届けるんだ――
600年前に待つ、僕の乙女に



CHAPTER]X
「かつて中世に、神に挑んだ男がいた」


SESSION・36 『かつて中世に、神に挑んだ男がいた』
SESSION・37 『JUMPIN’ JACK』
SESSION・38 『NERV誕生』
SESSION・39 『戦士だけが挑む明日』
SESSION・40 『神の造りしもの』


SESSION・36
『かつて中世に、神に挑んだ男がいた』



彼は、そこにいた。

突き抜けるような、夏の青空高く。
強く眩しい日差しを背に、まるで彼自身が淡く光を放っているかのように。

――彼は、そこにいた。

風が、彼の銀色の髪を優しく撫でていく。
サワサワと、眼下の山林がそよぐ音が耳に心地良い。
かつて……という表現は正確ではないかもしれないが、こうして大空に身を委ね、風に感じ入るのは、かつて伝説の美しき死神と死闘を演じた、あのオルレアンの夜空以来だ。

炎天下に、長時間そうして佇んでいるというのに、彼は汗ひとつかかず、涼しげな表情すら浮かべている。
彼は閉じていた、その真紅の瞳をゆっくりと開いた。

そして、微笑んだ。



「――また、逢えたね」



遥か眼下、山頂の開けた場所に奇麗に菱形に並んだ霧島宗家。
その場所で、今、少年は目覚めようとしている。

その少年をなんと呼ぶべきか……、未だ判断がつかない。

彼は、碇シンジであり――紛れもなき、アランソン侯でもある。

以前までの状況であれば、碇シンジと呼べばそれで良かったのかもしれない。
だが、彼は忘れていなかった。
そして再び蘇るだろう。
中世に生き、激動の時代を駆け抜けたアランソン侯として。

「……君は、恐ろしいひとだよ」

自由天使、渚カヲルは思う。

時空を超え、君は此処へやってきた。
その際、君は全てを失い、碇シンジとしてゼロから生まれ変わるはずだった。
ラ・ピュセル自らの手により、記憶も思い出も、アランソン侯に纏わる全てを消去されたはずだった。
だが、君は思い出した。忘れてはいなかった。
例え記憶を消去されたとしても、君の魂は覚えていた。

――しかも、それだけではない。

君は、神に封じられたふたつの心さえも動かした。
ひとつは神に捧げられた、ラ・ピュセルの孤独な心。
そして、もうひとつは――この僕、自由天使の心。

一体、君は僕に幾つの奇跡を見せ付けてくれるんだい?
一体、君は僕に幾つの感動を与えてくれるんだい?

君はすべてを狂わせる。
君は僕の心を惑わせる。

――君は、恐ろしいまでに素敵なひとだ。



全てのはじまりは、やはり、ラ・ピュセルだった。

1429年、アランソンという街で、強力なA.T.フィールドと時空の歪みが観測された。
監視機構の使徒たちの間で、『次元封印』と呼ばれる技がある。
夜を司る天使、レリエルが好んで使う奥義のひとつとも言えるもので、強力なA.T.フィールドで次元に歪みを作り出し、閉鎖された亜空間……または次元の狭間へ対象を放り込むという荒業だ。
想像を絶するほどのA.T.フィールドと、それを扱う精度が必要とされるため、並みの使徒では使いきれない技術である。
カヲルでも、やって出来ないことはないが、危険を冒してまで行使したいとは思わない。
それ程のことを、中世のフランスでやってのけた使徒がいる。
人類監視機構は、慌てた。

当時フランスに遣わされていた使徒といえば、『ラ・ピュセル』こと『リリス』しかいない。
リリスが、この次元封印を行使したのだ。
だが、何故? 何のために?
事の真相究明と、歴史の補正のため、リリスの元に自由天使タブリスは派遣された。

DEATH=REBIRTHこと、リリア・シグルドリーヴァは、タブリスがフランスに遣わされた理由として、ラ・ピュセルの補佐の可能性を考えた。
確かに、これは誤りではない。
イングランド・ブルゴーニュ連合と、敗走を続けるフランス王国軍。
この王国軍を立て直し、連合が画策するイングランド・フランス合併王国の誕生を未然に防ぐのは、たしかにリリスひとりには荷が重過ぎた。
アルテュール・ド・リッシュモン元帥となり、フランス王国側に肩入れしたのは、確かにラ・ピュセル補佐のためである。
だが、最重要の動機としてはこれは妥当とは言えない解釈である。

タブリスがフランスに遣わされた、真の理由。
それは、リリス――つまりラ・ピュセルの監視である。

次元封印は、A.T.フィールドを用いたスキルとしては確立されているものの、行使される機会はほとんどない。
監視機構が、開発に失敗したり、離反した使徒を次元の狭間に幽閉、封印するときに用いられるくらいである。
その次元封印を、リリスは何故に使ったのか。
その調査を、タブリスは行った。

結果――それは、次元封印などではなかった。
次元封印を応用した、より高度なA.T.フィールドの活用。
亜空間をワームホールのように代用した、いわゆる時空移動。
ある対象を、未来へと送り込んだのだ。

そして、他でもない。
その対象こそが――アランソン侯・碇シンジ。
彼だった。

監視機構からの任務云々を抜きにして、タブリスがこのアランソン侯に興味を抱いたのも無理はない。
彼は、ある意味感情と心を神に封じられたとも言える少女ラ・ピュセル≠ノ、しきりと関わろうとした。
彼女を理解しようと、心を開こうと、受け止めようと、彼は奔走した。
――無駄なことを。
タブリスは、最初、そう思った。
精神攻撃や、鬱、洗脳、懐柔、その他様々と心有る故に生じる、任務遂行上の障害となるファクターは枚挙に暇ない。
これらの因子から使徒を遠ざけるため、リリスは勿論、全ての天使たちには感情がない。
存在しないわけではないが、監視機構の手によって、生まれた時から魂の奥深くに封印されている。
それの封印を、たかが無邪気な少年の積極介入ごときで、あっさりと解けるわけがないのだ。

だが、タブリスの冷笑は驚愕に変わった。
乙女の心の封印は、ひとりの侯爵によって――そう、解かれたのだ。
やがて、彼らの間には絆が生まれた。
そして、心を手にした乙女は、侯を亜空間に放り込んだ。

ただ、運命に逆らうために。

タブリスは、神の封印に挑んだ男……アランソン侯爵に、強い興味と感銘を抱くようになった。


               と き
彼は、アランソン侯爵を追って時空を駆けた。
本来、監視機構でさえ正確に座標を設定た上で、未来に何かを送り込むことは出来ない。
時空連続体の未来の座標は、それ以前の時点からすれば不確定の存在であり、予測・観測することができないからだ。
だが、もし、何者かが先に未来に旅立ったとしたとき、その後を追うということならば、それは可能である。
時空移動の痕跡を辿ることで、その未来へ繋がる正確な座標を割り出すことができるからだ。
タブリスは、この方法を以ってアランソン侯を追ったのである。
無論、監視機構の指令ということもあったが、実際はもうそのようなことなど、関係なかった。
ただ、アランソン侯という人間を、知りたい。
その時、まだラ・ピュセルのように開放されたわけではない自由天使の胸の中に、小さくて不思議な何かが生まれようとしていた。

闇の中から、神の視線とは、――違う方へ。

SESSION・37
『JUMPIN’ JACK』



タブリスが、自由天使と呼ばれ、他の使徒とは別格とされるのには、幾つかの理由がある。
まず、何と言っても『使徒』としての総合的な能力の高さが挙げられる。
如何なる任務も、監視機構が望んだ形で完璧に完遂してみせるその能力は、並居る天使たちの中でもずば抜けており、上層からの信頼も厚い。
そして、何と言っても最大の理由が――彼だけが持つ特殊能力である。
これは、現存する使徒の中で……少なくともタブリスだけしか使いこなすことが出来ないとされる、彼固有の能力で、監視機構、そして使徒たちの間で『ファクチス・システム』と呼ばれている。

能力にシステムとはおかしな話だが、このファクチスシステムとは要するに、魂の疑似化とでもいうものである。
思念体、……つまり思念を具象化させた存在があるが、この思念体に近い要素を以って、自分の魂を擬似的に複写できるのである。
すなわち、――魂のコピー。
それが、ファクチス・システムの正体である。

