囲みを解きて王太子を伴い
此れを戴冠せしむるため其の元へ赴くなりと唱うる <乙女> なる者
我らが野に立ち一陣の聖風となりて全てを解き放てりとの風聞有之



CHAPTER III 「大地のビートを感じるかい?」
SESSION・21 『家においでよ!』
SESSION・22 『その風聞』
SESSION・23 『最強の壁を越えて』
SESSION・24 『フィール・ユニヴァース』
SESSION・25 『霧島のじーさん』
SESSION・26 『裏切り』
SESSION・27 『マナちゃん・はんまー』
SESSION・28 『ブラック・アウト』
SESSION・29 『ロスト・メモリー』
SESSION・30 『旅立ちの瞬間』



SESSION・21
『家においでよ!』


「ぼくに…」
 シンジは茫然と呟いた。
「うん。間違いないって☆」
「ででも、僕にどんな力があるって言うのさ!?」
 確かに妙な現象が周りで起きてはいるものの、それが自分の力によるものだという自覚がシンジにはない。
 他人に指摘されたところで、はいそうですかと簡単に受け入れられることは確かに難しいだろう。
「う――ん」
 シンジの疑問に、顎へ右人差し指を可愛らしく当てて考えるマナ。
「それは分かんないけどぉ」
「えぇ、分からないの?」
 シンジはマナの無責任さに呆れたように言う。
「ん――、えーと、『予知夢』かな?うん」
「ホントに?」
 疑惑の目をマナに向けるシンジ。
「え?まぁそう言われると自信がないんだけどあ、そうだ!!」
「なに!?どうしたの?」
「シンちゃん、家においでよ!」
「え。うち?」
「うんうん」
 満面の笑みを浮かべてこくこく頷くマナ。
「家って霧島さんのアパート?」
 シンジは、頬を赤くして些かの期待を込めながら言った。
「ちがう違う。さっき言ったでしょ。京都にある霧島の総本山よ。そこにいるわたしのおじいちゃんに訊けば、きっと何か分かるはずよ!」
「えでも、京都でしょ?そこまで行くの?電話とかじゃなくて?」
 淡い期待をものの見事に打ち砕かれてがっくりのシンジ。
「ああ、あんな山奥だしあそこって、電話通ってないのよね」
「えっ!?」
 シンジの頭を何故か富士の樹海やアマゾンの風景が過ぎる。
「あのぉ――」
「ちょうど、来週から夏休みだしぃ〜。これは良いチャンスよ。ね?ね?行こーよ」
「でもそんなお金ないし」
 シンジは今一つ乗り気ではなかった。
 自分が怪しげな世界に踏み込んでしまうのが恐かったのである。
「大じょーぶよ。向こうにいる間はうちに泊まればいいし。行き帰りのリニア代だけでいいわ」
 マナが他人事にここまでムキになるのには、幾つかの理由があった。
 ひとつは、シンジの力の覚醒に自分が何らかの影響を与えてしまったという、若干の責任感。
 そして最大の理由は、このままシンジの行く末に付き合うことで、何か面白い世界に飛び込めそうな予感を感じたからだ。
 ――彼女は、とっても好奇心旺盛な女の子だった。
「ね、行くわよね?」
 にっこり。
 マナのその笑顔には拒否権を認めない『何か』が宿っていたと、後にシンジは語っている。
 (こっこれが霧島さんのちからなの?)
 この勝負は、シンジの敗北に終わる。
 何故なら、彼は押しにすこぶる弱かったのだ。



SESSION・22
『その風聞』


 囲みを解きて王太子を伴い、此れを戴冠せしむるため其の元へ赴くなりと唱うるピュセルなる者、我らが野に立ち一陣の聖風となりて全てを解き放てりとの風聞有之。

 その時代その国は病んでいた
 国力は衰え、他国の蹂躪を許し、民の瞳からは希望の火が消え、かつてこの国を支えた誇りと信念は失墜していた
 虚言が横行し、理知を束ねる箍(たが)は失われ、混沌と腐敗と絶望が支配するその国にもはや自ら立ち上がる力は残されてはいなかった
 そして、その暗黒の中より彼女は生まれた
 右手に涙を
 左手に慈愛を
 こころに優しく、全てを凌駕せしものを抱き
 彼女は現れた
 蒼銀の髪を月下になびかせ
 真紅の瞳で神道を照らし
 大空に唄う1羽の白鳩を見上げ
 彼女は言った
「我、天命を受けこの地に舞い降りし御使い、即ちラ・ピュセルなり」

 ――そして、伝説は始まる



SESSION・23
『最強の壁を越えて』


 その日碇シンジの起床時間は、生涯記録に残される早さであった。
 理由は簡単。
 アスカの猛追を回避するためだ。
 今日よりシンジたちの通う『私立第三高等学校』は、待望の夏期休業すなわち夏休みに突入する。
 そうなると、朝早くからアスカがシンジの部屋に乱入してきて、あちこちへ引きずり回されるであろうことは過去の貴重な経験から容易に予測できる。
 だがしかし、今年ばかりは惣流アスカの我が侭に付き合うわけにはいかない。
 シンジは夏休みを利用して、京都を訪れることを決意していた。
 霧島マナの紹介でシンジの周辺に起こりつつある異変と、蒼銀の髪のラ・ピュセルの謎を解明できるかもしれないという彼女の祖父に会うためだ。
 そこで自分に何が起こるのか、何が変わるのか、何を知るのか不安はある。
 だが、彼女――ラ・ピュセルの微笑みと涙を見た今では、もはや逃げることは考えられない。
 彼女は、自分にとって大切な何かなのだ。
 シンジは今、停滞していた運命の奔流に再び身を投じようとしていた。

「ふあぁぁぁぁ」
 大きな欠伸をしながら、まだ気を抜けば閉じようとする眼をこする。
 午前5:00。
 彼がこの早朝に、ひとりで目覚めることができたのは奇跡にも近い。
 アスカも驚くことであろう。
 逆に言えば、今回の件に関してそれほどシンジは真剣だったということだ。
 彼はようやくベッドから這い出すと、眠気覚ましにシャワーを浴びた。
 今日は一日マナと二人きりだということも、多少考慮の上でだ。
 とりあえず目が冴えたところで、軽く朝食を摂る。
 無論のこと、まだ寝室で眠っているはずの両親に気取られないよう細心の注意を払いながら、だ。
 そしてリビングのテーブルの上に、この度の釈明を記した書き置きを残しておくのも忘れない。
 最初は旅行に出ることを両親にだけは予め告げておこうとも考えたのだが、そうなると説明に困る。
 一体何日かかるのかも定かではないし、その理由も常人に納得させるのは非常に難しいからだ。
 しょうがなく書き置きを残すことで妥協することにした。
 文面は、昨夜のうちに試行錯誤の上整えておいた。
 社会勉強のため、ひとりで旅行に出てみること(勿論嘘だ)。
 いつになるかは分からないが、夏休みが終わるまでには戻ること。
 旅行中、必ず電話で連絡をいれること。
 前々から計画していたことなので、路銀、宿泊場所などの心配はないこと。
 詳しい理由は帰ってから報告すること。
 そして、無断でこのような行動を採ったことへの謝罪。
 その書き置きには、以上のようなことが簡潔に記されていた。
 勿論、ついでにアスカにも上手く説明しておいてほしいと付け加えておくのも忘れなかった。
 アスカ。誰に説明してもらっても、かんかんに怒るんだろうな、やっぱり。
 恐らく、彼女には帰宅した時これまでにないほど強力なヤキを入れられるであろう。
 出発時間を早朝に設定したせいで、とりあえず両親とアスカという京都への厚い壁を回避することはできるが帰ってからのことを考えると。
 はぁ。ぼくどうなっちゃうのかな。
 出発前から、いきなり意気消沈するシンジ。
 だが、もう迷っている時間はない。
 決意を新たにすると、彼はマナとの待ち合わせの場所へ向かった。



