きっと僕を支えてくれるあの歌


DARC
−ダァク−
全てを凌駕するもの


CHAPTER XIX
「ガルムマスター」


SESSION・56 『魔狼と使徒の対決』
SESSION・57 『到達』
SESSION・58 『アランソン侯、覚醒』
SESSION・59 『思い出、ヴィジョン、言葉、約束』
SESSION・60 『ガルムマスター』



SESSION・56
『魔狼と使徒の対決』



ゴォガォオァアアアァァァァァァッ! !



血の滴るような口蓋を全開にして、突如、異次元から現臨したその餓狼は、ドグマの空(くう)に咆哮する。

そして次の瞬間には、疾風迅雷。
鋭利な牙を禍々しく輝かせ、凄まじい速度でJ.A.との間合いをつめると、その喉元に喰らいついた。
そのスピードにJ.A.――延いてはバルディエルは反応すら出来ない。
そのままJ.A.の巨体を力任せに持ち上げていく狼。
J.A.の躰がゆっくりと浮きはじめ、やがて咥えられたままドグマの海に垂直になるまでに持ち上がった。
目を疑うような光景である。
J.A.を十分な高さまで咥え上げた黒の狼は、無造作に首を振ると勢いよくJ.A.を放り、投げ捨てた。

その半身の巨体は、放物線を描きながら数十Mという距離を吹っ飛んでゆく。
やがて『バシャアッ!』と豪快な音を立てながら、信じられないほどの水柱を上げてJ.A.は着水した。

10T前後を誇るであろう、あのJ.A.の巨体を力任せにブン投げたのである。
それは……己の目ではっきりと見ていながらも、とても現実の出来事とは思えない、まさに脅威であった。

黒鳥の濡羽のような漆黒にして、燃え盛る炎を思わせる毛並み。
爛々と輝き、強力な殺気を放つ双眼。
押しつぶされるような、胸苦しくなるような、強力無比なるその闘気。

体長約4m。体重は1tに及ぼうかという、この眼前の血に餓えた狼――餓狼。
いや……魔の狼、魔狼か。

一体――

カヲルは身を硬くして、ただその異様な闖入者を見守るしかない。
幾らファクチスの躰とは言え……その圧倒的に闘気に、自由天使タブリスほどの者が戦慄するなど、あの美しき死神、リリア・シグルドリーヴァと刃を合わせた時以来だ。

「何なのだ……あのバケモノは」
もはや認識の範疇とでもいうか、キャパシティを大きく越えたその存在の登場に、冬月は呆然と呟くしかない。
「……」
逃げ支度をはじめていた司令部およびオペレーターたちの動きも、凍り付いたかのようにピタリと止まっていた。
暗黒の魔狼。
爛々と宿す殺意の眼光といい、
その信じられないほどの巨体に纏う、禍々しい闘気といい……
全てが邪悪を思わせるというのに、――何故だろう。
その姿は人の心を引きつける。
瞳……、逸らせない。

怖いほどの存在感に、先程まで発令所を恐怖のどん底に陥れていた、あのJ.A.――バルディエルすら霞んで見える。
役者が、違う。
カヲルの躰が正直に示したように、その魔狼が纏う圧倒的な闘気と力の波動は、あのDEATH=REBIRTHにすら匹敵するのだ。
たかが憑依などの特殊能力を売りにする、下級使徒風情が……

ようやく体勢を整え、起き上がりかけた巨神へ向けて、黒い旋風が走る。
 瞬く間に間合いを詰めたその魔狼は、身の毛のよだつような咆哮を上げながら、J.A.の左胸部……
 人間で言う、丁度心臓に位置する辺りに喰らいついた。
 刃渡り20CMを越えるサーベルの如き鋭利な牙が、あのJ.A.の超々硬質・装甲に易々と突き立てられる。


――そう。
下級使徒風情が、相手になろうはずも無かった。

「馬鹿な……あのJ.A.の装甲を食い破るとは……」
「フィールドはっ? ……使徒バルディエルのA.T.フィールドはどうなっているのッ?」
リツコが叫ぶように問う。
「展開されています!」
その声に振り返って答える、驚愕の表情を浮かべたマヤ。
「ただ……あの狼も、同様の位相空間……恐らくA.T.フィールドと思われるものを展開……」
その言葉を、蒼白の相貌のリツコが次ぐ。
「瞬時に……『侵食』したというの……」
渚カヲルから、使徒によってA.T.フィールド出力に個人差があるとは聞いていたが……
まるでそれがないものの如く、瞬時に侵食・無効化してみせるなど、力の次元が――まるで違うではないか?

「――使徒、なのか?」
仇敵に挑みかかった魔狼を見詰めながら、カヲルが呆然と呟く。
J.A.の胸に食らいついたその狼の牙が、ミシミシと装甲を噛み砕いてゆく。
既に蜘蛛の巣状に広がるヒビ割れが、J.A.の左胸部を支配していた。
バルディエル自身も、その信じられない光景に悲鳴だろうか、甲高い咆哮を上げ、その口から無茶苦茶に粒子砲を連発させる。
が、意に介した様子もなく、難なくA.T.フィールドでそれを弾き返すと、魔狼は顎に力を込める。
深々と胸に突き刺さった、その牙が――

ビシィッ! !

遂にJ.A.の硬質皮膚を食い破った。
ガラガラと音を立てて崩れ落ちてゆく装甲の下から、心臓部に半分埋め込まれている球体が露出する。
「光球……?」
使徒の躰は、驚くべき再生能力を備えている。
片腕をもがれたくらいなら、数時間の内に再生してしまうくらいだ。
中世における、オルレアン軍によるオーギュスタン砦攻略戦で負傷したアランソン侯と、クレス・シグルドリーヴァ。
同程度のキズであったにもかかわらず、クレスはその日の内にほぼ完治し、対して候は数週間に渡る療養を続けなければならなかった。
この差は、使徒になりかけていたクレスの再生能力の脅威にあったわけだ。
その不死身の使徒の急所、唯一のウイークポイントが、この光球――コアである。
これには例外はなく、カヲルやリリアのような人型の使徒にも、心臓にコーティングされるような形で、直径数CMという小さなコアがある。
このコアは、使徒の肉体と魂を繋ぎ止める命綱であり、全身が粉砕された時、肉体再生の中枢としての指令塔の役割も果たす。