では、この思念体によって複写された疑似”魂”が何の役に立つかというと――、渚カヲルがその答えである。

擬似的に作られた魂のファクチスを、例えばオリジナルの魂が宿っているリッシュモン元帥とは別の肉体に宿らせる。
これによって、肉体を持つタブリスが2人できあがるのだ。
無論、ファクチスはあくまでフェイク。肉体に魂が宿っていると錯覚させて操るだけだから、ほとんど催眠術に近い。
当然、使徒が使徒たるA.T.フィールドも満足に使えないから、能力的には並みの人間と大差ない。
今のカヲルのように、精々大空に浮遊してみせるくらいが関の山だ。
しかし、当然の事ながら、このファクチスに全く利点がないわけではない。
他の能力では得ることのできない、大きく3つの特徴がこのシステムには存在する。

ひとつは、魂のファクチスであるため使い捨てが利くということだ。
つまり、所詮ニセモノであるから、かなりの無茶が許されるというわけである。
怪我をしようが、死のうが、オリジナルのタブリスには何の影響も生じないのだから、これは当然だろう。
そして、だからこそ使徒の肉体を以ってしても不可能なことも可能になるのだ。

例えば、次元封印がそうである。

亜空間や次元の狭間では、普通、物理や力学は通用しない。
酸素も無ければ、座標も、時の流れもない。
如何な使徒と言えど、こんな空間に入り込めば即座に消滅するか、多少もってもいずれ死ぬ。
……だが、ファクチスは違う。
魂だけの存在だ。亜空間に送られようと、意識を保ったまま自由に行動できる。
物理的制約にも捕われない。
そして、オリジナルとは違って、無理をして帰ってくる必要もない。
なにかトラブルが生じても、切り捨てれば済むことである。
オリジナルではかなわない、リスキーな行動にも十分対応できるわけである。

そして、座標さえ明確に設定することが可能なら、特別な場合を除いて、過去への時空を超えた旅すら可能となる。
亜空間への回路を開くなら、上級の技術を必要とするが、個人レヴェルの使徒でも可能である。
これが所謂、『次元封印』。
タブリスの場合、この次元封印を利用して、ファクチスを亜空間にダイブさせる。
移動先の事象――例えば今回のように、新世紀の第三新東京市に通じる座標に時空の穴を、監視機構に開けておいてもらえれば、そこへ向けてファクチスを走らせれば良い。
亜空間から、向こう側の通常空間に抜け出した後は、ファクチスを、パーソナル・パターンとでもいおうか、波長が合う胎児に着床させれば良いのだ。

――そう。
こうして、碇シンジの時代に渚カヲルとして、もうひとりのタブリスは出現した。
能力的には人間とほぼ変わらないし、監視機構にもファクチスによる使徒としての任務遂行は禁じられているせいで、特に行動を起こすことは出来ないが、状況の確認・対象の監査・情報の収集程度ならば必要にして十分である。

もうひとつの利点というのは、ファクチスがあくまでフェイクであるということ自体にある。
対象の肉体に、魂が宿っていると錯覚されて操るわけであるから、何も胎児に入り込む必要はない。
もともとその肉体に宿っていた、オリジナルの魂を消去して乗っ取ることをせずに、同居したまま操れるからだ。
先にも延べた通り、催眠状態に陥れ操る……または、幽霊のように憑依して操るといった感覚である。
これはすなわち、成体――つまり、大人の躰にいきなり入り込めることを意味する。
タブリス=オリジナルのように、わざわざ胎児の状態から成長を待たずとも、いきなり行動に移れる。
これは、意外に大きい。

ファクチス・システムの利点は、これだけに留まらない。
もうひとつ忘れてはならないのが、ファクチスはオリジナルとリアルタイムにリンクしているということだ。
……例え時空を超えていたとしても。
つまり、新世紀に送り込まれたファクチス=『渚カヲル』によって得られた情報は、瞬時に中世で活動しているオリジナル=『アルテュール・ド・リッシュモン大元帥』としてのタブリスに伝達される。
つまり、オリジナル・タブリスは、中世に居ながらにして600年先の未来の事情を知ることが可能なのである。

この固有特殊能力によって、タブリスは、あの死神ゼルエル――リリア・シグルドリーヴァにも困難な任務を、容易に遂行することができるわけだ。
タブリスが、最高の使徒のひとりとして監視機構に認識される所以である。


ただ、如何にタブリスとは言え、同時に数体のファクチスを作り出すことは不可能である。
いや、複製を作り出すこと事態はある程度までは可能なのだが、それを制御するのが難しいのである。
精々、一体が限度だ。
今回の場合は、タブリス・オリジナルがリッシュモン元帥としてまだ母親の胎内に居る間に、先行調査を目的として未来にファクチスを送り込んだのである。
如何な使徒と言えど、胎児であれば能力は振るえないし、監視機構からの任務を遂行することも出来ない。
タブリスは、その手持ちの時間を、ファクチスを使った調査に有効利用したわけである。
無論、監視機構の許可を得て、ファクチスを新世紀に導いてもらってそれは初めて可能となったのだが。

「さて――」

そのファクチス、渚カヲルは、霧島家上空で佇んだまま静かに言った。

「確信はしていたけれど……これで一応、確認は取れたわけだ。
――探したよ、アランソン侯。
君がこの時代に来ていたことは、次元封印による時空の歪みから簡単に割り出せたが……」

そう。アランソン侯が、この2一世紀に送り込まれたことまでは容易に調べ上げることが出来た。
だが問題は、ラ・ピュセルがその特殊能力とA.T.フィールドを最大限に活用させて、それ以後のアランソン侯の痕跡をすべて消去してしまっていたことだ。
アランソン侯が亜空間から抜け出した座標は割り出せても、肝心のアランソン侯をロストしてしまっては探すのに手間が掛かる。
最近になって、ようやく第三新東京市の碇シンジという少年に微弱な波動を感じたわけであるが、目星はついても確固たる証が無ければ、コンタクトは取れないし、上にも報告できない。
霧島一家の介入により、アランソン侯が覚醒しつつあるおかげで、ようやく確認を取れたわけだが……かなり時間が掛かったことは否めない。
或いは、ラ・ピュセルはそのことまで計算に入れて、アランソン侯の全てを封じ、転生に近い形を取らせたのかもしれない。

だとすれば、何と言う少女だろう……。

自分の全ての希望を、自ら断ち切ってさえも少年の未来を望んだ――。

「今の僕には……きみたちふたりの方が、監視機構などよりもよほど崇高に思える」

――そう。今の渚カヲル、いや、自由天使タブリスには、こころが存在する。

「僕は、アランソン侯を追って、ここへやってきた。
この新世紀に辿り着いたことは分っていたが……君の痕跡は、ぷつりとここで切れていた。
ラ・ピュセルの強力な術の行使により、記憶、思い出、想い、そして未だ不明ではあるが、君も持つらしい特殊能力。これらを完全に封じられ、あるいは消去されていたからだ。
――渚カヲルとしての僕は、能力が制限されているしね。
世界中を回り、君の存在に気付くまでに、本当に時間が掛かったよ」

今では、はっきりと感じられるアランソン侯の柔らで温かい……包み込むような波動に瞳を閉じて、彼は言った。
マナの祖父の術を受け、まだ眠りからは覚めないものの、彼から発せられる波動は徐々に強さを増してきている。

「そして、僕はここでようやく君に出会えた。
霧島マナの出現。彼女の他者の能力を増幅するという、一風変わったその力のおかげで、君は覚醒していった。
――いや、君のことだ。
彼女が現れずとも、いつの日か乙女のプロテクトを打ち破り、全てを取り戻しただろうね」

おもわず、微笑みがこぼれる。
いつもの貼り付けたような笑みではない。心があるものだけが見せる、柔かな表情だ。

「……僕は、ずっと君を見つめていたよ。
挫けない、君の後ろ姿を見ていた。
君のこころの咆哮に、ずっと耳を澄ませていた。
そして、いつしか僕は、君に夢中になっていた。

君は叫んでいた。
なんども、なんども――
彼女を忘れないと、思い出してみせると、君の魂は泣きながら咆哮していた。
それは、とても悲しくて、……切ない叫びだったよ」

