だが、彼女は何も答えてはくれない。
ただ哀しみに彩られた真紅の瞳をこちらを向けている。
「何故だっ!!なんでこんなことをっ!!?」
ついに体が時空の歪みに捕われ始めた。
必死に手を伸ばすも、掴むのはただ空しく虚ばかり。
「やめてよ!!やめてくれ!!!」
この闇に飲まれたら、彼女にもう逢えない。もう、あの大好きな微笑みを見ることは叶わない。
―――嫌だ!
理由も分からぬまま、こんなこんな形で彼女と離れたくはない。別れたくない!
嗚呼もう半身を飲み込まれた。
下半身は完全に闇に飲み込まれて見ることはできない。
上半身だけを無理矢理に彼女に近づける。
その時だった。
彼女が、小さく唇を動かす。
それが、『ごめんなさい』と形作るのがはっきりと分かった。
何故、謝る?それは裏切りへの謝罪か?それとも、今は窺い知れぬわけがあると言うのか?
必死の抵抗も空しく、その視界が時空の歪みから生まれる闇で閉ざされるその――
最後の瞬間
涙よりも悲しい
彼女の
微笑みを見た。
SESSION・27
『マナちゃん・はんまー』
ん
――なぜ
ゃん
――ラ・ピュセル
・・ン・・ゃん
――なんでそんなに悲しい顔をするの
シン・・ゃん
――どうして
「シンちゃん!!シンちゃんっ!!!」
「はっ!?」
身体を揺すられる感覚と、呼びかけられる声にシンジは目を醒ました。
視界にあるのは、少し歪んで見える見知らぬ天井。
霞む目に手をやると、指が涙で濡れた。
「シンちゃん、起きた?」
揺すってもなかなか起きなかったシンジに、マナが心配そうに声をかける。
「あうん」
どうやら部屋で一休みしている内に寝込んでしまったらしい。
「シンちゃん、泣いてたよ。また、あの女の子の夢を見たの?」
「うん」
俯き加減で沈んでいるシンジ。
「あのオフロ沸いたけど入る?」
そんなシンジを見ていると何だか声をかけにくい。
「うん」
マナの言葉にシンジは弱々しく頷いた。
「おじいちゃん、お茶が入ったよ」
風呂場にシンジを案内した後、マナは祖父のいる居間でお茶を煎れていた。
居間といっても囲炉裏や天井に梁のある古風なものではなく、以外に今時リビングの間取りに近い。
霧島家の屋敷の外観からは、どうしても純和風の建築様式を想像してしまうが、全てが万事そうであるとは限らないようだ。
因みに、現在シンジが入浴中の風呂も五右衛門風呂等ではなく、最新のユニットバスである。
「うむ」
宗主は、皮張りのやたらデラックスな座椅子に偉そうに腰掛けて、せんべいをバリバリと食べながらテレビを見ていた。
「あぁ――!おじいちゃんったら、まぁたそんなエッチなビデオばっかり見てっ!!」
宗主は、マナが側にいると言うのに教育上よろしくないとっても如何わしいビデオを無感動に見ていた。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
「まったくぅ!この前わたしが全部処分したはずだったのに!!」
宗主はマナが引っ越す前から常にこの手のビデオ鑑賞を趣味としていた。
だが、別に女性の裸をどうこう思っている様子はなく、ただ暇つぶしに延々と眺めているだけだ。
「うむ」
「うむ。じゃないでしょぉ〜!!没収ですっ!!」
マナはかんかんに怒りながら、有無を言わさず(?)デッキからDVDのソフトを引っこ抜いた。
「まったくもお〜。一体こんな山奥に居ながら次ぎから次へとどうやって入手してるんだか」
呆れるやら情けないやらで、マナは深々と溜め息を吐く。
彼女はDVDを床に設置すると、何処から持ってきたのか巨大なハンマーを担ぎ出した。
「マナちゃん・はんま――っ!!!」
気合一閃、自分の体よりもゴツイはんまーを一気に振り下ろす。
ばきばきぃっ!!
「ふぅ。悪は滅びたわ」
無残にも粉々になったDVDを見下ろしながらマナは言った。
その表情は、なにか清々しいものを感じさせる。
それを尻目に、宗主は新しいDVDのソフト(やっぱり如何わしいやつ)をプレイヤーにセットしていた。
懲りないじいさんである。
「って、言ってるそばからやめなさーい!!」
風を切り、唸りを上げてマナちゃん・はんまーで今度はプレイヤーごと破壊するマナ。
どっごん☆!!!
