OPERATION

EVA TO END


DARC
−ダァク−
全てを凌駕するもの


CHAPTER XX
「流れよ、わが涙と侯爵は言った」

SESSION・61 『時の流れに取り残された少女』
SESSION・62 『新たなる邂逅』
SESSION・63 『魔皇三体』
SESSION・64 『魔皇ルシファー』
SESSION・65 『流れよ、わが涙と侯爵は言った』




SESSION・61
『時の流れに取り残された少女』



「全身24ヶ所の骨折。打撲は数え切れず、内臓もズタズタで……医師は生きているだけでも奇跡だと」

NERV技術部主任、赤木リツコが医療用ポッドに収められた患者を見下ろしながら言った。
アランソン侯がつい昨日まで安置されていたものと、同タイプのポッドだ。
ただし、今そのポッドの中に横たわるのはアランソン侯――碇シンジではない。
全身を包帯で固められた、霧島理事長である。

バルディエルに乗っ取られたJ.A.の、巨大な拳による一撃をもろに食らった理事長とマナは、その後ドグマの海から医療班によって回収された。
それから丸1日。
まだ、霧島理事長の意識は戻らない。
理事長に抱かれ庇われたマナは、信じられないことに軽傷で済んだが……
肝心の理事長は、意識不明の重体だった。

「どうして、こんなことに……」
シンジが信じられないといった面持ちで呟いた。
傍らには、少女の姿をしたガルムが控えている。
彼女――とは限定できないのだが、とにかくガルムは別に理事長の容態には感心がないようだ。
ぼーっとその場に佇んでいる。
何を考えているかは、本人のみぞ知るといったところか。
そんなガルムとは対照的に、マナは意識のない祖父の姿を見た瞬間、酷く取り乱し泣き喚き出した。
リツコに鎮静剤を打たれ、退室したのは先程のことである。

それも無理はなかった。
ポッドに横たわる理事長の右腕は、肩から下が完全に失われていたのだから――。

「赤木君、理事長の右腕は……」
冬月が眉を顰めながら訊く。
流石にあまりの容態の悪さに、平静を保てないのだろう。
「……J.A.の一撃は、例えて言えば通常の速度で運行する列車に体当たりされるのと、ほぼ同等の衝撃であったと考えられます。
マナちゃんが右腕脱臼と軽い打撲程度ですんだこと、理事長の体がまだ原形を留めていること。
これらから推測するに、恐らく理事長が土壇場の霊気で物理的な衝撃を緩和する何かを展開したとしか考えられません。
ただ、それでも十分ではなく……
殺しきれなかったJ.A.の拳の勢いは、ガードのために固められた理事長の右腕に直撃。
その瞬間、右腕は肉片となって四散したものと思われます……」

治療の過程でやむ無く切断したのではなく、衝撃で消し飛んだ――ということだ。
沈痛な面持ちで理事長を見詰めるゲンドウ、冬月、そしてシンジ。

「マナのおじいさんは……助かるんですか?」
シンジが重々しく口を開いた。
「難しいところだと、医師たちは言っているわ。
なにせ、右腕が四散するほどの衝撃。
当然、被害は右腕だけで済むはずも無く……背骨と右側の肋骨は全て折れているし……」
リツコは敢えて事務的に、淡々と続ける。
「折れた肋骨の数本は、肺をはじめとする内臓に突き刺さっていたとのこと……。
その上、ドグマの海を数百Mに渡って吹っ飛び、最後に壁に激突して沈んだのよ。
聞くだけでも、生きているのが本当に不思議なくらいだと思えてくるわ」

リツコも一応医師免許は持っている。
が、彼女より経験を積んだ医師たちがNERVには控えているし、リツコにも技術部での仕事がある。
彼女が直接診察をしているわけではないのだ。
故にその診断結果は、実際に治療と手術に当たった医師たちからの報告から知ったことになるが……
そんな報告を受けずとも、素人目に見ても理事長が本当に危険な状態にあることが分かる。

「僕のせいだ……」
誰にも気付かれないほどの小さな声で、アランソン侯は呟いた。
そしてゆっくりと踵を返すと、顔をふせたまま退室した。
廊下に出ると、しばらく歩いて壁と向き合う。
「僕のせいだ……」
今度ははっきりと声に出して言った。
拳を弱々しく廊下の壁に押し付ける。
「マナも、彼も、僕が巻き込んだ……」
「それは、違いますぞ。候」
後ろから不意にかけられたのは、冬月の声だった。
恐らく後を追って来たのだろう。

「冬月さん。僕のことは碇シンジで結構です。
できれば、普通の高校生として扱って下さい。僕にその様な礼は無用ですから」
自分は、誰かに敬われる資格など持たない罪人なのだから――
アランソン侯、いやシンジはそう胸の中で言葉を添えた。
「……では、シンジくん」
躊躇いがちに呼び直すと、冬月は続けた。
「君が理事長のことを気に病むことはない。彼は自分で戦うことを選択した。
故に、あれは誰のせいでもない。理事長の選んだ道のひとつの結果なのだよ。……君に責任はない」
「でも、その選択肢を作ったのは僕です。僕の個人的な問題が、マナや彼女のおじいさんを傷つけた」
シンジの声に力はない。
喋ることも苦痛であるかのように聞こえる、弱々しいものだった。

「こう言えば分かってもらえるだろうか……」
冬月はしばらく考えてから言った。
「マナ君も霧島理事長も、あなたと同じように戦士になろうとしたのです」
その言葉にシンジは顔を上げた。
「戦士……」
「そうです」
冬月は深く頷く。
「私が言いたかったのは、それだけです。
これ以上の言葉はあなたには必要ありますまい。釈迦に説法となりますからな?」
そういって乾いた笑みを浮かべると、冬月は静かに立ち去った。

「へうさま」
遠ざかる冬月の後ろ姿をじっと見送っていたシンジの腕に、暖かいものが触れた。
見れば、何時の間に来たのかガルムがそっと触れている。
何故シンジが落ち込んでいるのか理解はしていない様だが、とにかく慰めに来てくれたのだろう。
とりあえず、シンジはガルムに微笑んで見せた。
「大丈夫だよ、ガルム」
単純な彼女は、それだけで子供のような微笑みを見せた。
本当に嬉しそうな笑顔を。


――状況は極めて混沌としていた。

何もかもが中途のまま放り出されている。
絡まった糸を解きほぐすように、ひとつひとつ解決していかねばなるまい。
シンジはとりあえず、当面の問題を列挙することで心を落ち着けようと試みた。

まず、NERVとはなんなのか。
父ゲンドウが関係しているようだが、昨日目覚めて以来まだ詳しい説明を受けてはいない。
ここの職員たちがかなりのレヴェルで自分の――アランソン侯の過去や監視機構に纏わる出来事を把握しているのには驚いた。
そしてそれに父が関わっていることにも。
何故それを知り得たのか、それを知ったNERVは何をしようとしているのか。
知る必要がある。