SESSION・23
『フィール・ユニヴァース』


 都会の雑踏とは明らかに異なる、澄んだ空気。
 常緑樹の発するほのかな香り。
 夏の日差しは、空を覆う木々たちに遮られ木漏れ日となって優しく道を照らす。
 そう自然が呼吸するのを体中で感じる。
 マナは、この山が大好きだった。
 まるで自然が自分に力を分けてくれているかのような、不思議な感覚。
 絶え間無く内から生まれてくる、暖かな力の温もり。
 それは世界との対話にも等しい。
 跳ねるような足取りで石段を登っていくマナに対し、シンジはと言えば
「ぜはぁ〜〜ぜはぁ〜マナぁ〜ちょっと待ってぇ〜」
 ――ばてていた。
 一応京都府内ではあるが、郊外から遠く離れた山奥。
 地図にも明記されていないような深い山林に、人ひとりがようやく通れるくらいの狭く古い石段が延々と続いている。
 その石段も、劣化が激しくひび割れて土が除いていることも少なくない。
 一見痛んでないように見えても、足をかけて体重を写した途端がらっと崩れ出すこともしばしば。
 しかも一段一段がやけに高く、足場の悪さも手伝って非常に登りにくい。
 当然、手すりなんて気の利いたものはないため一度バランスを狂わせて転落すれば、一気に麓までまっ逆さま。
 そうなれば、まず間違い無く命はないだろう。危ないことこの上ない。
 おまけに
「ここって、夜来るとすっごく恐いんじゃないかな」
 そう呟きながら顔を上げるシンジの視界には、夏の強い日差しを遮ることに一役買っている木々。
 昼間の今でこそ、日陰を作ってくれるおかげで非常に助かってはいるが、『トトロ』が出てきそうな鬱蒼としたこの山は真っ直ぐに昇る歴史を感じる石段と相俟って、日が落ちた後はさぞかし迫力が出てくるだろう。
 肝試しにはもってこいだ。
 兎に角、この果てしなく続く石段を上り詰めた頂上に目的の霧島家はあるという。
「ねねぇ後どの位あるの?」
 実家に向かう殆ど手ぶらのマナとは違って、宿泊することを前提としてそれなりの荷物を用意してきたシンジには、この長い石段は多少酷であった。
 彼自身もう随分と登ってきたような気がするが、頂上へと続く石段は先が霞んで見えないほど続いている。
 訊かなくても先がまだ長いことくらいは想像がつくが、訊かずにはいられないシンジ。
「そうねぇ。今、丁度半分くらいかな?」
「ははんぶん」
 訊かなきゃ良かったと頭を垂れても後の祭り。
 しかし息も絶え絶えのシンジに引き換え、マナのこの元気の良さ。
 考えてもみれば、第三新東京市に越して来るまでマナはここに住んでいたのだ。
 当然、中学・高校とこの山を毎日昇り降りして通っていたのだろうから、その体力は並みの女子高生とは比較にならないだろう。
「やっぱり疲れた?」
 マナが務めて明るく訊いてくる。
「ううん。マナは平気みたいだね」
「一〇年もここに住んでいれば、嫌でも慣れるわ」
「そそうだね」
「荷物持ってあげようか?」
「う」
 それは魅力的な誘いであった。
 まだ半ばまでしか辿り着いていない上、すでに体力は限界に近い。
 考えなくても、この大荷物を担いで頂上に辿り着くのは不可能である。
 だが、そこはシンジも男の端くれ。意地というものがある。
 女の子に荷物を持たせて、自分は手ぶらで行くなどとはプライドが許さないところではあるのだが、背に腹は変えられない。
 結局、シンジは泣く泣くマナの厚意に甘えることにしたのであった。

「ついたよぉ〜!!」
 遥か頭上で声がした。
 託された荷物を担ぎながらも、変わらぬ足取りでピョコピョコ石段を駆けていくマナに次第に引き離されていったシンジ。
 既に彼女の姿を認めるには遠く目を凝らさなければならない。
「シンちゃ〜ん!もう少しだよぉ〜!!」
 どうやらマナは、一足先に頂上に登り詰めたようだ。
 飛び跳ねながらぶんぶん手を振っている。
 シンジはようやく見えたゴール目指して最後の気力を振り絞る。
 石段に最初の一歩を踏み出してから約二時間。
 既に太股はぱんぱんに張り、膝はがくがくと震えて力が入らない。
 (これじゃ、明日は絶対に筋肉痛で立ち上がれないよ)
 最早、両足だけではなく両手まで総動員して這うように登る。
 最後の一段をようやく這い登ると、シンジはそのままドサッと大の字に倒れ込んだ。
「とうちゃ〜く。おめでとーシンちゃん」
「はあはあ」
 ぱちぱちと手を叩いて誉めてくれるマナに返す言葉も出ない。
 彼の口は、新鮮な空気を飽く無く求め金魚のようにパクパクと動くだけだ。
「ようこそ〜、霧島家へ☆」
 少し身を屈めて、仰向けに横たわるシンジを覗き込むようにマナは言った。
「つはぁはぁ着いたの?」
 動けないシンジには、青く広がる空しか見えない。
 進行方向に構えられているのだろう、霧島家の家屋を振り向いて見る気力すら残されてはいないのだ。
「うん。着いたよ。お疲れ様。シンちゃん、しばらく立てそうにない?」
 シンジは深く頷くことで肯定した。
 現在の疲労は、アスカの荷物持ちに駆り出された時の比ではない。
 彼は今、生命の危機にさらされていた。
「じゃあ、わたし先に行ってシンちゃんの荷物置いてくるね。おじいちゃんにも着いたって報告してこないといけないし。ついでに麦茶持ってきてあげる」
 なんとも優しい心遣い。
 これがアスカだったら、容赦無く立たされて鞭打ってでも歩かされることだろう。
 この時ばかりは女神様にも見えるマナの言葉に、シンジは再度頷いた。
 それを見届けると、マナは全く疲れを感じさせない足取りで駆けていった。
 (マナってタフだよなぁ)
 シンジは、自分とは比較にならない彼女の基礎体力に感嘆する。
 マナの駆け行く音が次第に遠ざかり
 やがて静寂が訪れる。
 聞こえるのは、ただ自分の乱れた呼吸音だけ。
 どこからか、横たわるシンジに優しい風が吹く。
 火照った体を冷やしてくれる涼しい風。
 その心地よさに、シンジは瞳を閉じた。
 他の誰もいない、自然と自分だけの空間。
 (静かだ―――)
 透明な空気の中で、世界が広がっていく感じ。
 感覚が不思議に研ぎ澄まされてゆく。
 風の囁き。
 そよぐ木々のざわめき。
 大空に唄う鳥達のさえずり。
 自然の中に自分を見出した時にだけ、はじめて感じることができる音。
 何時もS-DATで聴いている人の作り出した音楽からは、決して得ることのできない不思議な力。
 この地球が生まれた時から人が生まれる前から遥か昔から続く絶え間のないメロディ。
 知らなかった
 風や海や空が
 自然は
 何時も
 何時でもこんなにも奇麗に
 唄っていたんだ

