C Y C L O N E  M O P 
どうしたの


Christopher Stevenson
クリストファ・スティーヴンソン





07:あさ 「手袋じゃありません」


 夏休みが開けたのを切っ掛けに、ようやく学校が再開された。
 今年6月に市内で発生した、連続猟奇殺人事件。その被害者は合計6名に及び、全員が祐一たちの通う高校の生徒会と何らかの関連を持つ生徒、或いは卒業生だった。しかも犠牲者の死体が3人分も校内から発見されたこともあり、学校側はことの真相が掴めるまで「臨時休校」という非常手段をとって生徒たちの安全を確保する必要があった。
 しかし、6人もの人間を殺害した犯人は今なお逮捕されておらず、有力な容疑者の名前すら捜査線上に浮かんでいないといういような事態に陥っていた。市民たちは、かつて体験したことのない残忍極まる犯罪に怯え、未だに犯人が警察にマークもされず市内を闊歩している様を思い描いては恐怖していた。
 そんな事情があって、学校関係者や保護者たちの一部からは疑問と不満の声が挙がってはいたのだが、かと言っていつまでも学校を閉めておくわけにもいかない。犯人は依然として捕まってはいないが、マスコミによる取材攻勢や熱病に犯されたような市民たちのパニック状態も一段落してきたということで、夏休みが明けて新学期を迎えるのを契機に、学業が再開されることになった次第である。

「はあ、なーんか、本当に久しぶりって感じだな」
 祐一は後に椅子を傾けて、座ったまま大きく伸びをした。
「そうだね。もう何ヶ月学校に来てないんだっけ?」
 祐一の隣の席に座る名雪が、相変わらずの眠そうな声で言った。
 体育館で行われた始業式が慌しく終わって、これから簡単なHRが行われようという時間帯だ。先の事件にも触れた校長の長話を聞いてきたせいで、名雪はうつらうつらとしている。
「そう言えば、あたしたちは自宅謹慎処分を受けていたりしてたから、一般生徒よりも長くご無沙汰してたことになるのよね」
 名雪のひとつ後ろの席から、香里が言う。
「栞が退院した翌々日からだから、6月の14日から今日まで――凄いわね。3ヵ月弱もよ」
「そっか、3ヵ月」祐一は感慨深げに呟いた。「もうそんなになるか」
 連続殺人があって、学校が休校になったと思ったらそのまま夏休み。その夏休みは夏休みで、海外を舞台に色々なことがあった。その間で、自分も周りの人たちも大きく変わったと思う。
 男子三日会わざれば刮目して見よ――という言葉がある。つまり、男という物は3日会わないでいると、どう変わっているか分からないというような意味なのだが、まさにその通りだ。3日ではなく3ヶ月の話ではあるが、本当に色々なことを体験して、色々なことを学んだ。祐一はその象徴である黒い右腕をボンヤリと眺めながら、そんなことを考えていた。

「ねえ、相沢君」
 ふと気が付くと、席の近い女子生徒が何人か祐一の周りに集まってきていた。
 そう言えば、今日は朝からいやに注目を集めている。彼女たちだけではなく、男子生徒も含め多くの視線がチラチラと自分を窺っていることに、祐一は気が付いていた。
「その手、なに? 手袋?」
 女子たちは少し遠慮がちに、祐一の右手を目で指しながら訊いてきた。
 ああ、なるほど――と、祐一はこの時はじめて納得する。そう言えば、自分やY'sromancersのメンバーたちといった身内はそろそろ慣れ始めてきているが、一般人にはこれが初披露目だったのである。それは不思議に思ってもおかしくない。
「俺も思ってたんだ」後の席から、北川が言った。「その手、どうしたんだ? グローブとリストバンドの組み合わせっぽくは見えるけど……」
「いや」祐一は苦笑しながら小さく首を振った。
「それはね、祐一の新しい右手なんだよ」
 にこにこと笑いながら、名雪が言う。その表情を見る限り、もう眠気は吹き飛んだようだ。
「え? どういうこと、名雪ちゃん」
 言葉の意味が理解しきれなかったらしく、女子たちは怪訝そうな顔で名雪に問いかける。
「こういうことだ」
 祐一は言うと、心の中で『解除』の文字を思い浮かべた。

“absolutus”