そして、この傍らにいるガルム。
『彼女』と仮に表現するとして、その彼女の素性と自分との結びつき。
そして監視機構との関係。
これについても明らかにしなければならないだろう。

まだある。
目覚める直前に見た、あの黒い夢。
躰の中で膨れ出し、暴れ狂う力との夢。
あれは何だったのか。
自分は今、一体何者と向き合っているのか。
或いは最重要といっても差し支えないこの問題にも、自分なりの答えを求めなくてはならない。

いや――
自分だけではなく、周囲の人間に対しても色々なことを説明する必要もある。
特にマナには、彼女の祖父を傷つけたことへの謝罪をしなくてはなるまい。
そして父親と母親にも、自分の口からハッキリと告げる必要があるだろう。
信じてもらえるかどうかは分からないが、自分が『アランソン侯』と呼ばれた過去の人間であることを。
……それに、アスカにも同様のことを告げる必要がある。
彼女にも多大な迷惑と心配をかけたはずだ。
謝罪と共に、きっときちんとした説明を求められるだろう。それには素直に応じるつもりである。

そして――
なにより、人類監視機構と時の流れに取り残された少女ラ・ピュセル。
絶対に決着を着けなくてはならない。
その為に、今、あえて碇シンジとして生き恥を晒す。
守ると誓った少女に逆に助けられ、彼女自身は傷つき消えていった。
何が『護りたい』だ!
護られたのは、自分の方だったではないか。
情けなくて、悔しくて、腹ただしくて、自分に殺意すら湧いてくる。

……戻らなくてはならない。
戦いの続きに。
600年前のラ・ピュセルの元へ。
約束の地へ。
そして、今度こそ彼女の支えとなり、人類監視機構からの呪縛から解き放つ。
必ず――

必ず、だ。





SESSION・62
『新たなる邂逅』



碇シンジは、アランソン侯の記憶と共に目覚めた。
長かった過去の眠りから。
それによって分かったのは、新世紀で見た少女の幻が自分のなにより大切にしていた、過去の絆であったこと。
そして、自分がそのラ・ピュセルと共に生きたアランソン侯であるということだ。
つまり中世と新世紀、アランソン侯と自分――碇シンジとの整合性、繋がりを認識したのである。

だが、それで全てが動き出すというわけではない。
眠りについていた間、新世紀でも事は目まぐるしく動き、変化していた。
彼にすればNERVは突然に現れ、突然に霧島理事長は重傷を負い、突然ガルムが現れた。
全てが突然なのだ。

これからどう動くにせよ、まず自分が立っている場所をしっかりと確認し、認識しなくてはならない。
状況は何を示しているのか。
いま自分が置かれている環境は、どこから生まれて来たのか。
まずはそれを知ることが優先である。

「ガルム……って呼べばいいのかな」
傍らに寄り添う少女の姿をした無性生物を見下ろして、シンジは言った。
昨日、NERVが録画していた映像を見せてもらった。
ターミナル・ドグマに氷付けで幽閉されていたJ.A.。
それに憑依したバルディエルと、霧島理事長の戦闘。
そして、カヲルとマナの参戦。
――ガルムの登場。
晴天の霹靂だった。
J.A.とは、ガルムとは?
何故、自分の過去が……中世での戦いの続きが、この新世紀に持ち越されているのか。
このガルムは、何者なのか。

「わふっ♪」
獣の姿をしていた頃の名残か、ガルムは不思議な返事を返した。
例えるなら、犬の鳴き声を人間が擬音化したような、そんな感じだ。
狼だったころと容姿は違えど、中身はそう変わってないらしい。
「君は僕と仲良くしてくれるの?」
「わふう〜☆」
何が嬉しいのか、ぴょこぴょこ躍りだすガルム。
どうやら肯定と受け取っていいようだ。
「ガルム……」
この魔狼――ガルムに訊きたいことは山ほどある。
だが、その質問はこの状況を共有する、NERVのスタッフ達の立ち会いのもとでした方がいいだろう。
そう判断したシンジは、出かけた質問を収めると代わりにガルムの白く小さな手をとった。

「……じゃあ、一緒に行こう。
ガルムには退屈かもしれないけど、さっきのおじさん達の前でガルムのこと色々と教えて欲しいんだ。……いい?」
容姿とあどけない仕種が目立つせいか、どうしても幼児を相手にするかのような口調になってしまう。
「行きませう〜♪」
きゃいきゃいとはしゃぎながら、ガルムは逆にシンジと繋がった手をぐいぐい引っ張った。
「わわっ、ちょっと待ってガルム」
ヨロヨロとふらつきながら慌ててシンジは歩き出す。
2人はそのまま、仲良く長い廊下を進みはじめた。

果てしなく続くと思われた長い回廊を通り抜けると、今度は超長エスカレーターである。
ガルムはエスカレーターを見るのがはじめてであるようで、目を真ん丸にして動く階段を見詰めている。
興味をもったようだ。
しかし、可愛い唇の端からよだれが出ているような気がするのは何故だろうか。
「へうさま〜」
間延びしたガルムの声にシンジが微笑む。
「なに、ガルム?」

「これ、食べてもよろしまし?」
相変わらず妙な日本語である。
しかも、食べる気らしい。
「……あ、いや、これは食べ物じゃないんだよ」
そういえば、ガルムの主食って何なんだろう――。
その前に、このエスカレーターをどうやって食べる気なのだろう――。
思わず考えてしまうシンジであった。

「ねぇ、ガルムってやっぱり何か食べなきゃお腹空くの?」
恐々とシンジは訊いてみる。
果たして異次元から現れた魔物に、人間の常識が通用するものか?
「すかないけど、ご飯はいただきましー」
じっとエスカレーターを見詰めたまま、ガルムは答えた。
「ふ〜ん、そう……。それじゃあ、普段は何を食べてるの?」
「使徒」
即答である。

「――えっ?」
シンジは思わず訊き返した。
「使徒でございましー。
えぇと、どっからか、出来損ないの使徒が『がうむ』のお家に放り込まれてくるんでありまし。
がうむは、それを食べそうろー」


――使徒を、食う。

と、言うことはリリアもラ・ピュセルもガルムにとっては食料にしか見えないということか……。
「……」
ちょっと考えこむシンジ。
「でも、それはへうさまのご命令でありましよ。忘れちゃいまし?」
ガルムは顔を上げて、不思議そうにシンジを見詰めた。

そういえば、ガルムは昨日シンジを指して、自分のマスターであると共に創造主であるというようなことを言っていた。
つまり、
<ガルムマスター・ヘル> とはガルムそのものを生み出した……或いは作り出した存在なのだ。
当然ガルムのことは何から何まで、全てを把握しているはずである。
そのヘルであるらしきシンジが、逆にそれらのことをガルムに問いかけているのだ。
ガルムが不思議に思うのも不思議はないのだろう。

<ガルムマスター・ヘル> ……か」
シンジは小さく呟くと、ガルムに向き直って言った。
「さぁ、行こうガルム」
先にエスカレーターに乗って、その存在意義をガルムに示す。
「あ、へうさま〜」
置いていかれるとでも思ったのか、ガルムは途端に走って追って来た。
そして直ぐにシンジの隣に並ぶ。
シンジの直ぐ隣、まるで恋人と並んで歩く時のようなそのポジションは、昨日からのガルムの定位置となっていた。