 シンジはゆっくりと目を開いた。
 最初に飛び込んできたのは、高く大きく広がる白い白い雲。
 そして、どこまでも澄んだ青い空。
 どこまで続いているんだろう
 その永遠の青にシンジはふと、そう思った。
 この空も、ずっとあったんだ
 ぼくたちが生まれる前からずっと
 空が広い。空が青い。それは、誰でも知っていることだ。
 だが、それはあくまで知識として認識しているにすぎない。
 本当にこんなにも空が何処までも何処までも、遥かなる異国の空間まで広がっていること。
 どんなジュエルよりも美しい澄んだ青空が、当たり前のようにそこにあること。
 ただ見上げるだけで、こんなにも優しい気持ちになれること。
 一体何人の人がそのことに気が付いているだろうか?
 そして思う。
 蒼銀の髪のあの少女ラ・ピュセルも、この地球の奏でるシンフォニーを聴いたに違いない。
 同じこの青空の下に彼女はいたのだ。
 彼女は美しく輝く白銀の甲冑を纏っていた。
 シンジのことを『愛しい侯爵様』と呼んでいた。
 だからきっと、今ではなく此処ではないそんな時代−とき−に彼女はいたのだろう。
 そんな彼女が聴いたのと同じメロディーに今、自分が耳を傾けている。
 同じ調べを共有している。
 ――それは、とても凄いことなのではあるまいか?
 ――それは、とても素敵なことなのではあるまいか?
「フフフなんだか」
 心の奥から、絶え間無く生まれてくる不思議であたたかなそれを押さえ切れず
 シンジは微笑む。
 何時の間にか、信じられないほどの極短時間で自分の呼吸が穏やかに整っていることに彼は気付かずにいた。



SESSION・25
『霧島のじーさん』


 艶やかなオールバックの黒髪。V字型に枝分かれした尖った眉。妙に鋭い光を放つ細長の目。手入れの行き届いた帝王髭。そして歪んだ唇から除いた、ヴァンパイアの牙を思わせる異様に尖った八重歯。
 碇シンジの父親、碇ゲンドウが日本の妖怪王だとすれば、彼は西洋の悪魔王といった風貌である。
 霧島マナの傍らにぬおっと仁王立ちし、やたらと威圧感を醸し出すこの男こそマナの祖父にして、霧島家宗家その人である。
「おじいちゃん、この子が手紙に書いた碇シンジ君だよ」
 笑顔でシンジを紹介するマナ。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
「あはじめまして碇シンジです。えっと、お世話になります」
 シンジはといえば、まるでマフィアのボスを面前にしたかのように小さくなっている。

 霧島家の屋敷は山の頂上、鬱蒼とした森林の開けた場所にあった。屋敷そのものはシンジが予想していた通り非常に古く、大きなものだった。まさに質実剛健。妙な装飾などの派手さはなく、落ち着いた重厚な造りでなにか神々しさを感じさせる。総本山だとか、宗家だとかいうからお寺か神社のような感じだとばかり思っていたが、鳥居や本堂などはなく、只の大きな平屋といった感じだ。
 ――そして、マナの祖父だという男。
 シンジの想像では深い皺の中に顔があり、真っ白く長い髭を生やした猫背の老人、所謂仙人のような感じであったのだが、現物は骨格のがっちりした一八〇センチを超える体躯。それに純和風の佇まいにありながら、何故か黒で統一されたスーツ姿。しかもまだ四〇代ではなかろうかという若作りだ。どちらかといえば、マナの父親に見られる。
 シンジを探るようなその鋭い眼光からは、強い意志と強力な気迫のようなものが感じられた。
「碇シンジィ!」br>  いきなり目をくわっと見開き、玄関の戸をびんびんと揺らすほどの大声。
「はっ、はい」
 雷のような怒号に、直立不動、指の先まで真っ直ぐ気を付けの姿勢でシンジは思わず返事をした。
「うむ。マナから話しは聞いちょる。ノープロブレムである」
 散々びっくりさせておいて、何故か一転穏やかな口調に変わる宗主。言いたいだけ言うと、彼は踵を返してさっさと廊下の奥へ消えていった。声も出せないシンジは、それを唖然と見送った。

「シンちゃん、大丈夫?」
 シンジの惚けた顔をクスクスと笑いながら、マナが言った。
「えあ、うん」
 その声に、ようやく気を取り戻したシンジ。
「あれが、マナのおじいさんなの?」
「そうだよ。おもしろいでしょ?」
 またもクスクスと笑いながら言うマナ。
「ほらほら。玄関で立ち話するために来たんじゃないんだから、上がって上がって」
「あ、うん。それじゃ、お邪魔します」
 靴を脱いで上がると、きちんと揃えてマナを振りかえる。
「この家にいる間は、私がシンちゃんのお世話をしてあげるから安心して☆」
「え、お世話って?」
「ん、だから、ご飯とかぁオフロとかぁいろいろよ」
「でも、悪いよ」
「いーのいーの。シンちゃんは霧島家にとってお客様なんだから、どーんと構えてればいいのよ」
「本当にいいの?」
「わたしが無理に連れて来ちゃったようなもんだしぃ。それに疲れてるでしょ?とりあえずここにいる間のシンちゃんの部屋に案内するから着いてきて」
 そう言ってマナは、ひたすら長い廊下に歩を進めた。シンジはきょろきょろと屋内を見回しながら、その背を追う。やがて彼らは廊下が互いに交差し合い、正方形の4辺を構成している場所に出た。正方形の中心、つまり廊下の内側のスペースは屋根のないちょっとした庭園になっており、手入れの行き届いた植木や鯉の泳ぐ池、獅子脅しなどがそれを彩っている。

