がうむはぎんぎら銀で
本領発揮で仕り





CHAPTER XXIV
「勝利王計画」
SESSION・81 『それが戯れ言のように聞こえるのは私だけか』
SESSION・82 『運命改変』
SESSION・83 『混沌を司る黒衣の死神』
SESSION・84 『小童たちの笑み』
SESSION・85 『勝利王計画、発動』



SESSION・81
『それが戯れ言のように聞こえるのは私だけか』


 月の見えるシノンの廃虚の中、柔かな風がメロディを運び去り、そしてシンジの髪を揺らす。彼はストラディバリウスを傍らにそっと立て掛けると、目を閉じたまま星空を見上げた。
 時空を超えたセレナーデ。
 その余韻と、そして想いを託した旋律の響きが、まだ風と共に月夜に揺らめいている。
 目を閉じれば、今も聞こえる。いつも、どんな時も。
 想いは調べに乗せて解き放たれた。震える旋律と共に、それは月の光を浴びながらキラキラと夜空に舞い上がる。シノンの静かな廃虚を舞台に、想いと調べが繰り広げる幻想的な舞い。シンジは微笑みながら、それを彼女とふたり感じていた。ほのかな、あたたかさ。でも、確実なぬくもり。
 不思議だった。
 六〇〇年もの遥かなる時の流れと、そして死によって絶望的に引き離されているふたりなのに。僕らの間には、遍く全ての存在が飛び越えられない深い溝があるというのに。
 なのに、聞こえたよ。ピュセル。
 君の歌、聞こえたよ。

 その奇跡に高鳴る感情を押さえ切れず――シンジは、微笑った。
 今でも、この瞬間さえも、囁くよなその声を体中に感じる。遥か遠くから確かに聞こえる、絶え間のないメロディ。こんなに近くに、そして確実に、いないはずの貴女の存在を意識できるなんて……
 本当に、不思議だよね。
 いろんな人が僕の周りにはいる。毎日多くの人と、街角、すれ違う。でも、そんな人たちより、ずっとラ・ピュセルを近くに感じることができるのは何故だろう?
 やっぱり、間違いじゃなかった。
 きっとそうだと思ってたんだ。中世の頃からずっと。君と一緒にいれば、なにか……本当に大切なものを見せてくれるような、そんな気がしていた。僕は、君にそれを求め続けていた。
 僕はずっと考えてた。人は簡単に絶望できる。大切なものを失い、掛替えのないものを故無く奪われたとき簡単に怒りや哀しみに陥っていく。夢破れて、想い色褪せて、絆途切れて……人は嫉妬し、忘却し、冷めていく。
 その負の感情はなにより強い。怨念と怒り、哀しみに支配された人間の負の部分はとても強い。でも、その事実はあまりに哀しい。
 ね、ラ・ピュセル。そんな大いなる、絶対的とさえ思われる人の負の心を……
 魂に刻み込まれた哀しみすら超える、心の動きは存在しないだろうか?
 全ての涙を払う。全ての哀しみを埋める。とてもとても大きくて、でもささやかな感動。
 そう、全てを凌駕するもの。
 そんなもの、ないだろうか?

 心の傷は癒せないのか?
 哀しみは変わらないのか?
 無念は晴らせないのか?
 そんなことない。
 そう思いたかったから。僕は優しくない現実に翻弄されながら、でもそう信じたかったから。だから、僕は君を見ていた。君の生き様を見ている内、その答えに辿り着けるような気がしたから……。
 そして、今、君の声を聞いて。時空さえ越える歌声を感じていた時、僕はその姿を見たような気がする。ほんの少し、ぼんやりとだけど……

 何かを掴んだような気がするんだ。


 ――候

 不意に胸の奥から、低い女性の声が湧きあがってきた。この奇妙な現象にも、もう随分と慣れた。魔皇三体の一角、ガルムマスター・ヘルの呼びかけである。
「なに、ヘル?」
 シンジは声に出さず、心の内に返す。本来なら、憎んでもいい相手なのかもしれない。己が自由を得るために、ラ・ピュセルを利用した。彼女はその張本人なのだから。
 だが、シンジはそんな気にはなれなかった。それよりなにより、自分が弱かったからいけないのだ。己の弱さが全ての悲劇を引き起こしたのだ。自分がもっと強かったら、彼女が誰に利用されていようと救えたはずだ。ずっと側にいてあげられたはずなのだ。
 ――どうやら、勝負は決したようだ
「えっ……」
 突然の宣言にシンジは狼狽した。
「しょ……うぶ?」

 ――この躰とコアの支配権を巡る我等の対立よ
「あ……ああ」
 シンジは、ようやく頷いた。ただ、対立と言われてもそれを意識して相手を攻撃したり、駆け引きを繰り広げたりといった特別なことをした覚えはない。だから最初はなんのことだかピンとこなかったのだ。
 ――貴公の勝利だ
 今この瞬間、私は自らの敗北を宣言しよう
「えっ……でも……どうして?」
 如何にして決着したのか、何故自分が勝利できたのか。全く把握できていないシンジは戸惑いながら訊いた。
 ――貴公の奏でた不思議な調べ
 そして乙女と何かを交わし合ったあの瞬間だ
 全てが決したのは

 自分でも意識できていないやも知れぬが
 貴公は……どうやら、さらなる確信を得たようだ
 自分の抱く想いへの確信
 乙女に対する想いへの確信をな
「……想い」
 シンジはあえて声に出して、それを繰り返した。
 ――そう
 その想いと確信は、候、汝の魂にまた活力を与えたように見える
 貴公はまた、その心の支えを強くしたと云うことだ

 もはや、その時を越える想いに拮抗できるとは自身思えぬ
 このヘルの敗北よ
「でも、もしそうなら貴方はどうなるの? 魔皇の力は……?
 勝負が決するということが一体何を意味するのか、僕には分からない」
 不思議なことに、シンジは寂しさを覚えていた。このヘルと言う存在、決してシンジにとってマイナス要因となっていたわけではない。改めて考えてみれば、人間という矮小な存在を大きく超える知性を持ちあわせていたこの魔皇には、どこかしら尊敬の念さえ抱いていたのか知れない。
 ――それは、候、貴公次第よ
 汝が望む通りに私を処理することが可能だ
 もはやこのコアと魂、そして魔皇の力は貴公の支配下に治められた
 いつ何時でも望めば行使できよう
 多少の慣れと経験は必要となろうが、些細な問題だ

 敗れ去った私は、己の意志でこの躰と魔皇の能力を行使する権限を失ったのだ
 候、汝が望めばこのまま私を排斥することも可能
 生かし留めておくもまた可能
 文字通り、生かすも殺すも貴公次第ということだ
「そんな……いきなり言われたって」

 ――なんにせよ、この魔皇の力は受け取っておくがいい
 貴公は……何故か忌み嫌っていたようだが
 今後 <人類監視機構> との戦いにおいて、この力は必ず必要となってくる
「それは……」
 シンジにも、それは充分すぎるほど分かっていた。魔皇の強すぎるとさえ思われる力。これなくしては、今後の戦いをきり抜けていくのはほぼ不可能であろうということを。だが、それにしても易々と受け容れてしまうには、この魔力というものはあまりにも強大であった。
 ――何故か
 何故に、それほどまで力というものを嫌う?
 純粋な破壊の力
 相対的な力量の差
 結局のところ、このチカラという存在が全ての決定権を持つ
 歴史も正義も人間達の全てを作り上げてきたのは
 この力であろう
「確かにそうだ。今、世は暴力や破壊というものを否定するような風潮にあるけど……
 確かに人間には力という概念が必要だ。それは、僕も認める。だけど、もし強い力を手に入れたなら……
 強大な力を僕が手に入れたとしたなら……
 僕は変わらずにいることができても、周囲の人々は確実に変わってしまう!」

 シンジが恐れていたのは、それだった。
「人間は愚かだ。そして、弱すぎる。……人々は口を揃えて愛、自由、平和を叫ぶけど、人間はまだそれを築き、維持していけるだけの段階にはない。まだまだ、人間は種として幼いと僕は考えている」

 ――ほう
 貴公の口から、その様な言葉が聞けるとはな

 些か以外に思ったらしく、ヘルの声に今までとは違った色が篭った。
「自由も愛も平和も、そして僕が求める <全てを凌駕する何か> も、結局は一種の力なんだ。……ヘル、貴方のいう魔皇の魔力もまた然り。きっと現段階では、その強い力を人はまだ使いこなせず……持て余してしまうだろう。そして、それは必ず悲劇を生む」

 ヘルはただ沈黙を守っていた。
「ねぇ、ヘル。もしある人間が <拳銃> を持っていたとする。それは誰もが認識する殺傷能力においては優れた道具。そして、力だ。その人がもし、何か争い事に巻き込まれたら……一体どうするだろう。きっと、その人物は <拳銃> という力を行使するだろうと、誰もが考え至るに違いない。……そう。人は使いこなせない力でさえも、持っていれば使わずにはいられないんだ。例え、それによって悲劇が生み出されると悟っていても」

 小さく息を吐くと、シンジは続けた。
「……それが、人間の弱さだ。きっと僕が魔皇の力を手に入れたら……NERVは僕に頼るようになるだろう。すんなりと魔皇の力を構想に入れ、利用するだろう。今、そこに在るものを利用する。それはある意味においては正しいのかもしれない。だけど、この戦争が終わった後、僕の魔皇の力を周囲の人々はどう利用しようとするだろうか?

