一四二九年三月五日
ジャン・ダランソンII 記す
RETURN TO THE:00
『ジャンの日記』
――混迷。これをおいて、他にこの時代を表現する言葉があろうか。今、我が国は……いや、もはや王国などに限ること無く、我ら人間の魂そのものが深い混沌とした闇の中に在る。
はじまりは、そう『狂王』の誕生にあった。皮肉なことに、先代国王シャルル5世陛下は、『賢王』の誉も高き御仁であった。だがその後を継ぐはずの御子息、つまりシャルル6世は、精神を患い発狂。悪政を敷き、民に狂王と呼ばれるに至った。そして、全てはここからはじまった。
……精神に異状をきたした王に、政は務まらない。普通ならば、当然のこと新たなる王をたてるところなのだが、不都合なことに王の狂乱は不定期的に表面化する。狂ったと思えば、正常に戻ることもあるのだ。これでは、迂闊に王座を追うわけにもいかない。結局、当時一七歳であられた王妃イザボー様が狂王の政治を代行、つまり『摂政』を務め、その従兄筋にあたる『ブルゴーニュ公』の一族がそれを補佐することで一応の決着を見た。
だが、このような政治的調和の不均衡は、各地の有力者達の野心を触発した。当初こそ水面下での小競り合いを繰り返していた彼等であるが、それは徐々に劇化していき、やがて表面化。我が国は現体勢を維持し、戦乱を避けようとする『国王派』と、シャルル6世を王座より下ろし、新たなる王を立てようという『反国王派』の二つ割れた。
――そんな中はじまる、北の軍事大国『イングランド王国』の侵攻。彼等はフランス王国侵略のため、北海に面したノルマンディ地方より上陸。我がフランス王国軍との交戦状態に陥る。この侵攻を、こともあろうか我国の重鎮であったブルゴーニュ公家が裏で手引きしたこともあり、我らは緒戦から大敗。敗走を余儀なくされた。
特にアザンクールの会戦による打撃は大きく、この戦いで捕虜となった我らが諸侯貴族は、従来の騎士道に反したイングランド軍に大量処刑され、結果、我が国の貴族層は大部分壊滅することになった。この一連の大敗によって、各都市を守護する防壁たる貴族の存在を失った我が国は、イングランドに奥深くまで切り込まれることとなった。
一方、イングランド王国と同盟を結び王家に反旗を翻す『ブルゴーニュ派』は、狂王に代わり王家の筆頭となったその御子息である『シャルル王太子』殿下を擁する『アルマニャック(王太子)派』の拠点であり、我が国の首都でもあるパリを奇襲。
この奇襲作戦によって、王太子派の指揮を執るアルマニャック伯はブルゴーニュ派の手に落ち、王太子殿下は命からがらパリを脱出した。そして、締結される『トロワ条約』。次代より我が国の国王をイングランド王が兼任するというこの条約は、事実上、我が国の消滅を意味した。
――そして、我が国の第2都市『オルレアン』。ここが我らが王太子派の最後の拠点となった。殿下自身がこのオルレアンに身を置かれていたわけではない。ただ、この都市を制圧されれば、南北の『イングランド=ブルゴーニュ連合軍』を合流させることになる。そうなれば、戦力的にもはや我々に抗う術はない。王太子派は全滅し、名実ともに永久に我が国は消滅するだろう。
無論のことそれを知るイングランド軍は、遂にそのオルレアンの街を包囲する行動に出た。砦と化した市を守る騎士とオルレアン市民の総数一〇〇〇。その最後の抵抗も、長引く戦のため兵糧の不足により限界に近付いているという。だが、それでも今尚、彼らは戦い続けている。最後の一瞬まで奇跡を信じて勇敢に戦い続ける自分達に、やがて神の加護がもたらされるだろうと信じて。
MEDIEVAL I
「人類監視機構」
RETURN TO THE:01
『アランソン侯=ジャン二世』
風を切り……
タンッ!
矢は幹に突き刺さった。
矢を放ち、残身の体勢にあるのは、ジャン・ダランソン。パリの西に位置するアランソン侯領の領主、アランソン侯爵である。『美男侯』の誉れ高い彼は、確かに歴戦の勇士という風貌ではなく、線が細くどこか繊細な感じのする――どちらかと言えば文官タイプの人間だった。
額でやや短めに切り揃えられた前髪、すっきりとした顎筋のラインに、優しい光を湛えた瞳。体つきもほっそりとしていて、戦闘に必要最低限とされる実用的な筋肉のみで引き締められている。性格も温厚で優しく、音楽を好み、自ら奏でる弦楽器の腕前も相当なものでるとのウワサだ。母親に似た彼は、どこか中性的な雰囲気を醸し出す確かに美男侯爵であった。
だが、一度戦に出ればその強さは『鬼神』。力では及ばない部分を神技と評される巧みな剣技で補い、疾風の如く馬を駆り、その弓は狙った獲物を必ず射止める。しかし、殺しはしない。第一、彼が使用する細身の剣では相手の騎士が纏う鎧を切り裂くのは不可能。だから鎧と鎧の継ぎ目、関節などを巧みに突いて戦闘能力を奪うに止めるのだ。しかし、彼は戦いを心から嫌っていた。
――戦争は悲劇の生産でしかない。戦ったって、何も生まれない。でも戦わないと、大事なものが無くなってしまう。戦は人の命を弄ぶ。戦わないと終わらない戦。だけど、戦って終わらせてもそれは終わりじゃないんだ。
彼は誰も殺したくなかった。イングランドの兵士達にも、祖国に残してきた家族がいるのだろう。そして、彼らは自らに正義ありと信じて、或いは王の命を受けて誇りのために戦っているのだ。だから、彼らを殺したくない。
彼らが戦死すれば、祖国にいる家族はきっと哀しむだろう。父が戦場に倒れた時、母がまさにそうだったから。しかし、今戦わなくては我々の祖国は消滅する。祖国の民が殺される。大事なものを守るために、他の人の大事なものを奪う。それが――
打起した弓を、発射直前の矢束まで引き絞る。ギリギリと軋みを立てて撓る弓。が、『伸合』が甘い。離。放たれる矢。風を切り――
「それが、唯一の道なのか?」
矢は標的から逸れて、また幹に突き刺さった。
RETURN TO THE:02
『リジュ卿』
「どうした、アランソン侯。二度も連続して外すなど、貴侯らしくもない」
僕は、ソーミュール近郊にあるサン=フロランと言う場所にいた。鶉狩りの戦果を上げた後、散策の途中で弓の練習をしていると、騎士風の男が傍らに寄ってきた。壮年の男性で、顎には不精髭が目立つ。騎士風とは言ったが、帯剣しているだけで甲冑の類は装備してはいない。軽装だ。
「――リジュ卿」
彼は、僕の母ミシェル・マリーの実弟。すなわち、僕の叔父上であり、アランソン流の剣術の教授をはじめとする、兵士としての恩師でもある。僕ほど華奢ではないが、引き締まった細身の長身。だが、その装備の下には鍛え上げられた戦士の体躯がある。長い戦場での生活で長く伸びた髪を後ろで束ね、無精ひげを伸ばしたままの少し面長の口元に、いつも微笑みを浮かべている、優しさと強さを兼ね備えた戦士だ。
「――迷いか」
彼は僕の横に並ぶと、呟くようにそう言った。
「はい」僕は汗を拭いながら言った。二度続けて弓を外したのは、一四歳のとき戦場に出て以来初めてのことだ。それは、心の中を支配する不安や不満、恐怖、そして迷いのせいに他ならない。
「僕の中に、はっきりと迷いが存在するのが分かります」
「……そうか」リジュ卿は、素っ気なくそう言った。こんなとき、下手に何か言われるよりその方がありがたい。きっと、彼には僕の悩みがなんであるのか、良く分かっていたのだろう。彼もまた戦士であり、彼もまた男であるから。
「オレにも、その答えは見えぬ。だが……」
その声に、僕は彼の横顔に目を向けた。
「人はその一生の内、選ばねばならない時がある。苦渋の選択ではあるが、本当に大切なものに、優先する順位を付けなくてはならない時がある。――今は、そう考えている」
「大切なものに優先する順位……」
自分の祖国と、相手の祖国。自分の家族と、敵兵士の家族。どちらを取り、どちらを犠牲にするか、選べというのか。だが、そこでやり取りされるのは掛替えのない『命』そのものなのだ。
「それはそうと、シノンへ行かないか?」
リジュ卿は唐突に話題を変えた。この人はいつもこうだ。重たくなった空気を、払拭するつもりもあったのだろう。
