SESSION・31
『目覚めない少年』
――優しい朝の光の中で、霧島マナは目覚めた。
最後の記憶によれば締め切られていたはずの障子が開かれており、そこから独特の清々しさを感じさせる朝日が入り込んできている。
……えっ、朝?
その時、マナははじめてそのことに気が付いた。
確か、シンジを伴ってこの東館に足を踏み入れ、過去へ溯るとかいう怪しげな術が行使されたのが、やはり朝であった。では、この長い長い夢を見ている間、全く時が流れなかったというのか。
靄のかかったような意識を無理に覚醒させ、眼を2、3度擦る。足に感覚が無かった。正座したまま、眠って――いや、正確には意識を失っていたのだ。長時間の圧迫に、彼女の足は痺れを通り越して、棒になってしまったかのようだ。ちょっと気味が悪い。
まるで、自分の身体の一部分だけが死んでしまったような感じがする。
ゾンビになったら、全身こんな感じになるのかしら。思わずそんなことを考えてしまうマナだった。
「そういえば……おじいちゃんに、シンちゃんは」
すっかり眠気の醒めたマナは、慌てて広い室内をキョロキョロと見回す。
シンジは直ぐに見つかった。彼はまだ目覚めてはいないらしく、マナが術の効力を受け容れる前に見た定位置に静かに座っている。瞼は閉じられたままだった。
そういえば、確か部屋中に充満していた不思議な『香』の香りがもう感じられない。
障子は開かれているし、祖父の姿が見えないことからも、彼はマナより早くに術から醒め、部屋を換気して何処かに行ってしまったらしい。
「……」
マナはひとり、何をしていいのか困った。
その時、「おお、マナ。目覚めたか」マナの左側、障子の向こうの廊下から宗主が現れた。
白いタオルで、ごしごしと顔を拭っている。大方、顔でも洗ってきたのだろう。
「おじいちゃん!」
何故かは分からないが、祖父の顔を見てホッと安堵を感じている自分に、マナは気が付いた。
宗主は、相変わらずの仏頂面のままゆっくりと室内を横切り、上座に当たる場所に腰を落とした。
「マナ、おぬしも顔を洗ってくるがよい。涙の筋が出来ちょる」宗主は言った。
「えっ――?」言われたマナは、慌てて自分の頬に手をやる。確かに、その指先が濡れた。
ようやくにして、マナは少年と少女の哀しい過去に自分が涙していたことに気が付いた。
「……おじいちゃん」
「うむ」
少し間を置くと、マナは訊いた。
「わたしたち、どの位……過去を見ていたの?」
「ノープロブレムぢゃ」
「もぅ……!」訳の分からない宗主の返答に、マナは頬を膨らます。
「だからぁ、どのくらい私は眠っていたの?」
「丸1日ぢゃ」じいちゃんは今度はあっさりとそう応えたが、マナは当然それに驚いた。
「丸1日? 24時間もずっと意識を失っていたの?」
「何を驚いちょる。此奴――碇シンジにすれば数ヶ月に渡る過去ぢゃぞ。それをたった24時間でわしらは垣間見たのぢゃ。短すぎると文句は言われても、長すぎると言われる謂れはない」
そう言われると、そうかもしれない。不承不承ではあったが、マナは首肯した。
「……ねぇ、なんでシンちゃんは起きないの?」
まだシンジが目覚める気配はない。一番最初に術の支配下に陥った彼が最後まで目覚めないのはおかしいのではあるまいか。そんなマナの問いに、宗主はしばらく黙ったまま答えなかった。
「ねぇってば」
「此奴の過去は……まだ、終わっとらん」
「えっ?」――過去は、終わっていない? 「どういうこと?」
「……ノープロブレムぢゃ」
「おじーちゃん!」会話にならない宗主に、マナが迫る。
「まぁ、とにかく、顔を洗ってこい。せっかくの別嬪が台無しぢゃ。詳しい話はそれからしちゃる」
――10分後
「さて――」自慢の髭を一撫ですると、宗主は徐に口を開いた。「何から話したもんかの……」
場所は、霧島宗家、東館。青龍の間。シンジの霊的なメモリーにアクセスし、その糸を辿ることで過去を脳裏に再現するという、なんとも破天荒な儀式が行われた、この無意味に広い和室がそうである。
既にシンジの過去の夢から覚醒した宗主とマナは、未だ目覚めぬシンジに布団を用意し寝かせると、その寝顔を見詰めながら向き合って座っていた。
「ここにシンちゃんを連れてきたのは、シンちゃんにどんな能力が備わっているのか、シンちゃんが今どんな状態にあるのかを明確にするためよ。まずは、おじいちゃんなりに分かった事を教えて」
何時に無く真剣な表情のマナが、まずは言った。
「うむ……」だが宗主は、低く唸るだけでなかなか応えようとしない。
「私も確かに見たわ。シンちゃんが、えーと、大昔のヨーロッパにいて、アランソン侯って呼ばれてたこと。それに、ラ・ピュセルって女の子とのこと」
目を閉じずとも、まざまざと思い浮かぶ。恐ろしいまでにリアルなヴィジョンを、シンジとともに見たのだ。まるで、自分が経験したかのようにマナは強い衝撃を受けていた。
「あれは、シンちゃんの想像? ……それとも、真実なの?」
少し声が震えているのが、マナ自身にも分かった。
シンジに引っ付いていれば、何か面白いことになりそう。――動機は単純で軽い好奇心からだった。
だが、見せ付けられたシンジの背負う荷の重さは、冗談ごとではない。マナにあっても、それは決して、笑ってすますことができるようなレヴェルの話ではなかった。
「……」
宗主としても、よもやこれ程の事とは想像してもみなかったのだろう。仏頂面のまま、沈黙を守っている。
「どうなの、おじいちゃん。わたしの見たあれは、ただの夢? それとも……」
「あれは――」マナが再度質問を繰り返す途中、遮るように宗主は口を開いた。「あれは、真実ぢゃ」
マナは、ハッとしたような表情になる。
「夢でも幻でもない。此奴、碇シンジ自身が過去、実際に体験した真実の記憶ぢゃ」
「ホント……なのね?」
「――うむ」宗主は、深く頷いた。
「中世におけるフランス王国とイングランド王国との戦い。いわゆる『100年戦争』、その後期。
15世紀に、フランスで活躍したアランソン侯爵ジャン二世は、確かに実在しちょる」
マナは顔色を失ったまま、言葉を発することもできない。それも、無理はなかった。
15世紀――1400年代の前半といえば、今から600年以上も昔のことである。
その時代に、実際に生きた少年が、今目の前で眠りつづける『碇シンジ』と同一人物だというのだ。
マナも実際に、シンジの過去の記憶を体感していなければ、笑って取り合わなかったに違いない。
「歴史書を紐解けば、此奴のことは容易に調べられる。それによれば、此奴、アランソン侯ジャン二世は、1410年に生まれ、1476年に死んだことになっちょる」
「死んだ?」マナは、思わず言った。
だけど、目の前にはその本人が『生きて』いるじゃないの――そう続けたかったのは、誰の目にも明白だった。
「……うむ」言いたいことは分かる、と宗主は軽く頷いてみせた。