「凄い。なんかどこかのお城みたいな造りだ」
 シンジは時代劇のようなもので、このような造りのお城のセットを見たことがあった。
「今の季節は確かに眺めはいいんだけど、冬は寒くて大変よ。雨が降り込むと廊下が濡れちゃうし」
 目を丸くして立ちすくんでいるシンジを、面白そうに眺めながらマナは言った。
 シンジの見た限り、霧島家は大きく四つの家屋で構成されているようだ。
 それぞれは正方形の角の部分、即ち4隅に位置しており、その家屋を結ぶ渡り廊下が現在シンジたちが立っている庭園に面した四本の廊下なのだ。
「ねえ、マナ」
 シンジは先を行くマナの横に並んで声をかけた。
「なに、シンちゃん?」
「あのさ、こんな広いところにおじいさんと二人で住んでたの?」
「そうだよ」
「でも、今はおじいさんひとりなんだよね?」
「うん」
「掃除とか大変なんじゃないのかな?」
「ああ、それは違う人がやってくれてるの」
「え?他にも誰かいるの?」
 シンジか見た限り、マナとその祖父以外に人影はなかった。無論、大きな屋敷が四つもあるあるのだから確かなことは言えないが。
「うん。アルバイトの巫女さんがひとりいるよ」
「巫女さんのアルバイト?」
「うん。私が転校するのとすれ違いでここに来たんだ。やっぱりおじいちゃん独りだと心配だし。あんまり長くはいられないって言ってたけど、すっごく奇麗な人だよ。今、山を下りて買い物に行ってるんだって」
「そうなんだ」

「さ、着いたよ」
 そうって立ち止まったマナの前には木製の観音開――左右の両扉を中央で合わせるような構造の門戸。仏壇などに用いられるタイプの扉だ――の戸がある。
 廊下には光源が無く、薄暗いせいではっきりとは分からないが、かなり大きく重厚なものだ。  マナは両手で扉を押し開ける。
「さあ、どうぞ。ここがシンちゃんの部屋よ」
 そう言ってシンジを招き入れるマナ。
 言われるままに部屋に足を踏み入れたシンジは、目を丸くした。
 そこは、ひたすらだだっ広い空間だった。
 軽く30畳はあるだろう。手前側の半分は板張り、奥の半分は一段高くなっていて、そこは畳敷きだ。
 奥の畳の部分に古ぼけたタンスのような物入れと、奇麗に畳まれた布団がある以外は何の家具・装飾類も見当たらない。
「あのこれ全部?」
「そうだよ」
 きょとんとした表情で答えるマナ。彼女にとって、この程度の部屋はさして広いとも感じないのだろう。
「しばらくここで休んでて。オフロ沸かすから。疲れたでしょ?」
「え?」
「それともご飯が先が良い?」
「あいや、オフロでいいよ」
 なんか、新婚夫婦の会話みたいだなどと勝手に思って勝手に赤面するシンジであった。
「ん。分かった。じゃ、準備ができたら呼びに来るから」
 そんなシンジには気付かず、そう言い残すとマナは戸を閉めて出て行った。
 ひとり取り残された感じのシンジ。
 (どうしよう)
 彼はまるでお寺の本堂か、武道の道場のようなこの広大な空間に馴染めずにいた。



SESSION・26
『裏切り』


 凄まじい吸引力に何とか抗いながら、必死に叫ぶ。
 だが、歪んだ空間のせいで上手く音が伝達できない。
 届かない叫び。
 何故
――なぜっ!!?」
 何故こんなことを
 向き合った彼女に手を伸ばす。
 が、届かない。
 彼女の蒼銀の髪が、発せられる強力なエネルギーの奔流に激しく躍る。
 彼女はその陶磁器のように白く滑らかな肌に、珠の汗を浮かべながら精神を集中し、場を制御する。
 強力な力によって背後にこじ開けられた時空の門−ゲート−。
 まさか、彼女がこれほどまでの術者とは。
「ラ・ピュセルっ!!!」
 声の限り叫ぶ。
 ――
貴方と共にずっと
 あの言葉は
 ――
御慕いしております。我愛しの侯
 そう言ってくれたのは
 ――
御身を我一命に賭けて守護せしことを此処に
 あの時の二人だけの誓いは
 ――
たとえ、神に逆らったとしても
 そう言ってくれたじゃないか!!
「あれは全てウソだったのか!?虚言だったのか!!?」
 踏みとどまっていた足が、吸引力に引き摺られていく。
 徐々に、だが確実に体がゲートに飲み込まれていく。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!!」
 それは魂の咆哮だった。

だが、彼女は何も答えてはくれない。
 ただ哀しみに彩られた真紅の瞳をこちらを向けている。
「何故だっ!!なんでこんなことをっ!!?」

 ついに体が時空の歪みに捕われ始めた。
 必死に手を伸ばすも、掴むのはただ空しく虚ばかり。
「やめてよ!!やめてくれ!!!」

 この闇に飲まれたら、彼女にもう逢えない。もう、あの大好きな微笑みを見ることは叶わない。
―――嫌だ!
 理由も分からぬまま、こんなこんな形で彼女と離れたくはない。別れたくない!
 嗚呼もう半身を飲み込まれた。
 下半身は完全に闇に飲み込まれて見ることはできない。
 上半身だけを無理矢理に彼女に近づける。

その時だった。
 彼女が、小さく唇を動かす。
 それが、『ごめんなさい』と形作るのがはっきりと分かった。
 何故、謝る?それは裏切りへの謝罪か?それとも、今は窺い知れぬわけがあると言うのか?
 必死の抵抗も空しく、その視界が時空の歪みから生まれる闇で閉ざされるその――
 最後の瞬間
 涙よりも悲しい
 彼女の
 微笑みを見た。



SESSION・27
『マナちゃん・はんまー』



 ――なぜ
ゃん
 ――ラ・ピュセル
・・ン・・ゃん
 ――なんでそんなに悲しい顔をするの
シン・・ゃん
 ――どうして
「シンちゃん!!シンちゃんっ!!!」
「はっ!?」
 身体を揺すられる感覚と、呼びかけられる声にシンジは目を醒ました。
 視界にあるのは、少し歪んで見える見知らぬ天井。
 霞む目に手をやると、指が涙で濡れた。
「シンちゃん、起きた?」
 揺すってもなかなか起きなかったシンジに、マナが心配そうに声をかける。
「あうん」
 どうやら部屋で一休みしている内に寝込んでしまったらしい。
「シンちゃん、泣いてたよ。また、あの女の子の夢を見たの?」
「うん」
 俯き加減で沈んでいるシンジ。
「あのオフロ沸いたけど入る?」
 そんなシンジを見ていると何だか声をかけにくい。
「うん」
 マナの言葉にシンジは弱々しく頷いた。