「シノン? 確かあそこには、今、王太子殿下が逗留しておられる――」
「そうだ。だが、王太子よりももっと面白いものにお目にかかれるかもしれん」
「――?」なかなか見えてこない話に、僕は首を捻った。
「いま、シノンにひとりの少女が現れたとの報せが入った」
「少女?」
「ああ」リジュ卿は面白そうに笑う。
「なんでも、自らを乙女と名乗り、我が国を救ってみせると言っているそうだ」
「は……?」
自分でも随分と間の抜けた声を出して、呆けてしまう。だが、無理もない話だった。いや、無理な話と言うべきか。とにかく、晴天の霹靂である。
「フッ。君は、期待通りの反応を示してくれるから面白い」
僕の惚けたような反応を見て、彼は面白そうに笑った。
「彼女は、ドン・レミだとかいう、東の果ての辺境の村から出てきた羊飼いの娘さ。本人は、主の声を聞いて、そのお告げを果たす為に王太子の御許まで訪れたと言っている。……まだ十代の若い娘だよ。君とそう変わらんだろう」
この戦乱と絶望の世。敗色も濃厚となった今、我が国の民が縋れるのは、確かにもはや神くらいしかいない。故に、神の声を聞いたとか天使の命を受けたとかのたまう人間は、然して珍しいものではなくなっている。尤も、誰もそんな戯言は信じはしないが。
「……それで、ピュセルとは?」
何故自らを乙女と名乗るのか、僕には不思議に思えた。そんなことは全くの意味を成さない。
「うむ。それが、どうやらそのままの意味らしいんだ」
少し神妙な顔つきでリジュ卿は言った。
「そのままの意味とは?」
「信じられないことに、彼女は本当に乙女なんだそうだ。生娘、純潔の少女なんだよ」
リジュ卿は、チラと僕に一瞥くれると続けた。
「今時そんなことはありえまいと考えた王太子は――まぁ、誰でもそう思うだろうが――貴婦人たちに命じて、本当に彼女が乙女、つまり処女であるかどうか調べさせたのだが……」
チラチラと悪戯っぽい目で僕の反応を窺いながら、リジュ卿は続ける。
「立ち会った貴婦人達は、彼女が如何なる意味においても純潔あると保証しているそうだ」
「……本当ですか?」
ちょっと信じられない話だ。今の混沌とした世の中、秩序や倫理観などは当に崩壊して久しい。若者達が夜な夜な年頃の女性がいる家に押しかけ、無理矢理にでも輪姦するなどといった、許されざることが当然の如く日常的に行われていた。大体若い男性の二人に一人がそういったことに荷担しているのが現状だという。
貞淑さの模範とされる女子修道院でさえ、ところによっては娼館もかくやと思わせる乱れぶりらしい。女性の場合、子供を産める身体――大体一四〜一五歳あたりになると、大人の女性と見なされ、婚姻を考える。こういった状況下で、二〇歳近い女性が未だ純潔であることは奇跡。本当に驚嘆すべき事実だ。そのピュセルを名乗る女性以外では、多分、国中探しても存在しないのではなかろうか?
「しかもその娘、些か変わった風貌をしてはいるが、絶世の美女なのだそうだよ。それで乙女であるなどとは、確かに俄かに信じられないことだな」
「……そうですね」僕はよく分からないまま、そう相槌を打った。
「どうかな、彼女に会いに行ってみては、侯。君の心に渦巻く迷いに対する何かが得られるかもしれないぞ」
「――この迷いを吹っ切れると?」
「さあ、それは分からない」叔父は、肩をすくめて言った。
「だが、彼女の行く末を見届けることで、何か得るものがあるかもしれない。そう思っただけさ。まぁ、これはなんの保証も信憑性もない、オレの勝手な勘だがな」
リジュ卿は良く晴れた空を仰いだ。
「――それに正直言えば、オレ自身も行ってみたいんだよ。そのラ・ピュセルなる、絶世の美少女を一度拝んでみたいのさ。男ってのは、幾つになってもミステリアスな女に惹かれるものだからな」
そう言って、リジュ卿は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。この人には、こういうおどけたような仕種が妙によく似合う。憎めない人だ。どこまで真剣で、どこまで戯れているのか分からない。飄々としていて、雲のように掴み所がないのだ。
「……分かりましたよ」
積極的に乗り気というわけではなかったが、ピュセルという少女の言葉に興味を覚えるのも事実。
「では早々に出発致しましょう。明日にはシノンへ」
「ああ。行こう、シノンへ――」
RETURN TO THE:03
『妖精の集う泉の木の下で』
国の東端、神聖ローマ帝国との国境に程近いロレーヌ地方の外れに、その村はある。ドン・レミの村。50戸ほどの小さな小さな農村である。その昔、妖精たちが集ったと言う大きなブナの木があるその村の、ある羊飼いの家に、蒼銀の髪と血の色をした悪魔の瞳を持つ彼女は生まれた。
名をジャンヌ。後に我々が『ラ・ピュセル』と呼ぶこととなる聖女、その人である。父の名はジャック。母の名はイザボー。他に兄が三人と、年子の妹が一人いた。
そして、彼女の父ジャックには、予感したり夢で見たことが現実になることがあるいう、不思議な力があったという。その不思議な能力は、娘のジャンヌに一際強く受け継がれていた。
ピュセルの一家は、ドン・レミの村では比較的裕福な方で、父が村で指導者的な役割を担っていたこともあり、村中に限定すれば有力者であったと言える。彼女がこの荒廃した社会で、一七歳という既に立派な女性として扱われる年齢にありながら、奇跡的に純潔を保っていられたのは、これによるところが大きい。
しかもラ・ピュセルの両親が、彼女が一三歳の時には既に婚約者を定めていたことも大きな要因であった。――が、当の本人には全く婚姻の意識などはなく、後に彼女の意向によりその婚約はあっさりと破棄されたらしい。彼女が両親の言い付けに逆らったのは、この時が最初で最後であったという。村でも群を抜くその美しい婚約者を逃したその若者が、婚約破棄に憤怒して事が裁判沙汰にまで至ったのはまた別の話だ。
また、ラ・ピュセルの一家は揃って信心深く、敬虔なキリストの信者であった。彼女本人もよく教会に通い、あまりの熱心な信仰ぶりに度々村で噂になるほどであったと言う。彼女は実家と隣接している教会の神父に公教要理や、聖書の内容を詳しく説き聞かされた。聡明な彼女は、その内容を完璧に暗唱できたという。ただ、平民は男女とも文字を教えられるという習慣はなかったので、彼女もまた読み書きを学んだことは無かった。
彼女は寡黙ではあったが、よく働き、普通の女の子がするように花を摘んだり、躍ったりして育った。だが、その容姿のせいで友人はおらず、いつも独りきりで遊んでいたらしい。彼女はよく家事を手伝い、麻布を縫ったり糸を紡ぐことに至っては村で評判になるほど上手だった。時には家畜の番をすることすらあったという。
そして、ピュセルは何より歌が好きだった。彼女とともに育った子供たちやその親は、彼女が、「妖精の集った」と言われる泉の辺にあるブナの巨木の木陰で、ひとり静かに歌っているのをよく見かけたという。
そんなピュセルの住まうドン・レミの村は、熱狂的な『王太子派』――即ち、国王派だった。対して、少し北にある村は『イングランド=ブルゴーニュ派』――即ち、反国王派で、イングランド軍の守備兵が駐屯していたほどだった。こうした複雑な勢力分布の背景から、ドン・レミの村人がブルゴーニュ派の村と刃を交え負傷して帰還するなどということが度々あったと言う。彼女が育ったのは田舎の村ではあったが、世は確かに乱世であったのだ。
――彼女が一三歳の時、最初の異変は訪れた。家の庭で鶏に餌をやっていると、不意に、不思議な <声> を聞いたのである。
「行いを正しくもち、我声に従うべし」
その声は最初、そのようなことを言った。当然、彼女は何のことやら分からず、恐怖にも似た感情を抱いた。結局彼女は、前日の『断食の行』の疲労のせいで聞こえた、幻聴の類だと思い込むことでその件を処理した。