「確かに、史実では死んだことになっちょる。ぢゃが、真実は違う。アランソン侯は、確かに、今、現実にわしらの目の前におる」
それが、真実。では、歴史書は――
「恐らく、此奴等のいう人類監視機構とやらが強引に辻褄を合わせて補正したのぢゃろう」
「アランソン侯は、本当にいたのね。それが、シンちゃんなのね?」
「――うむ」少し興奮して訊いてくるマナに、宗主は静かに頷いた。
「でもなんで、どうして……」
中世ヨーロッパに生きたアランソン侯が、どうみても東洋人の容姿を持つ碇シンジとして此処にいる。
マナが混乱するのも無理はなかった。
「まぁ、茶でも飲んで落ち着け、マナ」
何処から取り出したのか、謎の湯飲みを取り出すと、宗主はずずず……とすすった。
「説明してっ!」それどころじゃないマナは、宗主に詰め寄る。
「……んまい茶ぢゃ」
「おじぃ〜ちゃん! 呑気にお茶なんか飲んでる場合じゃないでしょ!」
だが、マナのそんな声も聞こえないかのように、宗主は、あくまでマイペースにお茶をすする。
「まあ、そう
急くでない」
ようやく湯飲みから口を離すと、彼はゆっくりと言った。まったく、何を考えているのか不明である。
「ねえ、教えて。シンちゃんは、どうやってこの時代にやってきたの? おじいちゃん、分かったんでしょ?」
「……うむ」
「じゃあ、教えて。そのために、遠路遥々シンちゃんを連れて帰って来たんだから」
「ぢゃが、マナよ。お主が知って如何なする? 此処から先を知ろうとすれば……いや、既に現時点でさえ並みの人間が受け止めきれるキャパなんとかを大きく越えておる。一介の高校生が知ってどうなるものでも、どうこうできるものでもあるまいに」
「それは……」マナは言葉に詰まった。確かに宗主の言う通りである。
600年の時を越えて、ここにきた少年。その過去に纏わる思い出。
どれも興味本位で、他人が覗き込んで良いものではない。そのことは、シンジの過去を垣間見たマナには、分かり過ぎるほど分かっていた。
もし、シンジ――アランソン侯や、ラ・ピュセルが受けた心の痛みを自分が背負ったとしたら、果たして自分は正気を保てるか? 生きていくことが出来るか? 痛みに耐えていけるか?
――答えは、否。常人は、そしてマナはそれまでに強い人間ではない。
あれほどの哀しみと痛みに、自分が耐えられるとはとても思えない。だから、宗主の言葉は正しい。
此処から先は、マナは立ち入るべきではないのだ。知るべきではないのだ。だけど。
「このまま、シンちゃんから目を離したら……きっと、わたし、自分のこと、嫌いになっちゃうよ」
マナは俯き、掠れた声で言った。いつもの爛漫なマナの姿は、そこにはない。
宗主は、黙ってそんな孫娘の相貌を見詰めていた。
「わたし、きっと何も出来ないと思う。シンちゃんの本当の哀しい気持ちなんて、全て理解できたわけじゃないと思う。でも……」
マナは自分の心情を表現できる言葉を必死に探しながら、続けた。
「この先、シンちゃんに立ち入れば私は不幸になるかもしれない。でもこのまま逃げても、きっと、わたし幸せにはなれないと思う。それって、なにか、よくないことだと思うの」
顔を上げて、控えめな視線を宗主に向けるとマナは言った。「言葉じゃうまく言えないけれど」
「想念を言葉で言えたのなら、それはニセモノぢゃ。想念とは即ち心ぢゃ。古今東西、言葉や論理では表現しきれぬものと相場は決まっちょる」
「?」マナにはよく理解しきれない。だが、宗主は1つの結論を出したようだった。
「……良かろう。或いは、マナ。おぬしの増幅能力が此奴、碇シンジの魂の記憶を呼び覚ましたのもまた、何かの因縁であったのかも知れんからな」
そう言って、湯飲みをお盆に返すと、佇まいを直して宗主ははじめた。
「――少し、長くなるやもしれぬぞ。用意はいいな?」
何だか知らないが、宗主は今回の術を通して知り得た何かを、マナに教えてくれる気になったらしい。
だから、その言葉にマナは神妙に頷いた。軽く目を閉じる宗主。
しばらくして、また目が開かれた時、彼は徐にに語り出した。
SESSION・32
『アランソン侯爵=碇シンジ
この世には、勝利よりも勝ち誇るに値する敗北がある
《モンテーニュ》
此奴、碇シンジは――
マナ。お前の思うた通り、中世フランスを生きたアランソン侯爵一世の次男として1410年に生まれた。ぢゃが、その父、アランソン侯一世は、1415年のアザンクールの会戦という戦において、戦死。
兄である、長男ピエールも同年病死。
唯一の男児となった此奴、ジャンが5歳にしてアランソンの爵位を継ぎ、アランソン侯爵二世となった。
それまでは、弱く、何事にも消極的で泣き虫な小坊主ぢゃったわけぢゃが、最愛の夫と長男を相次いで亡くし打ちひしがれた母を見て、此奴は決起した。
母を守れる強い男たらんと、アランソンの領主として民を守れる良き主たらんと、此奴はそれは努力したに違いあるまい。また、周囲の人間もそれを大いに助けたようぢゃな。
母の弟、つまりアランソン侯からすれば叔父にあたる、リジュ卿を筆頭とし、後にアランソン候親衛隊『ロンギヌス』の隊員となるエイモス・クルトキュイス等がそうぢゃ。
多くの人々に見守られ、愛され、此奴は強くなっていった。
――最初は辛かった。
訓練時は何とか堪えてみせても、自室に帰るといつも泣いていた。
何度も辞めたいと思った。何度も挫けそうになった。
その度に、優しくて朗らかに明るかった母の悲しい笑顔を思い出した。
息子の前では務めて平静を装い、無理にでも微笑んで見せる……
そんな母の微笑は、涙よりも悲しかった。
彼女のためにも、自分は強く在らねばならない。
歯を食いしばって彼は強くなっていった。
身体も、そして心も。
彼はいつしか強くなっていく自分に喜びを感じるようになった。
辛かった鍛練が、楽しみに変わっていった。
どんどん変わっていく自分。
どんどん成長していく自分。
だけど、彼の生まれもっての繊細で、他人の痛みを汲み、他人のために涙できる優しさは
少しも変わることは無かった。
……兎に角、此奴は急速に成長していった。
ぢゃが、環境から強要された不自然な変化というものは、歪な成長を齎す。或いは、此奴の真相に深刻な痛手を与えたことぢゃろう。それはある意味哀しいことだということを忘れてはならぬ。
本来なら、戦や、人の死といった現実に向き合うにはまだ早すぎる年頃ぢゃ。親に甘え、同年代の子供たちと毎日を楽しく過ごすことが、許されて然るべき年頃じゃった。
マナ。今のおぬしの様に、友達に囲まれ健やかにな。
ぢゃが、時代はアランソン侯にそれを許さなかった。
此奴は強くなる代償として、また侯爵位という最高の権威の象徴を手にする代わり、掛替えのない幼少期の思い出や、友人を手にする機会を失ったのぢゃ。
アランソン侯爵ジャンは、確かに強い。人として、驚くほどに優しく、強い。
ぢゃが、それ以上に孤独であったことは否めん。早くに現実を知り過ぎ、早くに大人になり過ぎてしまった哀れな小童。それが、アランソン侯なのぢゃ。
