ひふみよいむなやこともち
ろらねしきるゆゐつわぬそを
たはくめかうおゑにさりへて
のますあせえほれけ




CHAPTER XVII
「布瑠部の神業」
SESSION・51 『戦慄の予感』
SESSION・52 『蘇る巨神』
SESSION・53 『布瑠部の神業』
SESSION・54 『霧島流神道対バルディエル』
SESSION・55 『地獄より召喚されしもの』



SESSION・51
『戦慄の予感』



 のたうち回る漆黒の大蛇。
 その荒ぶる力は、厚く固められた白い壁さえ突き抜けて、おどろおどろと溢れ出す。
 狂ったように跳ねては潜り、舞い上がっては霧散するその黒い光の帯は、確かに大蛇のうねる躰のようにも見立てる事が出来るだろう。
 それは吹き上がる間欠泉の如く、静まってはまた現れるのだ。
 そして、その脅威と怪異の中心にありながら微動だにせぬ少年は、もはや尋常の存在とは誰にも思われぬ様相を呈していた。
 碇シンジ――
 いや、もはやアランソン侯爵と言ってしまってもいいだろう。
 新世紀にようやく目覚めようとする謎を孕んだ過去の英雄が、この荒ぶる大蛇を操っているのか。
 或いは、この闇と光の大蛇に今、喰われんとしているのか。
 外からただ窺う事しかできぬ、力無き人間達にはそれを知る事はできない。
 今はただ、待つしかないのだ。
 ……それがたとえ、破局のはじまりであったとしても。

 突如荒れ狂う闇と光の波動を放ちはじめた碇シンジが、碇ゲンドウの手によってジオフロント――NERV本部に運び込まれてから既に24時間。圧倒的な波動は周期的に現れ、枯れる事も知らずに度々彼らの前にその姿を現す。シンジの躰を包み込む、医療ポッドの白く厚い壁すら貫通して。
 ただ、医療ポッドと言っても、シンジ自身の躰に異常が現れたわけでも、医学でこの驚異的な症状をどうこうしようというのではない。
 彼から発せられる、常人にもはっきりと黙視できるほどに強力な波動。これを検知できないか、という試みがなされているわけである。
「これだけ強力な波動……どうやっても抑えることは不可能でしょう」
 渚カヲルが、そのポッドを見下ろしながら言った。

 彼以外にも、シンジを収めたポッドの周囲には大方の関係者が揃っていた。
 まず、NERV総帥にしてシンジの父・碇ゲンドウ。その腹心、NERV副司令官・冬月コウゾウ。
 そして、NERV技術部主任・赤木リツコ博士。
 かれらNERVの幹部の他には、ゲンドウの妻である碇ユイ。そしてシンジの幼馴染、惣流アスカがいる。
 彼女たちは、アランソン侯が力を放ちはじめたその場に居合わせていたのだが……
 彼がNERV本部に身柄を移される際、無理を言って着いてきたのだ。
 そして残る2人。
 立場の複雑な男、霧島宗家の家長にしてエンクィスト財団代表、霧島理事長。
 また、彼が連れてきた孫娘、霧島マナ。
 シンジを除く計八人が、この空間にいるわけである。

「問題は、これによって此奴――アランソン侯の存在が監視機構に知れるのがもはや必至ということぢゃ」
 理事長が渋い顔で言った。
「……」
 現状を理解していないユイとアスカ以外は、一様に沈痛な面持ちである。  アランソン侯だ、監視機構だとちんぷんかんぷんなアスカは、誰かにそれを問いたいところだが、場の雰囲気がそれを許さない。
「これは以前報告しましたが……。〈MAGI〉の予測によれば彼の抹殺はJ.A.ではなく、使徒の手によって行われると――」
 リツコが、事務的に情報を提示した。
「ちょっ……ちょっと、まってください! 彼の抹殺って、まさかシンジのことですかっ?」
 抹殺という穏やかでない話に、アスカがつい間に入る。
「――マナ。おぬし、別室でこのお嬢に大方の話をしてやるがいい」
 とりあえず、この切迫した状況の中で、時間を割いてまでアスカの好奇心に応えることはできない。
 そう判断した理事長は、アスカをマナに預けることにした。
 どの道、今後の方針を定めるのはNERVの仕事だ。マナに出番はない。
「ユイくん。君も一緒に聞いて来てはどうかね? この際、君の息子がどのような状況に置かれているか……知っておく方がいいだろう」
「……そうですね」
 冬月の勧めに、ユイは頷いて言った。その顔は、この異様な事態に蒼白である。
「マナちゃんだったかしら。……お願いできる?」
「あ、はい。分かりました」
 マナは、ユイとアスカを伴って隣室へ移動した。
 これからマナの口から明かされるであろう、碇シンジの――いや、アランソン侯の遠いの物語……
 それはユイとアスカに一体どれほどの衝撃を与えることだろうか。
 そして彼女たちは、その真実に何を思うのだろうか。
「しかし――」
 横目で退出していく3人の女性たちを見送ると、理事長は再び口を開いた。
「もし監視機構が使徒を送り込んでくると仮定した時……それまで、どのくらいの猶予があるかということぢゃ」
 その問題に、カヲルが意見する。
「霧島理事長はご存知でしょうが、使徒はもともと魂だけの存在です。監視機構に任務を遣わされたその使徒の魂は、この地球へと転送されると、任務遂行に適した立場にあり、尚且つフィーリングの合う人間の胎児の躰に着床します。それから、胎児の躰を遺伝子レヴェルで完全に改変し、使徒としての躰に作り替えていきます。つまり、今現在地球で活動している使徒ではなく、まったく新しく使徒を遣わすというのなら、少なくとも乗っ取った胎児が生まれ、歩けるようになるまで……三〜五年くらいの猶予はあるということになるでしょう」
「もし今、別の場所で既に活動している使徒が、シンジ抹殺の命令を受けて此処にやって来るとしたら?」
 ゲンドウが問う。

「その場合、既に動き出していることもありうるでしょうから……今、この瞬間この場所に襲来してきてもおかしくないですね」
「つまり、まったく予測はつかないということかね?」
 冬月の表情も、いつになく険しい。
「残念ながら、そうなります」
 カヲルが、冬月の問いを肯定する。
 場を、重い沈黙が支配した。
 使徒襲来が、もうそこまで現実の出来事ととして迫っているのに、なんら打つ手段がない。
 逃げる訳にもいかず、かといって立ち向かっても勝てる可能性は皆無。
「このままでは、シンジくんの命はないな……」
 冬月は、ポッドの中に静かに横たわるシンジを、沈痛な面持ちで見詰める。
「そういえば、此奴から発せられるこの黒い波動――検出はできたのか、赤城のりっちゃんよ」
 話題を変えるつもりか、理事長がふいに訊いた。
「はい。〈MAGI〉によって一応エネルギー反応は検出できました」
 リツコは、いつものように務めて事務的に答える。
 ただ、その表情は普段と比較して憔悴しているようにも見えた。
 恐らく、シンジがNERV本部に運び込まれてから、寝食を惜しんで解析を行っていたのだろう。

「気になるのは……」
 カヲルが複雑な表情をしながら言った。
「このシンジ君から発せられる波動。ぼくたち使徒から感じられる波動と――」
「似ている、か」
 理事長が後を継いで言った。
「はい。我々使徒の発する、気配……“気”のようなものは普通の人間には関知することはできないはずです。アランソン侯の場合、それがはっきりと常人にも感じられるものだと言うのに、それでも使徒と近しい感じがする。妙です……」
 カヲルの紅い視線が、真っ直ぐにシンジに向けられる。
「今は、シンジに構っている時間はない」
 ゲンドウが切り捨てるように、そう言った。
「……そうだな。とりあえずは、使徒が明日にでも襲来すると想定して、何とか対抗できる手段を模索しなくては」
 冬月は、厳かに頷きながら言った。
 ――だが、神は彼ら人類にそんな猶予など、与えはしなかった。
 冬月の言葉が終わるか、終わらないか……