装甲の下から現れたそのコアの特性を、魔狼はまるで熟知しているかの如く、躊躇無く噛み砕く。
コア自体には、そんなに強度はない。
それを守るための超硬質装甲であり、A.T.フィールドであるからだ。
故に、それらを破られたJ.A.=バルディエルに、もはやコアを守る術は残っていない。
瞬く間にヒビの入ったその大きな球体は、数瞬後、呆気なく崩壊した。
使徒と躰と、魂の崩壊。
完全なる生命活動の停止。

即ち、天使の死――である。

「オオォォォォォォォォォォォォオオォンッ!」


壮絶な断末魔と共に、J.A.の窪んだ瞳から、光が霞み消えてゆく。
やがてガイコツのような、ただの黒穴と化したそれは、J.A.とバルディエルの死をなにより雄弁に語っていた。
魔狼、あの使徒バルディエルとJ.A.を相手に、完勝であった。

「あのバルディエルの憑依したJ.A.を……いとも簡単に……」
豪快な水柱を上げて倒れ込むJ.A.の巨体を見詰めながら、リツコは呆然と呟いた。
「……どういうことだ、碇。
A.T.フィールドを展開できるとは……あの巨大な狼も、また使徒だというのか?」
もはや人間の手出しできるような問題ではない。
冷や汗を流しながら、冬月はゲンドウの耳元に囁くように問いかけた。
使徒であるならば、一体何処に所属しているのか。
監視機構使徒であるならば、何故同じく監視機構使徒であるバルディエルを殲滅したのか。
使徒でないならば、何故A.T.フィールドを展開できるのか。

その魔狼に瞳を奪われた発令所に、小さく電子音が鳴り響いた。
ハッと我に返ったオペレーターのひとり、日向マコトが慌てて計器を確認する。
その表情は、直ぐに驚愕に変わった。
「……なっ!」
電子音を発したモニタに映し出されているは、脱出用の輸送機に既に運び込まれている、カプセル状の医療ポッド。
それに収められた少年の、心電図や脳波計等である。
そして、それが示すものは――
「アランソン侯の脳波に変化――!」
マコトが叫ぶように、慌てて報告する。
先程まで確認されていたα波は、既に睡眠時レヴェルのものではなくなっていた。
「ア……ランソン侯が、かっ……覚醒しましたッ!」
そう。長き眠りについていた碇シンジが、600年前の英雄アランソン侯として遂に目覚めを迎えたのである。

次から次へやってくる、脅威と驚愕の連続にもはや超一流を誇るNERVのスタッフたちも対応できない。
これまで彼らが実戦で培ってきた経験や、不測の事態に対する訓練やシミュレーションが全く通用しない世界で、事は進んでいるのだ。
ドグマの海に沈んでいった理事長とマナ。
コアを砕かれ、死を迎えたJ.A.とバルディエル。
突如現れた漆黒の魔狼。
覚醒したアランソン侯。
そして彼の荒ぶる力。
ひとつひとつの因子、そのどれもが、彼ら人類の運命を容易に変え、決するだけの重要性を力を秘めている。
それらの因子は何を生み出し、何処へ向け進むのか。
そして、人はそれを如何受け止めればよいのか。
激変し、流転する時代の流れに今、己の無力を痛感する彼ら人類はただ身を委ねるしか術は無かった。




SESSION・57
『到達』



――ターミナルドグマ

J.A.=バルディエルを倒した魔狼は、一声甲高く咆哮を上げると疾風の如く駆け出した。
無論、既に瓦礫と化したヘヴンズゲートへ向けてである。
この大狼が何を目的としてこの地球上に現れたかは謎であるが、使徒が目指す可能性があるものといえば、この世界ではアランソン侯くらいしか考えられない。
そう。この得体の知れない魔物はアランソン侯を目指しているのだ。

「くっ……どうする……」

流石のカヲルもこの事態に、反応が遅れる。
果たしてこの黒い狼は何者なのか。味方なのか。
アランソン侯を擁護するNERVに敵対する監視機構使徒、バルディエルと戦い殲滅したとすれば少なくとも共通した敵を持つことは確かだ。
だが、それだけで単純にNERV側の味方になるとは考えられない。
とりあえず、この狼がアランソン侯の元へと向かうなら、止めに入った方がいいだろう。
現状では、敵か味方かの判別はできないからだ。
得体の知れない存在を、彼に近付かせるわけにはいかない。

「……だが」

J.A.とバルディエルを易々と倒してみせたこのバケモノを、カヲルが止められるはずもない。
今この新世紀に存在するのが、タブリス・オリジナルでさえあれば――。
それが無念でならない。
ただ、このバケモノを相手に、果たしてタブリス・オリジナルで勝負になろうか?
中世においてDEATH=REBIRTHと闘った時、彼女の実力の一端を垣間見たタブリスであるが、疾走するあの黒い狼はその死神に迫る実力を備えているように思える。
控えめに見ても、タブリスとなら互角以上の勝負になりそうだ。

結局、渚カヲルはヘヴンズゲートを潜ってドグマから駆け出て行く餓狼を見逃した。
もはや賭けるしかない。
あの狼が、こちらの敵ではないであろうことに。
今ここで下手に立ちふさがって死ねば、タブリスは新世紀の貴重な情報源を失うことになる。
無駄に命を散らすわけにはいかないのだ。

「ターミナルドグマに出現した物体は、ヘヴンズゲートを通過! はっ……速い……!
……速度……203KMを維持しながら……」
報告しながらも、速度や進行方向からMAGIを使って予想目的地点を予測する、オペレーター・青葉シゲル。
弾き出されたシミュレートの結果に、その顔色が蒼白になった。
「やばいッ! 真っ直ぐに『R4』カタパルトに向かっています!」
「『R4』――アランソン侯のポッドを積み込んでいる輸送機用のカタパルトかっ?」
「はい! まず間違いありません」
冬月の言葉に、青葉が答える。
「碇、まずいぞ」
「……ああ。我々にあのバケモノを食い止める手立てはない」
NERVはおろか、霧島理事長すらも手玉に取られた使徒を、あっさりと倒した大狼をどうやって止めろというのか。

「何でも構わん。通路の隔壁を全て下ろせ。輸送機が発進するまでの時間を稼ぐ!」
冬月の命と共に、NERVの施設内の隔壁が何十枚とおり、通路を細かく切ってゆく。
かなりのレヴェルの耐衝撃・耐熱処理を施された、頑強な装甲壁である。
並みのことでは破れるものではない。
だが、この狼が並みであろうはずがないのだ。