――ぢゃからして、この男と付き合う以上、そのことを理解しておかねばならぬ。
「強さ……」マナは独り言を呟くように言った。
「わたし、強いって誰かを上回る力を持つことだと思ってた。敵がいて、それをやっつけることができる。それが、強いってことだと思ってた。だけど、それは違ったのね。
それは、ただ、相対的な弱者を作り出していただけのこと。どこかに弱者を作り出すことで、それを上回る自分が強者だと思い込んでいただけ。シンちゃんは違った。
勝つんじゃないの。いつも弱い側に立って、負け続ける戦いを挑み続けるの。弱さを抱きしめるの。
本当に、心を動かすのは……栄光を掴んだ勝利者じゃない。弱さを受け入れて、諦めずに最後まで戦いつづけた、優しい敗北者なのかもしれない。そして、それが本当の強さなのね。
だから、シンちゃんはピュセルさんの心を動かせたのね。――わたし、シンちゃんに何か大切なことを学んだような気がする」
マナは、アランソン候の代父を務めたエイモス・クルトキュイス卿の言葉を思い出していた。
戦がどんなに残酷であるかも、非道であるかも彼は知っている。
また、その戦を他ならぬ人間の心が生み出していることも知っている。
それでも、彼は、人に抱く希望を抱くのをやめられないでいる。
――それは、人類の可能性を信じているからです。
私たちは、そんなアランソン侯が好きだ。
彼が大好きだ。彼が人の優しさに触れ、人との絆に心から微笑んだ、あの時の顔がたまらなく好きだ。
みんなが、彼を愛している。
……だからこそ、気高い魂と強い心を持った最高の男達、我がロンギヌス隊の英雄たちさえ、あの方に心からの忠誠を誓うのです。
――うむ。ぢゃが、そんなアランソン侯だからこそ許せなかったものもある。
それが、神の存在ぢゃ。
この時代、特にキリスト教会が強かったというわけではない。相次ぐ戦火に街は焼かれ、黒死病は流行し、飢饉は続く。そんな荒廃した世にあって、人々のモラルは崩壊し、当然のこと教会の権威も失墜しておったという。
ぢゃが、信仰と教育の力とは恐ろしいものよ。そんな中にあっても、やはり中世ヨーロッパの人々の思想の根底にあったのは、キリスト教の教義であったのぢゃ。
しかし、アランソン侯は違った。真っ向から、この信仰というものに、神というものに目を向けた。
アランソン侯は14の時、初めて戦に出た。父と兄が死んで、此奴がアランソンの軍司令になったわけぢゃから、仕方がない。ぢゃが、胸中は不安と恐怖で一杯だったようぢゃ。
……当然ぢゃな。此奴、人を殺すにはとことん向かん性格をしちょる。
結局、此奴は震えて何もできんかった。戦場に響く兵士達の怒号がまるで悪魔の嘲笑みたいに聞こえ、雷鳴のような大砲の発射音が聞こえる度にびくびくしておっただけぢゃ。
戦場では、自分の力だけが全てぢゃ。守りたい人がおるならば、それは自分が守らねばならぬ。
相手の力が自分のよりも上であれば、大事なものは奪われてしまう。己の命もまた然り。
教会は神の加護と言う。ぢゃが、戦場という狂気の世界では必ず人は死ぬ。どんなに祈っても、どんなに願っても、戦場で人が死なぬことなどない。
恐らく、この頃なのぢゃろうて。アランソン侯爵が、はっきりと信仰に対して疑問を抱きはじめたのは。
同一の神の元、その教義を守り信仰を深める。
確かに、信仰というものは同じ信者の仲間内においては、結束を強めるプラスの効果もあろう。
ぢゃが、己の信ずるものを絶対視することで、他の宗教の掲げる神や教義を完全否定し、あまつさえ撲滅を図るという排他性は、如何ともし難い。
そして、敬虔な信者たちは同じ人間との繋がりよりも、神との繋がりを優先するようにさえなる。
キリスト教徒に帰依した女性は、神の妻として認識され、永久に人間の男とは関係を持たぬし、子供も作らぬ。神と婚姻したのであり、人間の男などでは話にならんというわけぢゃ。
こういった姿勢に、アランソン侯は疑問を投げかける。これには、わしも全面的に賛同しちゃる。
何せ、シスターとは、ちゅ〜もできんのぢゃぞ? 冗談じゃないわい。
母も父も、僕ら家族皆が天国など望んでいなかった。
ただ、生ある世界で一緒にいたかったんだ。死んだ後のことなんかどうでも良かった。
家族が一緒に、幸せに暮らせたなら、死した後の神の国なんて、
……天国なんていらなかったんだ!
信仰なんて、たとえ自分の直面する現実に折り合いを付けることができたとしても、自分は救われたとしても――結局、好きな人を守る力なんてない
己の守るべきものを、最後まで守り通すのは信仰の力でも、神でもない。
己の想いぢゃ。恐らく、此奴はそう思ったのぢゃろう。
夫の無事な帰還を待ち望んでおったアランソン侯の母は、熱心に神にそれを祈った。ぢゃが、結局、それは叶うことはなかったわけぢゃ。
守るために、強くなれる。人間のそんな部分に惹かれ、そんな部分を信じて生きるアランソン侯は考えるわけぢゃ。――天国なら絆の中にあると、な。
……否定はしないよ。信じるのは個人の自由だと思う。
だけど、神との関係よりも自分の周りにいる人たちとの絆の方が大切だと思う
アランソン侯にとって、人との絆は神よりも大切なものだったというわけぢゃ。
この、人との繋がり、絆をなにより優先するという姿勢は、恐らく此奴のコンプレックスに近いものから来ておるのぢゃろう。
先にも言った通り、此奴は侯爵という身分からも、他人に敬遠され同年代の友人などといったものは全くおらんかったわけぢゃ。おまけに、自己鍛練にその幼少期の時間は余さず費やされた。
此奴は、孤独だったのぢゃ。他人との繋がりに酷く餓えておったのぢゃ。
故に、神ではなく人を求めたのぢゃろう。
そして、時は巡り……アランソン侯は、ラ・ピュセルと出逢う。
SESSION・33
『REI=LA PUCELLE』
ねぇ、僕もひとりじゃそんなに強いわけじゃないんだ
でもね
君がもし、今僕に、力をかしてくれたら……
打起した弓を、発射直前の矢束まで引き絞る。ギリギリと軋みを立てて撓る弓。
――だが、『伸合』が甘い。離。放たれる矢。
ヒュンッ
風を切り……矢は幹に突き刺さった。
矢を放ち、『残身』の体勢にあるのは、ジャン・ダランソン。
パリの西に位置するアランソン侯領の領主、アランソン侯爵である。
アランソン侯は、その噂を”サン=フロラン”という場所で狩りをしておる時、叔父のリジュ卿より聞いた。王太子いるシノンの街に、ひとりの少女が現れた、と。
――思えば、それが全てのはじまりぢゃった。
オルレアンの囲みを解きて王太子を伴い
此れを戴冠せしむるため其の元へ赴くなりと唱うる
ピュセルなる者、我らが野に立ち一陣の聖風となりて全てを解き放てり
彼女は、このオルレアンの私生児、ル・バタール=ジャンの書き置きの中に初めて登場する。
ラ・ピュセル。それが、その少女の名ぢゃ。
