御然らばに御座います



CHAPTER XXIII
「時空を越える歌声」
SESSION・76 『私もひとだから』
SESSION・77 『センチメンタル・ジャーニー』
SESSION・78 『残された謎』
SESSION・79 『時空を越える歌声』
SESSION・80 『銀河に響くセレナーデ』



SESSION・76
『私もひとだから』


 閃光が弾けるような音と共に、月夜に浮かぶ闇が収束していく。
<次元門> 。監視機構使徒たちは、それをそう呼んでいた。
 遥かなる時空を繋ぐ、ゲート。彼女の絆の証を飲み込み、消えて行く泡沫の闇。空間にポッカリと浮かぶその闇の大穴は、やがて何の前触れも無く消え去った。そしてそこには、ただ少女だけが残された。
 滴が零れる。堪えていた、涙。教えてもらった、感情。全てを置去りにして、彼は消えた。
 ラ・ピュセルは、静かに月を見上げた。
 何を思えばいいのか。何を感じればいいのか。何を以って、この虚しさと哀しさを表現していいのか。何も分からなかった。
 少し長めの蒼銀の前髪が、夜風に揺れる。透き通った幾つもの涙の粒が、止めど無く零れ落ちていった。
 鳴咽が漏れる。何もかもが消えてしまった、その場所はあまりにも寂しかった。華やかなカーニバルが終わった後のように、ちぎれた温もりだけが虚しく漂う。心が無くなってしまったような、半身を失ったような……。躰を駆け巡る寒さと、空虚に耐え切れず、ラ・ピュセルは己の肩をぎゅっと抱きしめながらその場に崩れた。

 ――でも、いい。
 彼女は無理矢理にでも思う。これで彼の命は救われる。死に別れるより、次元に別たれる方が良い。あの人は、此処ではない何処かで、今ではない何時かで、新たな生を送るだろう。
 全てをゼロから。辛いことは全て忘れて。あらゆる呪縛から解き放たれて、彼は幸せに生きるだろう。そのために、彼の記憶をすべて消去した。そのために、彼を次元の向こう側に送り出した。そのために、私はあの人を失った。
 二度と逢えないことは、分かっていた。彼にはもう、ラ・ピュセルを名乗った少女の記憶はない。
 だから、彼とはもう永遠に逢えない。ふたりの日々は、終わったのだ。
 それでも願わずにはいられなかった。いつかまた彼と出会えることを。彼に、自分を迎えに来て欲しいと。それはあり得ないことだと知りながら願った。
 希望の糸などというものがあるとすれば、それは次元のゲートを潜った侯爵に繋がっていた。だが同時に己にとっては希望の糸であっても、彼の新たな人生にとって、それはただの重荷にしからならいことは分かっていた。
 遥か時空の向こう側に辿り着いたアランソン侯が、もし自分のことを覚えていたとしたら。おそらく彼はそれをいつまでも罪として背負い込み、自分を責め続けるだろう。そうなっては、彼が自分だけ幸せな人生を送ろうと考える事は無かろう。いや、逆にピュセルを救えなかったという罪に対して己に罰を与えようとするはずだ。その結果、彼は己の幸福を自ら否定し、遠避けようとするに違いなかった。
 だから、アランソン侯の中から自分に関する記憶を全て消去しなければならなかった。ピュセルという名の少女に関する、一切の情報がその対象だ。思い出、絆。単に記憶として片付けられないものも例外ではない。だから消した。それが残された希望の糸を、自ら断切ることを意味したとしても。

「それが、禁呪 <次元封印> を使った理由か」
 不意に、背後から声が聞こえてきた。
 流れる涙を拭うことも無く、ラ・ピュセルはその声に振返る。そこには、見知らぬ青年が佇んでいた。
 なによりピュセルを驚かせたのはその少年の容姿であった。月光の頼りない明かりの下でもはっきりと分かる。彼は自身と同じ蒼銀の髪、そして真紅の瞳を持っていたのである。
「あなた……誰」
 ラ・ピュセルの声はか細く、まだいささか涙に震えていたが、それでも確実に青年の元へ届いた。
「僕の名は、リッシュモン伯アルテュール。王太子軍大元帥、ブルターニュはモンフォール家のものさ」
 モンフォール家。それは一介の羊飼いにも知られた高位貴族だった。王室に忠誠を誓ってはいるが、自身も王国の西部に極めて広大な領地を有する――いわばブルターニュ公国の大公ともいうべき一族である。
 そしてもちろん、リッシュモン元帥の名は、アランソン候をはじめ側近の口から伝え聞いていた。現ブルターニュ公の弟君。シャルル王太子との確執から宮廷より遠ざけられた男。確かその両者の確執が生まれた背後には、侍従長ラ・トレモイユの暗躍があったと聞く。
 だが皮肉なことに、王太子軍の中で唯一にして最も優れた軍師にして兵士が彼である。
 リッシュモン大元帥しか王国を救える者はないと囁く声も市井には少なくない。それが、ピュセルが僅かに記憶していた、リッシュモン元帥に対する評価であった。