 その澄んだ美しい女性の声は、まさしく祐一の黒い右腕から聞こえてきた。
「うわっ、しゃべった!?」
「なに? なに今の」
 思いもよらない出来事に、北川や女子たちは驚愕に目を見開いて慌て出した。
 だが、それも一瞬のこと。次に、祐一の身体からその右腕自身が取り外された光景を見て、彼らは声すら失ってしまった。何人かの女子生徒などは、驚きのあまりビクリと飛び上がってしまったほどである。
「う、腕――」
「相沢っ?」
 そんな彼らの劇的な反応を、祐一はクスクス笑いながら楽しんでいた。
「見ての通り、これはオレの右腕そのものさ」

「そう、Romancer-KsX 2.82。通称、ワイズロマンサー。スイスのカストゥール研究所が、持てる科学技術の粋を結集して開発した、次世代型の筋電義手よ」
 香里が補足するように言う。その表情は、まるで自分のことを誇るような微笑に満たされていた。
「ぎしゅ? 義手って、あの義手だよな。相沢、腕どうしたんだよ」
 呆然とした表情で、北川は何とかそう言った。
「夏休みにちょっと事故ってな。それで、切断することになったんだ。無くなったままだと不便だから、こいつを今はつけてる」
 祐一はそう言って、普段通りに笑う。彼の言葉が嘘でない証拠に、黒い腕が取り外された部分――手首から下のパーツが祐一からは失われていた。だというのに、今の相沢祐一に気負いや悲壮感は全く見られない。その事実に北川や女子たちは驚く。
 腕を1本失うことは、人間にとって大きな痛手である筈だ。しかも夏休み中に失ったというなら、感覚的には昨日の今日と云ったもののはず。それなのに、こうまで明るく笑えるものだろうか。誰もがそんな疑問を抱く。

“fixus”

 また右腕が女性の声で囁き、それは祐一と結合された。指が、まるで生身のそれのように自由自在に、そして滑らかに動き出す。
「相沢君、今の声はなに?」
「ああ、あれは音声による確認だ。詳しいことは香里に聞いてくれ」
「美坂さん?」
 なぜに彼女なのかと、女子たちは不思議そうな顔をする。
「さっきの声は、その義手をデザインしたシルヴィア・エンクィストっていう女性のサンプリング・ヴォイスよ。その義手は結構貴重で、しかも色々な機能が搭載されているから安全装置代わりにそういうシステムが組み込まれてるの。――義手を取り外す時に聞こえた『アブストラクトゥス』というのは、ラテン語で『引き離しました』っていう確認の意味で出されるの。さっき腕に装着した時に聞こえた『フィクスゥス』っていうのは、そのまま『結びつけました』って意味ね」
 香里は言った。

「相沢、それ、動くんだよな?」
 戸惑ったような調子で、北川は訊ねる。
「動いてるだろ、ほら」
 祐一は北川たちの目の前で、手のあらゆる関節を駆動させて見せる。金属質の黒くて1回り大きな手ではあったが、それは本物のそれのように極めて自然で滑らかに動いた。動きがリアル過ぎて、逆に気味が悪いくらいである。
「動くだけじゃないぞ」
 そう言うと、祐一は隣の席の名雪に手を伸ばした。そして、彼女の柔らかい頬っぺたを突ついたり、むにょーっと引っ張ったりする。
「おー、のびる。のびる」
「うにゅ〜」
「……とこんな感じに、名雪のほっぺのさわりごこちとか温かさまでオレに教えてくれる。感覚や触覚なんかも備わってるんだ。微かだけど痛感もね。だから基本的に、オレの思い通りに動く本物の手と何らかわりない」
「ゆういち、くすぐったいよー」
 お餅のように柔らかいほっぺを引っ張られている名雪は、クスクスと笑いながら少し困ったように言った。
「――ん? どうした、野里さん。そんな深刻そうな顔して」
 祐一は複雑な視線をさ迷わせている女子生徒に、軽い苦笑を浮かべながら声をかけた。
「痛く、ないの?」
 色々と口に出すべき言葉に迷った挙句、彼女は恐々とそう問いかけた。
「痛みは全くない。手術も完璧だったみたいだしな。医者も驚くほど早く回復したもんさ」
 祐一は右手をブンブンと振りながら言った。そして声のトーンを少しだけ落として、真顔で言う。
「みんなが同情してくれたり心配してくれるのはありがたいけど、オレは右手を切断することになったことを後悔してない。自分を不幸だとも思ってない。本当だぞ」
 気が付くと、祐一の周囲には何事かと集まってくる野次馬たちが大勢詰め寄せていた。その全員に届くように、彼は続ける。
「オレは同じ機会に恵まれた時、今度も迷わず腕を切り落とすことを選ぶだろう。それくらい、意味のあるものと引き換えだったんだ。だから、憂いなんて何も無い。難しいかもしれないけど、みんなも普段通りに付き合ってくれよ。不便なことも全然ないんだしさ。そっちの方が、オレは嬉しいから」