アランソン侯より2歳年下の、1412年1月6日生まれ。
侯とは対照的に、貴族ではなく平々凡々なロレーヌ地方外れの農村の、羊飼いの娘ぢゃった。
ぢゃが、この娘自身は普通の娘ではなかった。蒼銀の髪に、白すぎる肌。そして血のように紅い瞳。
人とはあまりにかけ離れた美しさ。そう、それはこの世のものではない――言うなれば”彼岸”の美しさぢゃった。
故に、普通の人間にとってその容姿は、何時如何なる時でも嫌悪と拒絶の象徴でしかなかったわけぢゃ。
彼女がその姿で生まれてきた時、その真紅の瞳を見て、立ち会った人々は悪魔が生まれたと騒ぎ立てた。
……そして、彼女を即刻殺そうとしたのぢゃ。
無知で中途半端に信心深い農民達にとって、その真紅の瞳は禍々しい魔性の証でしかなかった。
もし、ピュセルの一家が敬虔なキリスト教徒として知られてはおらず、父が村の『長』としてある程度の権力を有していなければ――彼女は恐らく、悪魔の子としてその時に殺されていたぢゃろうて。
更に悪いことには、彼女には特殊なチカラがあった。俗に言う、超能力のような特殊な力ぢゃ。
代表的なものを挙げれば、彼女をしばしば悩ませる”予知夢”がそうぢゃな。
そういった理由で、彼女は拒絶の対象でしかなかった。人とは明らかに違う容姿をし、明らかに異なる力を持ち、悪魔の子と冷たい視線に苛まされて育った。
だからして彼女は、自らを人という生物には、決して受け入れられることのない存在であると、そう信じ込んでいたわけぢゃ。
それ故に、人を超えるもの――即ち、『神』に縋るしかなかった。
「可哀相な娘よね……」マナは眉を顰めて言った。
暫しの沈黙の後、俯き加減のまま続ける。
「シンちゃんも言ってたけど、生まれながらにして謂れのない迫害を受けて」
フム――。生きるための戦いと言うやつぢゃな。
人はしばしば、理不尽な不幸に見舞われることがある。例えば、幼くしての両親の死。マナ、お前のような。
または、アランソン侯のような背負うべき社会的な重圧であったり、ラ・ピュセルのような差別による迫害であったり、まぁ、形は様々ぢゃがな。それは、一見すれば単なる不幸でしかないかも知れぬ。
ぢゃが、それを乗り越えてきた者のみが持てる強さというものも、またある。
逃げずに、それを受け止めたことによって生まれる強さ。辛さや、傷の痛みを知っているこいう強さ。
「そうね……。おじいちゃんの言う通りかもしれない」
宗主の言う、生きるための戦い。それを経験し、潜り抜けてきた者と――環境に流されるまま、ただ日常の平穏を享受するだけの者とは、明らかに心の強さが違う。
前者は、生きるにあたっての苦難を、自分の力で切り抜ける術を学ぶ。力が足りない時は、他人と力を合わせて進む勇気を学ぶ。
が、後者は、幸運と恵まれた環境に溺れ、いつしかそれが当然のことだと思い込む。苦境に出会わなかった幸運を、自分の力によるものだと錯覚してしまう。だが、それは実際自分で勝ち得たモノではない。
真に強いものは、全てを自分の力で勝ち取る。挫けそうな時、環境のせいにしたりはしない。
シンジは、それを理解した。襲い来る現実という名の脅威を、受け止めるために己を鍛え上げるその過程で、それをいつしか学んだのだ。
確かに、心は傷ついた。孤独だった。だが、それを乗り越えてきた。その向こう側に辿り着いたのだ。
それが、今のシンジの強さの理由であり、優しさの源なのだろう。
それぞれ違う傷を心に負い、それぞれ違う孤独を抱く、でもどこか似通ったふたり。
アランソン侯と、ラ・ピュセル。
そして、2人はシノンで出会った。一目逢うなり、アランソン侯はラ・ピュセルに惹かれた。
確かに最初は、ピュセルに純粋な人間としての興味を抱いたに過ぎぬかもしれん。
アランソン侯が探し求める、全てを凌駕するもの。アランソン侯の中に渦巻く、深く混沌とした悩み、葛藤。流転する時代の中で、自分は何を目指し、何を為すべきか。
神の声を聞き、己の道を進もうとする少女――ラ・ピュセル。
アランソン侯は、この少女の行く末を見届けることで、何かしらそれに対する解答を見出すことが出来るかもしれない、そう思ったのぢゃろう。
ぢゃが、いつしかアランソン侯はこの少女を女性として見るようになる。
自らの信仰を絶対視し、それを他人にも強要し、他を受け入れることを知らず、意に違うものは全て排除する。そんな人間達の信じる神を、ぼくにも信じろというのか?
僕は、そんなものは信じられない。信じたいとも思わない。
――でも、ピュセルは少し違う気がする。
何と言うか……その真摯な姿勢に一貫性を感じる。
信仰と教義を自分達の都合の良いように解釈して、大義を振りかざし、私利私欲に生きる教会とは根本から違う。彼女は、きっと本当に自分が主だと信じるものの声を聞いているんだ。
それに、一途に……そう、悲しいまでに一途に従っている。
私欲を捨て、命まで捨て、彼女はとても純粋に神の命に従っている。
僕は、それが必ずしも正しい生き方だとは思わない。いや、寧ろ彼女にはそんな生き方はして欲しくない。
……だが、彼女のそのあまりの純粋さに、強い感銘を受けることもまた確かだ。
ひたむきな彼女のその姿は、とても美しい。心からそう思う。
やはり、彼女を見詰めるべきだ。彼女のその生き様を。彼女のその強い意志を。
彼女のその声に耳を傾け、彼女の想いに心を開く。そして、全てが終わった時……
その向こう側に……なにかが待っているような気がする。
僕の探しているなにかが、きっと待っているような気がする。
――僕は、それを見てみたいのだ。
ラ・ピュセルは、アランソン侯の目からしても聡明な娘ぢゃった。
言動はきっちりと一貫性を持っておるし、極めて合理的ぢゃ。振る舞いも洗練されておるし、機智にも富んでおる。そんな少女が、己を捨て、ただ時代のために、国のために戦う。
自分の嫌悪する神を、盲目なまでに信仰し、あまつさえその声を聞くという。
或いは此奴、ラ・ピュセルのこういったところに興味を持ったのかも知れんな。
……さて、この出逢いに強く影響を受けたのはなにも此奴、アランソン侯だけぢゃったわけでもない。
ラ・ピュセルもまた、此奴に非常な興味を抱いた。
何せ、何年も前から幾度も夢の中に出てきた”碇シンジ”という名の小坊主。
その碇シンジと同じ波動を持つ男、アランソン侯が突如自分の目の前に現れたのぢゃからな。
びっくり仰天ぢゃ。
碇シンジと、アランソン侯。ラ・ピュセルの中で、このふたりはピタリと重なった。
この娘も、さぞかし困惑したぢゃろうな。なにせ、碇シンジが登場する夢の舞台は明らかに異世界ぢゃ。
此処では無く、今ではない。そんな夢の世界に登場する男と、目の前に現実におる男がどう繋がるか……。
考えて分かる問題ではないわい。
SESSION・34
『乙女のプロテクト』
だけど、いつか、迎えに来て
お願い、私を迎えに来て
時空の壁さえ飛び越えて
ずっと……
ずっと、いつまでも待っているから