「おじいちゃん、お茶が入ったよ」
 風呂場にシンジを案内した後、マナは祖父のいる居間でお茶を煎れていた。
 居間といっても囲炉裏や天井に梁のある古風なものではなく、以外に今時リビングの間取りに近い。
 霧島家の屋敷の外観からは、どうしても純和風の建築様式を想像してしまうが、全てが万事そうであるとは限らないようだ。
 因みに、現在シンジが入浴中の風呂も五右衛門風呂等ではなく、最新のユニットバスである。
「うむ」
 宗主は、皮張りのやたらデラックスな座椅子に偉そうに腰掛けて、せんべいをバリバリと食べながらテレビを見ていた。
「あぁ――!おじいちゃんったら、まぁたそんなエッチなビデオばっかり見てっ!!」
 宗主は、マナが側にいると言うのに教育上よろしくないとっても如何わしいビデオを無感動に見ていた。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
「まったくぅ!この前わたしが全部処分したはずだったのに!!」
 宗主はマナが引っ越す前から常にこの手のビデオ鑑賞を趣味としていた。
 だが、別に女性の裸をどうこう思っている様子はなく、ただ暇つぶしに延々と眺めているだけだ。
「うむ」
「うむ。じゃないでしょぉ〜!!没収ですっ!!」
 マナはかんかんに怒りながら、有無を言わさず(?)デッキからDVDのソフトを引っこ抜いた。
「まったくもお〜。一体こんな山奥に居ながら次ぎから次へとどうやって入手してるんだか」
 呆れるやら情けないやらで、マナは深々と溜め息を吐く。
 彼女はDVDを床に設置すると、何処から持ってきたのか巨大なハンマーを担ぎ出した。
「マナちゃん・はんま――っ!!!」

 気合一閃、自分の体よりもゴツイはんまーを一気に振り下ろす。
ばきばきぃっ!!
「ふぅ。悪は滅びたわ」
 無残にも粉々になったDVDを見下ろしながらマナは言った。
 その表情は、なにか清々しいものを感じさせる。
 それを尻目に、宗主は新しいDVDのソフト(やっぱり如何わしいやつ)をプレイヤーにセットしていた。
 懲りないじいさんである。
「って、言ってるそばからやめなさーい!!」
 風を切り、唸りを上げてマナちゃん・はんまーで今度はプレイヤーごと破壊するマナ。
どっごん☆!!!

 返す刀(?)でじーさんをも殲滅する。
「成敗っ!!」
ごすぅっ!!
「ううむ。のーぷろぶれむぢゃ」
 崩れ落ちかけるじーさんと間合いを詰め、『まだ眠らせねぇぜっ!!』という具合に胸元を引っ掴むとマナは言った。
「で、おじいちゃん。シンちゃんを見た限りの印象は?」
「うむ」
「うむ。じゃなくてぇ〜、もっとちゃんと!!」
 がくがくとじいさんを揺さぶるマナ。
 全く容赦する様子はない。
「彼奴には」
 今度はまともに喋り出した宗主に、揺さぶるマナの手がぴたりと止まる。
「あやつにはなに?」
「うむ。彼奴にはマナの言う通り、何らかの能力があることは確かなようじゃ」
 その言葉に、引っ掴んでいた宗主をぱっと手放すマナ。
 当然ながら、突然支えを失った宗主の体は無残に地べたに落下する。
「ううむ」
「じゃあじゃあ、やっぱりシンちゃんには何かあるんだ!ねえ、それがどんな力なのか特定できないの?」
「うむ」
 宗主は体勢を立て直し、座椅子に掛け直す。
「彼奴から発せられる波動は、属性が不確定に変化しつづけておる」
 気のせいか、宗主の表情は険しい。もっとも、普段から不機嫌そうな仏頂面なのだが。
「それってどういうこと?」
「現時点では特定はできぬ――ということぢゃ。明日、きちんとした法式を以って判別せねばな」
「おじいちゃんでも、なぁんにも分からないの?」
「いや。全く分からんというわけでもない。ノープロブレムぢゃ」
 相変わらず仏頂面で言う宗主。もしかしたらプライドに触ったのかもしれない。
「え、なになに?何が分かったの!?」
 興味津々のマナは身を乗り出して訊く。
「うむ。――ある金属等は、強い電流を流されるとしばらくの間『帯電』――電気の力が消えずに残ることがある」
「えっ?」
 チンプンカンプンのマナ。
「分からぬか。彼奴には、その帯電のような症状が見られるということぢゃ。
 恐らく過去のある時期に余程強力な術を其の躯に受けたのぢゃろう。その際浴びた魔力法力まあ、そういったものが未だに消えずに残留しちょる。彼奴が生来持っておる力に其の力が影響を及ぼし、更にはマナ。おぬしの増幅能力の付加効果も加わって、彼奴の力は今複雑な形を見せちょる。そういうことぢゃ」
 一応本業であるこの分野のこととなると、宗主は些か饒舌になるようだ。
「ふーん。なんだか良く分からないけど、『過去』にシンちゃんは何らかの形で強い魔法みたいなのをかけられた。――で、シンちゃんの元の力と、その魔法の影響と、私の能力とがごっちゃ混ぜになってるからわけ分かんないってことね?」
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
「ふ〜む」
 マナはシンジを取り巻く謎に思いを馳せる。
 それがシンジ当人にとって面白いものとは限らないが、少なくともマナにとっては胸を高鳴らせる冒険の予感そのものなのだ。
 シンジに引っ付いていれば、何か面白いことに遭遇できる。
 彼女の目に狂いはなかった。