返す刀(?)でじーさんをも殲滅する。
「成敗っ!!」
ごすぅっ!!
「ううむ。のーぷろぶれむぢゃ」
崩れ落ちかけるじーさんと間合いを詰め、『まだ眠らせねぇぜっ!!』という具合に胸元を引っ掴むとマナは言った。
「で、おじいちゃん。シンちゃんを見た限りの印象は?」
「うむ」
「うむ。じゃなくてぇ〜、もっとちゃんと!!」
がくがくとじいさんを揺さぶるマナ。
全く容赦する様子はない。
「彼奴には」
今度はまともに喋り出した宗主に、揺さぶるマナの手がぴたりと止まる。
「あやつにはなに?」
「うむ。彼奴にはマナの言う通り、何らかの能力があることは確かなようじゃ」
その言葉に、引っ掴んでいた宗主をぱっと手放すマナ。
当然ながら、突然支えを失った宗主の体は無残に地べたに落下する。
「ううむ」
「じゃあじゃあ、やっぱりシンちゃんには何かあるんだ!ねえ、それがどんな力なのか特定できないの?」
「うむ」
宗主は体勢を立て直し、座椅子に掛け直す。
「彼奴から発せられる波動は、属性が不確定に変化しつづけておる」
気のせいか、宗主の表情は険しい。もっとも、普段から不機嫌そうな仏頂面なのだが。
「それってどういうこと?」
「現時点では特定はできぬ――ということぢゃ。明日、きちんとした法式を以って判別せねばな」
「おじいちゃんでも、なぁんにも分からないの?」
「いや。全く分からんというわけでもない。ノープロブレムぢゃ」
相変わらず仏頂面で言う宗主。もしかしたらプライドに触ったのかもしれない。
「え、なになに?何が分かったの!?」
興味津々のマナは身を乗り出して訊く。
「うむ。――ある金属等は、強い電流を流されるとしばらくの間『帯電』――電気の力が消えずに残ることがある」
「えっ?」
チンプンカンプンのマナ。
「分からぬか。彼奴には、その帯電のような症状が見られるということぢゃ。
恐らく過去のある時期に余程強力な術を其の躯に受けたのぢゃろう。その際浴びた魔力法力まあ、そういったものが未だに消えずに残留しちょる。彼奴が生来持っておる力に其の力が影響を及ぼし、更にはマナ。おぬしの増幅能力の付加効果も加わって、彼奴の力は今複雑な形を見せちょる。そういうことぢゃ」
一応本業であるこの分野のこととなると、宗主は些か饒舌になるようだ。
「ふーん。なんだか良く分からないけど、『過去』にシンちゃんは何らかの形で強い魔法みたいなのをかけられた。――で、シンちゃんの元の力と、その魔法の影響と、私の能力とがごっちゃ混ぜになってるからわけ分かんないってことね?」
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
「ふ〜む」
マナはシンジを取り巻く謎に思いを馳せる。
それがシンジ当人にとって面白いものとは限らないが、少なくともマナにとっては胸を高鳴らせる冒険の予感そのものなのだ。
シンジに引っ付いていれば、何か面白いことに遭遇できる。
彼女の目に狂いはなかった。
SESSION・28
『ブラック・アウト』
宗主の一日は、華麗に始まる。
フッ、朝か。
今朝は何故か、いつもより体が軽い。
さては、知らぬうちに若返ったか。
フッ、さすがわしぢゃ。
隙がない。
わしは霧島いや。名は言わん。
何故ならわしは、謎多きミステリアスなナイス・ミドルぢゃからぢゃ。尊敬しろ。
更に、わしは平安の頃より続く歴史ある霧島宗家の総代、トップぢゃ。偉いんぢゃ。崇拝しろ。
わしの朝は、熱いシャワーから始まる。
紳士のたしなみというやつぢゃ。
おもむろに鏡を覗き込む。
フッ。
相変わらず犯罪的なダンデー(注:ダンディ)ぶりぢゃ。ダデー(注:ダディ)ではない。間違えるな。
エレガントに脱衣しちゃる。
見事なボデー(注:ボディ)ぢゃ。
ギリシアの彫刻も真っ青ぢゃ。
ん?また自動的に少し体が引き締まったか?