「そうよ! やっぱり、シンちゃんを語る上で最大の謎となるのがそこなのよ。どうして、シンちゃんは2つの世界にいたのか。……中世ヨーロッパから600年の時を越えて、何故この世界にいるのか。それが知りたいの」
マナは、ようやく核心に近付いたこともあって、手をぶんぶん振りながら身を乗り出して言った。
「ノープロブレムぢゃ」
「おじぃ〜ちゃん! 肝心なところでそれはないでしょ〜! もったいぶらないで教えてっ」
「う……うむ」噛み付くような勢いのマナに、さすがの宗主もちょっと鼻白む。
「今度はぐらかしたら、この……」
といいながら、マナは「うんしょ」と怪しげなハンマーを担ぎ出した。
一撃で宗主の脳天をカチ割れそうな、やたらと大きなハンマーだが、柄が何故かかなり短い。
「世界の名作はんまー・しりーず☆第1段、ミョルニィル――通称、トールのはんまーで、お空に瞬く一番星にするからね?」
「う……うむ」冷や汗をかきながら、神妙に頷くと、宗主は観念したように語りはじめた。
「とりあえず、マナ。おぬしの言う通り、これから問題となるのは、やはりアランソン侯が如何にしてこの2一世紀にやって来たかぢゃろう」
「うんうん」元気よく頷くと、マナは宗主に話しの先を促す。
「これはぢゃな。マナ、おぬしも見たであろう。夢から醒める最後の最後。ラ・ピュセルが行使したあの術が鍵ぢゃ」
「え〜っと、なんか突然シンちゃんの後ろにでっかくて黒い穴が開いて、シンちゃんが吸い込まれちゃったあれ?」
おでこの辺りに可愛らしく人差し指をあて、記憶を探るようにマナは言った。
「うむ。まさしくそれぢゃ」
「それで……あれって、なんなの?」
「知らん」きっぱりと宗主は言った。
瞬間、室温が5℃ほど低下した。ゆらり、と立ち上がったマナの右手には、世界の名作はんまー・しりーず☆第1段、ミョルニィル――通称、トールのはんまー。
「さようなら、おじぃちゃん。あなたとの思い出の日々、忘れないわ」
抑揚のない声でそう言うと、マナははんまーをおもぃっきり振りかぶって……
「ちょっ……ちょっと待て。落ち着くんぢゃマナ。話せば分かる」
グニャリと空間が歪むように見えた途端、それは現れた。
光さえも吸引するかのような、限りない闇。絶望的なまでの漆黒。
雷鳴のような凄まじいまでの轟音と共に、その闇はアランソン侯を容赦無く引き摺り、飲み込んでいった。
パリパリと空気が弾け、プラズマ化する。破裂音と共に岩が砕け、闇へ落ちて行く。
彼は、何か必死に叫んでいたが、歪んだ空間が音の伝達を阻む。
届かない叫び。魂の咆哮。裏切りの予感。涙よりも哀しい微笑み。
マナは、あれほどに哀しく、切ない微笑みなど見たことがない。
傍観者として、ただ見詰めるだけのマナですら、あの少女の微笑みに胸が張り裂けそうな、押しつぶされそうな痛みを感じた。
はんまーを力無く落とすと、沈んだ声でマナはは再度訊いた。
「あれは……なんだったの?」
――ごめんなさい
少女のあの言葉の意味は……なんだったのだろうか。
「……うむ」唸るようにそう言って、佇まいを直すと宗主は口を開いた。
「本当に、あれがなんであるのか……わしにはハッキリしたことは言えん」
「全然わからないの?」いささか肩を落として、マナが訊く。
「いや、何も分からぬかというと、そうでもない。限りなく正解に近いであろう推測は立っちょる」
マナは、もはや口を挟むのを止め、じっと待つことにした。
「恐らく、あれは時空の歪み。――次元のゲートぢゃろう」
「ゲート……」マナの口から、つい、囁くような声が漏れる。
「――おぬしのような全く知識のない者に説明するには、些か骨が折れる。故に、便宜的表現ぢゃと予め断っておくが……」
そう言って、もうすっかり冷めてしまったお茶を一口すすると、宗主は続けた。
「あの穴は、この世界に開けた穴ぢゃ」
「世界?」
「うむ。時空連続体、我々の銀河の属する宇宙と言っても良かろう」
何とも複雑な表情を見せるマナ。
「分からぬか?」宗主の言葉に、マナは困った顔で正直に頷く。
「……うむ」髭を撫で付けながら、暫し思案すると宗主はおもむろに口を開いた。
「マナよ。今、ここに風せんがある」
「えっ……、ふうせん?」突然の展開に、マナはちょっと着いていけず狼狽する。
「そうぢゃ。ここに、空気を入れて膨らませた丸いふうせんがあると思え。いや、あるんぢゃ。もう決定ぢゃ」
「う……うん」畳み掛ける宗主の勢いに、つい頷いてしまうマナ。
それを見ると、満足げな表情をして宗主は続けた。
「よいかマナよ。このふうせんの内側……これが、わしらの地球やら銀河やらがある、ズバリ宇宙ぢゃ」
両手を使ったジェスチャーで、丸い風船の輪郭を描きながら宗主は言った。
「ふうせんの中身が宇宙……。うん。分かった。宇宙ね」
「あくまで便宜的な解釈としてぢゃな、この風船の外側には何があると思う?」
「えっ? 宇宙の果ての外側って、何かあるの?」
果ては果てであって、果て以外の何物でもない。果てが終わりであり、それより向こう側という概念は存在しない……というか、そんなことは考えるだけ無駄だろう。
考えて分かるはずもないことは、最初から考えない。悩んで仕方ないことは、なるべく悩まない。
それがマナのポリシーだった。
「……まあ、あるとしてぢゃ。考えてみい」
「ん――、わかんない」速攻で結論を出すマナ。このあたり、彼女の性格がよく窺える。
「普通はこれを便宜的に、『亜空間』と呼ぶことにしちょる」
「あくうかん? 何それ?」目をパチクリさせて、マナは訊いた。
「なんだかよく分からん、理屈の通じん怪しげな別の宇宙……というか、まぁ、そういうもんぢゃと思うとけ」
「え、天国みたいなの?」マナの思考は思いっきりストレートだった。
「ま、それで分かりやすければ、それでもよかろう」
「うん。じゃ、天国ってことにしとく」
「……うむ。では、続けちゃる。ピュセルや、此奴――アランソン侯は、この地球の過去の世界、今から600年前のフランスにおったわけぢゃ。つまり、今の例えに当てはめるなら、この風船の内側の世界におるわけぢゃな。ここまではいいか?」
「うん。分かる」
「それでぢゃな。あのピュセルが作り出した黒い穴のようなもの……時空の門は、まぁ、要するにこの風船にプスリと開けた穴と同じようなもんぢゃ」
「風船に穴開けたら、われちゃうよ?」
「うむ。確かに、普通ならそうぢゃが、これはあくまで便宜的な表現ぢゃと言うたろう。この場合、風船は“宇宙”を表しとるわけぢゃから、穴が開いたくらいでは割れはせんのぢゃ」
「……うん。そういうことにしとく」
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
「それで?」
「――うむ。風船に穴が開くと、当然ながら『亜空間』への回路が繋がる。つまり、マナ風に言えば天国への門が開けるわけぢゃ」
「あ〜〜〜っ! 分かったぁっ!」
