月に向かって撃て




MEDIEVAL IX
「神聖大地母神」
RETURN TO THE:46 『月を司る者』
RETURN TO THE:47 『死神になった天使』
RETURN TO THE:48 『神聖大地母神』
RETURN TO THE:49 『そんな侯爵様』
RETURN TO THE:50 『世界を救う奇跡の魔法』



RETURN TO THE:46
『月を司る者』


「今夜……話すんだろ?」
ホットドッグに似たパンを頬張りながらクレスは言った。
愛しているからあれ買ってという言葉と、まだ癒えぬ身体の傷を思いっきり抓られるという代償を払って、リリアに買ってもらったものだ。
「はい。そのつもりです」
リリアは静かにそう答えた。

――1429年、5月11日。
この日、城塞都市ロッシュではそこそこ壮大といえる宴が催されていた。
シノンからこのロッシュに居を移してきた王太子に、ピュセルをはじめとするオルレアン篭城軍が、連合の攻囲網を退け市を開放したとの報告を行った。
これは、そのオルレアン開放と、本決まりになったランスへの進軍の無事を祈願しての宴なのである。
市民たちは総出で会場に繰り出し、皆一様にこのイベントを楽しんでいた。
ロッシュ中央の広場――というより森の中の開けた庭園のようなものなのだが――で市民にも開放されたものだったので、どちらかと言えば宴というより祭りといった感じがする。
広場を取り囲むように並べられた出店や屋台と、明かりとなるべく”かがり火”は、祭りの雰囲気を多分に盛り上げていた。
ロッシュの広場、その少し外れた場所に大きな天幕が張られている。
一般市民たちとは区別された、王侯貴族たちのための宴の場だ
その場に、ピュセルに身体を支えられた僕が辿り着いたのは、祭りも(たけなわ)の頃であった。

「うん、ありがとう。この辺りで良いよ」
僕は言った。顔が上気して、頬が赤く染まっていることが自分でも意識できる。
今の僕の格好は、包帯で固めた裸の上半身に上着をマントのように引っ掛けてきただけ。
袖に腕を通してないわけだから、当然二の腕は素肌を晒していることになる。
僕はそんな状態で、ずっとピュセルの肩を借りて、ここまでやってきたのだ。
それゆえ僕の腕には彼女のサラサラとした柔かな髪や、うなじのしなやかな肌の感覚がダイレクトに伝わってきた。
女性に耐性のない僕にはそれだけで、頬を染めるには充分だった。

ピュセルは言われた通り、自らの肩に掛けられた僕の腕を丁重に解くと、僕が木の切り株に腰を落とすのを手伝ってくれた。
宴の会場から少し離れた場所を選んだのは、人の多い場所に行くと怪我の具合を聞きに近寄ってくる貴族たちを捌くのが面倒になるからだ。
「ピュセル。僕のことはいいから、祭りを楽しんできて。ここで夜風に当たって、宴の様子を見ているだけで充分気分転換にはなるから」
この言葉に嘘はない。
本当にそう思ったから言ったまでで、別にピュセルに気を遣ったわけではない。
僕の言葉にピュセルは何も応えず、まるで僕の存在を忘れたかのように、ゆっくりと踵を返すと宴に賑わう人の輪に消えて行った。

なんだか……ちょっと寂しい。

取り残されたような感覚に、やっぱり一緒にいてくれるようお願いするべきだったかと思いはじめた頃、彼女は手に幾つか食料を乗せたトレイと共に帰ってきた。
「ピュセル?」
静かに僕の側に歩み寄って来て、黙ってトレイを差し出すピュセルを上目遣いに見ながら、僕は思わず呟いた。
どうやら彼女は、自由に歩けない僕のために会場へ行って食料やワインをとってきてくれたらしい。

――感動!


「ありがとう」
僕はとりあえずトレイからワインの注がれたグラスをとると微笑み、それを掲げながら礼を言った。
「よかったら……隣に座らない?」
僕は、自分が腰掛けている木の切り株から少し身をずらしてピュセルが座れるだけのスペースを作りながら言った。
彼女は小さく頷くと、空けられたスペースに無駄のない動作で腰を落とした。
あまり大きくはない切り株だったので、ふたり横になって並ぶような感じになる。

毎日湯浴みをするピュセルの髪の甘い香りを、夜風が運んできた。
彼女はとっても奇麗好き……というより、ほとんどオフロに入るのが趣味らしい。
リジュ卿に聞くところによると、毎日湯浴みをするのは身体を売る娼婦くらいのもので、貴婦人でも毎日はしないって話だったんだけど……。
さすがピュセル。並みじゃない。

ふたり並んで見上げる夜空には、細い三日月が浮かんでいた。
明日か、その翌日には新月になるだろう。
月の満ち欠けと共に変色するピュセルの髪は、新月に極近いこともあって、いつもの蒼銀と言うよりはもうほとんど完全なシルバーブロンドだ。
サラサラとした艶のある彼女のシルバーブロンドはまるで、鏡のように月の光を受けてキラキラと輝いていた。
「ピュセル……」
時々薄い雲にその姿を隠す、夜の女王――月を見上げながら僕は口を開いた。
「僕の故郷に一緒に来てくれないかな?」
それは自分でも、唐突な発言だったと思う。
「――故郷?」
ピュセルは少し驚いたのか、オウム返しに小さく呟いた。
「オペラシオン・ヴィクトリューが発動されるまで、準備期間として1ヶ月近く時間がある。
その間外交の仕事のない者は休暇が与えられる。
ピュセル、君にもだよ。
当然、こんな身体の僕も役に立たないから、故郷で療養しようと思ってね。
今月末には、故郷のアランソンに一旦帰ることにしたんだ」
一旦言葉を切ると、僕はワインを少し口に含んだ。
グラスから口を離して、少し間を取ると続ける。
「一緒に来て欲しい」
「何故――?」
即座に訊き返すピュセル。
出会って間もない頃なら、きっと僕は押し黙ってしまうか、そのそっけない言葉に狼狽していたことだろう。
だが、今は違った。
彼女は嫌なら嫌とハッキリ拒絶する。それは目を見ていれば分かることだ。
今の彼女の瞳に、拒絶を示す色はない。
「君に、見て欲しいものがある。
――僕の治めるアランソンの街を君に見て欲しいんだ」
まるで言葉の裏にある真意を窺うかのように、ピュセルは僕の相貌をジッと見詰めている。
「――どうかな?」
沈黙を守り続ける彼女に、僕は再度問うた。
「分かったわ」
そう言って、彼女は頷いた。
ホッと一安心して彼女に礼を言おうとした丁度その時、天幕の張られている宴の会場の方から、ふたつの人影がこちらに近付いてきた。