 ――今そこに在る力は、確実に人を変える。目の前にぶら下がっている力の実に群がるとき、人間はその誇りを失うだろう。力を入手する時、自分自身が覚悟を決めればそれでいいというほど事は単純じゃない。確かに僕には覚悟があるよ?
 そうすることでしか大切な何かを守れないなら、救えないなら、僕は喜んでバケモノになろう。
 だけど……、力は周囲にさえ影響を及ぼす。僕は正しく受け容れられても、誰もがそうとは限らない。いつかどこかで僕の力の存在自体に傷つけられ、哀しむ人が出てくるだろう。アランソン侯は、領主として政を行う内それを学んだ。人の弱さと力の本質を。そして……
 その力による変化を……僕は、とても恐れている」

 ふたりの間に静かな沈黙の時が訪れる。しばらく後その静寂を破り、ゆっくりと口を開いたのはヘルの方であった。
 ――侯
 それが戯れ言のように聞こえるのは私だけか?
 それが汝の自己欺瞞のように思えるのは私だけか?
「ッ……?」
 ヘルのその落ち着いた口調と対照的に、シンジは動揺も明らかに反応する。
 ――力を受け容れる <覚悟> があると汝は言うが
 それは侯、汝が言うような周囲への影響と
 それによって引き起こされるやもしれぬ
 その <悲劇> すらも受け止める意志のことを、言うのではないのか?

 貴公は他人を理由に、結局はこの魔皇の力から逃避したいだけのように
 私には受け取れるが、如何なものか?
「そ……れは……」
 シンジはヘルのその言葉に、傍目にも明らかなほど身を強張らせた。
 ――ラ・ピュセルと再会するために奮闘する貴公の姿勢と
 そしてその不屈の執念から来る想いの強さは、私も認めよう
 その想いこそが貴公の魂に力と活力を与えているのは確かなのだからな
 だが、それは監視機構と対抗できる種の強さではない

 貴公の思想の根底にある <全てを凌駕するもの> とやら
 それを求める姿勢こそが、まず貴公の弱さではないのか?
 決して癒せぬ傷があることに、貴公は心の何処かで気付いているはず
 そして、決して動かせない心があることに気付いているはずだ
 忘れ、切り離すことでしか逃れられない……
 いやそうすることですら逃れられない凄惨な出来事、そして過去があること
 既に貴公は気付いているはずなのだ

 全てを凌駕するもの……笑止だな
 気付いているのだろう、侯?
 そんなものは何処にもないことに

 貴公は過去と向き合い、心に抱いたその哀しみや傷痕を受け止め、流そうとする
 河の流れが、やがて大海に注ぎ込まれるように
 その大海に当たる大きな心の強さとやらで、それらを包み込もうとする
 だが、それは本当にそれら負の感情を凌駕したことになるのか?

 貴公は哀しみを生み出す人間の負の本能や欲求の存在を否定しない
 むしろ破壊や非道は人間の抱える本質のひとつであるとし
 それを受け止めようとする
 その姿勢は、確かに他の人間が選ぶ容易な逃避や拒絶より評価できるやもしれぬ

 だが、その負の存在をを是とすることができず
 手段を変えて排除しようという姿勢は、結局他のものと変わらぬ
 怒りも哀しみも……人間の闇の部分を肯定し許し、すすんで生み出す姿勢
 それこそが唯一の負の凌駕となるのではないか?


 闇の肯定……負を自ら望んで生み出す姿勢……?
「そんな……そんなことできるわけないじゃないか!
 哀しみや涙を生み出す破壊や殺戮、非道を積極的に行える姿勢だって……?
 そんなもの持てるわけがない!
 僕に自ら嫌悪すべき闇になれというのか?」

 珍しく感情的になったシンジが虚空に叫んだ。
「そんなの出来るわけない……人間は神様じゃないんだ。そんな悟りの向こうにあるような仙人じゃない。断じて許せない物も出来ないものもあるんだッ!」

 ――侯、気付かぬか
 それこそが己の思想を自ら否定する言葉であることに
「ハ……ッ……?」
 ヘルの静かな、しかし抉るような鋭い指摘に、シンジは身を震わせた。
 ――神ではない、仙人ではないと言うが……
 では、侯
 汝の求める <全てを凌駕するもの> とはその悟りの向こう側に在るような
 大いなる存在ではないのか?

 絶句。もはやシンジにはそれしかなかった。ヘルの言うことは、いちいち心を捉えて放さない真理を感じさせる何かを含んでいた。
 ――私には思える
 人は貴公を強い人間だというが
 誰よりも大きな <弱さ> が、侯、汝の内には隠されていると


 ヘルは珍しくそこで言葉を切ると、数秒の間を置いてから続けた。

 ――いや、結局強い人間などおらぬのかも知れんな……
 相対的な力の優劣はあろうが、人類全てが真の強さへ向かうボーダーの
 下層から逃れられぬ存在のようにも思えてくる
 この次元の如何なる存在も、決して光速を越えられぬように
 人は人である限り、どれだけ時を刻んでもその弱さと愚かさから
 逃れ巣立つことは出来ぬのやもしれぬ

「……そんな」
 シンジは泣きそうな顔で呟いた。ヘルのあとたった一言で、信じていた全てが崩壊してしまいそうな……
 そんな気がしてくる。求めていたものが、急に速度を上げて遠ざかりもう二度と辿り着けないまでの遥か彼方に消えてしまいそうな錯覚を覚え、シンジは震えた。
 ――侯
 監視機構に勝利したいのならば、その弱さを克服することだ
 魔皇の力を手に入れ
 人間ではない、ひとを越えた存在として今囚われている下層から脱出するがいい
 それを為さねば、エンシェント・エンジェルを前に勝利はない

 たとえ、その勝利の向こう側に魔皇の力に翻弄され、滅びゆく者たちの姿が見えても
 それは力を持つ者ならば、当然背負うべき未来なのだ

 ヘルは言いながら不思議に思っていた。自分は何故、この少年にこのような助言をしているのか?
 何故、この人間に更なる成長を望むような事を言っているのか。
「その滅びゆく者たちに、彼女が……ラ・ピュセルの姿が重なってもか……?」
 シンジは力無くそう問うた。
 ――そうだ
 力の行使は滅びの容認
 力の放棄は希望の終焉
 侯、あるのは、ただそれだけだ

 その事実を知り、それでも力を行使する意志を持つことを
 汝の言葉を借りれば <覚悟> というのだろう
 アランソン侯
 貴公はその覚悟から逃げたかっただけだ
 他人を言訳にしてな
「滅びの……容認」
 力を使うことで、何を犠牲にしても守りたかったものが滅びる。そんなヴィジョンを受け容れろというのか。シンジは頭を抱え込んで沈黙した。
 魔皇の力無くしては、ラ・ピュセルを救えない。魔皇の力を使えば、ラ・ピュセルを失うかもしれない。どちらも嫌だ。受け容れられない。
 それが……

 それがヘルの言うように、僕の弱さなのか?


 教えてくれ、ラ・ピュセル




僕はどうすればいい




SESSION・82
 『運命改変』



 一四二九年五月八日のオルレアン開包後、ラ・ピュセルはアランソン侯に連れられ彼の故郷アランソンを訪れた。其処で彼女は勝利王計画発動まで、彼と束の間の一時を過ごすこととなる。だが、逗留中にアランソン侯爵との絆を確固たるものとした彼女は、予知夢で知らされた戦死の運命から彼を救うため、次元封印を行使。悲壮なる決意と共に、アランソン侯を未来へと送り出した。彼女が <世界が終わる夜> と表現した、その月夜の晩に……

