿の突然の問いかけに幾分狼狽しながら、エイモスは思案する。
 「……ふむ、そうですな」
 長い戦場での生活ですっかり伸び切ってしまった口ヒゲを撫でながら、エイモスは呟く。
 「私がタルボットの立場にあったとしたら、か。まず、アザンクールの経験から我々が正面から突撃してくるとは考えないでしょう。では我々がどのような行動をとるか、それを予測して、その予測の結果から導かれた最良の策を選択する。こんなところですかな?」

 「なるほど」
 元帥は面白そうに言うと、不敵な微笑を浮かべた。
 「正面突破を避ける我々の動きの予測……。では、その我々は今回如何様な策を立てるのか」
 「正面が駄目なら、横を突く。これがとりあえず兵法では定石だね」
 リジュ卿の提起した問題に、リッシュモン元帥が素早く解答した。
 「……そうですな。正面から行けば逆茂木で足止めされた挙げ句、長弓で蜂の巣。これを回避するには、敵の弓の射程距離ギリギリまで近付いたところで兵を分散。多方向からとりあえずは敵方に接近して、混戦に持ち込むことを考えるでしょうな。接近戦での切り合いになれば、同士討ちを恐れて飛び道具は使えない」
 「それだね」
 リッシュモン元帥が、エイモスの言葉に頷いてみせた。
 「兵の分散による見え透いた攻撃でも、充分な速度で実行すれば有効な策となる」

 「と、なると……タルボットは、その作戦に見合った秘策を巡らせていると考えるべきだな。ここでまたタルボットに視点を切り替えるとして……、敵側がこちらの長弓の射程ギリギリまで進行してから、兵を分けて多方面から接近してくるとしたとき、どんな手を打つべきか」
 「兵数では劣っているわけですから、分散した敵部隊を個々撃破、というのは難しいですな」
 エイモスが眉間に皺を寄せながら意見する。
 「ならば、分散する前に叩くさ。敵は射程ギリギリまで、とりあえずは固まって直進してくるわけだろう?
 それなら、その進路の何処かに兵を潜ませておいて、奇襲を掛ける。伏兵の攻撃を受けた敵側は混乱するだろう。そこで長弓部隊が間を詰め、とどめを刺す。……こんなところかな?」
 「お見事、タルボット。王太子軍を殲滅、といったところですね」
 3人は頷き合った。
 「結論から言えば、タルボットか或いは他の指揮者がかなり近い位置まで接近して、そこに潜んでいる……ということになるな。少ない伏兵で、こっちの本隊をとりあえず抑えられるとなると……」
 「向こうの新兵器、大砲だね」
 リジュ卿の言葉を継いで元帥が言った。
 「そうでしょうね」

 「問題は、敵が何処に布陣しているかですな」
 まだ問題が根本から片付いたわけではない。エイモスの声もまだ完全に晴れてはいなかった。
 「それなら、オレに一計ありです」
 リジュ卿が唇の端を吊り上げながら言った。
 「敵の伏兵のあぶり出しは、オレがやりましょう」

 「ほう……」
 元帥はその紅い瞳を若干細める。興味を持ったようだ。リジュ卿に任せることには異存がないということだろう。
 「して、その策とは?」
 エイモスの問いに、また微笑で応えるとリジュ卿は言った。
 「なに、ちょっとしたプレゼントを届けるだけですよ」








SESSION・89
 『運命を司る鋼鉄の女神』





 ピッ、ピピ……

 手元に扇形に並ぶコンソールをなぞる指と共に、軽快な電子音が響く。
 「システム……オールグリーン」

 囁くようなその声を発したのは、口元を除くほぼ頭部全体を覆う特殊なヘルメットを被った女性である。鉄仮面にも似たメットで形の良い唇と、すっきりとした顎筋のライン以外は全て隠れている。そのヘルメットからは幾多のケーブルが延びており、システムと接続されていた。マイクとレコーダーが <ON> のグリーンになっている事を一瞥して再確認すると、彼女は透き通った声で語り出した。
 「記録者名、オレシア・ドゥドニック少尉。これよりNERV仕様・改良量産型 <J.A.> ……
 コードネーム <ウルド> のコクピット・システムの被験者として報告を行う」