「だが、リッシュモンの姿は欺瞞。君がこの戦争にもたらす影響も含め、王国の監視観察を主な任務として活動していた <監視機構> の使徒。それが僕の本性さ」
 その言葉に、ラ・ピュセルは初めてそれらしい反応を見せた。
「……あなた、使徒なの」
「自由天使タブリス。少し前まではそう呼ばれていたね。もっとも、今ではそうした身の上からは文字通り自由の身さ。トレモイユを焚きつけて、僕を宮廷から追いやってもらったからね。おかげで表舞台からは失脚という形で身を引いて、しかしこれまで以上に恣意的に状況へ介入できる」
 ラ・ピュセルからすれば、意味不明な微笑みを口元に湛えて、ブリスは言った。
「あの人はもういないわ。人類監視機構も神も……誰も、あの人には手を出せない」
「そうだね」
 タブリスは目を閉じて、フッと笑うとまた真紅の瞳を見せて続けた。
「だが、もとより僕には彼を抹殺するつもりはない。どちらかといえば、僕も既に監視機構に狙われる身でね。抹殺指令など、下りているかもしれないね」
 タブリスはクスクスと面白そうに笑った。
 ピュセルは、探るような視線を彼に向ける。
「どちらにしても、僕は君にとってもアランソン侯にとっても敵じゃない。いや、僕だけじゃないさ。監視機構の呪縛から逃れ、己の自由を勝ち取るために神に挑む天使は他にもいる。君と志を同じくする、ある意味君の仲間は、ラ・ピュセル。君が思っているより多いんだよ」
「なか、ま……」
 今、人々が自分についてくるのは、国家を救うという大義と理想、そして己の祖国を守るという愛国心にも似た感情からだろう。そんな思いがピュセルにはある。
 だが、今タブリスは言う。それとは違う、彼女の個人的な戦友が存在するというのだ。己の自由を監視機構から勝ち取るために、戦う天使たち。そこまで考えたところでふと思い至った。
「死神――」
 戦場でそう呼ばれる女性。ピュセルは彼女の話を聞く機会に幾度か恵まれた。つい最近、オルレアン解放後のことだ。その席で、ラ・ピュセルは死神もまた、己と同じ天の使者―― <使徒> であることを、知った。

「そう、リリア・シグルドリーヴァとその伴侶クレス・シグルドリーヴァがそうだ。そして、僕もね」
 確かに、リリア・シグルドリーヴァから助力を請うような言葉をかけられたことはある。そしてタブリスが彼らの同志である、というようなことも聞いた気がする。あの時は自分のことで精一杯でそこまで気が回らなかったが、アランソン侯が消えてしまった今、彼らの存在は大きい。
「君の覚悟は本物だった。まさか、アランソン侯を救うためだけに、次元封印を使い自らの想い人を異次元に送り込むなど、普通の使徒なら逆立ちしたって思い浮かばない」
 そうだ。使徒や監視機構には分かるまい……
 この気持ち。この想いを理解することなど、敵うまい。
 大局、大局と言ってそれを構成する小さな存在たちのことなど、全く省みることもせずに。想いも心も真っ向から否定するような輩に、アランソン侯が教えてくれたこと。大事なこと。なにひとつ解せようものか。
 これまで、ラ・ピュセルにとって監視機構は畏怖の対象でしかなかった。だが今、その存在に対する感情は、怒りに取って代わろうとしている。
 全てを奪った元凶。全ての悲劇の源。人類監視機構、許すまじ。
 だが、それが監視機構への報復、復讐へと繋がるほど話は簡単ではない。ピュセルがアランソン侯という存在を失ったことによる、痛み――そして、哀しみ。それらは、監視機構への怒りと比較して、あまりにも大きすぎた。
 生きるための積極的な意志、そして全てに対する気力。それらを奪い去るには、充分な衝撃であったからだ。
 だが、たったひとつの言葉で、人は蘇る。

「――アランソン侯は、未来にいる」
 自由天使のその言葉がピュセルを動かした。
 赤い瞳を湛えた彼女の目が、大きく見開かれる。
「君の <次元封印> 先程の技で時空を超えた彼は、二〇〇一年六月六日に人間として転生した」
「あの人が」
「間違いない。僕の分身 <渚カヲル> が確認した。彼は未来に生まれ変わったのさ」
 優しく微笑んで、タブリスは続ける。
「生まれ変わった彼の名は、碇シンジ。聞き覚えがあるだろう? 今、彼は二〇一五年の世界で一四歳の少年として普通に生活している。君の望み通りにね」
 ――碇シンジ。
 聞き覚えならありすぎるほどある。間違い無かった。未来を予感させる夢の中で見た、もうひとりのアランソン侯。全ての哀しみから開放された、幸福な彼の姿。
 自らの希望も、願いも、絆も、愛も、全てを投げ捨ててまで願った、彼の命。彼の未来。それは守られたのだ。守られたのだった。
 全身に言い知れぬ想いと震えが駆け巡った。たったひとつ願いが叶ったのだ。そのために全てを失ったけど、一番大切な人は全てを手に入れた。

