絶望を孕み希望に育む
女として生を受けた私だから
その痛みに耐えられるのでしょう
CHAPTER XVII
「覚醒と開放」
SESSION・46
『私の知らないあなた』
今日、あなたが帰ってきた。正確には運ばれてきた。
聞いた話しによれば、あなたは霧島マナの実家――京都に行っていて、そこで何らかの出来事が起こって以来、眠り続けているらしい。
一体京都くんだりで何をしてきたというのか。おばさまに訊いても、おじさまに訊いても詳しいことは知らないという。
夏休みに入ってまだ一週間も経っていないというのに、帰宅したあなたの寝顔を見るとなんだか無性になつかしかった。私に一言も断らず何処かへ勝手に消えてしまったあなたに腹がたっていたはずなのに……
帰ってきたら、何処で何をしていたか詰問するつもりだったのに……
その寝顔を見ていると、不思議とそんな気が失せてしまった。
何故だろう……。
いつもこの人の寝顔を見ているからこそ分かる。いつもと同じようで、違うあなたの寝顔。どこか……哀しい感じのする、切ない感じのするそんな雰囲気。
「――ばかシンジ」
静かに眠り続けるあなたと、私。日の光が淡く彩るふたりだけの空間に、その声は小さく響いた。
もうすぐお昼だっていうのに何時まで寝てるのよ。さっさと起きなさい、バカシンジ。
いつもなら、そう言ってわたしはあなたを無理にでも起こす。そしてあなたはまだ醒めぬ目を眠たそうに擦りながら、決まってこう言うのだ。
おはよう、アスカ。
ずっと幼い頃から続いてきた、二人だけの儀式。わたしたちが、誰よりも近しい隣人であり、友人であり、そして家族であるというささやかな確信。毎日朝が来る度に、わたしとあなたはそれを強めてきたはずだ。
なのに何故?
今、あなたが私の知っているあなたでなくなってしまったかのように思える。あなたが遠いところに行ってしまったような気がする。十数年という長きに渡り、いつも朝日に抱かれ、静かに寝息を立てるあなたの相貌をわたしは見詰めてきた。
でも、今のようなあなたをわたしはかつて見たことがない。いつもと変わらぬようだが、どこか違う。違うのだ。
……なぜそう感じるの?
……なぜ変わってしまったの?
私たちは誰よりもお互いのことを知り合っていた。理解しあっていた。少なくとも私はそう信じていた。そしてその関係が続く限り、ふたりはずっと一緒に居られると思っていた。
気を張らず、ありのままでいられるふたり。一緒に居るのが自然で、なにより輝ける時間を共有するふたり。大切な思い出は、その全てを共有しているふたり。
わたしはそんなあなたと私のふたりが大好きだった。
だけど、今、わたしは不安に打ち震えている。今まで続いてきたふたりのその関係が、崩壊していくような……
そんな気がして、怖いのだ。
「シンジ……起きて……はやく起きて」
安心させて欲しい。早く目覚めて、いつもと変わらぬ寝ぼけ眼でわたしを呼んで欲しい。これからも変わらぬふたりだと――いつまでも変わらぬあなただと私に信じさせて欲しい。
「シンジ」
――いや。
……ちょっと待って。
こんなの、私らしくない。
シンジが何処かへ行ってしまうなら力ずくでも連れ戻せばいい。
シンジが遠くへ行ってしまうなら、どこまでだって追いかければいい。
簡単なことじゃない?
状況が変わる度、環境が変わる度、落ち込んでいるなんて情けない。わたしとシンジとの絆は、たったそれだけのことで壊れてしまうようなヤワなものじゃないはずよ!
そうでしょ、シンジ。そうよね、きっと。絶対そうよ。
伊達に幼馴染を延々と続けてきたわけじゃないわ。だから、私はいつも通りちょっと年上のお姉さんみたくシンジを引っ張っていけばいいのだ。それが私、惣流アスカなのだから。
シンジが苦境に陥って悩みを抱えているのなら、私が喝を入れて前に進ませてみせるわ。この男と来た日には、ちょっとしたことでグジグジと落ち込むんだから。その度に手を差し伸べて引っ張り上げてきたのは、誰?
私しかいないじゃない!
そう……。そうよね。シンジから感じる哀しげな雰囲気。それがどうしたっていうのよ。この天才アスカ様が、シャッキリ払拭してみせるわ。
こうと決めたら、私の行動がはやい。じっとこのままシンジの顔を見ていたって、何も確認できないし、何の解決にもなりはしないのだ。だったらすることはただひとつ――
「くぉら、いつまで惰眠貪ってんのよ、バカシンジ。さっさと起きなさい!」
SESSION・47
『レイジングストローム』
それは黒い光だった。
光が黒いはずはないのだが、それでもそう表現するしかない。空間を覆う果てしなき闇に凄まじい勢いで荒れ狂い、そして渦巻く巨大な黒雲。その中より出ずるモノ。
それが、黒き光であった。
ただの光ではない。如何様な奇跡も、希望も、夢も、願いも全く無意味なものとする圧倒的な力の奔流である。その光は全てを超越し、全て可能とさせる、荒ぶる想念とエネルギー。
全てを焼き尽くす業火を凍てつかせ、絶対零度を炭化する。あらゆる希望を絶望と変え、あらゆる暗黒を光明に塗り替える。
絶対的。
まさにそう表現するに相応しい、狂気の力。それが今、己が内宇宙で荒れ狂っている。
その力の開放を恐れる意識が、完全なる覚醒を頑なに拒むものの……
また内宇宙には、その絶対的な力を存分に振るいたいと望む意識も存在する。そして、その力そのものすら呼びかけてくる。
それは邪神の囁きか――
それは天使の微笑みか――
荒れ狂い、荒れ狂い、全てを虫食み、喰らい尽くす。無から創造し、また虚無へと返す。ゆらゆらと地獄の底で、ひっそりと……だが、決して消えることなく静かに燃え続ける力の炎。
受け容れるべきか。抗うべきか。
受け容れ、行使すべきか。抗い、滅ぼすべきか。
炎と同様、その意識も揺れる。
闇が……暗黒と虚無が迫ってくる。光が……光明と誕生が溢れ出る。
彼は逃げる。
あまりの力を持て余すことを恐れて。ただ、絶対的な力に恐怖して。それを手にした自分が、果たして自分たり得るのか。それを手にして想いを為した後、行き場を失った力は何処へゆくのか。
力あるこそ成せるもの。力では決して得ることの叶わぬもの。
彼にとって、それは等価であった。
力なくしては、絆取り戻せぬ。力なくしては、乙女を抱けぬ。
だが、力では、決して絆は生まれぬ。力では、決して乙女は微笑まぬ。
嗚呼……! 其れが欲しい。其れが恐ろしい。
ゆらゆらと炎は彼を取り囲む。悩める彼に迫り来る。
――何を恐れる
其れは言った。
――我は汝、汝は我
揺らめく黒き光りは囁いた。
――我らはひとつ
彼の内宇宙全てを、焼き付くさんと溢れ出す。
――我を受け容れよ
「厭だ!」
心の限り叫ぶ。
それは、ともすれば己が心を支配せんとする、飽くなき力への欲求に抗う彼のせめてもの抵抗であった。確かに内宇宙――すなわち心の世界に満ち、更には溢れ出そうとするこの絶対的で圧倒的な力を手にすれば、如何なる事も可能となろう。
彼の望む約束の地へ、時空の壁を乗り越えて辿り着くのも容易いやもしれぬ。再び乙女をその腕に抱けるやもしれぬ。
だがひとつの強大な力が、全てを変える。
それは、正しいのか?