「も……目標、更に加速! ……おん……音速を超え……た……?」
空気中の塵や埃との摩擦で、鈍く発光する魔狼。
そしてそのまま唸りを上げ、さながら黄金色の弾丸の如く、巨体ごと隔壁にぶち当たった。
「あっ、――もっ、目標、A.T.フィールドを展開ッ!」
叫びを上げる青葉シゲルの見詰める計器は確かに、狼の周囲にA.T.フィールドと同様の位相空間が現れた事を示している。
魔狼は凄まじい衝撃波を撒き散らしながら、真っ直ぐに伸びる回廊を数瞬で突破。
僅か2秒後には、600Mを超える長い廊下のその跡には、無残な瓦礫と化した120枚の隔壁しかなかった。

「いっ、急げ! もうそこまで来ているらしいぞ!」
輸送機の乗組員と、作業員たちは、恐怖に脂汗を流しながら叫ぶ。
理事長をこの第三新東京市まで運んできたオスプレイという名の軍用ヘリコプターには、既にアランソン侯の収まる医療ポッドが運び込まれている。
あとはカタパルトのスタンバイと、オスプレイの微調整だけなのだけなのだが……
その瞬間であった。
格納庫から地上への射出用カタパルトへと続く、金属製の大きな壁が、凄まじい轟音と共にベコォッとひしゃげ、盛り上がる。
10m程の高さと幅を誇る分厚い金属の壁が、まるで小山のようにあらかさまに隆起したのである。
思わず悲鳴を上げる作業員の面々。
恐怖のあまり腰を落とすものや、身を強張らせて硬直するものも少なくない。
確か、安全性の確保のためNERV格納庫やカタパルト周辺の壁はかなりの強度を誇るはずだ。
相当な重量を誇る装甲車が全速で突っ込んでも、跳ね返すかもしれないくらいだ。
それを、まるで空缶でも凹ませるように、いとも易々と……
とてつもない怪力である。

2度目の衝撃と共に、金属壁は簡単にブチ破られ、開けた大穴から体長3〜4Mはあろうかというバケモノじみた狼の顔が現れた。
「うわぁぁぁぁあっ!」
当然ながら作業員たちは、NERVのオペレータや兵士たちとは違い戦闘訓練や、このような事態に対応できるだけの教育を受けていない。
あくまでただの技術者たちだ。
恐慌状態に陥った彼らは、蜘蛛の子を散らすように、現れた大狼から逃げ出して行く。
まあ、無理もないことではある。
だが、当の狼はそんな矮小な人間どもには何の関心もないらしく、流れるような動作でオスプレイに近付いていく。
勇気ある技師やパイロットたち数人が、無理にでもカタパルトを作動させ緊急脱出を試みるが……
それを察したのか、魔狼は一瞬早くオスプレイの左ローターとカタパルトのレールを、前足の一振りで簡単に破壊した。
オスプレイは、この左右のローター……すなわち、プロペラを回すことで飛行する。
これを破壊されたあげく、カタパルト自体もやられたのだ。
もはや飛び立つことは不可能である。

発進の可能性を完全に潰されたと悟ったパイロットたちは、ハンドガンで一応の抵抗を試みるが、魔狼にとってそんなものは豆鉄砲にも等しい。
A.T.フィールドらしき結界を張るまでもない。
作業員たちが発砲する9MMや.357マグナム弾は、その黒い剛毛に呆気なく弾き返される。
「バケモノめっ!」
吐き捨てるようなパイロットたちの声。
これでは時間稼ぎにもなり得ない。
そんな彼らの絶望にも全く関係なく、魔狼はオスプレイに喰らいつき、装甲をまるで紙でできているかのように強引に引き剥がす。
その向こう側から現れたのは、当然ながらアランソン侯が収められたカプセル状の医療用ポッドであった。
狼は血の滴るような真っ赤な口蓋でそれを咥えると、機外にゆっくりと引きずり出した。
使徒か、悪魔か。
いずれにしても、人あらざるものが……ついにアランソン侯へと、辿り着いたのである。



SESSION・58
『アランソン侯、覚醒』



瞼が微かに揺れ、そしてゆっくりと開いてゆく。
現れたのは、光を宿す真紅の瞳。

600年の時を越え、この新世紀に現出したアランソン侯の――覚醒である。

だが、彼は明らかに以前のアランソン侯でも、ましてや碇シンジでもない。
彼から発せられるこの強力な波動。
荒れ狂う黒い大蛇のような闘気のうねりは、どう捉えても彼らには繋がり用がないからだ。
そして何よりも……
開いた瞼の向こうから現れた、紅い瞳。
それはまるで、あの……あのラ・ピュセルの瞳であった。

彼は無感動な瞳を宙に泳がせたまま、動こうとしない。
亜空間を泳ぎ、この新世紀に現れた彼は今、何を思うのか。
彼はアランソン侯として蘇ったのか。
あくまで碇シンジであるのか。
それとも、他の何かなのか。
感情の宿らないその相貌からは、それらを窺い知ることはできない。

不意に、彼を包み込む白い世界が揺れた。
医療ポッドが動いているのだ。やや傾斜したまま、ガラス越しの景色がゆっくりと流れていく。
うろたえるどころか、特に反応すら示さず、アランソン侯はじっと佇んでいる。
やがてゆるい振動と共に、傾斜が元に戻った。
どうやらヘリの機外に運び出され、格納庫の地に下ろされたようだ。
しばらくして轟音と共に、見上げるポッドの壁に突き立てられたそれは……
最初、中世の世界で見慣れた剣かと思われた。

――だが、違う。
それは信じられないことに、巨大な獣の牙であったのだ。
バリバリと切り裂くような音と共に、ポッドの白い壁が力任せに引き千切られる。
覆い被さるように現れた視界を塞ぐそれは、低く唸りを上げる狼の顔だった。

燃えるように揺らめく、漆黒の剛毛。
鋭く尖った大きな牙が、ズラリとならぶ巨大な口蓋。
そして自分に甘えてくるような、この大きな瞳。
何故か記憶にある、その名と合致した。

「ガルム……」

焦点の定まらない真紅の瞳のまま、小さく呟く彼の顔を、魔狼はその大きな舌でペロペロとなめまわす。
女性の腰程の太さもある、巨大な黒のシッポも嬉しそうにぱたぱたと振られている。
無論太さだけでなく、その長さも半端ではない。控えめに見ても50cmは下らないだろう。
それにしても、J.A.に憑依したバルディエルを、易々と倒したこの漆黒の餓狼。
見間違いでなければ、であるが……明らかに……