SESSION・28
『ブラック・アウト』


 宗主の一日は、華麗に始まる。
 フッ、朝か。
 今朝は何故か、いつもより体が軽い。
 さては、知らぬうちに若返ったか。
 フッ、さすがわしぢゃ。
 隙がない。
 わしは霧島いや。名は言わん。
 何故ならわしは、謎多きミステリアスなナイス・ミドルぢゃからぢゃ。尊敬しろ。
 更に、わしは平安の頃より続く歴史ある霧島宗家の総代、トップぢゃ。偉いんぢゃ。崇拝しろ。
 わしの朝は、熱いシャワーから始まる。
 紳士のたしなみというやつぢゃ。
 おもむろに鏡を覗き込む。
 フッ。
 相変わらず犯罪的なダンデー(注:ダンディ)ぶりぢゃ。ダデー(注:ダディ)ではない。間違えるな。
 エレガントに脱衣しちゃる。
 見事なボデー(注:ボディ)ぢゃ。
 ギリシアの彫刻も真っ青ぢゃ。
 ん?また自動的に少し体が引き締まったか?
 フッ、さすがわしぢゃ。
 ムダがない。
 シャワーの後は、シェービングぢゃ。
 このエルキュール・ポワロも真っ青な芸術的口髭を、細心の注意を払ってカットしちゃる。
 もはや、ここまで来ればただの人間とは言えまい。
 生きる美術品ぢゃ。ピカソぢゃ。シャガールぢゃ。ダ・ヴィンチぢゃ。人間国宝ぢゃ。
 シェービングを終えると、朝食ぢゃ。
 わしは、健康には煩い。
 病の原因は、生活の根本にあり。これは、わしの格言ぢゃ。覚えろ。
 当然、玄米パンは基本ぢゃ。
 ミルクは絞りたてのやつぢゃ。当然腰に手を当てて飲め。その時、朝日に目を向けるのは基本ぢゃ。
 だが最も大切なのは、愛すべき家族と共に和やかに食するということぢゃ。
 おぉ、我最愛の『澪−みお−』よ。
 キミは、何故に死にたもうたのか。
 ぼくちゃん、さみちぃーよぉぅ。
 しくしくしく。
 ――はっ!?
 キサマ、今のを撮ったのか?
 いかん。今のは無しぢゃ。
 NGだ。編集しろ。
 人は誰しも愛する者を失えば、気弱になるものぢゃ。
 故に、今のは仕方のないことに決まっちょる。
 決してわしが情けない軟弱な中年だというわけではない。本当ぢゃ。信じろ。
 それにぢゃ。
 わしには、まだハートフルな澪との『絆』が残っちょる。
 それがズバリ、我愛孫の『マナ』ぢゃ。
 人は、愛する人とその一代にしてはひとつになれぬものぢゃ。
 どんなに想い合っていても、人は他人とひとつには成り得ん。
 だが、次の世代でひとつとなることは可能ぢゃ。
 子供というのは、その証。孫もまた然りぢゃ。
 わしと、その妻――澪との体と心が半分ずつ交じり合い、ひとつの魂となったのが我娘、『零奈−れいな−』ぢゃ。
 そして、その零奈の娘が『マナ』なのぢゃ。
 確かにわしの妻『澪』も娘の『零奈』も、もうこの世にない。
 だが、わしと澪がひとつになったという証、マナがわしにはおる。
 今はそれだけで救われるというものぢゃ。
 フッ、さすがわしぢゃ。
 並みのグランド・ファザーには吐けぬ台詞ぢゃ。
 まさに、ナイス・ダンデーもとい、ダデー。
 さあ、私のマナが居間でわしを心待ちにしているに違いない。
 そういえば、今日は碇シンジとかいう小僧も一緒ぢゃったの。
 フッ、マナよ。
 グランド・パパが今から行くからね〜。
 わしは朝食をマナと和気藹々と摂るべく、居間へと急ぐ。
 さあ、扉は目の前ぢゃ。
 生まれついてのエンターテイナーたるわしが普通に登場しては、マナも悲しむことぢゃろう。
 ここは、一発、わしが天才演出家であることを鮮烈にアッピィール(注:『ル』は巻き舌で発音)せねば。
バンっ!!

 わしは、勢い良く両手で居間へと続く戸を打ち開くと、勢い良く踊り込んだ。
「グッモォーニン・えぶりわんっ!!
 マナぁぁぁっ!!『グランド・パピィ〜』ぢゃよぉぅっ!!」

 フッ、マナと碇シンジとか言う小僧はわしのあまりの素晴らしい演出ぶりに唖然としちょる。
 さすが、わしぢゃ。
 やはり天才ぢゃ。
 しばらくして、硬直が解けたマナの頬が朱に染まり始めちょる。
 フッ、マナよ。気持ちは嬉しいが、それは駄目ぢゃ。
 祖父と孫娘では男女の愛は許されぬ。禁断の領域なのぢゃ。
 何よりわしには、『澪』という永久(とわ)を誓った亡き妻がいるのだ。すまんな。
 だがさすがわしぢゃ。
 罪な男よ。
 だが、両手で顔を覆って『いやいや』をするように首を振っているのは何故ぢゃ?
 フッ、百戦錬磨のこの私にもまだまだ女というものが理解できぬ。
 この時点で宗主は未だに、シャワーを浴びた後服を着るのを忘れて、裸のまま居間までやって来たことに気付いてはいなかった。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!!変態よぉぉぉぉぉぉっ!!」
「えっ、変態?いや、私はグランド・ファザーなんぢ」

「マナちゃん・デラックス・はんまぁ―――っ!!」

どっごん☆


 恐ろしいまでの衝撃が宗主を襲う。

「ぐはあぁぁぁぁっ!!」

 哀れ、ボロ雑巾の如く宙を舞い壁に激突する宗主。
「おおお澪久しぶ
ガクっ。
 謎の言葉を残して宗主、朝っぱらからブラック・アウト。
 こうして宗主の人生は、華麗に終わりかけた。




SESSION・29
『ロスト・メモリー』


 周知の通り、霧島家は大きな四つの家屋から構成されている。
 隣接する各館を直線で結び、北を上としたとき、その並びは奇麗な菱形を描く。
 つまり真北・真西・真東・真南それぞれの方角に各館があるのである。
 これらの配置から、風水の理において、北の閣を『玄武』、西の閣を『白虎』、南の閣を『朱雀』、東の閣を『青龍』、其々四聖獣に『見立て』を行い『龍脈』及び『龍穴』を生み出していることを知るものは少ない。
 言わば、屋敷の配置そのものが霊的な意味を持つ一種の魔法陣なのだ。
 ただ、然るべき方位に屋敷を並べればそれで意味を持つというものでもない。
 風水師が祝詞と五行の理に則った術――見立てを執行しなくてはならないのだ。
 その見立てが正常な形で行われてはじめて龍脈人体で言うところの気の流れは正常に作用する。
 さてシンジとマナがやって来てから一夜明けた早朝、シンジ・マナ・宗主の三人はその四つの館の家の一つ、東に位置する青龍の間に集まっていた。
 この『東』という方位は、『啓発』『解明』『永久』『神秘』なるものを司る。
 殆どのクラフト即ち魔術の流儀において、祭壇が東側一列に設置される傾向があるのは此れに基づく。
 東は人間の最も霊的な力を表象するのだ。
 故にシンジの能力分析において、この東側の館が儀式の場として選択されたのは当然だと言える。
 彼らが現在いる部屋は、かなり広い寺の本堂のような場所だ。
 御多分に漏れず、ここも歴史を感じさせる板張りの部屋で、真夏でありながらもどこか肌寒さを感じさせる。
 部屋の各角には幾つかの香が焚かれていて、広い部屋に不思議な香りを漂わせている。
 その香りに包まれると心が落ち着きながらも、何か意識に靄がかかったような――何とも言い難い感覚に襲われる。
 部屋の上座には宗主がやたらと威圧感を醸し出して鎮座していた。
 少し離れたその向かいに正座しているのはシンジ。
 その面持ちは硬い。どうやら香の効果を得て尚緊張状態にあるらしい。
 マナはシンジの右斜め後ろに、控えめに座っていた。
 宗主は、儀式を執り行うというのに今日もそのままで葬式に出席できそうな、黒で固めたスーツ姿だ。
「碇シンジィ!!!」