しかし、その声は定期的に聞こえてくるようになった。やがて、日が経つ内にその声は徐々に強くなり、声だけではなく天使や聖女たちの姿をとって彼女の前に現れた。最早それは、幻視幻聴で済ませられる範囲を逸脱するに至っていた。
「剣を取れ。主の勅命に従い、剣を取れ」
そして、その声の命は徐々に具体性を持ちはじめた。
「男の衣を纏いて、戦地へ赴け」
彼女は、その命の無謀さに泣いて許しを乞うたと言う。どうして、たかが村娘ひとりに戦況が動かせましょうか――と。
だが、声は言う。
「王太子の元へ赴き、此の者を戴冠させ、王国を取り戻せ」
彼女は声に問うた。なぜ、自分ではならないのかと。
「主命に従う時 汝に主の加護あり。汝を他おいて、国を救うる者なし」
そして、この言葉で彼女は決意を固めた。その言葉はこうであったという。
「汝、神に選ばれし者也」
――時に一四二八年。彼女が最初の声を聞いてから、三年後のことだった。
RETURN TO THE:04
『もし、すべてが刹那からはじまるのならば』
ヴォークルールの城へと蛇行して続く坂道を、ひとりの少女が軽やかに駆けて行く。赤いスカートを靡かせゆく彼女の質素な身なりだけを見れば、ただの平民であることは明らかだ。だが、その透けるような白い肌、冬の日の光を浴びて煌く蒼銀の髪、そして、なにものにも揺るがぬ決意を秘めた真紅の瞳。その凛とした表情と、彼女の纏う気品ある雰囲気はとてもただの村娘とは思えぬものがあった。
冬ざれの城へと続く坂の遥か右下には、日に煌く川面。彼女は、その川沿いを南に二〇キロほど下った、ドン・レミという村から訪れた。彼女が叔父とともに初めてこの坂を登ったのは、去年の五月のことだ。今はもう二月。半年を越える月日の内に、この坂道をもう幾度と無く登った。だが、その度に門前払いをくらう。
――それも当然かもしれない。彼女はそう考える。何故なら、自分は本来『城主』に面会を申し出ることができるような身分ではない、ただの羊飼いの娘なのだから。だが、何度追い返されようと諦めるわけにはいかない。そう。自分は、主命により救国の戦士として選ばれた――『ピュセル』なのだから。
天使は言った。
「剣を取り、戦場へ赴け」と。聖女は言った。
「この国を絶望の彼方へ導くことができるのは、ただひとり、この乙女だけである」と。だから、迷いはもうない。主を信じ、声の命ずるまま、何度でもこの坂を登る。
その坂の角度が急になり、突然に頂上は現れる。眼前に聳えるのは、砦とも言えるくらいの小規模ではあるが強固な守りを誇るヴォークルール城の城門。彼女の姿を見受けると、門番は何時ものように厳つい槍をもって追い返す代わりに、慌てふためいて城内へ駆け込んでいった。やがて城門が開かれ、城主『ローベル・ド・ボードリクール』の小姓が姿を現した。
「ドン・レミの娘だな。ボードリクール様が謁見を許された。入られよ」
少女は一瞬柔らかに目を細めると、宮廷でも滅多にお目にかかれないほどの優雅な礼を披露した。そして、なんの迷いもなく城門を潜ったのである。
ドン・レミの村ほどではないが、このヴォークルールもそう大きな町であるとは言えない。天からの <声> に従い、故郷を後にしてヴォークルールに訪れたラ・ピュセルの噂は、彼女の絶世と冠される美しい容姿も手伝って、ヴォークルール全域に熱病のような早さで瞬く間に伝わった。
――オルレアンの囲みを解きて王太子を伴い
此れを戴冠せしむるため其の元へ赴くなりと唱うるピュセルなる者
野に立ち、一陣の聖風となりて、我等解き放てり
王太子派であるヴォークルールには、一種のピュセル・ブームが巻き起こった。彼女と随伴する叔父に、無償で宿を提供するものも現れたくらいだった。当然ながら城下の民がそれだけ騒ぎはじめると、守備隊長ボードリクールもこれまでのように、噂のラ・ピュセルを城門前で無碍に追い返すわけにもいかない。かくして、彼女はその城門を潜ることを許されたのである。
だが、王太子のいる『シノン』は国の西端に近い。早い話が、まるっきり国の反対側にあるのだ。東端に位置するヴォークルールからシノンへ赴くには国土を横断することになる。直線距離にしておよそ四五〇KM。その道のりはまだまだ長く険しい。
「――ピュセルを名乗る娘よ」
そう言って城代ボードリクールは、複雑な心境でその少女を見つめた。
「お前は本当にオルレアンを周囲するイングランド軍を殲滅し、この国を救うつもりか?」
「はい」ピュセルは、なんの迷いもなくそう答えた。
ボードリクールが直にこの少女と顔を会わせるのは、今回が二回目だ。前回、初めて会った時この娘は確かに『この国を救えるのは自分をおいて他にない』と言い切った。
「娘よ。そなたは、前回私と会った時こう言った。我軍はオルレアン近くでまた敗するであろうと」
「……はい」
「その数日後、私のもとへ報せが入った。オルレアンを囲うイングランド軍への補給部隊を殲滅せんと向かった我軍が敗戦したと」
偶然と解釈することもできる。だが、そう解釈することを許さない流れが街中に蔓延していた。この少女は、後に『鰊の敗戦』と呼ばれるこの負け戦を予測――いや、予知したのだ、と。(ラ・ピュセル……。この娘は、本当に神から遣わされた者なのか?)
ボードリクールが今日ラ・ピュセルを呼び出したのは、そのことがあったからだ。
「――左様ですか」
ピュセルは素っ気無かった。予知が的中しというボードリクールの宣言を、気にも留める風もない。そもそも、この娘は、必要最低限の言葉しか発さない。まるで任務に当たる兵士のように。
「だが、仮にそなたがこの件を見事予知してみせたと認めはしても、所詮、国を救うのは兵士の働きだ。民、しかも女の成せることではない」
ボードリクールの言い分も尤もである。少女ひとりが戦場に出たからといって戦況が変えられるなら、なにも苦労はない。
「できることならば……私も故郷の村で糸を紡ぎ、麻布を縫って静かに暮らしたいと願っています」
「では、何故にこのようなことを申す?」
「主が、それを望んでおられるからです」
この半年の間、ボードリクールの胸中は複雑だった。最初にこの娘が現れた時はまったく気にも留めず、随行してきた叔父共々さっさと追い返せと命じた。だが、やがてこのラ・ピュセルの噂が町中に広がりはじめた。彼女の真摯な姿勢が、民を動かしたのである。その勢いは、ピュセルに宿を提供したロワイエ夫妻を中心にますます加速していった。あまつさえ、ボードリクールを腰抜け呼ばわりする声も挙がりはじめたのである。
ここにきてようやくボードリクールはラ・ピュセルのことを検討しはじめた。いや、そうせざるを得なくなったのである。そうなると、最初に懸念しなければならないのは、彼女が神の名を語った『魔女』の類ではないか、と言うことである。信じられないことかもしれないが、この中世の世の中では魔法や悪魔、神の存在が現実に信じられていた。ボードリクールも、御多分に漏れずそういった超自然の存在を畏怖する男である。
これについてボークリクールは、彼女の宿泊先に司祭を訪問させ正式な告解(カトリックの儀式)を行わせるという手段を採った。もし彼女が魔女の類だとすれば、これに耐え切れず本性を現すか逃げ出すかするはずである。ところが、敬虔な『ラ・ピュセル』はこのヴォークルールにいる間、頻繁に教会を訪れていた。既にこの司祭ともすっかり顔見知りであったのだ。
ラ・ピュセルは、首をかしげてこう言ったという。
「今更突然、何でしょう。司祭様の祝福ならば既に受けたことがあるのに……」
問題はあっさり解決。この報告を受けた時、ボードリクールはその胸を決した。観念したと言い換えても良い。
しかし、ボードリクールはそれでも訊かずにはいられなかった。
「ラ・ピュセル。そなたは本当に自分がこの国を救えると思っているのか」
「……はい」
様々な色を湛えたボードリクールの瞳を見据えたまま、ラ・ピュセルはしっかりとそう答えた。
「……閣下。私はこの4旬節の第3木曜日(二月一三日)までにシノンへ赴き、王太子殿下にお会いしなければならないのです」
