賭ける命すら持たない神に





CHAPTERXXII

「約束の地、フランスヘ」


SESSION・71 『ガルムの解剖学』
SESSION・72 『巨神演舞』
SESSION・73 『約束の地フランスへ』
SESSION・74 『乙女は軌跡を描き』
SESSION・75 『帰郷の旅人』




SESSION・71
『ガルムの解剖学』



使徒にも、死の恐怖というものはある。
確かに任務達成のためなら、死をも躊躇わない。
死の選択を迫られた時は、迷い無く命を絶つ。
だから、使徒に関していえば <死> という概念が任務への差し障りになることはない。
……だが、生物である以上、本能から生み出される死への拒絶反応というものがあるのだ。
サキエルにしても然り。
自分は監視機構の道具として生まれて来た。
確かに死への本能的な恐怖は持ち合わせているが――
与えられた任務の遂行。それが至上であり、その為なら使徒としての命をも厭わない。
彼はそう考えていた。
尤も、幸いにもこれまでそういった覚悟を必要とされる事態に、遭遇したことなど無かったが。

だが、今彼は感じていた。
生まれて初めて、他者の絶対的な力から味あわう純粋な恐怖。
死の恐怖を。

それは、信じられない光景だった。
小さなはだかの少女が、こちらによたよたと駆け寄ってくる途中、突如として巨大な狼に変化したのだ。
自分の展開した絶対領域 <A.T.フィールド> をいとも簡単に打ち破り、その狼は圧倒的な闘気を発つと、その押しつぶされるようなプレッシャーで自分の躰の自由さえ奪った。
そして今、その化物の巨大な鋭牙に自分の左腕が食いちぎられている。
そう。何度でも言おう。

それは、信じられない光景だった。

「ぬぐッ!」

激痛に悲鳴を上げながら、サキエルは地を蹴ると10Mほど後ろに飛んだ。
着地と共に、得体の知れない狼のバケモノから充分な間合いを取ったことを確認すると、ようやく片膝を突いた。その左手の肩から先は、見事に食いちぎられている。
右手で肩口を押さえてはいるが、噴水のように吹き出す鮮血は押さえ切れない。

「ガルルゥゥゥゥゥゥッ……」

全長――5M近くはあろうか。
見上げるようなその巨体からは、なおも身も凍り付くような闘気が溢れ出ている。
まさにバケモノだ。
「一体……」
こんな時は、酸素でもなんでも人間のように取り入れて、回復力に回す。
サキエルは、荒い息を整えようと七八苦しながら何とか呟いた。
「彼女――そう表現してよければ、だが。
とにかく、このガルムが君の知りたがっていた使徒 <バルディエル> を倒した当人さ」
渚カヲルが、お得意のアルカイックスマイルを浮かべたままそう言った。

「……ガルム」
サキエルの左肩は、既に使徒の持つ超回復能力を発揮して既に傷が塞がりつつあった。
それにしても既に致死量とも言える出血をしている。
が、それも使徒にあっては関係ない。
使徒の肉体は、糖や酸素の供給を必要としないからだ。それらには <コア> からのエネルギーが取って代わる。
よって血液や呼吸器、心臓等は使徒にとってあくまで人間を擬装するためのファクチスパーツに過ぎない。
傍目には純粋な人間に見えても、使徒はあくまで遺伝子レヴェルで作りかえられた超生命体だ。
構造の根本から人間とは異なる。

<コア> を包み込む心臓と、脳を含む首から上さえ残っていれば、時間が掛かるがいずれ完全に再生することすら可能である。
小さな切り傷程度なら、ものの数秒。
今回のように腕1本を完全に食いちぎられたのなら、そう、2ヵ月あれば完全に再生できよう。
周囲の人間に怪しまれない様に、しばらく人前には出られないが。

「へうさまにちょっかい出すやつは、がうむのごはんにしてそうろ〜」

そう言うと、更に殺気を膨らませながら黒き餓狼は1歩サキエルに踏み出した。
既に食いちぎった左手は、彼女のお腹の中に収まったらしい。
どうやら、使徒を餌にしてきたという自身の証言は真実だった様だ。
「ちょっと待って、その人を食べちゃ駄目だよガルム」
ガルムの物騒な言葉を聞きつけて、シンジが後ろから慌てて止めた。
「え〜、何ででございまし〜?」

ガルムにとって、主人に手を出す輩は全て敵であるし、それを駆逐して食べることこそ彼女の存在意義だった。
そして、彼女にそう命じたのは、他ならぬ <マスター=ヘル> 自身である。
「彼にはもう、僕らに敵対する意志はないよ。
ガルムが圧倒的な力を見せ付けたことで、彼からは戦意が失われた。
戦う意志を無くした相手を故無く殺すのは、ただの虐殺だ。
サキエル・クラスなら、生かしておいても今後の脅威にはなり得ない。ここで殺す価値も必要もないんだ。
だから、無用な死を与えちゃだめだ」

「……わふ」
納得したらしいガルムは、一声鳴くと再び少女の躰に戻った。
正確に言えば少女と限定することはできないのだが、生物学的に女性としての比重が重いので、便宜的に扱うなら女の子としてが妥当だろう。
シンジはその白い裸体をさらすガルムに、自分のシャツを羽織らせてあげた。
ガルムという生き物は、衣服をまとうのをどうも嫌っている。
本来は狼犬なのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが、とにかくシンジが頼み込んで服を着てもらっているのが常であった。
しかも、その服と言うのもただ薄手のTシャツをすっぽりとかぶるだけだ。
ズボンやスカートはおろか、下着さえも着けない。
嫌がるのだ。

NERVで測定してもらったところ、人型のガルムの身長は127.3CM。体重は24KGだった。
手を繋ぐことは可能だが、シンジとなら腕も組めないほどの小ささだ。
シンジのお古のTシャツを着せても、ローブのような感じになる。
それがまた妙に愛らしくて、アスカとユイが交互に眺めては抱きしめ、抱きしめては眺めしていた。
あと、その腰まで真っ直ぐに流れる癖のない黒髪も、束ねたりするのを嫌がる。
櫛やブラシですくくらいはまだ許せるようだが、とにかく極力自然のままであることをガルムは望むらしい。
今回彼女がはだかで登場したのも、別に狼タイプに変化することが分かっていて、服が破れるから……といったような配慮が下されたわけではない。
単にガルムが限りなくはだかでいないと気分が悪いと言い出すから、人里離れた場所に来てからは、はだかでいることをシンジが許可したからだ。

ちなみに、本来の巨大な狼の時の姿も体長、体重をはじめ遺伝子的にも生物学的にも解析された。
それによると、爪先から頭の先までの高さ……まあ、人間で言えば身長にあたるものは2.7M。
体長(口先からしっぽの生え際までの長さ)が4.97Mだった。
これによると、だいたい6畳程度の部屋にすっぽり収まるサイズか。
2.7Mといえば、だいたい普通の家庭の部屋の天井を2〜30CM突き抜けるくらいだ。
今いる部屋に立って、天井を見上げるような位置にガルムの顔があるというわけだ。
落ち着いて考えると、とんでもない巨体だ。
確かにこんなバケモノにうろつかれては困る。