「ははいぃっ!!?」
 突然の怒号に慄くシンジ。
 どうでもいいが、名前を呼ぶたびに魂を削るような大声を出すのだけは止めて欲しい。
「大体の話は分かった。どうやらおぬしには何からの力があり、何らかの形で術を受けた過去があるようじゃ」
「ねえ、その何らかの術ってなんなの、おじいちゃん?」
 マナが横から口を入れる。
「うむ。詳しいことは此れより調べるが、どうやら長期に渡って人体に何らかの影響を及ぼす言わばプログラムのようなものを施されたようぢゃ。それだけではない。他にも属性の異なる術を幾つか受けちょる」
「複数の魔法をかけられたの?」
「魔法というと語弊があるが、まあ端的に言えばマナの言う通りぢゃ」
 (それって呪いなんじゃ)
 シンジの背中を冷たいものが走る。
「あの〜、それって僕に何か害があるものなんでしょうか?」
 おっかなびっくりシンジが問う。
 その脳裏には、七日後に死ぬとか言われたらどうしようなどといった不吉な予感しかない。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
 (ノープロブレムって心配ないってことだよね?じゃ、大丈夫なのかな?でも、マナのおじいちゃんが、意味もなくノープロブレムぢゃって何度か言ってるのを聞いたことがあるしなぁ)
 余計に混乱するシンジ。
「それで、どうやってシンちゃんのこと調べるの?」
「うむ」
 マナの問いに宗主は腕を組んで思わせぶりな間をとる。
「ねえねえどうやるの?」
「過去へ溯る」
 その言葉は、強く重く室内に響き渡った。
「過去を溯るそんなことできるんですか?」
 惚けたようにぽつりぽつりとシンジが言葉を紡ぐ。
「そんなことたぁ、できん!」
 仏頂面で明言する宗主に、ゆらりと立ち上がったマナは、はんまーを担ぎ出した。
「ままて。落ち着くんぢゃマナ。物理的には無理と言うただけぢゃ」
「どーゆーこと、おじいちゃん」
 疑惑に満ちた視線で宗主を睨み付けるマナ。
 どうやら彼女は宗主が苦し紛れにいい加減なことを言い出したと思っているらしい。
「うむ。あるぢゃろうが。直に過去へ行かずとも過去を窺い知ることができるものが」
「えっ?」
「なんだろう?」
 ?マークのシンジとマナ。
「メモリーつまり、記憶ぢゃ」
「記憶ですか?」
「でも、シンちゃんには何の覚えもないんだよ?」
 マナの指摘は尤もだ。その記憶がないからわざわざ京都くんだりまでやって来たのだ。
「だから物理的にではないと言うちょる。所詮は記憶と言う概念的なものであっても、脳の記憶中枢の働きによる科学的な現象に頼っとることに変わりはない。今回は霊的なメモリーに直接アクセスするのぢゃ」
「霊的なめもりぃってなに?」
「うむ。勉強不足じゃな、マナ。以前教授したぢゃろう。蜘蛛の巣と聞いて何か思い出さぬか?」
「あっ!?」
 その宗主の言葉を聞いて、マナはぽんっと手を打った。
「えーと、確か一般的に『霊力』とか『法力』とか『魔力』だとかそういった超自然的と考えられている力には、空間や距離、時間だとかいった物理的な法則制約は存在しない。
 ――それでぇ、んーと時空連続体の『時間軸』を蜘蛛の巣の『縦糸』、『空間』を『横糸』と例えれば、それらの力はその蜘蛛の糸を滑る朝露の如く自由に伝わり、その効力は如何な過程を経ようとも些かも薄れることはないだっけ?」
 一言一言確認するように暗唱するマナ。
 因みに、その言葉は覚えていても意味は全く理解していない。
「うむ。まぁ、部分的にはいい加減なところもあるが大方その通りぢゃ。今、マナが言った通り霊的な力にはその効力を及ぼす距離・時間などに制約はない。
 無論、今ではない時間、此処ではない場所にその効力を伝えようとすればその分大量のエネルギーを消費することになるし、一旦効力を発揮すれば時間と共にその効果を失うこともある。だが、基本的に術が対象に届くまでの間はその効力が薄れることはない」
「うんよく分かんないけどそれは分かったよ。で、それがなんなの?」
 話はだんだんと難解な方向へ及んでゆく。
 それをいちいち納得いくまで追求するのは無駄と判断したマナは、疑問はともかく話の先を促した。
「良いかマナ。普通人間の記憶は時と共に薄れる。それを呼び起こすには『催眠術』などといった特殊な手段に頼らざるをえん。今回は、その催眠術のように法術を行使することで碇シンジ個人にかけられたプログラムを辿り、それに纏わる歴史メモリーをフラッシュバックさせちゃるのぢゃ」
「はあ」
 相変わらず、その手の知識ゼロのシンジにはチンプンカンプンだ。
「おぬしには、恐らく何者かに記憶を封じるような術も施されておるのぢゃろう。もしくは、自分自身の持つ特殊な力でその記憶を封じているのやもしれん。だが、おぬしがその少女の幻影や夢を見るようになったのは、霊的な記憶を持っているから他ならん」
「それって、シンちゃんは普通の記憶としてその娘のことを覚えているんじゃなくて、潜在的に備わっている特別な力そのものが彼女の記憶を持っているってこと?」
「うむ。そう考えて間違いはあるまいて」
「じゃあ、その力が覚えている記憶に今から働きかけるんですか?」
 なんとなくシンジが聞いて訊いてみる。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
「その記憶を開放できれば、ここのところシンちゃんの身の周りに起こり始めた不思議な事態の謎も解けるのね?」
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
 早鐘のように鳴り出した心臓。
 ついに、これからラ・ピュセルと碇シンジではない自分との謎が明らかになるのだ。
 それはシンジの切ないまでの願いであり、大いなる不安でもあった。
 全てが明らかになった時自分は一体どうなるのだろうか。
 それを知って、一体何になるのだろうか。
 彼女と出会えるのだろうか?
 複雑な感情の奔流に弄ばれ薫る香のせいもあろうか、徐々に思考は働かなくなってくる。
 烈火の中の叫び月下の微笑み二人の誓い離別の絶叫裏切りの予感
 そして、涙よりも悲しい笑み。
 ラ・ピュセル!!