もし、そんな力が存在したとすれば、それが絶対優位なものとして全てに君臨するだろう。そして他人も自分もその力のみに頼り……万事を我思う侭に操るだろう。力を以って事を成す。
一見正しいことのように見える。
が、それでも心のどこかで警鐘が鳴っているのだ。今ここで力を行使し、優しくない現実を自らが望むままに変革させる。確かに魅力である。
自分には、変えたい現実があるから。自分には、救いたい人が居るから。
そして――自分の弱さが彼女を独りにしてしまった。
力がないから誰も救えない、何も変えられない。だが、だからこそ志を同じくした人たちが集ってくる。
だからこそ人は絆を作り上げていくのではないのか?
人が万能であるのなら、他人など必要ない。強大で純粋な力があるのなら、絆など必要ない。
求めたのは、全てを凌駕するもの。
だが、それは物理的な力ではない。どんな苦境も、どんな負の感情も超えてゆける、強き精神。心だ。そしてその心を伴わない力が、悲哀しか生み出さぬことを、中世の戦場の中で学んだはずだ。
だが、それでも心のどこかで求めている。力の誘惑に毅然として立ち向かうことができない自分。不可能を可能とする、その力を必要としている己があることもまた、否定できない事実なのだ。
手を伸ばし、開放を容認しさえすればその力を容易に得ることができる。そしてその力さえあれば、望みを叶えることができる。何の力も持たない、無力故に守るべきものを守り切れない。
そんな状況から、直ぐにでも脱却できるのだ。その事実が、大いに彼を苦しめていた。ゆらゆらと揺らめく内なる炎に、彼はただ翻弄されるしかなかったのである。
「くぉら、いつまで惰眠貪ってんのよ、バカシンジ。さっさと起きなさい!」
アスカは、これまで幾度となく繰り返してきたその言葉を、幼馴染の少年に投げかけた。
が、反応無し。
眠り続ける少年の瞼は開くどころか、ぴくりともしない。いつもなら、完全に目覚めないにしても寝返りをうつとか、唸りを上げるとかそれなりの反応を見せるというのに。やはり、今回は事情が違うというのか。
「むぅ」
呼びかけに応じない相手に、惣流アスカは不機嫌に頬を膨らます。
「こら、起きなさいよぉ」
今度は、ちょっと穏やかな口調になってゆさゆさと彼――碇シンジの躰を軽く揺さ振ってみる。
が、反応無し。
「むぅ〜」
普通なら、ここまですれば寝ぼけ眼ではありながらもムクリと上半身を起こすはずだ。それなのに今日はまったく動かない。魔法に掛けられて無理に眠らされているような、そんな感じさえする。
彼を起こすには、その魔法を解くような通常とは異なる特殊な手段を用いなければならないのか。
だが、そう簡単に諦めるわけにもいかない。ここでシンジを起こさないことには、いま彼がおかれている位置がこれまでとは違う――自分には手の届かない場所であると認めることになってしまう。彼がいつもと変わらぬいつも通りの幼馴染であると自らに証明するためにも、ここで是が非にでも彼を目覚めさせる必要があった。
「ねえ、シンジ。シンジってば。起きなさいよ」
今度はその頬を軽く叩いてみる。
「ねえってば」
飽くなき挑戦を続けるアスカ。彼女にしては実に辛抱強いと言わざるを得ない根性だ。が、しかし、もともとそう気の長い方ではないアスカに、既に限界が訪れようとしていた。
こうまで無視され続けると、流石にいい気はしない。と、言うよりだんだんと腹が立ってきた。わざわざ起こしに来てあげているという親切に対して、無視という最悪の形で応えるとは何事か。これは許されることではない。
とにかく、アスカにはそんな気がしてきた。
そしてそんな気がしてきた時、特に相手がシンジである場合には、躊躇わずにその鬱憤を晴らすというのが彼女のポリシーである。
今回もその御多分に漏れず、小さく溜めを作ると激情の赴くまま怒鳴りつけるため口を開く。
それを遮ったのは異変だった。
突如、シンジを中心とする空間が滲んで見えたのだ。
目の錯覚かと思ったが、あきらかに違う。ベッドの脇に立ってシンジを見下ろす格好であったアスカは、その変化が良く窺えた。空気が視覚的にざらつくような感じがして、次いで歪みはじめたのだ。
そして風もないのに、アスカの艶やかな髪が生命の息吹を得たように躍り出す。
黒い光とも靄ともいえる幾筋もの何かが、シンジの躰から溢れ出ようとしている。それは、掠れた霧でできた幾多の蛇が荒れ狂っているようにも見えた。それはシンジの躰から飛び出そうとしては、何かに押さえつけられるかのように引き戻され、また飛び出ようとする。
荒ぶる絶大な力が、シンジの躰から満ち溢れようとしていることが、傍目にもよく分かるくらいだ。ついには空気が、振るえて悲鳴を上げるかのように妙に高音でありながら、躰の芯まで響くような耳鳴りを起こしはじめた。
「くうッ?」
胸を圧迫されるような、重苦しく強い力でアスカはシンジの側から徐々に押し離される。不快な耳鳴りに、彼女は小さな悲鳴を上げながら両手で耳を塞ぐも効果は現れない。
「なん、なの……これ」
痛みとも生理的嫌悪ともつかぬ、妙な感覚に片目を瞑って耐えながらアスカは呟いた。
「アスカちゃん?」
異常を感じ取ったのかシンジの母、碇ユイが部屋に血相を変えて飛び込んできた。そこには普段のおっとりした彼女はなく、緊迫した1児の母がいた。彼女をそうさせるまでに、この事態は尋常ではない。
「おばさま、シンジが……!」
アスカが小さく震える手で、彼を示す。シンジの躰から溢れ出し、自由を得ようとのたうちまわる黒い力の軌跡は、周期的に強まったり弱まったりしている。
力を押え込もうとする意志と、解放しようとする意志が激しく衝突しているのだろう。ピンと切れそうなまでに張り詰めた雰囲気の中、その激闘の行きつく先など誰に見当できようか。ふたりの女性は、ただ戦慄してそれを見守ることしか出来ない。
息子に良く似たショートカット。高校生である彼の母親だとすると、非常に若作りと言えよう碇ユイは、その息子の異様な力に気圧されたまま呆然と呟いた。
聞けば、碇家も霧島家とは系統が違えど特別な血を引く由緒ある一族であるという。ただ、霧島家のような術をつかえたり、能力を発揮することはない。だが言うなれば神に近い素養を秘めているらしいのだ。