 最初はその言葉を半信半疑に受け取っていたクラスメイトたちも、その後の数週間、義手姿の祐一と付き合ううちに、それが本心から出た偽りのないものであったことを悟るようになる。相沢祐一は、右腕を失ったハンデを感じさせるどころか、新しく得た筋電義手を片手に今まで以上に暴れ回るようになったからだ。
 祐一がどんな事情で腕を失い、どのようにして今の義手を使うようになったのか、その詳細を知る者は一部の例外を除いて誰もいない。本人に訊ねても、ただ軽い笑みが返ってくるだけだった。周囲の人間は、そこから何かがあったことだけを想像するしかない。だがそんなことを忘れさせるほど、誰もが羨むほどの友人たちに囲まれて、彼はいつだって楽しそうに笑っていた。仲の良い男友達である北川潤は、ときどき呆れながらこう呟くものである。
「あいつ、腕なくしてから逆にパワーアップしなかったか?」
 今では誰もが、相沢祐一は新しい右腕を引っさげ、更に厄介なトラブルメイカーとなって帰ってきた、と思っている。その右腕は、既に彼の一部分なのだと認めてしまっている。
 ――彼に憐憫や同情の視線を向ける者は、もう誰もいない。





08:放課後 「楽しい掃除のしかた」


「ちぇっ、なんだって俺がこんな面倒なことやんなくちゃいけないんだよ」
 ぶつぶつと小声でぼやきながら、良く絞りもしていないモップをヘロヘロと床に這わせる。その度に、ずぶ濡れの巨大ミミズが床を這ったような跡が、くすんだ教室の床に生み出されていく。磨いているというよりは、ただ塗れた筋を付けているだけの作業だ。やる気のないこと甚だしい。
 ――相沢祐一は不機嫌だった。自分が掃除当番であることをすっかり失念して、帰ったら何をしようか、どのTV番組を見ようか、それとも同居人の誰かをおちょくって遊ぼうかと、楽しいアフター5の予定を空想して楽しんでいたところへ、級友たちからモップを付きつけられたのだ。おかげで、放課後だというのに、彼は掃除用具片手に教室の清掃作業に勤しまずを得ない状況下に置かれていた。
 だが、楽しくも無いこの作業を、このまま不平を垂れながらやり続けたところで気が滅入ってくるだけだ。一見、何の面白みも無い作業の中に自分なりの楽しみ方を見出してこそ、人生を真の意味で謳歌できるというもの。彼はそう考え、発想を改めることにした。この掃除を、なんとか楽しいものにしよう。
「よーし、俺を本気にさせたらどういうことになるか、お前にも教えてやるぜ!」
 意志を固めたら即実行。行動が早いのと、行動が大胆なのと、行動が無茶苦茶なのが彼のウリである。相沢祐一は、今回もご多分に漏れず、思い立った瞬間、即行動に移った。

「ハイ、ボブ。今日は何を紹介してもらえるのかしら?」
 女性を表現しているらしき裏声と、
「やあ、ベッキィ。驚かないでくれよ。今日は、これさ」
 爽やかな男性用の声。2つの声音を器用に操りながら、祐一はモップを動かし始めた。
「まあ、それってただのモップじゃない?」
「甘いね、ベッキィ。本名がレベッカの癖に、何故か愛称がベッキィになっちゃうくらい甘いよ。これは今、巷で大人気の『すげっ! 汚れが根こそぎとれちゃうぜモップ・サイクロン』なんだ」
「キャー! これがっ? さすがね、ボブ。本名がロバートの癖に愛称が何故かボブなだけのことはあるわ」
「じゃあ、さっそく『すげっ! 汚れが根こそぎとれちゃうぜモップ・サイクロン』の凄いところを紹介しちゃおう」
 何やら心弾んできた祐一は、上機嫌でモップを床に擦りつける。ちなみに、突如として奇行に走り始めた祐一を、「受験勉強のストレスで、ついに相沢君の脳がっ!? 元から変だったけど。いや、それ以前にヤツは受験勉強をこれっぽっちもしていそうにない」と哀れみを込めた視線で見詰めるクラスメートの存在は、完全に眼中になかった。