「だが、喜びすぎてはいけない。君の予測を超える出来事がひとつあったんだ」
 タブリスがしばらくの沈黙の後そう言った。
「君は過去の辛い記憶、監視機構との戦争、そして君自身に背負う罪、それら全てからアランソン侯を解放するために、あえて彼の記憶を完全に消去して転生させるという手段を選んだ。だが――まだ決まったわけではない。確証もない。しかし、あらゆる状況がそれを示している。そして、僕自身も今ではそれを確信している」
 ラ・ピュセルの中に、ある予感が生まれた。
 同時に、まさかという思いが過ぎっていく。
「彼は、君をを覚えている」
 ピュセルは静かに目を閉じたまま、その言葉を受け止めていた。
 それは、淡い期待だった。矛盾した願いだった。。自ら彼の全ての記憶を消しておきながら、それでも彼に縋る勝手な思いだった。
 しかしそれさえも、彼は叶えようとしてくれている。
 また、どうしようもなくあたたかな滴が溢れ出てきた。ぽろぽろと月の光を浴びて雫が舞う。
「君でなくとも俄かには信じがたいことだよ。封印ではなく完全に消去されたはずの記憶を、 なんの力もないただの人間風情が自力で繋ぎ止めていただなんて」
 彼はいつもそうだ。人々が無くしてしまった想い。踏みにじられた願い。消えかけた希望。それらを、彼の力は何度も蘇らせる。
 彼は奇跡の実在を教えてくれる。
「だが、仮に彼が君を忘れずに覚えていたとしても、再会できる可能性は極めて低い。未だかつて、人類が時間を溯ったという事例はないんだ」

 それでもいいと思う。
 充分だと思う。すでに有り余るほどのものを与えられたのだと思う。
 だから、そのままのことを口にした。微笑みながら言うことができた。
「掴めないもので構わない。求め合えるなら」
 時に別たれても、なお求められているという事実。それを感じることが出来ることだけで、いい。
 それだけで、まだがんばれる。
 だが、タブリスにそれはいささかの驚きであるようだった。
「君は、まるで人間のようなことを言えるのだね」
 当たり前のことだと思った。
「私は化け物。白い神と赤い目した悪魔の子。声を聞く魔女。それでも、彼は私をひとだと言ってくれた。でも、化け物でも良い。その力で、彼を守れたから。化け物だから守れたなら、私はそれだけでもいい」
 アランソン侯はいつも希望を支えてくれる。いつも、今度も自分の無責任な期待に応えてくれた。もう笑えることなどないと思っていたのに、また微笑ませてくれた。
 心を持つもの、想いを抱けるもの。たとえ違う器に宿ってはいても、それらはあまねく <ひと> なのだ。心と想いがその境界線なのだ。
 そんな、彼の言葉を思い出す。
 化け物で良いという自らの言葉に偽りはない。
 それでも、求め合う者をそう呼ぶというのなら、信じてもいいのかもしれない。
「――私も、ひとだから」



SESSION・77
『センチメンタル・ジャーニー』


 翌日、碇シンジ、渚カヲル、惣流アスカそれにガルムの一行は、ラ・ピュセルの故郷 <ドン・レミの村> を後にした。彼女の生家の直ぐ隣に構えられた、「ラ・ピュセル」の名をそのまま看板に掲げた小さな宿をチェックアウトすると、一路北へ。バスとタクシー、徒歩にて <ヴォークルール> へ向かう。
 六〇〇年前ラ・ピュセルが歩んだ道を辿るという旅は、まだはじまったばかりだ。
 シンジの……アランソン侯の胸の内は複雑で、現代人の <ラ・ピュセル> に対する思い違いなど思うところは多々あったが、それでも歩みを止めるつもりはなかった。それに、あまり時間を無駄に費やすことも出来ない。監視機構使徒が一時的に地球上から引き上げたとは言え、 <人類監視機構> そのものが滅びたわけではない。
 サタナエルと監視機構は今、月面にて量産型上位J.A.のオートメーション・プラントの争奪戦を繰り広げているはずだ。これの決着が着き次第、全ては急速に動き出すだろう。降って湧いたような束の間の休息には、なんの約束もないわけだ。そんなにのんびりと、このセンチメンタル・ジャーニーに浸っている余裕などありはしないのである。
 そんな一行が、ドン・レミの次に目指した街 <ヴォークルール> 。神の声を聞き、立ち上がったラ・ピュセルが王太子の逗留する <シノン> へ向かうため、まず立ち寄った場所だ。当時のヴォークルールの守備隊長・ローベル・ボードリクールは、最初現れたラ・ピュセルをただちに叩き返せと門番に命令したらしい。これは、ラ・ピュセル自ら語ってくれたので、確かな真実だ。アランソン侯の知る彼女は、決してウソはつかない。

 ラ・ピュセルの父親は、村の長にも等しい存在で発言力もそこそこあったというが、それはあくまで <ドン・レミの村> での話だ。結局、彼女はただの一般人にしかすぎなかった。いくら神の声を聞いたと主張したところで、王太子にいきなり謁見を許されるはずもない。実際、「神の使いだ」「救世主だ」と自ら名乗る人間は当時多かった。そんな狂人が出現するほど、フランス王国というのは荒廃していたのだ。だから、ラ・ピュセルはこの守備隊長ボードリクールに面会を求め、王太子への紹介状を認(したた)めるように要請したわけだ。
 結局、ラ・ピュセルは9ヶ月待たされた。その間彼女のウワサはヴォークルール中に広がり、ボードリクールは彼女に面会せざるを得なくなったわけだ。そして、ようやくボードリクールに会えた彼女は、彼の前である預言をした。神の声が、こう告げたというのだ。進行していた作戦は失敗に終わり、王太子側はさらなる窮地に追い込まれている。もはや、神の使徒であるラ・ピュセルにしか王国は救えないであろうと。
 彼女の言う『作戦の失敗』にあたる出来事は、実際にあった。それは、あの <ラ・イール> 率いる部隊が、連合の補給部隊を襲うという作戦であったのだが……
 ラ・ピュセルの言う通り、これは結果的には失敗に終わっていたのである。ボードリクールでさえ、この情報を急使によって、つい先程耳にしたばかりであった。だから……後に「鯖の日」と呼ばれるこの敗北を、ラ・ピュセルが知っているのはおかしかった。物理的に不可能だったのだ。