「――相分かった。ならば行くがいい、娘よ。シノンへ行き、王太子殿下にお会いするがいい。もう、なるようにしかなるまいよ。もし、お前が真に神の使いであるのならば、どうかこの国を救ってくれ」
「一命に代えましても」
実は、この時点でボードリクールはシノンへ使いをやっていた。ラ・ピュセルと名乗る少女が出現したと。返ってきた返事は、とりあえずの入国(王家のいる街は一種の国と見なされる)許可であった。かくして、ピュセルには護衛の為の四人の従士と、王の伝令使――近道や、抜け道などシノンまでの地理に精通している案内人――が一人の、計五人の従者が用意された。
――一四二九年二月二二日、ヴォークルール城の中庭に七つの人影はあった。城代ボードリクールと、ラ・ピュセル一行である。ボートリクールは、旅のはなむけとして一振りの剣をラ・ピュセルに贈呈した。
そして彼らが其々手短に挨拶を交わし合うと、シノンへと続く城門は開かれた。シノンへは国土をほぼ横断する必要がある。イングランド=ブルゴーニュ連合の支配地、即ち敵地の中を突っ切らなければならないのだ。そもそも、ドン・レミの村やこのヴォークルールの属するロレーヌ地方自体が、イングランド=ブルゴーニュ派である。一歩外に出れば、其処は既に敵地。敵の目に触れぬよう、夜道を音を忍ばせて行かねばならない。考えなくとも、その行程が危険を孕んだものになるということは明らかである。
特にラ・ピュセルは一度も旅などを経験したことのない一七歳の普通の女の子なのだ。ボードリクールは、城門まで出てラ・ピュセル一行を見送った。ラ・ピュセルは馬上から振り向いて一度会釈すると、もう振りかえることは無かった。やがて遠ざかる蹄の音も聞こえなくなる。――少女が、故郷へ続くこの城門に帰ってくることは二度と無かった。
RETURN TO THE:05
『その手の質問』
「……以上が、ラ・ピュセルが旅立つまでの顛末さ」
「成る程」
王太子が無実有名の『臨時政府』を設置しているシノンへ約半日の距離にある街道を、馬上の一団が厳かに行軍する。アランソン侯の領主、ジャン・ダランソンと、その叔父リジュ卿を筆頭とする総勢40の騎士隊である。
アランソン侯が狩りの途中、リジュ卿からラ・ピュセル出現の報せをもたらされたその翌日、彼女の巻き起こした熱狂をこの目で確認する為、彼らは一路シノンへ向かっていた。まあ言ってしまえば野次馬である。
「……しかし、城代が腰を上げるまで半年もかかったのですか」
先頭を行くアランソン侯がすこし眉をひそめて言った。幾ら突飛な話とは言え、謁見を求める者に対して半年もの間明確な結論を出さなかったのは、彼にしてみれば些か良識に欠ける。
「いや、何もヴォークルールの守備隊長ボードリクールが無能だったわけではない。むしろ、あの男はかなり優秀だよ」
「しかし、早々に真偽を確認して、然るべき対処をするのが彼の任務でしょう」
「まあ、そう言わずに」あくまで生真面目な甥に、リジュ卿は苦笑した。
「第一、『ブルゴーニュ派』に属するロレーヌ地方にあって、ヴォークルールは唯一『国王派』に属している。言わば四方八方を敵に囲まれているわけだ。その守備隊の責任者であるボードリクールには、多大なプレッシャーがあったのだろうさ」
諭すようにリジュ卿は言った。
「それは分かりますが――」候はそれでも得心がいかないらしい。
「実際、様々な政治・外交的要素を考慮した場合、彼の採った行動は間違いではなかったとオレは思うぞ?」
「……それはいいとして、その後ラ・ピュセルはどういう行程を辿ったのですか?」
信頼を寄せているリジュ卿の言葉に一応の納得を示して、アランソン侯は話題を変えた。
「ふむ」リジュ卿は不精髭を撫でると、口を開いた。
「彼らの旅の行程は決して楽なものではなかった。それも当然、敵の真っ只中を突っ切るんだからな」
「行軍はやはり夜間だけですか?」
「ああ。敵に気付かれたらまぁ、それで一巻の終わりだからな。彼女は目立たぬように『男装』して、夜間に蹄の音を抑えつつ旅したようだ」
「訓練も受けていないただの民間人の……しかも少女には大変な旅立ったでしょうね」
その苦労を思い、アランソン侯は気の毒そうにそう言った。
「それだけじゃない。彼女は男五人の中の紅一点だったんだ。しかも、青い髪と赤い目をしてはいるが、彼らにとってはもう二度とお目にかかれないくらいの絶世の美女だ。まぁ、ちゃんとした誇りを持つ騎士見習いを除いては、スキあらば彼女を襲おうと考えていたようだ」
リジュ卿の言葉に、アランソン侯は眉間に皺を寄せ、険しい表情をする。力において、どうしても弱者に回る婦女子を暴力から守護するのが、男としての務めと心する彼にとって、そういった騎士道に反する行為は許すまじき暴挙であった。
「では、やはり彼女は……?」
ふつふつと湧き起こる怒りを感じながら、アランソン侯は訊いた。カトリックの教えが国民の思想の基盤に在る中、神の使いを女性が名乗るのならば、心身ともに『純潔』であることが最低限求められる。もし旅の行程で従者、もしくは敵の兵士に彼女が襲われたとすれば、彼女がいくら御前で『主の使い』であることを主張してみても一蹴されるだけだ。
「フッ。忘れたのかい、侯。オレは最初にシノンの宮廷婦人たちが彼女の純潔を確認したと言ったはずだ」
「あっ……?」
確かに、彼はリジュ卿によって齎されたその情報に興味を引かれたのだった。
「では……?」
「ああ。彼女は無事だよ。――それも、ちょっと面白い事情でね」
「面白い事情、ですか」
「うむ」リジュ卿は楽しそうに首肯する。
「さっきも言った通り、彼女と共に旅路を共にした男のほとんどが、彼女にそういう欲求を抱いていたそうだ。……旅の当初はな。だが、彼らの旅路は常に敵との遭遇という危険性を孕んだものだった。だから、常に緊張していなければならない。正直、それどころじゃなかったということもあるが……
その辛い旅の間、不安と緊張に潰されかけた従者を叱咤激励して支えたのが、なんと訓練も受けていない、初めて旅というものを経験することになったピュセル本人だったんだそうだ。――そう。彼らもまた、彼女に感銘を受けたのさ」
唇の端を持ち上げて、リジュ卿はアランソン侯の反応を覗う。彼の予想した通り、アランソン侯はその事実に唖然とした表情をしていた。それを見て、リジュ卿はクックと声を出さずに忍び笑いする。彼は上機嫌で続けた。
「それに彼らはこうも言っている。『我々は、ピュセルの言葉と――私たち俗人に言わせれば、彼女の持つ何か神秘的な力とで、何故か彼女に対する無粋な衝動は、本人の目の前に出ると不思議と消え失せた』とね。……オレからすれば、とても信じられない話だが。――ま、少なくとも、彼らにとってラ・ピュセルという名の少女は、弱点や欠点も無く、模範的な信仰と慈愛を兼ね備えた畏れ多い女性だったということらしい。……どうだ、面白いと思わないか?」
アランソン侯は、何かを考え込んでいるような様子でしばらく何も口にしなかった。
「なんにせよ、彼女たちは一〇日に及ぶ旅を無事終えて、先週の金曜日、三月四日の昼ごろシノンに到着したという話だ。当然シノンにもラ・ピュセルの噂は届いていたから、彼女が到着した日にはかなりの騒ぎになったらしい」
リジュ卿は一旦言葉を切ると、再び顎の不精髭を撫でた。
「――しかし、大きな山や谷こそないが、セーヌ川の上流を筆頭に九つの名だたる河を越え、昼は廃屋や修道院、教会なんかに身を潜め、夜の闇に紛れながら、国土を一〇日という短時間で横断してきたんだ。これは、かなりの早さといえる。どうやら彼女の道先案内人、伝令使のコレ・ド・ヴィエンヌという男は、余程優秀だったらしいな」
「……そうですね」
「それから二日後、つまり今日だな。彼女はついに王太子殿下と御対面という運びになるはずだ。そうだな。もう夕暮れだしちょうど今頃、謁見しているんじゃないか?」
「でも、安息日(日曜日)の日没からの謁見とは……随分と遅い時間帯ですね」
シノン一帯のこの時期の日没はだいたい18:30前後である。それを考慮すれば、現時刻――19:00くらいだと、普通は床に就く前に夕食を取って、沐浴でもしようかという時間である。