――クレスさんとリリアさんだ。

確かクレスさんも僕と同じく、オーギュスタン攻防の戦場で意識を失って倒れたはずだ。
無事だという報告は聞いていたが、確かに見たところ別状はないようだ。
少し歩調はゆるいが、ちゃんと自分の足で歩いているし、僕のように包帯まみれという情けのない格好でもない。
ピュセルも近寄ってくる人の気配に気付いたようで、彼らの方にその視線を向けている。
「――ピュセル、ここにいたか」
僕らふたりの前まで来ると、クレスさんは言った。
「クレスさん。……なんか、久しぶりって感じだね」
僕は切り株に腰掛けたまま挨拶した。
「無事みたいだな、アランソン侯。
派手な包帯だけど。
見舞いに行こうとは思っていたんだが……」
「クレスさんも無事なようで、なによりだよ」
僕は笑顔でそう返し立ち上がると、リリアさんに顔を向けた。
少し肩の傷から痛みが走ったが、無視して彼女に声を掛ける。
「リリアさん、先の戦ではご迷惑をかけたようで……。
命を助けていただいたお礼、申し上げます」
「――御気になさらず。実際貴方を救ったのはピュセルですから」
リリアさんは相変わらずのクールボイスであっさりとそう言った。
ピュセルは一言も発さず、元の位置に腰掛けたままじっと僕らの会話に耳を傾けている。
「それより、おふたりともどうしたんですか? 何か用でも」
「――ああ」
クレスさんが低い声で唸るように応えた。
「ラ・ピュセル。貴方にお話があります。少し付き合っていただけませんか」
礼儀を心得た丁寧な言葉であるにもかかわらず、リリアさんの要請には拒否を許さないかのような迫力のようなものがある。
ピュセルはどうなのか分からないが、僕ならまず断れないだろう。
ピュセルは少し考えていたようだが、やがてゆっくりと頷いて了解の意を示した。
「じゃあ……僕はもう部屋にもどろうかな……?」
クレスさんとリリアさん、そろって真剣な顔をしている。
関係のない僕が聞いて良い類の話ではなさそうだ。
席を外すべく僕はそう言って踵を返そうとした。
「――いや、アランソン侯。できれば、貴公にも聞いてもらいたい」
そう言ってクレスさんが僕を止めた。
「クレス?」
僕以上に驚いたのは、意外にもリリアさんだった。
彼女の方は、どうやらピュセルだけに用があったのだろう。
当然、僕には席を外してもらうつもりだったに違いない。
ところがその意に反して、クレスさんが僕を呼び止めたのだ。
「――いいんだ。彼にも聞いてもらおう」
クレスさんが、リリアさんにそう言った。
「しかし……」
「リリア、アランソン侯はオレと同じポジションにあるんだ。
確かに、厄介事に巻き込むことになるかもしれない。
だが、オレと同じ境遇を再び生み出すよりかは、幾ばくかマシだとオレは思うぞ」
不服の声を上げる彼女に、クレスさんは諭すようにそう言った。
「分かりました。貴方がそう言うのなら」
「いいの、僕もいて?」
ちょっと遠慮がちに訊いてみたところ、クレスさんがはっきりと頷いたので、僕は切り株に座り直した。
リリアさんもクレスさんも適当な切り株や岩にそれぞれ腰を落とす。
少し離れた宴の会場から、賑やかなリュートと笛の音が聞こえてくる。
「話ってのは……リリアのことだ」
しばらくしてから、クレスさんがぽつりと言った。
その声を受けて、リリアさんが立ち上がる。
「まずは論より証拠。これを見て下さい」
そう言うと、彼女は左手をスッと突き出すようにかざした。
身体に平行に立てられた掌に、金色の光が現われたかと思うと――
一瞬後には、8角形のスクリーンになった。
「――ッ!」

僕は目を見張った。

間違いない。
あれはピュセルが何度か展開して見せた――たしか『A.T.フィールド』と言う名の奇跡の力だ。
しかし……何故リリアさんがA.T.フィールドを?
あれは、救国の乙女として神に選ばれた少女――
ピュセルがその証として与えられた特殊能力じゃなかったのか?

僕は慌てて傍らに座るピュセルの顔をうかがった。
もしかしたら、彼女も僕と同じように仰天しているんじゃないかと思ったからだ。
確かに彼女はリリアさんのA.T.フィールドを不思議そうに凝視してはいたが、そこまで驚いているようには見えなかった。
僕はリリアさんのA.T.フィールドに視線を戻すと、誰とはなく訊いた。
「どうして、リリアさんが『A.T.フィールド』を……」
僕のその声を聞いて、クレスさんとリリアさんが同時にこちらに顔を向ける。
「おい、アランソン侯。
なんでA.T.フィールドを知ってるんだ?
大体、これが見えるのかよ?」
クレスさんは逆に驚いたようだ。
「え、はあ。見えるけど……なんで?」
あれだけキラキラと光っているんだ。見えないわけはない。
「このA.T.フィールドは基本的に、人間では目視することは不可能であるはずなんですが――」
リリアさんも少し驚いたようだ。
「人間では視認できないって……。
でも、クレスさんもリリアさんも、勿論ピュセルにも見えてるんでしょ?」
まるで人外の存在のような言われ様に僕は慌てて叫んだ。
「まぁ……リリアとピュセルは使徒だからな。オレもそれになりかけてるらしいし」
クレスさんが言った。
「使徒?」

キリストの弟子――
神の遣いのことを言っているのだろうか?
僕はオウム返しに言った。
「――使徒。
太古の昔より人類監視機構の指令を受け、歴史に裏から介入し、人類を管理してきた神の代理者。
……今日人類が”天使”と呼ぶ超生命体そのものです」
リリアさんが物語りでも語るように言った。
「人類監視機構!」

リッシュモン元帥の口から、そしてリジュ卿からそれぞれ聞いた言葉だ。
意味は分からなかったが、とても重要なものであることは彼らから感じた雰囲気で察することができる。
それをリリアさんからまた聞くことになることになろうとは……。
「監視機構を知ってるのか、アランソン侯?」
「うん。リッシュモン元帥――
リッシュモン大元帥とリジュ卿が、その言葉を口にしたのを聞いたことがあるんだ」
「リッシュモン元帥……」
クレスさんは、僕がリッシュモン元帥を知っていたことに驚いたようだ。
「人類監視機構とは、今の人々が認識している『神』という名の存在です。
人ではなく、人以上の力を持ち、人に安寧を与え、人を罰する。
人類の超越者……。
神をそう定義するのであれば、監視機構はまさしく神であると言えます」

リリアさんのその言葉に、ピュセルの紅い瞳が見開かれた。
これまで献身的に信じ、尽くしてきた『神』。
その正体とも言うべき事実が今、リリア・シグルドリーヴァの口から語られようとしているのだ。
「じゃあ、ピュセルは……
ピュセルは、その人類監視機構に遣わされたってことですか?」
これは、僕にとっても大きな意味を持っていた。

――神。
教会の説く『絶対者』。
絶対服従し、無条件に受け容れるべきとされ、人類の救いとなるべき存在。
ピュセルの心を一人占めする者。
彼女を運命を操るもの。

僕はずっと思ってきたのだ。
神とは何者なのか。
神とは本当に人類に必要なのか。
神は何を望んでいるのか。

「その通りです。
私、リリア・シグルドリーヴァは、スウェーデン王国に遣わされ <王国> <国民> <武装集団ラクライム>
これらの3大勢力を育て上げ、大戦に導き、結果共倒れさせることで国力の低下を図るのを任務とする、力を司る使徒――ゼルエル」
リリアさんはA.T.フィールドを消すと、再び適当な場所に腰を下ろして言った。
「フランス王太子軍大元帥 <アルテュール・ド・リッシュモン> は、イングランド=フランス合併王国が成立し、強大な力を持つ帝国が誕生することを防ぐため、フランスに遣わされた自由を司る使徒――ダブリス


――そう。僕はカヲル。タブリス。
綾波レイ――いや、ピュセルと同じく人類監視機構に仕組まれた者、タブリスさ

君は僕をカヲルと呼ぶように、ピュセルを綾波レイと呼ぶようになるだろう。
……それが、君の願いであるはずだ



ふいに、あの日……
シノンの街外れの河原で出会った、リッシュモン元帥の言葉が脳裏に蘇った。

――そうだ。
全てがあまりに突然で、そう深く意味を考えてみもしなかったけど……
彼は確かに、あの時、全てのキーワードを既に口にしていた。


渚カヲル
綾波レイ
人類監視機構
そして、仕組まれし者……ダブリス
仕組まれし者とは、すなわち『使徒』を意味していたわけだ。
「ちなみに、オレは半分使徒だ。
リリアの話によれば、使徒と最初に……その……なんだ……契った相手には、その使徒と同様の能力が付与されるらしいんだ。
つまり、使徒ハーフになるわけだな。
体は丈夫になるし、再生能力も強化され、A.T.フィールドも使えるようになるし、テレパシーみたいな能力も徐々に開発されて行く。
オレは丁度その過程にあるらしいんだ。
だから、オーギュスタン攻防で受けた傷の治りもアランソン侯より早かったし、A.T.フィールドも目視で確認できるわけだな」
クレスさんがリリアさんの言葉を継いで言った。
まさに驚きの連続である。言っていることは分かるが、半分しか頭に入ってこない。
あまりに非現実過ぎて脳が受付を拒否しているような感じがする。
「そして、ピュセル。
あなたこそは、フランス王国を救うための象徴と求心力となるべく、人類監視機構の密命を受けて舞い降りた月を司る使徒。



――リリスです」
















RETURN TO THE:47
『死神になった天使』






――ドクッ




『リリス』……その言葉に、心臓が一拍、強く鳴り響いた。



月を司る天使……リリス……ピュセルが……


「――断言はできません。ですが、恐らく間違いないでしょう」
リリアさんは静かに言った。
「まあ、要するにリリアもピュセルもただの人間じゃないってことだな」
腕組みしたクレスさんが、サラッとそう言ったがその言葉の意味は大きい。
「私たち使徒は、強大な力を持ちます。
A.T.フィールドひとつとってもそうです。
これを破れる兵器や手段がこの時代には存在しない以上、私たちがその気になれば世界を手中に収めることも可能なのですから。
……そして、強大な力を持つが故に使徒は表立った行動を採ることはできません。
使徒の存在が世間に知れたり、その力が公表されたりすれば後の歴史に大きな影響を与えることになりますし、下手をすれば人類のありかたそのものを変革させることにもなります」
リリアさんは少し寂しげに目を伏せた。
クレスさんという理解者が現われるまで、彼女は今のピュセルのように孤独だったのだろう。
彼女の気持ちは良く理解できた。