 彼女の言葉は真実なのか。それとも、ラ・イールの敗北と偶然に一致しただけなのか。ボードリクールは迷ったに違いない。結局、彼はラ・ピュセルを認めた。
 武人ボードリクールは、一度認めた人間の世話はとことん見る男だったらしい。ラ・ピュセルに護衛を六人用意し、彼女の要望通り王太子にラ・ピュセルに対する謁見を許すよう申請書を送った。さらには彼女がいよいよ王太子シャルルのいる <シノン> に出発しようという時には、剣を送っているしわざわざ見送りにも出ている。
 ボードリクールにとって、彼女の存在は謎そのものであっただろう。結局、ラ・ピュセルの未来を予見する言葉は全て的中したことになる。宣言通りオルレアンを解放し、王太子をランスへ連れていき戴冠させ、シャルル勝利王のフランス王国を取り戻した。
 そして彼女は自分の死すらも、預言した。後一年生きられない……。いつの日か、そう彼女が洩らしていたのを小姓が聞きとめていたのだ。その言葉通り、彼女は裏切りによって連合に捕らえられ、処刑された。
 彼女は本当に神の使いだったのか……。まことの聖女であったのか。ボードリクール、いやあの時代に生きた全ての人々、そして現代に至るまでの歴史学者たちを悩ませてきた永遠の謎。そして神秘性。それが、今の伝説の英雄にして聖処女 <ラ・ピュセル・ド・オルレアン> などという馬鹿げた虚像を作り上げたのだろう。
 シンジは、ラ・ピュセルが何度も駆けていったであろう、ヴォークルールの要塞へつづく坂道を歩きながらそんなことを考えた。

 一四二九年二月二二日。ボードリクールの協力を得たラ・ピュセルは、遂にヴォークルールからシノンへと続く <フランス門> というゲートをくぐり、戦場へと旅立った。そして……
 彼女は二度と、その門を潜ることは無かった。
 今は原形を留めないそのゲートを静かに……哀しく潜り抜けると、シンジたち一行はヴォークルールを後にした。
 
 彼らの次の目的地は、 <シノン> であった。ただ、ラ・ピュセルのように馬と徒歩でシノンまで向かう時間的余裕はない。彼女は盗賊や野盗に遭遇せぬよう、日が落ちてから闇に溶け込むように旅したのだ。途中、修道院に宿を求め、時には荒れ果て捨てられた空き家に身を潜ませながら。長閑で小さな村で育った少女には、この国内をほぼ横断するという長い旅路はどれほど過酷なものだっただろう。
 シンジ達はその行程を、前世紀フランスが世界に誇った特急列車 <TGV> の後継型リニアで辿った。最高時速五〇〇キロを誇るこのリニアTGVは、ラ・ピュセルが一一日間かけて歩んだ距離を数時間で駆け抜けるのだ。観光シーズンならば、乗客も多いのだろうが今は九月中旬。この時期においては、そう込み合うということも無かった。
 一行は四人が二人ずつ向き合って座れる自由席を確保すると、遅い昼食を摂った。

「次は、いよいよシノンだね。シンジ君?」
 何時の間にか食事を終えたカヲルが、向かいに座るシンジに言った。ちなみにシンジの隣、窓際にはアスカが座っている。ガルムはといえば、シンジの膝の上で眠っていた。
「うん」
 シンジは、あれらもない格好で、だらしなく涎なんかを垂らしながら眠りこけているガルムを支えながら言った。
「なつかしいな、シノンって響き」
「そうだねぇ」
 目を細めて言うシンジに、カヲルは頷いた。
「それにしても、シンジ」
 窓の外に流れる景色を見詰めていたアスカが、振り向いて言った。
「なに?」
「前々から訊こうと思ってたんだけど、あの、でっかい荷物はなによ?」
 スッとアスカの整った指先が指したのは、荷台を占領している大きなヒョウタン型をした物体。紐で括りつけておかないと、荷台に収まりきれないほどの大きさだ。
「チェロだよ」
「ちぇろお? あんた、そんな大層なもの弾けるの?」
 事も無げに言うシンジに、アスカは驚いた様子で言った。
「シンジ君じゃないさ。美男侯ジャン・ダランソンの技術だよ。そうだよね、シンジ君?」
「うん」
「ま、いいけどね」
 アスカは肩を竦めてそう言った。
「それより、そろそろいいんじゃないの。食事を終えたらって話だったし。グズグスしてたら、シノンに着いちゃうわよ?」
 アスカの指摘を受けたシンジは、時計で時間を確認すると頷いた。
「……そうだね。約束だからね」