フッ、さすがわしぢゃ。
ムダがない。
シャワーの後は、シェービングぢゃ。
このエルキュール・ポワロも真っ青な芸術的口髭を、細心の注意を払ってカットしちゃる。
もはや、ここまで来ればただの人間とは言えまい。
生きる美術品ぢゃ。ピカソぢゃ。シャガールぢゃ。ダ・ヴィンチぢゃ。人間国宝ぢゃ。
シェービングを終えると、朝食ぢゃ。
わしは、健康には煩い。
病の原因は、生活の根本にあり。これは、わしの格言ぢゃ。覚えろ。
当然、玄米パンは基本ぢゃ。
ミルクは絞りたてのやつぢゃ。当然腰に手を当てて飲め。その時、朝日に目を向けるのは基本ぢゃ。
だが最も大切なのは、愛すべき家族と共に和やかに食するということぢゃ。
おぉ、我最愛の『澪−みお−』よ。
キミは、何故に死にたもうたのか。
ぼくちゃん、さみちぃーよぉぅ。
しくしくしく。
――はっ!?
キサマ、今のを撮ったのか?
いかん。今のは無しぢゃ。
NGだ。編集しろ。
人は誰しも愛する者を失えば、気弱になるものぢゃ。
故に、今のは仕方のないことに決まっちょる。
決してわしが情けない軟弱な中年だというわけではない。本当ぢゃ。信じろ。
それにぢゃ。
わしには、まだハートフルな澪との『絆』が残っちょる。
それがズバリ、我愛孫の『マナ』ぢゃ。
人は、愛する人とその一代にしてはひとつになれぬものぢゃ。
どんなに想い合っていても、人は他人とひとつには成り得ん。
だが、次の世代でひとつとなることは可能ぢゃ。
子供というのは、その証。孫もまた然りぢゃ。
わしと、その妻――澪との体と心が半分ずつ交じり合い、ひとつの魂となったのが我娘、『零奈−れいな−』ぢゃ。
そして、その零奈の娘が『マナ』なのぢゃ。
確かにわしの妻『澪』も娘の『零奈』も、もうこの世にない。
だが、わしと澪がひとつになったという証、マナがわしにはおる。
今はそれだけで救われるというものぢゃ。
フッ、さすがわしぢゃ。
並みのグランド・ファザーには吐けぬ台詞ぢゃ。
まさに、ナイス・ダンデーもとい、ダデー。
さあ、私のマナが居間でわしを心待ちにしているに違いない。
そういえば、今日は碇シンジとかいう小僧も一緒ぢゃったの。
フッ、マナよ。
グランド・パパが今から行くからね〜。
わしは朝食をマナと和気藹々と摂るべく、居間へと急ぐ。
さあ、扉は目の前ぢゃ。
生まれついてのエンターテイナーたるわしが普通に登場しては、マナも悲しむことぢゃろう。
ここは、一発、わしが天才演出家であることを鮮烈にアッピィール(注:『ル』は巻き舌で発音)せねば。
バンっ!!
わしは、勢い良く両手で居間へと続く戸を打ち開くと、勢い良く踊り込んだ。
「グッモォーニン・えぶりわんっ!!
マナぁぁぁっ!!『グランド・パピィ〜』ぢゃよぉぅっ!!」
フッ、マナと碇シンジとか言う小僧はわしのあまりの素晴らしい演出ぶりに唖然としちょる。
さすが、わしぢゃ。
やはり天才ぢゃ。
しばらくして、硬直が解けたマナの頬が朱に染まり始めちょる。
フッ、マナよ。気持ちは嬉しいが、それは駄目ぢゃ。
祖父と孫娘では男女の愛は許されぬ。禁断の領域なのぢゃ。
何よりわしには、『澪』という永久(とわ)を誓った亡き妻がいるのだ。すまんな。
だがさすがわしぢゃ。
罪な男よ。
だが、両手で顔を覆って『いやいや』をするように首を振っているのは何故ぢゃ?