ようやく感覚が掴めたというか、話の筋を理解できたらしいマナは、嬉しそうに叫んだ。
「要するにぃ、シンちゃんはその天国……亜空間っていうところに吸い込まれちゃったわけね?」
風船に穴を空ければ、当然中の空気は外――この場合、亜空間に流れ出す。その空気の奔流に流されて、シンジは亜空間に放り出された。マナは、そう理解した。
厳密な意味での解釈としては問題があるが、まあ、この際はそれで構わないだろう。
「……うむ。まぁ、そんなところぢゃ」宗主はコクリと頷いて見せた。
「それでは話を続けるが、碇シンジは強力な術を複数、その躰に受けておる。随分前に1度言うたが、覚えておるか?」
「うん。覚えてる。それが複雑に絡み合ってるせいで、シンちゃんのことがよく分からなかったんだよね?」
「――そうぢゃ」御自慢の口髭をなぞるように撫でながら、宗主は軽く頷いた。
「そっかぁ。……じゃあ、シンちゃんに術をかけたのは、ピュセルちゃんだったわけね」
「ノープロブレムぢゃ」
「でも、複数ってことはどういうこと?」
それに、アランソン侯が亜空間に放り込まれたことまでは分かったが、肝心の、どうして現世にやって来れたかという部分はまだ語られていない。
「うむ。それを今から説明しちゃる。まあ、状況から察しただけの推測に過ぎぬが」
宗主は視界の端で、布団の中、未だ眠りつづけるシンジを一瞥すると、ゆっくりと口を開いた。
「ラ・ピュセルは、アランソン侯を亜空間に送り出す際、今言うた通り幾つかの術をアランソン侯に施した」
「……」マナは、無言で先を促す。
「1つは、アランソン侯爵としての記憶、その一切の完全消去。注意しなくてはならないのは、これが『封印』ではなく『消去』だということぢゃ。
消去の場合、封印のように何らかの手段で記憶を取り戻すといった芸当は、絶対に不可能となる」
その言葉はマナにとって強い衝撃だった。
「どうして?」思わず身を乗り出して、叫ぶ。
「どうして記憶を消したりするの? そんなことしたら……そんなことしたりしたら、シンちゃん、彼女のことみんな忘れちゃうんでしょ? 短かったけれど……ささやかだったけど……幸せだったふたりの大切な思い出も、迎えに来るっていうあの約束も、シンちゃんの、彼女への愛情も、全部……みんな、消えて無くなっちゃうんでしょ? どうして? どうしてそんなことしたの?」
何故か、何故だろうか、涙が出た。ぽろぽろと零れる涙は、止めど無く。
自分の事でもないのに、他人の、しかも600年も前の出来事なのに、マナは、まるで己の悲しみであるかのように、涙した。
――共感。それは人間にしかない、人間だけが持ち得る、アランソン侯が信じた、人の心の象徴である。
他を己の如く感じること。誰かのために、共に涙できること。誰かの喜びを、分かち合えること。
アランソン侯は、その奇跡の力をなによりも人として誇っていた。
そんな優しい少年が、何故にこんな哀しい――
「恐らく……ピュセルは、ゼロからはじめることを望んだのぢゃろう。アランソン侯は強い。心が強い。それ故に孤独。そして、そのことを誰よりよく理解していたのは、あの娘ぢゃった。
遠い遠い、此処では無く、今ではない夢で見た世界へ。アランソン侯には、その世界で、今度は生きるための戦いに涙せぬような、幸せでささやかな家庭の温もりの中で、幸せに生きて欲しかったのぢゃろう。
きっと、此奴のことぢゃ。記憶をそのまま留めておけば、いつまでもラ・ピュセルのことを忘れず、彼女の側を離れたこと、彼女を守り切れなかったこと、彼女をまたひとりにしてしまったこと……それらを全部自分のせいにして、死ぬより辛く苦悩するぢゃろう。
ラ・ピュセルには、そのことが容易に予測できた。あの娘は、驚くほど賢いからの。
記憶が残れば、少女のことを胸の十字架として背負いつづけ、新たなる世界で、新たなる人生を幸福に送るなどという器用な真似はできぬ。そう判断したラ・ピュセルは、アランソン侯の記憶を、完全に消した」
「……でも、どうやって?」
「忘れたか? 彼女は、使徒である前にひとりの言わば超能力者でもある。予言や、予知夢は使徒に与えられる特殊能力ではない。ラ・ピュセルの魂が挿入される、ベースとなった元の女子が生来持ち合わせた能力ぢゃ。
監視機構ほどの組織が、村娘に使徒の魂を送り込むにしても、選別せんはずがなかろう。生まれもって強い特殊能力、魔女の素質をもった女子を便宜上選ぶのは、当然予測されることぢゃ」
「そうか……彼女が良く見ていた予知夢、あれは、彼女特有の能力だものね」
力を司る最強の使徒『ゼルエル』こと、リリア・シグルドリーヴァ。
そして、あらゆる使徒の力を使いこなす自由天使『タブリス』。
彼らすら、ラ・ピュセルのような100%の絶対性をもつ予知能力はない。
それからしてみても、使徒に付与される特殊能力には予知・予知夢は含まれないことが分かる。
「おまけにラ・ピュセルは能力開発の天才ぢゃ。あの結界1つとって見てもそうぢゃ。独学であるにもかかわらず、ごく短時間でほとんどマスター・クラスにまで到達しちょる。
……恐らく、あれと同様に、超能力に関しても自己流の鍛練を積んで強化しておったのぢゃろうな」
「――でも、彼女は訊いたじゃない。『いつまでも、私のことを忘れないでいてくれますか?』って。
言ってたでしょ。『迎えに来て』って、『其処へ連れていって』って」
だけど、いつか、迎えに来て。
お願い、私を迎えに来て。
時空の壁さえ飛び越えて――。
ずっと……ずっと、いつまでも待っているから。
「彼女は、願わずにはおれんかったのぢゃろう。どうしても、希望を捨て切れず泣きながら願ったのぢゃろう。侯爵の記憶を、自らの手で消しながらもな」
それが、己と侯とを繋ぐ糸を断ち切る行為と知りながら。
そんなことは、絶対にあり得ないと知りながら。
それでも、どうか迎えに来て欲しいと。また、いつの日か逢える日が来ると。
「願い、信じたかったのぢゃろう」
そして、あの人は旅立った。
この世界に、私はまたひとり。
・
・
・
――でも怖くはない。
あの人は約束してくれたから
いつの日か、私を迎えに来てくれると
あの日、ふたりは約束を交わしたから……
あした世界が終わる夜に
「……そ……んな……」
それでは。それでは、あまりに――あまりにも、哀しすぎるではないか。
「辛過ぎる……」
両手で顔を覆って、マナは泣いた。そんな想いが存在することに、彼女は泣いた。
外では良く晴れていたはずの空が翳り、パラパラと雨が降り出していた。
それは、ニーサの涙か。マナには、何故かそう思えた。
SESSION・35
『時空を超えても好きだった』
誰も傷つけず、全ての人を愛す、神様のようにはなれないけれど
地母神ニーサ。かつて、クレス・シグルドリーヴァが語った、ひとつの神の形。
即ち、全ての母たる母。――地球
彼女は今まで、いったい何億の子供たちを生み出したのだろうか?