 シンジは表情を引き締めると、一呼吸してからおもむろに語りはじめた。
「カヲル君は勿論、アスカも知っていると思うけど……。僕は夏休みがはじまると、直ぐにマナと一緒に京都へ飛んだ。彼女のおじいさんに会うためにね」
 シンジがカヲルとアスカに約束していたというのは、まだ <ヘル> の口からも語られていなかったアランソン侯の過去の続きの話であった。彼らをもうすっかり巻き込んでしまったことを認めた上で、シンジはその話をすることを承知したのである。
「そこで、僕の意識は六〇〇年前に溯って、ピュセルとの記憶を取り戻した。だけど術が解けた後、マナと理事長は直ぐに目覚めたけれど、僕はかなりの時間眠り続けていた」
「そうよ。あんた、私が限りなく優しく、まさしく女神の慈愛を以って起こしてやったって言うのに、それを無視してくれたのよね」
 アスカがギロリとシンジを睨み付ける。すくみ上がるシンジを助けたのは、カヲルの一言だった。
「まあまあ、ここは抑えて。今は、シンジ君の話を聞こう」
「……フン」
「えっと、じゃあ、続きをはなすね」
 シンジはアスカの顔色を窺いながら、続けた。
「眠っている間、僕は過去の続きを見ていたんだ。ラ・ピュセルが <次元封印> を使って、僕を時空の彼方へと送り込んだ後の世界を」
「――フム」カヲルは腕を組んだまま言った。「しかし、普通では考えられないことだ。君は一体どうやって」

「 <残存思念体> とでも言えばいいのかな。僕はあの時、彼女の元を離れたくなかった。だけど、次元の穴に放り込まれたことで、彼女から無理にでも引き離された。そこで、僕は無意識に意識の1部を分割して、思念体……想いの塊で出来た <幽霊> のような存在を作り出したんだ。それを僕は咄嗟に彼女の元に送り込んだ」
「僕の <ファクチスシステム> に近い存在かな?」
 カヲルの言葉に、シンジは小さく頷いた。
「確かにそう言えばイメージは掴み易いかもしれない。オリジナルのコピーに近い存在……だけど、僕が作り出した意識の塊は、結像できないから目に見えないし、触れることも出来ないんだ」
「なんであんたにそんなもんが作れるのよ。 <ヘル> と同化する前なんだから、あんたはまだ純粋な人間だったんでしょ?」
 アスカは眉を顰めながら言った。シンジと付き合っていると、超常的な出来事を前提として話を進めてしまいがちになる。既存の常識的な概念は、全くと言っていいほど通用しないのだ。
「それは、僕にも分からない」
 シンジは小さく首を左右しながら言った。
「もしかしたら、あまりに純度の高いルシュフェルのコア――君の中にあるそのコアの力が可能にさせたのかもしれないね」
「うん。その可能性は否定できないと思う。使徒の力の源は、コアだ。細かく分割され過ぎたから、それだけでは機能しなくなったけど、コアはコアだから僕に使徒の能力の一端が使えたとしてもおかしくないよね」
「事実、アランソン侯はATフィールドを <見る> ことができた」
「うん」
 カヲルの付け足すような指摘に、シンジは同調した。

「まぁ、それはいいとして。その後どうなったのよ?」
 アスカは話の先が気になって仕方がないらしい。
「僕の本来の意識から切り離された、意識の一部。仮にこれを <ゴースト> と呼ぶことにすると……。このゴーストは、あまりにも儚い存在だった。だから、しばらく状態が落ち着くのに時間が掛かったんだ」
 シンジは夢の世界の住人と化している、ガルムの艶やかな黒髪を撫でながら続ける。
「ゴーストの状態が安定して、意識が覚醒した時には既にオペラシオン・ヴィクトリューははじまっていた。ラ・ピュセル自らが発案した、王太子の戴冠計画。それが、勝利王計画 <オペラシオン・ヴィクトリュー> だった。そして、本来僕が戦死するはずであった、運命の作戦でもあった」



SESSION・78
『残された謎』


 フランスを南北に二分する国内最大の河川、ロワール大河。その支流であるヴィエンヌ川、そして肥沃なヴェロン地方の美しい森に囲まれた街。シノン。
 南側からこの街に近付くと、ヴィエンヌ湖畔の小さな丘にそびえる城塞と、その下に広がる城下町が生み出す眺めに目を奪われることだろう。この新世紀においても未だ中世都市の魅力を失っておらず、シャルル勝利王がまだ <王太子> と呼ばれていた頃逗留していた城塞も廃虚として残されているのだ。それ以外にも街の広場には、馬に跨り疾走するラ・ピュセルを模った像。そして彼女の名そのものが付けられた、通りもある。
 そのシノンにて六〇〇年前のあの時のように、静かな月の光の下、アランソン候とリッシュモン大元帥が出逢っていた。
 そう。アランソン侯は長い時を経て思い出の場所に帰って来たのだ。
  「今夜は、良い夜だねアランソン侯」
 カヲルの言う通り、今宵の月はどこか、あたたかさを感じるほど柔かで優しかった。まるで六〇〇年前の、あの時のように。
「そうだね、リッシュモン卿」
 そう言うアランソン侯の微笑みは、彼らが初めて出会ったあの頃と少しも変わっていなかった。