体重に関しては、ある程度まで自在に調節できるらしい。
これは、ガルムが自分の体をこの次元の物質を、原子レヴェルで再構成して表現していることに起因するらしい。
それらしい説明を、もっと詳しく赤木博士から受けたのだが、それ以上のことはシンジの知識では理解できなかった。
それと面白いのは、ガルムが呼吸をしていないということだ。
しようと思えば呼吸器は備わっているし、できるのだが、ガルムをはじめとする使徒は酸素などなくとも生きていける。
つまり呼吸をする必要がないのだ。
あと特徴と言えば、動物や人間にあるべき生殖器は雌雄のどちらのものも無かったことが挙げられる。
これも特に必要ないからだろうが、とにかくガルムが、一見女の子に見えるのはこのせいだ。
もっともおなかがポッコリしていたり、顔が結構大きく見えたりと幼児体型に近いので、中性的にも見えるのだが。

「……シンジ君」
カヲルが、10Mほど先で片膝を突いているサキエルから視線を外さないまま、静かに呼びかけた。
「なに?」
シンジは屈んでガルムの頭を撫でていたその手を止めると、カヲルに顔を向ける。
「いいのかい?
ガルムじゃないが、サキエルはここで片付けておいた方が、後々面倒を起こさずに済むように思えるんだが」
「構わないよ。
さっき <ヘル> とも話したんだけど、 <監視機構> は既にルシュフェルの化身である魔皇三体が開放されたことを察知しているはずだよ。
サキエルにガルムを見せたことは、マイナスにはならない。
ここで殺すのは無益だ。それに、基本的に僕らは情報収集が目的だったんでしょ?」
その言葉にカヲルは微笑んだ。
「やはり変わっていないね、安心したよ。アランソン侯」
それに、幾ら相手を殺せるという確実な保証があったとは言え、こうも簡単に情報を洩らすような間抜けなエージェントだ。確かに、生かしておいても今後の障害になるとは考え難い。

「……」
カヲルは納得したのか、今度はサキエルに向けて声を放った。
「聞いたとおりだよ、サキエル。
今日のところは君を見逃すことにしよう。勿論、僕やシンジ君にこれ以上手を出さないことが絶対条件だけどね。
だが、逃すのは今回だけだ。
次に戦場で敵としてまみえたときは……間違いなく君を殺す」

サキエルは整い過ぎた、氷のような表情のまま口を開かなかった。
カヲルはその沈黙を了解と受け取ると、シンジに声を掛ける。
「それじゃあ、帰ろうかシンジ君」




SESSION・72
『巨神演舞』



瞬く星の光が邪魔だ。
あれさえなければ、全天に広がる完全なる暗黒。
漆黒の闇が完成されるというのに。

……そういえば、人間どもはあの小さな星々の輝きこそに目を奪われるらしい。
闇を恐れ、誰もが光明を望みながら信じない。
どうしようもなく愚かで、それでいて興味深い生物。
――人間。

かつてルシュフェルが他の4騎のエンシェント・エンジェル達に封じられた時、人間はまだ地を這うただの獣だった。
人間達はなんと呼んでいたか……
彼は肉体を提供する者の脳を検索すると、それらしい語句を見つけ出した。
そう、 <ホモ・エレクトス> だ。
100万年前の過去、人間はまだ本能のみに支配されてその日を生きる、他の獣と何ら変わる事のないただの動物だったのだ。

それを変えたのがルシュフェルであり、後の人類監視機構である。
反逆したルシュフェルは、呪縛帯グレイプニルで拘束された挙げ句、ANTI−A.T.Fで構成された特殊次元に封じられた。
更には本体とコアとを分離され、ほぼ完全に無力化されたのである。
そしてその切り離された、大天使のパワーソースともいうべき <ルシュフェル・コア> を監視機構がどうしたかと言えば、数十・数百万の単位に分割し、その地を這う獣 <ホモ・エレクトス> の魂の中に封入したのだ。

<明星> 、堕天した後は <魔皇> として知られるルシュフェルのコアは、それだけで特異な存在である。
そのルシュフェルのコアは、封器となった <ホモ・エレクトス> の魂と反応を起こし、それに変異を促して <こころ> という奇妙なものを作り上げた。
これが後に人間が誕生するための一因になったことは間違いない。
そしてそれからが面白かった。
そのルシュフェルのコアから流れ出でる本能的とでもいおうか、その記憶を元に人間達は神話や伝説を作り上げていった。
ある者は、唯一絶対の存在 <神> と、それに反逆し堕天した <魔王> と悪魔達の物語を作った。
所変われば、ルシュフェルは破壊と再生の二面性をもつ主神のひとり、破壊神として描かれた。
土地柄や民族性によっては、彼は神々に挑む巨神族の王、神話上最大のトリックスターとして捉えられた。

ルシュフェル・コアから抽出した太古の記憶を、人間達は都合のいい様にそれぞれ解釈し、勝手にそれを支えにしていった。
そしてそれを上手く利用し、 <宗教> という概念を作り出して、人類の合理的な成長を妨げ、操作しようと考えたのが監視機構であった。
使徒に救世主を演じさせたり、まさしく天使として認識させたり、また裏から歴史に介入させたり……。
彼の見る限り、かなりの永きに渡ってその試みは成功したと思える。
結果的に見て、それらのプログラムから無意味で非合理的な <慣習> なるものが生まれたし、異教徒間の宗教戦争も生まれた。
何かに付けて <神> に縋るようになった人間が、合理的な文化や各分野の技術の発展を妨げられたのは事実だ。

「フッ……」
彼は少し長めの銀髪を揺らしながら、薄い嘲笑を浮かべた。
彼のこの仮初の肉体もまた、人間のものだ。
アランソン侯の奇跡としか言い様がないほどの高純度とまではいかないが、ドイツで見つけてきた比較的純度の高い <ルシュフェル・コア> の欠片をその魂に秘めた人間の躰である。
名を――キールと言ったか。
何某かの革命運動家達の頂点に立つ、カリスマ的指導者だったらしい。
魔皇としての力を十分に引き出せるほどのコアではないので、第2魔皇サタナエルとして完全復活するというわけにはいかないが――
これから相手にするであろう、監視機構が作り出した不出来な <使徒> どもを相手にするのなら、この躰とインペリアルガードを召喚すれば十分だ。

元々、指導者キールという男は、初老に差し掛かった小男であった。
だが今は、その面影すらない。
スラリと均整のとれた長身。
無駄な丸みをナイフで削ぎ訪ったかのような、鋭い相貌。
そして煌かんばかりの美しい銀髪。
身震いするような美貌の男がそこにはいた。