 その言葉とともに、鋼鉄の女神の双眼と、胸部のサーチアイに光が宿った。オレシアという女性が今いるのは、彼女の言葉通り <ウルド> と呼ばれる新型兵器のコクピット内だ。そこは薬用のカプセルを、人ひとりが余裕を持って収まるほどの大きさにそのまま拡大したようなスペースであった。
 そのコクピットは完全密閉されていて、しかも黄金色の液体に満たされている。オレシア少尉はその液体に浸かり切っているのだが、窒息はしない。開発者の説明によればこの液体自体が、直接肺に酸素を提供してくれるらしい。
 また、この液体にはそれ以外にも別の役割がある。
 オレシアは動作を確認するため、右手を視線の高さまで掲げ上げると指を何度も複雑に動かしてみた。だが少尉には、その自分の指の動作を見る事は出来ない。彼女の目に代わって映るのは、その動きを正確に再現した <鋼鉄の巨神の指> である。繊細で複雑な動きも、この巨大な指は気味が悪いほどリアルに、そして忠実に再現してみせた。
 こんな芸当を可能としてくれるのが、この黄金色の液体らしい。実はこの黄金色の液体は、目に見えない程の極小の <泡> のようなものから構成されており、オレシア少尉の体中に付着している。その泡が彼女が躰を動かす度にそれに沿って動作をトレースし、マニュピレーターを細かに動かすのだ。無数の液体そのものが、一種のモーション・キャプチャーなのである。
  <ウルド> は3Mを越える人型の戦闘兵器であった。そのベースは回収された <J.A.> のコピー。 <J.A.> はもともと生物・無生物の概念を超越した存在であったが、NERVが機能を停止したその死体……というか残骸に制御プログラムを組み込み、新たに兵器として作り上げたのである。そうして開発されたのが、この <ウルド> <スクルド> <ヴェルダンディ> であった。
 もっとも、これらの機体の外観には、かつての <J.A.> の面影は全くと言って良いほど残ってない。背中に取り付けられた超巨大バックパック。その中には4つのバーニアが仕込まれているのだが、これは勿論J.A.には無かったものだ。他にも硬質マテリアルの上から、更に甲冑のような装甲を纏わせて、そこかしこに空中や宇宙での汎用的な活動を可能とするバーニアや、スラスターを装備してある。
 また、胸の谷間から鳩尾あたりには、エメラルド色の光を放つサーチアイが埋め込まれていた。それは大きな円形をしていて、女神の目を形成している2つのカメラアイと、頭部のアンテナでは捉え切れない映像情報や電波情報を収拾する、ウルドの第2の目だ。これらはどれも、J.A.には見られなかったものである。
 おかげで外観はすっかり変わってしまって、かつてのJ.A.が感じさせた出来の悪い不格好な土細工といった印象は払拭されている。強いて言えば人類監視機構の新型 <EVA> の方に近いくらいだ。均整のとれた人型、そして顔面部に女神のデスマスクをはめ込んだような姿が特徴的である。その冷たい美しさを感じさせる無表情な相貌には、このウルドが兵器であることを何処か忘れさせるものがあった。
 現状でこそ使徒であるカヲルやガルムに頼り切っている <エンクィスト財団> であるが、彼らとてこの長きに渡って遊んでいたわけではない。彼らはNERV設立当初から、このJ.A.の研究に取り掛かっていたのだ。財団が第三新東京市だけにではなく世界各地にNERVの支部を置いていたのは、このJ.A.を解析し、そのデータを応用してこの <ウルド> のような新型兵器を製造するためであったことは周知の事実だ。このことからも、エンクィスト財団幹部会 <ゼーレ> およびその実行機関 <NERV> が日夜監視機構に対する備えを準備していたことが理解できるだろう。
 そして、それらの努力の成果が、この <ウルド> なのである。当初まったく歯が立たなかった表層の超硬質マテリアルも、J.A.そのものについても、長い年月を費やす事である程度の解析が進んだ。それを受けて、此処に来てようやく新兵器の開発に着手したというわけだ。
 これを可能にせしめたのは、J.A.に完全な死という概念がない事であった。
 先の使徒バルディエルに憑依された一件でガルムに完膚なきまでに敗北し、完全なる機能停止に追い込まれたJ.A.であるが、プログラムのようなものは停止しても、その超回復能力は死ななかった。これまで凍結処理を施されていたため変化が確認できなかったのだが、溶け出したJ.A.は驚くべきことにその半身の躰を復元していったのだ。完全に消失していたはずの下半身が、ゆっくりとだが再生され出したのである。
 コアを噛み砕かれて死したJ.A.であるが、彼らの『死』とはその言葉から連想されるような絶対的な消滅ではなく、人間で言う『脳死』にも近い感覚であるらしい。
 NERVはこの驚くべき事実に着目し、最大限に利用した。硬質マテリアルの隙間に見えるJ.A.の生体の一部を切り離し、本体とは別に培養しはじめたのである。幾つかに切り離されたJ.A.の肉片だが、その多くはそのまま死んだ。だが、希にその超回復能力を発揮しJ.A.の躰を作り上げていくものもあったのだ。切り離された肉片から、新たなるJ.A.が誕生していったのである。もっとも、それらもただの死体としての再生ではあったが。
 だがNERVにとっては、このJ.A.の死体のコピーですらあり難かった。J.A.の超回復能力と、そしていまだ人類の手では打ち破る事の出来ない硬質マテリアル。これらを最大限利用し、J.A.を人工的に蘇らせる事が出来れば、大いなる戦力となると考えたからだ。たとえ死体であろうとも、それをマリオネット……操り人形のように自在に操作できれば、充分監視機構使徒に対抗できる兵器となる。人間には幸いにして、それを可能とするだけの科学技術があった。J.A.のコピーである死体。これにコクピット・システムを塔載することで、操縦可能とした新兵器の構想。
 こうして誕生したのが、新型機動兵器 <ウルド> <スクルド> <ヴェルダンディ> ……
 北欧の運命の3女神の名を冠した、3騎の新生J.A.である。
 「周知のように、この <ウルド> のコクピット・システムは従来の戦闘機等とは異なり、遠隔操作を基本としている」