フッ、百戦錬磨のこの私にもまだまだ女というものが理解できぬ。
この時点で宗主は未だに、シャワーを浴びた後服を着るのを忘れて、裸のまま居間までやって来たことに気付いてはいなかった。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!!変態よぉぉぉぉぉぉっ!!」
「えっ、変態?いや、私はグランド・ファザーなんぢ」
「マナちゃん・デラックス・はんまぁ―――っ!!」
どっごん☆
恐ろしいまでの衝撃が宗主を襲う。
「ぐはあぁぁぁぁっ!!」
哀れ、ボロ雑巾の如く宙を舞い壁に激突する宗主。
「おおお澪久しぶりぢゃのうオソレミ〜オ」
ガクっ。
謎の言葉を残して宗主、朝っぱらからブラック・アウト。
こうして宗主の人生は、華麗に終わりかけた。
「ははいぃっ!!?」
突然の怒号に慄くシンジ。
どうでもいいが、名前を呼ぶたびに魂を削るような大声を出すのだけは止めて欲しい。
「大体の話は分かった。どうやらおぬしには何からの力があり、何らかの形で術を受けた過去があるようじゃ」
「ねえ、その何らかの術ってなんなの、おじいちゃん?」
マナが横から口を入れる。
「うむ。詳しいことは此れより調べるが、どうやら長期に渡って人体に何らかの影響を及ぼす言わばプログラムのようなものを施されたようぢゃ。それだけではない。他にも属性の異なる術を幾つか受けちょる」
「複数の魔法をかけられたの?」
「魔法というと語弊があるが、まあ端的に言えばマナの言う通りぢゃ」
(それって呪いなんじゃ)
シンジの背中を冷たいものが走る。
「あの〜、それって僕に何か害があるものなんでしょうか?」
おっかなびっくりシンジが問う。
その脳裏には、七日後に死ぬとか言われたらどうしようなどといった不吉な予感しかない。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
(ノープロブレムって心配ないってことだよね?じゃ、大丈夫なのかな?でも、マナのおじいちゃんが、意味もなくノープロブレムぢゃって何度か言ってるのを聞いたことがあるしなぁ)
余計に混乱するシンジ。
「それで、どうやってシンちゃんのこと調べるの?」
「うむ」
マナの問いに宗主は腕を組んで思わせぶりな間をとる。
「ねえねえどうやるの?」
「過去へ溯る」
その言葉は、強く重く室内に響き渡った。
「過去を溯るそんなことできるんですか?」
惚けたようにぽつりぽつりとシンジが言葉を紡ぐ。
「そんなことたぁ、できん!」
仏頂面で明言する宗主に、ゆらりと立ち上がったマナは、はんまーを担ぎ出した。
「ままて。落ち着くんぢゃマナ。物理的には無理と言うただけぢゃ」
「どーゆーこと、おじいちゃん」
疑惑に満ちた視線で宗主を睨み付けるマナ。
どうやら彼女は宗主が苦し紛れにいい加減なことを言い出したと思っているらしい。
「うむ。あるぢゃろうが。直に過去へ行かずとも過去を窺い知ることができるものが」
「えっ?」
「なんだろう?」
?マークのシンジとマナ。
「メモリーつまり、記憶ぢゃ」
「記憶ですか?」
「でも、シンちゃんには何の覚えもないんだよ?」
マナの指摘は尤もだ。その記憶がないからわざわざ京都くんだりまでやって来たのだ。
「だから物理的にではないと言うちょる。所詮は記憶と言う概念的なものであっても、脳の記憶中枢の働きによる科学的な現象に頼っとることに変わりはない。今回は霊的なメモリーに直接アクセスするのぢゃ」
「霊的なめもりぃってなに?」
「うむ。勉強不足じゃな、マナ。以前教授したぢゃろう。蜘蛛の巣と聞いて何か思い出さぬか?」
「あっ!?」
その宗主の言葉を聞いて、マナはぽんっと手を打った。
「えーと、確か一般的に『霊力』とか『法力』とか『魔力』だとかそういった超自然的と考えられている力には、空間や距離、時間だとかいった物理的な法則制約は存在しない。
――それでぇ、んーと時空連続体の『時間軸』を蜘蛛の巣の『縦糸』、『空間』を『横糸』と例えれば、それらの力はその蜘蛛の糸を滑る朝露の如く自由に伝わり、その効力は如何な過程を経ようとも些かも薄れることはないだっけ?」
一言一言確認するように暗唱するマナ。
因みに、その言葉は覚えていても意味は全く理解していない。
「うむ。まぁ、部分的にはいい加減なところもあるが大方その通りぢゃ。今、マナが言った通り霊的な力にはその効力を及ぼす距離・時間などに制約はない。