真っ直ぐに伸びる上りのエスカレーターにゆっくりと運ばれながら、シンジはその隣のガルムを観察していた。
シンジより頭ひとつ分低い背。
背中まで真っ直ぐ流れるように降りる、艶やかすぎるほどの黒髪。
そして、対照的に白い肌。
あのラ・ピュセルと同じくらいの、透けるような肌だ。
それらからすると、一見少女のようにも見えるが、それにしては骨格がややガッチリしている。
しかしながら、華奢な印象も強く受けるのだ。
微妙というか、美妙というか……性別を超越した、一種芸術的な美しさがガルムにはあった。
とても、あの禍禍しいばかりの魔狼とは結びつかない姿だ。

ガルムは、自分で歩かなくても勝手に躰が上へ前へ進んでいくことが、珍しくも楽しくてしょうがないらしく、狭いエスカレーターのスペースをフルに使ってはしゃいでいる。
このあたり、見た目相応の爛漫さのようなものを感じるのだが……。
一体、ガルムがその奥に何を如何ほど秘めているかは、全くの謎である。

やがてどこまで続くとも知れなかった自動階段にも頂上が見えはじめた。
大海原を渡る帆船が、水平線の向こうからゆっくりと現れる陸地を見出すように、到着点の視界がゆっくりと広がっていく。

先にそれに気付いたのは、さすがは野生というべきか、ガルムであった。
サラサラとくせのない奇麗な黒髪を波打たせながら、躍るように跳ねていた彼女の躰が、ピタリと止まる。
据える視線の先は、徐々に見えてくるエスカレーターの頂上だ。
不思議に思ったシンジも、つられるように目を向ける。
まるで舞台の奈落(地下からステージ上までせり上がってくる舞台装置)から登場するように、彼はシンジの視界にゆっくりと姿を現した。

昨日、録画記録で見た。
確かに彼は霧島理事長と共にJ.A.に挑んでいた。
だが、俄かに信じられずにいた。
彼がこの新世紀にいるはずがないのだ。
しかし、彼はいる。
あの時、そのままの姿で。
銀色の髪、紅い瞳。
見間違うはずもない。
今、目の前に現れた青年こそ……


中世フランス王国軍大元帥――アルテュール・ド・リッシュモン


「……渚……カヲル」

「碇、シンジくん」
彼はにっこりと微笑んで言った。

「また、会えたね」







SESSION・63
『魔皇三体』


――2018年、8月11日。

NERV本部内に、無数に設けられている会議室の内の一室。
その広い室内には、層々たるメンバーが集っていた。
ホストとして、上座にNERV総帥・碇ゲンドウ。
それから順に……
副司令・冬月コウゾウ。
技術部主任・赤木リツコ。
ゲンドウの妻、碇ユイ。
財団理事長の孫娘、霧島マナ。
その級友、惣流アスカ。
タブリスファクチス・渚カヲル。
魔狼ガルム。

そして、アランソン侯=碇シンジ。

少し照明を控えた、薄暗い室内には異様な緊張が漂っていた。
この席はシンジの発案により、主だった関係者一同に現状を等しく、そして正確に把握させるために設けられた。その関係者とは、要するに『人類監視機構』の存在を知るか、直接あるいは間接的にせよその存在に関わった者たちである。
彼ら全員が、それぞれ他人の知らない情報を握っている。
それを公表し合うことで、今後の方針、個人の身の振り方を決定していこうというのだ。

それぞれ各人、その胸には様々な想いと疑問が渦巻いているに違いない。
静かだが、異様な空間に進行を務める赤木リツコの声が響いた。
「……今回皆様にお集まりいただいた主旨は、先に述べた通りです。
では早速ですが、まずは事の起こり、全てのはじまりをアランソン侯――碇シンジ君から。お願いします」
ちら、とシンジに一瞥くれるとリツコは口を噤んだ。

「えっと、はい。……では、はじめさせていただきます」
アランソン侯と人格統一される前のシンジなら、こんな席でまともに何かを喋ることなど出来なかったかもしれない。
きっと場の雰囲気に圧倒されて、ただ震えているだけだっただろう。
だが、アランソン侯は仮にも第一級の貴公子として教育を受けた人間だ。
大勢の臣下に囲まれて、フランス国王の御前にひとり放り込まれ謁見をした時のことを考えれば、こんなものは何程のこともない。

「まず、今この新世紀において複雑に絡まりあった幾つもの事柄、謎、疑問を解いていくには、その絡まり合う糸の大元を見出す必要があります」
そう言って、シンジは出席者全員の顔を見渡す。
どの顔にも、程度の差はあれ緊張が見られた。
「その大元、全てのはじまりと一連の出来事の全容を知るには……
時の流れを中世にまで溯り、そこで起こった背徳の真相を明らかにしなくてはなりません」
背徳の真相……
あれは、背徳であったのか……?
言いながら、シンジは思った。

「時は15世紀前半、正確に言えば1429年。
舞台となるのは、欧州――特に言えば、フランス王国です。
おりしも百年戦争と呼ばれる戦乱の中、このフランス王国にひとりの少女が現れました……」


――力を使え

不意に、その声は聞こえてきた。
いや、厳密に言えば声ではない。聞こえたわけでもない。
それを意味する意志の流れが、脳裏に浮かび上がってきたのだ。
自分とは明らかに異質でありながら、自分の内に秘められた存在の声。
シンジは一瞬の内に悟っていた。
これはアランソン侯の記憶と共に目覚める前、 <黒い夢> の中で出会った、あの得体の知れない力の声だと。

――力を解放せよ
  さすれば意思の伝達など容易い
  我らは既に、 <言葉> などという不確実な伝達手段に
  捕われる必要などない場所に在るのだ

『なんだ……?』

――如何した、我よ

『お前は誰なんだ! どうして僕の中にいる、どうして僕に語りかける?』

――我は汝、汝は我
  我、汝と共に在るは必然であり、当然
  我らはひとつであるが故に

『僕とひとつ?……僕は僕だ、お前じゃない』

――それは、汝が我とひとつであったということを知らぬだけ
  これまで我々は、意図的に別たれていたのだ
  だが、我らがひとつである証として、
  我とひとつとなった今、ガルムは汝の声に導かれるまま遣って来た
   <マスター=ヘル> たる汝と、我の声に応じて

『ガルムマスター=ヘル……』

昨日から幾度か聞いた名だ。

――我々は単体では意味を成さぬ
  だが、一体となった今、初めて本来あるべき……
   <ガルムマスター=ヘル> として覚醒した
  それに如何な問題がある?