 オレシアのいるウルドのコクピットは、形状こそカプセル型と変わっているが、内部は至ってシンプルといえた。それは丁度飛行機の操縦席のようで、色々な計器やスイッチなどが着いているから一見煩雑のような印象を受けるが、これらはメインの操縦にはほぼ用いられることはない。
 先程も言及したように、マニュピレーターの細かな動きについては自分の指の動きをそのまま反映させる。それに腕や足、各関節の動きに関しては、動作に際して神経や体内を流れる微弱な電流を読み取る事で反映させるからだ。移動は、通常の歩行動作の際限以外に、ウルドの背中に付けられたリュックサックのような大型バーニアによる超高速移動も可能で、これの操作は足元に設置された車のペダルのようなもので行われる。要するに全ての操作が、自分が実際に体を動かそうとするためのワン・モーション以下で完結するのだ。躰を動かせという命令を伝える電流を読み取って動くわけだから、感覚はイメージ・フィードバック・システムに近いものがある。
 今、鋼鉄の女神が立つのは、起動実験や操縦訓練に用いられる巨大なドームだ。それは並みの球場の数百倍の高さ、面積を擁する広大すぎる空間で、ウルドを大きく取り囲む様にして装甲車や戦車の編隊、機雷や自動追尾型の小型ミサイルなどが配置されていた。オレシア少尉は、遠く離れた安全な場所に設置されたコクピットから、ドームの女神を自分の躰のように自在に操縦して、この編隊を壊滅して見せることになる。
 「……この機体は、従来の戦闘用兵器の性能を遥かに凌駕する。その驚異的なスペックは、未だ底が知れない。既存のあらゆる戦闘用の機体が実現できない戦場に、このウルドは我々を導くのだ」

 その言葉とともに、オレシア少尉は待機していた向こう側に指示を送る。それを受けて、まずは発射台から数発のホーミング・ミサイルが白い尾を引きながら射出された。もちろん当たれば爆発する、実弾である。
 オレシアには、女神に装備された複数のカメラ・アイを通してその映像が投影されていた。映像に関しても、彼女眼球の筋肉の反応に合わせて、ピント等は自動調整される。それの役割を担うのが、彼女の被ったヘルメットなのだ。
 拡大、縮小、追尾、固定、全て……

 「――問題ない」

 視野に入らない死角や後方、広域・遠方のデータは球体のレーダーに投影される。それは経線・緯線の表示された地球儀のようで、目標の位置が光点によって明確に表示されるようになっていた。もちろんレーダー自体が存在するわけではない。ヘルメットの内側に、擬似的な立体ホログラフィーとして浮き上がって見えるのだ。このようにこの特殊なヘルメットは、内壁にレティクル(網線)を投影する端末であると共に、パイロットの頭部走査にも兼用されている。
 そのヘルメットが投影するレーダー上に、高速移動する赤い光点が合計6つ。12時方向から3発、4時方向から1発、真後ろ6時方向から2発、それぞれこちらに接近してきている。小さな町くらいの広大なドームであるが、レーダーの示す光点は凄まじい速さで <ウルド> との間を詰めてくる。
 「本機は、背部に装備された超大型バーニアをメインとして……
 ショルダー、カーフ、ボトム、それぞれのバーニアにより超高速移動および、高度な機体姿勢制御が可能となる。だが、この機体のその圧倒的な性能は……」

 レーダーの中心には、常に <ウルド> を示すグリーンの光点が存在する。そのグリーンにミサイルを示す6つの赤点が重なったように見えた時、 <ウルド> の姿は消えた。
 「我々人類の限界を露呈する!」

 凄まじいまでの加速!
 背中の……見様によっては羽とさえ映る巨大なバックパックが展開し、収められた4基のバケモノのようなバーニアが一斉に火を噴くと、稲妻のような速度で <ウルド> は飛翔する。いや、飛翔というより『吹っ飛ぶ』という感じだ。その加速といったら正気の沙汰じゃない。その圧倒的な速度に、ミサイルの自動追尾など、まったく追いつけたものではない。
 「遠隔操作により、パイロットの肉体を襲い来る <G> からは解放されるものの……」

 ミサイルをギリギリまで引き寄せると、一気に加速して紙一重で躱す。そう、ほんの数十CMというところを、掠める様にしてミサイルが通過していくのだ。6つのミサイルが <ウルド> の無茶とも言える身のこなしに、ただただ遊ばれていた。
 「この凄まじいまでの速度に、操縦者の認識はついていけない!」

 オリシアは額に大粒の汗を滲ませながら言った。もちろん、それはすぐに黄金の海に溶け、消えていく。実際にウルドに搭乗して操縦していたなら、彼女は既に死んでいるだろう。その強力すぎるGは、端から予測するだけで胸苦しくなるほどだ。それだけの動きを、ウルドはいとも簡単に実現している。遠隔操作でもなければ、この機体は扱い切れた物ではないのだ。
 「この超高速の世界では、人間の……
 反応速度はもちろん、視覚、空間認識能力、あらゆる能力と感覚が無意味となる!
  <ウルド> のコクピット・システムにはこれらの事態に対応するため、脳波増幅機能が搭載されているのだが……
 それすらも着いてこない!」