「フッ……。あの王太子はラ・ピュセルの道連れと同じ腹積もりなのさ」
リジュ卿の唇は何時ものように笑みを湛えてはいるが、目はそうではない。
「では、まさか……?」
彼のその表情に、はっとしたようにアランソン侯は小さな叫びをあげた。
「ああ。未だ純潔を保っている一七歳の――それも変り種の絶世の美少女。王太子は彼女を、側室にでもしようと考えてるのだろう」
「……なんてことを」アランソン侯の抑えた声には、明らかに怒気が含まれていた。
「まあ、そう心配することもないさ。オレの予測では王太子の思惑通りにはことは運ばない」
「どういうことですか?」若き候は、その意味を測りかねて首を捻る。
「オレの手にしている情報を総合する限り、ラ・ピュセルという名の少女は、王太子風情の男がどうこうできるほど安くはないってことさ」
何故一介の騎士に過ぎないリジュ卿(彼も一応、伯爵位をもった貴族ではある)が、ここまで詳細な情報を知っていて、しかも王家の意向にまで通じているのか。その理由をアランソン侯自身も、そう詳しくは知らない。が、リジュ卿が王家直々の命を受け秘密裏に諜報活動を行っていると見当を付けている。
そして、それは全くの外れではなかった。伝令よりも早く、そして正確な情報を提供してくれるリジュ卿に、その情報の出所を問いただしたことも数度ではない。だがその度に、『その手の質問には答えかねる』と笑って話を濁された。
そんな謎多きリジュ卿ではあるが、彼に関する事でただ一つだけ確かなことがある。それは、リジュ卿という男が、地上最強の剣士であることだ。アランソン侯は、彼の情報収集能力と、剣技、そして司令官としての指揮能力を敵に回すくらいなら一〇〇騎の機甲師団を相手にすることを選ぶだろう。それは彼に与えられた異名も証明している。即ち――剣匠。戦場でその名を聞き、震えあがらない兵士はいない。
RETURN TO THE:06
『アランソン侯、怪しい男と出会う』
国土を東西に貫くように走り、王国を南北に分かつ大河、ロワール川。王太子が臨時政府を構えるシノンは、そのロワール川の支流、ヴィエンヌ川沿いにある街だ。僕たちが、シノンの街に着いたのは、その日――つまりラ・ピュセルが王太子殿下に謁見を許された日曜日の夜中のことだった。
当然、街は既に寝静まっている。僕は外門で夜を徹した番をしている兵士に身分を告げると、町の中に馬を進めた。僕、アランソン侯は何故か結構顔が知られているらしいので、侯証を見せるまでも無く顔パスであっさりと通されたのだ。リジュ卿は、「さすがは美男侯だな」と言って笑ってみせていたが、よく意味は分からない。
「アランソン侯。侯の身分ならこれから城内に入ることも出来るが、一応、城下に宿を用意させてもある。どうする?」
石畳に響く蹄の音を最低限に抑えながら、リジュ卿が言った。
確かに僕は、王太子殿下から信頼を寄せていただいているようだ。血筋もそこそこ近いし、幼少の頃王太子殿下と一緒に育ったこともあり、王太子殿下の御子息の代父として殿下より直々に指名しても頂いている。リジュ卿の言う通り、多少の我が侭なら殿下から許されてはいるが――
「今から城内に入れば、兵士や小姓に余計な手間をかけます。時間も遅いし、ここは城下の宿で一泊することにしましょう」
「君ならそう言うと思ったよ」
リジュ卿は、苦笑いにも似た笑みを浮かべながら言った。
「それはそうと。ピュセルの謁見許可は、何故シノンに到着してから二日もたってからしか下りなかったのでしょうね?」
「ん、それか。まぁ、パターンとしてはヴォークルールと同じさ。この二日間の内に司祭やら神父やらが彼女の宿に次々と訪れラ・ピュセルを徹底的に調べ上げたんだ。だが、謁見許可がおりる決定打となったのは、ヴォークルールの守備隊長、ボードリクールが送ってきた推薦状だろうな」
「ボードリクール卿の推薦状?」
少し意外な気がした。あれほど腰の重かったボードリクール殿が、まさか推薦状まで送ってくるとは。
「ああ。言ったろう? 彼は優秀だと。あの男から信頼を勝ち取るのは難しくはあるが、一度彼から信用を得ればとことん面倒を見てくれる。そういう男なのさ。ボードリクールという男は」
叔父の慧眼に、僕はただ沈黙するしかなかった。
「それで、肝腎の謁見の方だが」
「どうなったか知ってるんですか?」
「ん、まあな」
「でも、一体どうやって?」
これには流石に驚きを隠せなかった。リジュ卿は、一日中僕と一緒にいたし、伝令や使者とも接触した様子はない。なのにどうやって本日シノンで起こったことを知り得たのだろうか?
ほとんどリアルタイムで情報を得ることができなければ、謁見がどうなったかなど分かるはずもないのだ。
「情報の出所については答えかねるが、とにかく、謁見の方はほぼラ・ピュセルの思惑通りに進んだと言っていいだろう」
「ラ・ピュセルの思惑通り、ですか」
あまりに抽象的なので、いまいち意味が分からない。
「なかなか面白いぞ、これがまた。彼女は二〇〇騎強の騎士に出迎えられ、ヴァンドーム伯爵により城の大広間に導かれた。勿論、大広間には溢れんばかりの貴族、貴婦人、宮廷使い等々がラ・ピュセルを一目見ようと待機していた。一介の羊飼いの少女に精神的プレッシャーをかけようという王太子側の思惑も勿論あったのだろうがね」
そう言って、リジュ卿は肩を竦める。
「まぁ、考えてもみてくれ。彼女の故郷の村ドン・レミには二二〇前後の人間しかいない。それを上回る数の人間が一同に集う場所で、しかも、国の頂点に立つ王太子殿下の前にたった一人で放り出されたんだ」
「分かります。一応貴族として宮廷作法を叩き込まれた僕でさえ、はじめて先王との謁見を許され、御前に出た時には震えが止まらなくて、まともに口も利けませんでしたから」
この話はもう随分前のことになるが、今でも大勢の前に出たりする時には緊張で身体が震えることはある。
「こう言っては失礼だが、君は些か気が小さいところがあるからな」
「いいんですよ。本当のことですから」
「まぁとにかく、そんな周りの思惑とは裏腹に、実に堂々とした態度で彼女は謁見に臨んだそうだ。最初に殿下は名前を訊ねた。それに対する彼女の答えはこうだ。いとも貴き王太子殿下。貴方様と王国とをお救い申し上げるべく、主より遣わされし者 <ラ・ピュセル> と申します、とね。その後、彼女は本人しか知り得ない王太子の秘密を告げたという。それが何なのかは分からないが、とにかく殿下の興味を引くことには成功した。結局、彼女はシノン城内の一室を与えられ、小姓も付けられたそうだよ」
「そうですか」
なんとも信じ難い話だ。だが、出所不明ではあるがリジュ卿の情報は確実である。
「どうだ。ますます興味が湧いてきただろう?」
リジュ卿は、お得意の悪戯っぽい笑みを浮かべて訊ねてきた。
「ええ。明日が待ち遠しいです」
結局、宿に到着し一度は床に就いたものの、僕はどうしても寝付けなかった。仕様が無く、皆を起こさないように注意を払いながら宿を抜け出すと、月明かりの中、ヴィエンヌ川の河原に足を運んだ。
ぼくの頭の中を様々な思いや悩み、疑問が渦巻く。この戦乱の世、戦は人の命を弄ぶ。いや、正確には戦そのものに責任があるのではなく、戦を生み出す人の性に問題があるんだ。だから、戦そのものを否定してもそれは意味がない。戦を生み出す心は、また別の形を持って問題を引き起こすだろう。
破壊の欲求、殺戮の快感、これらの本能的欲求を包み込み、昇華させなくちゃいけないんだ。そう、喩えるなら、この河の流れのように。自然に、全てを流れるように受け止めて、もっと大きな海の彼方へ流し込まなくちゃいけないんだ。
遍く全ての闇を包み込む、全ての負の力を凌駕する力……。どこにいけば、それが見つかるんだ。どこにいけば、それを手に入れることができるんだ。
未だ見ぬ、ラ・ピュセル。彼女がその答えを僕に導いてくれるのか。
リジュ卿の声が脳裏に蘇る。彼女の行く末を見届けることで、何か得るものがある――
では、その何かが、求める答えなのか?