ゆえに、古来碇家の女系は巫女として奉られ、神降ろしの器としての役割を担ったという伝承がある。現在では祭器として人体を用いるような大掛かりな術を行使する風習も廃れているし、何より術者自体が存在しない。
それゆえ碇家の女性でありながら、ユイはその自らに備わる特異性に関してそれ程思案した事はなかったのだが……。息子のシンジが生まれた時、はじめてその碇の血に纏わる伝承が真実だったと、思い知った。
――そう。シンジからは、強い何かを感じられた。この子には生来なんらかの力が備わっていると、ユイには感じられたのだ。
だが、碇家の素質が受け継がれるのは女性と決まっていたはず。不思議なことに、その素養が男児であるシンジに受け継がれている。思えば、これが何か尋常ならざるものを彼に引き付けたのかもしれない。
ユイはまだ知らない。
その引き寄せられたモノこそが、六〇〇年の時を越えて現世に送り込まれたアランソン侯の魂であったことを。アランソン侯の持つ特別な力が碇シンジに流れる碇家の血と素養に共鳴したのだ。
魂が宿る肉体は、どれでも良いというわけではない。その魂に見合った、固有の波長を発する……フィーリングの合致する肉体に魂は降りるのだ。かくしてアランソン侯は碇シンジに、碇シンジはアランソン侯となった。
そしてふたりの持つ何か超常的な力の相乗効果は、更なる何かを『引き寄せ』たのか。それが、今ユイとアスカの眼前で暴れ狂う闇と光の力の素性なのか。
真実を知るものは、まだ、誰も居ない。
SESSION・48
『宗主と総帥』
「――おい、彼奴等まだ来んのか? 腐れ外道」
円卓の上座らしき席に陣取った、全身黒尽くめの長身の男が苛らただしげに言った。
オールバックに固められた艶やかな黒髪に仕立ての良いダブルのスーツ。そして、口元には手入れの行き届いた帝王髭。切れ長のつり上がった目には獣のような鋭い眼光が宿り、チラチラと薄い唇の間からはやけに鋭利な八重歯が見え隠れしている。
エンクィスト財団最高幹部会ゼーレの長にして、京都山中深くに秘して継がれるという霧島の宗主である。
「喧しい奴だ。少しは落ち着きというものを持て。貴様はカルシウム不足か、疫病神」
腐れ外道呼ばわりされたネルフ総帥、碇ゲンドウは痛烈な一撃をお返しする。
「フッ。無知とは愚かなり。このわしが <落ち着きの霧ちゃん> と呼ばれ恐れられていることを知らんとはな、失敗面」
「フッ。笑止千万。貴様風情が落ち着きを謳うなら、私はさしずめ不動だよ、ゴルジ体」
どうでもいいが、二人ともとんでもなくカッコ悪い異名を持つものだ。
「不動が聞いて呆れる。貴様なんぞ <大工のゲンちゃん> で十分ぢゃ、この髭妖怪」
「フッ。私が大工ならばお前はしじみ売りでもやっていろ、この顔面ムヒコロリ」
「フッ。貴様に職の心配なぞしてもらわずともよいわ。万事、ノープロブレムぢゃ」
「それはこっちのセリフだ。全てはシナリオ通り。問題ない」
なんだかんだと、結構いいコンビのようだ。ただし、放っておくと徐々に皮肉の飛ばし合いはヒートアップしていき、とり返しのつかない事態まで発展するが。まあ、そういう時はネルフの副司令官・冬月が、間に入って二人を諌めてくれるおかげで何とか事無きを得ている。今のところは。
ところで、この円卓の間は突如襲来した霧島理事長のために、急遽ネルフ本部内に設けられた彼のプライベートルームである。彼の趣味なのか、他のネルフの施設とは異なり無駄に広いといった事も無く、照明も明るいし、生活感を感じさせる様々なものが運び込まれている上、部屋の三分の1は畳敷きになっている。
その畳の上には、ちゃんとちゃぶ台も設置してあるし、TVもある。急須やポット、湯飲みのお茶三点セットだってきっちり用意されているし、片隅には布団だってあるから、寝泊まりだってOKだ。
それ以外のスペースは今彼らのいる円卓の間で、要するに接客用の空間である。円卓といったが、継ぎ目のないそのテーブルは楕円形――いや、ほとんど長方形に近い。ただ角の部分が緩やかなカーブを描いているせいで、円卓といった雰囲気がするだけだ。
その円卓の上座に理事長、そして嫌がらせのように十分な距離をとったその右側の席にゲンドウが座っている。仲がいいのか悪いのか良く分からない二人である。
「しかし、何がシナリオ通りぢゃ。貴様、渚カヲルに利用されておる事にも気付かんのか、このフンコロガシ」
「突然なんの話だ。もっと要領よく喋る事を覚えろ、髭魔人」
「渚カヲルはこの新世紀で監視機構との決着を着けるつもりぢゃ。その環境を整えるために、息子に危機が迫っていることをお前に知らせ、ゼーレにネルフの創設を承認させたに決まっちょる。わしが言うとるのはそのことぢゃよ。それくらい言われんでも分からんかい、腐れ唐変木」
「そのくらい、貴様なぞに言われずとも重々承知よ。変態理事長」
「フッ。まあネルフなんぞ監視機構の前には、なんの障害にもなり得んがのう、このショウジョウバエ」
「ならば貴様になにができるというのだ、ゾウリムシ」
「まだ分からんようぢゃの。わしには、このエレガント極まりないヒゲがあるわい! 分かったら臍噛んで自害しろ、この水槽にこびりついたミカヅキモ」
「その顔面に増殖したカビもどきをして、不遜にも髭を標榜する気か。身の程を知れ、顔面細胞分裂」
「なんぢゃとう、この顔面バブル・スライム」
ガタッとイスを蹴って立ち上がる宗主。
「なにか文句があるのか、関節プリマハム」
やはりガタッとイスを蹴って立ち上がるゲンドウ。
「どうせそのむさ苦しいヒゲは、わしの美しい口ヒゲ <ルードビッヒくん> に憧れて生やしたんぢゃろうが、この猿まねモンチッチが!」
「貴様の暑苦しい増殖菌のどこに憧憬の対象となり得る要素があるというのだ。髭長猿」
両者ともかなり盛り上がってきたようだ。額に青筋たてて怒鳴りあっている。
「フッ、まだまだ青いの。わしの場合ただの口ヒゲではないわ。こっちの右側の口ヒゲは確かに <ルードビッヒくん> ぢゃが、左側の口ヒゲにはなんと驚き <エリザベスちゃん> という名があるのぢゃ。この見事なコンビーネーションには敵うまい、この髭面パロスペシャルが」
「それがどうした。私の場合、こめかみから頬までを <ナンシィ> 、頬から顎にかけてを <キャシィ> としている。貴様の似非夫婦ヒゲコンビでは、私の超絶美女髭タッグの繰り出す二連コンボには手も足もでまい。分かったらその暑苦しい雑菌を即座に処理しろ、顔面マッスルスパーク」