 一行がシノンに到着したのは日が落ちかけたころだった。宿を取り夜を待つと、シンジはシノン城塞の中庭に向かったのである。カヲルもそれに同伴した。アスカとガルムは、既に眠っていて彼らが起き出したことに気付いていないだろう。
 彼らは並んで東西に横長く広がるシノン城塞内に踏み込むと、その廃虚に漂う思い出にしばらく浸った。六〇〇年ぶりのシノンは、時の流れを感じさせはするものの当時の雰囲気を色濃く残していた。
 今ではラ・ピュセルの博物館になっている、入り口の時計塔。そこから広がる、アランソン侯とラ・ピュセルが初めて出会った中庭。その右手には中央城塞が。そして左手には王室居住塔がまだ残されていた。
 かつてこの王室居住塔で、ラ・ピュセルはシャルル王太子と面会したのだ。今も、その謁見が行われた部屋を訪れることができる。もっともその大広間の大部分は瓦礫と化し、暖炉くらいしか残ってはいなかったが。でも、確かにピュセルはここに来たのだ。
 庭園の西側の空濠にかかる第二の橋を渡ると、そのラ・ピュセルが寝泊まりしていた <ル・クードレ砦> がまだ残っている。現在は屋根が崩れ落ち青天井となってはいるが、まだ廃虚として原形を留めていた。
「打ち壊されてしまった部分もあるが」
 カヲルそこで言葉を切って、あたりを改めて見渡した。シンジはその言葉に頷くと、言葉を添える。
「でも、何もかもが懐かしい」
 目を閉じると、アランソン候は続けた。
「ここにはまだ、彼女の波動が残っている」
「ここは、君たちの思い出の場所だからね」
 リッシュモン伯が微笑みながら言う。

 そう、六〇〇年の過去、ラ・ピュセルという名の少女とアランソン侯というひとりの騎士は、まさにこの場所で出逢った。
「今でも忘れてないよ。彼女とはじめて巡り会った時のこと。はっきりと覚えてる」
 その気持ちが痛いほど理解できるリッシュモン卿は、ただその横顔を見詰めていた。
「……ところで、候」
 しばらくしてかけられた元帥の言葉は、古いフランス語だった。そう。今この瞬間だけは、お互い六〇〇年前の時の流れに取り残してきた、中世の騎士同士として向き合っているのだ。
「なにか、卿」
 シンジも当時の言葉で応える。
「僕は自由天使タブリスだ。おそらくこの世の誰よりも君とピュセルに関することは把握しているはずだ」
 アランソン候は月を見上げたまま、静かにリッシュモン卿の言葉に耳を傾けていた。
「だから、君たちに関する限りほとんど全てと言っていいほどのことを知っている。だけと、そんな僕にもひとつだけ分からないことがあるんだ」
「それは?」
「彼女の名前さ」リッシュモン卿はゆっくりと言った。「君は、彼女に名前を与えた。綾波レイと」
 ラ・ピュセルは <乙女> を意味する彼女の言わば代名詞であり、決して名前ではない。
「その名前を彼女に与えた、綾波レイという名は一体どこから来たのだろうか。それだけが、今は僕に残された唯一の謎なんだ」
 リッシュモン卿はそこで言葉を切り、アランソン侯を見詰めた。

「いつか、誰かに訊かれるとは思っていたよ」
 アランソン侯はどこか寂しそうに言った。
「では、教えてくれるのかい?」
 候はその問いに、頷くことで答えた。
「綾波レイは僕であり、僕のもうひとつの可能性でもあった」
 言葉の意味を理解したわけではないが、リッシュモン卿はあえて沈黙を守ったまま、先を促した。
「自身であり、もうひとつの可能性。だから、今となっては僕の半身ともいえるピュセルにその名を捧げたんだ」
「辛い話なのかい?」
「少し、ね」
 月にむけていた視線を、リッシュモン卿に向けてシンジは続けた。
「でも、僕は逃げない」
 リッシュモン卿はただ、微笑みを返した。
「ずっと、気になっていたことがあったんだ。だから、僕は折を見てそれを <ヘル> に訊ねたことがある。そのとき返ってきた名前が綾波レイなんだ」
「気になっていたこと?」
 頷くと、アランソン侯は続ける。
「君も知っているよね? 僕はピュセルの次元封印でまず亜空間に飛ばされた。その後、ヘルに魂を乗っ取られ、新世紀に送り込まれ……そのアランソン侯だった魂は、やがてある人間の受精卵の中に挿入された」
「確かに以前、彼女の口から直接聞かされたよ」