 オルレアン開包からちょうど二〇日後、五月二九日の事であった。
 翌早朝、ラ・ピュセルは悲嘆を堪えてロンギヌス隊隊長リジュ伯カージェスの私室を訪れていた。何事かと迎え入れたリジュ卿は、彼女の口から驚愕の事実を知る事となる。アランソン侯、未来へ。如何に柔軟な思考ができるリジュ卿といえど、俄かに信じられることではない。
 アランソン侯は、王家の血筋にも近いアランソンの当主。生っ粋の貴公子であり、「美男候」として国中にその名を知られる傑物である。また、侯爵守護部隊ロンギヌス隊を筆頭する、フランス軍最強の名も高いアランソン軍を率いる総大将でもあるのだ。彼がフランス王国軍に占めるウエイトは計り知れない。
 現状で、フランス全軍を支えているのは大富豪であるジル・ド・レ男爵の財力と兵、ラ・イール大隊長率いる傭兵部隊、そしてアランソン侯が擁する騎士団と、この三本柱であると言える。これにラ・ピュセルの神秘性カリスマが加わることで、はじめてフランス軍は機能する。どれがかけても、連敗続きであった王国軍がオルレアンを開包することは叶わなかったであろう。
 そのアランソン侯が、『消えた』と言うのである。さすがのリジュ卿も、ラ・ピュセルからそれを聞いた時蒼白となった。折角盛り上がりつつある全軍の士気の低下、それに間も無く発動される『オペラシオン・ヴィクトリュー』……
 すなわち勝利王計画に支障が出る事は必至だ。オルレアンで大勝したとは言え、王国側に余裕が出来たわけではないのだ。兵力、財、士気全てが危うい均衡の元成り立っている。
 ラ・ピュセルが、アランソン侯をどこか慕っているらしいのは周知の事実だった。その彼女が彼に関する事でウソをつくとも思えない。いや、それでなくても彼女が意味も無く人を惑わすような発言をするはずもないのだ。リジュ卿は、端から彼女の言葉を疑うつもりなど毛頭無かった。が、こればかりは確認せざるを得なかった。
「……君は、アランソン侯が勝利王計画に際する戦闘で命を落とすと言う <予知夢> を見た。その運命を改変するために、この世界から彼の存在を消した……
 そう……そういう解釈で間違ってないか?」
 リジュ卿は、気を落ち着けるよう最大限の努力をしながら、ラ・ピュセルの話を総合してみせた。そのリジュ卿の言葉に、ラ・ピュセルは小さくコクリと頷く。その表情からは、例の如くなんの感情も読み取れなかった。
「それで……彼は、どこに飛ばされたんだ?」
 ラ・ピュセルの預言はこれまでことごとく的中しているという実績がある。鯖の日と呼ばれる敗戦の預言。王太子との謁見も実現し、最大の焦点であったオルレアン開包も驚くべき早さで実現された。彼女の予知、預言の絶対性はリジュ卿も認めるところだ。アランソン侯の死の運命を変えるため、彼女が今回のような行動に出た事は一概には責められない。そのうえで、リジュ卿は訊いた。
「未来へ」
 ラ・ピュセルは短く、それだけを答えた。
「未来……どのくらい先の未来かは分かるのかい?」
 彼女はまたコクンと頷くと、小さく言った。
「六〇〇年後の未来」

 その言葉に、リジュ卿は天を仰いだ。実際に見えてきたのは、自室の装飾された天井とシャンデリア。だが、リジュ卿の脳裏に映ったのはこれから巻き起こるであろう周囲のパニックのヴィジョンだ。せめて勝利王計画が終了される頃の未来、つまり数ヶ月というのならまだ誤魔化し様もあるが……

 (六〇〇年とは……一体オレにどうしろっていうんだ?)

 チラと恨めしそうにピュセルを一瞥すると、リジュ卿は深い溜め息を吐いた。このラ・ピュセルと来た日には、おとなしそうな顔してやることはいつもド派手なものだ。庶民であるにも関わらず、いきなり王太子に謁見させろと言い出すわ、自分は神の使いと言い出すわ、オルレアン開包を本当にやり遂げるわ、アランソン侯を何の相談も無しに時空の彼方に放り出すわ……。さすがのリジュ卿も、この娘の行動力と奇抜な発想、そしてなにより純粋すぎる想いには呆れるしかない。
 (思慮深く賢い娘なのか、大胆不敵で猪突猛進、何も考えてないなのか……
 さっぱり分からないな、このお嬢さんは)

「とにかく、候は捕虜に囚われたと言う事にしよう。アランソンに現れた野盗に町人を人質に取られ、ロンギヌスの少数精鋭を率いて敵の本拠への奇襲を敢行。人質解放に成功するも負傷を負い、相手方に捕虜に取られて現在消息は不明。後に状況が明らかになり、彼はイングランドに売り飛ばされ向こうで捕虜生活を続ける事になる。
 表向きの事実はこうだ。時空を超えただの、使徒がどうこうだのといっても誰も信用しない。宮廷は尚更だ。ピュセル、君もそういうことで口裏を合わせてくれ。これらの証言は、オレたちロンギヌス隊がする。ロンギヌスは王家にも顔が利くからな。オレたちが口を利けば疑われることはまずないだろう」

 リジュ卿は適当なリアリティを持たせた虚実を考えつくと、ピュセルに言った。後の歴史書への記述の改変などは、リッシュモン元帥……
 いや、反監視機構側のゼルエルに依頼すればいい。彼女ならその方面に顔も利くから、なんとか出来るかもしれない。
 それに戦闘で破れた武将や貴族が捕虜として囚われるのは、この時代当然の事である。外交の道具ともなるし、多額の……
 それこそ何処ぞの領主ならば領地そのものを身の代金として要求できるからだ。そういう交渉の結果、自由を得るかわりに財産を全て失い、莫大な借金すら背負うハメとなった貴族をリジュ卿は山と知っている。
「真実を明かすのは、そうだな……」

 再び宙を仰いで、顎の無精ひげを撫でながらリジュ卿は思案する。
「候の家族のみだな。具体的には、彼の母……そしてオレの姉でもあるミシェル。候に忠誠を誓ったロンギヌスの40(しじゅう)。取り敢えず、これだけだ。あとオレの同志であり、今回の件でも色々世話になるであろうシグルドリーヴァ夫妻。そしてピュセル、君を加えて全部だ。それ以外、宮廷や庶民、たとえ王太子であろうとも、虚実を真実としてもらうことにしよう」

 ラ・ピュセルは神妙な表情で頷くと小さく言った。。
「……ごめんなさい」

 掠れるような声での謝罪は、やはり自分の決断が周囲に掛ける多大な迷惑と哀しみを理解してのことだろう。彼は民に慕われる世界で唯一の領主であった。皆に愛される――本人はこう呼ばれるのを喜ばないであろうが――支配者であった。それが消えた……捕虜として囚われたと知れれば、皆沈む事だろう。ロンギヌス隊の隊員たちなど、男泣きに泣くかもしれない。
「うちの連中……ロンギヌス隊にはエイモス老も含めてオレが説明しておこう。ただ、姉に話す時には同席してくれ。候が戦場に出ると言い出した時でさえ卒倒した人だ。永遠に消え去ったなんて言いだすと、ショック死しかねない。彼の身を案じて守護精鋭部隊ロンギヌスを結成したのは、他ならぬ彼女であるくらいだからな。
 まぁ、そういうわけだ。君がいてくれたほうが何かと都合が良かろう。彼女は結構な気配りの人間だ。1番悲壮な選択を強いられた君を目の前に、自分だけ卒倒するなどは流石に自重しようからな……。まぁ、後片付けだと思ってよろしく頼むよ」

 リジュ卿は笑顔でそう言った。彼が口にしてくれると、何か事がこう、スムーズに簡単に片付いてくれそうな気分になる。ピュセルも少なからず救われた気になった。周囲に対する緊張と凝りをほぐされた感じだ。
 だが、それでもラ・ピュセルは知っている。
 これからはアランソン侯なしでやっていかねばならない。求めてもいないから。助けは期待しない。確かに彼に代わる新しい味方を見つけた。信用できる、本物の戦友を。だがそれでも、これからの戦争はきっと……

 ピュセルは思う。自分は、この時代を乗り切る事ができるだろうか。挫けずに進めるだろうか。哀しい夜にも、泣かずにいられるだろうか。
 今、彼女は勢いを増した向かい風の中を歩める強さを……
 そして、戦う意味を探し求めながら、迷走する時代の真っ只中にいる。でも、負けないように。彼が本当に……
 約束通り起こり得ない奇跡を起こし、時の壁すら飛び越えて……
 また再び逢いに来てくれた時、真っ直ぐに向き合えるような強い女に、優しい人間になれるように。

 ピュセルはもう、うつむかない。



SESSION・83
 『混沌を司る黒衣の死神』



スッと差し込まれるように、金色のベールが胸に浸潤していった。短く長く、でも緩やかで鋭い振動が、胸を震わせ殻をこじ開け、より深層へと割込んでゆく。自分本人すらも知らなかった、深海。あまりにも深くて、日の光すらも届かない淀み。そこに密かに封じられた、禁断の自我。
 知らぬ己。
 それは確かに偶然だった。いつかは違う、正規の切っ掛けをもって開かれるはずの扉であった。幾つもの偶然と、そして知恵の実が絡まって当初の予測を大きく上回る強度と厚みを持ってしまった禁断の扉。
 それが、あの瞬間……

 確かに開かれるのを感じた。
 そして眠っていたものが、封じていた己が胎動した。
 浮かんできたのは、その名。それは名?
 それとも、それには名などないのか。
 言葉じゃない。イメージでもない。記憶じゃない。もっと絶対的な何かが、浮上……そう、浮上してきた。
 それは囁いた。

 C……H……O・……S

 ク……ァ……オ……ス


 それは蠢いた。

 C……H……A……O……S


 そう。

 カ・オ・ス


 そうだ。

 カオス


 それは、究極の……

 あらゆる次元に、全ての存在に、量子的?
 いや、究極的に存在する絶対存在。
 光を生み、闇を産んだ全ての源。それは無でありながら、全ての存在を内包する。遍く全てを生み出し、全存在を虚無へと還す。
 いや、在や無といった概念すらも超越した……