既に言葉の意味は良く分からなくなってきているが、とにかく両者、すさまじい気迫である。
「このわしをここまで愚弄するとは、覚悟はできておるのぢゃろうな。ヒゲバルサン」
「望むところだ、手加減はせんぞ。老いぼれゴキブリホイホイ」
ついに二人の怒りゲージは、臨界点を突破。
「フッ。戦場にてこのわしがアメリカ兵に <ヴァイオレンス霧ちゃん> と呼ばれ恐れられていたことを知るまい。貴様は地獄行き決定ぢゃ、この全身スクラップが!」
「貴様こそ知らんようだな。ネルフ総帥争奪異種格闘技対決で冬月と激闘を演じ、奴から <ネルフの黒い稲妻・ゲンちゃん> の名を勝ち取ったこの私の実力を。三途の河へは私が案内してやるから安心しろ、顔面スプラッター長編」
「わしの雪崩式足四の字固めが炸裂する前に逃げたし方が良いのではないか、このヘッポコ総帥」
「貴様の技なぞ、この私の垂直落下式吊り天井固めの前には全くの無力であることを思い知れ、老衰理事長」
どうでもいいが、飛んだり跳ねたりしながら相手に固め技を仕掛けることなど出来るのだろうか。
「言ってくれるではないか。もはや容赦はせんぞ、この顔面ホラー映画めがッ!」
「いよいよ最後の決着をつける時が来たようだな。念仏は唱え終わったか、顔面X‐FILE」
両者の間に稲妻が交叉する。怒りのオーラを纏った二人はゆっくりと間合いを詰め、今、中年たちによる熱戦の火蓋が切って落とされようとしていた。
SESSION・49
『円卓会談』
「はい。そこまでにしていただきましょうか」
圧縮空気を抜くような音と共にスライドして開いたドアから、ゆっくりと入室してきたネルフ副司令冬月コウゾウが、狙い澄ましたかのように二人の間に割って入った。
実にいいタイミングでの乱入である。
霧島理事長がこの町にやってきたときから、飽くことなく続けられてきたこの低次元の喧嘩を幾度と無く収めてきたのだ。いい加減慣れたというものである。
「まったく、碇も理事長も少しは自重していただきたいものですな」
呆れ顔でいう冬月だが、当の本人たちはそんな言葉など聞いちゃいない。今にも掴み掛からん勢いで睨み合っている。
「さあ、いい加減収めて席に戻って下さい。理事長、御望み通り渚カヲルを招きました」
「おお!」
その声に、ようやく振り返る宗主。彼は前々からこの渚カヲル――ひいてはタブリスに興味を抱いていたのだ。
この新世紀に存在すると見当をつけていたのは、何もJ.A.だけではない。タブリスもそうだ。
彼は中世において、幾度か未来の事情を知っているとしか思われぬ発言をしていた。どんな方法をとったかは知らぬが、本当に未来を知っているか、或いは新世紀にも彼が存在するかのどちらかである可能性は極めて高い。
理事長はそう考えていたのだ。
「お初にお目にかかります。宗主」
長身の冬月の後ろ側に隠れるようにして見えなかったが、その声と共に渚カヲルが宗主の眼前に姿を現した。
「うむ。お主が渚カヲルか。やはりな。この新世紀に来ておると予測しておった」
まだ少年といえるだろう。スラリとした細身の体躯に、目の醒めるような美貌はまるで少女のようだ。サラリとしたラ・ピュセルのようなシルバーブロンドに、茶色がかった紅い瞳。その身に纏う神秘的な雰囲気。
「ブルターニュ大公アルテュール三世。まさに、彼がこの場におるようぢゃ。良く似とる」
「ほう? 中世の僕をご存知で」
そう言って浮かべる微笑も、またオリジナルのタブリスとぴたりと重なる。
「まあ、理事長。ここまで来て立ち話もなんです。掛けて話しませんか」
冬月が遠慮がちに声を掛けた。
「うむ、そうぢゃの」
その言葉でやや興奮気味だった理事長は、落ち着きを取り戻すと上座に向かいつつ言った。
「では、渚カヲルよ。適当な場所に座るといい」
「――はい」
かくして、一同は改めて円卓に腰を落とした。上座に理事長。それから時計周りにネルフ総帥・碇ゲンドウ、渚カヲル、そして冬月コウゾウの席順である。
「さて、それでははじめるかの」
宗主は厳かにそう宣言した。この会談の席を設けたのは、他でもないエンクィスト財団理事長たる彼である。
渚カヲルから引き出せるだけの情報を、ネルフトップを交えて聞き出す。また監視機構に挑まんとする彼の真意と策を知る。一度アランソン侯の過去を体験した彼でなくては、突っ込めない問題も多々あろう。
これはネルフにとって間違いなくプラスとなるはずであった。
「まず確認したい。お主は中世欧州に存在したブルターニュ公国モンフォール朝のアルテュール三世であり、自由を司る使徒タブリスか?」
まず口火を切ったのは、やはり理事長だった。この場でもっとも監視機構や使徒に纏わる状況を理解しきれているのは間違いなく彼であったからだ。
「モンフォール朝はいささか過ぎた表現だとは思いますが、いずれにせよ正確には違います。僕はその複製。 <ファクチス> です」
「ファクチス?」
怪訝な表情で呟いたのは冬月だ。
ネルフ側としては、取り敢えず彼から情報を聞き出したつもりであったのだが、いきなり知らない因子の登場である。やはり正確に状況を把握してるものとそうでないものでは、質問の質と内容がまったく変わってくるという事か。冬月はあくまで聞き役に徹し、会談の進行を理事長に任せようという考えをより強めた。
「理事長。あなたは何故か、僕らの事情に相当深く精通しておいでのようだ。だが、知らない事もまたあるようですね」
「わしとて、万能ではないからの」
「そうですね。では、まず僕の <ファクチス> のことからお話しましょう。そもそも <ファクチス> とはフランス語において複製品や人工物を意味する言葉で、現在ではダミィやデュプリケートなどと英訳されている単語なのですが……」
それは、些か長い説明になった。
今この場にいる渚カヲルが、中世のタブリスの魂の複製によって存在していること。そしてその <ファクチス> の持つ特性と欠点。即ち、使い捨てが利くということ。中世のタブリスと、新世紀のカヲルはある意味情報を共有していること。
使徒としての能力、例えばその代名詞たるA.T.フィールドをカヲルは行使できないということ。そしてそのファクチスはアランソン侯爵を追ってこの新世紀にやってきたこと。