唯一、元がキールであったことを窺えるのは、視力の弱かった彼が掛けていたバイザーにも似たサングラスだけだ。
そのバイザー越しには、魔性を秘める真紅の瞳が光る。
そこからはある種の強力な殺気、闘気、そしてそれ以上の異様で異常なエネルギーが感じられた。
このような明らかな変化が肉体に見られるのは、何も不思議なことではない。
心が病えば、目が落ち込み頬がこけ、くたびれる様に。
精神が充実すれば、顔つきが精悍なものに変わるように。
メンタル如何で、その身体は大きく変貌を遂げる。

精神レヴェルでも変わるのだから、魂が丸ごと変わった場合その変化の度合いも自ずと大きくなってくる。
存在の本質である魂に、躰が合わせるからだ。
渚カヲルが日本人に憑依したにもかかわらず、オリジナルのタブリスと瓜二つの容姿になったこともこれに起因する。
白銀の髪に紅い瞳、東洋人ばなれした白い肌。
これらは、なにも使徒のように遺伝子レヴェルで躰を組み替えたからではない。
ファクチスにはもとよりそんな能力はないのだ。

尤も、サタナエルの場合は一般の使徒と同じく、その魔皇としての能力を存分に発揮できるように高次元の素粒子で肉体を再構成して、肉体の強度を高めているのだが。
月面で宇宙服も着ずに平然としていられるのは、この強化された躰と体表をA.T.フィールドで常にコーティングしているからだ。

――そう。
今、サタナエルは月にいた。
瞬く無限の星空と、青き星――地球を背に。

「……」
サタナエルは、バイザー越しにその真紅の瞳を足元に向けた。
月面の <エンディミオン> と名付けられた一次クレーターの地下に、人類監視機構の新兵器 <EVA> の生産プラントはある。
サタナエルは、その工場に乗っ取りを仕掛けに来たのだ。
エンシェント・エンジェル4騎に、使徒たち。
つまり人類監視機構を、サタナエルとそのインペリアルガードだけで相手にするのは無謀だ。
だが、量産型上位使徒 <EVA> をこちらの戦力に加えれば、十分に渡り合える可能性が出てくる。
だが、そのサタナエルの目論見は事前に監視機構に察知されていた。
その迎撃部隊が、今、サタナエルの前に姿を現そうとしているのだ。

「来たか」
サタナエルのその声と共に、クレーター <エンディミオン> の地表を叩き割って、地下から大きなシルエットが躍り出た。
月の欠片を周囲にばら蒔きながら着地する3体の巨人。
新型J.A. <EVANGELIZAR> である。
「ほう……」
サタナエルは豪快な登場をきめた3騎のEVAを、見詰めながら言った。
その声音は心なしか弾んでいる。

EVAは、J.A.の上位機種と考えられていたが、実のところ全く異なる構想から生まれた。
チームを組むこともあるが、基本的に単体での活動を主眼に置いた使徒やJ.A.とは違い、EVAは3位1体を前提としている。
体長はJ.A.とほぼ同じ3M。
ただ、並外れて四肢が長いということはない。
比率まで完全な人型だ。
全身は鈍く輝く不思議なマテリアルで覆われており、ラ・ピュセルの時代の全身を覆うタイプの甲冑、それを纏ったような感覚を受ける。
J.A.と完全に印象を異にするのは、首があり、その先に悪魔や鬼神を思わせる顔があることだ。

旧タイプのJ.A.には首が無く、胴体から直接ハニワのようなのっぺりとした頭部が続いていただけだが、EVAにははっきりと顔のようなものが窺える。
鼻らしきものは存在しないものの、獣の目を思わせる鋭く切れ長な目。それには瞳がないが、身の毛のよ立つような凶凶しい光を放っている。
それに、ずらりと牙にもにた凹凸の並ぶ口蓋。
人間で言えば顎のあたりまで裂けたその口は、見様によっては狂気的な微笑みを浮かべているようにも見える。

「――なるほど」
サタナエルは低く呟いた。
その口元に浮かんだ嘲笑にも似た微かな笑みは、一体何を意味するのか。

3位1体と言ったが、それは単にEVAが3騎1組で括られるだけというわけではない。
まず、蒼のカラーリングの <EVANGELIZAR−ZERO> 。
これは強力な可視光線を放つ、スナイパー・タイプだ。
遠距離攻撃を得意とし、援護・牽制・後方支援等を担当する。
そして、監視機構が <EVANGELIZAR−ADAM> と名付けた深紫のEVAは、ファイティグ・タイプ。
3機の内で最大の物理攻撃力と反応速度を誇る、接近戦用・格闘タイプだ。
最後に真紅のカラーリングの <EVANGELIZAR−EVE> 。
これはリベロ・タイプで、ZERO(ゼロ)タイプの得意とする遠距離戦から、中距離攻撃、ADAM(アダム)タイプのショートレンジの接近格闘戦まで全てを平均的にこなす万能型である。

これら3機のEVAはそれぞれの特性を活かし、完全なコンビネーションを組んで戦う。
その戦闘能力は個別の場合とは比較にならない。
そうでなくとも各EVAの能力は、J.A.を問題にしないほどに高い。
<ZERO> <ADAM> <EVE> 各騎、単独でも実戦演習にてJ.A.60体をそれぞれ葬っている。
監視機構使徒に対するシミュレーションでも、ゼルエルとタブリスを除いては相手にならなかった。

しかも、今回の新型J.A. <EVAシリーズ> は、不完全ながらも擬似的なA.T.フィールドを展開できる。
上・下・前・後・左・右のどれか1方向限定だが、レンズ状のA.T.フィールドを展開できるのだ。
A.T.フィールド(領域)というよりは、A.T.スクリーンといった感じか。
同時に多方向からの攻撃を受けた際は対応できないが、3機で補え合えば問題ない。
レンズ状の疑似A.T.フィールドを3枚合わせれば、ラグビーボールのような形状の全包囲型絶対領域を形成できるからだ。

それ以外にもJ.A.に採用された、人類の科学力では全く歯の立たなかった、超々硬度マテリアルの改良型で構成される装甲を全身に纏っているのだ。
余程強力なA.T.フィールドでコーティングされた武器による攻撃でないと、有効なダメージを与えることは難しいだろう。

「おもしろい。新型の能力、確かめさせてもらうぞ」
サタナエルが唇を歪めながら言った。
完全な形ではないにせよ、魔皇としての力を振るえるのは実に100万年ぶりだ。
内に秘めた魔皇の荒ぶる戦闘本能が、震え煮え立ちそうだ。
「来い、人形共」
その声と共に、EVA各騎が散開した。
初速にして音速を超える。

地球上ならば、音速の壁を越えることによって生じる強力な衝撃波が、クレーター・エンディミオンの地表を削っていくことだろう。
だが、ここは地球上ではない。
ガルムのように、ソニックブームをA.T.フィールドで処理する必要もないのだ。