「じゃあ、ピュセルは?
彼女もリリアさんたちの仲間……使徒なんでしょう?
でも、ピュセルは歴史に正面から介入してるように思えますけど」
僕は思った通りの疑問をリリアさんにぶつけた。
事実、神の声を聞く少女『ラ・ピュセル』の名はこの国延いては大陸中に知れ渡っている。
今や彼女はヨーロッパの各国から、将来を占うキー・パーソンとして認識されているはずだ。
「その通りです。
確かにピュセルは例外的に表から介入しています。
……ですが、さほど問題は起こっていません。
何故なら、彼女が神の遣いであるということを世間が認証し――
超然たる力を行使することを半ば当然だと思いはじめているからです。
そのかわり、ピュセルには自分が使徒であるという知識も認識も、人類監視機構という組織の存在さえも知らされてはいませんでした」

そう言えば、そうである。
エージェント
彼女は、人々から <人類監視機構> の 代行者――
ミスティック
即ち天使としてでなく、あくまで神に選ばれた <人間 の> 神秘者として認識されている。
幾ら彼女が奇跡を起こそうと、それは神から与えられた力であり彼女自身の力ではない……と解釈される。
人類監視機構とも使徒とも繋がらないわけだから、問題はないのだ。
上手くできている。
「それで……その人類監視機構ってなんなんですか?
何が目的で人類を管理するんですか?」
僕にとっては、それが最大の問題だった。
それ如何によっては、ピュセルの立場も180度変わってくる。
何しろ彼女は、その監視機構の命令に従って動いているのだから……。
「――それは、不明です」
リリアさんの答えは、何とも意外なものだった。
「えっ?」
「私たちエージェントには何の情報も与えられていません。
人類監視機構が何者なのか、何処にいるのか、何が目的なのか……詳細は一切不明です」
「そんな……」
彼女が知らないと言うのなら、一体誰が知っていると言うのだろう。
「でも、その人類監視機構から任務を与えられているんでしょ?
……ということは、何らかの接触があるわけで。
――それを辿って行けば分かるんじゃないんですか?」
「いんや。そいつは無理だ」
クレスさんが小さく首を左右して、僕の言葉を否定した。
「どうして?」
訊き返す僕に、リリアさんが応える。
「監視機構からの任務は、まったく関連のない人間をマインド・コントロールし、その人間に喋らせることで我々に伝えられるのです」
「マインド・コントロール?」
「リリアによれば、術をかけて思考を操ることらしい……だったよな?」
クレスさんは、リリアさんに確認を取るようにしてそう言った。
「じゃあ、監視機構の誰がどうやって、何処から術をかけるんですか?」
「――それも不明です」
リリアさんが素っ気無く言った。

結局、なにも分からないってことか……。
全く関係のない人間をマインド・コントロールして指令を伝えるんじゃ、辿りたくてもどうしようもない。
コントロールされた人間を後で叩いてみても、本当に元から何も知らないんじゃ、何の情報も得られないのは当然だ。
「あの……じゃあ、使徒ってどこから来るんですか?」
普通の人間から天使が生まれてくるのだろうか。
なんだか、ちょっと想像がつかない。
「使徒には本来『肉体』……と言いますか、固定された姿形はありません」
「へぇ……」
クレスさんも驚きの声をあげる。
どうやら彼もこの話は初耳だったらしい。
「私たちは、監視機構によって適当な人間の胎児に魂を挿入されるんです」
「魂を……挿入?」
そんなことが可能なのだろうか。
「例えば、リッシュモン元帥の場合だと、本来は『自由天使タブリス』という魂だけの存在であるわけです。
この魂は、任務遂行にあたって適当な人間が生まれようとすると、その人間が胎児である内に監視機構の手によって挿入されます。
タブリスの魂は、フランス・イングランドの両者に発言力を持ちながらも、中立という立場を保つ『ブルターニュ家』という大貴族の子供、『アルテュール・ド・リッシュモン』の身体に入り込みました。
しかし、ひとつの肉体に同時に2つの魂は存在できません。
タブリスの魂が入り込んだことにより、本来リッシュモン元帥となるべきであった魂は消えます。
……つまり、タブリスに肉体を乗っ取られるわけです。
肉体を支配した使徒の魂は、使徒としての能力をフルに発揮できるようにその胎児の身体を遺伝子レヴェルで強化し、使徒の身体に改変して行きます」

なんとも凄まじい話だ。
信じろと言われても、とてもじゃないけれど無理だろう。
「それじゃあ、ピュセルも本来なら髪は蒼銀ではなく、瞳も紅くなかった可能性はあったんですか?」
「――そうなります」

衝撃的な事実だった。
ピュセルは元は魂だけの存在であり……ドン・レミの村に生まれるはずだったある娘の身体を乗っ取った。
そしてその娘の身体を使徒の身体に変えて行ったんだ。
もしピュセルの魂が入り込まなければ、その娘はフランス人として普通の髪の色、普通の瞳の色をしていたに違いない。
僕は思わず、隣に座るピュセルの顔を見詰めてしまった。
ピュセルはいつものように表情を大きく崩すことは無かったが、チラチラと感情が感じられる。
だが彼女が何を思っているのかまでは分からない。
「現在世に知られる『神の子』イエス=キリストも同様にして誕生しました。
キリストの場合は、魂をインストールした受精卵の状態で『聖母マリア』の胎児として挿入されたのです」
「受精卵?」
聞きなれない単語に、僕は首を捻った。
自慢じゃないが、この時代十分な医学や遺伝子工学の概念など存在しない。
「分かりやすく言えば、人間の赤子の素が収まった”卵”です」
「へぇ、やっぱり人間も卵から生まれるんだ」
「聖母マリアが処女懐胎したというのは、この人工受精によるものです」
「!」
リリアさんの言葉は、その場に居合わせた全員を驚愕させた。
「お……おい、じゃあ、キリストも『使徒』だったってのか?」
「――はい。彼は初期の使徒です。
恐らく、監視機構は彼によって人々に『宗教』をもたらすことにより、文化の合理的な成長を抑制するのが目的だったのだと思われます。
事実、現代においても何かにつけて神の慈悲に縋って問題を解決しようとするため、医学をはじめとする多くの技術の発展が妨げられています」
「そうか。キリストが起こしたという数多の奇跡――
あれは使徒が持つ特殊能力を発揮したものだったっていうことか……」
「――話を元に戻そう」
岩の上に腰掛けたクレスさんが、足を組み直すと言った。
「そうですね」
まだここまでの話を消化しきれていなかったが、僕はとりあえず頷いた。
ピュセルはじっとしたまま、まだ一言も発しない。
「とりあえず、人類監視機構そのものについてはまだ何もわかっていないってことだ」
「はい。現状では、クレスの言う通りだと思います」
リリアさんがクレスさんの言葉に頷いて言った。
「これからも、それを知る術はないんですか?」
「いえ、このままで終わらせるつもりはありません。
今、タブリスが監視機構の内情を洗っています」
「リッシュモン元帥が?
……そう言えば、リッシュモン元帥やリジュ卿とはどういった繋がりがあるんですか?」
特に気になるのは、リジュ卿だ。
彼もまた人類監視機構のことを口にしていた1人。なにやら裏で諜報活動を進めていたことは知っていたが、彼もまたリリアさんのいう『使徒』なのであろうか。
「それを説明するには、現在私とクレスの監視機構に対するポジションをはっきりとさせておく必要が在ります」
「そうだな」
クレスさんが、リリアさんの言葉を継いだ。
「簡単に言えば、今のオレたちは人類監視機構の『裏切り者』と言えるだろう」
「裏切り者?」
僕は思わず声を抑えることが出来なかった。
この時ばかりは、ピュセルにも反応があり、隣からはっきりと息を呑む気配が感じられた。
――それもそうだろう。
彼女が従っている神、即ち人類監視機構の裏切り者を目の前にいる人物が名乗り出たのだ。
それは彼女にとっての敵対関係を明らかにしたのと同義だ。
下手をすれば、ピュセルに対する宣戦布告ともとれるだろう。
「タブリスや、リジュ伯カージェスは私たちと同じく監視機構に反目する、同志のようなものです。
……まあ、現在のところは利害関係が一致するということで協力関係を結んでいるだけです。
根本的な問題――反目の動機や思想、最終目標はそれぞれ異なるわけですが」
「ちなみに、リッシュモン元帥は使徒=タブリスだが、リジュ伯カージェスは間違い無く人間だぜ」