 脳波増幅とは、ドゥドニック少尉の些か便宜的な表現である。 <ウルド> <スクルド> <ヴェルダンディ> のコクピットシステムは、遠隔操作を前提としているだけあって、高度なフィードバック機能を備えている。パイロット・ヘルメットが脳内の各領域の生体作用を走査・解析し、場合によっては刺激を与えたり、ホルモンの分泌を調節・促進させることで、機体からパイロットにフィードバックされる刺激情報の伝達を欺瞞したり、緩和させたりすることが可能となっているのだ。システム自体が情報の解析をサポートし、ある程度噛み砕かれた状態で、パイロットにそれを伝達する機能が搭載されているわけだ。
 これによって、パイロットは人間の限界を超えた領域での <ウルド> の操縦を実現できる。……はずなのだが、実際は少尉の報告通りだ。人間の限界を凌駕させるパイロット・システムを以ってしても、 <ウルド> を扱い切れていない。それが、突き付けられた現実なのである。
 空気を乱暴なまでに切り裂き、ウルドは空を駆ける。その動きときたら狂気的とさえ表現できそうだ。音速を超えたまま、直角にブンブンと方向を変え、急降下していたかと思えば、今度は一転して真上に急上昇。常識もなにもあったものではない。蒼穹での戦闘を専門として存在する数多の戦闘機も、今日からきっとお払い箱だろう。……無茶苦茶である。
 3Mを越える鋼鉄の女神のその動きは、もはや人間が扱い切れるものではなかった。当然幾ら訓練を受けたパイロットにしても、それに対応していけるものではない。勿論、機雷もミサイルも同様だ。照準システムがまるで着いていかない。
 「この強力過ぎるバーニアは、凄まじいまでの速度で機体を引きずり回す。……その爆発的な加速は、完全に乗り手を無視した世界を作り出す!」

 オリシア少尉が <ウルド> を起動させる度に感じるのは、この機体に秘められた潜在力に対する恐怖だ。このバケモノの底知れぬ何かに、魂を引きずり込まれるような錯覚に陥る。確かにこのJ.A.をベースとした <ウルド> の性能は素晴らしい。常軌を逸している。既存の戦闘機など問題にならない爆発力と、柔軟性、汎用性を有している。
 だが、オリシア少尉が指摘する通り……
 この機体は人間に乗りこなせるものではない。その機体性能が人間の操縦技術、能力を完全に凌駕しているからだ。パイロットが生身の人間である限り、それが枷となってこの機体の性能を限界まで引き出すことはできまい。かといって、現状のオートパイロット・システムではこのウルドの緻密で繊細な操作は荷が勝ち過ぎる。それに機械では扱い切れない、別の大きな理由もある。
 矢継ぎ早に発射されるミサイルを殺人的な加速で振り切ると、ウルドは装甲車と戦車で編成された地上部隊に突撃した。アクセル・ペダルを踏み込むと、バーニアが更なる唸りを上げる。数KMの間合いが、数瞬で無くなった。突っ込んでくるウルドに対して、今度は編隊の主砲たちが迎撃の咆哮を上げる。
 あの装甲車たちもリモートコントロールの無人機だ。存分にやらせてもらおう。
 オレシアは足元のペダルを更に踏み込んだ。踏み抜いてしまうほどの加重に、バーニアが絶叫を上げる。この世の存在とは思えない加速。まさに爆発である。ウルドは更なる音速の壁を事も無くブチ破ると、人類の誰もが体験した事のない超超高速の世界に突入する。そしてそのまま、砲弾の群れに真っ正面から突っ込んでいった。
 「解析データからも証明されている故、報告の必要性に疑問すら感じるが……」

 砲弾の直前まで迫ると、ウルドは全バーニアをフルで逆噴射、急制動をかける。人間なら挽肉になるほどのGが機体に襲いかかるが、遠隔操作であるゆえオレシアにはまったく影響はない。
 「J.A.からそのまま継承されたこの <超硬質マテリアル> は、あらゆる物理攻撃を無効化する。その硬度と耐久性は、従来の我々操縦者の常識などまったく通用しない。例え相対速度が音速を超えた状態で砲弾の群れに突撃しても……」

 オレシアの躰に鈍く振動が伝わってきた。幾つもの砲弾を全身に受けた女神の衝撃が、程度を調節(緩和)してフィードバックされているのだ。
 「この機体はまったくそれを問題としない!」

 少尉の言葉通り、物理的な衝撃は受けても <ウルド> にはまったく損傷した様子はない。核撃にも耐えて見せるその硬質マテリアルが、あらゆる物理攻撃を無効化してくれるのだ。人類はまだ、この <ウルド> の装甲を破る術を見つける事ができていない。
 「そして……」

 オレシアは再びアクセルペダルを踏み込むと、仕上げに入った。初速から音速を超えるウルドを駆り、ソニック・ブームをバラ撒きながら地上部隊の周囲を旋回すると、コンマの内に背面に回り込む。その衝撃波だけで装甲車隊は被害を被るのだ。彼らにはこの <ウルド> が消えたようにしか見えなかっただろう。
 「このウルドがその爆発力を見せ付けるのは、機動性、装甲強度だけに留まらない」

 オレシアはその言葉とともに手元に設置された特殊な操縦捍を握った。といってもただの棒ではない。拳銃のグリップとトリガーを部分的に再現したような、特殊な操縦捍だ。オレシアがそのグリップに右手を掛けると、同時にウルドが右肩から長大なライフルのような物を取り外す。
 そう。バックパックに突き刺さった制御棒のように見えたものは……
 ウルドのメイン・ウェポン、 <G.R.A.M> 。 <コア> に接続された巨大なケーブルから <A.T.F無効化粒子> を充填し、それを加速・収束させて発射するバスター・ライフル。その名の意味するところは、『怒り』。北欧の伝説的英雄ジークフリートが、主神オーディンから授かった神剣――その名である。
 オレシアは、躰中の生気を抜かれるような感覚と、圧倒的な虚脱感を覚えながらトリガーを絞った。
 「この……この兵器の超絶的な威力は、あらゆる装甲を貫く!
 電磁シールドも、核シェルターも……そう、そして天使の絶対領域すらもッ!」