無論、今ではない時間、此処ではない場所にその効力を伝えようとすればその分大量のエネルギーを消費することになるし、一旦効力を発揮すれば時間と共にその効果を失うこともある。だが、基本的に術が対象に届くまでの間はその効力が薄れることはない」
「うんよく分かんないけどそれは分かったよ。で、それがなんなの?」
話はだんだんと難解な方向へ及んでゆく。
それをいちいち納得いくまで追求するのは無駄と判断したマナは、疑問はともかく話の先を促した。
「良いかマナ。普通人間の記憶は時と共に薄れる。それを呼び起こすには『催眠術』などといった特殊な手段に頼らざるをえん。今回は、その催眠術のように法術を行使することで碇シンジ個人にかけられたプログラムを辿り、それに纏わる歴史メモリーをフラッシュバックさせちゃるのぢゃ」
「はあ」
相変わらず、その手の知識ゼロのシンジにはチンプンカンプンだ。
「おぬしには、恐らく何者かに記憶を封じるような術も施されておるのぢゃろう。もしくは、自分自身の持つ特殊な力でその記憶を封じているのやもしれん。だが、おぬしがその少女の幻影や夢を見るようになったのは、霊的な記憶を持っているから他ならん」
「それって、シンちゃんは普通の記憶としてその娘のことを覚えているんじゃなくて、潜在的に備わっている特別な力そのものが彼女の記憶を持っているってこと?」
「うむ。そう考えて間違いはあるまいて」
「じゃあ、その力が覚えている記憶に今から働きかけるんですか?」
なんとなくシンジが聞いて訊いてみる。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
「その記憶を開放できれば、ここのところシンちゃんの身の周りに起こり始めた不思議な事態の謎も解けるのね?」
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
早鐘のように鳴り出した心臓。
ついに、これからラ・ピュセルと碇シンジではない自分との謎が明らかになるのだ。
それはシンジの切ないまでの願いであり、大いなる不安でもあった。
全てが明らかになった時自分は一体どうなるのだろうか。
それを知って、一体何になるのだろうか。
彼女と出会えるのだろうか?
複雑な感情の奔流に弄ばれ薫る香のせいもあろうか、徐々に思考は働かなくなってくる。
烈火の中の叫び月下の微笑み二人の誓い離別の絶叫裏切りの予感
そして、涙よりも悲しい笑み。
ラ・ピュセル!!
ようやくようやく会える
でも今は、何故かそれが凄く恐い
SESSION・30
『旅立ちの瞬間』
「では、今から法式を整え術を執行しちゃる」
宗主が重々しく言い放った。
「でも、おじいちゃん。その術ってそんなに簡単にできちゃうの?」
確かに、聞いた限り術の効力を辿って過去を溯るというからには、なにやら大掛かりな感じがする。
「気付かぬか、マナ。この香はただ意味無く焚いておるわけではない」
「あっ!?」
「この香はの、人の意識を内面に篭り易くする効果があるインナー・スペースへ意識を潜らせ過去を引き出すにはうってつけの香ぢゃ。既に術は始まっておる。おぬしらがこの空間に足を踏み入れたその時からの」
「すっごぉ〜い!!なんか、おじいちゃんいつに無く渋ぅ〜い」
「フッ尊敬しろ」
粋な演出に両手を合わせて喚声を上げるマナに、整えられた口髭を撫で付けて悦にいる宗主。
「ではわしは此れより術を発動し、霊的な場を固定するため言の葉を発し精神統一を図る。おぬしは目を閉じ、わしの言の葉に耳を傾けよ」
「あの言の葉って何ですか?」
素朴な疑問を発するシンジ。
「うむ。まあ、呪文のようなものぢゃ。イッツ・ア・ノープロブレムに決まっちょる」
「ははい。その呪文を目を閉じて聞いていればいいんですね?」
「うむ。マナも静粛にしておれ」
「は〜い」
ドキドキと好奇心に高鳴る胸に手を添えて、マナは元気に返事をした。
その返事に満足したらしく、深く頷くと宗主は
「では、術にはいる」
おもむろに呪文を唱え始めた。
「はぁ〜〜〜
美女の胸ぇ〜
美女のふとももぉ〜
美女のふくらはぎぃ〜
はぁ〜〜〜〜
美女とチュ〜したい〜
美女とデートしたい〜
美女を押し倒したい〜
美女を〜
「マナちゃん・天誅ぅ〜・はんまぁぁ――っ!!!!」
どごすぅっ☆!!