リジュ卿までが使徒でないことが判明し、何故か安堵を覚える僕だったが、同時に彼が追っていた人類監視機構という存在の大きさを知り戦慄さえしていた。
なるほど、リジュ卿が僕の口から監視機構の名が出た時に過剰なまでの反応を見せたことや、一刻も速く監視機構のことは忘れろと言っていた意味が今ならよく分かる。
「私達は人類監視機構がとる立場に疑問を抱いています。
確かに彼らは『神』とも言えるほどの力を有していますが、 神ではないのです」
「神ではないと言いきれるその根拠は?」
「まず、人類の監視・管理が人類文化の成長・発展の抑制を目的としている可能性があること。
もうひとつは、歴史に介入しておきながら人類にその事実や理由を明かさずに、あくまで裏からの支配体制をとっていること。
最後に、人類の種としての成長にタッチすることは、大地の理に背くことになる……という3点が主な根拠です」

大地の理……すなわち、地球に生きる者全てに等しく課せられた、神のルールだ。
確かにその自然の摂理を歪めるような行為は、もし監視機構が神だと言うのなら自己矛盾に当たる。
「しかし、裏切り者って具体的にどういう意味なんですか?」
「そうだな……。
裏切りって言っても、リリアが何をしたっていうわけじゃないんだ」
顎に手をやってクレスさんが言った。
「――先にも言いました通り、監視機構が何者か、その存在目的は何であるか……
全てが明らかとなっていない現状においては、如何なる評価を下してもそれが妥当であるとは言えません。
ただ、これまで盲目的に従ってきた監視機構。そのやり方に疑問を抱くようになったのは確かです」
「人が掲げる神よりも、私は地球を信じたい。ただ、それだけです」
リリアさんはそう締めくくった。
「だから、リリアは監視機構から離れる決意をした。
だが、当然監視機構はこれが気に食わなかったらしい。刺客を差し向けて、オレ達を消そうとした」
「そんなことが……」
自分の意に違う邪魔物は、刺客を差し向けて抹殺を図る。
神様がそんなことをするだろうか……?

「当然、リリアはその刺客を退けた。こうなったら、もう後には退けないだろう?」
確かに。
刺客を退けた時点で、もうこれ以上ない決別宣言になる。
「だから、オレたちは監視機構の裏切り者なのさ」


「――天使から堕ち、死神になったわけです」


リリアさんは、自嘲気味にそう言った。








RETURN TO THE:48
『神聖大地母神』




星の降る夜。
4人の間に、優しい風が吹く。
「おふたりの話は分かりました」
僕は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「しかし、何故僕とピュセルにそんな話を?」
僕のその声に、クレスさんとリリアさんは一瞬顔を見合わせた。
「単刀直入に言えば、ピュセルの力を御借りしたいのです」
「ピュセルの……」
そう呟いて、僕は思わずピュセルに視線を向けた。
彼女も興味深そうな顔をして、リリアさんを見詰めている。
ここまでの彼らの告白が、彼女に与えた衝撃は計り知れないものがあるだろう。
ただ、その表情を見る限りでは彼女がなにを思っているのかは分からない。
「当然のことながら、これから長期に渡って何度でも監視機構は我々に刺客を差し向けてくることでしょう。
正直なところ、私とクレスの2人だけではそれらを凌ぎきれるとは思えません。
私たちには更なる戦力が必要なのです」
「そこで、同じく使徒の力を有するピュセルの力が欲しい……と?」
クレスさんとリリアさんは揃ってその言葉に頷いた。
確かにピュセルがA.T.フィールドをはじめとする使徒の力を行使するその瞬間を、僕は何度と無く目撃している。
使徒に対抗できるのが、同じく使徒のみであることを考えれば、クレスさんやリリアさんが、ピュセルの力を欲するのもごく自然な流れとして納得できる。
「だけど、ピュセルには――」
言いかけて、僕は口を噤んだ。
口にしたくなかったのだ。
ピュセルにとって、神は彼女の存在意義そのものだ――などと。
「無論、今すぐに結論を出せとは言いません。時間を掛けてゆっくりと考えて下さい」
リリアさんがそういう程、事は大きなものだった。
神の力を持つ者に従い続けるか、それとも彼らと戦うか。
確かにおいそれと結論を出せるような問題ではない。
ピュセルはやや俯き加減で沈黙を守っている。
「――ピュセル」
僕としては、既に気持ちは決まっていた。
できれば同じ道を、ピュセルと共に歩んでいきたい。
ピュセルに同じ道を選んで欲しい。
「ただ、ひとつだけ言わせていただければ……」
リリアさんは、真っ直ぐにピュセルの紅い瞳を見詰めて言った。
「――私は、人類監視機構と決別をした自分を誇りに思っています」


話はそれで終わった。
リリアさんとピュセルはそれぞれ自分の宿舎に戻って行った。
僕もピュセルと一緒に帰ろうと思ったのだが、クレスさんに呼びとめられたのだ。
「話がある。ちょっと付き合ってくれないか?」
彼はそう言って、街の東側を流れるアンドレ川の辺を親指でクイッと指した。
まだ広場では宴……というか祭りは続いている。
河の辺まで行けば、その喧騒も届くまい。

今宵は月がまるで糸のように細い。
月明かりがあまりないせいで、夜空の星が何時もより良く見える。
神秘的な月の輝きも好きだが、僕はこういった降るような星空もまた好きだ。
川の対岸から吹き抜ける柔らかい風が、そよそよと河原の草を撫でて行く。
本当に気持ちの良い夜だ。
「それで――」
星空を見上げるクレスさんの後ろ姿に、僕は声をかけた。
「話ってなんなの、クレスさん?」
「ああ」
そう応えると、クレスさんはゆっくりと河原に腰を落とした。
「座らないか?」
「あ、うん」
僕がすこし間を空けて近くに座るのを見届けると、彼はまた空を仰いだ。
やはり、ここまでは祭りの喧騒も届かない。
聞こえるのはそよぐ風の音だけだった。

少しして、クレスさんが呟くように訊いてきた。
「どうだった? 今日の話」
「えっ」
咄嗟に応えることができなかった。
「オレもさ、リリアに最初にこの話を聞いた時は本当に驚いたぜ。
……1週間は、寝ても醒めてもずっと同じ事で悩んでた。
しかも、事を聞き出すまでも大変でさ。あわや破局の危機ってところまでいったんだぜ?」
そういって、彼は乾いた笑い声をあげた。
「話を聞いただけじゃ実感が湧かないもんだから、まだ分かんねえかもしれないがな……」
真顔に戻ったクレスさんは、僕の方を見て続けた。
「使徒ってのは――人間じゃないんだ」
「!」
その言葉は、僕の胸を抉るように刻み込まれた。
分かってはいた。
心のなかで、気付いてはいたのだ。
だが、他人の口から、はっきりとした言葉として再認識させられた時の衝撃は……正直想像よりも大きかった。
「で、でも、使徒って言っても心もあるし、不死身ってわけでもないんでしょ?
A.T.フィールドさえ使わずに、普通にしていれば人間として生きて行けますよ、きっと!」
僕は慌ててそう反論した。
「そう思うか?」
クレスさんの声は低く、冷めていた。
そして、その瞳にはどこか翳りがあった。
彼は自分の傍らから小石を拾い上げると、親指で弾いて僕に投げつけた。
当たっても怪我をするといったような大きさでも勢いでもなかったが、僕はとっさに右手でそれを受け止めた。
小石は乾いた音を立てて、掌に当たると跳ね返って地面に落ちた。
「それが、A.T.フィールドだ」
クレスさんのその言葉に、僕はハッとした。
「使う使わないといった意志以前の問題でそいつは展開される。
今、あんたが咄嗟に右手で自分を庇ったように……
使徒ってのは、人間からすれば超能力にも値するような『危機察知能力』が備わっている。
本能が危機を感じ取った段階で、A.T.フィールドは自動展開されるわけだ」
言葉が無かった。
「無理なんだよ――。
使わずにいるっていっても限界があるし、監視機構と敵対する以上嫌でもA.T.フィールドをはじめとする使徒の力を使わなくちゃならない。普通の人間として生きていくのは無理なのさ。
……現実が許しちゃくれないぜ」
そう言うと、クレスさんは星空を見上げたままフウッと溜め息を吐いた。
「――自信あるか?」
唐突に彼は訊いた。
「えっ?」
「彼女は人間じゃない。
ピュセルは使徒だ。
人間じゃないんだよ。
これからもそれが原因で辛い目にあうだろうし、近くにいればアランソン侯、あんたも一緒になって不幸な目にあうかもしれない。
そういったことを全部知った上で、まだ彼女の支えになってやれるって自信……あるか?」
それは並大抵の事ではない。
……クレスさんの瞳は、そう語っていた。
僕は答えることが出来なかった。
「――オレは監視機構が怖い」
クレスさんは静かに言った。
「奴等がどんな存在なのかは知らないが、少なくとも1国を敵に回す以上に手強い相手だろう。
そんなバケモンの集団を相手にリリアとふたりで戦っていける自信などない。
時々怖くなって、体が震え出す。オレは大丈夫だと、何とかなると言い聞かせても震えは止まらない」
「アランソン侯はどうだ?
おたくは、まだリタイアできる。それが許されるポジションにある。
今日のオレたちの話を聞いてどう思った?