 それは、『混沌』。

 暗闇の深淵の闇。光明の上層の光。
 全能の力。
 神のアビリティー。
 これ有る故に、ルシュフェルは頂点に在った。


――三体分離の時、そう、ルシュフェルの個性は三分割された。

 第1の個性。それは創造と全知。
 最強のインペリアルガード…… <ガルム=ヴァナルガンド> を従えた、時を知る女皇。
 ――第1魔皇 ガルムマスター・ヘル


 第2の個性。それは闘争と破壊。
 海王リヴァイアサン、そして地王ベヒーモスを使役し、最速のファースト・タイムを誇る闘神。
 ――第2魔皇 サタナエル


 第3の個性。それは絶対と混沌。
  <魔皇ルシュフェル> すら持て余した究極の絶対存在『カオス』を継承した混沌。
 ――第3魔皇 カオス


 遥かなる……時の向こう

 全ての中心…… <クロス=ホエン>

 熾烈を極める……聖魔大戦

 闇に輝く一二枚の……光翼

 破れ、次元牢に幽閉される……明星

 誕生する……魔皇

 自由獲得と……三身分離

 魔皇三体……ヘル・サタン・カオス

 古の盟約……ゼルエル・降臨・草・死神・不測・不確定・契約・交渉・知恵の実・人間・ココロ……

 破壊工作と牽制……離反・反逆・謀叛・不審・監視機構・分子・抑制・J.A.・EVA……

 刺客・アラエル・心理攻撃・精神・深層・開封・胎動・混沌……

 月・エンディミオン・カオス=クレセント・カオス=フィールド・最終決戦・エンシェント=エンジェル……


 ココロの兵器・因子……ク・レ・ス


 嗚呼……


 そう……


 私は……



 私は……




「えぇ〜?」

 アスカの叫び声が車内に轟き渡った。
「カオスが誰か知ってる〜〜ぅ?」
 その大声に、乗り合わせた乗客たちは何事かと一斉にアスカに視線を向ける。いつもの如くシンジの膝の上で、いつ覚めるとも知れぬ惰眠を貪っていたガルムも飛び起きた。アスカは乗客達の注目を集めてしまった羞恥からか、赤面したままペコペコ頭を下げると今度は幾分声のトーンを落として訊いた。
「で、どういうことなのよ?」
わふぅ〜?
「あ〜ぁ、ほら、ガルム。よだれよだれ」
 シンジは寝惚け眼でむっくりと起き上がったガルムに、慌ててハンカチを取り出す。だる〜んと垂れたガルムのよだれが今にもシンジの上着に零れ落ちそうだ。そのシンジたちの隣に腰掛けたカヲルは、クスクス笑いながらその様子を眺めていた。
あわ‥ぁ……ふぅぅ……
 そんなことはお構いなしに、ガルムはのんびりと欠伸なんかをしている。もともと人型の時は口が小さいから、そんな様子も結構可愛い。が、良く見れば人間とはちょっと信じられないような、小さいが鋭い牙歯ばかりがたくさん並んでいることが分かる。
あぅ〜、へうさま……
 とろ〜んとした目のままガルムは車内をキョロキョロと見回した後、シンジを上目遣いに見詰めて訊いた。
もう着きまつり?
「……いや。まだだからもう少し寝てていいんだよ」
 だがシンジの言葉が終わらない内に、既にガルムは再び夢の世界に旅立っていた。
 彼がまだ、中世のジャン・ダランソンだったころには一応 <兄> の存在があった。しかし、その兄も彼がまだ幼い頃病死してしまったため、ほとんど顔すら覚えていない。そしてこの新世紀では、彼は完全な一人っ子だ。だからシンジは、基本的に兄弟というものを持った事が無かった。そんなわけで、小さな弟……
 そして小さな妹すらも兼ねてくれるこのガルムが、シンジは可愛くて可愛くて仕方が無かった。
 そんなつもりはないのに、ついつい甘やかしてしまう。叱った方がいいかな、と思っていたにもかかわらず、気付いた時には笑顔で抱き上げていた……
 などは毎度のことだ。
 それに、今はこのガルムの存在に救われる……
 心に突き刺さるような、昨夜のヘルの言葉。ともすれば沈んでしまいがちなシンジを無理矢理にでも陽気に振る舞わせてくれるのが、このガルムの存在に他ならなかった。
 と、その時……

「でんじゃらす・きーっく!」

どがす
「うきゅ?」

 どこか寂しげな笑顔でガルムを抱いて寝かしつけていたシンジの頬に、アスカの鋭い蹴りが突如襲いかかった。格闘技のテキストにカラー写真で掲載したくなるほどの美しいフォームで繰り出されたその飛び蹴りに、シンジは狭い列車の車内を器用に五Mは吹っ飛んでいった。しかも錐揉みしながら。
「こらーっ! あたしの話を聞かんか〜っ!」

 ちなみにシンジに抱かれていたガルムは、宙にぽーんと放り出されたものの、カヲルがアルカイック・スマイルでナイスキャッチした。今は、何事も無かったかのようにシンジがいた席で丸くなって眠りこけている。
「ぃいったぁ〜。アスカ〜、なにするのぉ〜」
 シンジは半泣きになって何とか帰ってきた。蹴りがヒットした左頬は赤く腫れて、まるでリンゴのようだ。それにその歩き方にも、物理的なダメージかそれとも心的な疲労からか何処か覇気がない。
「本当にデンジャラスだねぇ、君は……」
 カヲルはシンジを介抱しながら、アスカに苦笑混じりに言った。
「痛いよ……ぉ……」
 シンジは心底痛そうに頬をさすっている。ガルムに席を取られてしまった故に、しょうがなく危険なアスカの隣の席に腰を落とす。
「あんたが、このあたしを無視するからいけないんでしょうが!」
 アスカは踏ん反り返って、さも当然の如く言った。
「ガルムを寝かしつけるまで待ってくれたっていいじゃないかぁ」
 情けない声で反論するシンジだが、思いっきり腰が引けている。
 あのアランソン侯をここまで脅えさせるとは……
 あえて、このタブリスは言う。……惣流アスカ。彼女はただものではない。
 カヲルはといえば、結構真剣にそんなことを考えていたりした。
「いいから、さっさと吐いて楽になりなさい!」
 アスカは気の毒なシンジの襟首をひっつかむと、ガックンガックン言わせながら揺する。まるで霧島理事長を相手にした時のマナだ。別の表現をするとすれば、容疑者を荒っぽく尋問するドラマの暴力刑事か。
 マナ君といい、アスカ君といい……
 女の子っていうのは、怒らせると皆こんなふうになるんだろうか。ということは、あの楚々としたラ・ピュセルも、クールなリリア・シグルドリーヴァも……?
 『彼女』とは遥か彼方の女。女性と言うのは、まこと、ミステリーだ。
 カヲルはといえば、結構真面目にそんなことを考えていたりした。
「い……言うぅ〜。何でも言うから放じでぇ〜」
 シンジは必死に空気を求めながら言った。がっちりと絞められた喉元で血液が止められているからだ。この状態があと一分でも続こうものなら、ブラックアウト確実である。
 だが、アスカ嬢はそこで女神のような慈悲を見せてくれた。『喋る』とシンジが宣言するのをしっかりと確認すると、すぐに彼を解放してくれたのである。あまりの嬉しさに、涙を流しながら咳き込むシンジ。
「さ、じゃあ早速話してもらいましょうか」
 にっこり微笑んでアスカは言った。これまた女神のような美しい微笑みだ。あまりのありがたさに、シンジはまだ涙を流しながら首元を押さえていた。一見すると、女神を前に畏まっているようにも見える。……そんなわけないが。
「確かカオスって言ったら、私の記憶が正しければ……
 まぁ、正しいに決まってるけど、魔皇三体だかの内、唯一行方が掴めていなかった厄介者よね?」
 新鮮な空気を求めて、いまだ喘いでいるシンジの代わりにその問いに応えたのはカヲルだった。
「その通りだよ、アスカ嬢。第一魔皇は、そこで死にかけているシンジ君。つまり、この夢の世界の住人ガルムのマスター、ヘルだ」
 ぽんっと、またまたあられもない格好で爆睡しているガルムの頭に手を置いてカヲルは言う。
「そして第二魔皇サタナエルは、今、月でEVA争奪戦を監視機構使徒たちと繰り広げている。……もしかしたら、もうそろそろ決着が着くかもしれないが。まぁ、そうなったらNERVが連絡してくるだろう。そして最後の一騎、第三魔皇 <カオス> 。これは君の言う通り、行方が掴めていなかった……。少なくとも表向きはね」
「だが、私には既に明らかだと言うことだ。娘」