僕は朝焼け広がる空を見上げた。河のせせらぎが耳に心地良い。
不意に、何処からか歌が聞こえてきた。日が昇りはじめ、周りが明るくなってきたことで、僕は自分の立つ場所の直ぐ傍らに小さな岩山があることに気が付いた。
二〇代の半ばから後半。それでいて少年を思わせる雰囲気を宿した青年の姿が、そこにはあった。どうやら、歌声は彼のものであったらしい。朝日を受けて煌く川面を見詰めているせいで顔を覗うことはできないが、服装からいって男性であることには間違いないようだった。
「朝焼けはいいね」
「えっ」彼は僕に気付いているのか、誰とはなく呟くように言った。
「どんな名画もこの朝焼けを表現しきれない。この大地に生きる全ての生物に与えられた、奇跡の芸術だよ」
そこで彼は言葉を切ると、ゆっくりと僕を振り向いた。
「そう感じないか、碇シンジ君」
「あの、人間違いでは」
「失礼。まだ君は一巡目だったね。僕は恐らく二巡目があると思っているのだが。とすれば、僕はまだ君をアランソン侯とお呼びするべきだったかな」
「僕の名を?」
意味の分からないことを並べ立て目を白黒させているうち、不意に自分の名が出てきたことには素直に驚かされた。あるいは先王シャルル六世のように発狂した人間と遭遇してしまったのかと危惧しはじめていた矢先である。
「美男侯といえば知らぬ者はいないさ。失礼だが、君はもうすこし自分の立場を知った方が良いと思うよ」
「そう、かな……?」
正直、困惑していた。初対面の人にこうまで気安く話しかけられるなど初めてのことだ。侯爵という身分であることもあってか、なにかと遠慮して親しくしてくれる人は少ない。表裏無く付き合ってくれる人といえば、親兄弟とロンギヌス隊の面々、それに叔父のリジュ卿くらいのものだ。
「そうだよ。君の名を口ずさみ頬を染める女性は数多い。それを自覚していないとは勿体ない話さ」
「あの、貴方は」
「アルテュール。ブルターニュのアルテュールさ。以後お見知りおきを」
「もしかして、モンフォール家のパルトネ卿――リッシュモン伯爵ですか」
「そう、そんな風に呼ばれることもあるね」
風向きを聞かれたかのように、彼は涼しげな表情でこともなげに言う。
だがそれは、王太子軍最高司令官の名だった。数年前、宮廷闘争の煽りを受けて政治的にこそ失脚したとの話を聞いていたが、現在でも軍人として活躍し、いまなお各方面に多大な影響力を持つブルターニュ公国の大貴族である。西部に広がる広大な領地と経済力、軍事力、経済力とを考え合わせれば、恐らくシャルル殿下より強大な力をもつ人物だ。
「知らぬこととは言えご無礼をお許しください」慌てて頭を下げた。「しかし、どうしてリッシュモン大元帥がこんなところに」
「君にはそんな姿勢で向き合って欲しくはないな。畏まった言葉遣いも無用だよ」
彼は少し悲し気に眉を顰めて言った。
またもわけの分からない言いがかりに、こちらはますます混乱するばかりである。
「カヲル。君にはやはり、こう呼ばれるべきだ」
「カヲ、ル……」慣れない発音を一語一語気を遣いながら口にする。
「遠い異国の言葉さ。しかし今は、それを求めるべきではないのかもしれないね。すまない。やはり元帥で構わないよ、今は」
「遠い異国――」
「そう、異国の名さ。渚カヲル。リリスやゼルエルと同じく <人類監視機構> に仕組まれた者。自由なる使徒 <タブリスさ> 」
彼はこちらから視線を外し、朝日を見やりながら言った。
「僕には、あなたが何を言っているのか理解できない」
どれをとっても、聞き覚えのない言葉ばかりだ。だが、不思議と懐かしさを感じる。そのことに、表現しがたいもどかしさと困惑を感じていた。
「いずれ分かるよ。君は僕を渚カヲルと呼ぶように、ラ・ピュセルを綾波レイと呼ぶようになるかもしれない。少なくともそう熱望するようになる」
「リッシュモン元帥、貴方は……」
何者かと問おうとした時、彼に言葉を被せられた。
「いいのかい? もう、夜明けだ。主の姿が見えない宿で騒ぎになってしまうよ」
「あっ」
そういえば、もうすっかり日が高くなっている。そろそろリジュ卿や従者達が起き出す時刻だ。だけど、このまま何も聞き出せず彼と別れるのは――
「心配ない。また会えるよ。極近い内にね」そう言って、元帥は微笑んだ。
「じゃあ、僕はこれで」
僕は別れを告げると、早足に宿へ向かった。
「また会える時を楽しみにしているよ、アランソン候」
RETURN TO THE:07
『アランソン侯、ピュセルと出会う』
その時、彼女は王太子と二人で城内の庭を散策しながら談話をしていた。前日の謁見で彼女に興味を抱いた王太子は、彼女の詳しい素性を探る為ドン・レミやヴォークルールに使いをやり、彼女に関する情報を収集させると共に、彼女から様々な話を聞きラ・ピュセルが真に神の使いであるかを探っていた。
御年、二六歳。父である『狂王』の死、兄の死、母の裏切り、敗走の日々。短い間に起きた様々な悲劇により、彼は年不相応の疑い深さを持つようになっていた。ラ・ピュセルについても些か慎重すぎるほどの対応を見せるのはこの為だ。
「ボードリクールが送って来た書によれば、そなたは先の我軍の敗戦を見事予知してみせたとあった。何故にそのようなことができたのだ?」
王太子は問うた。
「……私の“声”がそう告げたのです」
「声、か」王太子は、何か考え込むように顎に手をやった。その王太子から視線を外し、庭を見渡したラ・ピュセルの視線にひとりの騎士風の男性の姿が目に映った。彼はまだこちらには気付いてはいないが、何かを探すようにキョロキョロと周囲に視線を巡らせている。
――あの人、誰
他の人とは違う感じがする……
あの人が……『イカリクン』……?
「……殿下」
「なんだ、ピュセルよ」呼びかけられた王太子は、思索を中断してラ・ピュセルに顔を向けた。
「あの騎士風の者は」そう言って、彼女は男を指差した。
「ん、おお! あれはアランソン侯だ。美男侯の誉れ高いジャン・ダランソン侯爵だ」
「ジャン……ダランソン侯爵」
「アランソン侯! 参られよ、アランソン侯!」
王太子は、アランソン侯に呼びかけた。
――アランソン候は、リッシュモン元帥と別れ一旦宿に戻ると、リジュ卿と共にシノン城に向かった。だが、即座に目的としていたラ・ピュセルとの面会が叶うわけではない。形式上、ピュセルに会う前に、シャルル王太子に挨拶をする必要があるのだ。聞けば、王太子は朝食の後、城内を散策に出たと言う。候とリジュ卿は、案内を断り、その王太子を探し城内を歩き回ることになった。
しかし、『剣匠』とも呼ばれる有数の剣の使い手であるリジュ卿は、直ぐに若い騎士たちに囲まれ、半ば無理矢理に鍛練場に連れていかれた。きっと彼は、これから若者たちに剣の教えを乞われて、色々と教授することになるのだろう。
そんな哀れなリジュ卿を生贄に捧げ、何とかその場から逃れたアランソン候は、王太子がピュセルを連れて内庭にいるいう話を聞き、さっそく庭園へ向かった。だが、庭園と一口に言ってもその規模は大きい。意匠を凝らした植木や、見事な造型の女神像などが林立していて、人探しには難儀な空間なのだ。
「アランソン侯! 参られよ、アランソン侯!」
きょろきょろと見回しながらそれらしい人影を探していると、不意に聞き覚えのある声に呼び止められた。声のした方を見ると、案の定、シャルル王太子らしき人影が見えた。あまり待たせるのも無礼であろうので、候は小走りに王太子の元へ向かう。徐々にハッキリと輪郭を帯びてゆくその姿は、前回会った時よりも些かやつれている様に見えた。
……無理もない。今、王太子の置かれている状況は誰から見ても厳しいものだ。狂王と呼ばれていた先代の国王が亡くなった今、本来このシャルル王太子が国王となるべきなのだが、『トロワ条約』において、彼は王位継承権を剥奪され、今は流浪の身なのだ。
御前に辿り着くと、アランソン候は笑顔と共に面を伏せた。
「御久しぶりです、殿下。御健勝のご様子何よりです」
「良く来てくれた、侯。……おお、そうだ。そなたにも紹介しておこう」
シャルル王太子はそう言って、傍らに控えていた人物を前に押しやった。
シャルルの陰に隠れる様にして立っていたため今まで気付かなかったが、彼は小柄な人物を同伴していたのである。服装からすれば男性なのだろうが、身長は一六〇CMに僅かに及ばない程度。日除けためだろうか、ショールのようなものを頭から深く羽織っているので、顎から上は影になって見えない。司祭か何かだろうか?
「お初にお目にかかります。私はアランソン侯爵、ジャン二世です」
相手の素性が分からない以上、候は一応畏まって名乗った。その声を受けて、彼はゆっくりと掛けていたショールを取り払う。流れるように現れたのは、朝日を反射して神秘的に輝く蒼銀の髪。そして、透き通るような白い肌と
限りなく澄んだ真紅の瞳であった。
――女性である。男装してはいるが、ショール隠されていたその顔は、紛れも無く美しい少女のそれだった。彼女はその神々しいまでに美しい赤い瞳で候をじっと見上げて、慇懃に頭を下げた。
「ようこそ御出でくださいました、アランソン侯。主の使徒、ラ・ピュセルにございます」
ラ・ピュセル!
その名に、アランソン候は戦慄を禁じえなかった。ドン・レミから国土を横断してこのシノンへやって来た、主の使い。天使の姿を見、聖女の声を聞くミスティック。そしてオルレアンの囲みをとき、ランスにて王太子殿下を戴冠させるという、一七歳の乙女。
早鐘のように忙しく打ちはじめた鼓動を抑えられない。絶世を冠するの美少女? そんな言葉でこの少女を表現できようものか。彼女が主から遣わされた使徒だというのなら、確かに彼女は本物の天使に違いない。その背に、白く輝く天使の翼がないのが不思議に思えるくらいだ。
その一方、やはりこの出会いに衝撃を覚えているのはラ・ピュセル当人も同様であった。彼のその相貌を間近に確認した瞬間から、形容し難い不可思議な感傷が胸を突いて止まらないのだ。旅人が、長い旅路の末にようやく約束の地に辿り着いたような、不思議な懐かしさが溢れ出す。
――アランソン侯。分からない。この人が、夢の人……?