カヲルはそっと胸に手を当て、何かに感じ入るように、ゆっくりと呼吸した。

「その哀しい咆哮は、何故だろう、とてもあたたかかった。――僕の魂に直接響くように」

碇シンジは、平凡な少年だった。

「――だけど、君は、懸命に呼び起こそうとした。
狂おしいまでに、君はもがいた。
彼女の幻さえも生み出すほどに、君は彼女を想いつづけていた……。
何故、覚えていられる?
何故、そこまでできる?
誰もが、絶望する状況の中で、何故君はあきらめずに、それでも咆哮するのだろう……。
僕には分からなかった。
何故なら、その時の僕には心がなかったから。

でも、今なら分かるよ――

定められた運命を相手に、負けつづける戦いを挑む君たち2人は……
遥かなる時に分たれ、絶望の中で叫びつづける君とラ・ピュセルは……」

スッと、カヲルの目が細められた。

「――君たちは、あまりにも切ない。

壊れそうなほどに繊細でありながら、哀しいまでに強い。
君たちのその懸命な姿に、
君たちのその強い想いに、
それでも求め合うふたりのその姿に、
僕は……、僕は心を動かされた。
君たちの想いが、自由天使を動かしたんだよ。碇シンジ君。

……片腹痛いよ。
それまで、僕はまるでJUMPIN’ JACK――操り人形のようだった。これで自由を司る天使とはね。

君も知っているだろう、あの死神の化身……リリア・シグルドリーヴァを。
彼女にも言われたよ。
つまらぬ支配を無条件に受け入れ如何なする? ってね。
無論、彼女はこんなに雄弁ではなかったが……それでも、心を持ったラ・ピュセルと同じ存在だった」

力を司る、最強の天使。
死神の化身、DEATH=REBIRTH。
リリア・シグルドリーヴァ。

彼女も、また、ラ・ピュセルと同じだった。
大地母神と想いを共にする男、クレス・シグルドリーヴァに心を揺さ振られた天使。
かつて、中世で神の封印に挑んだのがアランソン侯なら、クレスとリリアは、今、北欧で神そのものに反逆する英雄だ。

「アランソン侯、君のせいで僕も裏切り者扱いだよ。
監視機構よりも、好意に値するガラスのように繊細なこころが織り成す、英雄達の壮大な物語。
君のせいだよ。……責任を取ってもらわなくてはね?」

カヲルは、可笑しそうにクスリと笑った。

「想いは、人の心を動かす。

さあ、はやく目覚めてくれ。アランソン侯。
そして、この星から消えかけている、最高の想いの力を僕に見せてくれ。
その舞台は、僕が整えているよ。

――相手は『神』、人類監視機構だ」

未だ眠りつづけるシンジに、彼は呼びかけた。



「……そして舞台はここ、第三新東京市からはじめよう」





SESSION・38
『NERV誕生』




――エンクィスト財団

古来より裏世界に君臨する、世界各国の特権階級層をメンバーとした、巨大組織である。
彼らは自らの既得権、権益などの維持拡大を目的として、政界、経済界を牛耳っていた。
しかし、当然のこと、その事実は一般には知られてはいない。影の世界政府とも言える存在である。
財団設立の正確な時期は不明であるが、その歴史は産業革命以前にまで溯るという。
当初は、完全に欧州の王侯貴族がその中核を担っていた。
そして、その財団最高幹部会は、財団の存在を知る極一部の人々に、畏怖の念を込めて――

『ゼーレ』――そう呼ばれていた。


時は流れ、20世紀末。
欧州に加え、アジア、アメリカ、ロシアなどを傘下とし、事実上最大の裏政府となった、ゼーレ。
このゼーレが新計画の推進を承認。それに伴い、新たなる部署を設立した。
ゼーレ、すなわちエンクィスト財団・アジア地区代表、碇ゲンドウを総帥とする――

『人類監視機構対策実行特殊部隊』――通称、『NERV』

その名の通り、人類監視機構に対抗するための特務機関である。
突然に財団代表の前に現れた少年、『渚カヲル』が示唆する超越者、『人類監視機構』の存在とその危険性がゼーレを、そして碇ゲンドウを動かし、NERVは誕生した。

現在、急ピッチで完成が急がれる、第三新東京市。
……対、監視機構。そして、予測され得る『アランソン侯抹殺』を目的とした監視機構使徒の迎撃と、侯の守護の為、NERVの手によって築かれた人類の砦。
それが、新興都市第三新東京市の真実の姿である。
また、その第三新東京市の地下には、巨大ドーム『ジオ・フロント』が存在し、NERVの総本部が設置されていた。

着工から3年あまり、市自体は、まだ未完成であり、全体の70%しか機能していない。
ただ、それはあくまで要塞都市としてのパーセンテージであり、通常の市民生活を営むには十分なレヴェルに達している。
この第三新東京市は、生活レヴェル高水準化の実現を予感させる、近未来型のモデル都市として一般に認識されており、完成予定の来年には新たな首都として遷都されることもあり、住民は急速に増えつつある。
尤も、その内の大半が、NERVに関わる技術者やその家族たちではあったが。

さて、要塞都市としての第三新東京市ではあるが、別に高層ビル群が敵襲の際に地下に収納されたり、貯水池や山が割れ、中から巨大なミサイル発射装置が出現するといった大袈裟なギミックは、全くとは言わないにしても、ほとんどない。
ただ、市全域がNERV擁するスーパーコンピュータ『MAGI』によって、一元的に完全管理されており、巨大なネットワークを形成していること。
これによって、市内に起こった異常を即座に、リアルタイムでネルフ側が認識できること。
また、有事の際にはNERVの特設部隊が市内何処にでも、瞬時に駆けつけることが出来ること。
あらゆる公共施設に、アランソン侯護衛用、もしくは市民の退避用の設備が整えられていること等、そのシステムそのもの、または徹底した管理体制を指して、第三新東京市は要塞都市と呼ばれるのである。

当然、市内への出入りも厳しくチェックされ、一種、治外法権の国外といった感じさえする。

仮にも人類の超越者たる人類監視機構を相手にするのだ。
市、そしてNERV本部はまさに人類の科学技術の粋を結集して建設されたのである。

そのNERV総本部、プレジデントルームの広大な空間にコールの電子音が鳴り響く。
NERV総帥にして、総司令官をも兼任する、碇ゲンドウへの直通守秘回線である。


「――お宅の息子を、預かっちょる」


ゲンドウがおもむろに受話器を取り上げた瞬間、相手は開口一番、……そう言った。

「……」

プレジデント・ルームに繋がる回線を利用できるのは、ゲンドウの副官『冬月コウゾウ』か、或いはエンクィスト財団の極一部の幹部――即ち、ゼーレくらいのものだ。
だが、少なくともゲンドウの記憶には、ゼーレにこんな怪しげな喋り方をする人間はひとりとしていない。

「……誰だ」

薄く、冷たい闇の支配するその空間に、ゲンドウの低い声が僅かに響く。

「――引き換えに、ユイ君の愛情手料理と、お前さんの持っちょる『人形』見学ではどうぢゃ?」

大抵の相手ならば、ゲンドウのその声から感じられる圧倒的な威圧感と冷たさに、たちまちにして怯むところであるが、誰何に応えようともせず、相手は勝手に話しを進めていく。

「……何者だ。何故、あれの存在を知っている」

相手が『人形』と表現した、それは、恐らく財団の内でも最高機密として扱われ、NERV設立の直接的原因、及び渚カヲルの供述の裏付けともなった、あの存在のことであろう。
何故、それをこの男は知っているのか――。
ゲンドウの鉄仮面が、僅かに崩れる。

「あれ? ……おお、人形のことか? それを、わしが何故に知っておるか、か。
知りたいか? 知りたいぢゃろうなぁ。では、教えてやろう。

それは……」

相変わらず、通話相手の男の声は場違いなまでにマイペースである。
いろんな意味で、只者ではあるまい。

「それは、の……」

ゲンドウは、沈黙を守ったまま、先を待った。

「――東洋の神秘ぢゃ!」

……何ともふざけた回答である。
畏れ多くも、裏世界に君臨するエンクィスト財団幹部たるゲンドウに、こんな横柄な態度で接する度胸を持ち合わせた人間など、ひとりとて存在しない。