 NERV本部全域に、非常警戒警報が、けたたましく鳴り響いた。





SESSION・52
『蘇る巨神』



 NERV本部、第一発令所――
 危急の際、対監視機構・対使徒戦における指揮が執られるのが、この場所である。
 鳴り響いた警報により碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、そして渚カヲルと赤木リツコの4人は、直ぐにこの第一発令所に駆けつけた。
 発令所は2階構造になっていて、1階部にはモニタに端末、計測器といったNERVの目や耳となるべく設置された機器があり、常時オペレーターがスタンバイしている。
 第三新東京市のいたるところに設置された監視カメラやセンサーなどからの情報は、MAGIを通して全てこの第一発令所の端末に伝達される。
 オペレーターはそれを逐一上層に報告し……そして、その情報を基に2階部に陣取った司令クラスの人間が指揮を執るのだ。
「状況はどうかね?」
 オペレーター・ルームから1段せり上がった、司令部から冬月が問う。
 文字通りここまで駆けつけて来たせいで、いささか息が切れている。
「本部ターミナル・ドグマ内の空間の一部に、歪みが観測されました」
 長髪の男性オペレーター、青葉シゲルが緊迫した声で告げる。
「ターミナル・ドグマ――!」

 J.A.を凍り付けにして幽閉してある、NERVの最重要セクションである。
 そのドグマの異常と聞き、戦慄するリツコ。彼女は司令部ではなく、オペレーターたちに直接指示を与えるために、一階部に駆けつけていた。
「マヤ、どういうこと?」
 リツコは技術部所属――つまり、彼女の直接の部下である伊吹マヤに詰め寄った。
 ショートカットの清楚な感じのする女性である。
「あ、先輩! それが……突然、〇.八七秒だけ空間に歪みが出来て、それにセンサーと警報装置が反応したんです」
 発令所の前面の壁、そのほとんどを占める巨大スクリーンには、既にその〈ターミナル・ドグマ〉の映像が表示されている。
 無論、異常が認められたのは一秒に満たない超短時間。映像からは、何の異常も変化も見受けられない。
「その後、何か変わったことは?」
「いえ、特にありません」
 短く刈り込んだ髪と、知性的な雰囲気を醸し出す眼鏡が印象的なオペレーター・日向マコトが、マヤに代わって答えた。

「どういうことだ、碇?」
「…………」
 冬月は問うが、如何に総帥とはいえ、分からないものには答えようがない。
 ゲンドウは沈黙を守ったまま、いつものようにデスクに肘を突いて手を組んだポーズで前方のスクリーンを睨み付けている。
「――理事長はどうした」
 不意に、ゲンドウが口を開いた。
 そう言えば、先程から彼の姿が見当たらない。一階のオペレーター・ルームにも、ここ二階部の指令室にいるのはゲンドウと冬月、そして渚カヲルの三人だけだ。
「そういえば、居ませんね」
 きょろきょろと周囲を見回しながら、カヲルが言った。
「まさかとはおもうが……逃げ出したのか?」
 信じられないという顔つきで、冬月が呟く。
 あの理事長のことだ。何をしでかすか分かったものではない。危なくなった途端、ダッシュで逃げ出すだけのことはやりかねない。

 ――だが、冬月のその予測は意外な形で否定された。
「ターミナル・ドグマの最終ロックが何者かによって解除されました!〈ヘヴンズゲート〉が開いていきます!」
 日向マコトが絶叫する。
 ヘヴンズゲートとは、ターミナルドグマへと続く巨大な扉のことである。
 以前、理事長にJ.A.を見せるために、ゲンドウがパス・カードと指紋照合で開けてみせた、あの重厚なドアだ。
 その開きゆくゲートが、発令所のモニタに映し出された。
 このゲートのロックを解除できるレヴェルのカードを持つのは、総帥であるゲンドウと、副司令の冬月だけのはず。
 だが、その2人は揃って発令所に居る。
 ならば……
〈ヘヴンズゲート〉を潜り抜け、ターミナル・ドグマに無断で入り込んだ人物がドグマ内の監視カメラに捕らえられる。
 そこには――

「理事長です!」
 青葉シゲルが、驚愕の表情で言った。
 そこには、確かに霧島財団理事長の姿があった。
 ここ数日の内に、彼にもまた最高レヴェルのマスターカードが発効されていたのである。
「しかし……なぜ、彼がドグマに?」
 ターミナル・ドグマに異常が発生したことは、一同、この発令所に駆けつけオペレーターたちの報告を受けて初めて知ったはずだ。
 ここに来ぬまま、直接ドグマに駆けつけるとは……如何なる術をもって、その異常を察知したのか。
「やはり……今回も、彼の超常的な力によるものか」
「いや、――違う」
 ゲンドウが、冬月のその呟きを否定する。
「なに?」
「ターミナル・ドグマに熱源感知!」
 問い質そうとした冬月の声を、オペレーターの叫びが掻き消す。
「熱源? 霧島理事長以外にか?」
「はい!」
 理事長以外に熱を発するもの――

「……ッ!!」
 カヲルの躰が、何かを感じ取りビクッと大きく震える。
「しまった! この波動は」
「J.A.から……いえ、J.A.内部に……高エネルギー反応!」
 マナが、信じられない事態を報告する。
「これは――
 ……J.A.の生体機能が……急上している……?
 凍り付けにした上、特殊処理を施し一〇二四万分の一まで生体機能を抑えているはずなのに……」
 めまぐるしく変化し、生体機能の上昇を明確に語る各種データを呆然と見詰めながらリツコが言った。
「J.A.が……神罰を下すものが……蘇ろうとしているというの……?」
「J.A.内のエネルギー反応、急速上昇!! 生体機能も回復していきます!」
 発令所のメインスクリーンに映し出される、巨大な氷柱。
 巨大で歪なその三角形の氷の固まりには、半身の巨人――J.A.が閉じ込められている。
 が、オペレーターの報告が無くとも、流れる莫大なデータと計測器を見ずとも……
 スクリーンを支配する、その異様な光景を目の当たりにすれば容易に状況を掴めるというものだ。

 ――そう。
 スクリーンの中の光景は、まさに驚愕に値する異様な様相を呈していた。
 ほとんど冬眠にも近い状態に人為的に置かれていたはずの、巨人のその虚ろな瞳に、今や煌煌と不気味な光が宿っている。
 眠りから……醒めようとしているのは、アランソン侯だけではないということか。
「凍結剤、ありったけ注入! ベークライトも流し込んでッ! なんとしても、J.A.の生体機能を安全域まで低下させるのよ! 作業急いで!」
 リツコが慌てて指示を出すが、時既に遅し。
 スクリーンの中のJ.A.――
 その人でいえば、口に当たる部分の窪みにゆっくりと霧状にも見える『光』が集まってゆく。
「J.A.の口唇部にエネルギーが収束していきます!……これは」
「いかん!」
 思わずスクリーンに食い入るように、身を乗り出す冬月。
「――粒子砲?」
リツコの叫びと共に、それは放たれた。





SESSION・53
『布瑠部の神業』



 巨大な光の帯が、氷山の中心より真っ直ぐに伸びる。
 それは、強大な力を秘めた天使の光。
 神より遣わされた、神罰の象徴。
 J.A.復活の烽火であった。
 人の力では押さえ切れぬ、恐るべき巨神を幽閉していた氷の監獄は、その巨神から放たれた光のエネルギーに瞬時、崩壊。
 それでも収まりきれぬ奔流は、ドグマの壁に突き刺さる。
 凄まじい轟音とともに、ターミナル・ドグマを映し出す発令所のスクリーンから眩い閃光が溢れ出した。
 そのこの世のものとは思えぬ、壮絶な光景に、発令所の面々はただ呆然とするしかない。