 アスカは不意に脇から発せられた、聞き覚えのあるその声にぎょっとした。そしてゆらりと立ち上がったのは、シンジである。そう、瞳の紅い碇シンジ、すなわちヘルである。呼吸の乱れなど、何かの間違いであったかのように無表情に立ち振る舞う彼女は、流れるような動作でアスカの隣の席に収まった。露骨に引いてしまうアスカ。
「ガルムマスター・ヘル……」
 カヲルが呟く。
「どうして貴方が……?
 身体の支配権は、ほとんど完全にシンジ君がキープしていたはず。最早貴方は、自分の意志如何で彼の表層に現れる事はできないのだと思っていたが」
 少し驚いたようにカヲルは言った。
「その通りだ、タブリス。ほとんど決着は着いていると言って過言ではなかろう。誠、この男は不可思議よな。魔皇三体の支配力を、己が魂の力のみで退けるとは……。確かに、タブリス。汝の言うように、私の意志ではこの躰の主として振る舞うことはできぬまでになった。候が私に支配権を一時譲らない限りはな」
「では、シンジ君が貴方に一時的な支配権を譲渡したと?」
「……そうなるな。まだまだ候はこの魔皇の力を制御しきれておらぬ。持て余し気味というか、畏れておるというべきか……
 ともかく、魔皇の力を行使する場合においては、私を表層に出した方が効率が良い。特に生命の危機、本能が感じ取った危急の際及び戦闘時には、私に支配権を一時的に渡すことに同意している。私も宿主に死なれては、困るからな」
「なるほどねぇ……奇妙な同盟関係というか、共生関係というか。でも、シンジの意志でしか交代できないのなら、ほとんどあんた寄生虫みたいじゃないの。シンジのこと、自分から『宿主』なんて表現しちゃってるし」
 畏れ多くも魔王相手に言いたいことをズケズケ言うあたり、アスカも流石である。カヲルは、ちょっと別の意味で彼女を尊敬した。
「寄生虫か……。確かに、候は現状でこの躰を支配する意識として確立されている。その中に眠るように存在する私を、そう表現することもできような」
 ヘルの応答が滞ることなどない。ほとんどというか、全く思考時間をおかずすぐさま返答が返って来る。アスカにとって、クールな彼女との会話はなかなかに刺激的で楽しい一時であった。
「ふーん、なんだかあっさり屈辱的な事実を認めるのねえ。バカシンジみたいな人間相手に負けるなんて、悔しくないわけ?」