ぶぎゃっ!!」
朗々と破廉恥な呪文を唱え始めた宗主に、マナの正義の鉄槌が下った。
「ひ…ひとが精神集中しておるのに何をするんぢゃマナがくっ」
崩れ落ちようとする宗主を『まだオネンネには早すぎるぜぇっ!』っと言わんばかりに胸元を引っ掴んでガクガクと揺さぶるマナ。
「なぁにが『精神集中』ですかっ!!そりゃ、あんたの欲望をつらつらと吐き出しただけじゃないのぉ〜!!」
ガックンガックンと首を前後に揺すられる宗主。
マナに全くの手加減はない。
「何を言う、マナよ。これは、れっきとした精神集中呪文ぢゃ!」
「だから、どぉこぉがぁ『呪文』なのよぉっ!!?」
その壮絶な光景を、ただただ唖然と見届けるしかないシンジ。
「うむ。よいか、マナよ。呪文とは適当な形式にすぎんのぢゃ。本来、術は決められた精神状態に自分を持っていくことで発動する。呪文というのは、ある方向に精神を導く補助効果を期待するものぢゃ。故に、その呪文自体は何でも良い。アブラ・カタブラでもマハリク・マハリタ・ヤンバルクイナでも構わんわけぢゃ」
「ヤンバルクイナ天然記念物の、あの鳥のことかな?」
シンジはひとり密かに首を捻っていた。
「まあ、自己催眠のようなものぢゃ。呪文とは術そのものへではなく、自分自身へのものなのぢゃからな。要は、その呪文を唱えることで自分が魔法を使っておると無意識に思い込めれば、言葉の内容はなんでも良いわけぢゃ」
「そそうなの?」
意外にもそれなりの理屈を並べ始めた宗主に、気勢を削がれるマナ。
「そうなんぢゃ」
「ででも、それにしたって、あんな呪文はダメったらダメですっ!!」
こうなったら、押しで勝負である。
「――しかし、そうは言うてもこの呪文でなくては術は完成できぬぞ。それでも良いのか?マナ、ん?」
だが、そこは年の功。伊達に宗主をやっているわけではない。
したり顔でマナに目を向け、意地悪く言い放つ。
「う。むぅ〜。仕方ないわじゃあ、聞こえないように小さな声で唱えてね」
足元を見られ、反撃できないマナは渋々折れた。
今回は完敗である。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
そう言って、ニヤリと邪な勝利の笑みを見せると宗主は詠唱を再開した。
「はぁ〜〜〜
美女の胸ぇ〜
美女のふとももぉ〜
美女のふくらはぎぃ〜
はぁ〜〜〜〜
美女とチュ〜したい〜
美女とデートしたい〜
美女を押し倒したい〜
美女を〜
これ見よがしの大声である。
マナの要請を完全に無視して、宗主の恥ずかしい呪文の詠唱は部屋中にビンビンと響く。
彼は珍しくマナに完勝して、明らかに調子に乗っていた。
その嫌がらせとも思える口撃に、ぷるぷると怒りに身を震わせながらも何も言えないマナ。
そんなおバカな二人をよそに、シンジは術の効力に飲み込まれその精神世界の中、隠された過去に埋没しつつあった。
「おじいちゃん、シンちゃんが!!」
目を閉じたまま、ピクリとも動かなくなったシンジに気付いてマナが声を上げる。
「うむ。術が成功したようぢゃの。ノープロブレムぢゃ」
「シンちゃんどうなっちゃうの?」
心配そうにシンジの顔を覗き込みながらマナが言う。
「今、此奴の意識は内なる世界に埋没し、かけられた術を辿って過去の因縁ある基点まで進んでおる最中ぢゃ」
「シンちゃんが過去を見ている間、わたしたちは何もできないの?」
「うむ。ノープロブレムぢゃ。此奴の意識が無事に過去の事件のスタート地点まで辿り着けば、過去の映像が始まる。わしの術によって此奴のヴィジョンをリンクさせておいたから、わしらの脳に此奴の過去の歴史が直接流れ込んでくるぢゃろう」
「それって、シンちゃんが見る過去を私たちも一緒に体験できるってこと?」
「うむ。そのために、わしらもいわゆるトランス状態まで意識を持っていかねばならぬ」
「どうすればいいの?」
マナはすっかり興味を引かれたらしく、身を乗り出して訊いた。
「此奴と同じじゃ。くだらんことを気にせず、目を閉じて精神を統一し、わしの術を受け入れよ。頑なに拒んでおってはこれから始まる滅法面白い、此奴のドラマを見逃すことになるぞ」
「分かった努力する」
口元を引きつらせながらマナは了解した。
「うむ。ノープロブレムぢゃ」
やがて宗主の呪文の詠唱が三度部屋に響き始める。
――今、全てを飲み込む運命の濁流は激しく一点に渦巻き始めた。