「ウォ――オオオオオオォォォン――ッ!!」



 戒めから解き放たれた、太古の巨神はようやく得た自由に咆哮する。
 その広大な空間に響き渡る叫びと共に、その口から光の帯――粒子砲が放たれては、ドグマの特殊装甲壁を揺らしてゆく。
 ターミナル・ドグマはその重要性ゆえに、ジオフロントにおいても最深部に位置し、それを構成する四方八方の壁も、89CMの厚さを誇る特殊チタン合金で固められている。
 今まで数度放たれたJ.A.の粒子砲にも、崩壊する事無く何とか堪えてはいるが、光の帯の直撃を受ける度、広大なドグマが激震する。
 全身を包み込む、脅威の硬度と強度を誇るメタリックボディ。
 DEATH=REBIRTHの死の三日月に両断された躰は、氷の支えを失ってドグマに敷かれた黄金色の海に落下した。
 その巨体は相当な重量を誇るらしく、着水とともに大きな水柱が上がる。
 下半身のない巨神は、長く細い腕で上半身をズル……ズル……と引きずりながら、ゆっくりとドグマを徘徊する。
 その動作は緩慢としているが、逆にそれが異様としか言い様のない雰囲気を醸し出している。
 金色の海に着水したJ.A.の周囲には緊急時に備えたためか、幾つかの軍艦のようなものが浮かべられている。
 発令所から遠隔操作されるその無人艦は、J.A.に向けて怒涛の如く砲撃をはじめた。
 J.A.の咆哮。
 その口から放たれる粒子砲と、爆発音。
 巡洋艦から放たれる砲撃音。
 ドグマに響くこれらの轟音と共に、海は揺れ波は暴れ、空気が壁が振動する。
「ぬうッ……!!」
 逸早くJ.A.の復活を予測し、ドグマに乗り込んだ霧島理事長は定まらぬ足場に、バランスを崩す。
 幾度と無くJ.A.の粒子砲の直撃を受けるドグマの壁は、その耐久力を削り取られ、早くも限界が訪れようとしている。
 所々罅割れが目立ちはじめた。
ギィィィンッ!
 鈍い音と共に巡洋艦から放たれた砲撃が、巨神に届くその直前、何かに弾かれたように跳ね返された。
 弾は呆気なくその威力を失い、力無くドグマの海に水柱を立てて落下する。
 スクリーンを通してその様を見ていた、渚カヲルの目には見えていた。
 ――そう、砲撃を弾かれるその瞬間……
 J.A.を取り囲むように、それは現出した。
 淡く輝く、神秘的な金色の絶対領域――
「やはり、この波動……」
 白い肌を伝う汗。
 絞り出すように、カヲルは言った。
「……使徒」
「なにッ?」
 微かな、呟きにも似た声であったが、冬月がそれを聞き逃すはずもない。
「あれが使徒だと言うのか?
 ……しかし、あれは明らかに我々のJ.A.だぞ。どういうことかね」
「まだ分からんか、冬月」
 ゲンドウがゆっくりと視線を上げる。
「あれは、使徒に憑依されたJ.A.だよ」
「なっ……」
 驚愕する冬月を横目に、カヲルは口を開く。
「そう――。
 あれは、監視機構使徒の1体。霰(あられ)を司る天使、バルディエルです」
「バルディエル……」
「予想されて然るべき……当然といえば、当然のことだった。
 アランソン侯は、ここNERV本部にいる。
 我々が対監視機構使徒の切り札とする、J.A.もこのNERV本部にある。
 そして新たなる使徒を遣わすには、胎児から育てる必要があるため、数年かかるという欠点。
 それらのファクターを考慮した時、監視機構として1番有効な策とは――」
「そうか……」
 ゲンドウの言葉に、ようやく勘付いたらしく冬月は声を大にして後を継ぐ。
「使徒の魂を直接ドグマに転送し、そこに幽閉される我らの切り札……J.A.に憑依させる。
 そうすれば、NERV本部の最重要セクションに容易に入り込めることはおろか、J.A.そのものも乗っ取れる。
 更には、その本部には任務の目標であるアランソン侯も匿われている……。1石3鳥というわけか」
「しかし……、使徒は固有波長のパターンがある程度合致する有機体にしか憑依できないはずだ」
 ゲンドウは、サングラス越しにカヲルを一瞥する。
 説明しろ、と言うことだ。
「僕もウワサでしか聞いたことは無かったのですが……。
 僕のファクチスシステムのように、他の使徒とは明らかに異なる特性を持つ使徒がいるんです。
 そして、有機体ではなく無機体……鉄だろうが、プラスティックだろうが、どんな物質にも憑依できる使徒がいるらしいのです」
「それが……バルディエルかね?」
「恐らく、間違いないかと」
「……監視機構にまんまとしてやられたということか」
 冬月が項垂れながら呟く。
「しかし……理事長は警報がなった時点で、そのことに行き着いたようですね。
 流石は、世界を統べる王……エンクィストの長と言ったところですか」
「そうだ、理事長は一体ドグマでなにをしようというのだ? まさか、J.A.と戦うつもりかね?」
 ――その“まさか”であった。
 確かに、理事長は非常警戒を報せる警報が鳴り響いた時点で、J.A.を乗っ取られたことを察知していた。
 そう。使徒襲来を予測していたのだ。
 だが、現状でそれを知ってみてもNERVにはどうすることもできない。
 J.A.の装甲は、ほとんど全てと言っていいほどの通常兵器では効果はなく……
 しかも使徒が乗っ取ったというのなら、A.T.フィールドを展開することも可能となる。
 打つ手無し、だ。
 問題なら、まだある。
 此処にはこれまでJ.A.を解析してきた蓄積データや、アランソン侯その人もいる。
 人類の粋を結集して築いた、天井都市がある。
 このジオフロントで、幾ら効果があるとは言えNN爆雷といった威力のあり過ぎる兵器を使用することはできないのだ。

 「貴様、そこで何をしている」
 ゲンドウの声が、ドグマに設置された館内放送用のスピーカーから発せられる。
「フッ、知れたこと。このバケモノを食い止めるのぢゃよ」
「……無理だ。戻れ。本部は破棄する。奴の狙いはシンジ――アランソン侯だ。
 彼を連れ、ここから脱出すればまだ時間は稼げる。死を急ぐこともあるまい」
「この虚がッ!」
突如、理事長の大喝がスクリーンを通して発令所に響き渡った。
「碇! 貴様、敵を前にして背を向け、そそくさと逃げ出すつもりかッ」
「……問題ない。それで時間が稼げる」
「そうですぞ、理事長。逃げもまた手。遮二無二立ち向かうだけが勇気ではありますまい」
 冬月も諭すように、そう声を掛ける。
「いや、冬月。お主らは何も分かっておらん。今、NERVがやろうとしておるのは、ただの逃げぢゃよ」
「退くもまた、勇気ですぞ。理事長」
「ハッ! 何が勇気ぢゃ、冬月。では訊くが、ここで本部を捨て陣を退き、時間を稼いだところで何ができるというのぢゃ? 状況がどう変わるというんぢゃ。言うてみい!」

「……」
 冬月も、そしてゲンドウも応えない。
 いや――、答えられないのだ。
「ここから逃げて時間を稼いだところで、使徒は追ってくる。いずれは戦うことになる。変わらんよ。……何も変わりはせんのぢゃ。碇、今貴様らは“時”のないことを言訳にして、全てを環境のせいにしてただ逃げておるだけぢゃ。貴様のような痴れ者に、NERVの長を任せておったとは情け無うて涙が出るわッ!」
「――なに」
 挑発とも言えるその理事長の言葉に、ゲンドウは一瞬腰を浮かす。
「一度戦うと決めた男が、敵に背を向けて如何なする。
 守るものを見つけたのなら、戦うと覚悟を決めたのなら……戦士ならば、堂々と戦わんかいッ!
 貴様の威勢は、そのヒゲだけか、この腰抜けヒゲ総帥がッ!」
「フン。言うは易し。……かく言う貴様に何が出来る」
「それを今から見せてやるわ!」

 人知を超えた所から遣ってきた、神の遣い。神罰を下すもの。
 確かに、打つ手はない。
 通常兵器は効果も無く、しかもA.T.フィールドをも有するあの巨神には核すらも通用しない。
 如何なる術を以ってしても、人間にはあの絶対領域を破ることは敵わないのだ。
 ――ならば
「通常兵器も使徒の装甲も、A.T.フィールドも関係せぬ、わしの力しかもう残された武器はなかろうが! ここで、アランソン侯をだまって殺られるわけにはいかんのぢゃ! マナがおる。彼奴には未来がある。わしは戦うと決めた。ならば無駄であれ、戦う姿勢を持たねばならぬ! 戦士であるならば、陣は退いても心だけは決して退くな!」
 太玄霧島流――
 一〇〇〇の歴史を持つ、陰陽五行の理を取り入れた古神道の源流。それが、霧島宗家である。
 この日本の地に根付く、太古の神々。天津神、国津神、八百万の神々の神性を重んじ、其れを敬い・恐れ・使役する。
 人間が認識できる、究極の客観が科学だというのなら……
 霧島宗家が求めるのは、“客観”を凌駕する神の“主観”と同化すること。
 穢れを祓い、心を落ち着け、魂を静める。神を感じ、その奇跡を現実世界と重ねる。
 人は自然の中にあり、神は自然と共にある。
 その昔、人は自然と共に唄い、自然と会話したという。
 今、科学全盛のこの時代で、残された僅かなものがその自然との調和により奇跡と呼ばれるものを呼び起こす。
 理事長は、ドグマにある通路用の足場に腰をおとし、胡座を組んだ。
 数十メートル先では、J.A.が金色の海を這いずりつつも、吐き出す粒子砲で無駄な砲撃を続ける巡洋艦を破壊している。
 いつその粒子砲が、自分に向けられるか分からない。
 危険極まりない状況である。