 ようやくようやく会える
 でも今は、何故かそれが凄く恐い



SESSION・30
『旅立ちの瞬間』


「では、今から法式を整え術を執行しちゃる」
 宗主が重々しく言い放った。
「でも、おじいちゃん。その術ってそんなに簡単にできちゃうの?」
 確かに、聞いた限り術の効力を辿って過去を溯るというからには、なにやら大掛かりな感じがする。
「気付かぬか、マナ。この香はただ意味無く焚いておるわけではない」
「あっ!?」
「この香はの、人の意識を内面に篭り易くする効果があるインナー・スペースへ意識を潜らせ過去を引き出すにはうってつけの香ぢゃ。既に術は始まっておる。おぬしらがこの空間に足を踏み入れたその時からの」
「すっごぉ〜い!!なんか、おじいちゃんいつに無く渋ぅ〜い」
「フッ尊敬しろ」
 粋な演出に両手を合わせて喚声を上げるマナに、整えられた口髭を撫で付けて悦にいる宗主。
「ではわしは此れより術を発動し、霊的な場を固定するため言の葉を発し精神統一を図る。おぬしは目を閉じ、わしの言の葉に耳を傾けよ」
「あの言の葉って何ですか?」
 素朴な疑問を発するシンジ。
「うむ。まあ、呪文のようなものぢゃ。イッツ・ア・ノープロブレムに決まっちょる」
「ははい。その呪文を目を閉じて聞いていればいいんですね?」
「うむ。マナも静粛にしておれ」
「は〜い」
 ドキドキと好奇心に高鳴る胸に手を添えて、マナは元気に返事をした。
 その返事に満足したらしく、深く頷くと宗主は
「では、術にはいる」
 おもむろに呪文を唱え始めた。
「はぁ〜〜〜
 美女の胸ぇ〜
 美女のふとももぉ〜
 美女のふくらはぎぃ〜
 はぁ〜〜〜〜
 美女とチュ〜したい〜
 美女とデートしたい〜
 美女を押し倒したい〜
 美女を〜

マナちゃん・天誅ぅ〜・はんまぁぁ――!!!!」

どごすぅっ☆!!

ぶぎゃっ!!
 朗々と破廉恥な呪文を唱え始めた宗主に、マナの正義の鉄槌が下った。
「ひ…ひとが精神集中しておるのに何をするんぢゃマナがくっ」
 崩れ落ちようとする宗主を『まだオネンネには早すぎるぜぇっ!』っと言わんばかりに胸元を引っ掴んでガクガクと揺さぶるマナ。
「なぁにが『精神集中』ですかっ!!そりゃ、あんたの欲望をつらつらと吐き出しただけじゃないのぉ〜!!」
 ガックンガックンと首を前後に揺すられる宗主。
 マナに全くの手加減はない。
「何を言う、マナよ。これは、れっきとした精神集中呪文ぢゃ!」
「だから、どぉこぉがぁ『呪文』なのよぉっ!!?」
 その壮絶な光景を、ただただ唖然と見届けるしかないシンジ。
「うむ。よいか、マナよ。呪文とは適当な形式にすぎんのぢゃ。本来、術は決められた精神状態に自分を持っていくことで発動する。呪文というのは、ある方向に精神を導く補助効果を期待するものぢゃ。故に、その呪文自体は何でも良い。アブラ・カタブラでもマハリク・マハリタ・ヤンバルクイナでも構わんわけぢゃ」
「ヤンバルクイナ天然記念物の、あの鳥のことかな?」
 シンジはひとり密かに首を捻っていた。
「まあ、自己催眠のようなものぢゃ。呪文とは術そのものへではなく、自分自身へのものなのぢゃからな。要は、その呪文を唱えることで自分が魔法を使っておると無意識に思い込めれば、言葉の内容はなんでも良いわけぢゃ」
「そそうなの?」
 意外にもそれなりの理屈を並べ始めた宗主に、気勢を削がれるマナ。
「そうなんぢゃ」
「ででも、それにしたって、あんな呪文はダメったらダメですっ!!」
 こうなったら、押しで勝負である。
「――しかし、そうは言うてもこの呪文でなくては術は完成できぬぞ。それでも良いのか?マナ、ん?」
 だが、そこは年の功。伊達に宗主をやっているわけではない。
 したり顔でマナに目を向け、意地悪く言い放つ。
「う。むぅ〜。仕方ないわじゃあ、聞こえないように小さな声で唱えてね」
 足元を見られ、反撃できないマナは渋々折れた。
 今回は完敗である。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
 そう言って、ニヤリと邪な勝利の笑みを見せると宗主は詠唱を再開した。
「はぁ〜〜〜
 美女の胸ぇ〜
 美女のふとももぉ〜
 美女のふくらはぎぃ〜
 はぁ〜〜〜〜
 美女とチュ〜したい〜
 美女とデートしたい〜
 美女を押し倒したい〜
 美女を〜

 これ見よがしの大声である。
 マナの要請を完全に無視して、宗主の恥ずかしい呪文の詠唱は部屋中にビンビンと響く。
 彼は珍しくマナに完勝して、明らかに調子に乗っていた。
 その嫌がらせとも思える口撃に、ぷるぷると怒りに身を震わせながらも何も言えないマナ。
 そんなおバカな二人をよそに、シンジは術の効力に飲み込まれその精神世界の中、隠された過去に埋没しつつあった。
「おじいちゃん、シンちゃんが!!」
 目を閉じたまま、ピクリとも動かなくなったシンジに気付いてマナが声を上げる。
「うむ。術が成功したようぢゃの。ノープロブレムぢゃ」
「シンちゃんどうなっちゃうの?」
 心配そうにシンジの顔を覗き込みながらマナが言う。
「今、此奴の意識は内なる世界に埋没し、かけられた術を辿って過去の因縁ある基点まで進んでおる最中ぢゃ」
「シンちゃんが過去を見ている間、わたしたちは何もできないの?」
「うむ。ノープロブレムぢゃ。此奴の意識が無事に過去の事件のスタート地点まで辿り着けば、過去の映像が始まる。わしの術によって此奴のヴィジョンをリンクさせておいたから、わしらの脳に此奴の過去の歴史が直接流れ込んでくるぢゃろう」
「それって、シンちゃんが見る過去を私たちも一緒に体験できるってこと?」
「うむ。そのために、わしらもいわゆるトランス状態まで意識を持っていかねばならぬ」
「どうすればいいの?」
 マナはすっかり興味を引かれたらしく、身を乗り出して訊いた。
「此奴と同じじゃ。くだらんことを気にせず、目を閉じて精神を統一し、わしの術を受け入れよ。頑なに拒んでおってはこれから始まる滅法面白い、此奴のドラマを見逃すことになるぞ」
「分かった努力する」
 口元を引きつらせながらマナは了解した。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
 やがて宗主の呪文の詠唱が三度部屋に響き始める。

 ――今、全てを飲み込む運命の濁流は激しく一点に渦巻き始めた。



to be continued...


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