 すごいよ、アスカ君。カヲルは心底思った。確かにそんな疑問が、カヲルの脳裏をかすめなかったわけではない。だが、実際本人に聞いてみようなどとは、彼には考えも出来なかった。
「……悔しい? 分からんな。汝の尺度で私を計るなと言ったはず。優れたものが受け容れられ、弱きは淘汰される。私は候の意識に破れたため、控えに回る。当然のことではないのか?
 当然のことを何故に『屈辱』と感じる必要がある」
「なんか、悟りを極めたお坊さんみたいなこと言うわね。ま、確かに魔王なんてある意味何かを極めた存在なんでしょうからねぇ。……煩悩や欲求みたいなのはないわけかな」
 少し考えるように言ったアスカに、また返答が瞬く間に返ってきた。
「我々に欲求というものが全くないわけではない。己を高めんとする知識欲や向上心、好奇心と似たようなものは我々にも多少は存在する。私は知りたいのだ。私を作った創造主 <全てを知る者> の意志、その真意を。そのためには、監視機構の存在が邪魔となる。私を不穏分子と見なす彼の者共を排除しない限り、その目標に専念できぬからな。結局、私とアランソン侯の目的は相反するものではない。故に、現状に特に不満はないと言えよう」
「成る程ね……。ま、それはいいわ。話を元に戻しましょう」
 納得したようにひとつ頷くと、アスカは言った。
「そうそう、カオスについてよ。一体、あんたたちは何を知ってるの? 隠してないで教えなさいよ」
 ほとんど命令である。
 凄すぎるよ、アスカ君。カヲルはもはや驚きを通り越して、呆れてさえいた。この根拠のない自信と、魔王を前にしてのその高圧的な態度は一体どこからやってくるのだろうか……。ミステリーだ。
「DEATH=REBIRTH=CHAOS。……これが答えだ」
 だがそんなことには全く頓着せず、ヘルはアスカの要望に簡潔にそう応えた。
「デス・リバース・カオス……?
 えっと、私の記憶が間違ってなければ……
 って、間違ってるなんてあり得ないけど。確かデス・リバースってリリアなんたらのことよね、中世の」
 彼女には、言葉を選ぶなどという概念はないに違いない。アスカは単体で世界を滅ぼせる最強の女性達を相手に、まったく引けをとっていなかった。
 凄まじいよ、アスカ君。カヲルはこれを期にアスカに対する認識を完全に、一から改めることを決意した。あの最強の死神として恐れられるリリア・シグルドリーヴァを「リリアなんたら」扱いとは……。とても僕には真似できないよ。アスカ君。君は神秘さ……。
「そう。彼女は目覚めた。カオスとして。アラエルという使徒の心理攻撃が、彼女が自ら封じていた深層に眠るカオスの因子を揺り動かし……
 何の因果か覚醒させてしまった。その時に一気に蘇ったわけではないが、ゼルエルはリリア・シグルドリーヴァの意識を保ちながら徐々にカオスの力をものにしていった」
 ヘルは遠く、六〇〇年前を見詰めるように遠い目をしていた。
「?」
 対して、アスカは納得のいかない表情だ。
「どういうこと?
 なんでカオスってのは、なんで過去……自分で自分を封じなきゃならなかったわけ?」
「詳しい事情は知らぬ。ただ、彼女はサタナエルと密約を交わしていたようだな。サタナエルの今の行動や、現状のあらゆる要素を加味して私なりに一応の推論は弾き出してあるが……
 訊いてみるか、とヘルはその紅い瞳で問う。
「……それは、僕も是非聞いてみたい」
 先に答えたのはカヲルだった。
「彼女が目覚めたのは、オルレアン開包から半年強のある日だ。当然僕はタブリス・オリジナルからのリアルタイム・ラインでそれを知っていたが……
 カオスが何故に過去に現れ、そして何を狙っていたのか。何故リリア・シグルドリーヴァだったのか。それはまだ聞いていない」
「当然、私も聞くわ。シンジが言うに、あんたの予測ってのはまず外れないってことだし」
 アスカも乗ってきた。
「……よかろう。では、聞かせよう」
 小さく頷くと、紅い瞳のシンジは低い声でゆっくりと語りはじめた。それと同時に、より理解を深めさせるためかアスカとカヲルの脳に直接、話に会わせたイメージを投影させる。限りなくリアルな、動画の紙芝居といったところか。
「カオスは最初から <ゼルエル> だったわけではない。それは、ラ・ピュセルの次元封印で自由を得たカオスが、過去に溯ったところからはじまった。カオスは過去に辿り着くと、まず <ゼルエル> を監視機構の知らぬところで殺し、密かに成り替わった。然る後、自己催眠で己を <ゼルエル> として認識させ、更にカオスの力を封じることでボロが出るのをあらゆる意味で防ぐと、監視機構の手によりエージェントとして地球に送られるのを待った。効率的に、労せず純度の高い <ルシュフェル・コア> を持つ人間に挿入してもらうためだ」
「純度の高い <ルシュフェル・コア> ?」
 アスカが顎に人差し指を当てて、記憶を探りながら言った。
「聞いたことがあるだろう。使徒は人間であれば、どんな者にでも憑依できるわけではない。魂のパーソナル・パターンとも言うべきものが一致しているか、限りなく近くなくては都合が悪い」
「……ふーん。なんか、内臓の移植手術みたいねぇ」
 アスカがなんとなく呟いた。
 その声にヘルは小さく頷いて言った。
「良い喩かも知れぬな。そう。特に拒絶反応が出て失敗する……等ということはないが、確かに適合するパターンを探すという意味合いでは似ている。
 さて、そうして使徒の苗床に選ばれた人間には見ていくと、ある傾向を見出すことが出来る。それは <ルシュフェル・コア> の純度が、平均と比較して比較にならぬ程高いことだ。……そう言う意味では候も良い候補のひとりだっただろう。結果的に、このコアの純度が高い人間は、霊感と汝人間が表現するようなものに優れていたり、超能力が使えたりする。霧島一族の神道におけるズバ抜けた咒的才覚もそうであるし……
 またアランソン侯にしてみても、A.T.フィールドを視認することができたであろう。それと同じだ」
「成る程……。ゼルエルになりすまし、監視機構の手で人間の躰にコアを挿入してもらうのを待つ。そうすることで、労せずにカオスは純度の高い <ルシュフェル・コア> を手に入れることができるわけだ。しかも同時に監視機構使徒として、敵側の中枢に近い位置に入り込める」
 カヲルは納得したように何度か頷きながら言った。
「そうだ。ゼルエルには最強の天使として、やはり最高の素材が選ばれた。後に夢魔の女王 <モリガン> として世界に名を轟かせるはずであった、アランソン侯並みのコア純度を誇る魔女がな。そうしてゼルエルは、アイルランドに生まれ……或る程度の躰を造るとスウェーデンに渡った。その時の名が、リリア。まだクレス・シグルドリーヴァとは出会う前のことだ」
「えー、でもそれだけなの?
 そんなわけないわよねぇ、それだったらサタナエルと密約を交わす必要もないはずだし」
 アスカは予測していたより意外性の無かったヘルの話に、ちょっとした不平をあげた。
「無論、これだけではない」
 ヘルはアスカを抑えると続けた。
「カオスとサタナエルの真の狙いは、最強の使徒 <ゼルエル> と <タブリス> の裏切りにあった」
「僕の……?」
 カヲルは結構驚いたらしく、思わずそれが声に出た。
「ゼルエルになりすまし、幾つかの困難なミッションを完遂することで最強の地位を確立した後、裏切る。また同じく最高に近い能力をもった監視機構の虎の子、自由天使 <タブリス> の謀叛を促す。ポイントは、ここだ。大駒を相次いで失った監視機構は、どう対処してこような?」
「えっと……そうねぇ。あ、そうそう。なまじ心が在るから駄目だとかいって、あのJ.A.とかいう人形に主力を切り替えたんだっけ。今回のEVAとかいう新型も、その構想の発展型なんでしょ?」
 アスカが少しの思考の後、素早く答えた。
「そうだ。それが彼らのシナリオだったと考えるのが自然だと思われる。心を封じたはずの使徒たちが、人間と交わることでその心を解放されて監視機構を裏切る事件が続発。危機感を抱いた監視機構は、新たな使徒の創生にストップを掛けた。代わりに生産ラインを従来の使徒から、心無き機械人形J.A.に切り替えたのだ。能力は多少落ち、エージェントとしては使えずとも、裏切られ敵に回るよりかは幾許か良い……とな」
「わかった!」
 そこに、ぱんっと手をうってアスカが強引に割込んだ。
「わかったわよ〜!
 だから、サタナエルの動きがあんなに速かったんだ!
 あいつの目的は、監視機構の主力を心のない機械に変えることだったんだわ。使徒の心は乗っ取るのが難しいけど……機械の……J.A.やEVAのなら、生産ラインを乗っ取ってプログラムを改変しちゃえば、簡単に自軍に引き込める。監視機構の主力を奪って、逆に取り込めるから……だから……」
「……そうだ。そう考えていいだろう。現状で彼らの盟約は果たされ、完遂を得ようとしていると見ていいだろう」
 ヘルはその紅い瞳に一瞬アスカを映すと、続けた。
「だが、特にカオスに関しては、この件に関して……全くの誤算がなかったわけではない」
「……誤算?」
 カヲルが怪訝な表情で訊いた。彼がいつも浮かべている作為めいた笑みを取り払った時、周囲の人間はハッとするほどの美をこの青年に感じる。
「そう。誤算だ」
 ヘルは全く表情を変えずに、微かに頷く。躰を支配する魂が替わっただけで、人間これほどまでに全てが違って見えるものか……。アスカは今更ながらそれを実感する。
「知恵の実……即ち <こころ> の誕生がそうだ。ゼルエルは幸か不幸か、人間の男、クレス・シグルドリーヴァに出会い、彼と過ごした時の中でヒトの心というものに興味を持ちはじめた。そして、その男との触れ合うことでゼルエルの中にも……知恵の実が宿った。心、そして感情の誕生だ」
「それが、カオスの誤算なの?」
 まだヘルの言わんとすることが飲み込めないアスカは、柳眉を顰めて訊いた。
「……如何にも。心の誕生で、カオスが自己催眠により束の間の仮人格として作り上げていた <リリア> という存在が、己を強く意識しはじめた。クレス・シグルドリーヴァとの絆とでも言おうか、それを通して世界との繋がり、己の存在、個の確立が成ったと言うわけだ。それが、カオス本来の個性やコアと複雑な反応を起こし……乗っ取りが起こった」
「まさか……」
 ここまでの語りで、カヲルは何かを悟ったらしい。驚愕にも近い表情を浮かべて、身を硬くする。
「そう。この私がアランソン候に破れたのと同じだ。本来主導権を握るべきはずであった意識が逆に駆逐され……新たなる意識がその躰を乗っ取る。つまり、カオスは来たるべき時に至るまで自ら眠りについていたものの、その間躰の制御を任せていた仮人格に、躰とコア、そして魔皇の力を奪われてしまったのだ。これはカオス本体の封印が、事実上の消滅へ移行したことを意味する」
「そのリリアって人こっち側……とりあえずは反監視機構側なんでしょ?
 じゃあさ、彼女がカオスの力を手に入れたってことは、魔皇三体のうちのもう一人がこっちの味方になってくれるってわけ?」
 アスカの問いに応えたのは、ヘルではなくカヲルだった。
「……そうだね。そう考えていいだろう。中世にいる僕――すなわちタブリス・オリジナルやロンギヌス隊、そしてシグルドリーヴァ夫妻は、ラ・ピュセルの死後、 <こちら側> に来る準備をしていた。カオスの力を入手したリリア・シグルドリーヴァなら、あの黒い死鎌 <カオス・クレセント> で時空間を切り裂けるからね。上手くいっていれば、こちら側に現れるのもそろそろだろう」
「ちょっと待ちなさいよ。その <こちら側> って、もしかしてこの新世紀のこと? つまり、二〇一八年?」
「そうだよ、アスカ君。カオスも僕も、現状で脅威となっているのはサタナエルではなく <人類監視機構> だと考えている。こちらで……、新世紀で全ての決着をつけるのさ。僕らもNERVをはじめ全ての同志と連携し、総力を結集してね」
「その計画には私も参加しよう。候も私も、 <監視機構> が邪魔だということで見解の一致をみている。候はラ・ピュセルを天使の呪縛から解放するため。私は自由獲得と障害の排除という目的の相違こそあるがな。ともかく、協力は約束しよう」
 ヘルは静かにそう宣言した。
「僕らは結託して <人類監視機構> を倒す。その後、サタナエルが敵になるようなら、彼も叩く。それでこの一連の戦争は終わる。僕もシグルドリーヴァ夫妻も……
 そして首尾良くいけば恐らくラ・ピュセルも、全ての呪縛から解放され、自由を手に入れることができる」
 カヲルにしては、珍しく言葉に感情が篭っているのが感じられた。
「おもしろいわね……。第1魔皇ガルム・マスター=ヘルの力を有するシンジ。第3魔皇カオスの力を有する死神。それにNERVや、この頼りになんない名ばかり自由天使。これだけの戦力が一致団結して、この天下無双、超絶美人、才色兼備の八面玲瓏天才少女 <惣流アスカ> 様の後についてくるとなると、確かに……これは何とかなるかもしれないわね」
 腕組みをしてうんうん頷きながら、満足そうに言うアスカ。
「いや、ことはそう単純ではない。我々魔皇三体は、お前達が考えているより数段次元の高い場所にいる。が、その魔皇……すなわちヘル・サタナエル・カオスの三騎総がかりでもエンシェント・エンジェル一騎に及ばぬだろう。所詮三騎あわせてルシュフェル。そのルシュフェルは一〇〇年前の大戦でエンシェント・エンジェルに破れたのだ。その事実を忘れるな」
「……そんなに強いの、そのエンシェント・エンジェルって……」
 ヘルのあっさりの敗北宣言とも取れる発言に、アスカは一気にへこむ。
「まぁ、それでも僕らはやるしかないんだけどね。……しかしそれにしても酷いな、名ばかりとは。僕だってそれなりに……それなりなんだよ?」
「なに言ってんのよ!
 最強とかいって比肩していたはずの死神に、今じゃ思いっきり差つけられちゃってるじゃないの」
 アスカがびしぃっ! とカヲルを指差しながら言った。
「ははは……。それを言われちゃうとねぇ。なにせ相手は使徒の数段上位にいる魔皇だし……」
 さすがのカヲルもアスカにはタジタジのようだ。
「ほぅら、やっぱり頼りにならないじゃない」
「まぁ、そう言わないでおくれよ。僕にも秘策がない訳ではないんだ。上手くいけばエンシェント・エンジェルを一体……
 それが無理でもサタナエルだったら、僕ひとりで何とか出来るかもしれないんだよ?」
「ほほぅ。……秘策ねぇ」
 思いっきり胡散臭そうな表情でカヲルを覗き込むアスカ。
「本当かしら。ハッタリじゃないの〜?」
「フッ……。ハッタリかどうかは、まぁ、最終決戦までのお楽しみということで」