「じゃれついているのか?」
もはや驚愕を通り越して、呆れたように冬月は言った。
結局、音速を超えるスピードで駆け出したこの狼に、カタパルトでの輸送機射出も、時間稼ぎのために送り出した特殊部隊も間に合わなかった。
機体を破り、アランソン侯を収めたポッドを引きずり出した狼は、そのまま彼にじゃれつきたしたのである。
これをどうしろというのか。

「……問題ない」
確かに、ゲンドウの言う通り相手がアランソン侯に危害を与えるつもりがないのなら、特に問題ないだろう。
たぶん、ないはずである。……そう信じたい。
オペレーターたちも、「目標、アランソン侯にじゃれついています!」……等と報告するわけにもいかず、ただ呆然とその光景をスクリーン越しに見詰めている。

そのスクリーンの中、無残に半壊したポッドから、アランソン侯はゆっくりと上体 を起こした。
狼が飽きもせず、なおも嬉しそうにペロペロと舐めまわすせいで、彼の整った顔はもはやびちょびちょである。
濡れたせいか、やがてその真紅の瞳が、まるで寝ぼけ眼が醒めていくかのように、ゆっくりと本来の黒に変わってゆく。
それと共に彼の躰から間欠的に発せられていた、強烈な波動が萎むように薄れはじめた。
幻想と非現実の存在から、どこにでもいる17〜8歳の少年へと戻っていくように。

そして――
しばらくすると、発令所の面々はスクリーン越しに彼の悲鳴を聞くことになった。

「うっうわわぁっ! お……狼だっ?」

それは驚くだろう。
目覚めた瞬間、自分の顔を信じられないほど大きな黒い狼がペロペロと舐めているのである。
だがそれよりなにより、NERVのスタッフたちを安心させたのは、素っ頓狂な悲鳴を上げるその声が、紛れも無く彼らの知る碇シンジ少年の柔かで、どこか頼りないあの声だったことである。
言語は古フランス語であったが。

「わわっ、ちょっ……ちょっと、あはは……やめて……く……くすぐったいよ……!」

自分の胴体くらいの大きさもある狼の舌で舐められても、やはりくすぐったいものらしい。
アランソン候――碇シンジは、半分脅えつつもクスクスと笑いながら、それから逃れようと必死である。
だが、そうする必要も無く、彼が「やめて」という言葉を発した途端、魔狼は舐めるのを止め舌を引っ込めた。
そして大人しく、普通の犬で言えば『お座り』の姿勢を保ったまま、じーっとシンジの顔を見詰めている。
どこか小首を傾げているように見えるのは、気のせいだろうか。

「あ……あの……」
そんな狼を前に、シンジは恐々と声を掛ける。
ぺろぺろと舐めるというのは、まぁ、少なくとも敵にはしない行為だろう。
食べられる心配はなさそうだという、希望的観測がシンジにわずかばかりの勇気を与えていた。
なんだか、シッポもぱたぱたと振られていることだし。
「君は、誰? どこから入り込んだの」
幾ら非常識な大きさを誇るとはいえ、狼が喋れるわけがない。
そう思いつつも、なんとなく問いかけるシンジ。
いや、中世で使われていたフランス語を使っていることからも、どちらかといえばアランソン侯と呼ぶべきか。

「……シンジくん、聞こえるかね?」
遠慮がちに、近くのスピーカーから冬月の声が掛けられた。
その日本語を認識するアランソン侯。
しばらくキョロキョロと辺りを見回すと、声を返す。
「はい……聞こえ……ます」
どうやら混乱しているらしく、歯切れは悪いが、その返答は間違いなく日本語であった。
「私は、このNERVの責任者のひとり。冬月コウゾウというものだ。落ち着いて聞いてほしい」
碇シンジという、アランソン侯の過去を忘れた存在の中で、アランソン侯の魂が覚醒した。
それによって誕生した今のこの少年が、果たして碇シンジなのかアランソン侯なのか、判断はつかない。
いや、むしろ彼自身がそのことで混乱していてもおかしくないだろう。
「――NERV?」
「そう。まあ、それに関しては後で説明させてもらうよ。ただ、君の父親の職場とだけ言っておこう」
「父……」
「まず確認したいのだが……その狼は、君が呼び出したのかね? 危険はないのだろうか?」
「えっ?」
頭上から降ってきた難解な質問に、当惑するアランソン侯。

改めて、しっぽをパタパタとふりふり、こっちを嬉しそうに眺めている巨大な狼に目を向けてみる。
今までちょっと怖すぎるその姿から、意図的に目を逸らしていたのだが、この際仕方あるまい。
「……」
無論、狼が人間的な表情の変化を見せるわけがないのだが、彼には何故かこの狼が、にこにこと無邪気に微笑んでいることが理解できた。
自分が呼び出したかどうかはともかく、どうやら確実に敵ではないと断言できそうな予感である。
それにあの時は半分意識が朦朧としていた状態であったし、自分の口から発せられたとは信じ難いが、先程この狼を見た瞬間、『ガルム』という名がぱっと思い浮かんだのは確かである。
となれば……、やはり自分とこの狼とは何らかの因縁があってもおかしくない……というよりは、何らかの関係が確実にありそうだ。

そんな取り止めのないことを考えていると、これまでパタパタと振っていたしっぽで、魔狼は自分の背の辺りをペシペシと叩きはじめた。
「……?」
同時に何かを訴えかけるような視線を投げられるが、獣の考える事など生憎と見当すらつかない。
しばらく、しつこいくらいにペチペチと自分の背をシッポで叩いていた狼だが、一向に伝わらないと見ると、そのしっぽを今度はアランソン侯の方に向けてきた。
「えっ?」
突然のことに、慌てるアランソン侯。
そんな彼には全く構わず、狼の黒くてフサフサしたしっぽは器用に彼の腰に巻きつき、その躰をひょいと持ち上げた。
「わわっ!」
「シンジ君?」
突然しっぽにからめとられたアランソン侯を、スクリーン越しに見た冬月も思わず声を上げる。

一同の心配をよそに、狼は持ち上げたアランソン侯の躰を、ぽちっと自分の背中に安置した。
そして、彼がしっかりと跨ったのを見ると、するするとしっぽを解いたのである。
ここで候は、初めて理解した。
「そうか。背中に乗れって意味だったんだね?」
「ワフッ」
なんだか良く分からない鳴き声で、恐らく肯定したらしい魔狼。
「すごい……」
ハラハラと事の成り行きを案ずる発令所の面々とは異なり、アランソン侯は狼の思いのほか温かくふわふわした毛並みと、その高い背から見下ろす眺めに感嘆の声を上げていた。
イグドラシルやスレイプニルといった愛馬たち……それも普通からすればかなりの巨体を誇る駿馬であったのだが、それらの背に跨った時とはレヴェルが違う。
まるで小城のちょっとした塔の出窓から、景色を見渡した時のようだ。
視線が高く、広い。
その事実は、彼を支える狼の尋常ではない大きさを、なにより雄弁に語っていた。