監視機構――
神のような存在を敵に回して戦うか?
それとも目を閉じ、耳を塞いで逃げ出すか?」
クレスさんは淡々と話す。
故意に感情が篭るのを避けているようにも見えた。
「僕は……」
俯いていた顔を上げて、僕は言った。
「僕は、神を信じません。
神という存在が嫌いです。
実在しても、それを受け容れる気もありませんでしたし、頼るつもりもありませんでした。
同じ人間との関係よりも、神との繋がりを優先する人が嫌いでしたし、天国だの復活だの奇跡だの救いだのと、都合のいいように神の名を語る教会も嫌いでした」
クレスさんはだまって僕の言葉に耳を傾けている。
「僕は、多分ピュセルが好きなんだと思います。
戦友としてではなく、女性として。
ただ、彼女は人よりも神を愛するような女性です。
……僕はそれに嫉妬していました。神に嫉妬していました。
そして、彼女はそれで幸せなのか。彼女の生き方は正しいのか。
ずっと考えていました」
「結論は出たのか?」
クレスさんの声に、僕は頷いた。
「彼女は捉えられているんだと思う。
リリアさんが言ったように、彼女は盲目的に従っている人形のような存在だ。
また、そうあることを神は彼女に強要している。
……ならば、僕はその呪縛から彼女を解き放つ。
神が彼女の生きる意味なら、僕はそれごと彼女の心を動かしてみせる。
……それが僕の出した結論だよ、クレスさん」
「――そうか」
言葉は素っ気無かったが、何故だか彼は嬉しそうだった。
「クレスさんは、神を信じているの?」
ふと疑問に思った。
人類監視機構を敵に回す彼らは、神というものをどう捉えているのだろうか……と。
「神……か」
何故だか、クレスさんは苦笑した。
「――信じてるぜ。ただ、クリスチャンじゃあないけどな」
「教会が掲げる神や、キリストの奇跡なんかを信じてるわけじゃないの?」
「ああ。
ありゃ、人間様の都合のいいようにつくりあげられた道化みたいなもんだぜ。
あんなもん信じてたんじゃ傭兵家業はつとまらねえな」

確かに。
騎士や兵士は(一応)正義のために戦うことになっているが、傭兵は戦を生業とし金のために殺すのだ。
人殺しは第一級の罪。
それを商売にするような罰当たりに神を信じてるかと訊く方がナンセンス……なのかも知れない。
「リリアも言ってたが、オレが信じてるのは地球だよ」
「地球?」
たしか、神さまの話をしていたと思ったんだけど……なぜそこに地球が出てくるのだろうか。
「なあ、人間って何のためにいるんだと思う?」
「えっ?」
別に返事を期待していたというわけではないらしい。
クレスさんは立ち上がると、河原をブラブラと歩きながら話し出した。
「リリアの話によると……なんて言ったか、光合成?
……まあ、そういうやつをして植物は空気を作り出しているらしい。
だから、みんな息を出来るそうだ。
草食動物はその草を食い、その草が食い尽くされないように肉食動物は草食動物を襲って適当な数を減らす。
キツツキは腐った木を突ついて倒し、新たなる若木の誕生を促すし、自然発生する山火事は古くなった木を焼き払い再生を象徴する」
彼は僕に振り返って微笑みかけた。
「世の中、上手く出来てるだろう?」
「え、ええ」
僕は慌てて頷いた。
「一見何の意味もないようなちっぽけな存在も、誰もが知らないところでちゃんと役に立っているもんだ。
たとえそいつら自身が自覚していないにしても、大地の摂理に従って生きている地球上のあらゆる生物達は、その存在自体に何らかの役目があるのさ。……ちゃんと、地球の役に立っている」
何とも壮大な話だ。
僕はなんとなく興味をそそられて、クレスさんの話にいつしか集中していた。
「じゃあ……って考えたんだ。
――人間は何の役に立っているんだろう。地球は人間に何を求めているのだろう?」
面白い問題提起だ。
僕はしばらく考えてみたが、適当と思われる解答を導き出すことは出来なかった。
「地球ってのは、でっかいぜ。……とんでもなく」
星降る夜空を仰いで、歌うようにクレスさんは言った。
「オレは思うんだ。
もし人間を越えた存在……
それこそ神様がいるっていうんなら、そいつはこの地球そのものなんじゃないかなって」
「地球が……」
何とも突拍子もない発想だ。
キリスト教会の聖職者達に聞かれたら、たちまち異端扱いされて裁判にかけられそうな話である。
「地球はそれ自体がでっかい女神さ。母なる大地って言うだろう?
全ての生命を生み出し、偉大なる摂理を生み出した……まあ、大地母神ってとこだ」
「そういえば、異国にはそういった大地の女神という考え方があったという話をきいたことがあるなぁ。
……たしか、その女神は『ガイア』っていう名前だったと思うけど」
何かを否定したり嫌ったりするのは、充分それを知ってからにするべきだと思う。
相手を良く知らないでただ拒絶するのは、ちょっとフェアじゃない感じがするからだ。
だから、僕はかつて神を嫌悪するにあたり、それなりに世界中の様々な神に関する文献を漁ったことがある。
その文献の中に、大地の女神『ガイア』の名を見たことがあったのだ。
「――そうか。オレ以外にもそんなことを考えた奴がいたか」
クレスさんは嬉しそうにそう言った。
「オレの田舎にもな、そういう精霊の名前が伝わってるんだ。
そいつは『ガイア』じゃなくて、『ニーサ』って言うんだけどな。神聖大地母神ニーサだ」
「ニーサ……」
初めて聞く名だ。
恐らく、その土地だけに伝わる精霊信仰が変化したものだろう。
いわゆる土地神。マイナーであって当然だ。
「そう。ニーサだ。
……それで、そのニーサは何故に人間を生み出したのかって考えたわけだ」
「答えは見つかったんですか?」
凄く興味があった。
地球が全ての母たる女神だなんて……
教会が掲げる御都合主義のキリスト教に比べれば、なんとも素敵な考え方だ。
僕はクレスさんの考え方が断然気に入りはじめていた。
「答えは――見つかったぜ」
仏頂面でいることが多い不愛想な彼が、イタズラっぽい笑みを浮かべている。
「どんな?」


「――彼女は、感動したいのさ」

「えっ?」
わけが分からなかった。
「誰かを感動させようとか、心を動かそうとか思って、そいつを本当に為し得るのは数多ある生物の内でも人間が唯一の存在だ。
誰だって一度はあるだろう?
人の優しさに一生忘れられない感動を覚えたり、絶対に揺るがないと自信を持てる感情……友情だとか、愛情だとか……そんなものを誇りに思ったりすること。
そういったものに心を動かされた時、何だか嬉しくなって、心が弾んで、生きてて本当に良かったって思ったこと……あるもんだろ?」
「誰ひとりとして誰かと同じ人生を歩む事はないもんだぜ。
時にはなんでこんな酷いことが出来るんだって、人間に絶望したくなるようなことをやる奴もいるけど……
だけど、やっぱり人間が与えてくれる感動ってもんを知ってたら、そうそう嫌いにもなりきれない。
人間の人生がヒューマン・ドラマなら、ヒトという種族が織り成す歴史は巨大な大河ドラマだ」