「……」

――いや、ひとりだけいた。

「なんぢゃ? まだ、分からんのか。……相変わらずヘッポコぢゃのう。何のためのヒゲぢゃ」

この偉そうな口振り。

「まさか、貴様……」
「うむ。ノープロブレムぢゃ」

そしてこの怪しげで、意味不明な言葉。

「……貴様は」

ゲンドウは、心底嫌そうにその名を口にした。

「生きていたのか。――霧島」






SESSION・39
『戦士だけが挑む明日』



開け放たれた障子から、広い和室に悪戯な真夏の風が踊り込み、少年の黒髪を揺らしては逃げてゆく。

霧島宗家、東館――青龍の間。

宗主の術の効力よりマナが目覚めてから、もう丸一日が過ぎていた。
だが眠りつづけるシンジは、未だ、目覚めない。
ゆっくりと時の流れる、この場所で、静かに……、静かに眠りつづけている。
柔かく閉じられたその瞳に、彼は今、何を見ているのだろうか。
彼の意識は、今、何処をさ迷っているのだろうか。
何を探しているのだろうか。
今の彼から、それを窺い知ることはできない。
……ただ、マナには感じられる。
選ばれた人間のみが持つ、特殊な力。
シンジから感じられるその波動が、覚醒の最終段階に至って、徐々に強まってきている。
アランソン侯の目覚めが近付くに連れ、彼の持つ特殊な“力”もまた彼の内側から浮上しつつあるのだろう。
やはり、彼がアランソン侯であるということを除いても、この少年は特別な存在らしい。

何故なら――


彼には、使徒の纏うA.T.フィールドが


“見えて”いた。


「……どうして、リリアさんが『A.T.フィールド』を……」
僕のその声を聞いて、クレスさんとリリアさんが同時にこちらに顔を向ける。
「おい、アランソン侯。なんでA.T.フィールドを知ってるんだ?大体、これが見えるのかよ?」
クレスさんは逆に驚いたようだ。
「……え、はあ。見えるけど……なんで?」
あれだけキラキラと光っているんだ。見えないわけはない。
「このA.T.フィールドは基本的に、人間では目視することは不可能であるはずなんですが……」
リリアさんも少し驚いたようだ。
「人間では視認できないって……
でも、クレスさんもリリアさんも、勿論ラ・ピュセルにも見えてるんでしょ?」
まるで人外の存在のような言われ様に僕は慌てて叫んだ。
「まぁ……リリアとラ・ピュセルは使徒だからな。オレもそれになりかけてるらしいし」



 デス    リバース
DEATH=REBIRTH――リリアの言葉が本当なら、普通の人間にはA.T.フィールドを見ることは出来ない。
使徒固有の特殊能力である、この絶対領域を形成する神秘の盾は、同じ使徒でなければ見えないのだ。
ラ・ピュセルは、リリスであるし……
リリアは、ゼルエル……
クレスも、ゼルエルと最初に契りを交わした人間として、使徒に変化しつつあった。
だから、この3人にはA.T.フィールドを見ることができてもおかしくないわけだ。
が、問題は、アランソン侯=シンジにもA.T.フィールドが見えていたということだ。

これが、何を意味するのか……。
彼が例外的に、A.T.フィールドを見ることが出来る特殊な人間なのか――
或いは、彼もまた使徒なのか――
それとも、それ以外の未知なる存在なのか――
どちらにしても、この少年が普通の人間には持ち得ない力を秘めているということだけは、確実だろう。

「シンちゃん……どんな夢を見てるの?」

広い座敷部屋の中央に、ポツリと敷かれた布団に静かに眠りつづけるシンジの枕元。
その寝顔を覗き込みながら、マナは静かに問いかけた。

「あなたの過去は、まだ終わっていない。……おじいちゃんは、そう言ってた」

過去が終わっていないのは分かる。
使徒の奥義のひとつ、『次元封印』。
それを応用して、ラ・ピュセルはアランソン侯を未来へと送り込もうとした。
そして、その時空の歪みがアランソン侯を捉えたところで、彼の過去の映像はプツリと途切れた。
過去を溯るという術では、それ以上先を見ることが出来ないのか、或いは術そのものの効力が切れたのか、はたまた術者が、術を打ち切ったのか。
それは、不明である。

だが、時は流れている。
アランソン侯がこの時代にやってきたとは言え、彼の抜けた中世の歴史がそこで終わってしまったわけではない。
アランソン侯を未来に送ったラ・ピュセルは、その後、どうなったのか。
次元封印を用いた彼女を、果たして監視機構は如何扱ったのだろうか。
それに、ラ・ピュセルが侯を送り出したことにより、彼が中世の世で戦死するという未来が狂ったはずだ。
歴史が変わったことによる影響は? ……また、それを監視機構はどう補正したのだろうか。

それだけではない。
監視機構と完全敵対していた、リリアとクレスは、どうなったのか。
ラ・ピュセルの予知夢では、確か、突如舞い降りた無人稼動の使徒、J.A.と交戦していたはずだ。
あの夢は、歴史的な現実となったのか。
彼らは、その戦いに勝利したのか?

あの最強の使徒、DEATH=REBIRTHが5体とはいえ、無人稼動の使徒ごときに敗れるなどとは思えない。
ならば、あの戦いに勝利した後、彼らはどうなったのだろうか。
監視機構に勝利できたのだろうか?
もし、彼らが監視機構を倒せなかったとしたら……

もし、そうだとしたら――

この新世紀にも、監視機構は依然として存在している?




マナは戦慄した。
そうである。
考えてみれば、監視機構は太古の昔より人類を監視・支配してきたのだ。
絶対的な力を持つ複数の使徒たちを操り、我ら人類の歴史に裏から介入し、都合のいいようにそれを操作してきたのである。
シンジの過去を体感しなければ、そんなことはついぞ知らずに一生を終えたであろうが、幸か不幸かマナは知ってしまった。
地球の支配者として君臨してきたつもりの人類が、実は知らぬところで支配を受けていることを。
監視機構とは、それ程の力を持つ存在なのだ。
600年の長き時を経ても、未だに存在する可能性は……極めて大きい。

――監視機構、健在なり。

考えただけでも、背筋が凍るような恐怖を感じる。
マナの予測通り、恐らく監視機構は未だ存在し、支配体制を敷いたまま人類を監視し続けていることだろう。
そして、その監視の対象の中には、マナ自身も含まれているのである。
無論、監視機構が直接マナの日常に介入してくる可能性などありはしないだろうが、ひっそりと闇の中から伸ばされた超越者の手の中で、今、我々は無邪気に日常を送っている。

その事実が、マナをなにより恐怖させた。

悪魔……。
そう。物語の中にしか登場しない、架空の作り物だと信じていた悪魔が、実は存在した。
自分の身近に、直ぐ側で、ひっそりと自分を見ていた。
それを――その事実を、ある日突然悟ってしまったかのような、そんな、恐怖。

今、その恐怖を自らのリアルな感情として実感しはじめたマナには、ようやくにして、シンジやラ・ピュセル、リリア、そしてクレスといった過去の英雄たちが相手としてきた、敵の強大さを朧に理解した。
あまりに強大すぎて、全体像を見ること……いや、想像することすら困難な相手。
或いは、恐怖という感情そのもの、それが人類監視機構なのかもしれない。
そんな存在を相手に……この若き少年は、戦う決意を固めていた。

――アランソン侯爵は、戦士だったのだ。


昨朝、マナはシンジのことを、問うた。
「ねぇ、お宗主。どうしてシンちゃんは目覚めないの?
私たちはもう目が覚めたのに、どうしてシンちゃんだけ術が解けてないの?」
「ノープロブレムぢゃ」
いつもの仏頂面のまま、冷たく返された言葉にマナはムキになる。
「……どうして、教えてくれないの?
さっき、おじぃちゃん『「此奴の過去はまだ、終わっとらん』って言ったよね。あれってどういう意味?」
「分からぬか……?」
「分かんないよ!」

そして、溜め息交じりに放たれたその言葉。
「――ここからは、戦士だけが挑む明日ぢゃ」

「……えっ?」
「ある覚悟なくしては、覗くことの許されぬ世界がある。
此奴の終わらぬ過去の顛末を知りたいのならば、目覚めたアランソン侯に直に聞くがいい。
本人の許し無くして、わしがおいそれと口にすることが出来るような話ではないからな」
「……」
「もし、アランソン侯として覚醒した此奴が、おぬしにその資格を認めたのなら、聞かせてくれるぢゃろう。
――アランソン侯爵が心に刻みつけた、悲哀とと想いの全てをな」