「理事長、戻って下さい。そこは危険です!!」
 今度はリツコが、ゲンドウに変わり内線を使って、ドグマの霧島理事長に呼びかける。
 だが、理事長はその声を完全に無視。既に神事――呪法にとりかかっていた。
 まず、二礼二拍。
 つまり、二度ずつ手を打ち、礼をするのである。
 その後、最後にもう一度頭を垂れる。

『高天原に神留り坐す神漏岐神漏美之命以ちて
 皇御祖神伊邪那岐之命筑紫日向の橘の小門之阿波岐原に身滌祓ひ給ふ時に――』

 ひとりの人間から、これほどの音量の声が出るものか。
 伸びのある、良く響く声が、抑揚を以ってドグマに木霊する。
“禊祓詞−天津祝詞”――神道において、神事に入る前に必ず唱えられる祝詞である。
 太玄霧島流は、陰陽五行、真言密教など様々な要素を柔軟に取り入れた複合的なものであるが、その中央に筋として通っているのが古神道であることは変わらない。

『生坐る祓戸之大神等諸々禍事罪穢れを祓へ給ひ清め給ひと白す事の由を
 天津神地津神八百万之神等共に天の斑駒の耳振り立て所聞食と畏み畏み白す――』

 その神道は、「祓いの宗教」と呼ばれるほど、祓いを重要視する。
 様々な意味での穢れから、心身ともに己を清めるのだ。

「吐菩加身依美多女 寒言神尊利根陀見 祓い給へ清め給へ」

 爆音と共に、J.A.の粒子砲によってまた1隻、NERVの軍艦が撃沈される。
 NERV側の砲撃は、全てA.T.フィールドに弾かれるだけ。
 ドグマの海に浮かぶ巡洋艦は、次々と敢無く沈められるのを待つしかない。

「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ」

 その爆音の中で、延々と続く呪文……とでも言おうか、霧島流の行法。
“ひふみの祓詞”である。
 どうやら、鎮魂の法に入ったようだ。
 鎮魂・帰神。これらは神道の行法の内でも極秘とされる、言わば“奥義”である。
 魂の清め、その力を増大させる。
それが「意富美多麻布理おほめたまふり」――つまり、鎮魂である。

「澳津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、道反玉、死反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼――

澳津鏡おきつかがみから品物比くさぐさのもののひれ礼までは、〈十種神宝御名とくさのかんだからのみな〉。
 すなわち、死者を復活させるほどの強大な霊力を秘める、十種類の神器の名前である。

 ――ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、ここの、たり、

 これを、一(ひ)、二(ふ)、三(み)……つまり、一から十までの数字に置き換える。
 これが一般にも名だけは知られる、言霊に他ならない。
 そして数に置き換えた十種の神器を、

「布瑠部由良由良止布瑠部」

――ふるへゆらゆらとふるへ

 ユラユラと振るい動かす、という意味だ。
 指を組みあわせ、親指の側面を合わせた印を、これに見立てて丹田を中心に動かすのだ。
 これがすなわち、布瑠部の神業である。
 そして最後に、『伊吹永世』……深呼吸にも似た呼吸法で気を落ち着ける。
 これら一連の動作で、霧島流の略式鎮魂法は完了する。
 つまり、魂を祓い清め、己の霊力を最大限に高める儀式が完成するということだ。
「……凄い」
 発令所のカヲルは、布瑠部の神業の完了直後から、急速に高まってゆく理事長の霊気をその肌で感じ取っていた。
 使徒の発する波動やA.T.フィールドとも、アランソン侯に見られる未知のエネルギーとも違う。
 常人からは感じ取ることは決してない、強く魂から奔出される、ひんやりと冷たくて、ほのかに温かい――
「これが人の言う“霊気”というものなのか……」
 カヲルは思わず嘆息する。
 霊気や妖気、確かにそう言った概念を人間が持つことは知っていた。
 だがそれを実際に感じ取った事はない。
 監視機構から与えられた、人間界の知識にもそれらに関する踏み込んだものはなかった。
「赤木博士、渚君はああ言っているが……実際、MAGIは理事長の変化を捉えているのか?」
「――いえ」
 冬月の問いに、リツコは小さく首を左右する。
「シンジくんの時とは違い……MAGIはその霊気というようなものを検出していません」
「……ふむ。我々には同じ未知の力でありながら、異なる力であるということか」
 冬月は複雑な表情で言う。
 いままでオカルトや超常といった言葉で一括りにして、適当に処理してきたものだ。
 だが、それが今、目の前で繰り広げられる戦いの焦点となっている。
 冬月にはどうすることもできなかった。
「しかし、理事長の力であのJ.A.を――いや、使徒を倒せるのか?」
「……難しいでしょう」
 カヲルが苦々しく言った。
「確かに彼の霊気とも言えるものは、人という生き物からすれば恐ろしいまでの力を秘めているようですが……
 かといって使徒に及ぶレヴェルに達しているとは思えません」
 現に、バルディエルから感じられる波動と、理事長から感じられる霊気。
 純粋な力の優劣といった観点から見れば、明らかにバルディエルに軍配が上がる。
「さて、使徒よ。略式じゃが祓いと鎮魂は完了したぞ」
 鎮魂という名の奥義により開放された霊気をその身に纏い、理事長はゆらりと立ち上がった。
 丁度、口から発せられる粒子砲でバルディエルは最後の無人巡洋艦を撃破したところだ。
 腰から下のないJ.A.=バルディエルは、両手で躰を引きずりながらゆっくりと理事長に向き合う。
 その距離、60Mといったところか。
 十分、J.A.の粒子砲の射程内だ。
「今度は、わしが相手ぢゃ!
 天使ぢゃか、神罰を下すものぢゃか知らんが、霧島宗家の底力その身をもって思い知るがいい!」
 言葉とともに、理事長は掌を前面に翳すような形で、親指の先・人差し指の先を左右あわせ三角形の空間を作る。
 太陽印。霧島神道では攻撃呪法に用いられる秘印である。
「十言神咒 天照大御神 怨敵調伏!」
 人差し指と親指でつくられた三角形に、霊気が収束され……
 次の瞬間、それはバルディエルに向けて真っ直ぐに、放たれた。