クレスさんの言いたいことが、ここにきてなんとなく分かってきた。
人間は未完成で、愚かしい生き物だ。
今僕たちが続けている惨めで無意味な戦争、殺し合いこそその象徴たるものだ。
こんな現実ばかり見ていると、人間という存在に絶望したくもなってくるけど……
だけど、それでも人間の可能性を信じたい。
そう思えるのは、大切な人との絆や大切な思い出。
優しさに触れた時の、あの言い知れない感動を与えてくれるのもまた、人間であることを僕は知っているからだ。
神を信じるのも良い。神を愛するのも良い。神に救いを求めるのも良い。

だけど、神様とつきあってもそれらの大切な想いを得ることは出来ない。
崇拝っていうのは、憧れにも似た一方通行で、自分勝手な理想の押し付けと自己満足だ。
神を愛するより、人を愛した方が良い。
神に縋り、救いを求めるよりも、大好きな仲間達と一緒に悪あがきをする方が良い。
本物の感動は、人との絆の向こう側にあるんだと僕は信じている。
きっとそれは、他の如何なるものをも凌駕する、世界で一番素敵な何かなんだ。
考えただけでも、嬉しくて涙が出てくる。
心が弾んで、胸がドキドキしてくる。

僕はそれを……そのことを、ピュセルに伝えたいんだ。教えてあげたいのだ。

「ニーサは、きっとそいつを見てみたかったんだぜ。
人間達が織り成す、思いっきりハートフルなドラマを見て、心を動かしたい。
感動したいって、そう思ってんじゃないのかな?

他の動植物達は、その生き様をもってニーサの身体……つまり環境のメンテナンスをするわけだ。
じゃあ、人間はって言うと……」
「ニーサの心を司るんだね?
女神にだって……ううん、女神だからこそ心だってある。
その心の部分の潤いを期待して、ニーサは僕たち人類を創造した。……そうでしょ?」
クレスさんの後を継いでそういうと、僕は彼に微笑んで見せた。
「――ああ!」
クレスさんは笑顔で返した。
「だから……オレは思うんだよ」
言いながら、彼はまた元の位置に腰を落とした。
「どうせならオレの生き様以って、ニーサが一生忘れられないくらいの感動を与えてやろうじゃねえかってな。
そう思うと、そうそういい加減な生き方は出来ないだろ?」
「そうだね」
確かにクレスさんの言う通りだ。
この世界には何億という人間が存在する。ニーサはその何億という人間ドラマを見ていることになるわけだ。
その中でも、女神が一生忘れられないほどの感動を与える生き方をする。
それがどれだけ難しいことか……いやでも予想がつくというものだ。
「いくら血が子孫に受け継がれていっても、いつかは途切れちまうもんだぜ。
――例えば、侯。
あんたの5代前のご先祖が、どんな思想を持ち、どんな夢を描き、どんな人生を送ったか知ってるか?
いや、そもそもそのご先祖の名前、思い出せるか?」
僕はゆっくりと首を左右して応えた。
「な? ――いつかは忘れられちまうもんだぜ。
だけど、ニーサは違うぜ。
彼女は愛しい自分の子供たちが、どんな人と巡り逢い、どんな人生を駆け抜けたか、いつまでも心に刻み込んでいるはずだ。
だってそうだろ? どんなに多く子供を産もうと、そいつらのことを忘れちまうような母親なんていねえからな。
だから、動かすんだよ。
一番わんぱくボウズになって、一番素敵な人生送って、一番でっかい感動をニーサに返すんだ」
まるで星空を抱こうとするように、彼は両手を一杯に広げ天を仰いだ。
「フッ……なかなか悪くないだろ、こう考えると?」
まるでリジュ卿みたいな口の端を吊り上げる笑みを浮かべると、僕を見てクレスさんは言った。
「うん。なんだか、気に入ったよ。その考え方」
「だろ? リリアも素敵だって言ってたぜ。
何しろ、妙な教祖や教義の押し売りなんて存在しないからな。
ただ、自然の摂理に従って、女神を感動させるような誇りある生き方をすりゃそれでいいんだから」
「うん。そうだね」
生まれて間も無く死んでしまう赤ん坊もいる。
志半ばで死んでしまう人も、若くして不治の病にかかることもある。
ニーサは時としてその種に、残酷とも言える試練を与える。母の厳しさを以って。
だけど……だけど、その教義が大地の摂理、自然そのままだなんて、なんて素敵な神様だろう!

「まあ、女神に見せる最高のラブ・ロマンスはオレとリリアのもんだけどよ。
――アランソン侯。ピュセルと最高の純愛物語を演じてみな。
……彼女のこと、好きなんだろう?」
僕を見ながら言うクレスさんのその言葉に、僕は思わず赤面してしまった。
「でも」
「――リリアもそうだった」
僕の言葉に被せるように、クレスさんが言う。
「使徒は強力すぎる力を持つ。たった1騎で世界を滅ぼせるほどに。
しかも、最初に契った異性に同等の能力を授けちまうなんてオマケ付きだ。
どっかの二枚舌に簡単に騙されたり、利用されたり、洗脳されたり……いわゆる精神攻撃を一切受け付けないよう、使徒には感情や情緒ってもんがない。
ピュセルもそうだろう?
ほとんど感情を露わにしないし、それどころかお宅以外とは全く口を利かない。
こいつホントは人形じゃないのかって思うほどにな」
「そうか。だからピュセルは……」
それで合点がいった。
ピュセルが何故にああまで無愛想なのか、まるで欠如しているかのように何の感情も見せないのか。
全ては精神面での迷いが生じないために、それらのものが最初から封じられているからだったのだ。
「リリアさんもそうだったの?」
「ああ。出会った頃はな。
ほとんど、目が合った奴はあの死鎌で皆殺しって感じだったぜ。
しかも、なんの殺気も発さずな」
リリアさんは今でも饒舌とは程遠い。社交性がほとんどゼロに近い女性だ。
だから、クレスさんの言うかつての彼女の姿は容易に想像できた。
「ひとつ忠告しておけばな、彼女を……ピュセルを無理矢理押し倒そうだなんて考えるなよ」
「そっ……そんなこと、しませんよ!」
僕は叫んだ。恐らく耳まで真っ赤になっていただろう。
「冗談だよ」
「んもぅ、からかわないでくださいよ」
「別にからかったわけじゃないぜ。
リリアもピュセルもすこぶる美人だろう?」
「やっぱり、使徒の血が混じるととんでもない美形になるのかな? リッシュモン元帥もすごい美男子だし」
「さあな?
前にオレたちが、リリアと一緒に傭兵を組んで国中を回ってた頃の話だ。
リリアの美貌に目が眩んだ5人の仲間達が、彼女を無理矢理抱こうと、眠っている内に襲い掛かったことがあった」
「なんてことを……!」
傭兵は仲間内でのチームワークを大切にするものだと聞く。
女性が加わっただけで、それが無残に崩れ去るものなのだろうか……。
「そいつら、揃って腰の骨折られて傭兵廃業したぜ」
「えっ?」
「リリアの話によれば、気配で自分の天幕に男達が忍び込んで来たのは随分前から気付いていたそうなんだが、事の寸前までは、あえて好きなようにやらせたそうだ。
馬鹿な5人は、といっても揃って手練の大男だったんだが、リリアの四肢をそれぞれ1人ずつがガッチリ固めた。それで、残りのひとりがリリアの夜着に手をかけようとした瞬間……彼女はA.T.フィールドを展開した」
そこでクレスさんは一旦言葉を切った。
「幾らリリアでも、両手両足を4人掛かりで拘束されちゃ面倒だからな。
A.T.フィールドでふっ飛ばしたんだ。
そして、2度と力ずくで女性を襲えないように5人の腰の骨を叩き折ったらしい。
おかげでそいつら、半身不随になって女性を押し倒すどころか1人じゃ歩けない身体になっちまったぜ」
「なんか、凄い話ですね」
死神の化身、DEATH=REBIRTHに相応しいエピソードだ。
「大事なのは、ハートだ。身体はその次でいい」
「うん」
心を伴わない身体に意味はない。
僕らは獣じゃないんだ。
クレスさんの言う大地母神だって、それを望んでいるはずだ。
「使徒の任務に感情は必要ない。
……だから、それらは監視機構によって封印されている。だけど、心がないわけじゃないんだ」
クレスさんは、僕の目を覗き込むと続けた。
「神に封じられた乙女の心。そいつを動かしてやりな。アランソン侯。
――君の彼女への想いが本物なら……彼女を本当に愛しているなら……