 刹那、眩い閃光が周囲を支配した。そして次の一瞬、地上部隊は直径数百Mのクレーターを残して蒸発していた。
 「……くっ……はぁっ……はあっ……」

 残ったのはドームの上空に佇む鋼鉄の女神。
 「我……々、人……類は……恐るべき……兵器を……作り上げ……たのかも……しれない……」

 そしてコクピットを支配する、少尉の息遣いだけだった。
 「……ウルド、この……機体は……対使徒戦にも……」

 肩を荒々しく上下させながら、オレシア少尉はなんとか言葉を紡ぎ出す。まるで全ての気力を、このウルドに一瞬にして吸い取られてしまったかのようだ。躰にはもう一滴の気力すらも、残されていない。
 「……充分に……対応できると、思……わ……れる……」

 J.A.のコピーの培養には成功したが、そのコアは死んでいた。超回復能力が不滅であるということだけでNERVには大きかったが、技術部はこの機能を停止したコアを研究するうち、これを復活させる手段を見出した。
 ――コアは <ヒト> と接続される事で、その生命の息吹を取り戻す。
 ウルドの無限のパワーソース。エネルギー源。それはパイロットが精神力を供給する事で活動をはじめる、 <コア> であった。鋼鉄の女神は、操縦者を……人間を取り込みその生命力を喰らうことで、奇跡をもたらす。
 「だが……この、機体……を、扱えるパイロット……など、」

 起動から僅か89秒。
 「……果たして、存在……するだろう……か……」



 オレシア・ドゥドニック少尉は意識を喪失した。











SESSION・90
 『ロンギヌスの儀式』



 ■6月17日 ボース平野ボージャンシー付近

 その日、ボース平野を挟んで <マン> 側にイングランド、 <ホージャンシー> 側にフランスの軍がそれぞれ向かい合わせた。イングランド側は、フランス陣営に伝令を2名送り込み、『降伏か、戦端を開くか、いずれもそちらの意向次第』と伝えてきた。これに対するラ・ピュセルの返答は……

 『本日の夜戦は控え、明日、戦場でまみえん』であった。
 そして、彼女の言葉通り翌18日、両軍は激突する。後にオルレアンと同等の、ラ・ピュセル最高の戦果としてあげられるパテの舞台の幕開けである。

 ■6月18日 ボージャンシー側フランス陣営

 「さて、イングランドの英雄たちのお手並み拝見といったところかな?」
 リッシュモン元帥は、小高い丘の上に陣取って敵側を見下ろしながら言った。
 「ぬふふ。相手が何方であろうと、私、神聖騎士ラ・イールがこの大剣クレイモアでぶっ殺してさしあげますことよッ!
 ウォ〜ッホッホッホッホッ」
 手の甲で口元を隠しながら、なにやら物騒なことを言い出すラ・イール。ちなみに神聖騎士などとのたまってはいるが、彼が自称しているだけで、誰に認められたというわけでもない。これで全ての傭兵達を率いる傭兵団大隊長だというのだから、目を覆うばかりだ。
 「しかし、相手側、動きませんね。エイモス老」
 既に準備万端整えてたロンギヌス隊の中から、そんな声が上がった。
 「動くまいな。昨夜の伝令にもあったろう。戦端を開くもこちら次第と。彼奴等、我々を先に動かすつもりよ」
 「突っ込んできたところを、万全の構えで叩き潰す。それが近年の連合のやり方だからな」
 エイモスの言葉に添えるように、リジュ卿が言った。
 「こちらが動かなければ、あちらさん、痺れを切らしてやってきますかね?」
 ピエールというなのロンギヌス隊員が訊いてきた。若輩ながら大剣を扱わせたら、フランスでも屈指の使い手だ。
 「これが普通の衝突なら、確かにそれが1番楽な手段だな」
 リジュ卿が苦笑しながら応えた。
 「こっちはボージャンシーの城がある。そこに立てこもっていればいいんだから。砦攻めは、守る方の方が圧倒的に有利だ。兵糧と時間に余裕さえあれば……な?」

 チェスと同じだ。陣形というものは、何も動かす前の初期状態が1番完成されている。動かせば逆にスキが生じるというものだ。だから、鉄壁の布陣を敷く連合側が動いてくれた方が、やり易いことはやり易い。
 「だが、こっちは勝利王計画の推進中だ。オレたちがランスに乗り込んで、王太子を戴冠させようとしているのは連合も知るところ。グズグズしてると、向こうに先に戴冠式を挙げられる危険性がある。なにせ、ランスはまだ連合の支配下にあるんだからな」
 「……そうですね。そうそうゆっくりはしてられませんか」
 マシューズという名の隊員が、納得したように頷く。
 「なに、今日中にカタをつけるさ。オレの策が成功すれば……或いは大勝になるかも知れんぞ」
 ニヤリと意味深な笑みを浮かべつつ、リジュ卿は言った。
 「そういえば、昨夜も申しておりましたな。その策とやら……いつ頃仕掛けるおつもりか?」
 「なに、エイモス老。実はもう仕掛けてますよ」
 「なんと、既に?」
 リジュ卿のイタズラっぽい言葉に、エイモスは真剣に驚く。
 「で、隊長」
 ロンギヌス隊最高の弓の使い手、ジャックが口を開いた。ロンギヌス最高ということは、要するにヨーロッパ最高ということだ。
 「その策とやらが成功すると、何が起こるんですか?」
 「フッ……知りたいか?」
 イタズラを仕掛けた子供のような笑顔を見せると、リジュ卿。たっぷり時間を掛けて焦らすと、彼はおもむろに告げた。
 「あちらさんがな――歌いだすんだよ」