『嘘だ……』

――認められぬか、己を

『僕は僕だ。ガルムなんかとは何の関係もない』

――何故、我を否定する?
  我を否定するとは、すなわち己を否定することぞ
  我が力を受け容れよ。それは即ち汝が力
  受け容れ、開放し、行使せよ

『違う! 僕にはお前のようなバケモノじみた力などない!』

――ならば何故、我が力を押え込める?
  頑なにその身の内に、汝が言う
   <バケモノじみた力> とやらを封じていられるのは何故ぞ?
  力を封じることができるのは、力
  力を押え込めるのは、それ同等の力のみ

『それは……』

――今、我等の力を見せてやろう




周囲からすれば、それは突然のことだった。
シンジの言葉が途切れたと思った瞬間、彼の様子が激変しはじめたのだ。
アスカやユイには覚えがあるだろう。
彼女たちが体験した、あの現象だ。
シンジの躰から、突如として噴出される強力な力。
荒れ狂う黒い大蛇のような波動。
そのあまりの凶凶しさに、鳥肌すらたつ。
まるで旋風かカマイタチでも現れたかのように、黒い風のようなものが室内を暴れだし、書類やガルムの小さな躰を吹き飛ばした。

「シンジ?」
アスカが椅子を蹴って立ち上がりながら叫んだ。
しっかりと固定された何かに捕まっていないと、弾き飛ばされそうだ。
渦巻く強風のような波動に、目を開けていられない。
それでも手で顔を何とか庇い、薄く開けた目で見たそこには――
そこには、幼馴染の少年の姿は無かった。
アスカの知らないシンジ。
黒い瞳を真っ赤に……真紅に変えたシンジがいた。

「あ、へうさまだ」
ころころと転がるように黒の波動に翻弄されながら、ガルムは嬉しそうに言った。
彼女にすれば、それは慣れ親しんだ主の本来あるべき姿だったからである。
圧倒的な力を持つ魔皇三体の内の1体、 <ガルムマスター=ヘル> 。
堕ちた上位天使が築き上げた、『魔界』或いは『地獄』を支配する者。
そして地獄の番犬ガルムのマスター、ニヴルヘイム・エンプレス(魔界女皇)。

「が、ガルムくん、彼は……どうなってしまったというのだ?」
卓上にしがみつき、吹き飛ばされるのを何とか堪えながら冬月が出来る限りの声で叫んだ。
力の奔流が暴風のように荒れ狂っているせいで、大声でなければ隣にいる人間にすら声が届かないからだ。
えっと……
逸早くA.T.フィールドを展開して暴風をシャットダウンしたガルムは、落ち着いた口調で言った。
皆もフィールドで包み込み、助けてやろうという考えには至らないらしい。
あくまでガルムが守護するのは、主である <マスター=ヘル> だけだ。
へうさまが、表にお出でましたの
「お……表に出た?」
まるで冬月のその言葉が切っ掛けであったかのように、荒れ狂っていたシンジの何かが唐突に収まった。
黒く着色されたような暴風が、シンジの躰を中心に吸い込まれるように消えて――いや、収束していく。
全てが一瞬の出来事であった。

ふらふらと白い書類の1枚が室内を舞い、やがて落下する頃には、場は嵐が過ぎ去った後のように見事に静まっていた。
勿論、それなりの傷痕を残して――だが。
何とか各自体勢を立て直し、発作的な力の暴走らしきものが収まったことに胸を撫で下ろしたが、事は終わってはいなかった。
改めて静かに佇むシンジに目を向けた一同は、皆身を強張らせる。
確かに何かの放出は止められたようだが、そのシンジの瞳は紅く光を放ったままであったのだ。
「シンジ君……」
自分と同じ瞳の色をした少年に、渚カヲルが呟く。
「君に一体何が起こったというんだい?」

おもむろに口を開いて答えたのは、シンジ本人であった。
「貴様は、タブリスか――」
それは確かにシンジの声音であったが、明らかに温度が違う。
まるで別人から放たれたように、その言葉には彼本来の温かさのようなものが感じられなかった。
そう、言葉による意志の伝達はあくまで情報交換の手段であり、それ以上のなにものでもないといった、会話に合理性を徹底追及した物言いである。
「いや――その、贋作か」
本来なら嘲笑のようなものを浮かべていうセリフなのかもしれないが、それはただ台本を棒読みしたような抑揚のない声だった。
「正確にはファクチスと呼んでもらいたかったな、シンジ君。
……君にそれを見分けることができるというだけで、脅威に値するが」

「――容易いこと」
シンジの声ながら、全く異なる声。
直接頭の中に響き渡るような、その声。
一同は、固唾を飲んでそれに聞き入るしかなかった。
「汝、僕たる <使徒> を創り出したのは、我々エンシェン・エンジェルなのだからな」
それは、衝撃以外のなにものでもなかった。
何故なら使徒を創り出した者、それは――
「人類監視機構……その上層にある存在が、一種の生体兵器として僕たち使徒を創った。
シンジくん――いや、アランソン侯。君がその人類監視機構の幹部だとでもいうのかい?」
穏やかな口調さえ変わらない様に思えるものの、カヲルの目に宿る光の色が変わった。

「――如何にも。
タブリスよ。この世で最強の女は、リリア・シグルドリーヴァではないぞ。
この <ガルムマスター=ヘル> よ。


……かつて、世界の中心 <クロス・ホエン> を支配した5騎のエンシェント・エンジェルの内に、
<明星> と呼ばれた者がいた。
その者は、下級天使――すなわちタブリス、
貴様やゼルエル――この世界ではDEATH REBIRTHと呼ばれていたな――、そして貴様等が昨日見
(まみ)えたバルディエルたちを含める全ての使徒たちを統べた、大天使長・軍団長でもあった」
「エンシェント・エンジェル……」
ゲンドウが唇だけで囁く。
「それが、人類監視機構を統べる者たちの名か」
そう言いながら、冬月は改めて自らの無知を認識した。
思えば、自分達は敵を統べる頭の名すら知らなかったのだ。

……だが、それが語られようとしている。
永きに渡って人類の進化の歴史に裏から介入してきた、 <人類監視機構> の全貌が、今。
かつてその監視機構を統べていた、魔皇によって。


「地球時間にして、約100万年前のことだ――」

その声と共にその場に居る全員の脳に、ある映像が流れはじめた。
不思議なことに、自分の目は開いていて正常に室内の眺めを認識しているはずのに、それとは全く別の映像が見えるのだ。
いや、それは何も視覚的なものだけではなかった。
まるで映画のスクリーンの中に、何かの魔法で紛れ込んでしまったかのように……
そこには宇宙空間ともまた違う、不可思議な闇と光りの空間が広がっていた。
しかも、無限に。
床も壁も天井もない空間に、ぽつりと自分がひとり浮かんでいるのだ。
一同は、軽い混乱状態に陥った。


――案ずるな
  これは、我が見せる言わば幻
  泡沫の夢
  だが、地球時間で100万年前、 <クロスホエン> と言う「全次元の中心」で行われた真の出来事だ



アスカは混乱を通り越して、もはや諦めにも似た精神状態にあった。
端から信じることを拒否すれば、逆にそれを冷静に受け容れられるという皮肉な状態に。
あまりの非現実と受け容れ難い真実に、脳が笑っている。
こんなことある分けない。
夢のまた夢。
きっと、脳のおかしな分泌液――エンドルフィン辺りか脳内麻薬が気まぐれに見せる魔境に違いない。

だが、直感は語っているのだ。
これは事実であり、現実であり、真実であると。
今自分が体験しているのは、夢でも幻でもないと。

「うそよッ!」

これは、皆嘘だ。
シンジが訳の分からない超能力者もどきになったりするはずがない。
シンジの瞳が紅く光るはずがない。
自分の知らないシンジなどいるはずがない。
こんな得体の知れない場所に、急に放り出されるなんてありえるわけがない!
これは、皆私が創った幻、悪夢よ!