 薄く不敵に微笑むカヲルの紅い瞳の奥に……
 一瞬影が過ったのを、ヘルは、シンジは静かに見詰めていた。



SESSION・84
 『小童たちの笑み』


「なんですと?」

 アランソン城内の一室で、男達の野太い叫び声があがる。
「消えたってどういうことですか、隊長!」
「若君が?」
「一体どういうことなんです?」
 自分を取り囲みながら血相を変えてにじり寄ってくるロンギヌスの隊員たちに、リジュ卿は数歩後ずさりながら曖昧な笑みを浮かべる。
「ま……まぁ、ちょっと待て。みんな落ち着け」
 両の掌を押し寄せる隊員達の壁に向けながら、リジュ卿は何とかそう言った。流石に40もの猛者達に囲まれては、剣匠もたじたじである。
「これが落ち着いていられるかって言うんですよ!」
 リジュ卿の言葉も所詮は焼け石に水であったようだ。それも当然かもしれない。
「そうですぞ、リジュ卿。我等のお仕えする主が消えた……などと突然言われて落ち着いていられましょうか。事が事だけに、説明を要するのではありませんかな?」
 リジュ卿と共に大黒柱として四十の隊員を支えるエイモス。精鋭ロンギヌスの長老格である彼だけは流石に落ち着きを保っているように見えるが、その鋭い眼光は真っ直ぐにリジュ卿を捉え放さない。
「ま、まあ、エイモス老。勿論説明はしますから」
 隊長であるリジュ卿も、このエイモスだけには頭が上がらない。
「フム……。それで、若君が消えたというのはどういうことですかな」
 エイモスは隊員達を代表してリジュ卿に問うた。
「フゥ……そうだな、どこから説明したものか……」
 リジュ卿は小さく溜め息を吐くと、思案する。この話を彼らに切り出す前にも色々と考えていたのだが、事が事だけに説明に非常に困る。
「とりあえず、アランソン侯が消えたという結果を満足がいくように理解してもらうためには、皆にこの一連の出来事の全容を知ってもらう必要がある」
「一連の出来事……?」
 隊員の中から、そんな言葉がポツリと漏れる。
「――そう。 <人類監視機構> と使徒、そしてそれに対する反乱分子達との戦争。それにアランソン侯が関わっていったことから、全てははじまった」
 大まかに考えを纏めると、リジュ卿はおもむろに口を開いた。
「お前達、当然のことだがラ・ピュセル……彼女のことは知っているな?」
「なに言ってんですか隊長! 彼女のことを知らない人間なんてこの国にいやしませんよ。そんなことより若君のことを……!」
「まぁ、待てザノン。ここは抑えてリジュ卿の話を聞くんだ」
 いきり立つ若輩の隊員を諌めながら、エイモスが言った。そしてリジュ卿を一瞥する。話を続けろということだ。
 リジュ卿はそれに小さく頷いてみせると、再び語り出した。人類の進化と歴史を裏から操作する <人類監視機構> の存在。そしてラ・ピュセルがその監視機構から秘密裏に送られてきたエージェント、 <使徒> であること。アランソン侯がそのラ・ピュセルの解放のために、反監視機構側に着こうと奮闘していたこと。混迷する百年戦争の裏で繰り広げられる、天使と堕天使達の壮絶な抗争の全てを。
 ―― <ロンギヌス隊> 。アランソン侯の実母ミシェルが、戦場に出るまでに成長した彼の身を案じて結成した精鋭守護部隊である。特筆されるべきは、やはりこの四十の騎士達が心から主であるアランソン侯を慕っていることだろう。ミシェルの命如何によらず、彼らはその命をなげうって候の身を守ってきた。確かに最初は守護部隊の隊員として、ボディーガードとしての責務からであったかもしれない。だがその若き主の背を追ううち、その事実は確実に変わっていったのだ。今ではロンギヌスはアランソン侯の下に集うただの家族だ。
 彼らにとってジャン・ダランソン二世とは主であると共に、歳の離れた弟であり、息子であり、そして戦友であった。だからこそだ。リジュ卿がロンギヌスの隊員達に全てを明かす気になったのは。
「……だから、ピュセルは決断せざるを得なかった」

 連中はこの話を頭から信じることができるだろうか……。そう考えながらリジュ卿は言った。
「彼女は <次元封印> と呼ばれる使徒の奥義を使って、そう、空に穴を開けた。その穴を通ることで、アランソン侯はこの時代から消えた。実際に候がどうなったのかは、オレも知らん。だがピュセルの話を信じるなら、彼は未来で無事に生き続けていることだろう……」

 リジュ卿が口を閉ざした後、場には何とも言い難い沈黙が訪れた。水を打ったような静けさの中、エイモスはただじっとリジュ卿を見つめる。
「六〇〇年後の未来……俄かには信じられん話ですな」
「ええ」
 リジュ卿はエイモスの重々しい声に頷いた。
「オレも最初は耳を疑いましたよ。だが、恐らく真実の話なのだろうと思っています」
 見回せばどの隊員達も顔を蒼白にして、立ち尽くしている。あまりに突飛な話に、どう反応して良いのかすら分からない様子だ。
「皆も聞いてくれ」
 リジュ卿は両手を広げると、そんな隊員達を見回しながら言った。
「これが如何に許容し難い話であることは分かる。だが、これだけは確かだ。アランソン侯はもうここにはいない。探しても見つからない。そして……もうオレたちと出逢うこともない」
「そんな……」
「それじゃ、今生の別れってことですか?」
「……信じられない」
 口々に隊員達が力無く呟き出す。
「確かに今生の別れということになるだろうな。常識的に考えれば」
「なに落ち着いてるんですか、隊長!
 若君も若君だ。そんな大切なことを今までひとりで抱え込んでたなんて!」
 淡々と応えるリジュ卿に激昂した若い隊員が叫び声を上げる。
「オレたちは候を支え、護るためにいた。幾多の戦場で共に戦い、苦楽を共にしてきた!
 それなのになんで話てくれなかったんですか、若君は?
 これじゃオレたちは何のためにいたのか分からないじゃないですか!」
「まあ落ち着け、マシューズ。今、若君が消えたという確固とした事実があってさえ信じ難い話なのだぞ。もし若が我々に打ち明けてくれていたとしても、果たしてその時点で信じられたと思うか?
 あの方も悩まれたのだろう。察して差し上げろ」
 エイモスが憤る隊員を諭すようにそう言った。だがそのエイモスの瞳にも、やはり隠し切れない哀しみの色が見える。
「隊長! エイモス老!
 こうなったのも全部その人類監視機構とやらのせいなんでしょう?
 だったら報復戦だ。オレ達の手でその監視機構をぶっ潰しましょうや!」
 隊員の中からそんな声が上がった。
「無茶を言うな、ピエール。聞けば相手はたった一騎で世界を滅ぼせる相手では……」
「いや」
 エイモスの言葉を遮るようにリジュ卿は言った。
「オレもそのつもりだ。奴等には一矢報いらねばな」
「リジュ卿?」
 エイモスが信じられないと言う面持ちでリジュ卿を振返る。
「老。オレはずっと監視機構の存在が気に懸かっていました。人類が裏から操られていると言うのなら、その裏側が見てみたかった。真実を見てみたかったんですよ。だから色々調べました。監視機構に一歩でも近付くためにね」

 ロンギヌスの隊員達は、そのリジュ卿の言葉をただ沈黙をもって受け止めていた。
「だから分かる。相手が如何に強大か。人類監視機構を敵に回すというのがどういう意味か。彼らはオレたち人間からすれば、確かに神にも等しい存在なんです。だが、そんな相手にすら挑んでいったアランソン侯。オレは彼をこのまま終わらせるつもりはない。絶対に、です。――ロンギヌス隊は夢を見ていた。アランソン侯という名の夢を追いかけていた。オレはまだその夢を終わらせるつもりはないんですよ。彼の夢見る未来の姿を心に思い、胸を高鳴らせてきた。オレたちは夢を候に託したんだ。その候が未来に行ったというのならなら、オレたちはそれを追いかければ良い」
 リジュ卿は不敵に微笑むと言った。
「簡単なことですよ、エイモス老」
「し……しかし」
 エイモスとて同じだ。このロンギヌスの皆が同じなのだ。幼き頃からアランソン侯を見守り、育ててきた。やがて彼は民に慕われる領主となった。誰も皆幸せに輝ける未来を夢見る、そんな男となった。
 そして四十の戦友達も、候のその夢を共に追いかけるようになった。アランソン侯ならできる。誰も知らなかった人の可能性を引き出し、誰も辿り着けなかった大望を成せると。アランソン侯とはロンギヌス隊の夢であり、未来そのものであった。だからエイモスとてこのまま諦めきれるわけがないのだ。
「しかしも何もありはしませんぜ、老!」
 すっかり陽気に戻った隊員達の声があがる。
「そうですよ」
「若君が行けたなら、オレたちが行けないわけがない」
「閣下が先に行かれたなら、我々はそれを追えば良いだけのこと」
 口々に好き勝手なことを言い出す若い隊員達に、エイモスは苦い顔をする。
「また勝手なことばかり言いよって……」
「保身や体面は捨てましょうや。騎士たるものそんな安いものに執着していられませんよ。本当に大切なものだけ、考えましょう」
「ええぃ、簡単に言ってくれるな、ルドルフ!」
 若輩にここまで賢しいことを言われて黙っているのも、もはや限界。
「誰に説いておるか、この小童めが。このエイモス、アランソン侯に魂を賭けた男ぞ。それに若のことは亡き先代とも約束しておる。ミシェル様ともな。お前達に言われずとて、ひとりでも若君を追いかける腹積もりであったわ!」
「本当ですか、老?」
「なんか気落ちしているように見えたよな?」
「おお。この世の終わりのような」
 エイモスを茶化しては豪快な笑い声を上げる隊員達。
「ぬぅ、何を言うか! この……」
 エイモスは真っ赤になって怒鳴り返すが、慌てて口が上手く回らない。その様に隊員達は腹を抱えてまた笑う。
 ロンギヌスは、もう立ち直っていた。一番大切なものを、存在理由を見失ったはずだと言うのに……。それでも前向きに、決して諦めない。それは強がりではなく、意識してポジティブな思考を心がけているわけでもなく。ただ彼らの自然な姿勢であり、強さなのであった。常人であればとうに絶望してしまいそうな困難でも、互いに肩を叩き合って陽気に笑い飛ばす。
 これが、アランソン侯のロンギヌス隊なのだ。リジュ卿は胸の内で大きく頷きながら、朗らかに笑う隊員達を眺めていた。
「よし。まあ、その辺にして……皆、聴いてくれ」
 しばらくして、リジュ卿は幾度か手を叩いて隊員達の注意を促すと言った。
「皆の意志も固まったところで何だが、時を越えると言っても決して易しい話ではない。どうやってもオレたちロンギヌスの力で時の扉を開くのは無理だ。そこで使徒の力が必要となってくる。オレはラ・ピュセル、リッシュモン元帥、それにDEATH=REBIRTH……
 彼らに協力を求め、なんとか用意を整える。
 だから皆は、今は目の前にある戦いに集中してくれ。候がいなくとも、この戦争から降りるわけにはいかん。何せ連合に王家が破れれば、このアランソンも我々の手から離れるからな。勝利王計画を成功させ、敵勢力下にある都市を解放させる。それでこの戦争は終わる。皆でこの国を、候の母国を守るんだ。候が帰っていた時、国が無くなっていたなどとなれば申し訳がたたんだろう?」
「至極もっともですな。無論、このエイモスも賛同いたします。とりあえず今はこの百年戦争に終止符を打つことだけを念頭に置くこととしよう。よいな、皆!」
「オオッ!」
 熱気と共に四十の声が重なる。
 こうして新たにロンギヌスの男達が、この大いなる運命の河流に身を投じることとなった。そしてそれはまた、この戦争に大きな展開をもたらすのである。