いったい、幾億の物語をその心に焼き付けてきたのだろうか?
だが彼女は、どんな祈りにもどんな願いにも、手を貸さない。子供たちがどんな理不尽な仕打ちを受けようと、どんな過酷な環境に生まれ落ちようと、彼女は助けない。ただ、そこでじっと見詰めている。見守っているだけだ。
そして、人は時にその無慈悲に、神を呪う。
何故に、わたしの祈りを聞き届けぬ。何故に、このような悲しみを、試練を我に――と。
だが、それでもニーサは動かない。いや、動いてはならぬのだ。
怨まれようと、呪われようと、無慈悲といわれようと……手を貸せば、全てに意味が無くなる。
人は、人として、人だけの力で生きてゆかねばならない。
自然の厳しさを受け容れ、己の力を以って生き延びねばならない。
時に、それは残酷な試練としてあらゆる種に襲いかかるだろう。
無慈悲な女神……そうだろうか? クレス・シグルドリーヴァなら、きっとこう言うだろう。
「本当に辛いのは、誰よりも心を痛めているのは――ニーサなんじゃないか?」
彼女は、忘れない。自らが生み出した愛しい子供たち。遍く全ての命たち。
誰も知らない所で、ひっそりと儚い時を終える小さな小さな命でさえも。
彼女は、全てを等しく受け容れる。愛され生まれてきた子供たちが、どんな一生を過ごしたか。どんな夢を追いかけたか。何を求め、何を見出し、何を残して死んでいったか。
それがどんなに短くても、それがどんなに寂しくても、それがどんなに儚くても、ニーサは忘れない。
ひとつひとつの命の物語を、心に刻みながら……彼女はいつも、そこに在る。
愛しい子供たち。可愛い子供たち。
できれば、皆に幸福を。できれば、皆に温もりを。できれば、皆に微笑みを。
誰よりも、誰よりも我々の幸福を願っているのは、或いは彼女なのではあるまいか?
できれば、救いを差し伸べたい。だが、できぬ。
それが、母の厳しさ。それが、母として耐えねばならぬ痛み。
「オレたちが、心から涙するとき……本当に、心から一緒に涙してくれているのは、ニーサなんじゃねえかな?」
――浴びれば温かい、心地良き雨が降る。
それは、子供たちの輝ける物語に心を震わせた、ニーサの喜びの涙なのかもしれない。
――身を切り裂くような、冷たい雨が降る。
それは、種の未来のために悲しくも儚く散っていった命に心痛める、ニーサの哀しみの涙なのかもしれない。
マナは、徐々に勢いを増して行く雨音を聞きながら、そんなことを考えていた。
「マナよ。そう泣くでない」
すすり泣くマナを珍しく優しい瞳で見詰めながら、宗主は重々しく言った。
「それに、まだ話しは終わっておらん。ピュセルが残した術は、まだこれだけではないからな」
その声にマナは勢い良く面顔を上げる。「まだ、何かあるの?」
「……うむ」
「なに?」
「これは、恐らく使徒としての力を行使したのだと思うんぢゃが……」
一旦、シンジの寝顔に目を落とすと、宗主は続けた。
「恐らく、何らかの形でアランソン侯を分解したんぢゃと思う。フィールドで、此奴の全てを分子レヴェルで包み込みつつ分けたか……或いは、こんなことが可能ならぢゃが、魂をフィールドでコーティングして肉体と分離させたか」
「どうしてそんなことをする必要があるの?」
「此奴を、碇シンジとして生まれ変わらせるためじゃな」
「……」怪訝な顔で宗主を見詰めるマナ。どうやら、内容を把握しきれないらしい。
「そうぢゃな。その前に、ひとつ明らかにしておくべきことがある」
「なに?」
「此奴が、如何にして亜空間からこの空間へやって来たかぢゃ。結論から言えば、ラ・ピュセルが亜空間にも穴を空けたからなんぢゃが……」
「えっ、ちょっと待って」思わずマナが、宗主を遮った。
「亜空間にも穴を空けたってどういうこと?」
「亜空間に放り込むだけなら、殺すのと同じぢゃ。その亜空間が如何な性質を持つかは知れぬが、放り込まれたら最後、普通なら脱出する手段はない。例えば、それが閉鎖された虚数空間『ディラックの海』ぢゃった場合、碇シンジの躰は対消滅でも起こして、無限のマイナスエネルギーの海へと還元されることぢゃろう。無への回帰。とどのつまり、死――ぢゃな」
訳の分からない単語の羅列に、マナは小首を傾げる。
「よく分からないけど、亜空間では人は生きられないのね?」
「うむ。……ピュセルがそれを知っておったかどうかは知らぬが、この際それは問題ではない。
何故なら、あの娘の目的は、端からアランソン侯を碇シンジとして『未来』へ送り込むことぢゃったからな」
「それは、分かるような気がする。彼女が何度も夢で見た、見知らぬ世界で幸せに生きるシンちゃん。
その夢を見たからこそ、彼女はシンちゃんと別れる決心をしたんだと思うし……」
「うむ。まさにその通りぢゃろう。まあ、ラ・ピュセルが自分の見た夢が、600年後の第三新東京市であるなどという詳しいことを知っておったとは思えぬが、これもまた、この際は問題にならん」
「それは分かったけど、結局、さっきの亜空間の穴とかいう話はどうなったの?」
「うむ。そうぢゃな。ピュセルはこう考えたわけぢゃ。自分の見た夢は、恐らく予知夢なのだろう。
ならば、何らかの手段を持って、アランソン侯を異次元に送り込めば、夢で見た世界に辿り着くのではあるまいか。はっきり言って、これは大きな賭け以外のなにものでもないが、このまま黙っておっても、結局此奴は死ぬわけぢゃ。ならば、いちかばちか……やってみる他ない、とな」
「……辛かったでしょうね」
「うむ。想像を絶する苦悩ぢゃったろう。ぢゃがとにかく、彼女は計画を実行することにした。方法は簡単。亜空間を過去と未来を繋ぐ『トンネル』代わりにして、アランソン侯をその世界へ送り込むのぢゃ。かなりの規模の力を必要とするが、鍛練を積んでおったのぢゃろうラ・ピュセルには何とか可能ぢゃった。それに、時期がよかったこともある。勝利王計画とやらの開はじまでまだ時がある。戦闘で力を使わないですむ分、存分に無理は利くわけぢゃ」
マナは、神妙な顔つきでじっと耳を傾けていた。
「ただ、問題が1つあった。それが、亜空間からの別空間へのコンタクトぢゃ。過去――つまり、ラ・ピュセル側から亜空間への門を開くのは簡単ぢゃ。フィールドを使って、何とか空間に穴を空けるなり、歪みを作るなりすればいいのぢゃからな。ぢゃが、亜空間には座標がないのぢゃ」
「どういうこと?」
「つまりぢゃな……さっきのふうせんの例を使うとぢゃな、風船の中身はさっきも言った通り、地球がある宇宙ぢゃ。もっと詳しくに言えば、宇宙が生まれた最初の瞬間から、未来までの全宇宙を示すわけぢゃ。時空連続体とかいうやつぢゃな。この風船の内側から、亜空間にアクセスするにはただ、風船の壁に穴をあければよい。ここまでは分かるな?」