マナには、その言葉の意味が良く分からずにいた。
だが、今なら何となく分かるような気がする。
マナは確かに、シンジの過去を垣間見た。
だが、それはあくまで第三者として傍観しただけに過ぎない。
結局は、ちょっとリアルな映画に心を動かされたつもりでいるのとそう大差はないわけだ。
本当の意味で、シンジの受けた傷、ラ・ピュセルの哀しみ、そして運命に逆らうことの恐怖を理解したわけでは無かったのだ。

いくら感情移入できたところで、マナにとっては所詮どこまでいっても600年前に起こった、ひとつの哀しい物語でしかない。
彼女には何の責任も伴わなければ、実際に苦しむのも自身ではないからだ。
だが、ここにきてマナも、監視機構の恐怖を朧げに理解した。
それに挑むに必要な勇気が、如何ほどのものか実感した。

――神に挑む

それは、戦士としての覚悟無くしては向えない領域なのだ。
そして、アランソン侯はその道を選んだ男。
監視機構と戦う勇気を持つ者だけが、このアランソン侯の終わらぬ過去を知る資格を持つ。

――だか、マナにその資格はない。

だから、マナの祖父は彼女に何も語ろうとしなかったのだ。

「なんだか……シンちゃん、遠くに行っちゃったみたいだよ。
ただ繊細で弱気な男の子だと思ってたのに……知らない間に、わたし、置いていかれちゃったような気がする」
マナは、目を細めて眠りつづけるシンジにそう囁きかけた。
「わたしも、シンちゃんの高みまで昇っていけるかな?」

確かに現状において、自分にはシンジたちと肩を並べるだけの強さはないかもしれない。
シンジの支えにすらなれないかもしれない。
監視機構の存在という可能性が、脳裏をかすめただけで恐怖に躰が震えだす。
しかし――
このまま終わらせるつもりはない。
怖いけど、このまま引き下がれるはずもない。

自分でも感情的になっていることが分かる。
意味もないのに、意地になってる。
何故、これ程までこの件に拘るのか、自分でも分からないけど……。

「……でも、わたし、強くなるよ」

――私も、一緒に見てみたいから。

アランソン侯が、目指したもの。
ラ・ピュセルが、求めたもの。
英雄たちが、夢見たもの。
全てを、凌駕するもの。

ラ・ピュセル、リリア、クレス、タブリス――
あなたを取り巻く、大切な協力者たち。仲間達。
できれば、そのなかに私も入れて欲しいんだ。

そして……

あらゆる負の感情。心の中の闇。
全ての心動かせる、そのハートと引き換えに……深い闇の向こう、辿り着きたい。
絶望の彼方にあるもの、見てみたい。

きっと、それはとっても素敵な何か。

そう、思うから――

そっと、彼の額に手を重ねてみる。
彼の波動を感じれば、彼の温もり感じれば、少しだけ、強くなれる気がする。
わたしも、頑張れる勇気、湧いてくるような気がする。

「シンちゃん……」

その時、不意に各館を繋ぐ渡り廊下側から、マナを呼ぶ声が聞こえた。
「おい、マナ! 何処におる?
マナよ、マナ。マナといったらマナ、速やかに出てこんかーっ!」

どうやら、早朝から姿の見えなかった宗主が、マナを探して屋敷中を歩き回っているらしい。
「おぉ〜い、マナ、マナ、マナよ、マナちゃんよー!」
霧島家ではそのあまりの広さが災いし、一度見失ったら、誰かを探し出すのは至難なのである。
そんな時は、宗主のように大声で呼ぶしかないのだ。

「マナ、マナ、マ〜ナ〜、マぁ〜ナぁ〜♪こ〜う〜しぃをの〜せ〜て〜」

突如、低く地獄の底から響き渡るような不気味な歌声(?)が、全館に響き渡る。
どうやら、ただ呼ぶだけでは飽き足らず、ドナドナのメロディにのせて歌い出したらしい。
恥ずかしいこと、この上ない。
昔から姿が見えないマナに痺れを切らすと、彼はいきなり歌い出すという迷惑な悪癖があった。
お願いだから、やめてほしい。……というか、即、やめてください。

眠りつづけるシンジに名残惜しげな一瞥をくれると、マナは跳ねるように立ち上がり、髭の現代版ローレライ(※)を速やかに殲滅するため部屋を出た。
右手に、世界の名作はんまー・しりーず☆第2段『アンバー・メイス』を握り締め――。

(※ ローレライ〔LORELEI=ドイツ語〕
  ライン川中流右岸の岩山に、怪しい歌声で船人たちを誘い寄せ、難破させるという妖女)

「マ〜ナ、マァ〜ナ、おサ〜ルさぁ〜んだよぉ〜♪マ〜ナ、マァ〜ナ、みなぁ〜みの島ぁのぉ〜」

目を閉じ、讃美歌を歌うクリスチャンのように手を胸元で組みながら、躰くねくね、おしりふりふり……
ドナドナ・マナ呼びバージョンを歌い終えた彼は、アイアイ・マナ降臨バージョンに移行し、歌い続けていた。
すっかり、美声だと思い込んでいる自分の歌声に陶酔している宗主は、急速接近する敵影の存在に気付かない。

「誰が、南の島のおサルさんなのよおぉぉぉぉ〜っ! !」


どぐしゃっ☆


「ぶきゃっ!」


――髭ローレライもどき殲滅。

「い……いきなり、何するをんぢゃ……マナ……」
はんまーの下敷きになり、ペラペラの2次元人間になりかけながら、宗主は何とか言った。
「その呼び方は、恥ずかしいからやめてって言ってるでしょ〜!」
その宗主の襟首を、まだまだ楽にはさせねぇーぜっ! ――と言わんばかりに引っ掴むと、ゆっさゆっさと揺さ振りながらマナは言った。
勿論、全く、完全に容赦はない。
「の……ノープロブレムぢゃ」
何とか声を絞り出して応えるものの、意識朦朧の宗主の視線は宙をさ迷っている。
「ちっともノープロブレムぢゃなーい! どうして、そうやっていつもいつも誤魔化そうとするんですかっ!」
「と……東洋の神秘ぢゃ」
先ほど開発したばかりの、新兵器で返す宗主。

「東洋のしんぴぃ? ……まぁた訳の分からないこと言いだして。
いくら新しいパターンを考え出しても、わたしは誤魔化されませんからねっ!」
「う……うむ」
くわっと睨み付けられ、宗主、内心たじたじである。
「あんな気味の悪い歌を大声で歌って、もし、シンちゃんが起きちゃったらどうするの?
そんな起こされ方したら、シンちゃんが再起不能になっちゃうじゃないの! そしたら、どう責任とるつもり?」
「いや……その、なんぢゃ……」
「とぉにかく! おじいちゃんは、歌っちゃ駄目。あと、急に暗闇から現れるのも駄目。ただでさえ怖い顔なんだから」
「そ……それは、わしのせいではないと……思うんぢゃが……?」
「いいからダメ。とにかくダメ。何がなんでもダメ。――絶対ダメっ!」
もはや、こうなってしまっては如何な宗主とて、マナを止めることは出来ない。
こういう時のマナには、理屈は通用しないのだ。

「分かった?」
そう言うとマナは、宗主の襟首をぎゅっと締めつつ、ギロリと睨み付けた。
「う……うむ」
大人しくしたがった方がいいと判断した宗主は、渋々頷いた。
「――よろしい」
それを見て、なんだか満足そうに頷くマナ。
とりあえず、彼女の怒りは静まったようである。
「……ノープロブレムぢゃ」
宗主は、ほっと胸を撫で下ろした。

「……それで?」
「うむ」
「何か用なの? 一応あれで、私のこと呼んでたんでしょ?」
マナのその言葉にハッとした表情をすると、宗主はぽんっと手を打った。
「おおっ! そうぢゃった。ハンマーでぶん殴られた拍子にスポーンと忘れておったが……」
宗主がようやく思い出した用件を口にしようとした瞬間、何処からか空を切り裂くような轟音が近付いてきた。
聞き様によっては、絶え間のない雷鳴のようにも聞こえる。
「な……なに、この音……近付いてくるみたいだけど……」
マナはきょろきょろと辺りを見回しながら言う。