できるはずだ」


クレスさんのその言葉に、僕は頷いた。
消えてしまいそうな、細くて儚い月を見て、僕は強く頷いた。












RETURN TO THE:49
『そんな侯爵様』







――5月23日。

アランソン侯は、ピュセルと親衛隊ロンギヌスを伴って故郷の街、アランソンに帰郷した。
オーギュスタン攻防戦で怪我を負ってから約2週間。
アランソン侯の身体中の切り傷も大分癒えたとは言え、まだ万全ではない。
が発動されるまでの20日間弱は、このアランソンで療養するわけである。
「――若。よろしゅうございましたな。
ミシェル様のあの喜びようといったらありませんでしたぞ」
城下町の大街道を並んで歩くロンギヌス隊の長老格、エイモスが朗らかに言った。
エイモスの言う『ミシェル』というのは、ミシェル・マリー・ダランソン。侯の実母である。
彼女はアザンクールの開戦で夫を、黒死病で長男を失った。
彼女の家族はと言えば、現アランソン侯であるジャン二世しかいないのだ。
確かに彼女には他にも3人の娘たちがいるが、その内2人までは既に嫁いでいってしまっている。
それに後継ぎである男子は、ジャンしかいないのだ。
一家の精神的支えという意味では、やはりジャンの存在はあまりにも大きい。

だがそのひとり息子も、イングランド=ブルゴーニュ連合との戦に出てしまっていた。
彼女がそれを大層嘆いていたのは、アランソンでは有名な話である。
最後の息子まで失ってはたまらないと、精鋭ロンギヌス隊を組織し、アランソン侯の護衛を任せたのは何を隠そう彼女だった。
「そうだね。帰ってきて良かったよ」
ミシェルは、アランソン城に入城した侯の馬車をわざわざ門まで出迎えに来ていたほどだ。
侯は心底、母が喜んでくれたことを嬉しく思っていた。
「アランソンの街も留守中変わらず、安心ですな」
エイモスが満足げに頷きながら言った。
確かにアランソン侯が治めるこの街は変わらない。
自然の美しい穏やかで平和な街だ。
アランソン侯は、ピュセルを案内するため彼女を連れて、久しぶりの故郷の街を散策していた。
怪我も癒えていないし、いくらなんでも2人では不用心だと、ロンギヌス隊の数名も護衛のために同行している。
「やあ、女将さん。御久しぶりですね」
道行くアランソン侯は、見知った顔に親し気に声を掛ける。
ちょっと他の土地では考えられないことだ。
「えっ……?」
侯に呼びばれた宿屋の若女将は、一瞬ポカンとしてから

「あ……なっ?……たい……たい……太守様?」
彼の存在に気付くと慌てて地べたに跪き、平伏しようとした。
公(侯)爵領クラスの大領地になれば、それはある意味ひとつの国として認識される。
故にこのアランソン公(侯)爵領の領主である彼、アランソン侯ジャン二世は、その土地に住まう民にとっては国王にも等しい存在なのだ。
封建社会が健在であり、身分差が明確に定義され区別されているこの時代において、この若女将のような平民からすれば、アランソン侯のような大貴族はほとんど神にも近かった。
そんな雲の上の人間から、親し気に声をかけられる。
女将でなくても心臓を止まらせるほど驚き、狼狽し、光栄に思うのも無理はないことなのだ。
見れば、アランソンの大通りにいる全ての人間が、慌てて平伏しようとしている。
「あ、いいよ、いいんですよ。そんなことしなくて」
アランソン侯は慌てて女将の手を取り、抱え起こす。
彼にとって、身分などという根拠のない差別制度などどうでもいいことだった。
それより気兼ねなく皆と笑い合えたら、それでいい。
「――皆も面(おもて)を上げて。僕にそのような礼は無用です」
にっこりと微笑みながら、アランソン侯は言った。

父、アランソン侯ジャンT世が戦死してその侯爵位を継いだ時から、
泣き虫で、弱気で、逃げてばかりの少年は変わった。
少年は打ちひしがれ、ひっそりと独り涙する母の悲しい姿を偶然目撃したのだ。
病死した兄も、強くて大きくてとても優しく、あたたかかった父ももういない。
大事な人を一度に失った母を慰め、守ることが出来るのは、もう自分しかいない。
代父であり、母の弟……つまり叔父でもある騎士リジュ卿は彼に言ったものだ。
「大事なものを、大事な人を守りたいなら強くなくちゃいけない。
弱い自分をやっつけて、弱い自分を抱きしめてあげられるだけの強い人間にならなくちゃならない。
……小さなアランソン侯。
今、君がするべきこと、守らなくてはならないもの。それが見えたのなら、君は変われるはずだ」

少年は努力した。
リジュ卿に剣術、体術、馬術、武術を教わり――
当時彼の教育係を務めていたエイモスに、
兵法、戦略、外交、ラテン語、帝王学、行政法、経済学、法律、民衆心理等を学んだ。
死にもの狂いで、民を導ける良き領主、母を支えられる良き息子たらんと自らを鍛え上げた。
自分に何が足りないか、自分が何をすべきか、自分に今大切なものは何か。
自分で考え、自分の目で見、自分の意志で行動し、自分の心で判断するようになった。

最初は辛かった。
訓練の時には堪えていたが、自室に帰った時いつも泣いていた。
何度も辞めたいと思った。何度も挫けそうになった。
その度に、優しくて朗らかに明るかった母の悲しい笑顔を思い出した。
息子の前では務めて平静を装い、無理にでも微笑んで見せる……

そんな涙よりも悲しい微笑みを。
それを思い、励みに歯を食いしばって彼は強くなっていった。
身体も、そして心も。
彼はいつしか強くなっていく自分に喜びを感じるようになった。
辛かった鍛練が、楽しみに変わっていった。
どんどん変わっていく自分。
どんどん成長していく自分。
だけど、彼の生まれもっての繊細で、他人の痛みを汲み、他人のために涙できる優しさは少しも変わることは無かった。
ふと、生まれて間もない小さな小さな赤子を抱えた母親が、アランソン侯に恐る恐る近付いて来る。
それを発見すると、侯は微笑んで自ら彼女に歩み寄った。
「うわぁ……可愛い赤ちゃんですねぇ」
目を丸くして、愛おしげに母に抱かれたその赤子を覗き込むと、侯は言った。
「あ……いえ……その」
若い母親は、気の毒なほど狼狽しながら、林檎のように顔を赤らめた。
そして雲の上の存在を前に、宮廷でも通用しそうな言葉をその庶民のボキャブラリから必死に探し出すが、どうにも緊張と興奮で上手く口が回らない。
「お褒めのお言葉を預かり、えと、恐悦至極に――」
「そんなに硬くならないでください。僕も貴方と同じ人間ですよ。
それに貴女は僕よりも年上の女性だ。その分人生経験に富んでいる。つまり目上と解釈して良い」
「そ、そんな! 滅相も御座いません」
わたわたと手を大きく振りながら、彼女は必死に否定する。 萎縮して目も合わせられないその母親に、候は苦笑した。
「――それで、この子はいつ生まれたんですか?」


そして、今のアランソン侯がある。

彼は領主として、まず街の腐敗を一掃することにした。
父の死後蔓延り出した役人の不正を許さず、それらの者を行政府から一掃し、
自らの目で確かめ信用できると判断したものと入れ替えた。
横行していた婦女暴行を許さず、警備隊を組織して街を巡回させる他、
それらの行為を犯したものに厳しい罰則を設けた。
経済基盤を固めるため、城に優秀な商人や会計士を集め、コンサルタントとして彼らを使い、
街の特性を有効利用した合理的な経済政策の再編に乗り出した。
戦災孤児や捨てられた子供たちを健やかに育てるため、
教会や修道院に多額の寄付と施設の設置を行うかわり、彼らの面倒を任せた。
また、これら全ての分野にリジュ卿の知識を借りながら内務監査部を設け、
不正や職務上の問題が起きないよう厳しく監視させた。