渚カヲルの口から、ファクチスの大方のことが話された。
「俄かには信じられない話ですな」
一通りの説明を受けた冬月は、半ば呆然とした表情で言った。
ゲンドウは何を思うのか、卓上に肘を突きその手を眼前のあたりで組み合わせたポーズのまま微動だにしない。
「つまり、お主はタブリスであり、タブリスではない。そういうわけかの」
財団理事長が、確認の意味を含めて訊いた。
「詩的に言えば、そうなるでしょうね」
奇麗に微笑んでカヲルはそう応えた。財団理事長や碇ゲンドウといった尋常ならざる厳つい男たちに囲まれているというのに、まったく気圧された様子はない。
「ぢゃが、それだけでは説明しきれぬことも多々ある」
微笑みを絶やさぬまま、無言で先を促すカヲル。
「例えば、お主が初めてシノン城の脇を流れる河の辺で、アランソン侯と出会った時」
「あなたは、本当によくご存知だ」
カヲルは本当に驚いたらしく、感嘆の声を思わず洩らした。
「お主は知っておったよな、アランソン侯が碇シンジであるということを」
理事長は、それに構わず続ける。
「ぢゃが、お主の話によればファクチスを未来に送り込み、アランソン侯が碇シンジとして生まれ変わったことを知ったのは、その随分後と言うことになる。そうぢゃろう? 何せ、お主はラ・ピュセルの次元封印の応用によって時空移動を果たしたアランソン侯の痕跡を追ってこの新世紀にやって来たのぢゃからの」
無論、ラ・ピュセルが次元封印を行使したのは、タブリスがアランソン侯に初めて逢った後のことだ。
「理事長。あなたは僕がフランスに遣わされた理由をご存知ですか?」
カヲルは静かに訊いた。
「マクロ的には欧州の監視かの。アルテュール・ド・リッシュモンという宮廷と軍部の双方に影響力をもった人間として活動していたのが、いい証拠ぢゃ。あの時代におけるお主の主要任務は百年戦争を監視機構のシナリオ通りに推進させることであり、スポット的にはラ・ピュセルの補佐もその一環であった。少なくとも、あの麗しの死神はそう考えておったようぢゃな」
「確かにそれは非常によく整理された見解です。ただ、すべてとは言えませんね」
「――ほう?」
「一四二九年五月二八日。人類監視機構はフランスのアランソン周辺に強力なATフィールドと時空異常の発生を観測しました。一種の重力震のようなものです。監視機構は計測値と痕跡から、それをATフィールドを用いた、使徒による <次元封印> 応用型の時空移動であると予測。当時、唯一フランス王国に派遣されていた、月天使リリスによる禁呪行使と結論づけました。この次元封印とは、亜空間や次元の狭間に対象を放り込むという高等禁呪で、地球上での行使は基本的に禁止されています。それでも、リリスはそれを発動させた。その真相を知るため、僕は一四一〇年、すなわち過去に送られたのです。監視機構の命令によって」
「つまり、君は一四二九年五月二八日以降の世界から一九年前の過去に送り込まれたということかね」
冬月は掠れる声で訊いた。次元封印だの時空移動だの禁呪だのと、すでに彼の常識の範疇を超えている。
確かに……実際に使徒たちがA.T.フィールドを行使し、死の三日月を操り、次元封印を発動させるその現場を見ていなければ、自分も冬月と同じ反応を示したかもしれない。
――理事長は、驚愕したままろくに話しに着いてこれない冬月を、横目で見ながらそう思った。
「そうなります。ですから、僕のフランス降臨の本来の任務はラ・ピュセルの補佐ではなく……監視。まあ、状況的な援助は影ながらしましたが、あくまで兵の派遣といった環境を整えてあげただけです。基本的には放置、静観ですよ」
「それで……?」
「要するに、僕はその一四二九年の時点で新世紀に <ファクチス> を送り込んだんですよ。そして、時空移動の痕跡を辿り、その対象となったアランソン侯を追ったタブリスのファクチスは、新世紀の渚カヲルという少年に憑依したというわけです。同時に、タブリス=オリジナルの魂は一九年の時を溯りアルテュール・ド・リッシュモンの胎児としての躰に降臨した」
「ふむ」
理事長は、ご自慢の口ヒゲを撫で付けながら暫し思案する。
「それで、その渚カヲルが辿り着いた新世紀というのは正確にはいつぢゃ」
「正確には、新世紀ではなく一九九六年です。アランソン侯は二〇〇一年――つまりこの新世紀に時空転移してシンジ君の躰に憑依しました。本当はアランソン侯の時空転移の跡を追ってきた訳ですから、僕も同時期に転送されるはずだったんですが、痕跡を辿るというある意味信頼性のない手段で時空転移したせいで、多少の誤差がでたようです」
「――なるほど。時空移動してきたアランソン侯の魂は、新世紀に辿り着くと肉体をまず求めた。そしてもっともパーソナル・パターンの近しい碇シンジを選び、それに憑依した。その後を追っておぬしは新世紀に遣ってきたわけか」
理事長は、おもむろにゲントウを振返ると口を開いた。
「おい、腐れ外道。おぬしの息子が生まれたのはいつぢゃ」
「二〇〇一年の六月六日だ。ちゃんと覚えておけよ、腐れチキンヘッド」
ゲンドウは宗主の問いに、憮然とした表情で応えた。
「なんぢゃとう! 人を鳥頭扱いするとはいい度胸ぢゃ、このゴリラハンド」
よせばいいのに、ゲンドウの嫌味に敏感に反応する宗主。ほとんど条件反射で罵倒を返す。
「言わせておけば。この整った指先のどこがゴリラハンドに見える。貴様の目は節穴か、イグアナマウス」
「フッ。節穴は貴様よ。この思わずむちゃぶりつきたくたる程にキュートなわしの口のどこが、イグアナ似なんぢゃ。しっかりものを見て言わんかいっ、このモヒカンキング!」
「また、はじまった」
冬月は、頭を抱えながら力無く嘆いた。何故に、この男たちは暇さえあれば、喧嘩をはじめ出すのだろう。しかも、子供と比較してもあまりに低次元な、幼稚極まりない争いを。
「渚君。君からもふたりを止めてくれんかね?」
ふたりの激烈バトルを、面白そうに眺めているカヲルに冬月は言うが、
「止めるんですか? ふたりとも楽しんでいるようですし、なかなか独創的な発想で相手を罵るあたり、見ていて面白いですよ」
……等と言い出す始末。