SESSION・54
『霧島流神道 対 バルディエル』



 発令所のメインスクリーンに映し出された、J.A.=バルディエルの巨体がもんどりうって倒れた。
 黄金色のドグマの海に、巨大な水柱が上がる。
「オオッ!」
 その奇跡ともいえる光景に、発令所から喚声があがった。
「状況は?」
 リツコがオペレーターのひとり、伊吹マヤのコンソールに近付いて言った。
「J.A.が展開していた位相空間……A.T.フィールドは展開されていましたが、上体を支えていた右肘のあたりに衝撃を受けたことにより、バランスを崩したようです」
 J.A.には下半身がない。
 よって腰から上の躰を両手で支えるようにして、バランスを保っている。
 移動の際も、地に付いた両手で這いずるようにして進む訳だ。
 理事長の放った霊気の固まりは、どうやらこのJ.A.を支えていた右手に命中したらしい。
「霧島理事長の術は、使徒のA.T.フィールドを問題にせんということかね?」
 冬月が司令部の縁から上体を乗り出して、リツコに訊いた。
「どうやら、そのようです。
 理事長が何をしたかは定かではありませんが、J.A.の右肘当たりに加重が掛かったことは確かです。
 何らかの手段で、この部分に衝撃を与えたことは間違いないでしょう」
「……理事長の纏う霊気は、使徒の持ち得る力とは異なる体系に属するようですから、ある意味当然かもしれませんね」
 カヲルが言葉を添えた。
 物理的な兵器は一様に無効化するA.T.フィールドではあるが、その物理現象とはことなる神事から繰り出された霊気。
 これに対しては、意味をなさない訳である。
「無意味な特攻――ということでは無かったと言うことか」
「だが、使徒を倒した訳ではない」
 ゲンドウは浮かれ気味の発令所の面々とは異なり、冷静にそう言った。
 確かに使徒――J.A.はバランスを崩され倒れただけだ。
 殲滅には程遠い。
 現にスクリーンの中のJ.A.は今ゆっくりと、起き上がろうとしている。
 当然その双眼には、未だ不気味な光が宿ったままだ。
 A.T.フィールドの他にも、J.A.は超々硬質の装甲ともいえる皮膚を纏っているのだ。
 並みの打撃程度では、傷つけることすら敵うまい。
 J.A.を、そしてそれに憑依するバルディエルを殲滅するには、この装甲を破ることが絶対条件ともなろう。
「ちッ!」
 その事を誰よりも実感している理事長は、顔を顰めて舌打ちした。
 太陽印による霊気の放出。
 属性の全く異なるこの手段であれば、J.A.のA.T.フィールドを破り有効なダメージを与えられると彼は踏んでいたわけであるが……
 確かに、それはある意味正解であったが、殲滅に至るほどの打撃を与えることは出来なかった。
 無論、手加減をした訳ではない。持ち得る限りの力を込めた、渾身の一撃であった。
「わしの力では、やはり倒せぬか……!」
 後、残された手段は二つ。
 ひとつは、攻撃呪法が通じないのならば、J.A.に取り付いた使徒バルディエルの魂そのものを祓うというものだ。
 もともと神道は怨念や邪霊、穢れなどを祓い浄化する術がメイン。
 先程理事長が行ったような、魑魅魍魎に対して直接攻撃を行う術は少数である。
 ただ問題は、使徒の本体――すなわち、その魂が神道の扱う人の怨念や普通の魂と同じように扱えるかということだ。
 カテゴリーが違うなら、霧島流神道の神事は通用しない。
「破邪牽制天魔破神悪鬼悪霊退散……」
 おもむろにスーツの内ポケットから数枚、護符らしきものを取り出すと、理事長はそれを左手で眼前に翳した。
 空いた右手では複雑な印を切る

掛巻くも綾に畏き天津渦々志八奈芸大神をはじめて大己貴大神、少彦名大神の御前に、謹み畏み白す」
非常にゆっくりとした動作で、J.A.が頭を上げた。
 その窪んだ口の部分に、渦巻くように光が収束していく。
「いかん! 粒子砲を撃つつもりだぞ!」
 発令所で冬月が叫びを上げた。
 次の瞬間、冬月の予測通りJ.A.から強力無比な粒子の帯が真っ直ぐに放たれた。
――抜かった!
 理事長の網膜を、眩い閃光が焼く。
 神事に入ったら最後、全神経を集中するため素早い反応はとれない。
 どの道、ほぼ光速に近い速度で襲い来る粒子砲を、生身の人間の反応速度で躱すことなどできはしないが。
 逃げ場を失った理事長は、光の奔流に飲み込まれる。それは確実のように思われた。
 が、誰もが予測した悲劇は訪れなかった。
 J.A.の放った粒子砲は、理事長の脇数メートルの空間を抉るようにして、外れた。
「やつめ……J.A.の躰にまだ慣れていないな」
 ゲンドウが唸るように言った。
「そのようですね。本来使徒はゆっくりと時間を掛けて憑依した躰を慣らしていく。
 バルディエルは、まだJ.A.の躰を手にして1時間と経っていない。精密射撃はまだ、無理でしょう」
「それに救われたか……」
 取り敢えずは理事長の無事を確認して、脱力しながら冬月は言った。

「我、今病めるの状を眺め見るに、この御子は由縁を持たぬ妖しき霊の災いにして、
 諸々の罪科汚等多に持てる霊なるが故に、かかる災いを起こしてあるなれば、古の法の定めに従いて……」


 だが理事長は安堵に胸を撫で下ろす暇も無く、神事を続ける。
 その韻律は、徐々に強く高まってゆく。

「――この御子を癒し給い幸い給えと乞祈奉らくと白す!」

理事長の眼が、カッと見開かれた。

「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」

 金剛界五如来梵字の記された護符を中心に、五芒星を宙に描く。
 清明桔梗と呼ばれる陰陽呪法である。

「破ッ!」

 ドグマの静寂を切り裂くような気合と共に、霧島流破邪の呪法は放たれた。
 今度は先程のように霊気の固まりを放つという物理的効果を期待するものではない。
 バルディエル……すなわち、J.A.に憑依した使徒の魂を祓う。
 上手く術が掛かれば、バルディエルの魂はJ.A.の躰より浄化され消滅するはずだ。
 その後開放されたJ.A.が暴れ続けるか、再び生体機能を落とし動きを止めるかは分からないが、とにかく使徒は倒せる。
「どうぢゃ?」
 期待を込めて理事長はJ.A.に目を向けるが……
 当のJ.A.は何事も無かったかのように平然としている。
 それどころか、再びその窪んだ口に光を宿し――

「ぬおぉッ?」
 身構えた瞬間放たれた粒子砲は今度も理事長から辛うじて外れてくれたが、理事長の背後に位置するヘブンズゲートを直撃。
 さしものヘブンズゲートも、そのあまりの衝撃に震え上がる。
 もう二、三発も食らえば、恐らく粉砕されるに違いない。
「碇!」
 理事長は最寄りにある監視用のカメラに駆け寄ると、怒鳴った。
「おい。聞こえちょるか、碇!」
「聞こえている」
 発令所のメインスクリーンいっぱい、ドアップで映し出されている理事長からやや目線を外しながらゲンドウは低く言った。
「マナを呼べィ!」
「なに……」
「マナを此処に、ドグマに連れてこいと言うとる!」
 理事長は横目でチラチラとJ.A.を動きを確認しながら、カメラに向かってがなりたてる。

「貴様、自分の孫娘を戦闘に巻き込むつもりか」
「ここで全てを終わりにしたくなければ、呼べィ!」
 鎮魂によって霊力を高めた段階での攻撃呪法も、破邪・魂祓の呪法も通じない。
 もはや自分の力ではJ.A.に憑依したバルディエルを倒せないことを悟った理事長は、最後の手段を使うことにした。
「そうか……たしか、彼女には他者の力を増幅する能力があった。アランソン侯の中に封じられた、あの力を呼び覚ましたのが彼女の力であるのならば、理事長の術の力を増幅させることもまた可能であるはず――!」
 理事長の思惑を、逸早く悟ったカヲルが呟いた。
「総帥、副司令。彼女は僕が送り届けます。
 あのJ.A.とバルディエル相手では、NERVの特殊部隊を護衛につけても意味はないでしょうから」

「……しかし!」
 カヲルの言葉に、冬月は難色を示す。
 無理もない。如何にあの理事長の血縁とは言え、マナはただの女子高生なのだ。
「――頼む」
 だが、ゲンドウは短くそう応えた。
「碇っ?」
 通常攻撃は通用しない。防衛手段もない。
 ならば使徒を今、処理できる可能性が僅かでもあるのは、マナによって増幅された理事長の神事……呪術の力しかない。
 ゲンドウはそう判断していた。
「――はい」
 カヲルは力強く頷くと、発令所から駆け去った。





SESSION・55
『地獄より召喚されしもの』



 ゆっくりと光が集まり、粒が霧に、霧が塊に変わってゆく。
 そして十分に収束されたその光は、臨界を突破したとき、放たれる。
 薄闇の支配するターミナルドグマの空を、真っ直ぐに切り裂いて。
 理事長の視界、発令所のスクリーン。それぞれを一瞬の閃光が完全に支配する。
 次の瞬間、凄まじい爆音と共にヘヴンズゲートが粉砕された。
 度重なる粒子砲の衝撃を受け、遂に巨神を封じ込めていた監獄の扉は開かれたのだ。
「ヌゥッ! 奴め、徐々に精度を上げてきておるわ」
 直ぐ傍らの空間を掠めるように通過していったJ.A.の粒子砲に、冷や汗を流しながら理事長は言った。