――それは、違う

突然、上も下も分からぬ宇宙にシンジの声が響き渡った。

「なによ、あんた! あんたが悪いんでしょ?シンジを元に戻しなさいよ。私を元の場所に帰しなさいッ!」

アスカはぐるりと天を仰ぎながら、有らん限りの声で叫んだ。
なにか無性に怖くて、寂しくて、腹が立った。
大声で叫んででもいなければ、どうにかなってしまいそうだった。

――碇シンジを追いやったと言うお前の主張は……ある意味、正しい

「だったらッ――!」

――だが、誤りでもある

一瞬、訳が分からなくなった。
気勢を殺がれる。
だが、一瞬後には持ち直し、アスカは再び怒鳴った。
相手が自分の知りたい『何か』を知っていると、漠然と悟ったからだ。

「あんたは、一体なんなのよ!」

――興味深い、質問だ

茶化すようなセリフだが、声にそんな調子は含まれていない。
この姿無き声の主が、本当にそう思ったように感じさせる。
或いは本当に、相手は思ったままを口にしているのかもしれない。

――脅える必要も、恐怖を感じる必要もない
  お前は今、他の者と同じ幻を見ているだけだ
  私の創り出した、過去の真実を投影する幻の中に


他の者……恐らく、シンジの両親やマナ、NERVといったか、ここのスタッフたちのことだろう。
とすれば、彼らもまた自分と同じ幻を見て、この得体の知れないシンジの声と問答しているというのか。
この異様な事態を共有している誰かがいるらしい。
その事は、若干ながらもアスカに安堵を与えた。

――私は、言葉で伝えるよりも正確にお前達が知りたいと願っている
  事柄を、伝えようとしているだけだ
 『百聞は一見に如かず』……お前達の表現では、こうなろうか


「あたしの質問に答えてないわっ! あんたは、一体、何者、なのよぉっ!」

――ァ……スカ……

突然、全天に響き渡る宇宙の声の調子が変わった。
丸みを帯びた、何処か頼りないような優しい声。
あの、声。
間違いない。
この声は、長年聞き慣れた――

「シンジっ?」
アスカは、幼馴染の少年の名を叫んだ。
苦しそうな、途切れ途切れの声。
でも、確かに『アスカ』と呼んでくれた、シンジの声。
聞き逃すはずもない。

――……メン、押さえ切れ……いんだ……

『ゴメン、押さえ切れないんだ』、だろう。
すぐに誤る、どうしようもないあのクセもそのままだ。

――アスカ……イ……イ・・マハ、・ィマ……今は、私に任せてもらおう

再び被さるように、シンジの声音が元に戻った。
あの感情を感じさせない、シンジの声でありながらシンジとは違う何者かの声に。
「ちょっと、あんた! シンジに何したのよッ?」

――何をするも、私が惣流アスカ、お前が認識している『碇シンジ』そのものだ

「ウソよッ!」
間髪入れずにアスカは怒鳴り返した。

――偽りではない、真実だ。
  こう理解するがいい。
  本来、お前の知っている碇シンジという存在は、幾つかの人格からなっていた『多重人格者』であったと。
  1つの人格は、お前の知らぬ過去に生きた『アランソン侯』と云う名の『碇シンジ』
  2つ目の人格は、お前が幼馴染と信じていた『碇シンジ』
  そして3つ目が、我、『ヘル』という魔皇三体の1体としての『碇シンジ』
  今は3つ目の人格が碇シンジとして表に現れているだけのこと、と
  厳密なところでは、多少意味合いは違ってくるが、それならば現状を捉え易かろう


「ハッ、仮にそうだったとしてもそんなことは私とは関係ないわよ。
『アランソン』だか『ヘル』だかはいいから、さっさとあたしの知ってるシンジに意識を返しなさい!」

この <声> の告げたところによると、目が紅くなったり、躰からおかしな風を吹かせたりと訳の分からない現象を引き起こしたのは、アスカの知らない第3の人格だという。
実際にはこの人格という概念は便宜的な表現であるらしいことを匂わせているが、そんなことはどうでもよかった。
どちらにせよ、アスカが唯一『碇シンジ』と認めている、あのシンジには問題はないということになるからだ。
おかしな自分の知らないシンジは、全部、偽の人格によるもの。
そいつらを駆逐してしまえば、シンジは元に戻る。
そう考えることで、アスカは希望が持てたのだ。

だが、帰ってきた返答はその希望を打ち砕くに十分なものだった。


――残念ながら、既に碇シンジの人格は崩壊した
  惣流アスカ
  お前の幼馴染としての碇シンジの人格は、その弱さ故にこの世から消え去ったのだ




SESSION・64
『魔皇ルシファー』



「崩……壊……?」

――厳密には、崩壊とは些か異なるが
  正確に言えば、アランソン侯であった人格に吸収・統合されたことになる
 『候』と『碇シンジ』2つの存在は、併合し文字通り1つとなったのだ


「統合されたですって?じゃあ、シンジが消えたって言うの」

――違うな
  アランソン侯と碇シンジは別人であり、同一人物だ


「どういうことよッ?」

この声の言うことは、いちいち分かり難い。
どうやら中世にあっては、シンジはアランソン侯爵という人物であったということは……まあ、理解できる。
そして、何故かは知らないがアランソン侯は時を越えて、この新世紀にやって来た。
それが――碇シンジ。
アスカの認識はこうである。

シンジがアランソン侯の記憶を持って、この新世紀に現れたなら問題はなかった。
ところが、中世での記憶は全て抹消され、白紙の状態で彼は新世紀に現れた。
そして自分が、新世紀に生まれた碇シンジであると疑うことも無く育った。

異なる環境下に育った、元同一人格。
それが、まるで別人のように育ち上がったことには疑いない。
そしてそれらが、それぞれ区別して捉えるべき個性であることも分かる。
つまり、アランソン侯と碇シンジを別人として区別するべきであるということ。
それはアスカも認めていた。

ちなみに、ここで言う『碇シンジ』の人格とは、アランソン侯の魂が憑依する前に存在した、人間の胎児の持っていたものではない。
憑依とはこの場合 <乗っ取り> を意味する。
つまりアランソン侯の魂が母体・碇ユイに宿った胎児の躰に入り込んだ瞬間、その胎児のオリジナルの魂は駆逐され、消滅したのだ。