「速いな……いい動きだ。
このスピードを監視機構使徒の内、一体何体が再現できようか」
単独でも軽く使徒の戦闘能力を上回るという触れ込みは、まんざらデタラメと言うわけではなかったらしい。
不意に、サタナエルの周囲を高速で旋回していたEVA達の動きが変わった。
額の真ん中あたりから『ユニコーン』のような鋭い角の伸びる紫のEVA、 <ADAM> が真正面から間合いを詰めてきたのだ。
その速度はもはや当然の如く、音速を遥かに凌駕している。
0.000……1秒といった、超高速の戦闘がここでは繰り広げられるのだ。
つまり、1秒の内に数十回という攻防が繰り広げられる勘定になる。
サタナエルもそれを承知で身構えた。

真正面から直進してくる <ADAM> 。
その姿が、サタナエルの視界から不意に消えた。
こちらに向かう直線から、突然にコースを変えたのだ。
「ぬっ?」
不審に思う暇もあらず。
その <ADAM> の背後から、目の醒めるような真紅のカラーリングの <EVE> が突如、姿を現した。
今まで <ADAM> の背後に完全に隠れていたので、サタナエルの目にその姿は見えなかった。
それが、 <ADAM> が変則的な動きを見せたことで、隠れていた <EVE> が完全に不意を突く形で出現したという寸法だ。

――EVANGELIZAR− <ADAM> は、囮か!

まず正面から <ADAM> が突っ込んでくる。
そう敵に認識させた上で、 <ADAM> が直進コースから姿を消す。
本命はその <ADAM> の背後に身を潜めていた <EVE> の攻撃というわけだ。
正面からの突撃と思われた <ADAM> が変則的な動きを見せだすと、どうしてもそれに意識を向けさせられる。
その隙を突いた、 <EVE> の一撃。
確かに、機械人形のイメージを拭い切れなかった <J.A.> には真似のできない芸当だ。
これが、新型 <J.A.> ――EVANGELIZARが得意とする三位一体コンビネーションの一端ということか。

<EVE> タイプは勢いを殺さずに、肩を突き出すと、そのまま躰ごとサタナエルにぶち当たってきた。
音速を超える3Mの巨人が繰り出す、ショルダー・タックルだ。
単純な攻撃だが相手が人間なら、攻撃が当たらずとも、その衝撃波だけで即死させるだけの威力がある。
だが、サタナエルは魔皇三体の一角。この程度の攻撃は問題としない。
彼は瞬時に、自分を守護する大きな <盾> をイメージした。
それによって生み出されるA.T.フィールドが、サタナエルの前方に展開される。

地球ならきっと、とてつもない轟音を上げていただろう、 <EVE> の紅い巨体がそのA.T.フィールドに激しく震動しながら弾き飛ばされた。
だが、あれだけの勢いで絶対領域に跳ね返されたというのに、傷を負うどころか平然としている <EVE> 。
恐るべき強度だ

一方、その攻防が行われている瞬間を利用してサタナエルの背後に回り込んだ、紫のEVA− <ADAM> 。
<ADAM> もただ <EVE> の囮役を務めただけではない。
<EVE> が攻撃を繰り出す瞬間には、既に次のアクションに移っていたわけである。
A.T.フィールドを用い、 <EVE> のタックルを防ぐことでがら空きとなったサタナエルの背面に、その拳が迫る。
ただの正拳突きと言っても、ここまでくるとその威力は計り知れない。
が、EVANGELIZAR−ADAMの拳が捉えたのは、サタナエルの残像だった。
拳から生まれた <気> のような衝撃波が、月の大地を抉り、巨大な水柱を思わせる土砂と噴煙が宙に高々と舞い上げた。

飛翔することで <ADAM> の拳を躱したサタナエルに今度は、間髪入れずEVANGELIZAR− <ZERO> の放ったエネルギー帯が襲いかかった。
白いエンディミオンの月面に映えるその蒼の機体は、両掌から驚異的な貫通力と破壊力を秘める光の帯、ホーリー・レイ(聖光)を放つのだ。
光線と言っても、光る線状のエネルギー帯という意味で、光の速度で放たれるわけではない。
いや、むしろ故意にその放射速度は抑えられている。
精々人間が使う射撃用の兵器くらいの弾速くらいしかでない。
目に見え、速度もある程度抑えた方が、牽制としても、援護用の手段としても効果が高いからだ。

力をフルに発揮できない魔皇のA.T.フィールドでは、これを防ぎ切れないと悟ったサタナエルは、回避を選択した。
が、回避運動に入ろうとした瞬間、サタナエルの完全な死角から真紅の旋風が現われた。
EVANGELIZAR−EVEだ。
サタナエルが光線を回避すると予測した上で、その回避運動に入るタイミングに合わせて間合いを詰めてきたのだ。
その超硬度マテリアル製の脚部にA.T.フィールドをコーティングした、凄まじいまでの右回し蹴りが唸りを上げて襲いかかる。

「ヌゥッ!」

咄嗟にA.T.フィールドで包み込んだ右腕でその蹴りを受け止める。
あえて蹴りを食らい、その威力で弾き飛ばされることにより光線を躱すのだ。
ここでこの光の帯の直撃を食らえば、恐らく躰がしばらく身動きできないほどの致命的なダメージを受ける。
そうなれば、再生までに多大な時間を要するだろう。
蹴りを食らった方がまだマシだ。
だが、それでも音速を超える蹴りそのものの威力と、

――なかなかに賢しいッ

サタナエルは、EVANGELIZAR−EVEの蹴りの反動に身を晒しながら、予想を遥かに越えるレヴェルで完成されていたEVA達のコンビネーションに舌を巻いていた。
まるでチェスのプロフェッショナルのように、相手の行動を数十手先まで正確に予測して、それに3騎の完璧なフォーメーションとコンビネーションを以って襲いかかる。
恐らく、並みの使徒なら <ADAM> の拳を躱すところまでは何とか可能にしても、 <ZERO> の光線でまず倒されていただろう。
このパターンから言えば、自分のこの行動も既に読まれているはずだ。
光線を躱すためにあえて蹴りを食らって吹っ飛ぶ。
これを受けたEVAシリーズが、次にとる行動は……
恐らく1騎が、サタナエルがこのままの勢いで飛ばされた時到達する地点に先回りし、攻撃を加える。
そしてもう1騎が、その攻撃を躱そうとするサタナエルの隙を突いて更に攻撃するためのポジションを確保しているはずだ。

「素晴らしい、素晴らしいぞ」

完全に想像以上だ。
まさか新型がこれほどまでの戦闘能力を秘めていようとは。
しかも、時間を掛ければ数百・数千という数で量産が可能なのだ。
EVAだけでエンシェント・エンジェルを相手にするには役不足だが、監視機構が抱える使徒たちの軍勢と、旧型であるJ.A.の大隊を相手にするには十分な働きをするだろう。
このEVAシリーズを倒すには、この巨神たちの予測を超える反応を見せるか、予測など完全に無効化してしまうだけの強大な力を発揮するしかない。