「バルディエルは、確実にJ.A.の躰に慣れてきているな――」
「ああ」
 冬月にしても、ゲンドウにしても最早、霧島神道とバルディエルとの壮絶な戦いをただ見守る他ない。
 己のあまりの無力に、ゲンドウは内心絶望すら感じていた。
「次あたり……わしに直撃がくるか」
 まだJ.A.の躰に憑依したばかりのバルディエルは、その躰を自在に操作するというわけにはいかなかったようだが、ここまで数度の粒子砲の発射によって、着実に誤差修正――学習してきている。
 最初は十mを超える距離を外れていった光の奔流は、既に理事長の躰ギリギリのところを掠めていくまでに近付いてきていた。
「理事長、逃げて下さい!」
 再度、ドグマにリツコの声が響き渡る。
 ここから先は、本当に命がない。誰の目にもそれは明らかであった。

「フム。多少危険な賭けであることは否めんが……」
 鋭い視線を、J.A.に走らせる。
「やるしかない、か」
 まだ退くわけにはいかない。
 このターミナルドグマから、アランソン侯が安置されているセクションまでの距離は比較的近い。
 バルディエルをここから出せば、間違いなく候の元まで直進するはずだ。
 そして粒子砲の1撃で全ては終わるだろう。それまで5分とかかるまい。
「退けんのぢゃ!」
 一声吠えると、理事長はまた懐から護符を取り出した。

「天魔外道皆神性、四魔三障成道来、魔界神界同如理、一相平等無差別!」

 このあたりは修験道の呪術、『修法』に近い。
 一口に陰陽、神道などと言っては見ても、密教・真言・禅宗などとの相互の関わりは密接で深い。
 互いに影響を受け、与えているせいで、各々の純粋な形を求めようと他の系列を切り離すことは極めて困難であるし、霧島流はその必要を認めない。
 八百万の神を祭る神道の祓詞に、宗派によっては仏の名が現れる事もままある。

「しかしくま つるせみの いともれとおる ありしふゑ われわがの みをまりたまへ」

 微妙な誤差を修正したJ.A.の口の辺りの窪みに、再び光が宿っていく。
 同じく窪んだ両の眼の窪みは爛々とした、不気味な輝きを放っている。まるで髑髏だ。
「……理事長ッ!」
 両腕を突っ張って上体を支えるJ.A.から、リツコの叫びと共に光の筋が放たれた。
「天照大御神、我守り給へ救い給へと畏み畏み願い奉る!」
 眩く白い閃光が、己が眼を焼く瞬間、理事長は術を発動させた。
 霊力のあるものが見れば、彼が左手で翳す護符を中心として細い光が、五芒星を描いていることが見て取れるだろう。
 霧島流神道、結界護身法の奥義――
「言霊結躰法ッ!」
 その術の完成と同時に、J.A.から放たれた光の奔流が理事長の躰を完全に抉り、飲み込んだ。

「ッ……!」
 発令所の面々、総帥・碇ゲンドウすら一瞬腰を浮かす。
 メインスクリーンには、理事長のいた空間を真っ直ぐに通り抜けヘヴンズゲートの縁を直撃、爆炎を上げる粒子砲の惨劇がリアルに映し出されていた。
 射撃精度もそうだが、粒子砲の威力自体も上昇してきているらしく、既に直撃を受けたヘヴンズゲート辺りは完全に破壊され、ドグマに歪な大穴を明けていた。
「理事長!」
「おじいちゃんッ!」
 そのヘヴンズゲートの残骸を押し退け、ゲートどころか単なる穴と成り果てた入り口からマナと、彼女を連れたカヲルが駆け込んできた。
「おじいちゃん、何処?」
 マナは瓦礫と化したゲートを七八苦して乗り越えると、ドグマにいるはずの祖父を探し出す。
 が、直ぐにその視線がある一点に固定された。
 探していた祖父を見つけたのではない。
 数十メートル向こう側……まるで伝説のゴーレムのように佇む巨人。

「……な……に、……あれ……」
 ヨロヨロと力無く後ずさりながら、マナは掠れた声で言った。
「J.A.――いや、あれが使徒バルディエルだよ」
 その背中に軽く手を添えて支えてやりながら、カヲルが言った。
 その鋭い目線は、真っ直ぐにバルディエルに向けられている。
「でも!」
「申し訳ないけれど、マナちゃん。今は詳しく説明してあげられるだけの時間がない」
 言いながら、カヲルは周囲に視線を巡らせる。
 粒子砲によって巻き起こった爆炎で視界が晴れず、注意しなくては理事長を見つけられそうにないからだ。
 もっとも、あのJ.A.の粒子砲の直撃を受けたと言うのなら……蒸発し、消し飛んでいても決しておかしくはないが。

「あの大きなロボットが使徒なら……どうするの……? この時代に味方をしてくれそうな使徒は……リリアさん、いないのに」
 そこで、ハッとしたようにマナはカヲルに振り返った。
「そう言えば、まだ説明してもらってなかったけど、あなた、自由天使タブリスよね? シンちゃんとシノンの河の辺で会ってた、あのリッシュモン元帥なんでしょ?」
「ほう……」
 そう呟いてから、カヲルはマナを一瞥するとまた警戒のため視線を巡らせる。
「君も状況を把握していると言うのか……。理事長といい、君といい、霧島宗家の血筋は何故中世での出来事を、こうも詳細に知っているのか……興味があるよ」
「それは――」
 応えようと、口を開きかけたマナをカヲルが制した。

「見つけた。理事長だ」
 そう言うなり、カヲルは駆け出した。
 その先を良く見れば、粒子砲を受け瓦礫と化したヘヴンズゲートの破片が、ガラガラと音を立てて揺れている。
「おじいちゃん?」
 素早く反応したマナも、カヲルの後に続いた。
「くっ……うむ……」
 瓦礫の下から、低い呻き声がすると――
 豪快に残骸を押し退けて、その下から埃塗れの理事長が現れた。
 衝撃緩和剤の粉末が降り掛かったか、自慢の髭も後ろに撫で付けた艶やかな黒髪も、所々白くなっている。
「理事長、大丈夫ですか?」
 瓦礫をどけるのを手伝いながら、カヲルが訊いた。
「ウム……ノープロブレムぢゃ」

「おじいちゃん!」
「おお、マナ。ようやく来おったか」
 遅れて辿り着いたマナの声に、理事長は応える。
「平気なの、おじいちゃん?おでこのところ、血が出てるよ」
「こんなものは……掠り傷ぢゃ……」
 埃塗れのスーツをはたきながら、理事長は無愛想に応えた。
「しかし、J.A.の粒子砲の直撃を受けて無事とは……」
 この人間にはつくづく驚かされる。
 カヲルは半ば呆れたように言った。
「……フム。おぬしら使徒風に……言えば、霊気製のA.T.フィールドのようなものを……展開したわけぢゃ」
 理事長は、肩で息をしながら応える。

 神事とは本来、全身全霊を傾けて行うものだ。
 しかも一つの儀式に長い時間を掛けて、ゆっくりと霊気を練り高めていくのが普通だ。
 それが今回の理事長の場合、奥義クラスの大咒術を連発したのだ。
 常人ならとうに意識を失い、下手をすれば精神力を限界まで使い切って死んでいるところである。
「フゥ……。それより、J.A.は……どうした?」
「残念ですが、未だ健在です」
 理事長の問いに、首を捻ってJ.A.を視界に捉えながらカヲルは言った。
「こっちに……来るみたいだよ? なんか、腰から下がないから腕で歩いてるみたいだけど……」
 マナがいささか身を引きながら言った。
 まだ距離はかなりあるが、ズルズルと躰を引きずりながらゆっくりとこちらに接近してくる巨人の姿は、確かに無気味なものがある。

「こっちに来るのは、当然ぢゃ。アランソン侯の居る部屋へと続く出入り口は、わしらの直ぐ後ろ――もはや、瓦礫と化したヘヴンズゲートしかないんぢゃからな」
「理事長、やはりここは一旦退きましょう」
 カヲルがゆっくりと迫り来るJ.A.との距離を測りながら、静かに言った。
「退いて、その後はどうする? それで、問題の解決になるのか」
「――ここを爆破する」
 答えたのは、カヲルではなくスピーカーを通したゲンドウの声であった。
「爆破、ぢゃと」
 カヲルの肩を借りて、ゆっくりと立ち上がりながら理事長は反す。
「……そうだ。ドグマには緊急時に備えNN爆雷が八十八機設置されている。これより総員緊急脱出後、ドグマごとJ.A.を爆破する。それで当面の問題は先送りに出来るだろう」
「NERVが切り札としておったJ.A.の唯一のサンプルと、対監視機構戦の拠点となる本部を失ってか?」
「問題ない。ここで全滅するよりかはマシだ」