SESSION・85
 『勝利王計画、発動』



 後の歴史書の記すところによると、シャルル王太子が <勝利王計画> の指揮を任せたのは僕、アランソン侯であったという。そしてその僕は、ジャルジョーに向けて率いる自分の部隊を2000と見積もっていたらしい。ウソばっかりだ。僕はこの時、中世にはいなかった。ピュセルの次元封印で未来に飛ばされていたからだ。……と言うことは、これは人類監視機構が歴史の辻褄を合わせるために改変した事実か、或いはリジュ卿あたりの裏工作の結果ということになるだろう。
 さて、この勝利王計画だけど……
 まずはこれについて少し説明しておいた方が良いね。カヲル君はともかく、アスカはほとんど何も知らないだろうから。
 実はこの計画を発案したのは、ラ・ピュセルその人なんだ。彼女がこれを提言する時は、まだ彼女の側に実際いたからね。これは確実だよ。オルレアン開放に気を良くした宮廷は、フランス北部のノルマンディに向けて進軍しようと考えていた。要するに、連合の支配下に置かれている大陸の半分を取り返すための戦争を仕掛けると言うことだ。
 だけどピュセルはこれに同調しなかった。彼女はこう主張したんだ。『フランス王国の正統なる王位継承者の戴冠は、過去例外なく <ランス> の街で行われてきた。まずはそのランスを目指し、そこでシャルル王太子を戴冠させるべきだ。そこで戴冠式をすませれば、僭称などと言われるまでも無く、正統なるフランス国王を名乗り示すことができる。まずはそれを実現させ、連合側の大義を挫くのが良策だ』……と。
 これは当時の宮廷には及びも着かない思考だった。柔軟すぎたと言っても良いかもしれない。でも結局、このピュセルの提案は玄人受けした。宮廷はあまり反応しなかったが、戦場を知っている将軍達がその効果性を認めたんだ。
 このとき認識しておかなくちゃならないのが、当時すべての根底にはキリスト教の思想が流れていたことだよ。戴冠式というのは要するに、教会が神様に変わって国を治める代理人として国王を認める儀式なんだ。この聖なる儀式という考え方が、大きくものをいう。神の名にのっとって行われる儀式であるならば、国王となるべき正統なる資格を持たない者が強行しようとすれば、それは必ずや神の怒りを買い失敗するだろう。つまり当時はそう考えられていたんだね。
 それは裏を返せば戴冠式さえ無事に済ませてしまえば、後は誰がなんと言おうと神に認められた正当なる国王が誕生させることができると言うことだ。保証人は神様なんだ。人間が文句を言うことなんてできなくなるよね。だから、ランスでの戴冠は効果的なんだとラ・ピュセルは言ったんだよ。
 シャルルはこれを受け容れた。ランスは当時連合の支配下にあったから、シャルルは国王軍をランス解放に進軍させることにしたんだよ。ただ真っ直ぐランスを目指したわけではない。王太子は慎重を通り越して、臆病な人だった。彼はランス進軍に際して、より確実な安全性を求めたんだ。
 つまり、ロワール河流域とその周辺に点在する連合の要塞を撃破することによる進軍路の確保。それに際する作戦を、大層に <勝利王計画> なんて呼んだんだ。ランスに向かうというこちらの動きは、既に連合側にも察知されているはず。ならばそんな悠長なことは言わず、一気にランスを目指さねば事が水泡に帰す可能性もある。そう考えたラ・ピュセルは乗り気じゃなかったけど、とりあえずこの作戦は開始された。
 それが、一四二九年六月一一日。僕がラ・ピュセルと別たれてから、二週間後のことだった。
 ――さて、話を歴史書の記す <勝利王計画> に戻そう。この偽りの記述によれば、総指揮を執る僕とピュセル配下の兵団はジャルジョーへ出立。そのジャルジョー付近で陣を張り、そこで宿営するつもりだったらしい。この一連の攻防戦に関しては、なんと僕自身の証言が記録に残っている。どういうことだろうか。改変するにしても、いない人間の証言を無理矢理残すなんてなんとも強引な話だよね。
 その全く覚えのないでっち上げの証言によれば、僕たちフランス軍が遣って来たことに気付いたイングランドの軍は迎え撃って来たそうだ。序盤はイングランド側が優勢だったらしいけど、ピュセルが激昂すると国王軍側が盛り返したらしい。僕はこんな言葉も残しているという。『ラ・ピュセルが主張するように、私もこの戦闘には神の加護が実際あったものと思う。この晩、我々は歩哨を立てなかった。もし敵側が街から出てきて夜襲を仕掛けてきたなら、我々は非常な危険に直面することとなっていただろう』

 翌日になると、ピュセルは僕の天幕を訪れた。そこで彼女は僕、アランソン侯に向けてこう言ったとある。『愛しのアランソン侯、攻撃に移りましょう』
 時期尚早ように思えた僕が曖昧な返事をかえすと、彼女は更にこう言ったらしい。『迷いをお捨てになって、まず行動を』
 それでも渋る僕に、彼女はこう嘆いた。『愛しの候、恐れておられるのですか?
 奥方様に貴方を無事に、いえ、今以上に元気なお姿で御返しするとお約束したのをお忘れなのかしら』

 もはや笑うしかない。僕は適齢期をとうに過ぎても結婚していなかったから、確かに周囲から色々言われてたよ。でも歴史書の語るところによれば、僕には <ジャンヌ> なる妻がいたらしい!
 これは凄い。無茶苦茶だ。
 結局、この日ジャルジョーは陥落した。僕らはこの街の守備隊長であるイギリスのサフォーク伯爵を捕虜に捕ると、勝ち名乗りを上げたらしい。それから休む間も無く、僕らは次の街の解放に向かった。マンの街である。六月一五日には、この <マン> を奪還。翌一六日には、カヲル君……リッシュモン元帥が率いる援軍と合流。いきなりボージャンシーという町を奪還している。
 恐ろしいまでの勢いだよね?
 考えても見て欲しい。六月一一日から一六日までのたった六日間で、ピュセルは <シャルジョー> <マン> <ボージャンシー> 。これら三つの街を奪還しているんだ。この時の国王軍の勢いと言えば、ほとんどバケモノだよ。本当に。
 だけど驚くべきはまだまだこれからだ。翌日の六月一七日なんだけど、この日歴史的な勝利をラ・ピュセルは手にすることになる。実は僕の <ゴースト> が意識を取り戻したのもこの日なんだ。憶えてる?
 僕のゴーストの話。次元封印に囚われる前、咄嗟に放った僕の意識の塊のことだよ。目に見えず触ることもできないまさしく幽霊みたいな存在だけど、僕の意志で自由に移動し、色々なものを見聞きできるのが特徴なんだ。だから僕は自分の目で、以後のラ・ピュセルを見つめることができた。
 このゴーストは非常に不安定な存在で、定期的に存在が希薄になり、意識が途切れることがある。その度に僕は眠りに入って、存在の安定化を図らなければならなかった。
 そうした眠りから覚め存在が安定して活動できるようになったのが、この六月一七日のことだった。目覚めた場所はラ・ピュセルが次元封印を行使した、故郷のアランソン。僕は自分の城の庭を見下ろしていた。空にふわふわ浮いている感じだった。とても不思議だったよ。
 最初は戸惑ったけど、ピュセルの存在を察知して僕はすぐにその元へ飛んだ。
 彼女はその日戦場にいた。
 オルレアン開放に並び、後にピュセルの最大戦功として記憶されることになる、パテの会戦である。


to be continued...


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