やがて自分の躰に候がしっかりと固定されていることを確認すると、魔狼はゆっくりと駆けはじめた。
駆けると言っても、ほとんどトコトコと弾むように歩くといった感覚ではあるが、人間からすれば全力疾走よりも遥かに速い。
ただ、体も大きく背も広いおかげで思いのほか揺れは小さかった。
最初は驚いたアランソン侯ではあるが、すぐに落ち着き、随分と規模は違うものの久しぶりの乗馬感覚を楽しんだ。

「目標、移動をはじめました。速度21。真っ直ぐに……この第一発令所に向かっています」
いきなり身も凍るような咆哮と共に空を裂いて現れ、一瞬で使徒とJ.A.を葬った漆黒の狼。
その恐るべきパワーと風貌から、ひたすら恐怖に脅えていたオペレーターの伊吹マヤではあったが、アランソン侯にじゃれ付いている姿や、その背に跨っても別段問題なさそうな顔をしている候自身を見ていると、その認識を若干改めつつあった。
要するに、『あの狼、けっこういい狼なのかも……』ということだ。

狼に良いも悪いもなさそうなものではあるが、確かに、少なくともアランソン侯に危害を与えるつもりはなさそうである。
更に都合よく捉えれば、そのアランソン侯を擁護するNERVにも友好的でありそうな感じだ。
無論、何故にあの狼がアランソン侯に懐くのかは不明だ。
いや、不明といえばあの狼の素性自体が全て不明である。
「……先輩、どうしますか?」
不明なことは先輩に任せれば良い。
きっと自分では考えもつかない方法で解決してくれるはずだ。
そう考えて、マヤはリツコに問いかけた。

白衣のポケットに手を突っ込んだままスクリーンを凝視していたリツコは、その声に我に返る。
あんなバケモノ、これまでに目撃した人類など皆無だろう。
早速興味津々のリツコは、つい夢中になって観察してしまっていたのだ。
無論それは、どうやら魔狼がアランソン侯には襲いかかる心配はないだろうという安心感から、つい、のことであったが。
「そうね――」
仮にあの狼がアランソン侯を含め、こちら側に敵意を抱いていたとしたら、どうするも何もあったものではない。
NERVは滅ぶしかないだろう。
何せNERVではあの半身のJ.A.にすら手も足も出なかったのだ。
それを簡単に退けた、更に上を行くバケモノの相手などできようはずもない。
「取り敢えず、こちらに向かっているようだし……念のため、総帥たちには退避してもらいましょう。
後は役に立たないでしょうけど部隊を展開させておいて、様子を見るくらいしか出来ることはなさそうね」

「その必要はない」
その総帥ゲンドウの低い声が、リツコの言葉に被さるように発せられた。
「総帥?」
驚いたリツコをはじめ、マヤたちオペレーター陣も思わず二階部のゲンドウに顔を向ける。
「碇、いいのか」
傍らに立つ冬月も、念を押すように囁きかける。
ここでNERVの総帥であり、NERVから財団幹部会ゼーレへの発言力そのものであるゲンドウを失うわけにはいかない。
リツコの言う通り、念には念を入れて慎重策を選んだ方が無難に思えたのだ。
「……問題ない」
素っ気無く答えるゲンドウの頭には、既にひとつの仮説が成り立っていた。
あの魔狼が現れたタイミングと候の覚醒との奇妙な符合。
J.A.延いてはバルディエルと敵対し、殲滅したという事実。
そして、アランソン侯の発した『ガルム』という言葉。

「そんなことより、理事長とマナ君の回収を急げ」
黄金色に揺れるドグマの海に沈んでいった、霧島理事長とその孫娘マナ。
即急な対処を必要としているのは、何もこの狼に対してだけではない。
「理事長たちに関しては、既に回収班と医療班を向かわせてある。それに渚くんもいるからな」
「……」
「それに、あの狼は問題だよ。
あれからアランソン侯――お前の息子を安全に受け取るまでは、まだ事は終わらんからな」
「――問題ない。事はすぐに終わる。とりあえずは我々の望む以上の結果をもって」
不思議と安堵の表情を浮かべ、魔狼の背に揺られる我が子姿をスクリーン越しに見詰めながら……
ゲンドウは確信するかのように、そう言った。



SESSION・59
『思い出、ヴィジョン、言葉、約束』



背にアランソン侯を乗せた魔狼が、発令所にその巨体を現したのはそれから間も無くのことだった。

どう考えてもその桁外れの躰を潜らせることなど不可能な発令所の出入り口を、強引に無残な大穴へと拡張させて侵入してきたそれは……
確かに魔狼と呼ぶに相応しい獣だった。
スクリーン越しではなく、直にその目に映すその比類無き姿に、発令所に控えるスタッフたちは皆一様に唖然としていた。
近代科学……いや、世間一般の認識からすれば近未来科学とも言えそうな技術の粋を結集させたその場に、既存の科学を真っ向から覆すかのようなこの常識外れな存在は、明らかに異質であり、異様であった。

「でけぇ……」
勿論、報告ではない。
思わず漏れた、オペレーターとしてではなく常識人としての青葉シゲルの感想である。
簡単すぎるような気がするが、確かに思わずそう呟かずにはいられない程の雰囲気と力が、その魔狼にはあった。
第一、一体この存在を他のどのような言葉を以って表現せよというのか。
青葉でなくとも、無理な話であった。

それにしても、大きさもさることながら、その圧倒的な存在感というか威圧感。
そして、切り裂くような闘気を全身に纏ったその姿には、やはり無条件に友好的と信じるにはかなりの抵抗がある。
総帥・碇ゲンドウの指示により、この狼に対するそれなりとも言える処置や準備――例えば、特殊部隊の配備などは全くなされていない。
確かにそれであれば、この魔狼を無用に刺激することも無かろうが、甚だ心もとないのも確かである。
尤も、仮にそれらの準備が万端であっても、この非常識とも言える力を有する狼には気休めにもならないだろうが。
そんなことを知ってか知らずか、アランソン侯は既にこの狼に対する緊張と警戒心をかなり解いているらしく、
「降ろしてくれる?」
と、まるで旧知の愛犬に話し掛けるかのように言った。
またその言葉に従い、狼は尻尾を器用に使って候を、発令所の地に無事降ろしたのである。
もはや『混乱』の一途であった。