「いいかい、ベッキィ。まず、従来のモップはスーパーに行って、8ドル払って買ってこなくちゃならなかった。あの長くてデザイン的にも問題大有りの逸品をさ」
「そうよね。買ったは良いけど、あんなもの持って道を歩いてたんじゃ変人よね。長い奴は車のトランクにも入らないし」
「そうだろう? でも、この『すげっ! 汚れが根こそぎとれちゃうぜモップ・サイクロン』なら、そんな心配もいらない。なぜなら、これは学校の備品なのさ。すなわち、無料!」
「まあ、こんなことって信じられない。……本当なの、ボブ?」
「本当さ、ベッキィ。その証拠に見てよ、この使い古されたモップの柄を」
「凄いわ、ボブ。すっかり変色しちゃって、既に新品の頃の色が何だったのか予測さえつかない!」
「そう、これが『すげっ! 汚れが根こそぎとれちゃうぜモップ・サイクロン』の凄いところさ。これを使って掃除をする人間のことなんか、これっぽっちも考えてナッスィン。ただ安さと耐久性だけを求めた、ストイックなまでのこのデザイン」
「ああ、私、もうたまらないわ。ボブ」
「フッ、そうだろう? ……じゃあ、この『すげっ! 汚れが根こそぎとれちゃうぜモップ・サイクロン』の存在に逸早く気付いて使っている人たちに、ちょっと意見を聞いてみよう」
 そう言って、祐一は教室をキョロキョロと見回し始めた。同じ掃除当番の生徒たちは、彼がインタビューの相手を求めて相手を物色しているのだと悟る。犠牲者になってたまるものかと考えた彼らは、生贄を捧げて難を逃れることとした。全員の視線が、相沢祐一との急接近が噂される、美坂香里に集まった。即ち、「あとは任せた!」ということである。
 ――あ、あたし?
 掃除当番の級友たちの意図を察した美坂嬢は、些か狼狽した。
 確かに彼女は祐一と極めて仲が良かったし、自分が彼に異性としての興味を持っているという事実を認めてさえいた。だからといって、相沢祐一の変人ぶりを制御しろと言われても、それは全然別の問題である。彼は制御することも理解することも不可能な部分があるからこそスプーキィ(変人)なのであり、誰にとっても如何ともし難い人間であるという事実は、常識人の部類に入る香里とて一般クラスメイトたちと変わらない。

「あの、相沢君?」
「やあ、かおりん!」
 躊躇いがちに声をかけてくる香里に気付き、祐一は爽やかレポーターの顔のまま振り向いた。
「ちょうど良いところにいた。ねえ、かおりん。ちょっと聞かせておくれよ。この『すげっ! 汚れが根こそぎとれちゃうぜモップ・サイクロン』の使い心地はどうだい?」
 いつものようにクールに突っぱねようとした香里であったが、キラキラと瞳を輝かせる祐一にそれを戸惑わざるを得なかった。
 ――凄く、あたしの反応に期待してる目だわ……。
 きっと彼は、「最高よ! 今までのモップなんてもう使えないわ。見て、この腹筋。『すげっ! 汚れが根こそぎとれちゃうぜモップ・サイクロン』なら、毎日たった10分の使用で理想的なプロポーションが維持できるの!」などという、あくまでアメリカ風のTV通信販売ライクな答えを欲しているに違いない。
 彼女は苦悩した。惚れた弱みもあって、彼の期待には応えてあげたい。だが、変人の仲間に加わるのは嫌だ。いや、そもそもなんで自分はこんな手の付けようのない変人に骨抜きにされてしまったのだろう。この男が、あのKsXの後継者だなんて何かの間違いではなかったのか。