「はい……12日前に」
「うわぁ、じゃあ、生まれたばかりなんだ」
心底感心したように、侯は言った。
何時の間にか彼の周りには人だかりが取り囲むように集まってきていた。
いつも民のことを第一に考え、少しでも住みよい街に、少しでも豊かな街にしようと善政に尽力する彼らの主。
美男侯の誉高き、このアランソンの街の誇り。
民達の心の拠り所。
その人が、今、目の前にいる。
庶民にも優しく声を掛けている。
皆が興味を抱き、一目アランソン侯の姿を拝見しようと集まってきたのだ。
「あの、抱かせてもらってもいい……かな?」
遠慮がちにアランソン侯が訊ねる。
「はっ……はい! こっ……光栄です!」
顔を紅潮させてその母親は、我が子を侯に差し出した。
きっと、自分からは言い出せなかったが、敬愛する領主に抱いてもらいたかったのだろう。
あのアランソン候に抱かれた子を持てる。
庶民にとっては、それだけでも天にも昇る喜びだった。
「よしよし……」
目を細めて、アランソン侯は子を抱いた。
ゆっくりと揺すってやる。
まだ生まれて間もない赤子は、その腕の中で安らかに眠り続けていた。
「ふふ。赤ちゃんって、あったかいなぁ。……ミルクの匂いがする」
うっとりと囁くように言うと、彼は目を細めて、赤子に頬を寄せた。
生まれたての命に向けられるその目は、本当に優しいかった。
「男の子? 女の子?」
「は、はい! ……女子です」
恍惚とした表情でその様を見詰めていた赤子の母親は、ハッと我にかえると慌ててそう応えた。
「ふーん。名前はもうあるんですか?」
「いっ……いえ。
その、あ……の、恐れながら……できますれば……太守様に……御名を……」
「えっ? ――僕が名付けて良いんですか?」
アランソン侯の言葉に、必死に何度も頷くまだ若い母親。
「う〜ん、そうだなぁ……」
顎に手をやり、暫し思案すると――
「 <シャルーエルフィ> ……なんて、どうかな?
北方の国に伝わる伝説にね、エンシェントエルフっていう妖精たちがいるんだけど、その彼らの中でも最も偉大で美しいとされた女王の名前なんです。天使みたいなこの子には、ピッタリだと思うんだけど――」
少し首をかしげて、反応をうかがいながら彼は言った。
まったくの他人に名前を付けるのは初めての経験だ。
やはり、緊張を感じているのかもしれない。
一方、あまりの感激に言葉に詰まらせる母親は、気を取り直すと慌てていった。
「はっ……はい!
勿体ない程に御座います。今、この娘は最高の名誉と名を授かりました」
ペコペコと一生懸命頭を下げながら、彼女は真っ赤に頬を高潮させて言った。
母親の大袈裟なほどの喜び様と、幸運にも太守から名を授かった赤子に、彼らを取り囲む野次馬達も感嘆の声をあげる。
集まっていた母親達の中には、慌てて家に引き返し赤子を連れてきて <シャルーエルフィ> に続いて名前を頂戴しようとする者が続出した。


アランソン侯は、人間を愛している。
戦がどんなに残酷であるかも、非道であるかも彼は知っている。
また、その戦を他ならぬ人間の心が生み出していることも知っている。
それでも、彼は、人に抱く希望を抱くのをやめられないでいる。
――それは、信じているからだ。
人には、絆という概念がある。
人は、自ら変わることが出来る。
人は、より高みに登っていける可能性を持っているのだ。
それが、全てを凌駕するものだと信じているからだ。

私たちは、そんなアランソン侯が好きだ。
彼が大好きだ。
彼が人の優しさに触れ、人との絆に心から微笑んだ、あの時の顔がたまらなく好きだ。
他人の痛みを、まるで自分の痛みのように感じ、涙されるあの人が。
自分のためだけではなく、誰かのために一生懸命になれるあの人が。

みんなが、彼を愛している。


「――だからこそ、気高い魂と強い心を持った最高の男達、我がロンギヌス隊の英雄たちさえ、あの方に心からの忠誠を誓うのです」
ロンギヌス隊の長老格であり、幼き頃侯の教育係も務めていたエイモスは、民に囲まれちょっと困ったような、だけど素敵な微笑みを浮かべているアランソン侯を、ピュセルと並んで見詰めながら語った。
ピュセルもまた、じっと侯の姿を見詰めている。
「貴女もご覧になられたであろう。
オーギュスタンの戦いの折、敵兵の奇襲によって味方の陣が総崩れとなるところ、自の死を以ってしても部下達をより多く逃がそうと盾となったあの方の行動を。
……それは騎士道を意識した行動でも、名誉を考えた行動でも、安いヒロイズムの追求でもありません。
ただ純粋に、あなたに生き延びて欲しかった。
より多くの部下達を救いたかった。
ただ、それだけの行動なのです。
あの方はその御自分の優しさを、ただ当たり前のことだと思い、懸命にやり遂げなさる」
フ……とまるでイタズラ好きの孫を見るような目で微笑み、エイモスは続けた。
「おかげで、若の身を預かる我らロンギヌスの隊員達は難儀いたしますがな……」
ピュセルは、何故か胸が熱くなるのを感じた。
エイモスの言葉に、アランソン侯を想う心が強く感じられたからだ。
そして、そのエイモスにも勝るとも劣らぬ想いの存在を、自分の胸にも感じたからだ。
「――あの方は、ずっと探しておられる。
どんな絶望さえも凌駕する力を。全ての涙を凌駕するものを、ずっと探しておられる。
そして、こう言って嬉しそうに笑っておられた。
『ピュセルという少女を見詰め続けることで、その答えが見つかるかもしれない。
ラ・ピュセルが僕にそれを教えてくれるような……そんな気がするんだ』――と」


「全ての涙を凌駕するもの……」

傍らにいるエイモスにも聞こえないほど微かに、ピュセルは囁いた。
その言葉は、彼女の胸に強く響き渡っていた。


「――御仕えする我々が愛してやまぬ最高の主、アランソン侯爵閣下とは、そんなお方なのです」


エイモスは、誇らしげにそう言った。







RETURN TO THE:50
『世界を救う奇跡の魔法』





謎だった。
とわ
永久に解けない謎だった。



一番、強い……

この世で一番強い感情とはなんだろうか……?

――怒り?

――憎しみ?

――恐怖?

それらの感情は限りなく深く、強く、高まってゆく。
大切なものを、奪われた時

美しきものを、汚された時

愛しい人を、失った時

人は簡単に、負の感情に支配され壊れてゆく。


だけど……



だけど……





だけど、それだけなのだろうか?







どんな辛いことも、


悲しいことも、


怒りも、


憎しみも、


寂しさも、


それさえあれば越えてゆける……



――そんなもの、ないのだろうか?





人を簡単に支配する、暗く冷たい負の感情。
心を壊す、闇の力。
――この世で最も強い想い。



光りさすように、闇を貫く真っ直ぐな……

一筋の希望

それは、人の暗黒の中では無に等しいのか?






謎だった。
永久に解けない謎だった。






だけど……






わたしは瞬間、垣間見た


どんな悲しみも、痛みも、痕も、寂しさも、怒りも、憎しみも……

りょうが
どんなに強い狂気と負の心さえも、 凌駕する……



それは、全てを凌駕するもの

 とき
時空を越え……



闇を越え……


ささやかで、暖かな、わたしを救う、奇跡の魔法


涙を抱きしめてくれる、やさしい魔法


世界を救う奇跡の魔法





――鼓動ゆさぶる想い

――身体の奥から

――心の奥から

――魂から



絶え間無く生まれてくる、その力。



あの人が教えてくれた。

あの人が見せてくれた。

あの人が与えてくれた。



――全てを凌駕するもの




ただ、あの人がいるだけで


ただ、それを感じることができるだけで


わたしの魂は、全てを凌駕する




あの人と出逢うまで、


知り得なかったその真実


謎だった。
永久に解けない謎だった。



ああ……



今、あの人の心が導いてゆく


ああ……


わたしを導いてゆく




真っ直ぐな光よ、闇を貫け

絶望の彼方へ

……そして、扉は開かれる




ああ……



謎が……









謎が、解けてゆく……







月を見上げて、彼女は言った。




「わたしは弱くなったのかもしれない

……あの人を失う恐怖を知ってしまった

わたしは弱くなったのかもしれない

……でも、それでもいい

わたしは弱くなったのかもしれない

……でも、あの人がいれば

わたしは全てを凌駕する

……あの人を守るためなら

わたしは限りなく強くなれる

……あの人といれば


怖いものなど、何もない……







きっと、絶望の彼方へ







――侯、あなたを……信じたい







TOBECONTINUED……




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