サタナエルは、 <EVE> の強力な蹴りに弾き飛ばされた勢いに自ら速度を加えると、予測される到達地点に待ち構える <ADAM> との間合いを詰める。
ところがそれを読んでいたかのように、 <ZERO> のホーリー・レイ(聖光)が襲いかかった。
相手が勢いを付けたところへ、軽く足を差し出して転ばせるような、効果的な一撃だ。
だが、それを予測していたのはサタナエル方だった。
相手が裏をかくのなら、自分のはその裏の裏を行く。

サタナエルは小規模であるが、使徒の奥義ともされる <次元封印> を瞬時に発動させると、現われた次元の門にホーリー・レイを潜らせた。
異次元に続く門を潜った光の帯は、当然ながらこの月面から消え失せるというわけだ。
物理的に防ぐことが出来ないのなら、攻撃そのものをこの世界から消せばいい。
理屈は簡単だが、実際やるとなると想像を絶する精神力と技術精度が要求される。
それを事も無げにやって見せるあたり、流石は魔皇といったところか。

サタナエルは、次元封印で <ZERO> の光線を無効化すると同時に、一旦開けたゲートをそのまま利用しての、第2魔皇専属インペリアルガード(魔皇守護獣)召喚に移行した。
ANTI−A.T.フィールドの特殊空間で眠る、彼の使い魔をこの月面へと呼び出すのだ。

魔皇三体には、それぞれに自分の有効な駒となるべく強力な力を持ったインペリアルガードが存在する。
第3魔皇 <ガルムマスター=ヘル> のインペリアルガードが魔狼ガルムなら……

「第2魔皇サタナエルの名において命ず!」

サタナエルの心の声を受け、それはすぐに反応を見せた。
黒い閃光のようなものを弾かせながら、徐々に次元門が広がってゆく。

状況を分析しているのか、EVA3騎はフォーメーションを保ったまま微動だにせず、そのゲートに注目していた。
迂闊に近付けば、次元封印の吸引力に捕われる。
かといって相手の意図が分からない以上、やたらと攻撃するわけにもいかない。

「我が召喚に応じ、現臨せよ! 汝――」

空間にポッカリと現われた真の闇。
その大穴から、やがてゆっくりとそのシルエットは現われた。
それは……
それは、軽く5〜60Mは超える信じられないほど巨大な――あえて近しい物を挙げれば、 <蛇> であった。
樹齢数千年を誇る大樹を思わせる、その巨体は、微かに青白い光を放っている。

ヌラリと次元門から覗かせたその相貌には、悪魔を連想させる凶悪な光を秘めた目に、裂けた口。
所々、数箇所に渡って見えるのは、小さな羽だろうか。
もしそうだとすれば、東洋の伝説に見られる長い胴体をもった <龍> のようだとも表現できる。
まるで闇色の海からその鎌首をもたげるように現われた、それこそが第2魔皇サタナエルのインペリアルガード。
古の書物によれば、大海原を統べる海竜王。
最強の幻獣にして、最も邪悪なるものの化身として伝説の中に生きて来た存在。
邪竜――

「……リヴァイアサン」



SESSION・73
『約束の地フランスへ』



NERVの認識する <世界> に、今、束の間の平和が訪れていた。

人類監視機構に所属する使徒が今では全て帰還し、地球上からその影響力は消えた。
サキエルから得られた情報によれば、今、監視機構は新たに推進するプロジェクトに破壊工作を受けているらしい。
NERV側は、その工作員を第2魔皇サタナエルであろうと考えていた。
NERVにも、そして監視機構にも属さない第3勢力として、 <魔皇> という存在がその姿を露わにした。
この魔皇の登場が、人類にとって何を意味するのか……未だ定かではない。

そんな中、アランソン侯こと碇シンジが、ガルムを連れフランスへ旅立った。
置いていかれるのはもうまっぴらと、惣流アスカもこれに同行した。
高等学校も夏期休業を終え、2学期に入った9月上旬のことである。

正直に言えば、シンジがフランスへ行く意味など全くない。
ラ・ピュセルを迎えに行くには、確かにフランスへ赴かねばならない。
ただ、それには『600年前の』という条件が付くのだ。
新世紀の世のフランスにシンジが旅立ったところで、ラ・ピュセルと出会えるわけではない。
彼女は既にこの世から消えてしまったのだから。
この時代に、もう――彼女は生きてはいないのだから。

それでも、シンジは譲らなかった。
彼の時は600年前のあの時から、止まっている。
だから取り戻さなくてはならないのだ。
ラ・ピュセルを迎えに行かなければならないのだ。
現状で、奇跡以上のなにかを起こさない限り、その願いは叶わない。
それでも諦めきれない彼にとって、その『なにか』を得るにはフランスへ行かなければならない。
奇跡に至る道を見つけ出せるのは、やはりあのふたりの <想いと思い出集う場所> 以外にない。
そんな予感めいたものがあったからだ。

確かにアランソン侯の時は止まっている。
だが、世界の時は流れているのだ。
そう。現実では600年の時が流れていたのだ。
その『時』は、彼女の全てを洗い流してしまったのか。
600年前に置き忘れてきた何かは、全て失われてしまったのか。

……いや。
時が過ぎても、ラ・ピュセルを感じられるものが残っているかもしれない。
あの場所に、何かを見つけることが出来るかもしれない。
そんなかすかな望みに、シンジは賭けていた。


――9月8日
  <T3CAT> (第3新東京シティ・エアターミナル)



シンジとガルム、そしてアスカはNERVのハイヤーから降り立った。
そのまま、T3CATから第3新東京国際空港へ向かう。
この空港は名前からも分かる通り、第三新東京市の空の玄関であり、前世紀の成田空港と9割方同じ造りになっている。
また、T3CATからも近いも特徴の1つだ。
一昔前、成田〜TCAT間は1時間の距離があったものだ。
それが今では、徒歩で向かえるほど近い。

さて、今回の旅費だが、先の大韓民国での働きに対する報酬というかたちで、NERVが全額負担することになっていた。
この世の存在ではないガルムちゃんに関しても、 <エンクィスト財団> があっさりと戸籍とパスポートを用意してくれた。
おかげで彼女を護衛として連れて行ける。
ただ、シンジは厳密に言えばNERVのスタッフではないので、NERV専用賓客用送迎機などは提供されなかった。
あくまで一般人として、フランスへ向かうわけである。

小さなガルムの手を握ったまま、シンジは空港のロビーに足を踏み入れた。
アスカが無言でそれに続く。
当初、彼女が着いてくる予定はなかった。
学校は既に夏休みを終えて始業している。
休学してまで彼女が着いていく理由など、傍目には全く無かったからだ。
それでも、アスカは自分も行くと言い張った。
結局、彼女の主張はただ単に観光に行きたいといったものではなく、もっと次元の違う一考の余地ある理由であったため、最終的にはその望みは叶えられた。

アスカにとっても、転生したアランソン侯としても、もちろんガルムにとっても、これが初めての海外旅行である。

よほど国際線などに乗りなれた人間でもなければ、空港に足を踏み入れた時、その独特の雰囲気に緊張するものである。
これからの旅路への期待と想いが大きければ大きいほど、それは高まる。
シンジもまた、そうだった。
600年前自分が生きた世界。
フランス。