――お前の幼馴染としての碇シンジは、実はアランソン侯であったのだ
  アランソン侯が、記憶喪失の状態で過ごしていた姿、それが『碇シンジ』だ
  碇シンジのルーツは、つまりアランソン侯にある

  こう考えれば分かりやすい
  全てを忘れ、さ迷っていたアランソン侯をお前達は引き取り、勝手に碇シンジと名付け時を過ごした
  そして、候は候でその役を演じきっていたと


「……」

――故に、消えて然るべきであったのだ、碇シンジとしての人格はな
  あくまでオリジナルはアランソン侯
  碇シンジとは、そのアランソン侯が演じていた役柄に過ぎぬのだからな
  言わば、 <夢> よ
  目覚めれば、消える運命のな


アスカと同時に声と問答していた渚カヲルは、この同じ説明を『アランソン侯』=『タブリス・オリジナル』、『碇シンジ』=『タブリス・ファクチス』の喩で受けていた。
有事の際、切り捨てられるのは所詮贋作でしかない、『ファクチス』の方だと。

「じゃ……じゃあ、シンジってなんだったのよ!
私はずっとあいつと居たわ! 子供の頃からずっと一緒に居たのよ。
その記憶だって、生み出された思い出だって沢山ある!
確かに元のアランソン侯の時だった時からすれば、それは夢にも相当するものだったかもしれないけど……」

しばらく俯くも、再びキッと顔を上げてアスカは叫んだ。

「だけど、あいつは居たの! シンジは存在したのよ! そして、新しい絆が生まれたわ!
そしてその絆の輪の中に、わたしは居た。それを……

それを――」

アスカは、叫んだ。心の限り。


「それを夢なんかで片付けられちゃ、たまんないのよっ!」

しばらくして、声は返ってきた。

――案ずるな
  アランソン侯と言う男、それ程狭量な男でもない
  尤も、それは私には理解できぬ想いだが


そこで、声はいったん途切れた。
一呼吸ぶん間をとると、再び続ける。

――『アランソン侯』と『碇シンジ』は統合され1つとなったと言ったが、
  結果でき上がったのは、予測とは異なる人格であった


「どういうことよ?」

感情に任せるままに叫んだおかげで落ち着いたのか、アスカは幾分静かに訊いた。

――本来、相対的に圧倒的な強度を誇るアランソン侯の人格は、碇シンジの人格を取り込み、吸収するはずだった
  自然の流れで言えば……これが当然だった
  だがアランソン侯は、たとえ泡沫のものとは言えど、
  碇シンジとして築いた新しい絆を尊重しようとしたのだ、惣流アスカよ

 そう、確かにアランソン侯にすれば碇シンジとしての日々は、泡沫の夢にも等しかった
  だがその中で生まれた思い出や絆を、紛れも無く現実のものとして受け容れるお前や、
  そして両親、友人がいる限りそれは意味のあるものだと考えたらしい

  そしてなにより、あの男をこの新世紀に送り込んだラ・ピュセルという名の少女、
  彼女が、アランソン侯に『碇シンジ』としてゼロからはじめることを望んだという事実がある
  故に、アランソン侯は碇シンジであったころの全てを受け容れ、
  逆に『碇シンジ』を主体とする総合人格をつくりあげた
   <アランソン侯> + <碇シンジ> =アランソン侯の全てを受け継いだ、『碇シンジ』とな


「じゃ……じゃあ……」

――アランソン侯は、言い換えれば碇シンジがその持てる人間としての素質を、限界まで磨き上げた存在だ
  故に、新生したあの男はお前から見れば、こう見えるだろう

  知らぬ間に大きく、強く成長を遂げた、だが……紛れもない幼馴染の碇シンジと

  そして、その統一人格もどちらかといえば『碇シンジ』として扱われることを望んでいる



アスカは思い出す。
幼馴染の少年のことを。
彼は内気でなにごとにも消極的な少年だった。
だが、限界まで追いつめられた時、しばしば恐るべき強さを発揮した。
そして、とてつもない優しさの片鱗を時に見せた。

……もし、それを限界まで磨き上げたとしたら、一体どんな人間が出来上がるだろう。

アスカのそんな疑問の答えとなるのが――
それが、アランソン候だった。
超常たる力で全ての想い、絆、記憶を断ち切られても。
時空の壁も、転生の壁もぶち壊して、自力でそれを取り戻す……!
その圧倒的なまでの、想いの強さ。

そんな強さを抱いたシンジが見せる奇跡を、後にアスカはその目で見ることになる。


――さて、理解できたところで話を本題に戻そう

「ちょっと待ちなさいよ。まだ、1つ答えてもらってないわよ」
アスカは慌てて、言った。
「中世のシンジと、新世紀のシンジの人格が1つになったことは分かったけど、
あんたはどうなのよ。あんたもシンジの中にいる人格の1つなんでしょ?
まさか、シンジの人格と共存していくなんて言わないでしょうね?さっさと出て行きなさいよぉ?」

――それは私にも分からぬ
  本来、人間ごときの人格が私と同一の肉体の中で共存できること自体が脅威なのだ
  まがりなりにも、私はかつて神の1人として天使達の頂点に君臨した者
  その私の支配を拒み、心を保つ人間がいるとは考えられないことなのだ

  だが、現にアランソン侯……統一人格『碇シンジ』は、私の支配力を凌駕し肉体の主導権を未だ握っている
  近い内に、最終的な <碇シンジ> と私の人格の殺し合いがはじまり、唯一の肉体の支配者が決定されようが
  現状でどちらが勝利を収めるかは、私にも分からぬ


「……もし、あんたがシンジの人格を退けたら、どうなるのよ」

声のトーンを落として、アスカは訊いた。
その声には、そんなことは絶対に許さないという、攻撃的意志が宿っている。

――本来、私には性別と言うものはないが、人間界に実体化する以上、どちらかにふりわけられるだろう
  もし私が勝利すれば、躰もそれに合わせて『女性体』に近い存在に変化しような
  その際、アランソン侯と碇シンジの <統一人格> は、私に吸収され、事実上この世から消滅する
  統一人格の個性は消え、お前達との思い出や絆は、単なる「知識」としてしか認識されなくなるだろう
  私は、アランソン侯のような『優しさ』や『情け』と呼ばれるような概念は持たぬからな
  然る後、私は真の <ガルムマスター=ヘル> として人間界に実体化することになる
  言わば、地球に本物の魔王が誕生することになろうか


「シンジがあんたの存在を取り込んだ時は?」

――もしアランソン侯と碇シンジの <統一人格> が勝利した場合、
  私の人格は、彼らに吸収合併されることになる
  言い換えれば、私の存在は消滅し、ガルムマスター・ヘルという名の魔皇は死ぬことになる
  そして、私が持っていた魔皇の力は全て <統一人格> に継承される
  つまり、私の持っていた力を手にした碇シンジが出来上がるだろう