霧島家が大きく4つの家屋で構成されているのは、周知の通りである。
それぞれは正方形の角の部分、即ち4隅に位置しており、その各館を結ぶ渡り廊下のひとつに現在マナと宗主はいる。
この廊下には等間隔に柱が立っていて、それが直接天井を支えており、壁自体は腰の高さまでしかない。
故に、渡り廊下からは中庭と、外がかなりの視野で見渡せる。
だが、いくら目を凝らしてみてもこの轟音の音源らしきものは見当たらない。
大出力の電流を放電した時の、弾けるような断続音は徐々に近付いてくるにもかかわらず、だ。

「ねぇ、……何処からきこえてくるんだろう?」
すこし焦りながら、マナは宗主に訊いた。
つい最近まで、10年以上の間、この霧島の屋敷に住んでいたマナだが、こんな経験は一度としてなかった。
「恐らく、玄関先に着くぢゃろうな」
「玄関? じゃあ、やっぱり外なの?」
「うむ。腐れ外道の迎えが来たのぢゃ」
「?」
「催促しといたからのぅ」
また訳の分からないことを言い出した宗主に、マナは小首を傾げる。
が、まともに考えても仕方ないと判断し、駆け出した。
「私、ちょっと見て来るね!」

マナはそう言い残すと、玄関目掛けて一直線。
音の正体が分からない以上、多少、怖かったりするが……好奇心が勝った。
それに、宗主の様子では危険はなさそうだ。
何か知っているようなので、直接聞いてもいいのだが、まともな答えが返ってくる可能性はあまり高くない。
それよりも、自分の目で確認した方が手っ取り早いだろう。
伊達に長年宗主の孫娘をやってきたわけではない、ということだ。

宗主の言った通り、渡り廊下から玄関に着いた途端、今までとは比較にならないくらいクリアなその音が聞こえてきた。
急いで靴を履くと、大きな玄関の戸をガラッと開ける。
バスルームやリビング等は改築してあるが、基本的には、前世紀……いや、平安か鎌倉あたりから続く古い屋敷であるわけだから、ドアも現代の標準であるようなスライド式の自動ドアではない。

霧島宗家の館は、京都のはずれ、名も知れぬ鬱蒼とした山奥……、その山頂を切り開いた場所にある。
山頂の山林を直径4〜500Mくらいの範囲で伐採して、そこに屋敷を強引に建てたらしい。
故に、玄関先の外庭……というか、開けた広場はかなり広かったりする。
神社の境内が、例外なく広いのと同じような感覚だ。
ただ邪魔な山林を取り払っただけで、中庭のように鑑賞用でもないわけであるから、当然玄関先の庭には特に何もありはしない。
――普段は。

「な……に……あれ……」

マナは、戸を開けた瞬間、目の前に横たわるような金属の巨体に目を見張った。
巨大なプロペラが、砂塵を巻き起こしながら回転している。
どうやら、音の正体は、この鉄のバケモノだったようだ。
「あれは、……『オスプレイ』ぢゃな」
何時の間に来たのか、マナの背後から庭に出てきた宗主が抑揚のない声で言った。

――オスプレイ

「京都のこんな山奥では見る機会などないに等しいからのう。マナが知らんのも無理はない。
あれは、ヘリコプターの一種ぢゃ」
「……ヘリコプター」
まあ、存在は知っていたが、実際に見たことは一度もない。
「それにしても……」
イメージにあったヘリコプターとは、随分格好が違うような気がする。
マナの知識としてのヘリコプターは、おたまじゃくしのような機体の屋根に、大きなプロペラがついたものだ。
だが、このオスプレイとやらは違う。
どちらかといえば飛行機に近いようなフォルムで、ずんぐりとした胴体、そして主翼の両端には、かなりおおきなプロペラがついている。
それに、機体にも各部の翼の何処にも、所属を示すようなシンボルや、ロゴの類は入っていない。
ステルス塗装が施してあるのか、黒い無骨なボディがのっぺりと広がっているだけだ。

「CV−24 特殊作戦用オスプレイぢゃな。各部にNERVオリジナルの改良が加えられちょる。
アメリカ空軍が使っておったやつの、まあ、NERVニュー・カスタムといったところかの?」
舞い上がる砂煙に、もともと鋭く釣り上がった切れ長の目を、更に細めながら宗主が言った。
「あの、主翼両端についちょるティルト・ローターの向きを変えることで、発生する推力の方向を操作し、V/STOL……すなわち、垂直・短距離離着陸を可能とするわけぢゃ」
「おっきいね〜」
宗主の解説を理解したのかしていないのか、マナの感想は思いっきり簡単である。

「ヘリよりも高速ぢゃし、航続距離も長い。腐れゲンドウのわりには、結構気の利いたものを遣しおったの」
御自慢の帝王髭を撫でながら、宗主が言った。
しばらくして、ローターの回転が止まると、機体のお尻の部分がパカッと開いて、そこから黒服の男たちが数人下りてきた。
「ほぇ〜、あそこが入り口なんだ。でも、ふつうのヘリコプターって、お腹の横のところに搭乗口があるんだよね?」
「うむ。この機体は一応12名まで乗せられるし、貨物を運ぶのにも使われるからの」
「あ、だからちょっと違うんだ。……それにしても、家に何の用だろ?」
はじめてみるヘリコプター――しかも、なにやら特別機らしきものにマナは瞳を輝かせている。
あくまで好奇心旺盛な女の子である。

「ね、もしかして、あれに乗って今から何処かに行くの?」
マナが、隣にぬおっと仁王立ちしている宗主に訊く。
「霧島様。お迎えに上がりました」
ほとんど同時に、機体から下りて歩み寄ってきた黒服たちのひとりが宗主に言った。
「――うむ。ノープロブレムぢゃ」
マナの問いにか、それとも黒服の言葉にか、とにかく宗主は満足そうに頷く。
そして、マナに振り向くとニヤリと邪悪に笑って言った。
相変わらず、異様に長く尖った八重歯が怖い。




「――マナよ。これから引越しぢゃ」







SESSION・40
A JADGE ADVOCATE


人類監視機構対策実行特殊部隊――NERV

その拠点、第三新東京市は、旧世紀の神奈川県、箱根は芹ノ湖周辺に建設中の次世代モデル都市である。
しかしてその実態は、襲来の予測される監視機構所属使徒迎撃用、そしてアランソン侯=碇シンジ防衛用の要塞都市である。
市内中心部には、近未来都市を思わせる高層インテリジェント・ビルが林立し、また芹ノ湖周辺には市の地下に広がるジオ・フロント――大深度地下都市NERV本部に光を集めて送るための集光ビル郡が目立つ。
これらを含め、最終的に市内の全てのシステムは、NERV擁する第7世代型スーパー・コンピューター・システム『MAGI』によって管理・運営されている。

ジオ・フロントとは、第三新東京市地下にドーム状に広がる巨大な空間である。
市の直径が2KMであるに対して、ジオ・フロントの直径は6KMと、その巨大さが窺える。
この地下空間は自然のものであるそうで、これ幸いとその広大な空間を有効利用して、その中心部にNERV本部を設置したのである。
NERV本部自体は、何故かピラミッドのような形をしており、他にもサブ・ターミナルなとがあるが、ジオ・フロントのその他ほとんどの部分は、巨大な地底湖と深い森林地帯に覆われている。
この地下都市から、地表の第三新東京市までは約1KMほどあり、リニア・モノレールやカートレイン等で連絡が保たれている。
もっとも、これらの設備を利用して本部内に立ち入ることが許されるのは、極一部の限られた人間達のみではあるが。