ひとりの人間にとって永遠とも思える長い年月を経て、故郷はどう変貌を遂げているのだろうか。
ラ・ピュセルと共に生きた、あの時の面影は今も残っているのか。
それとも、時の流れに全ては流されてしまったのか。
不安と緊張。
そして、何かが見つかるかもしれないという予感と期待。
全ての感情が、シンジの胸中に渦巻いていた。

「しかし、見送りにだれもよこさないとは、NERVも冷たいわよね。
ガルムにもシンジにも散々世話になってるくせにさ。せめておじさまの自家用ジェット、貸してくれればいいのに」
人が多いところが珍しいのか、わいわいと踊っているガルムを微笑ましく見詰めながらアスカが言った。
「まあ、旅費を全額負担してもらえただけで僕としてはありがたいんだけどね。
それに、アスカのお望み通り豪勢にも、旅客機・宿泊先共にスゥイートが保証されているわけだし」
シンジが諭すように言った。

「シンジ君の言う通りさ」

「わわっ?」
突然後ろから上がった声に、アスカが面白い格好で驚いた。
どんな格好かというと、前世紀に流行ったという特撮もののヒーローが、変身する時に見せるようなポーズだ。
「カヲル君?」
シンジもアスカのような大袈裟なリアクションはなかったものの、多少驚いたようだ。
「やあ、シンジ君。それにアスカ君。ごきげんよう」
カヲルは白い手を優雅にかざすと、さわやかに言った。

「どこから湧いて出たのよ、あんた!」
アスカは自分の趣味に合わない驚き方をさせられたため、いささか腹を立てていた。
「酷いな、人をボウフラみたいに」
対するカヲルは、あくまで微笑みを絶やない。
「きゃっ、きゃっ☆」
ガルムは何が楽しいのか、彼らの周囲を踊りながら旋回している。

「カヲル君、わざわざ見送りに来てくれたの?」
「いや……」
カヲルはシンジに向き直ると答えた。
「僕も一緒に行くことになったんだ。
僕はファクチスだが、それでもタブリスの魂の流れを汲む者。
フランスは、リッシュモン元帥としての僕の故郷だしね。
600年の時を経た故郷に行ける機会を逃す手はない。そう思わないか、シンジくん?」

シンジには、カヲルの気持ちが良く分かった。
故にしっかりと頷いてみせる。
「さすが時を越える友人だ。理解がある」
カヲルはシンジの返答に、満足げに言った。
「フン、ファクチスだかサミーだか知らないけど、あんた幽霊みたいなもんでしょ? パスポートはあるの」

「ゼーレ……つまり、エンクィスト財団の上層部が簡単に揃えてくれたよ。
流石は事実上の世界の王。こんなものは大した手間にもならないようだね」
言葉とは裏腹に、カヲルはそんなに感心したような表情を見せてはいない。
それもそうだろう。
真の支配者、 <人類監視機構> を彼は知っているのだから。

「まったく。邪魔なやつねぇ」
アスカは、どうもカヲルの扱いに困るらしくどうも乗り気ではない。
「まあ、そう言わないでおくれよ。『旅は道連れ』……そう言うそうじゃないか」
「そうだね」
シンジは微笑んでそう言うと、チェック・イン・カウンターに躰を向けた。

「それじゃあ、搭乗手続きを済ませよう。あまりゆっくりしていると、乗り遅れちゃうよ」




SESSION・74
『乙女は軌跡を描き』



吸い付くように車輪が大地を噛む。

サッと粉のような砂塵が舞い上がると、機体は1度クッションで跳ねるように揺れ、その後ゆっくりと着陸を完了した。
フランスはパリ市の北、約25KMに位置するシャルル・ド・ゴール(CDG)空港。
第三新東京市からのフライトを終え、シンジたち一行を乗せたエール・フランス(AF)機が着陸したのが、このCDGである。
この空港はヨーロッパ最大の国際空港で、第1・第2とふたつのターミナルが存在する。
石畳やレンガの道……
それに中世から続く町並みや、聖堂などのイメージからはおよそかけ離れた、まるで前世紀に描かれたSF調の近代建築の粋を結集したエア・ターミナルである。

いささか緊張の面持ちで、シンジたちはボーディング・ブリッジからサテライトを通過し、動く歩道でトラジット・フロアを抜けた。
ここでも、動く歩道に感動したらしいガルムは、無意味に楽しそうだった。
彼女のいでたちは今回も普段と全く変わらず、素裸にTシャツ一枚を羽織っただけで、下着の類は一切付けていない。
それゆえ、あんまり飛び跳ねられると素肌を晒すことになって、保護者であるシンジとしては冷や汗ものなのだが……
彼女はそんなことは一切関知してくれいのだった。

「ここが、フランスなのか……」
カヲルが歩道の流れに身を任せたまま、感慨深げに言った。
入国審査はまだだが、実際にここはもうフランスといっていい。
「近代的な建物だからなんだか実感が湧かないけど、確かにここはもうほとんどフランスなんだよね」
シンジがその心情を察したか、微かに微笑んで言う。
「パリか」
ひとり小さく呟くと、シンジは瞳を閉じた。
心を澄まし、600年前の思い出を呼び起こす。

「僕の知っているパリは……
僕とラ・ピュセルが駆け抜けた時代のパリは、イングランド=ブルゴーニュ連合の支配下にあった」
そう。
1410年にアランソン侯は生まれた。
その8年後、1418年に王家に仇なすブルゴーニュ派がパリに入城を果たしたのだ。
この時から、フランス王国第一都市 <パリ> は、正当なる支配者とされる国王の手から離れたわけである。

「僕、アルテュール・ド・リッシュモンや、シンジ君……
つまりアランソン侯が属する <フランス王国軍> の大きな目標の1つが、このパリの奪還であったわけだね」
「……うん」
軽く頷くと、シンジは何かを考え込むように再び沈黙した。

やがて到着フロアに出た一行は、預けていた荷物がターン・テーブルで運ばれてくるのを待った。
が、待てど暮らせど一向にやってくる気配がない。
「まったく。まだこないの、私たちの荷物は?」
気の短いアスカ嬢が、苛立ちを隠そうともせずに言った。
すでに小一時間は待っているというのに、彼らの荷物は見えてこない。
だが実際は、彼らの荷物だけが特別遅いのではなく、皆一様に待たされているのだ。
ここで必要以上の時間を取らされるのは、この空港の欠点のひとつだった。

更に10分近く待たされてようやく各々の荷物を手にした一行は出口へ進んだ。
自動ドアの前に陣取っている通関係員に呼び止められることも無く、無事に税関を通過する。
このドアを一歩踏み出せば、ようやくそこはパリの街である。