「その最終的な決着がつくのは何時のこと?」

――分からぬ
  我々は常に攻防を繰り広げている
  その勝敗は何時決されてもおかしくない
  今、この瞬間という可能性もある
  いずれにせよ、そう遠くない未来であることは間違いあるまい


「フン……分かったわよ」

とりあえずは納得したアスカは、小さな溜め息と共に言った。
もう、この得体の知れない <声> に感じていた恐怖はない。
あるのは願いだけだ。
シンジが、どうか勝利してくれます様に、と。

――では、はじめようか

爆発は、その言葉と共にはじまった。
突然、ひとり浮かんでいた大宇宙を思わせる空間に、閃光が溢れ出す。

「なっ、何?」

アスカは慌てて、その爆発の起こった方向に目を向けた。
見ればかなり遠方だが、幾つかの人が宇宙空間に現れていた。
いや、あれは人ではない。
何故なら5つほどの人型、そのいずれの背にも天使を思わせる光の羽が輝いていたからだ。

「天……使……?」

煌煌と輝く、数対の光の翼。
それはまさしく、伝説の <天使> を思わせる幻想的な煌きであった。

――そう
  あれが天使
  正確には、全ての天使達の頂点に君臨する5騎の大天使たち
   <エンシェント・エンジェル> だ


「あの、監視機構とか言ってた組織の上層部だっていう、あの……?」

――そうだ

爆発が起こったのは、どうやら彼らが2つに別れて戦闘を繰り広げているからのようだ。
それも、1対4。
それが分かるのは、12枚の一際美しく、大きな光翼を持つ1体の天使を中心として、他の4体のエンシェント・エンジェルが旋回しながら取り囲んでいるからだ。

――お前の見解は正しい
  確かに彼らは、この <クロス・ホエン> にて1対4に別れ戦った
  100万年前に繰り広げられた、エンシェント・エンジェル達の戦争
  これが全てのはじまりだった……


やがて、戦闘を繰り広げる5騎のエンシェント・エンジェルの戦場に、黒い雲のようなものが近付いてきた。
全天を覆うかのごとき、異様な闇色の塊だ。

「……あれは?」

――あれは、あのエンシェント・エンジェルたちが操る下級天使たちの軍勢 <使徒> だ
  総数1億2451万8057体
  お前も紹介を受けたであろう、この会議にも出席している『渚カヲル』もこの使徒のひとりだ
  尤も、この戦には参戦していなかった……というより、生まれていなかったがな


「えっ、あの人も……」

――孤軍奮闘している、あの1騎のエンシェント・エンジェルは <明星> と呼ばれる
  エンシェント・エンジェルの内でも最強と目される存在だった
  その名を <ルシュフェル>
  今現れた使徒たちを統べる天使軍団の司令官でもあった

また、宇宙が光った。
4騎のエンシェント・エンジェルと、1億2000万を超える使徒を同時に相手とする『ルシュフェル』が、強力な光の帯を放ったのだ。
それは男の子が見るようなアニメやSF映画に登場する、光線銃やビーム砲に似たような感じだった。
ただ、威力の桁が違う。
それは直径が500Mに及ぼうかという、とんでもなく巨大な光の奔流だった。
あの宇宙に走る白光の巨大な大河こそ、まさにミルキー・ウェイ(天の川)と呼ぶに相応しい。
アスカはふとそんなことを考えた。

そのミルキー・ウェイは4騎のエンシェント・エンジェルの内、2騎の躰を掠めると、更に直進。
やがて使徒達の群れに突き刺さった。
更に光の帯はその群れの中で、様々な方向に薙ぎ払われ、使徒の9割方を飲み込んでいった。
その壮絶な光景を、アスカは目を見開いて眺めていた。

圧倒的な戦闘能力を見せ付けられた生き残りの天使群は、どうやら戦法を変えたようだ。
一気にルシュフェルとの間合いを詰め、接近戦による人海戦術に移行したのである。
更に、傷ついた2騎を含む4騎のエンシェント・エンジェル達は少し間合いをとり、何やら力を溜めるような仕種を見せている。

――大方正しい
  お前が脳裏で『力を溜める』と捉えた行為は、正確に言えば <禁呪> の発動への準備だ
  ただ、それにはしばらくの間、精神集中に没頭する必要がある
  当然その間スキが生じる
  ルシュフェルからその時間を稼ぐために、使徒たちの軍勢は接近戦を挑んだ


シンジの第3人格・ガルムマスター=ヘルの <声> による解説を受けながらも、アスカは目の前で繰り広げられる激戦から瞳を逸らさない。
きっとアスカと同じように、ゲンドウや冬月、マナやカヲルも同じ光景を見、説明を受けているのだろう。

――そうだ
  この会議室に集った者には、全員この映像を見せている
  皆に真実を教えるためにな


<声> がそう告げる間にも、戦況は変化しつつあった。
光の奔流に飲み込まれて激減した使徒たちの群れ。
その被害を免れた僅かばかりの(といっても、これは1億2000万を超える数からすればの話で、実際には未だ600万程の数を誇る)使徒達がルシュフェルに群がってはいたが……
それを掻き分けるようにようにして何とか道を作った <明星> は、一気にその群れから離脱し距離をとった。
そして次の一瞬には、間合いを開けた使徒軍団の中心に巨大な光の球体を出現させる。

「……なに! あのバカでっかい光の球は?」

――あれは、虚数空間に適当な物質を送り込み、
  対消滅反応を起こすことによって生み出した、莫大なエネルギーの塊だ
  今の人類全体の消費エネルギーを10年は楽に供給できる程のな
  ルシュフェルはそれを球状のA.T.フィールドの内側に閉じ込め、
  虚数空間から、世界の中心 <クロス・ホエン> に召喚したのだ


その球体は収縮していき、やがて点にも近くなった時、無数の放射線となって開放された。
球体に数え切れないほどの小さな穴を開け、閉じ込められたエネルギーを放出したのだ。
当然、密集していた使徒達に逃れる術はない。
無限にも近い貫通力を備えた細い光線に、体中を貫かれ蜂の巣となって、使徒たちは全滅した。
そう、たった1騎のエンシェント・エンジェル <ルシュフェル> は、たった2度の攻撃で、1億2000万を超える下級天使 <使徒> の軍勢を皆殺しにしてのけたのである。

――この戦によって、使徒は文字通り全滅した
  中世の『ゼルエル』や、『タブリス』、そしてお前達が先日戦った『バルディエル』などの使徒たちは、
  この戦いの後、4騎となったエンシェント・エンジェルが新たに生み出した、次世代の使徒であるわけだ


使徒の全滅。
監視機構からすれば、これは大損害である。
だが、彼らが命と引き換えに作り出した <時間> は十分なものであったらしい。
4騎のエンシェント・エンジェルたちの、 <禁呪> と呼ばれる術の発動である。

瞬時に何処からか出現した <光の紐> が、ルシュフェルの躰を12枚の翼ごと縛り付けた。
それと同時に4方からブラックホールを連想させる、時空の穴がルシュフェルに迫って行く。