結局、このふたりの暴走を食い止めることが出来る男は、この冬月コウゾウくらいしかいないのだ。苦労の耐えない副司令官である。
「ふたりとも、もうそのくらいにしておいたら如何ですかな。仮にもこうして特別に設けた会議の場。それに我々には残された時間はそうないのですぞ」
やはり最後には、彼が割って入った。
「そうぢゃ。貴様が色々言い出すから話がすすまんではないか、この腐れ外道」
あくまでゲンドウ諸悪説を強弁する宗主。
「フッ。自分の事を棚に上げてよく言えたものだ、変態理事長」
あくまで宗主源悪説を主張するゲンドウ。なんとかこの場は引き下がった二人だが、時折ちらちらと相手を窺い視線で挑発し合っている。こんな連中に財団最高幹部会を任せておいていいのだろうか……。冬月はキリリと痛み出した胃を押さえながら、そう思った。
「――さてと。話はどこまでいっとったかの?」
何事も無かったかの如くに仕切り直す理事長に、一同は再び注目した。
「シンジ君の誕生日と、僕がこの時代に来た具体的な時期までですね」
カヲルが落ち着いた口調で応えた。
どうやら彼、霧島理事長に興味を抱いたようである。まるで珍獣を発見した研究者のように、熱烈な観察眼を向けている。確かに、この宗主は見ていて飽きないことだけは、誰もが認めるところだろう。
「ええと、碇シンジ誕生が二〇〇一年の六月六日。おぬし、渚カヲルが新世紀に辿り着いたのが、その五年前の一九九六年か。それで、おぬしはこの時代に辿り着いてから何をしておったんぢゃ」
「文字通り世界中、アランソン侯を探し回りましたよ。そして、この作業は僕の予想より遥かに困難なものでした」
流石の彼も、小さな溜め息を交えて言った。
「それもそうぢゃろうな。アランソン侯はラ・ピュセルによってその記憶を完全に消去され、しかも中世の頃から垣間見える特殊な波動をも封印されて、この時代に送り込まれたんぢゃ。時空移動に関しては、時空間の歪みを辿ればいいが、それ以後はアランソン侯の特殊な波動を頼りに彼奴を限定するしかない。その波動が消えてしまったのぢゃからな」
「そこまでご存知とは、驚きですね」
「フッ。尊敬しろ」
宗主、エリザベスちゃんを撫で付け御満悦。
「しかし」冬月が思案顔で口を挟んだ。「君が財団、ゼーレに接触してきたのは三年前。二〇一五年だ。シンジ君、いやアランソン侯を探すのに一九年も時間が掛かったのかね」
「最初は、彼縁の地フランスを中心とするヨーロッパを探していましたからね。僕には使徒としての力はほとんどありませんから、時間は掛かることはまあ、必然でしょう。もっとも、仮に僕がタブリス=オリジナルの能力を持っていても、捜索時間はそう短縮されることはなかったでしょうが」
使徒であろうが無かろうが、アランソン侯を探すには彼の波動を探知するしかない。条件は同じなのだ。
「おぬしが日本に辿り着き、碇シンジ=アランソン侯を見つけ出せた理由は?」
「彼の秘めた力に掛けられた封印は時と共に弱まっていったようですね。僅かながら、彼からアランソン侯の波動を感じましたから。最近ではそれも徐々に強まってきていますね。覚醒が訪れようとしている証です。理事長、あなたのお孫さんの影響もあってね」
「とにかく、 <ファクチス> である渚カヲルは新世紀にてアランソン侯を発見する。そして、その情報は中世のタブリス=オリジナルに伝わる訳ぢゃな」
「そうです。僕が一九九六年に現れて、二〇一五年にシンジ君に辿り着くまで一九年。中世でも当然一九年の時が流れている訳ですから、胎児であったリッシュモン元帥も一九歳になっています。西暦で言えば、一四二九年。――ラ・ピュセルとアランソン侯がシノン城で初めて出逢う年です」
「同時におぬし、リッシュモン元帥もアランソン侯と出逢う。この時、既にリッシュモン元帥は渚カヲルの情報から、将来アランソン侯が時空移動を果たし、碇シンジとして転生するということを知っておった訳ぢゃな」
「そうです」
「そして、それからラ・ピュセルが実際に次元封印を行使するまでの三ヵ月の間に、実に様々なことがあった。まず、タブリスと死神ゼルエルとの対決と和解。これが切っ掛けで監視機構の存在に疑問を抱くようになったタブリスは、創造主に対し謀反を企む」
「謀反は些か大袈裟かもしれませんが、まあ、大方はその通りです」
「このタブリスの造反の意志は、新世紀――二〇一五年の渚カヲルに逆伝達されたわけか」
「二〇一五年、つまり今から三年前か。君がゼーレの前に現れた時期と一致するな」
冬月が納得したように言った。
「正確には、この腐れゲンドウを利用した訳ぢゃな。都合のいいことに、アランソン侯=碇シンジの父親は裏世界を牛耳るエンクィスト財団の最高幹部の一員ぢゃった。しかも、この変態ヒゲ妖怪は顔に似合わず極度の親バカときちょる。お宅の息子さん、監視機構とかいうバケモノ集団に命狙われてますよ、とでも言えば、面に似合わず気色の悪い親馬鹿であるこの単細胞は黙っていても動き出す。火を見るよりも明らかなことぢゃ。なんせ、単純ヒゲ魔人ぢゃし」
「クッ」
所々にちりばめられた宗主の挑発に、ゲンドウは内心地団太踏んで悔しがる。だが、ある意味宗主の言い分は事実である故に、何も言い返せない。
「この顔面蚊取り線香を焚き付けておけば、ゼーレを無理にでも動かして何らかの防衛手段を築こうとするぢゃろう。現にこの三年でネルフを創設し、この第三新東京市を作った」
カヲルはただ微笑んで、静かに話しを聞いている。
「ここまで環境を整えたんぢゃ、渚カヲルよ。お主、この新世紀で全ての決着をつけるつもりぢゃな?」
SESSION・50
『襲来の確信』
円卓に沈黙が降りる。重い沈黙が。
新世紀で決着をつける。それが自由天使の真意なのか。これはネルフにとっても大きな意味を持つ。今後の身の振り方にも関わってくるだろう。
「――確かに、そう望んではいます」
そんな重い沈黙を破り、カヲルは静かに答えた。
「ですが、如何考えても現状では、それは夢物語です。僕はオリジナルではなくファクチスですし、ネルフも監視機構に対しては失礼ながら無力」
「うむ」
理事長も頷く。
「その監視機構についてなんぢゃが……ひとつ疑問がある」
「それは?」
「監視機構は、未来へは無理にしても過去には使徒を送り込める。これによって過去を操作すれば、労せずして歴史を操れるのではないのか?