“声”すらも予測することのできない、不確定要素。
心を渦巻く経験のない感情に戸惑いながらも、ただ候を見詰め続けるラ・ピュセル。
「あ、貴女が……あの、ラ・ピュセルなのですか?」
その瞳に射竦められたように、候は掠れる声で問うた。
よく分からない。自分でもよく理解できないが、彼女から離れてはいけない気がする。リジュ卿の言葉如何によらず、彼女の行く末を見届けなくてはならない。アランソン候には、何故だがそう強く思えた。
時に西暦一四二九年、三月七日。美男候ジャン・ダランソン二世と、伝説の少女ラ・ピュセル。後に神話となる二人の、出会いであった。
RETURN TO THE:08
『アーサーの名を持つ男』
「――で、どうだった噂の乙女は?」
ピュセルがまた色々な審問を受けることになり、司祭ではない僕は、彼女と別れる羽目になった。その後、一通り枢機部の貴族達と挨拶を交わすと、僕とリジュ卿には『シノン城』の客間がそれぞれ用意された。通された部屋で一息ついていると、隣室のリジュ卿が僕の部屋に訪ねてきて、興味津々と言った様子で詰め寄ってきた。
「え……ええ」
何と言っていいのか分からず、わけの分からない声しか出ない。
「その調子だと、どうやら会えたみたいだな」
ニヤリと唇の端を吊り上げてリジュ卿が言った。
「あ、はい。会いました。そちらは?」
ピュセルに関心を示していたリジュ卿の反応が気になって、僕は訊いた。
「オレもさっき会ったよ。まぁ、そうは言っても、司祭たちに囲まれているところをすれ違っただけだが」
「そうですか」
「それよりも……」
そう言って、リジュ卿は一層その口を歪めるとズイッと僕の方へ身を寄せてきた。
「オレは、君の感想を是非聞きたいね」
「えっ?」
「短時間にしろ、彼女と一緒にいたんだろう? 彼女の第一印象は如何だ?」
なんとも居心地の悪い沈黙が場を支配する。どうやら、この局面から逃げ出すことは許されないようだ。
「……今まで、感じたことのない不思議な気分になりました」僕は観念すると、白状した。
「それに、凄く奇麗な人だって……そう思いました」
彼女とはじめて視線を合わせた時に体中を駆け巡った、あの感覚を表現する言葉など僕は持たない。
「――惚れたか」リジュ卿は極真剣な表情で、囁くように言う。
「い……いえ! べ……別にそんなことはないですよ! ただ……」
「――ただ?」
「彼女が神の使いだというのなら、それはあながち嘘ではないような気がしました」
「ほう……」そう言って、リジュ卿は何か思案するように無精ひげに手をやった。
「では、キミは彼女を信じると、そういうことかい?」
「はい。現時点で、彼女を疑う要素はないと思います」
事実、一介の庶民である彼女が神の使いを名乗り、王太子殿下を戴冠させたとしても何のメリットもない。それどころか、戦場に出て死ぬ危険性が高い以上、デメリットの方が大きいだろう。
仮に、祖国の事実上の消滅を憂いて王太子派について戦おうと考えているとしても、何の訓練も受けていない少女がいきなりオルレアンの囲みを解こう等と考えるとは思えない。せいぜい、各地に駐在する小隊に対しゲリラ戦をしかけるくらいが関の山だろう。――ただ、彼女には、まだ常人には理解し難い謎があるのもまた確かだ。
「あの、リジュ卿」
謎といえば、今朝であったリッシュモン大元帥。彼もなにか不思議な感じのする人だ。様々な事情に精通しているリジュ卿なら何か知っているかもしれないと思い、彼に訊いてみることにした。
「なんだい」
「リッシュモン元帥を知ってますか?」
「リッシュモン? 王太子軍元帥アルテュール・ド・リッシュモンのことかい」
「――ええ」
「彼がどうかしたのかい」
突然話題が変わったせいか、リジュ卿は怪訝そうな表情で訊いてきた。
「いえ……今朝、ちょっと彼に会ったんです」
「ほう、リッシュモン伯爵もこのシノンに来ていたのか。まあ、大方我々と同じくラ・ピュセルの野次馬に来たんだろう」
「彼のこと、何か知りませんか」
「ん、そうだな」
リジュ卿は少し不思議そうな顔をして唸ると、視線を宙に泳がせて記憶を掘り起こしはじめた。
「君と同年代の青年に見えるが、実際はかなり歳を食った人でね。殿下の義母であらせられるアラゴン女王ヨランド陛下と政治的な蜜月関係にあって、宮廷追放が噂された後も非常に強大な力を維持している。君の父上が戦死されたアザンクールの会戦にも参戦していて、一時は連合の捕虜になっていた。そうかと思うと、トロワ条約締結のため兄であるブルターニュ大公に働きかけてもいる」
トロワ条約といえば、シャルル王太子から王位継承権を事実上剥奪し、この戦争にさらなる混乱を引き起こした連合有利の取り決めだ。
「聞いていると、殿下のために戦ったかと思えば、連合に寝返ってまた戻ったような……なんだかフラフラした印象ですね」
「ブルターニュというのがそもそも <小さなブリテン> を意味しているし、彼ら一族にはケルトの血が流れている。ルーツはあっち側にあるのさ。リッシュモンの伯爵位にしたって、ブリテンから授与される称号なんだ。彼は家系的に連合とのつながりが強い。君の言うように王太子派と連合の間でふらついているようにも見えるが、バックボーンを考えるとこれはある程度、仕方のないことだ」
「でも、その辺が原因で政治的に失脚したんじゃないんですか?」
「そう言えなくもないな、確かに。彼は以前、王太子に多大な影響力を持っていた。ちょうど今の君のようにな。だが、ラ・トレモイユの画策により事情は大きく変わった」
「――ラ・トレモイユ」
「そうだ。アランソン侯。この男の名を忘れるな。そして、この男には細心の注意を払うんだ。ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ。一三八二年生だから、四六、七歳になるな。もとはポワトゥ地方の小貴族に過ぎないんだがね。あの男は最初、敵対勢力である連合側についていたんだ。だが一三年前、アルマニャック派の女伯爵と結婚するやブルゴーニュ派から一転、こっちにに鞍替えした」
「ポジション的としては、なんだかリッシュモン元帥と共通するところがありますね」
一瞬、同属嫌悪という言葉が脳裏をよぎる。
「違いがある。それは、トレモイユがそのポジションを最大限利用している点だ。つまり、連合と王太子派の双方に顔が利くと称して、事ある毎にフィクサーとして首を突っ込み、財を成すと共に各方面にコネを築いていったわけだ。この財力と人脈を利用して、ラ・トレモイユは王太子の側近中の側近としての地位を確固たるものにしようと画策した。
トロワ条約により、王座を追われた王太子殿下は現在流浪の身。当然、各地方からの税や献上金などもあてに出来ない以上、深刻な財政難に苛まされる。そこを突いて、ラ・トレモイユは殿下にその資金を提供したってわけだ。戦にかかる費用も、日常生活に必要な金さえ現在ではこのラ・トレモイユからの借金から成り立っているわけだな。そして、この借金という見えない鎖で首根っこをしっかり抑えられている以上、王太子はラ・トレモイユに頭が上がらない。当然、発言力も絶大なものとなり、今では王太子に働きかけて侍従長にまで成り上がっている。言わば、陰の黒幕。王太子の側近ナンバーワンってところさ。
更に奴は、ダメを押すために王家に多大な影響力を持っていたそのリッシュモン元帥を失脚させることにした。両陣営に顔が利くという点では自分と同じ立場にあるし、政治的、軍事的にも高い能力を持った人だ。その上、ブルターニュ大公の弟と来ている。貴族としての格は天地の差だ。嫉みの類も少なからずあっただろう。そこで王太子にあることないこと吹き込んで、リッシュモン元帥を徹底的に枢機部から追いやったんだ。今じゃ王太子は、元帥の顔を見るのも嫌だと喚いているくらいさ」
RETURN TO THE:09
『人類監視機構』
「リッシュモン元帥、そんな目にあっていたのか」
事実を知ると、不思議なことに朝の河原で見た彼の微笑みが、何だか悲しげなものだったような気がしてきた。
「ただ、気になることもある」
乾いた喉を潤すため、グラスにワインを注ぎながらリジュ卿は唸る。
「たとえば、あれほどの切れ者でありながら、ラ・トレモイユの陰謀に対して何ら手を打った形跡はない点だ。枢機部から外されたことも大して気に留めていない様に見える。確かに宮廷内での直接的な発言力こそ失ったが、各方面への影響力は健在。現に軍は彼が仕切っているし、むしろ表舞台から姿を消して身軽になったようにさえ感じられる。オレは、彼がラ・トレモイユを意図的に刺激し、今回の失脚劇を自作自演した可能性も考えてるよ」
「えっ?」
それは、普通ではありえないことのように思える。貴族である以上、枢機部から遠ざけられるのはかなり屈辱的なことだろう。尤も、河原であったあの彼が、何処にでもいる普通の貴族かと問われると――それもちょっと違う気がするのは確かだけど。
「あ……そういえば、リジュ卿。人類監視機構って訊いたことあります?」
何気なく訊ねた僕のその言葉が、彼に齎した効果は絶大だった。リジュ卿の口元から一瞬にして笑みが消える。そして彼は、鬼気迫る勢いで僕の肩を掴むと叫ぶように訊いてきた。
「どこで、その言葉を聞いた」
「えっ?」突然のことに狼狽して、僕はまともに返答も出来ない。
「なぜ監視機構のことを知っている」
剣の稽古をしている時でさえ、こんなに恐いくらいに真剣なリジュ卿を見たことはない。何時も飄々として、雲のように掴めない彼が感情を露にすることすら稀なのだ。そんな彼をここまで変貌させる『人類監視機構』とは、一体なんなのだろうか?