 その言葉が終わるか、終わらないか。フランス王太子軍が陣取る小山の程近くから、いきなり喚声のようなものが湧き起こった。丁度パテ近くの生垣の茂みあたりからだ。もちろん、フランス軍はそんな無意味なところに兵を配置などしていない。と、言うことは……

 「ほら、歌い出したぞ。タルボットの秘策……あちらさんの伏兵だ」

 リジュ卿の言葉と共に、全軍に突撃命令が下された。潜んでいた敵の伏兵を発見。これを叩く、と。
 パテの戦いが、はじまった。


 ■同日同時刻 イングランド陣営

 フランス軍首脳の予測通り、イングランド軍は伏兵を用意していた。パテ近くの生垣に沿った茂みに大砲を奇麗に並べ立て、またフォールスタッフやタルボットはフランス軍が突撃の際に通過するだろうと予測されるポイントに兵を潜ませていたのである。
 敵側が接近戦に持ち込みたがっていることは、軍師でなくとも容易に予想できた。中・遠距離戦では自軍の長弓がものを言う。頭数に勝るフランス側は、その兵数がもっとも有効に働く直接的な斬り合いによる戦闘を望むはずであった。そのために距離を詰めてくるところを、潜ませていた大砲を主力とする部隊によって側面から切り崩す。単純だが、成功すれば飛び道具だけで勝利を手にすることができるはずだ。
 布陣も完璧に近かった。奇麗に整列した大砲が一度火を噴けば、かなりの数を倒せるばかりか敵側に大いなる混乱を巻き起こすことが可能であろう。それに伏兵自体が、意識して探そうとしても発見は容易でないポジションに陣取っていた。
 とにかく相手を混乱させ、それに乗じて奇襲に移る。本隊が合流するまで持ちこたえれば、そのまま全滅させることも無理ではない。それがイングランド側の目論見であった。フランス側が動き出すまで息を潜めて、待つ。ある意味、敵が兵を動かしたその瞬間こそが、この勝負の決着と言えた。
 『決して動くな。絶対に音をたてるな』

 全軍に厳命される。こちらはあくまで不動。作戦の成功の絶対条件である。まずその心配はなかろうが、こちらの伏兵その存在が知れたら計画が水泡と帰す。潜んだ部隊の大砲が如何に強力であれ、奇襲が失敗すれば効果は半減するからだ。しかも伏兵がやられれば、相手側に大砲を提供することにもなるのだ。
 そのことは全ての兵が承知しているはずだった。そのはずだったのに……

 それは、たったひとりの兵士からはじまった。彼は自分が潜んでいる茂みの近くに、木の葉を鳴らしながら接近して来る気配に気がついた。慌てて周囲の兵士達に、小声で注意を促す。彼らが音源に目を向けると、確かに茂みが揺れている。それは風の仕業などではなく、明らかに生物の移動によっておこるざわめきだった。
 部隊に緊張が走った。もし敵兵だったら……。いや、敵兵としか考えられない。伏兵が潜んでいることを察知していたのか、それを探しに来たのだ。
 兵士達は弓を構えた。茂みの揺れは確実に、こちらに接近してきている。もしこちらに出てくるようなことがあれば、絶対に仕留めなければならない。
 ガサガサと乱暴に緑を揺らしながら、それは急速に向かってくる。歩いているというような速度ではない。明らかに方向を定め、真っ直ぐに走ってきている。と、言うことはこちらを探しているのでは無く、攻撃を仕掛けようと間合いを詰めている可能性の方が高くなる。兵士達の間に、動揺と更なる緊張が細波のように伝染していった。
 そして遂に、茂みから音の正体が風のように躍り出た。
 反射的に数人の兵士が弓を放つ。風を切る弓矢の音が、他の兵士達を刺激する。不安と緊張。最悪の相乗効果であった。
 凄い速度で突っ込んできたそれは、弓矢を躱しながら部隊に突撃した。兵士達は剣を抜き、弓を射る。得物から逸れた幾つかの矢が、不幸にも自軍の兵士を掠めていった。恐怖したその兵士が、思わず叫びをあげる。状況を把握できていない、事の現場からやや離れた位置にある兵士達は敵襲だと思い込む。
 なぜならば、矢が風を切り、鞘から抜刀される金属音。長年の戦場生活で耳に染み付いた戦闘の音が、聞こえてきたからだ。彼らは作戦の失敗を悟り、敵兵の殲滅に迅速に向かう。不動の構えの徹底のため、伝令さえ禁じられた状況が災いした。
 いつしかそれは兵士達の雄たけびと、怒号に変わっていた。