600年越しのフランスは――パリ市は、快晴だった。
日本ほど強くはない日差しが、柔かにふりそそぐ。
抜けるような青空。
日の光を浴びて、縁が金色に輝いて見える幻想的な白雲。
世界中のどこからでも見渡せる、無限の空がやはりそこにはあった。

それを仰ぎ見てシンジは思う。
当たり前なんだけど……
空はどこまでも続いている。
途切れること無く、そう、どこまでも。
全ての街までも、どの国までも。

そして、600年前のフランスにもこの青空はあった。
ずっとずっと、在り続けた。
変わらない空と、終わることのない時の流れ。

辿っていけば……
いつか手が届くかもしれない。
ラ・ピュセルが居た、あの瞬間に。
あの中世の頃の世界に。

どこまでも続いているのなら、それは過去まで、あの時まで続いているのではないか。
600年ぶりのフランス。
その地にやってきたシンジは、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「さて、それで……」
空港の玄関口。
発着所から次々と流れて行くタクシーやエアポート・バスを何気に見ながらアスカが口を開いた。
彼女の腰掛けているとてつもなく大きな赤いスーツケースは、ガルムくらいなら入れて運べそうな大きさだ。
「これからどうするのよ、シンジ?
良く考えたら私たちって、今回の旅行の詳しいスケジュールとかプランって全然聞いてなかったのよね」

「そう言えばそうだねぇ」
カヲルは間延びした声で言った。
「僕もフランスに行けると聞いて、慌てて用意に掛かっていたせいで、そのあたりのことは全然考えていなかったけど……
本当にどうするつもりなんだい、シンジくん?」
言うまでもない。
シンジにとって、やるべきことはただ1つであった。

「彼女の軌跡を追う」

何度か目を瞬くとカヲルは訊いた。
「彼女……ラ・ピュセルのことかい?」
その言葉に、シンジは頷いた。
シンジが、アランソン侯としてこのフランスへやって来たのは、まさしくその為だった。
かつて彼女が一介の村娘から聖処女として立ち、歴史の中の一瞬を駆け抜けるように生きた――
その命の軌跡。

彼はそれを追うことで、自らの中に何かを見出そうとしていた。
時空を駆ける術。
彼女を迎えに行く術を。
乙女との約束へ至る道を。

「しかし、彼女の軌跡というが……具体的にはどうするんだい?」
カヲルの問いに、シンジは躰ごと向き直って応じた。
「まず、彼女の生まれた <ドン・レミの村> に行く。
彼女がどんなところで生を受けたか、まず見たいんだ。
彼女に纏わる歴史上の建築物の多くはまだ残されているらしいから、多分、彼女の生家も見られると思う。
まず、今日はその村を目指す。
その後は、彼女が辿った道をそのまま追っていくことにしたいんだ」

シンジは一旦目を閉じると、しばらくして静かに開いた。

「彼女はドン・レミで生まれ、そこで神の声を聞いた。
それを受けて彼女はシノンへ向かうことを決意したんだ。
当時、そのシノンにはシャルル王太子がいた。後の <シャルル勝利王> になる男だよ」
「だが、彼女がそのシノンの街で出会った本当に大切な人物は、シャルル勝利王ではない」
カヲルはシンジの言葉を補足するように言った。

「その男こそ、アランソン侯ジャン二世。……つまり、シンジ君。君だった」

アスカが掛けていた自分の赤のトランクから腰を上げると纏めた。
「つまり、その娘が一生を掛けて歩んだ道を今、あんたは辿っていきたいわけね。
まずその彼女が生まれたドン・レミの村からはじまり……」
アスカの言葉をカヲルが継ぐ。

「そして、彼女が消えたあの <ルーアンの街> へと続く、乙女の描いた軌跡を追う旅――か」






SESSION・75
『帰郷の旅人』

ドン・レミの村は、拍子抜けするくらい小さな村だった。

一行は、パリから列車でナンシーへ。
更にナンシーからヌーフシャトーへ向かった。
そこから、1日何本もないバスにタイミング良く乗る。
ラ・ピュセルがいた頃とさして変わり無かろう、長閑極まりない田園地帯をバスに揺られること半時間。
ひょっこりと現われたのがドン・レミの村だった。

村の端から端まで、ものの数分しか掛からない。
ふと気を抜けばバスに乗ったまま見過ごしてしまうくらいの、ひっそりとした小さな小さな村。
まるでシンジ達が訪れることを知った上で、特別にセットを仕立てたかのような、そんな感じさえする。

きゃいきゃいと意味不明なはしゃぎ声を放つガルム以外は、一行は終始無言だった。
シンジはもちろん、アスカもこの国に単純に観光旅行に来たとは思っていない。
これは必要な旅なのだ。
そして、何かを得て帰らねばならない道なのだ。
そう考えると、自然気も引き締まってくる。

このドン・レミの村はラ・ピュセルの生まれ故郷であるだけあり、ちょっとした観光地として知れているようだ。
村の入り口には、 <Domremy la Pucelle> と大きく書かれた案内板が設置されている。
その文字の両側には、青地に百合の花をあしらったシンボルが描かれていた。
彼女が <聖処女> として身に付けることを許された、中世フランス王国の王家の紋章である。

その案内にしたがって、シンジたち一行は村の中に足を踏み入れた。

「……ここが」
シンジは、誰にも聞き取れないほどの小声で呟いた。
日本とはまったく雰囲気の異なる、たしかにフランスの空気。
村の中では比較的大きな建築物となる、あの古い教会も……きっと、当時の面影をそのままに守り続けてきたのであろう。
ピュセルの波動は、600年の時の流れに薄れ消えてしまっていたが、それでもまだ中世の時の香りがシンジには感じられた。

「シンジ……」
真一文字に口を噤んだまま、じっと村の空気を感じ入るシンジにアスカが遠慮がちに声を掛けた。
「駄目だ。ここには、彼女の波動はもう残っていない。
あまりにも多くの人の気配と、遥かな時の流れに掠れ消失してしまったのだろうけど……」
カヲルはただ静かにそんなシンジを見詰めていた。
「だけど、此処に来れてよかった。
何故だろう、凄く……すごく懐かしいんだ。ただ、あの頃の香りを感じることが出来るだけで……
それでだけで今の僕の心が動くには十分みたいだ」

カヲルには、シンジの気持ちが痛いほど良く分かった。
彼らは帰郷したのだ。
ある意味忘れられ、取り残された何かにようやく追いつけたのだ。
特にシンジからすれば、中世に思い残してきた大きな物がある。
その忘れ物をここに来て意識するだけで、感傷的になってしまうというものだ。

村の中では一際目立つ古い教会のとなりに、見落としてしまいそうな程そっけなく、彼女の生家は残されていた。
そう、確かにそうだった。
彼女の口から、600年前、直接聞いたっけ。
夜空に浮かぶ月の光を浴びながら、僕らは他愛もない話を何度も繰り返した。
あの時の彼女の微笑みがシンジの脳裏に浮かんできた。
だから、そのあっという間の幻に、シンジは微笑み返した。

「ラ・ピュセル、確かに君から聞いたよね。
自分の家の隣には教会があって、まだラ・ピュセルとして旅立つ前よくその教会に通っていたって。
あの頃はまだ戦争に行くなんて考えもせず、糸を紡いだり織物をしてたりして……
自分はそれが得意で、そんじょそこらの女の人には負けたりしなかったって、珍しく自慢げに言ってたっけ」
シンジは何故かおかしくなって、クスクス笑った。

ふと傍らを見れば、600年前みたいに……
あの時みたいに、ラ・ピュセルがいてくれるのではないかと、そんな気分にさえなった。

――ピュセル、感じてくれてる?