そのジオ・フロント最深部、NERV本部、プレジデント・ルーム――

「……碇、理事長が到着したとの連絡が入ったぞ」
60代に達するだろうか、白髪・長身が印象的な男性が、よく通る声で言った。
特務機関ネルフ副総司令、冬月コウゾウである。
「……来たか、あの疫病神めが」
薄暗いプレジデント・ルームに、総司令を兼ねるNERV総帥、碇ゲンドウの苦々しい声が響く。
サングラス越しで尚強烈な眼光、こめかみあたりから続く濃い顎鬚と、NERVのトップとして十分な貫禄と威圧感を兼ね備えた男である。
「その言われようは少し酷くないか? ……相手は仮にもゼーレのトップだぞ?」
「フン……‥」
諌める冬月に、ゲンドウは皮肉たっぷりに返す。
「10年以上も財団最高幹部会、理事会、ゼーレの会合、それら全てに顔を出さず、どこぞの山奥で隠遁生活。
消息不明、生死の確認も取れなかった男がか?」
「――」
確かに、ゲンドウの言葉も真実であるため、冬月にはこれ以上何も言えない。
エンクィスト財団理事長は、この十数年というもの、第一線から退き……というより、突如出奔し、以来消息が掴めないでいた。
正確には、財団理事長に関しては他者によるあらゆる干渉が禁じられていたため、行方を調査することが出来なかったのだ。
調べたのなら、古来より霧島宗家の場所は京都と知れているのだから、宗主の居場所は簡単に知れただろう。
どちらにせよ、彼がその空白の時間に何処で何をしていたのか、財団――ゼーレは何も知らない。
ところが、今朝はやくにいきなり彼からの電話が掛かってきたのである。

その彼が、NERVを視察したいと言い出したのだ。
如何に突然とはいえ、ゼーレのトップにそう言われては、エンクィスト財団を財源とするNERV総帥としてゲンドウには断ることはできない。
渋々、京都の山奥まで迎えをやったのだが……、どうやら、ここに無事到着したらしい。
内心、ゲンドウは途中で事故でも起きて、帰らぬ人になってくれと願っていたのだが……、残念ながら理事長は殺しても死ぬようなタイプの人間ではない。
例え、迎えにやったヘリが墜落しようとも、何故か彼だけは受け身一発、生存してのけそうな気がする。
そして、何故助かったかと訊ねたならば、ニヤリと1・5インチはある鋭い八重歯を覗かせて笑い、こう言うのは目に見えている。
『……東洋の神秘ぢゃ!』


「……とにかくだ。
むこうは、シンジくんの行方も知っているようだし、“あれ”の存在にも気付いていたのだろう? 丁重にもてなした方がいい。刺激は厳禁だよ」
仏頂面のゲンドウに、冬月が諭すように言う。
「……分かっている。しかし、何故あの変態理事長のところにシンジが」
「それに、何故極秘である“あれ”の存在を知っているかも問題だよ。如何にエンクィストの長とて、会合の席で正式な報告を受けていなければ、掴めるはずのない情報だよ」
「ああ……」
「しかし、相当に破天荒だからな、彼は……」
ノリとジョークだけで生きているような財団理事長には、過去散々に手を焼かされたものである。
額に手を当て、疲れたように冬月が言った。
「ああ。あの変態は、何をしでかすか分からん」

「えらい言われようぢゃのう、碇」
突然、圧縮空気を抜くような音と共にスライドして開いたドアから、噂の男が颯爽と踊り込んできた。
言わずと知れた、マナの宗主である。
彼の名字は、『霧島』と明らかではあるが、名前の方は財団最高幹部会ゼーレの面々すらも知らないという。
冬月の言う通り、いささか破天荒すぎるが、それなりの実力も謎も兼ね備える快男児である。
「――現れたな、変態理事長」
冬月に釘をさされていたにもかかわらず、早速痛烈な一撃をくれるゲンドウ。
「久しぶりぢゃな、くされ外道」
宗主も、ニヤリと邪悪に笑って返す。

「……理事長、15年ぶりになりますかな?」
とりあえず、両者がヒートアップして取り返しのつかない状況に陥る前に、割って入る冬月。
「おお、冬月か。まこと久しぶりよの。元気でやっておるか?」
そんな冬月の気遣いも知らず、スチャッと右手を掲げると、宗主は八重歯をキラリと光らせて言った。
「理事長も御健勝のご様子、何よりです」
「しかし、おぬしもこんな髭妖怪の副官などさせられて……難儀な奴よ」
ちらりとゲンドウに視線を送りながらのたまう宗主に、冬月は苦笑いを浮かべるしかない。
「この15年、ゼーレの前から消え何処で惰眠を貪っていた?」
「――さてな」
ゲンドウの問いに、とぼける宗主。
「……まあ、いい。用件を聞こうか」
重厚な装飾の施された大きな木製のデスクの上で腕を組み、サングラス越しに宗主を睨み付けながらゲンドウは静かに言った。

「……うむ。そうぢゃった。わざわざ山から下りて電話を掛けてまで迎えを呼んだのは他でもない」
「――」
冬月はゲンドウの傍らに立ち、無言で宗主の話しに耳を傾ける。
「ここ、NERVにちょっと興味が湧いての」
「ほう……」
「如何にゼーレを離れていたとはいえ、大方の状況くらいは把握しておる。
人類監視機構とやらの存在を真に受け、こんな馬鹿げた都市を建設しておるとの噂を聞いたときには、お前の神経を疑ったが……ちと、状況が変わってのう」
「貴様がこの15年もの間、京都の山奥で何をしていたかは知らんが、随分と物分かりが良くなったな」
皮肉混じりにゲンドウは言った。
「……ノープロブレムぢゃ」
それを、宗主は不敵な笑みで受け止めた。
「シンジは何処にいる?」
「お前の息子のことか。……彼奴は、面白いのう」
「――質問に答えろ」
「フン。相変わらずノリの悪い男ぢゃ」
とりつくしまもないゲンドウに、宗主は肩を竦める。
「わしの屋敷におるよ。無事にな」

「しかし、何故シンジくんが貴方の元に?」
これまで沈黙を守っていた冬月が、はじめて口を開いた。
「彼奴はわしの孫娘のボーイフレンドというやつぢゃ。マナの奴、この髭の息子が持つ特殊能力に興味津々での。
詳しいことを調べろと、彼奴をわしの元へ連れて来おったのぢゃ」
「貴様、シンジの力に気付いたのか」
「わしを誰だと思っちょる? ……霧島宗家の長ぢゃぞ。まさに、生ける東洋の神秘ぢゃ」
「……」
ずいっと胸を張る宗主に、鋭い視線を固定したまま、ゲンドウは相変わらず唸るような声で言った。
「……なにを、どこまで知っている」

「碇シンジ――
……いや、中世に生きたアランソン侯爵とラ・ピュセル、そして監視機構に纏わる全て、と言ったらどうぢゃ?」

宗主のその声がもたらした影響力は、大きかった。
ゲンドウも冬月も、黙り込んでいる。
表情こそ変わらないが、纏う雰囲気が明らかに変化したのだ。
NERVの監視機構に関する知識は、そのほとんどが渚カヲルの情報提供によるものである。
故に、認識しきれる情報には限界がある。
その意味では、実際に体験したわけでも、見てきたわけでもないNERV側より、宗主の方が遥かに状況を的確に把握していることになる。
「何処でどうやって、それを知った?」
「……東洋の神秘ぢゃ」
相も変わらず、人を食ったような返答だが……今度ばかりは、ある意味きちんとした回答になっている。
「あなたは――」
流石の冬月も、宗主の非凡な能力に舌を巻く。
世界最高の情報収集能力を誇るNERV延いてはエンクィスト財団。そして、それを解析・分析するに最高のシステムMAGI。更には渚カヲル。
この3つをもってしても、現状では宗主に及ばない。
見様によっては、恐るべき事実である。

「無論、渚カヲルについてもそこそこは知っておるぞ。
……そう言えば、彼奴はここには居らんのか? 話しをしてみたいと思っておったのぢゃが」
キョロキョロと照明を意図的に落としてある、薄暗いプレジデント・ルームを見回しながら宗主が言った。
「彼には、シンジの捜索を任せていた。間も無く戻るだろう」
「――そうか。楽しみぢゃのう」
「それで、理事長。このNERVで何をなさるおつもりですかな?」
「とりあえず、モノを見てから決める。わしの見た遥かなる過去の記憶。
あれが現実だったと言うことは、分かっておる。じゃが、俄に信じられるものではない。
だが、それでも……いや、だからこそ見ておきたいのぢゃよ。あれが真実であったという証を、この新世紀でな」
「……」
しばし、彼らの間に沈黙が降りる。
「おぬしらの前に現れた渚カヲル。確かに彼奴には並々なならぬものがあるが……
それだけで、財団の連中が監視機構の存在を信じ、あまつさえNERVやこの街のような大掛かりなものに投資するとは思えんよ。国が一つ傾くに十分な金が動いちょる。
既得権と権益の維持拡大しか考えておらぬ財団の連中が、確固とした確信無くしてこのような決断を下すわけもないしの」
一旦言葉を切ると、宗主はゲンドウと冬月に目を向けた。
それは、只の老人の目ではない。
世界に君臨するゼーレ、延いてはエンクィスト財団の頂点に位置する男の眼光であった。