「……碇シンジ君。取り敢えず、こちらへ来ていただけるかしら」
狼の背から降り立ったアランソン侯に、リツコが躊躇いがちに声を掛ける。
「……はい」
いきなり見知らぬ女性に声を掛けられ、些か混乱気味ではあるようだが、彼は素直に頷くとリツコの方に歩を進めた。
と、魔狼も彼に合わせてひょこひょこと着いてこようとする。
「あの……、できればその狼にはその場に大人しくして貰えたらありがたいんだけど……」
候の後ろに着いて一緒に近付いてこようとする魔狼に、知らず知らず身を引きながらリツコが言葉を重ねる。
この魔狼はどうやら、アランソン侯の言うことには大人しく従うような節がある。
そう。まるで主に従う飼い犬のように……。

リツコに言われた通り、アランソン侯は狼に振り返ると「ここで待っててくれる?」と諭すように言った。
その声に、狼はその凶悪な面構えのまま(一般には明らかにそう見える)小首を傾げるような仕種をしたが、結局彼の指示に大人しく従い、飼い犬のするようにお座りの体勢で固まった。
それを見届けると候は再び歩き出し、リツコの側……オペレーター陣の中にその身を委ねた。
とりあえず無事に狼の手から保護できたと、束の間の安堵に胸を撫で下ろす一同。
それと同時に、二階・指令部からゲンドウと冬月が降りてきた。
「……」
流石のゲンドウも、複雑な状態に在る息子を前に、どう声をかけて良いのか分からない。
相手が中世の激動の時代を駆け抜けたアランソン侯の、戦士としての個性を持っているのか――
或いは、この新世紀でゼロからはじめた碇シンジの平凡な高校生としての個性が優先されているのか――
それさえも、ハッキリしていないからだ。

確かに碇シンジとアランソン侯は、その躰を共有する一個の人間である。
だが、両者は明らかに別人とも言えるのだ。
厳密な意味としては適当な喩とは言えないかもしれないが、一卵性双生児……
つまり、同じ遺伝子を持った双子に例えると分かりやすい。
たとえ同じ性質、まったくのコピーともいえる躰を持つ2つの存在があったとして、それが全く同じ存在として育つことはあり得ないからだ。
誰しも、双子の兄弟姉妹を同一の人間として扱う事はない。
あくまで違う人間、異なる個性として受け止めるはずだ。
増して、碇シンジとアランソン侯の場合は、育った環境の差が大幅に異なる。
片や戦乱の中を、厳しく強く、そして哀しく生きた戦士。
片や平凡な日常の中で、その幸福を享受するばかりだった少年。
……同じであるはずもない。

心の強さが、絆の強さが、人間が――違う。

心は、変わる。
人は、変わる。

流れる景色と、同じように。

それは仕方のないことだ。

変わる事で、人は生きていける。
変わることができるからこそ、人は生きる価値があるのだ。
その変化が……
変わるということが、必ずしも成長に結びつくとは限らないけれど。
だが、変わる事無くして成長があり得ないのも、また事実なのだ。

碇シンジは、ある意味アランソン侯の生まれ変わりであり、転生後の姿であり、同一の存在でもある。

――だが、碇シンジはアランソン侯の心を知らない。
彼が培ってきた、心の強さを持たない。
彼が大事に抱きしめていた、絆を持たない。

確かに“彼”は覚えていた。
記憶を消されても、躰が変わっても。
何百年という時を超えても。
ラ・ピュセルとの約束を、忘れてはいなかった。

だが、その“彼”とは碇シンジではない。
あくまで、アランソン侯である。
アランソン侯が持っていた強さを全て失った姿こそが、或いは碇シンジだったのかもしれない。
自らが持つ絆の意味を知らず、それをあって当然のものと思い込んでいた、そんな碇シンジという少年は……
或いは、アランソン侯の中に住む弱さそのものであったのではないか。

そんな碇シンジという少年が、記憶の覚醒と共にアランソン侯の背負っていた物を引き継ぐことが出来るか。
答えは、否。
碇シンジでは、彼の受け止めていた過去を受け止めることなどできない。
彼は戦士では無かったからだ。
だから、もし、600年前の過去の覚醒と共に、アランソン侯の背負っていた哀しい現実の続きをこの新世紀ではじめると決心したのなら――
今、この場に立つ少年が、その決意を固めて目覚めた存在だと言うのなら――

彼は、間違いなくアランソン侯ジャン二世だ。
戦士としての強さと、人としての優しさと、アランソン侯の絆を内包した、碇シンジなのだ。

そして、もしそうならば……
ゲンドウは考える。
もし、そうならば、彼は自分などよりもより高いところにいるだろう。
自分などよりも、余程強い人間だろう。
自分の非力故に最愛の者を守り切れず、遥かな時の流れに――ふたり、別たれる。
その哀しみは、その無念は如何ほどのものであろうか。
また、それが我が身に降り掛かった時、果たして自分は強く生きられるだろうか。
再び、人として立ち上がることができるだろうか。
とても……

とても、できそうにない。
耐えられそうもない。

そう……、思うから

ゲンドウは、目の前に静かに佇む我が子と、遥かなる英雄に、言葉をかけることが

――できずにいた。


「……ようこそ。改めて自己紹介させていただこう」
頑なに沈黙を続けるゲンドウの態度に痺れを切らしたのか、冬月が切り出した。
「ここは第三東京市。その地下に位置するNERVという機関の本部。
そして、私はその代表代行とでも言っておこうか、冬月コウゾウです。先程は失礼しましたな」
相手は確かに年少の碇シンジではあるが、見方を変えれば600年前の大英雄とも言える人物である。
その事実に敬意を払って、冬月は言葉を選びながら言った。
「……」
複雑な表情をしながら、アランソン侯は冬月の言葉を聞いている。
彼自身目覚めたばかりで、自分が今どんな立場に置かれているのか、そもそも自分は誰なのか、まだはっきりとしていないのだろう。
戸惑い、混乱しているのがその表情から容易に窺い知れた。

「取り敢えず、我々も状況を正しく認識しているとは言えないので……」
チラと彫像の如く佇む、魔狼の巨大なシルエットに目を向けて冬月は言葉を続ける。
「幾つか確認させていただきたい」
「……はい」
彼も、冬月の後ろに控えている人物が碇ゲンドウだと気付いているらしい。
だが、どう反応をとっていいのか判断がつかず、結局は冬月の言葉に素直に返事を返すに留めた。
「あなたは……碇シンジなのでしょうか」
冬月はゆっくりと続ける。
「……それとも、アランソン侯とお呼びするべきなのでしょうか」