「僕はただ、今朝河原でリッシュモン元帥から聞いただけですけど……」
竦みあがるようなリジュ卿の視線を何とか受け流しながら、僕はようやくそう答えた。
「リッシュモン元帥が……」
リジュ卿は眉間に深い皺を寄せて何か考え込むように俯いた。
「他には――他に彼は何か言っていなかったか?」
「え……いえ、特に。僕も彼が呟くように言ったのを耳にしただけですから……」
「そうか」
しばらくして逼迫した雰囲気を解くと、リジュ卿は何時もの落ち着いた物腰を取り戻した。
「すまない。ちょっと最近神経質になっている話題だったものでな。……忘れてくれ」
そう言って、リジュ卿は照れたような笑みを見せたが、とても忘れることが出来るような雰囲気ではなかった。
「リジュ卿……もしかして、結構危ないことをしてるんじゃないんですか?」
「ん?」
「いえ、何となく、その監視機構って危険な話なんじゃないかなって」
そこで一旦言葉を切ると、恨めし気に彼を睨みながら僕は言った。
「……知ってるんですよ、リジュ卿が諜報活動をやってること」
「フッ。まぁ、ちょっとしたアルバイトさ。君に心配をかけるほどのものでもないよ」
「本当ですか?」
「そう思うなら、『人類監視機構』の話は本当に忘れるようにお勧めするよ」
リジュ卿は席を立ち、部屋の出口へ向かう。
「それじゃ、今夜はこの辺で失礼するよ、侯」
開けたドアから顔だけを覗かせて、悪戯っぽくウインクすると彼は部屋から消えた。
「――おやすみなさい」
僕のその声は、リジュ卿の出ていった部屋に空しく響き渡った。
RETURN TO THE:10
『この腐敗と自由と暴力の中で』
「破――ッ!」
気合が自然と声となって発せられた。同時に、額を流れる汗が跳ねる。それは月光に煌きながら地に落ちると、幾つかのシミとなって消えた。シノンの中庭に、風を切る音が響き渡る。剣が、空を斬り裂く音。アランソン侯の剣舞が奏でる調べである。
今でこそ『美男侯』『 <剣聖』として、剣士、指揮官としてもその名の知れるアランソン侯だったが、当然のこと彼も生まれつきそれらに長けていたわけではない。いや、むしろ彼は幼少の頃、気弱で内気な少年として周囲に認識されていた。
――だが、彼は変わった。先代の死後、荒廃したアランソンの街を立て直すため、リジュ卿や多くの先人たちに学び、領主として、王国屈指の剣士として彼は変貌を遂げた。今彼が得ている強さは、彼の過去と絶え間ない努力から生み出されたものに他ならない。
華やかな上流階級社会。宮廷内において、アランソン侯は常に脚光を浴びるまさに貴公子である。だが、その彼が真に望むもの。真に願うもの。そして、今の彼を作り上げた真の孤独。――それらを知る者は、あまりにも少ない。今振るわれる彼の愛剣は、その苦楽と成長を見守ってきた数少ない存在のひとつである。
剣を取り、舞い、やがて疲労が心地良く蓄積されていく過程で、彼の精神は研ぎ澄まされていく。雑念と迷いを剣と共に振り切り、汗と共に流し去る。それは、彼が自らの思考に深く入り込んでいくための、一種の儀式であった。
今――
と、アランソン侯は考える。今、世は腐敗と歪んだ自由、そして戦乱の中にある。その中で、誰かに己を奪われず生きていくためには、相手を抑止するだけの純粋な力が必要となってくることは必定だ。
強き者が奪い、生き残る。弱者は奪われ、辱められ、命を落とす。……獣と同じだ。だが、その強弱はどこから生まれてくる?
この狂った世の中で強者とされるものは、何故強くあることができるのだろう。人間の強さとは、剣の腕で示されるものか。暴力の中を勝ち抜くことこそが、人としての生き様か。それが、我々ヒトの理なのか。
感情の高ぶりが、そのまま剣圧の鋭さとなる。一際鋭利な一振りが、眼前の空を乱暴に叩き切った。
――違う。これは、誤りだ。アランソン侯は、不意に強くそう思った。このままの世が続けば、確実にこの国は滅びる。秩序も誇りも失われ、ただ希望を失った民だけが残った王国。
本当は、強者などどこにもいない。誰も強くなどないのだ。今、時代に強者と名付けられた者たちは、剣を携え力弱き者を虐げることで、自分達に対する弱者という存在を作り出しいるだけだ。自分で弱者を作り出さねば強者を名乗ることのできない人間が、何故に真に強いと言えようか?
強いと呼ばれるために、更に弱い者を叩く。そんな生き方では、人は何も学べない。人類は、本当に強くなることなど出来ない。
戦争は哀しい。アランソン侯は、そう思う。だが、学者たちは言う。独裁者たちは言う。人類の歴史は、戦争によって作られてきたと。人類の歴史は、戦乱の歴史だと。そうか? それが、真実か?
彼らには見えなかったのか。親を失い、魂が抜けたような目をして、焼かれた村を徘徊する子供たちの哀れな姿が。黒死病を引き起こし相手方を亡ぼすため、病に感染し死んだ牛の肉を村に投げ入れた結果がどうなったか、彼らは知っているのか?
戦う理由も、意志も、覚悟も持たぬ小さな小さな命が、街ごときえていったのだ。母親の胸に抱かれ、天使のような微笑みを見せていた無垢な子供たちが、体中に浮かび上がった黒い斑点にもがき苦しみ、衰弱の余り泣き声も上げられぬまま死んでいく様を見たのか?
もう、やめてくれと。なぜこんなことを続けるのだと、戦う術を持たぬ人達が、心から叫んでいたあの声が聞こえなかったのか?
――僕は、見たぞ!
この目で、死に逝く小さな命を見届け、その死を嘆き哀しむ人達の声を確かに聞き届けたぞ!
なにがあっても、あれだけは忘れまい。心が壊れてしまいそうな、あの地獄だけは忘れまい。
だから誓ったのだ。戦で荒れ果てた、我が国アランソンを立て直そうと。その地を収める領主として、自分がそこに生まれたのならば……
せめて、自分ができるだけのことを命懸けでやろうと。もう、二度と見たくないから。
見れたものじゃなかった……。大事な人を無くして、泣いている人の顔……
あんな哀しい姿……もう、二度と見たくなかったから。
皆、もう気付いているはずなのだ。人は戦争から何も学ばない。確かに、戦争の脅威を知り、残された爪痕から平和を懇願するようになる。だが、それは正しくはないのだろう。
戦争が怖いから平和を望む。それは、鞭で叩かれるのを恐れて悪さを止める子供と同じだ。真にその罪を、罪と意識しているわけではない。怖いからしない、叩かれるのがいやだからやらない。それは、本当の意味で正しい認識とは言えない。
必要なのは、戦争を否定することでは無く――安寧を望むこと。戦争が辛いからではなく、平和が好きだから、それを望むこと。それを、皆に伝えなくてはならない。
この滅びかけた国を、全ての人が創意で建て直すことを望むように。皆の心を、動かさなければならない。敵の心も、味方の心も。全ての心に、届けなくてはならない。だが、どうすれは伝わるのだろうか? どうすれば、人の心は動かせるのだろうか?
民を束ねる、一国の領主としてアランソン侯は学んだ。人心を動かすのが如何に難しいことか。誰も哀しまずに済む世を作ることが、如何に大変なことか。
そして、今――
それをやろうとする者が、現われた。王国ひとつを、あまねく全ての心を動かすために、此処に起った者。その名を、ラ・ピュセル。剣舞を終え、月夜を見上げて呼吸を静かに整えながら、候は呟いた。
「君は、僕たちに何をみせてくれるの?」
to be continued...
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