「いや、残念ながら」
 カヲルのやけに低く冷たい声が、彼らの会話を打ち切った。
「もうそんな余裕はないようです」
 その声に理事長と、マナはJ.A.=バルディエルに目を向ける。
「あっ!」
 これまで異様なまでに長く細い両腕で上半身を支え、這いずるようにゆっくりと移動していたJ.A.の様相が変わった。
 その腰から下のない、半身が……宙にフワリと浮き上がりかけている。
「当然か。リリア・シグルドリーヴァも、そしてタブリスよ。使徒は皆、自在に空を駆けておったからな」
「浮遊できるまでに、J.A.の躰に慣れ……A.T.フィールドを使いこなせるようになったということか」
 理事長とカヲル、両者とも再び臨戦態勢にはいる。
 尤も、ファクチスであるカヲルは使徒としての能力は大きく制限される故、戦力にはなり得ないが。

「わしの霊力も、もう限界に近い。次の一撃で決めんと」
「終わりですね」
 カヲルの言葉に、理事長はゆっくりと頷く。
「碇、ここでわしらが時間を稼ぐ。今の内にここから人を脱出させろ」
 じっとJ.A.を見据えたまま、理事長は言った。
「問題ない。貴様が無謀にも使徒に挑むと、のたまい出した時点で、既に退避命令は出している。第三新東京市の全市民の退避は完了。この発令所以外の全スタッフも、既に地上に非難させている」
「逃げの準備だけは迅速ぢゃのう」
 理事長は、皮肉に微笑んで見せた。
「マナ……すまん。おぬしを巻き込んでしまうことになった。死を恐れるのなら、おぬしも逃げろ。渚カヲルとわし、ふたりでも何とか奴を牽制できるやもしれん」

「いや!」
 マナはきっぱりと言った。
「生き延びればいいってわけじゃないでしょ?」
「だが、生き延びればこそ巡る好機もあるやもしれぬぞ」
「そんなこと言わないでよ。決心が鈍っちゃうじゃない」
 無理矢理にでも笑みを作るマナ。
「戦士は唄いながら死ぬんでしょ。だったら、わたしも唄うわ。おじいちゃんの歌は酷いから、その分までね」
「誰に似たのか、まっこと頑固娘ぢゃ」
「……だが、正しい選択かもしれない」
 カヲルがポツリと言った。
「あのJ.A.の装甲に、A.T.フィールド。NN地雷とやらが、一体どの程度の破壊力を持つかは知りませんが……」
「まず、無理ぢゃな」
「――はい」

「ちょっと、どういうこと?」
 マナがカヲルと理事長、両者の顔を交合に見やりながら訊いた。
「A.T.フィールドは心をエネルギー源とする一種のバリアらしい。性質としては、わしの使う霊気の結界などと近しいものがある、ということぢゃ」
「えっ……」
「マナよ、心や魂を爆雷で破壊できると思うか?」
「理事長! 向こうもそろそろ準備が整ったようですよ」
 不意に掛けられたカヲルの声に、理事長とマナは顔を上げる。
 彼の言う通り、J.A.の躰は宙に舞い上がり、静止したまま安定している。
「もう躰を引きずって歩かなくても進めるわけね」
 両手を広げ、天を仰ぐバルディエル。天使は溢れ出ずる力に、咆哮した。
 その姿には、見る者に、何か神々しいものさえ感じさせる。

「問題は、威力と精度を上げた粒子砲の一撃です。僕が飛翔しながら、バルディエルの周囲を旋回……囮になります。理事長は、その隙に一撃見舞って下さい」
「……了解した」
 理事長が深く頷くのを確認すると、カヲルはフッと一瞬の微笑を見せて空に舞い上がった。
 オリジナルの魂の複写でしかない渚カヲルでは、せめて、空をこのように飛んでみせるくらいしか芸はない。
 使徒の代名詞たる、A.T.フィールドを展開することすらできないのだ。
 だが、〈ファクチス〉である故、命に使い捨てが利く。囮にはもってこいと判断したのだろう。
 真っ直ぐに飛翔したそのカヲルは、ゆっくりとJ.A.に近付いて行く。
 思惑通り、バルディエルの注意を引きつけることには成功したようだ。

「よし。では、わしらも法式に入るぞ」
 カヲルがバルディエルの気を引きつけるのを確認すると、マナをそっと引き寄せながら理事長は言った。
「うん」
「おぬしは、わしの前に立つんぢゃ」
 孫娘の躰を自分の前に立たせ、その華奢な少女の両肩に手を置く。
「マナ、陰陽九字の祭文はちゃんと覚えちょるか?」
「夢に見る程、スパルタに叩き込んだのは誰よう」
 チラッと首を捻って、後ろの祖父の顔をイタズラっぽく見上げながらマナは言った。
「フン、結局それだけしか覚えきれんかった奴がよう言うわい」
「だって、読めない漢字が多いんだもん」
 なんだか可笑しくなって、ふたりは微笑み合う。
 だが、それも一瞬。直ぐに真顔に戻った理事長は続けた。

「秘奥を連発して精魂尽きかけとるわしでは、あと一度が精々。失敗は許されん。分かるな?」
「……うん」
 ヒラリヒラリと、バルディエルをなるべく翻弄するようにドグマを舞うカヲルを見詰めながら、マナは神妙に頷いた。
「それでははじめるぞ。――まずはマナ。目を閉じるんぢゃ」
 言われた通り、マナは両の瞼を閉じる。
「そして心を落ち着け、わしを気取《けど》れ」
「おじいちゃんを感じ取る……」
「深呼吸をして心を落ち着け、その存在だけを浮感するのぢゃ」
「深呼吸をして……波紋ひとつ立たない、水面のように……心を、静める……」
 だが、気配だけを感じ取るという難題に、マナは戸惑う。
 どうしても周囲から聞こえてくる微かな物音や、ドグマを覆う黄金色の海の微かな香り、そして脳裏に焼き付いたJ.A.の無気味な相貌などが頭を離れず、つい意識してしまう。
 あれこれと暫し思案し、苦戦するするマナであったが、ハッとあることを思い付く。
 自分の両肩を後ろから抱く祖父の大きな手。
 そこから感じられる人の体温、温もり。注ぎ込まれるような命の躍動。生命力。
 それらを意識して、存在を辿ればいいのだ。

 集中しはじめたマナから、理事長は急速に高まってゆく霊気を感じ取った。
 ただこれだけの短時間の精神集中で、ここまで霊気を高めることができるのは、やはり霧島の血の成せる業だろう。
 特に派手な神事を行うことのできないマナは自分の能力を過小評価しがちだが、霧島宗家歴代最高の方士たる理事長のその目から見ても、マナは天賦の才を秘めていた。
「よし、目を開けて良いぞ。マナ」
 その声に、マナはゆっくりと瞼を動かす。
 眩しい光に目を細めたその後、目に飛び込んだ世界は、それまでとはまるで別物であった。
 いや、彼女が瞳を閉じていたのはほんの僅かな間である。
 そこにある風景自体が変わった訳では、決してない。
 ただ、なんというか――
 歪んだレンズの眼鏡を外して、改めて見渡した本当の世界。
 そんな変化の仕方だ。

「マナ。今おぬしの霊気は高まった状態に在る。そしてその状態でわしの霊気を意識することで、何をせずとも霊気増幅の対象にわしの術が固定されたことになっちょる」
「……うん」
 ズヴァッ! っという轟音と共に、J.A.の粒子砲がカヲルに向けて放たれた。
 フラフラとなんとか躱したようだが、そろそろ限界だろう。
「時間がない。術に取り掛かるぞ!」
「はいっ」
 理事長とマナの表情が、自然引き締まる。
 両者目を閉じ、神経を集中して、神事に備えた。