静寂な空間に漂うその声に、彼はハッと打たれたような表情をした。

「僕は……」
目覚めたての彼は、とにかく周囲を認識することで手一杯だった。
瞳を開けた途端、そこは見知らぬ場所であるし、目の前の巨大な狼には舐められるし、聞いたこともない人物からスピーカー越しに名を呼ばれるしと、とにかく何がなんだか分からない。
これで混乱するなという方が無理だ。
「僕は……」
だが今、ようやく状況が落ち着き、自分の置かれている立場と環境を一通り理解した。
そして問われている。
お前は何者か、と。

彼は記憶を整理しようと努めた。
まず、一番古い……足掛かりとなる記憶を呼び起こす。
浮かんだのは――

『京都』

そう。自分は京都に旅立った。
何故?
クラスメートの少女に誘われたからだ。
少女……霧島マナに。
自分の正体を、身の回りに起こりつつある異変の正体を掴むために。
そして、あの蒼銀の髪の少女の幻の正体を……

『蒼銀の髪』

そうだ。
蒼銀の髪と、真紅の瞳。
遥かなる時の向こう側に忘れてきた、大切な約束の乙女――
一番、大切なこと。
それが、

『LA PUCELLE……』

切っ掛けは、その少女の名であった。
ラ・ピュセル。
彼女の名が、彼の脳裏にはっきりと浮かび上がった瞬間、堰を切ったように記憶の流れが押し寄せてきた。
様々な思い出が、ヴィジョンが、言葉が、約束が。
心の中に蘇る。
600年の時を経て――
はっきりと、蘇る。

白昼に見た幻。夢じゃなかった、彼女の幻。
そして、束の間の幻の想いを確かめた少年は……

今、勇気を持って現実へと踏み出す。
そのために、過去を捨てずここに帰って来たのだ。
600年越しの、約束を果たすために。
帰ってきた。

だから、彼は言った。

「僕は――」








SESSION・60
『ガルムマスター』



「やはり……渚カヲルの話は事実だったのですね」
冬月は、深くゆっくりとそう言った。
とても静かな声だった。
「あなたからその言葉を聞くまでは、どうしても信じられずにいた」
――これほど非常識の連続を、この目で見たというのに。
冬月は胸の中で、自嘲的にそう続けた。

「――僕は、罪人です」
候は言った。
「彼女の側にいると約束しておきながら……守りたいなどと言っておきながら……」
哀しげに揺れる瞳をそっと伏せる。
声が、震えていた。
「結局は自分が守られて、彼女に守られて……絶望させてしまった……取り残してしまいました……」
拳が固められる。
関節が白く浮き出て見えるほどに、強く。

「……」
なんと言葉をかければ良いのか。
誰もが、哀しみにくれる少年をただ見詰めることしか出来なかった。
――いや、ひとり動いた者がいた。
狼である。
まるで流れるように、音も無く少年に歩み寄った魔狼は、その大きな舌で慰めるようにぺろぺろと彼を舐めた。
そんな狼に、少年も優しく細めた目で応える。
「候、その狼は……あなたが召喚したのでしょうか……」
冬月は過去の英雄に、戸惑いなからも問う。
「さあ……僕にはハッキリとは……」
妙に懐かれてはいるが、見覚えのない動物だ。
何故か懐かしさを感じないこともないが、召喚した覚えなどさらさらない。

「君は……誰なのかな?」
最初に一瞬だけ感じた恐怖は、もはや全く感じない。
まるで旧友に問いかけるように、アランソン侯は訊いた。
無論、相手は常識外れの力を持つとはいえ、獣である。
返答など期待はしていなかった。
だが……、

「『がうむ』でございまし」

誰もが、耳を疑った。
水を打ったような沈黙が、場を支配する。
魔狼の毛並みを撫でていた、アランソン侯の手もピタリと止まっていた。
狼が……
魔狼が、喋ったように聞こえたからだ。
それも、可愛らしい子供の声で。

「……えっ?」
たっぷり1分は経ってから、アランソン侯が絞り出すように声を上げた。
発令所に居る他全員は、唖然ととした表情で、ただただ魔狼を見上げるばかりだ。
「ですから、『がうむ』は『へう』様のお呼びに応えて参上血祭りあがったんでございましー」
小首を傾げるようにして、魔狼はまた喋った。
それもおかしな言葉づかいではあるが、とりあえず確かに日本語である。
おそらく『参上仕った』と言いたかったのだろう。
どちらにしても、奇妙な喋り方であることには違いないが。

「あの……」
可哀相なくらい混乱するアランソン侯。
おろおろとどうしていいのか、狼の顔を見、発令所のスタッフたちを見る。
「がうむ……っていうのが、名前なの?」
しばらく間を置いて、彼はようやくそれだけ訊くことができた。

違うー。『が・う・む』でございまし

大きく鋭い牙がズラリと並んだ口をパクパクさせて、確かに狼は喋っている。
脅威だ。
「えっ? だから……えっと……」
どう聞いても『がうむ』と言っているようにしか聞こえない面々は、明らかに戸惑いを見せていた。
そんななか、低くその声が上がった。

「『ガルム』、と言いたいのではないのか?」
ゲンドウである。

そうそう、そうでございましー

魔狼は嬉しそうに、首をぴょこぴょこ上下させる。

がうむは、へう様にお呼ばれしたからやって来まつり〜☆

相変わらず怪しげな日本語である。
はっきり言って、黒く巨大な狼がかわいらしい声で怪しげな日本語を操るその様は、見ていて異様だし、気味が悪かった。
「へう? ……ガルムをガウムと発音していたと言うことは……もしかして、『ヘル』と言うことかね」
どうやら、この狼は『ル』の発音が上手く出来ないらしい。まるで子供だ。

そうそう。そうでございまし。がうむはー、へう様のファミリアなんでございまし

またもぴょこひょこと頷くガルムと言う名らしい魔狼。

「やはりな……」
ゲンドウが、傍らに居る冬月にやっと聞こえるほどの小声でひとり呟いた。
「どうした、碇。何か知っているのか?」
冬月は怪訝な表情をして訊いた。

「ファミリアとは、『使い魔』――つまり下僕を意味する。
ガルムは……北欧神話に登場する、地獄の番犬の名だ。
そしてその主、ガルムマスターが……地獄=ニブルへイムの支配者である『ヘル』……」
ゲンドウは囁くようにそう応えた。
ちなみに、このガルムマスター・ヘルの名が、今日『地獄』を意味する英語の『HELL』の語源となっている。

「ガルムマスター・ヘルか。……では、その『ヘル』とやらが……」
「恐らく、シンジだろう」
頷くゲンドウを見て、冬月は『やはりそうか』と合点がいったような表情をする。
「しかし……どういうことだ……」
何故、そのガルムマスター・ヘルとやらがアランソン侯なのだろう。
両者にどんな接点があるというのだ?