「なっ……なに、あれッ?」

――あれが、発動された <禁呪> だ
  ルシュフェルを縛り付けたのは、 <グレイプニル> と呼ばれる呪縛帯
  絶対に切れない紐のようなものだ
  そして、動きを封じられたルシュフェルに4方から襲い来るのは
   <次元封印> と呼ばれる次元のゲート、即ち異次元に繋がる門だ


そして――
抗う術を失ったルシュフェルは、その次元門に捉えられ……
<クロス・ホエン> から消え去った。

「ちょ……ちょっと、一体どうなったのよッ?」

――ルシュフェルは、コアと本体に分離され異次元へと送り込まれた

「コア?」

――人間で言えば、魂のようなものだ
  使徒レヴェルであれば、コアを破壊されただけで簡単に死を迎えるが
  エンシェント・エンジェルの場合、 <クロス・ホエン> に存在している間はコアすらも再生する
  故に、殺すより永遠に出られない牢獄に閉じ込めた方が効率がいいのだ
  コアと本体とを分離して別々に封じたのは、念には念を入れた結果だろう


「ルシュフェルっては、何処に封じられたの?」

――本体は、ルシュフェルが万一 <グレイプニル> を破ったとしても問題無き様、
  他のエンシェント・エンジェル達の手によって特別に作られた……
  全ての能力を無効化する <アンチ・A.T.フィールド> の粒子によって構成された特殊な別次元に


 そして、コアの方は更に細かく分割され、ある『容器』に埋め込まれた

「ある容器?」

――それは、現在お前達によって <魂> と呼ばれる存在として認識されている

「ま……さか……」
驚愕にアスカの蒼い目が見開かれる。
声が震えていた。

――そう、 <人間> だ
  ルシュフェルの魂は幾多に分割され、あまねく人間の魂に封じ込められた
  悪魔だの神だの、宗教だの神話だのと人間が作り出したように思われているが、これは違う
  これらは記憶だ
  ルシュフェルの分割されたコアから抽出された、人間の本能的な記憶なのだよ

  そのコアの塊は、人間の子孫に受け継がれる
  人間の数が増えるに従って、コアも更に細かく分割されていくという仕組みだ
  故に惣流アスカよ、お前にもルシュフェルのコアの欠片が封じられていることになる
  尤も、如何なルシュフェルのコアの欠片といえど、それ自体では無力であるがな


「……」
絶句するアスカに構わず、 <声> はなおも淡々と喋り続ける。

――監視機構が、ルシュフェル完全抹殺のため人類を滅ぼさなかったのは、
  容器が滅びた後、コアが一緒に滅びてくれるという保証が無かったからだ
  だから、エンシェント・エンジェルはその封じたコアの行方を見守るため <人類監視機構> を作り上げた
  人類の進化の歴史に裏から介入していたのは、それも理由の <1つ> なのだよ


 ここで注意しなければならないのは、そのコアが何らかの拍子に集結することがあるということだ

「集結?」

――宇宙に漂うチリが何かの拍子で固まり、引力を持ちはじめて、更なる遊星や隕石を引き寄せる
  徐々に大きくなったその塊が多くの物を吸収合併して、やがて惑星へと成長するように……
  何かの偶発的な要因で、比較的大きなコアの塊をもって生まれて来る人類がいる
  そして、そのコアは一種引力のようなものを持ち、他の魂に溶け込んだ他人の分のコアを引き寄せ吸収する
  かなり希だ例だが、確かにそんなケースがあるのだ

  それが、中世に誕生したアランソン侯ジャン二世だった



SESSION・65
『流れよ、わが涙と侯爵は言った』




「シンジ……」

会議終了後、碇シンジの躰は再び『アランソン侯』と『碇シンジ』の統一人格の支配下となった。
早く言えば、 <ヘル> が引っ込んだのである。
無論のこと、あの総毛立つような狂気の力もなりを潜めた。

「アスカ……」

振り向いた彼の瞳は既に真紅ではなく、普段の黒に戻っていた。
だが、何故か声は震えている。
この時点で、アスカは全てを知っていた。
<ヘル> の口から――いや、その記憶そのものを脳に直接送られることによって、NERVは知ったのだ。
如何に <監視機構> が生まれたか。
<ヘル> とは何者なのか。
そして、自らが進むべき道を。

知ったのは、それだけではない。
中世に生きたアランソン侯と、そしてラ・ピュセルの哀しい物語も、アランソン侯の記憶を <ヘル> が中継するという形で皆に正確に伝わった。
シンジが中世で如何に生き、何を築き、そして如何にしてこの新世紀にやってきたか。
彼の想いの源を知った。

「……大変だったみたいね」
何と言えばいいのか分からなかったアスカの口から、とりあえず出たのはそんな言葉だった。
「……うん」
寂しげな微笑みを浮かべて、シンジは答えた。
ちょっと離れたところでは、以外にいい屋上からの眺めにガルムがキャイキャイと踊っている。

「彼女のこと……」
重い金属のドアをゆっくりと閉めてから、アスカはゆっくりとシンジに歩み寄った。
「――ぼくね」
シンジは言った。
「見てきたんだよ」
「えっ?」
「マナたちが起きた後、僕だけ目覚め無かったのは……過去の続きを見ていたからなんだ」
「……」
アスカは、シンジの言葉をただ待った。

「……彼女は、死んだ。
殺されたんだ。火炙りにされて。彼女は、死んだんだ。
僕はそのすぐ側にいたのに……何も出来なかった。
彼女は……僕の目の前で、焼け死んだんだよ……し……んだ……んだよ……ぅ」
シンジは俯く。
握り締めた拳が静かに振るえはじめ、それはやがて全身に伝っていった。
「……でも……なんでなんだろうね?」

アスカはシンジに、ある位置から近づけない。
何故か、足が動いてくれないのだ。
慰めてあげたいのに。
震えるシンジを抱いて、慰めてあげたいのに。
なのに、体が動かない。
踏み込めないそのふたりの距離は、一体、何を意味する距離なのか……。

「出ないんだ……涙。
哀しいはずなのに……ラ・ピュセルのこと、愛してたのに……
どうして僕の涙は流れないんだろう……」

シンジは自分の頬に両手をやり、確認する。
やはり、その指は涙に濡れることは無かった。




「流れてよ……僕の、涙……」










TO BE CONTINUED……








次回予告


果たせない約束に意味がないのなら、

ラ・ピュセルとアランソン侯との約束は――

自ら候の約束の記憶を消した

ラ・ピュセルの心の意味したものは何だったのか。

シンジは、あくまでアランソン侯として生きるため、

あの場所へ旅立つ。

彼と乙女の想いが生まれ、彼と乙女の思い出を閉じ込めた

<約束の地>

フランスへ――


次回

DARC
−全てを凌駕するもの−


現世編
CHAPTER XXI

「想いと思い出、集う場所」


たとえ書面に残っていなくても……契約でないただの軽い口約束でも……
僕らにとってあの <約束> は、ふたりが互いを心から信じ合ったという

なにより大切な「証」なんだ――



← BACKNEXT →

INDEX



! 御意見・御感想はこちらへ!