「あるんぢゃろう? 監視機構が実在するという、確証。……有無を言わさぬ、確かな物証が」

それは確かに、フラグメントを総合して得たただの推論にしか過ぎない。
だが……
個人レヴェルの最低限の情報で、NERVの最高機密に辿り着いた――
そして、“それ”が何であるかさえ、彼には既に見当がついている。

伊達に……財団の頂点に君臨し得た男ではない、と言うことか

冬月は、改めて目の前に立つ男の実力を思い知った気がした。

「……いいだろう。もとよりそのつもりだったが」

言葉とともに、ゲンドウは立ち上がった。

「――その目で見るがいい。監視機構の存在を」





「……こっちだ」

薄暗く、一体どこまで広がっているのか視界も満足に利かない広大な空間に、ゲンドウの低い声が響く。
果てしなく続くかと思われた、リニア・レールから降りると、ゲンドウはセントラル・ドグマと呼ばれるセクションに通じる電子ロックを解除する。
マスター・カードキーをスロットに挿入すると、ドアはスライドして簡単に開けた。
ドアの向こうには、何処へ通じるとも知れぬ長い回廊が延々と続いている。
ここも含め、NERV本部の最深部はどこも全体に薄暗く、ほとんどの場合、先を窺い知ることが出来ない。
そのため、施設の全体像を把握するのは極めて困難になっている。

「一体、どこまで降りる気ちゃ?」

宗主が退屈そうに問うが、ゲンドウも冬月も沈黙を守ったまま、応えない。
「……ふぅ。これぢゃから、ゼーレの連中は好かん」
何度か首を降りながら小さく溜め息を吐くと、諦めたように宗主も黙ってふたりの後に次いだ。
先が闇に滲むように見えない程に長い回廊を渡りきると、今度はリニア・エレベータである。
どうやら円筒状の硬化プラスティックのようなもので出来ているらしく、360度視界が開けている。
ただ、ツタが絡まっているかのような、螺旋状の橙色の光が、これを彩っていた。
DNAの螺旋構造モデルみたいぢゃな、と宗主は思った。

こういう、妙に重厚というか――重苦しい装飾や設計を好む財団のこの体質も、彼は好きではない。
理事長として、財団施設の塗装をパステル・カラーに変えてしまおうという発案をしたときも、ゼーレの他の連中の猛烈な反対に結局、断念せざるを得なかった。
ゼーレにとって、彼は異質な存在だった。
だからこそ、彼がゼーレを出奔した際、誰も彼を探して連れ戻そうとは思わなかったのかもしれない。
そもそも、先代にその統率力とずば抜けた才覚を見出されて、財団理事長に選任されたのではあるが、特権階級の利権を貪ろうという、ゼーレ延いては財団の姿勢自体が、まず体質に合わない。
彼の『自分の好きなように生きることが出来れば、それが1番』という思想は、財団の連中とは相容れないものであったのだ。
だから、15年前のある日、『探さないで下さい』という書き置きと共に、事実上隠居して、財団運営を放棄すると彼はゼーレの前から消えた。

だが――

古来から日本はおろか、アジア広域に渡っての裏世界にその名の知れていた、秘術を扱う霧島宗家の家長は、中期から財団の幹部会ゼーレの一席を占めていたわけだが……その、霧島家の跡取りとして生まれて来た彼が不運だったのか、どうなのか。
結局、彼はまたゼーレに戻ってしまったわけだ。
もはや、運命というか宿命というか――何か因縁のようなものを感じずにはいられない。

「やれやれ……、ぢゃな」

宗主が溜め息交じりにそう呟いたとき、低い唸るような音を上げていたエレベータが停止した。
どうやら、最深部の最深部にようやく到着したらしい。
このリニア式エレベータも、結局ウンザリするほど長かった。

「理事長。此処が目的地です」
一足先にエレベータから降りた冬月が、厳かにそう言った。
「地下2008M。――NERV本部最下層にして、最重要セクション、『ターミナル・ドグマ』だよ」
ゲンドウが、補足説明を加える。
「ターミナル・ドグマ? ……此処に、例の人形があるのか?」

しばらく、光の幾何学模様の走る通路を歩くと、前方に現れたのは、視野一杯に広がる巨大で重厚な扉。
幾重にも及ぶ厳重なロックが施されてあるであろう事は、訊かなくてもその雰囲気から、容易に予想できる。
ゲンドウは、黒く大きなその扉の脇に設置されたスリットに、例のマスター・カードキーを挿入すると、更に白い手袋を外して掌をプレートのようなものに押しつけた。
すると、スロットに紅い光が走った。
恐らく、ゲンドウの指紋を読み込みデータと照合しているのだろう。



L.C.L PLANTCL3 SEG.
―――
COGNIZING SYSTEM

OPEN


照合が完了したのか、電子音と共にロックが解除されると、壮大な音を立ててゆっくりと両開きのその扉が開いていった。

――そこは見渡す限り一面、黄金色の海。

そして、銀河を再現したような広大な空間の中央に巨大な……氷柱がある。
直径は、そう3M。高さも相当ある。5Mは下らないだろう。
氷柱、或いは氷山ともいえるそれは、歪な円錐型をしていて、妙に透明度が高い。
それから感じられる冷気がなければ、クリスタルにも見えるだろう。

それだけではない。
透明度が高い故に、嫌でも鮮明に窺い知ることが出来る、その氷柱には、何かが閉じ込められていた。
氷付けにされているのである。
そう。その物体は、十字架に貼り付けられた……


――天使


“それ”は、明らかに金属と思われるもので全身を覆われた、半身の巨人であった。
全身を覆う金属は所々ひび割れていて、その隙間からは無機体とも有機体ともつかぬものが見えている。
更に腰から下の部分は、抉り取られたように喪失していた。
人で言えば、首に値するパーツがもとからないらしく、胴体から直接頭部に繋がっている。
恐らく目に当たるのだろう、頭部のふたつの窪みは暗く影になっており、まるで髑髏のようだ。

その腕の長さから推測するに、その四肢は人間の比率と比較したとき、随分と長いのだろう。
失われた下半身があったとして、全長は2Mを軽く超えるに違いない。

下半身とは違って健在である両腕は、左右とも肩の位置まで伸ばされ、掌を楔で十字架に打ち付けられている。
その十字架ごと、大きな氷柱に閉じ込められているのだ。

「やはり、あったか……」

さすがの宗主も、驚きを隠せない。

「これが……」


「……タブリスが、人類監視機構に探りを入れた折りにある噂を聞いたそうです」
リリアがゆっくりと語り出した。
「噂?」
「私をはじめとする離反者が続出したことに
危機を感じた監視機構が、新たなるプロジェクトを始動させたと言います」
ブゥン……と鈍い唸るような音を立てて、彼女のデスクレセントが一層輝きを増す。
「監視機構の奴等、一体何をはじめたんだ?」
「無機物で構成された、無人稼動の心無き使徒。
――心や意志ではなく、
学習型のプログラムで作動する機械仕掛けの使徒ならば、裏切ることもない。
そう考えた監視機構が計画した、全く別の構想による新型の使徒開発プロジェクト……」
「……」
「コードネーム『J.A.』――まさか、既に完成していたとは」


「……我々は、これを、タブリスの導きにより『南極』で発見した。
600年前、死神との戦いに敗れた内の1体で、確かに破損個所は目立つが、紛れも無く監視機構の遣いだ。
現在は凍結・特殊処理を施し機能を1024万分の1にまで落としているが……間違いなく生きている」

ゲンドウは、後で手を組みじっと“それ”を見つめながら事務的に言った。

――そう。
それは、理事長が予測していた物体。
監視機構の存在を示す物証でありながら、唯一現存する可能性があるもの。


「『神罰を下す者』……即ち、“JUDGE ADVOCATE”」

ゲンドウは、誰にも分からぬ程微妙に目を細めて――

「神を気取った人類監視機構が、不穏分子に神罰を下すために作り上げた……」

ゆっくりと続けた。




「無人稼動の心無き使徒――『J.A.』だよ」












TO BE CONTINUED……




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