「太玄霧島流九字」

 瞳を閉じた理事長の声が、ドグマに響く。
 そして、そのほとんど同時か少し遅れた辺りに、マナの澄んだ祭文。

「陰陽九字道満桔梗印!」

 マナの言う、道満とは稀代の陰陽師・安倍清明を殺したとも伝えられる伝説の陰陽師、蘆屋道満(あしや・どうまん)である。
 清明の名に由来する清明桔梗、即ち「バン・ウン・タラク・キリク・アク」の五芒星が『セーマン』という代表呪法であるならば、
 それに対する道満の名に由来する呪法がこの道満桔梗、即ち『ドーマン』と呼ばれる九字である。

「臨」「兵」「闘」「者――」

 理事長が気合と共に発するのは、中国の『抱朴子』なる仙道書に由来する、主に修験道で有名な早九字。
 その祝詞と共に、左右の指がせわしなく動かされ、次々と複雑な印を形成していく。
 臨と共に『独鈷印』、続いて『大金剛輪印』、『外獅子印』、さらに『内獅子印』へ。
 そしてそれらと同時に陰陽九字を唱えるのは、マナである。

「朱雀」「玄武」「白虎」「勾陳――」

 こちらは、理事長のような複雑な印ではなく、眼前の空に縦線を平行に4本右手人差し指と中指を合わせた二本で引いてゆく。

「皆」「陣」「列」「前」「行――」

 場合によっては不動金縛りの術などに用いられる、皆の『外縛印』。
 続いて『内縛印』、右掌を左人差し指で突いたような形の『智拳印』、左右の人差し指、親指で丸い円を描くような『日輪印』。
 そして、『隠形印』。
 素早く、力強く次々と複雑な印が切られてゆく。

「南斗」「北斗」「三台」「玉女」「青龍ぅ――っ!」

 四方、龍脈を生み出す四神獣を代表とする祭文を唱えながら、碁盤の目を形成するように、先程の縦印に横印を重ねて描くマナ。

『破ッ!!』

 ふたつの声が、九字の完成と共にドグマに木霊する。
 瞬間、二人の天才が生み出した前代未聞の霊気の奔流は、霊感知能力のない常人ですら肉眼ではっきりと視認できるほどの、眩い光となってJ.A.に発射された。
 発令所の全てのスクリーンから青白い、神聖を感じさせるホーリー・レイが放つ閃光が溢れ出す。
 あまりの威力と反動に、髪の毛を逆立たせた挙げ句、マナの華奢な体は後方に吹っ飛ばされた。
「きゃっ!」
 その躰を何とか、理事長が受け止める。
「やったか――」
 増幅された理事長の霊光波は、バルディエルのA.T.フィールドを完全に無視し、J.A.の躰を飲み込んで暴れ狂った。

「オォッ……!」
 囮としてJ.A.の周囲を旋回していたカヲルの直ぐ脇を、白光の塊が通り抜けて行く。
 そのあまりの威力に、カヲルですら思わず感嘆の声を上げたほどだ。
 その白い光の帯の霊力は、理事長の単独による呪術のゆうに5倍はあっただろう。
 マナの増幅能力は、やはり並みではないらしい。
 ――だが
「J.A.……いえ、バルディエル健在! 損傷、認められませんっ」
 第一発令所。
 そのオペレーター・ブースから蒼白な顔で、日向マコトが報告する。
「なっ……!」
 リツコでさえ、あの霊気の奔流に飲み込まれたJ.A.は殲滅されたとどこかで確信していた。
 しかし、結果はあまりにも残酷。
 スクリーンに映し出されるJ.A.は、シュウシュウと所々湯気が煙のようなものを上げてはいるが、ダメージを受けたようにはとても見えない。

「ハァ……ハァ……」
 霊気とは、言い換えれば精神力と魂から生まれる力の融合体だ。
 それを全て絞り出した理事長は、片膝を落とし、荒く息を吐き出しながら渾身の一撃を受けながらも平然と佇むJ.A.のその姿を、信じられない面持ちで見詰める。
「……まさに……バケモノ……かッ……」
「おじいちゃん、大丈夫っ?」
 脂汗を垂らしながら、息を整える祖父にマナは駆け寄る。
「マ……ナ……ゼェ……ゼェ……、万策尽きた……。おぬしは、逃げろ……」
「でもッ――!」
 マナが異論を唱えようとした瞬間――、
「理事長ッ!」
 カヲルの絶叫が木霊する。
 見れば、宙の低い地点に浮遊していたJ.A.が……
 ブアッと爆発的な速度で、掻き消えるように舞い上がった。
 数十メートルを一気に、そして瞬時に跳躍したJ.A.は、理事長とマナの眼前に降り立つ。
 その異様な速度と動きは、まるで瞬間移動してきたのかとも思わせる。

「理事長、逃げて下さいッ!」
 悲鳴にも似たリツコの声が、スピーカーを通して聞こえはするが……
 疲労の極地に一気に落ち込んだ理事長の躰は、そう機敏には動いてはくれない。
「ッ!」
 J.A.の間合いに入り込んだマナは、予測される攻撃とあまりの恐怖に目を伏せ、祖父の躰にしがみつく。
 そのバルディエルの殺意の現われか、J.A.の窪んだ無慈悲な瞳がギラリと輝いた。
 次の瞬間、この世の何よりも強く硬いマテリアルに覆われた、J.A.の拳が理事長とマナ目掛けて薙ぎ払われた。
 マナを衝撃から守るように強く抱きしめると、無駄とは分かっていながら腕でガードを作る。

 肉が押しつぶされるような、骨が砕かれるような……
 思わず耳を覆わずにいられない程の壮絶な音と共に、J.A.の拳はマナを抱いて庇う理事長の体を直撃。
 とても2人の人間とは思われぬ、まるで弾丸のようなスピードで吹っ飛ばされた理事長とマナは、ドグマ全域を覆う金色の海の表面を豪快な水飛沫を上げて滑ってゆく。
 やがて、数百メートル向こうの壁に激突した2人は、そのまま力尽きてドグマの海に沈んでいった。
「理事長ォ!」
 カヲルの普段からは想像もつかないほどの叫びが、黄金の海に消えた理事長とマナに投げ掛けられる。
 が、彼自身にもそんな余裕など無かった。
 理事長とマナを倒したJ.A.=バルディエルは、今度はお前の番だと言わんばかりにカヲルに振り返る。

「クッ!」
 その新円を描く大きな口の窪みに、光が渦巻くように収束していく。
 ――これまでか。
 ファクチスとしての、死を覚悟するカヲルだったが……
 その耳に、けたたましい警報が鳴り響いた。
「ターミナルドグマに、先程と同様の時空異常を確認ッ!」
「空間に歪み……いえ、裂け目が出来ています!」
 オペレーターたちの報告を聞くまでもない。
 その問題の一点を映し出す、発令所のスクリーンを見れば異常は一目瞭然だった。
「なっ……何事かね?」
「まさか、監視機構の新手なのッ?」
 普段こそ、冷静沈着である冬月とリツコも思わず声を大にして身を乗り出す。
 バルディエルも異常に気付いたか、カヲルに向けた粒子砲の発射をキャンセルして、されをじっと凝視している。
 まるで透き通った限りない透明度を誇る清水の水面に、ゆっくりと波紋が浮き上がるかのように……
 空間に透明な皺が現れ、その中心から……黒い、黒い穴が徐々に広がってゆく。

「時空のゲートが……開いているというのか?」
 カヲルも驚愕に目を見開いて、その様を見守っている。
 瞬く間に直径数メートルにまで広がった、時空の穴から――

「ゴォォォガアァァァァッ!」

 耳を劈くような咆哮と共に、空間を切り裂き、こじ開けるように現れたのは――
 虎ほどの大きさはあろうか……巨大な餓狼だった。
 ユラユラと燃えるように逆立つ、漆黒の毛並み。
 血に滴るように真紅の牙。
 爛々と殺意の光を宿す、吊り上がった双眼。
 凄まじいまでの暗黒の闘気を纏い、ドグマの海に降り立ったその獣神は、疾風迅雷、恐るべき速度でJ.A.との間合いを詰めると、いきなりその喉元に食らいついた。

「これは……一体、何が起こっているんだ……」
 そのカヲルの呆然とした呟きに答えるかのように、
 緊急脱出用の輸送機に搬入されたカプセル状のポッドの中――
 光を宿し、アランソン侯の瞳が、開いた。



TO BE CONTINUED……



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