例えば、アランソン侯に関する一件にしても中世の彼奴を殺せばこんな面倒なこともせずにすむし、新世紀におけるネルフの誕生も防げる。なぜ、それをせんのぢゃ?」
「難しい問題ですね」
カヲルは珍しく少し考えるような仕種をすると、しばらくしてから口を開いた。
「この問題は時間の捉え方に関係してきます」
「捉え方……とは?」
冬月がつい口を出す。元は学者たる彼、疑問があるとそれを放置したままにはしておけない性格なのだ。
「例えば、『過去』 →『現在』 →『未来』という時の流れを、日記帳にでも例えてみましょうか……。
人類の歴史を、そのまま日記に付けている存在がいると仮定して下さい。前のページは過去。まだ先の白紙のページは未来。一日が終わる毎に1頁、その日の出来事を日記に記していく。
その積み重ねが、歴史となるわけです。
未来は不確定。白紙。監視機構が未来に使徒を送り込めないのは、この不確定性にあるわけです。だが、過去の部分はページをめくることで容易に知ることが出来ます。
よって過去には使徒を送ることは出来るわけです。ただ、ここで問題となってくるのは、過去を塗り替えるというのは日記の前のページを『書き替える』に等しいということです」
「書き替える」
冬月はオウム返しに呟く。その声に小さく頷いて見せると、カヲルは続けた。
「そうです、冬月副司令。例えば、『昨日』の出来事を過去に溯って替えたいのなら、人類の歴史日記のページを1ページ捲ってその記述を書き替えるのです。
ですが、影響が出るのはその1ページのみ。他のページにはまったく影響は出ません。そうでしょう?
書き替えたのは、その日限定、たったの1ページ分だけなんですから」
「しかし……
例えば、おぬしの言う通り中世のあるページを捲って、アランソン侯死亡と記述したとする。だが日記の最新のページにはアランソン侯は、この新世紀におると記述されている。これによって、死んだはずの人間が新世紀に生きているという、矛盾が生まれるのではないのか?」
「――そう。まさに前後の記述に不整合が生まれます。そして、前後の辻褄が合わないデタラメ日記になってしまう訳です。デタラメな日記。こうなっては、日記自体に存在意義が“無くなって”しまいます」
故意にだろうか、感情の篭らない事務的な口調でカヲルは続ける。
「つまり、人類の歴史自体が意味を無くすことになるわけです」
「過去のページを書き替えれば、自動的に日記自体が記述の矛盾を補正しようとするのではないのかね?
或いは、日記の新しいページに『過去に溯って歴史を替えた』という新しい記述を書き足されるということは?」
「タイムパラドックスですか。そのあたりは、人間もいろいろと考えたようですね。ですが、監視機構はこう考えています。その日記の前後に不整合が生まれた場合、それを補正するために新しい日記が生まれる……と」
「新しい日記とはなんぢゃい?」
「つまり、書き替えた新しい事実と辻褄が合う、新しい歴史を別の日記に書くんです。人類の違う歴史を記した日記帳が、もう一冊ふえるんですよ」
「パラレル……並列世界とかいうやつぢゃな?」
「そうです。歴史が分岐することによる、新しい並列世界の誕生。監視機構は、これを恐れています」
「なんでぢゃ?」
「そこまで監視体制が届かないからです。並列世界の誕生は歴史の無限大の分岐を促しかねません。無限に存在する世界全てに使途を送り込む。……如何な監視機構でも無理というものです。ですから、監視機構は基本的に並列世界が誕生してしまうほどの過去の改変を行いません。僕が中世で特に目立った行動を起こさなかったのも、そのせいですよ」
「しかし、DEATH=REBIRTH……リリア・シグルドリーヴァは現に歴史を変えたぞ」
「いえ、彼女とってあれは、現在を変えただけです。監視機構が望んだシナリオから逸脱して、彼女が望んだ新しい歴史を作っただけです。ページを書き替えた訳ではありません」
「では、おぬしはどうぢゃ?
未来から過去に溯り、リッシュモン元帥と成り代わり歴史を変えた」
「歴史は変わってませんよ。リッシュモン元帥は、実在したんです。その役を僕が演じただけ。問題は生じません。それに個人レヴェルでならば、日記全体に影響を与える程の矛盾は生じませんよ。
その程度なら、監視機構が強引にでも辻褄を合わせます。問題は、その歴史の改変が芋蔓式に連鎖を起こして、全人類規模の歴史的矛盾に発展した時です。そして、その連鎖がどのように起こるかが予測不可能だと言うことです」
「なるほど。つまり、過去を弄くった時、それがどこでどう繋がり、どこまで影響を及ぼすかはやってみんことには分からんということぢゃな?
ぢゃから、監視機構は下手に過去を変えるのではなく」
「現在を操作し、シナリオ通りの出来事を白紙のページ――つまり未来に書き込むことに専念するわけです」
「おぬしがゼルエルを殺そうとしたことは、如何説明する?」
カヲルは一度記された歴史という名の日記を溯り、リッシュモン元帥に成り代わることでその流れを再び体験した。だが、既に記されていた歴史の日記には、リッシュモン元帥によるゼルエル抹殺というような記述は当然無かったはずだ。
「使途は基本的にこの次元の世界の従属物ではないので、これに関する矛盾の補正は簡単なんですよ。難しいかもしれませんが、使徒に関する出来事だけはある程度まで監視機構は修正できるんです。――分かりやすく言えば、使徒は日記を読んでいる読者が書いた“悪戯書き”のようなものです。あくまで悪戯書きであり、日記を構成する従属物とは直接関係しませんから、ある程度は無視できる訳です」
「フム――」
理事長は、取り敢えず納得したらしく小さく頷いた。
「まあ、それはひとまずよいとしてぢゃな」
再びカヲルに目を向けると、彼は続けた。
「問題は、おぬしが如何様にしてこの新世紀にて監視機構と決着をつけるつもりなのか。――具体的な『策』のほうぢゃよ」
「策……ですか」
「そうぢゃ。ゼーレにしても、このひょんたれゲンドウにしても、半ば勢いでネルフだの第三新東京市だのを作っただけぢゃ。
世界を永きに渡り牛耳ってきた“つもり”ぢゃった、ゼーレ。あの下賎(げせん)共は、ただ自分たちが今まで知らぬところから誰かに見下ろされていたことを知り、それが気に入らず、猛烈に反抗しようとしとるだけぢゃ。
相手が何者で、どんな目的を持っておるか、それに反抗すればどのような事態を引き起こすのか。それらのことを考えもせずに、子供の如くダダをこねてちょる、馬鹿の集団ぢゃ」
それから理事長は、ちらりとゲンドウに目を走らせる。
「そして、この猪突猛進・突撃ヒゲおやじにしてもそうぢゃ。
『息子が監視機構に狙われちょる。大変ぢゃ。対策本部作っちゃる!』
――ほとんど何も考えず、得意の親バカ根性を発揮してネルフ創設なんぞゼーレに承認させたものの、肝心の対・監視機構の有功策に関しては、未だ何の目処もたっとらん。所詮、ヒゲに『ヨッシー』だか『ネッシー』だか、品のない名前を付けるしか能のない無能総帥ぢゃ。どこまで足掻こうと、結局はわしの『マクシミリアンくん』&『クローディアちゃん』の最強夫婦コンビの2番せんじよ」
度重なる理事長の挑発に、ゲンドウは遂に立ち上がった。
「くっ……貴様、言わせておけば、図にのりおって。私のダンディー極まりないこのヒゲは、『ナンシーちゃん』と『キャシー』ちゃんだ。いい加減覚えろ、この変態ザル頭。――大体、貴様。さっきとヒゲの名前が違うぞ、明らかに」
確かに。先程までは、『ルードビッヒくん』&『エリザベスちゃん』とか言っていたはずである。
「フッ、これぢゃからして素人は困る。わしのこのポエミー極まりないオヒゲちゃんは、一〇分おきに名前が変わるんぢゃ!