「僕が気になっていたのは、結果的に僕らが乗っ取ることになってしまった身体の、本来の持ち主のことなんだよ。僕の魂はその受精卵に後から挿入されたんだ。同じ身体に二つの魂は存在できない。だから、僕はその身体に宿っていた魂を消し去ってしまったことになる」
「そうだね。それは使徒も同じだ。オリジナルの魂を消滅させ、結果その肉体を奪い去る」
 リッシュモン卿は頷きながら言った。
「だから僕は気になったんだ。もし僕がその受精卵に割込まなかったら、その受精卵はどのように成長して、どんな個性になったのだろうって」
「それをヘルに訊いてみたのかい?」
 元帥の言葉に、アランソン侯は頷いた。
「ヘルは不確定要素をある程度加味して、より正確な未来の予測を打ち立てることが出来るらしいから、あくまで出来の良いシミュレーションでしかないけれど、それでも訊いてみたいと思ったんだ」
「それで、その彼女が出した予測は?」興味を駆られたリッシュモン卿は、訊いた。
「もし僕が乗っ取らずそのまま自然な形で受精卵が育っていたとしたら、その子は女の子として産まれていたそうだよ。僕が乗っ取った受精卵のオリジナルの魂は、女の子のものだったんだ。碇ユイと碇ゲンドウの間に生まれたひとり娘。父さんたちは、その娘に <レイ> という名を付けたであろう。それがヘルの予測だった」
 ここに来て、ようやくリッシュモン卿はアランソン侯の最初の言葉の意味を理解した。自分自身であり、もうひとつの可能性。つまり、同じ受精卵から生まれた存在であり、第三者の介入が無ければ違う存在として生まれていた者。碇シンジのもうひとつの、可能性。
「念のため、僕は父さんと母さんに訊いてみたよ。もし僕が女の子だったらどんな名前を付けただろうねって。そうしたら答えはすぐに返ってきた。僕が生まれる前から、名前は先に考えてあったって。もし女の子が生まれてきたら、 <レイ> と。男の子が生まれてきたのなら、 <シンジ> と名付けるつもりだったって、母さんはそう言った」

 アランソン侯は、ふたたび月に目を向けた。彼のその目尻が、月明かりに光っていることにリッシュモン卿は気付いた。
「彼女が生まれていた場合、やがて母さんが若くして亡くなって、それが原因となる何らかの事情でレイという名の少女は、父さんの旧姓である綾波を名乗るようになる。そして時が過ぎて、彼女はいつか死を向かえる。碇レイとして生まれて来た少女は、綾波レイとして人生を終えたであろう。それがヘルの予測したもうひとつの可能性としての未来だった」
「そうか、だから」
 だから、アランソン侯は <綾波レイ> という名をピュセルに与えたのである。
「でもそれは、消えてしまったもうひとりの僕。綾波レイに対するせめてもの鎮魂。そして、ピュセルを幸せにすることでその罪を償おうとする、僕の偽善とエゴだったのかもしれない」
 夜風がふたりの間に暫しの沈黙を運んできた。
「……気持ちが理解できるとは言わない」
 リッシュモン元帥は言った。
「だが、それは過ちではないように僕には思える。人間という生き物はどんなに奇麗事を並べたとしても、多くの命を犠牲にし、糧にして生きていることは否定できない。今日僕らが食したものにしても、一体幾つの命を消して作られたものか。結局、他の命を消すことでしか生きられないのなら、その犠牲となった命に誇れるだけの生を綴る。そのように考えるのは、実に人間らしいことだと学んだつもりだよ」
「うん」
 リッシュモン卿の言葉に、しばらくしてからアランソン侯は頷いた。
「死んだひとの分まで……なんて、生き残ったものの勝手な言い分なのかもしれないけどね。でも、自分の命を奪って綴った人生なのに、そんなくだらない生き方しかできなかったのか、なんて彼女に言われないように僕は生きるよ。ヘルの持っている力は強大だ。だけど、力だけじゃ救えないものも、変えられないことも多くある。僕は弱いけど」

「それしかできないからそれをやる、かい?」
 リッシュモン卿はこころを弾ませながら言った。人間の感情をここまで理解できるようになった自分が、少し嬉しかったのだ。
「うん。それで、いいと思うんだ」
 アランソン侯は微笑んで言った。
「これで謎は全て解けたよ。ありがとう、アランソン候」
「いいんだ。僕も話せて良かったと思うよ」
「……そう」
 その夜は、あくまで静かだった。
「ごめん、リッシュモン卿」
 アランソン候は戸惑いがちにいった。
「少しピュセルとふたりきりにしてくれないかな」
「そうか、すまない。そうだね。今日は、君たちふたりのための夜でもあったのだから。君は、そのためにここに来たようなものだからね」
「本当に、ごめんね」
 本心からすまなそうにいうアランソン候に、元帥は微笑みを返した。
「いいさ。彼女によろしく」
 リッシュモン卿は踵を返すと、庭園の出口へ向かった。
「そして、……いい夜を」



SESSION・79
『時空を越える歌声』

SESSION・80
『銀河に響くセレナーデ』


 あれは、はじめて君に出会ったその日の夜だった。今夜に良く似た、月の奇麗なよるだった。
 六〇〇年前のあの時はまだここには王太子がいて、この庭園も奇麗に手入れされていた。
 そう、ちょうどこの場所に。
 ひとり座って風を感じ、薄い月明かりを浴びながら――
 君は唄っていた。
 朧月夜に響く歌声と、その想いは一体誰に向けられたものなのか。調べに乗せられたその想いは、その者に届いたのだろうか。その歌に引き寄せられるように歩きながら、あの時そんなことを考えていた。
 唯一その答えを知る君は、微かに泣いているようにも見えた。
 儚く、美しい余韻を残し唄を終えた君は、僕の気配を感じて後ろを振り返った。
 僕らの目が合った。
 そして、不思議な沈黙が降りた。だけど見詰め合ったまま動かないふたりは、何故かその沈黙に居心地の悪さを感じることは無かった。
 君は、じっとその赤い瞳で僕を見詰めていた。