「――うん」コクリと頷いて、マナは了解を示す。
「では、マナよ。今度は逆に、亜空間……つまり風船の外側から、風船の内側、しかも正確に600年後の未来、第三新東京市に向けて穴を開けねばならん。さて、その未来の日本は何処ぢゃろう。わかるなら、指差してみせてみい」
「え……」
「出来るわけがない。人間にとって、時間はただの概念に毛が生えた程度でしかない。しかも、亜空間に穴を開けてもそれがどこに繋がるかは、まったくのランダムなんぢゃ。示し用がない」
「行き先を指定できない『どこでもドア』みたいな感じかぁ……」呟くように言うと、マナは訊いた。
「それじゃあ、ピュセルさんはどうやってここを示したの?」
「示してなどおらん。亜空間に適当に穴を開けて、そこに侯を流し込んだだけぢゃ」
「でも、それじゃあ、どこに行き着くか分からないんじゃないの? もしかしたら月に行っちゃうかもしれないし、何もない宇宙空間だったり、下手したら宇宙の果てに行っちゃうかも」
「うむ。ぢゃから、賭けだったんぢゃよ。彼女は、自分の予知夢を信じることにしたんぢゃ。
碇シンジの生活が現実となるならば、この無作為に開けた時空の門の行き先は……きっと、夢で見たあの場所であろうとな」
「……」
「――ここで、先程言いかけたことに話は繋がる。つまり、此奴を分解して受精卵に近い状態に再構成するか、或いは魂だけに分離させ、第三新東京市に送り込んだわけぢゃ。魂というのは、肉体を求めるもんぢゃから、放っておいても適当な躰を見つけてその中に入り込む。
此奴の場合は、もっとも魂のパターンというか、フィーリングの合う、碇シンジの母親の子宮内に入り込んだ。受精卵状態であったのなら、そのまま着床すればよし。
魂の状態であったなら、此奴の母親が妊娠状態であり、その胎児の肉体を半ば乗っ取ることになったのぢゃろう」
「そして結局、アランソン侯の魂はそのままで、シンちゃんはこの時代に『碇シンジ』として生まれてきた」
「うむ。そうなるな。此奴はアランソン侯そのものであるし、ある意味アランソン侯の転生とも言えよう。しかしながら、ラ・ピュセル。……見事な覚悟ぢゃ。あまりにも想いが純粋すぎるゆえ、あまりにも悲しい運命を背負うこととなった、哀れな少女ぢゃ」
そう言って、宗主は眠りつづけるシンジにゆっくりと視線を落とした。
「……ぢゃが、げに驚嘆すべきは、この男ぢゃよマナ」
「えっ?」
「考えてもみよ。此奴は、思い出したのぢゃぞ。いや、忘れてなどいなかったのぢゃ。
マナ。わしらが見たのはなんぢゃ? 他でもない。此奴が、魂に深く刻み込んでおった記憶ぢゃろうが」
「はっ?」マナの大きな瞳が、さらに見開かれる。
「……そうぢゃ。この男は、忘れてなどおらんかったのぢゃ。ずっと覚えておったのぢゃ。
ピュセルに記憶を完全に消されても、躰が変わっても、生まれ変わっても。600年の遥かなる時空を超えても、此奴は覚えておったのぢゃよ。中世であの時出会った、あの娘のことをな。
約束は交わされた。たとえ書面に残ることのない、軽い口約束であったとしてもぢゃ。だから、この男は何も無くしてなどおらん。全部、繋ぎ留めておった」
「シン……ちゃん……」
マナは、眠りつづけるシンジの顔を覗き込むと、そっと囁いた。
また、涙が零れる。ポタリと、雫がシンジの頬に落ちた。
不思議な感覚を覚えて、
ゆっくりと振り返る。
刹那、まるで周囲が白くぼやけたような感覚がシンジを襲った。
まるで、乳白色の薄らとした霧が、突然に世界を覆ったようだった。
全ての喧燥が、フェードするようにゆっくりと遠ざかっていき……
――やがて、完全な静寂。
静かで、幻想的で、たまらなく懐かしいのに、涙が零れ落ちてしまいそうな程に微かに切ない……全ての想いが集った、不思議な空間。
ふと、春を思わせるような優しい風が、再会の予感を運んできた。
懐かしい少女の香りが、鼻腔をくすぐるようにシンジを誘う。
そして、誰もいない……
霞がかったような静かな空間の中で、彼の瞳に映ったのは……
向かい合って彼を見つめている――
少女
彼の身体――
いや。もっと深い、存在の根底に関わるほどに深い深い何処かで、言い知れぬ想いが駆け巡る。
まるで、遠い昔に失った己が半身と巡り合ったかのように。
「嗚呼……」
吐息にも似た声が自然と漏れた。
白銀に輝く鎧に身を包み
僕は――
揺らめく幻のようなその少女
嗚呼――
だが、確かに覚えている
忘れない――
戦場の熱風に靡く、蒼銀の髪
彼女を――
その深紅の瞳とはじめて出会った、月の輝く夜
僕は……
そして、あの約束。
僕は彼女を知っている。
シンジの瞳から、あたたかな涙が止めど無く溢れ出した。
彼女を確かに覚えている……。
でも、彼女を知らない……。
シンジは戸惑った。己が内で責めぎ合う、全く相反した想念の激突に抗う術すらない。
どうして、こんなに哀しいのか……
どうして、こんなにも懐かしく感じるのか……
どうして涙が……とまらないのか……
体中の血が騒ぎ、心の深淵に封じられるように眠っていた感情が溢れ出す。
「……此奴の意識は、懸命に呼び起こそうとしておったのぢゃ。記憶は消されておる。能力も封じられておる。思い出も失われ、躰も変わってしまった。力を貸してくれるはずの仲間達は、遥か600年前。
それでも、自分の中のどこかに残っておった記憶を呼び起こそうと、此奴なりに懸命に、もがいておったのぢゃろう。その確固とした強い意思の力が――それが、幻という形でピュセルの姿を呼び起こしたのぢゃろうて」
「……それは、奇跡なの?」涙に震える声で、マナは言った。
「或いは、そう呼ぶことも出来よう。ぢゃが、それではこの男が報われまい。此奴が起こしたのは奇跡などではないよ。ただの意地ぢゃ。此奴の呼ぶところで言う『全てを凌駕するもの』、とかかもな」
「シンちゃん……」堪えきれずに、鳴咽を洩らしながらマナはシンジを抱きしめた。
「中々、大した奴よの。これ程の男が存在するとはな。まだ、捨てたものではないわい」
マナは、眠るシンジを抱きながら静かに語り掛けていた。
凄い。凄いね、シンちゃん。
心を封じられていた彼女が、あなたを好きになった理由が、いまなら良く分かる。
だって、シンちゃん、凄いもの……。
人が、こんなに誰かのことを想えるなんて知らなかった。
シンちゃん、思い出したものね。忘れてなかった。
遥かなる時を越えても、シンちゃんは、本当に彼女を愛してたんだね……。
覚えてた。ずっと想いつづけてた。
時空を超えても、好きだったんだね……。
to be continued...
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