これぞ、まことのフッショナブルよ。それくらいちゃんと研究しておかんか、このボンクラ総帥!」
「フッ、流石は貴様のヒゲよ。コロコロと名前が変わるとは、落ち着きのないところは主そのままか、この能無し理事長!」
「貴様、このわしの可愛いオヒゲちゃんを愚弄するとはなんと恥知らずな! 許さんぞこの脳みそヨーグルト!」
「やはり貴様とは決着をつける必要がありそうだな、人間青酸カリ」
もはや会議そっちのけで罵り合うふたり。
「また……またか」
疲れ果てた表情で、冬月は呟いた。もはや彼には止めに入る気力すら残されておらず、ただ背もたれにガックリと凭れ掛かるしかない。
沸き上がる――
溢れ出ずる――
「だいたい、貴様という奴はわし程のいなせな男を前にし……ムッ?」
ゲンドウと諍いを続ける理事長と、それを楽しそうに眺めていた渚カヲルの表情が突如、凍り付いた。
どこからだろうか……胸苦しくなるような、押しつぶされるような、強力な波動とプレッシャー。漆黒の光明。
「これは……」
掠れたその声の主、渚カヲルの顔にはいつもの微笑みはない。勢い良く椅子から立ち上がると、険しい視線を宙に走らせる。
「妖気、否、霊気か」
霧島宗家の家長すらも、未だかつて感じた事のない程に強大な力。
「タブリス、おぬしも感じるか」
その声に、ふたりの能力者は顔を見合わせる。
「無論です。ここまで強力な波動――いくら僕がほとんど使徒の力を行使できぬファクチスとは言え、仮にも自由天使の欠片。これを感じぬわけがない」
「理事長。一体、何事ですか」
普通の人間には、この特殊能力から発せられる波動を関知する事は出来ない。あきらかに戦慄しているふたりの能力者……理事長と、カヲルを見て、事情を飲み込めない冬月が問う。
「常人には感じられぬか……この波動、あきらかに」
理事長が振り返って、冬月に詳しく説明しようとした瞬間、
けたたましい呼び出し音が、円卓の間を切り裂いた。ゲンドウの携帯電話である。
「わたしだ」
鳴り響く携帯電話を懐から取り出すと、ゲンドウは無愛想にそう応答した。一同は、沈黙を持ってその様を見詰めている。
「――ユイか」
ゲンドウの携帯電話の番号は、彼の家族と冬月、そして碇家の隣人惣流家の限られた人たちにしか知らされていない。だが、この番号に連絡が入るのは極めて珍しいことであった。
「落ち着け、ユイ」
あのユイくんが取り乱しているとでも言うのか?
いつものおっとりとした、ゲンドウの妻、碇ユイを知っている冬月は些かそのゲンドウの言葉を聞いて驚いていた。
ゲンドウは、仏頂面のまま受話器の向こうのユイに話しに耳を傾けている。が、ある瞬間を境に、その表情が顕著に変わった。
「なに、シンジが?」
「やはり」
そのゲンドウの小さな叫びを聞いて、カヲルは小さく呟く。
「シンジ君が――いや、アランソン侯が目覚めようとしているんだ」
「六〇〇年の時を経て、ついにこの新世紀に覚醒するか。……確かに、この波動は碇シンジから感じたもの。しかし、数日前とは比較にならんほど強いがの」
重苦しく、ねっとりと纏わりつくような濃い霧を思わせる、強力な波動と圧力。それは尋常なものではなかった。何しろ、ネルフ本部は地下一〇〇〇M近くに設置されているのである。その地中深くにまで、アランソン侯の波動はこんなにもクリアに強力に届いている。
「分かった。直ぐに戻る」
そういうと、ゲンドウは通話を終了して、携帯電話をしまった。
「――シンジに異変が起きている。ユイと、シンジの友人の少女が肉眼で確認できるほど顕著なものらしい」
サングラスを中指で押し上げながら、ゲンドウは低く言った。
「冬月、しばらく頼む。私は一度自宅に戻る。足と作業員の手配を頼む。それから、この変態理事長が感じられるという波動を、MAGIで検出できるか赤城博士に依頼してくれ」
「了解した。……しかし、彼をどうするつもりだ?」
冬月は、硬い表情で頷く。
「見てから決める。恐らく、此処に連れてくる事になるだろう。そのための設備は既に用意してある」
「まさか、J.A.の如く凍り付けにしてドグマに放り込むつもりではあるまいな?」
理事長が訊く。皮肉のようにも聞こえるが、ある意味合理的な処置かもしれない。
「それでシンジの覚醒を遅らせる事が出来るなら、それも考えよう。貴様のような怪しげな力のないアスカくんまでもが、肉眼で確認できるほどの力の奔流であるというのなら――」
「監視機構に……、気付かれる」
カヲルが後を継いで言った。
「そうだ。そして、それは――」
――すなわち、監視機構使徒の降臨。
「今、監視機構にシンジ……アランソン侯の存在を察知される訳にはいかん」
「対抗手段がないからのう」
四人の表情は、どれも深刻なものである。事態は急速に動きはじめた。アランソン侯が、この場所に碇シンジとしていることが知れれば……
彼を抹殺するために、使徒が舞い降りる。
「時は……満ちたか」
止まらない時の流れに、ついに全ては動きはじめた。
そして人類と、監視機構。
アランソン侯の覚醒と開放と共に訪れる、彼らのラグナロクを告げる角笛は、今まさに吹き鳴らされたのである。