「あ〜、ガルム君」
とにかくこの得体の知れない狼から、もう少し情報を得ようと考えた冬月は、複雑な表情で狼を見上げた。

「?」

小首を傾げるガルム。

「君をこの次元に召喚したマスター……君の言うヘル様とは、一体誰かね?」

わふっ♪

謎の鳴き声と共に、ガルムは巨大な前足ではっきりとアランソン侯……碇シンジを指した。

「えっ……僕?」
驚いたのは、アランソン侯本人だ。
彼自身には、そんな記憶も自覚もない。
「本当に、僕なの?」
目を白黒させて、自分を指差しながら彼はガルムに問うた。

へうさま、がうむのこと忘れちゃった?

何故か悲しそうだ。

「あ〜、その、彼が君のマスターだということは間違いないのかね?」
冬月が再度首を上に捻って訊く。
どうでもいいが、この狼と話すのはとても首がつかれる作業だった。

「自分の創造主を間違えるファミリアなんて、いませんっ。
……でも、確かにさっきまでへう様の波動が感じられたのに、今はあんまり感じないような?」

不思議そうに首をかしげるガルム。
凶悪につり上がった目で、じっとアランソン侯を見詰めている。

「候、この狼はあなたの使い魔を自称しているようだが……」
「いえ……、その、全然思い当たるようなことは……」
冬月の問いに、困惑の表情でアランソン侯は答えた。

へうさまぁ〜、ほんとのほんとに忘れちゃったんでぞんじまし?

「いや……その……」
数歩後ろに下がりながら、彼はしどろもどろに言った。

じゃぁ……

ガルムはそういうと、急に体を丸め出した。
それは一瞬の出来事。
唖然とする発令所の面々をよそに、急速に変わりゆくその体は……
数瞬後には、人型に変化していた。

巨大な狼から……
小さな子供の姿へ……

人間だとすれば、10代前半――ローティーンということになろうか。
いや、ひょっとしたら、それよりもまだずっと幼いかもしれない。

真っ白な肌に、丸みを帯びた肢体。というよりは、幼児体型。
腰まで伸びた艶やかな黒髪は、狼だった時の毛並みと全く同じ色だ。
瞳も変わらず黒のまま。
ただ、凶悪そのものであったつり上がった目は、今は可愛らしいと表現できるくらいの愛敬がある。
そこにはすでに恐怖を具現化したような魔狼の姿はなく、一糸纏わぬ愛らしい少女の姿があった。

……いや、少女と断言してしまって良いのだろうか。
確かに裸身を見るからには、その体は女の子のものである。
それに髪も長く艶やかだし、髪方自体も女性のものに近い。
が、違和感があることも確かなのだ。

良く見れば、少しは少女らしい膨らみをもって良いはずの胸はぺったんこ。
いや、と言うより乳房自体が存在しない。
逆に骨格は、少女というにはすこし大き目だ。
むしろ、少年のものに近い。
それに『おへそ』もない。つるんとした肌があるだけである。

――そう。
注意してみれば、精巧に人間を模した存在であることが分かる。
これは実を言えば、ガルムに性別がないことに起因する。
女性体であるが、男性的な部分もブレンドされているのだ。
少女であるが、少年でもある。

人間は基は女性体からはじまるのだから、女性の方に比重が大きいのは仕方がないのだろうが……
とにかく不思議な存在が、そこにいた。

へうさま。こっちの姿ならもしかして覚えてるんじゃ?

裸身の少女? 少年? もどきになったガルムは、艶やかな黒髪を揺らしながらアランソン侯の周囲をぴょこぴょこ跳ね回る。
どうやら自分の姿をアピールしたいようだ。
話だけ聞いていれば、ガルムはこの姿でも主に知られているらしい。
ちなみに、しっぽやヒゲといった元の狼の姿を彷彿とさせるようなパーツは残っていないから安心して欲しい。

「……ごめん。悪いけど、本当に君のこと知らないんだよ」
一応少女らしきものに纏わりつかれて、アランソン侯はちょっと戸惑いながら言った。
その瞬間、元気に跳ね回っていたガルムがシュンと萎む。
しゃがみ込むと、丸くなって落ち込んだ。

わふぅ〜

何故か、わふわふと泣き出す始末。
どうやら、ご主人に完璧に忘れられたという事実は、この怪しげな狼少女にはかなりのショックだったようだ。
確かに、異次元から遥々呼び寄せられたのに、その本人に存在自体を否定されたのだ。
ショックはショックかもしれない。

「と……とりあえず、服を着た方がいいよ」
見上げる巨体から一転、今度はしゃがみ込んで小さくなったガルムを慰めながら候は言った。
来ていたシャツを脱ぐと、後ろからそっと羽織らせてやる。
「それで、落ち着いたらもう少し詳しく話しを聞かせてね?」
子供をあやす様に、アランソン侯は優しくそう言った。

えぐえぐと泣いているその少女の姿だけを見れば、とても空間をこじ開けてこの次元に現れ、使徒を一蹴してみせた魔狼には思えない。
史上最強のギャップといって良いだろう。

発令所に居合わせるスタッフたちも、もはやその状況に着いていけずにいた。
魂を抜かれたように、ただ呆然と立ち竦み、泣き止まないガルムを見詰めている。
何がなんだか分かったものではない。
無理もなかろう。
これまで常識世界で暮らしていた彼らには、このガルムの存在自体が反則なのだ。


そんな彼らに取り巻かれながら、アランソン侯は困ったような表情で、ただひたすらそのガルムを慰めていた。






TO BE CONTINUED……






次回予告


――彼女は死んだ」

覚醒したアランソン侯は言う。

600年前に忘れてきた乙女を想うとき

時の流れに取り残された少女を想うとき

その胸を喩様もない悲しみが襲う。

……だが、なぜに

彼の涙は流れないのか

涙は流れてくれないのか――


次回

DARC
−全てを凌駕するもの−


現世編
CHAPTER]]

「流れよ、我が涙と侯爵は言った」



「……渚……カヲル」

「碇、シンジくん」
彼はにっこりと微笑んで言った。

「また、会えたね」





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