 ……リジュ卿によって放たれた、たった1匹の <鹿> のために。


 ■フランス陣営

 「ほ、ほんとに歌い出した……ぁ?」
 ロンギヌスの隊員が素っ頓狂な声を上げた。彼の言葉通り、イングランドの伏兵がまるで自分達の存在を宣伝するかのように騒ぎ出したのだ。驚いたことに、それはフランス軍が陣取っている小山の極近い場所であった。
 「奴等、あんなところに隠れていやがったんですのねッ?なんてインチキな。騎士なら堂々と正面から来るべきだと、私断固抗議させていたたきますことよッ!」
 ラ・イールがなにやら憤慨している。断っておくが、この騎士道精神が連合の合理主義に破れた結果が、アザンクールの会戦の惨敗である。従来の慣習通り、騎士達が正面からの突撃を仕掛けたのに対し、やってられるかと弓を射ったのだ。
 「しかし、リジュ卿。一体どんな魔法を……」
 エイモスもリジュ卿の予言通りに敵側が騒ぎ出したのを目の辺りにして、驚きを隠せない。未来を予知してみせるなど、ラ・ピュセルでもあるまいに。そんなエイモスに、リジュ卿は笑いながら応えた。
 「……鹿ですよ。動きを殺さない程度に背中に傷を入れた鹿を数匹、広範囲にばら撒いたんです」
 「な、なるほどぉ〜!
 中途半端に傷つけられると、獣は痛みで暴走し出しますからねぇ。それで飛び込んできた鹿に驚いて、騒ぎ出したわけですか」

 「感心している場合じゃないぞ」
 大袈裟に感心する隊員を、リジュ卿が一喝する。
 「ラ・ピュセル率いる本隊はもう出撃した。オレたちも出るぞッ!」
 確かに、既に激突ははじまっていた。ボースの平野から、大地を揺るがすような戦士達の叫びが聞こえてくる。
 「よし、皆、抜刀!」
 エイモスの掛け声に、40の騎士達がスラリと一斉に抜刀する。そして円陣を組むと、剣をかざして互いに重ね合った。
 「我等が剣は、未来のために!」

 40の声が、威勢良く叫ぶ。
 「夢に見た、未来のために!」

 それは彼らロンギヌス隊の、何時もの儀式だった。
 「主が目指す、遥かのために!」

 そして隊の長老、エイモスが隊員達の貌をグルリと見回しながら、一際太い声で怒鳴る。
 「アランソン侯の元に集いし、四〇の精鋭達よ――ッ!」

 エイモスの瞳に更なる光が宿った。
 「未来は見えているかッ!」

オオッ!

 男達は力の限り叫ぶ。
神聖ロンギヌス隊――、突撃ッ!




 イングランド軍は総崩れだった。混乱を誘う側が、混乱の極地へ。暴露された伏兵の存在は、彼らを本隊から孤立させた。本隊は状況を理解できない。結局、イングランドは部隊の集結が完了しない前の大混乱の中、戦闘を迎えることとなったのである。
 そして、津波のように押し寄せるフランスの軍勢の先頭に立つのは……
 オルレアンで、その魔力を恐ろしいまでに見せ付けた魔性の女。ラ・ピュセルと呼ばれる、フランスの魔女だ。あれは、人間じゃない。あの銀色の髪、そして悪魔の紅い瞳。血の通わぬ白い肌。魔王に遣わされた、デーモンだ。
 それに、その軍馬も尋常じゃない。通常の2倍はあるバケモノのような巨体の、闇のような黒い馬だ。しかもその体格で、稲妻のように走って来る。後ろを走る友軍の馬が止まって見えるほどだ。まさに、鬼足。
 気がつけば、イングランドの兵達は自分達が恐怖に叫びながら背走していることに気がついていた。あんなバケモノが兵を率いていたんじゃ、勝てるわけがないのだ。あの鹿だって、あの女が遣わした使い魔に違いない。だが必死の形相で逃げ出す彼らを嘲笑うように、魔女の黒馬はもう彼らに追いついていた。
 彼女の長剣が振り払われる。最後尾を走っていた連合の兵士が、それを甲冑にまともに食らって吹っ飛んだ。少女の力だから、相手に直接的なダメージを与えられたわけではない。ただ落馬したその兵士は、後続の怒涛のような馬の蹄の海に飲み込まれることになる。まず助からないだろう。
 ラ・ピュセルは何か鬱憤を晴らすように、剣を振るい続けた。硬く、真一文字に結ばれた口。そして光を放っているような紅い瞳には、怒りにも似た感情が浮かんでいる。それは何に対する憤りだったのか。現実か、戦争か、それとも人間か。
 潜んでいた部隊が血相を変えて背走してくるのを見ると、本隊も慌てた。何せ伏兵を指揮していたのは、フォールスタッフという名の知れた武将だ。彼らが作戦を放棄して全速で駆け戻ってくるのを見れば、本隊は当然それを一敗地にまみれた <敗走> だと思い込む。恐慌状態に陥った前衛隊は、白旗を引っさげると揃って逃げ出した。
 イングランド全軍に、『我軍は敗北したため、各自の判断で身を守れ』という伝令が伝えられた。が、時既に遅し。情報が伝わるのが遅すぎた。いや、彼らが速すぎたのか。遅れて出たはずのロンギヌス隊は、ラ・ピュセルに続いてイングランド本隊に襲いかかっていた。そこに見えるのは、慌てふためく兵達を叱責しながら必死に陣を建て直そうとする……
 闘将ジョン・タルボット。
 「よし、見えたッ!」
 その姿を逸早く発見したリジュ卿が、黒の旋風となってタルボットに襲いかかる。風になびく彼の長髪に、タルボットの身辺を固める近衛兵達が驚愕する。長くなった黒髪を女性のように後ろで束ねた、無精ひげの男。もしその男が全身黒の甲冑に身を包んでいたのなら……逃げろ。鉄則だった。
 「貴様はッ……」
 その言葉を最後に、4人の衛兵達は切り倒された。邪魔物は消えて、1対1だ。
 「貴公、シュローズベリ・タルボット伯と見受ける!」
 「ぬっ?」
 タルボットも流石に身構えた。
 「その黒の甲冑にユニコーンの紋章……」
 ニヤリ、黒の男は笑った。
 「フランスの剣匠と謳われた、リジュ伯カージェスか――」
 呟くような、低い声でタルボットは言った。
 「これは光栄だな。泣く子も黙る闘将タルボットに覚えていただいていたとは」
 あたりでも既に決着が着いていた。ロンギヌスの40の手により、周辺にいるめぼしい敵兵は全て片付けられていた。
 「ご覧の通りだ。おたくにもう逃げ場はない。……ここは利口に、投降を勧めるがどうかな?」
 リジュ卿のその言葉に、タルボットは剣を構えたままチラと周囲に目をやる。確かにその通り、精鋭で揃えていたはずの彼の守衛部隊は全滅していた。それどころか、黒の甲冑に身を包んだ数十の騎士達に包囲されてさえいる。噂に聞くロンギヌス隊だろう。
 「確かに……。だが、私にも兵士としての誇りというものがあるのでね」
 「そうか――」
 リジュ卿は少し俯くと、すぐに顔を上げた。
 「では、仕方がないな」
 「一手指南願おう……」