「――その歌は?」
 長い沈黙の後、僕はそう訊いた。

「想いは調べにのせて」
 それはか細い声だったが、夜のしじまの中、僕にはっきりと届いた。

 想いは調べにのせて。
 君は、覚えていますか?
 僕があの時、言ったこと。

 今度、アランソンに帰ったら、チェロで弾いていいかな。
 その曲……

 ――ひとの想いに限界はない。

 かつて、人は空を夢見ていた。
 鳥のように翼をひろげ、大空を駆ける。
 限りなく広がる、蒼穹を夢見ていた。
 でも、それは遠くて……
 辿り着けなくて。
 ひとはただ、空を想っていた。
 そして、時が過ぎて。
 風が空へ向かうようにひとはいつか、飛び立った。
 ひとの想いは無限。
 光さえも越えて、広大な宇宙を旅し――  まだ見ぬ銀河の果てまで、何億光年の彼方へも飛翔していく。
 そして時に、想いは時空すらも越える。
 遥かなる未来さえ、こころの中に描き出す。
 そして、いつか……
 ひとが空へ飛び立ったように僕らは夢に追いつき、想いは叶うのだろう。
 ならば届くかもしれない。
 想いが銀河の深淵まで届き、時の壁さえ超えるのなら。
 胸の内すべてを送れば、届くのかもしれない。
 だから今、想いを調べにのせてこの曲を奏でよう。


 ――夜のとばりの中

 まだ、眠れない


 今宵もまた

 月が見える

 私と貴公は、この月の下で何度も出逢った

 いろんな話をした

 いろんな思い出を作った


 月は、出ていますか


 貴方の生まれた遥かなる未来にも

 まだ、月はありますか


 いえ、きっとある

 いつも、私たちの輝ける時を照らしたように

  いつも、私たちを見守っていたように

 月は、いつもそこにある


 もう、逢えないかもしれない

 でも、貴公は私を忘れないでいてくれた

 時を越えても、生まれ変わっても、記憶すら消されていたのに

 私を覚えていてくれた

 奇跡を見せてくれた


 時空を超えても私を支えてくれる貴公に

 今、私の想いも伝えたい

 離れてしまったけれど

 失ってしまったけれど

 私もまた、貴公を想っていると

 こんなにも、想っていると


 時を越えても伝えたい……



 だから

 今

 想いを調べにのせて


 この詩を唄おう



 

侯爵は、チェロを奏でる

 

乙女は、唄う

 

低く優しく響くストラディバリウスの調べに

 

六〇〇年の時を越えて

 

少女の澄んだ儚い歌声が重なる

 

それは……

 

遥かなる時空に別たれたふたりの

 

月夜に響くセレナーデ










 

耳を澄ませば

 

遥かな時のむこう

 

ほら……

 

唄っている声が聞こえる

 

あれは、あなたの声







 

あり得ない壁に別たれた

 

出会えないふたりが

 

起こり得ない出来事を心から信じ

 

届かない想いを

 

ただ、こころの調べに乗せて

 

唄う夜

 

そんな時……

 

奇跡は起きるのかもしれない





 

貴公は遥か、彼方……

 

どこに消えるの

 

月夜に響く唄

 

ふたりすごした儚い時を

 

思い出して

 

心から

 

想いを調べに乗せて


 

月に囁くよな

 

私の唄は

 

とどくの?

 

嗚呼……

 

我が想いよ

 

どうか


 

貴公にとどけ



 

我が想いは貴方の……

 

彼の想いは我の……

 

想いと生る
 想いは
 調べに乗せ
 悠久の彼方へ
 想いを
 調べに乗せ
 全ての心へ
 想いは
 調べに乗り
 全てを凌駕せしものと成る
 

 

 


 

 

時空を超える術は

 

まだ

 

見つからない。

 

……だが

 

たとえ二人は未だ出会えずとも

 

互い想いだけは

 

躰よりも一足先に

 

六〇〇年の

 

遥かなる時空を超えて……

 

 

確実に

 

ここにめぐりあった





 

静かで……幻想的で……

 

微かに切ない……不思議な空間……
 世界が突然切り替わったというのに不思議と何の疑問も抱かず、

 

自然にそれを受け入れていた。
 そして、誰もいない……霞がかったような静かな空間の中で

 

彼の瞳に映ったのは……
 一〇Mほど離れたところで
 向かい合って彼を見つめている……

 


 
少女
 

 


 

 

夢と現の狭間で
 

 
僕を見詰める
 

 
あなたの幻、夢じゃなかった
 

 
時の壁を越えて
 

 
いつか、また逢えるよね

 

――でも怖くはない。
 
あの人は約束してくれたから
 

 
いつの日か、私を迎えに来てくれると
 

 

 

あの日、ふたりは約束を交わしたから……

 



 

遥かな時のむこう
 

 
想い、重ねて
 

 
やっとこの場所でふたり出逢えた
 

 
時の壁を越えて
 

 
いつか、迎えに来て

 


 

 

 
 
 
 

瞳、閉じれば
 

 
いつも僕を支えてくれる――

 
 
 


 
 
 
 

哀しい夜にも
 

 
きっと私を抱いてくれる――

 







あの声……



to be continued...


←B A C K |  N E X T→
I N D E X