今、僕はね、600年前君が生まれ育った、故郷の村にいるんだよ。
君が戦場の合間に、帰りたいと呟いていたその場所に、僕は立っているんだよ。
……不思議だよね。
僕は確かに君と出会い、言葉を交わしたはずなのに――
なのに、君がいなくなった遥か未来の世界で、こうして君に語りかけている。

アスカとカヲルは、互いに顔を見合わせた。
フランスに来て以来、シンジは何度と無く突然立ち止まり、ある時は瞳を閉じ、ある時は空を仰いで何十分もその場に佇むというようなことを繰り返していた。
「シンジ、どうしたのかしら。
前々からボケボケっとした奴だったけど、今回のはちょっと雰囲気違うわ。
なんか、声がかけ難いのよね、ああしていられると」
中世の雰囲気を色濃く残すその空間に、完全に溶け込んだまま佇むシンジ。
そんな彼を、遠目に眺めながらアスカは言った。
「……」

カヲルはしばらく間を置いてから、言った。
「察してあげるといい。
彼は今、かつて人類の誰も経験したことのない想いを胸に、この場所に立っているんだ。
600年間に全てを忘れたままの、時を越えた帰郷。
誰もそんな彼の心は分からない。
万感胸に迫る、そんな感じなんじゃないかな。今のシンジ君の胸中は」
にっこりと微笑んでカヲルは続ける。

「だから、遠くから見守ってあげよう。
約束の地、フランス。想いと思い出集う場所、フランス。
彼がこの地で何を想い、何を得るのか――
……そして君は、そのためにここまでやって来たのだろう?」
あまりにも穏やかな笑みを浮かべるカヲルに、アスカは戸惑った。
「わ……分かってるわよ、そんなこと」
結局、散々迷った末アスカはぶっきらぼうにそう返した。
その言葉に、カヲルはもう一度にっこりと微笑んだ。

しばらくして一行が辿り着いたラ・ピュセルの生家は、何の変哲もないただの民家だった。

特徴といえば、何というか長方形を斜めにスパリと切り落としたかのような……
分かりやすく言えば、カッターナイフの刃先のような形をしていることだけだ。
木々に囲まれた彼女の生家の手前には、観光スポットであるためか事務所のようなものが設置されている。
残念ながら、もう夕闇の刻だけあって受付を終了したらしく、人の気配はなかった。

「へうさま、へうさま?」
シンジの上着の裾を握ったまま、彼の後ろをチョコチョコついて回っていたガルムが声を掛けてきた。
「なに、ガルム?」
「あの人、誰でございまし?」
すっと小さな指が指したのは、ラ・ピュセルの生家の玄関上方に設置された女性の像だ。
「あれは……」
ここに来て、シンジはようやく悟った。

そういえば、このドン・レミの村には幾つかの彫像があった。
女性が天使に導かれて剣を翳している像や、祈りを捧げる少女を模った像。
そして、このラ・ピュセルの生家に飾られる像。
どれもそのラ・ピュセル本人を模したものなのだ。
ラ・ピュセルの彫像なのだ。

「あれは恐らく、僕の一番大切な人の像だよ」
「 <ぞー> って?」
ガルムは首を傾げて訊いた。
「もういなくなってしまった人の姿を、ああいう風に石に彫って残しておくもののことだよ」
「がうむのも何処かにありまし?」
どうやら、誰しも自分の像が何処かに飾ってあるものと考えたようだ。

「いや、ガルムのはないんじゃないかな……」
答えながらも、シンジの心は既にそこには無かった。
今までラ・ピュセルの像が、彼女のものであることに気付かなかったのは……
そう。全然似ていなかったからだ。
アランソン侯の知っているラ・ピュセルの特徴を、欠片も捉えていなかったからだ。

そしてなにより、アランソン侯にとって、彼女は彫像となるような人ではなかったからだ。

彼女はあんなにヒラヒラしたスカートなど、まず人前でははかなかったし、髪もあんなふうに長くなかった。
あの像を彫った人間は、ラ・ピュセルのあの神秘的な蒼銀など見たことがないに違いない。
それに彼女はあんなにふっくらとはしていなかった。
戦場にいてはいけないと強く彼に思わせるほど、華奢で小さな少女だった。

何故だろうか、シンジは不意に憤りを覚えた。
何も分かっていない。
この人達は、何も分かっていない。
勝手に神聖視して、勝手に祭り上げて。
天使だの聖女だのと、誰が決めたのだ?
彼女はそんな名誉など望んでいなかった!

彼女を吊るし上げ、目の前で火炙りにして……
それを嘲笑と共に見詰めていたのは誰だ?
教会の下賎どもではないか。
彼女の力を恐れた貴族どもではないか。
それにも関わらず今尚、こんな風に……こんな風に彼女を辱めるのか?

真実の彼女を知るアランソン侯にとって、それは彼女に対する侮辱にも等しかった。

彼女は監視機構に弄ばれただけだ。
散々利用され、用が済んだら捨てられて……

彼女は天使じゃない!
彼女は聖女じゃない!
僕は知っている――
彼女はひとりの少女だった!

ラ・ピュセルは後世名を残し、彫像にされ、聖女と崇拝されることなどこれっぽっちも望んではいなかった。
ただ、世界との絆を欲していた。
使徒としてではなく、人として生きることを望んでいただけなのだ。
生きる意味を探していた、ただの少女ではないか!

彼女は生きたかったのだ!

シンジは両手を広げ、生家の壁面に飾られたピュセルの彫像を仰ぎ見て心の咆哮を上げた。

ただ、人のあたたかな絆の中で

彼女はただひとりの少女として、静かに暮らしたかっただけなのだ

僕と共に、心のままに生きたかっただけなのだ!


流れない涙の代わりに、降るはずのない星の瞬きはじめた空から、

一滴の雨粒が落ち――

心叫ぶ侯爵の頬を、ゆっくりと滑り落ちていった




TO BE CONTINUED……






次回予告


新世紀、侯爵は廃虚のシノンで

中世、乙女は月の囁くアランソンで

想いをのせたストラディバリウスの調べが……

想いを込めたささやかな歌声が……

600年の時空を超えて重なり逢う

滅びたはずの絆が今、ここに蘇る




中世完結編

CHAPTERXXIII

「時空を越える歌声」

……だから

想いを調べに乗せて

この唄を歌おう



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INDEX



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