 タルボットは騎士の構えをとった。リジュ卿に、それに付き合う義理はない。騎士道精神を否定した態度をとり、これまで戦局を優位に進めてきたのは連合の方なのだ。ロンギヌスの隊員達に指示を出せば、簡単に取り押さえることも殺すことも可能だ。だが、リジュ卿はそれに同じく剣を翳し、一礼することで応えた。闘将と呼ばれた兵士に対する、リジュ卿なりの礼だ。
 仕掛けたのは、タルボットでだった。渾身の一撃と言うより、それは息をつかせぬ連続攻撃と言うべきだろう。それぞれは軽いが、切れがある。タルボットはどうやら、守りのタイプらしい。攻めているのに……と一見見誤るかもしれないが、リジュ卿冷静にそれを見抜いていた。
 彼は細かな攻撃を繰り返すことで、相手の隙が生じるまで待つタイプなのだ。決してこの連続攻撃は、倒すことを目的としているわけではない。躱し続ける相手がボロを出し、隙が生まれるまでひたすら待ち続けるのが、タルボットのパターンなのである。攻撃は最大の防御。それを実践しているわけだ。
 一方がこのような堅実なタイプである場合、必然的にその戦闘は業の勝負になる。技と、そして気力・体力の戦いだ。だがリジュ卿は、それをあえて避けた。相手の鋭い突きを受け流すと、渾身の一撃をカウンターで返す。隙の生じ易い力技であった。
 これを受け流すタルボット。そして、モーションの大きな攻撃で生じたリジュ卿のスキを見逃さず、勝負の一撃を繰り出す。だがリジュ卿の狙っていたのはそれだった。勝負をかけた一撃には、必然的に力が篭る。モーションも込める力も大きくなるというものだ。
 リジュ卿は持っていた大剣をから手を放し、それを捨てると、素早く予備のショートソードを抜き放った。これで大剣を引き戻す動作を省略できる。そしてショートソードで、躱し切れないと誰もが予測したタルボットの必殺の一撃を受け流すと、素手でその頬を殴りつけた。
 考えもしなかったリジュ卿の戦法にタルボットは倒れ込んだ。剣匠と謳われる男のフィニッシュが、まさか素手での打撃だとは誰もが考えない。だからこそ、やる。それがリジュ卿が敗北を経験したことのない理由だった。
 地を這うタルボットが身を起こした時、その喉元には拾い上げたリジュ卿の大剣が突き付けられていた。
 「勝負あり、かな? タルボット殿」
 リジュ卿は、ニヤリと笑って言った。

 ――その日、フランス軍は大勝した。逃げ惑うイングランド兵を斬り、或いは捕らえた。主導権を完全に握ったフランス軍は、混乱を極めるイングランドに逃げることすら許さなかったのである。更に、潰走を極めるイングランド側に追い討ちを掛けたのが、闘将タルボットが捕虜に囚われたという報せであった。完全に戦意を失ったその彼らから、投降の手があがるのにそう時間はかからなかったという。
 結局、この日のイングランドの被害は戦死者2000、捕虜2000の合計4000人。対するフランス側の死者はわずか3名であったと、歴史書は伝えている。


パテに程近い場所で選られたこの勝利の日を、フランスの人々はやがて <パテの日> と呼ぶこととなる。


















 to be continued……





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