「香里?」
 気が付くと、怪訝そうな顔をした彼の顔が間近にあった。
「どうした、具合悪いのか」
「え――」
 きっと、俯いて黙り込んでいたのを、体調が優れないのだと誤解したのだろう。彼は真剣に香里を心配しているようだった。
「悪いけど、ちょっと触らせてもらうぞ」
 相手が女性ということで一応そう断ると、彼は生身の方の手――つまり左手を彼女の額に軽く当てた。筋電義手ロマンサーでは、さすがに微妙な体温までは判断できないのかもしれない。
「熱はないな。風邪じゃないのか?」
「違うの。もう少しで終わるから、相沢君はもう外で待っててくれて構わないわよ。後はあたしが片付けておくから、終わったら一緒に百花屋にいかない? そう誘おうと思っただけ。奢るわ」
「え、いいの?」
 すっかりいつもの彼にもどった祐一は、パッと顔を輝かせた。
「ええ。もうやることも殆ど無いから」
「いやあ、悪いな。じゃ、お言葉に甘えさせてもらうわ。校門のところで待ってるから!」
 そう言い残すと、彼はモップ『すげっ! 汚れが根こそぎとれちゃうぜモップ・サイクロン』を香里に持たせて風の様に教室を去っていった。
「はぁ……」
 それを見送った香里とクラスメイトたちの溜息は、疲労の色を濃く滲ませていた。





03:放課後 「まるっとおみとおし」


『事件編』

 美坂栞は、その光景に大きく目を見開いた。顔色は一瞬にして死人のような蒼白に変わり、額からは脂汗が滲み出てきていた。驚愕のあまり声すら失い、いやいやをするように頭を振りながら後退りする。そしてキッチンテーブルにぶつかった拍子に、その場に崩れ落ちた。
「う……そ、どうして」
 喉の奥から振り絞られたその声は、震えていた。頬を静かに涙が伝っていく。
「信じてたのに。どうして私だけこんな目にあうの」
 以前、同じ事であんなに苦しんだ。心を抉られるような痛みを味わった。家族が崩壊しそうにさえなった。なのにまた、悲劇は繰り返されようとしている。栞は、その理不尽に絶望しようとしていた。何故に世界は、現実とはこんなにも残酷なのだろう。なぜ神は、美坂栞だけを選んだようにこんな辛い試練を幾度も投げかけるのだろう。
「お姉ちゃん、たすけて……」
 痛み出した胸に手を添えながら、栞は掠れるような小声でそう囁いた。



『推理編』

 ――2時間後。
 祐一と行き付けの喫茶店『百花屋』で楽しい時間を過ごした香里は、ご機嫌で帰宅した。勘定は香里持ちだったのだが、そんなことなど全く気にならないほど充実した一時だった。自然、頬が緩んでしまう。
「ただいま」
 気持ちに影響されて声までもが弾んでしまわないように、香里は慎重に口を開いた。
「ただいま、母さん帰ってる?」
 長年愛用しているお気に入りのスリッパを履くと、少し長めの廊下を歩きリヴィングルームに通じるドアを開ける。玄関に靴があったから、税理士をやっている母と妹の栞は既に帰宅しているはずだ。時計を見れば、もう19時に近い。
 予想通り、ふたりはリヴィングルームにいた。父の昭夫はカリフォルニア州サンフランシスコにある『マクファーデン&タラジアン法律事務所』という中堅事務所のパートナーとして勤めているため、今はカリフォルニアだ。従って香里が入室した瞬間、リヴィングルームには美坂家の全員が事実上そろったことになる。だが、様子がおかしかった。部屋の中央に置かれた食卓に向かい合って座ったまま、栞と母の沙織はむっつりと黙り込んでいる。まるで通夜か葬式に参列でもしているかのような静謐だ。険悪とは言わないが、なんだか重苦しい沈黙が周囲を支配していることだけは香里にも分かった。
「どうしたの、ふたりとも」
 怪訝に思った香里は、小首を傾げながら訊いた。
「香里、ちょっとこっちに来て座ってくれる。栞に大切な話があるそうなの」
 沙織が神妙な顔付きで言った。
「え、ええ。ちょっと待って。コンビニで買い物してきたの。今、フリーザに入れてくるから」
 香里は得体の知れない不安を覚えながらキッチンに向かった。栞からの、大切な話。一体なんなのだろうか。もしかして、病気が再発したとか――。

「それで、話ってなんなの?」
 リヴィングに戻った香里は、母親の隣に腰を落とすと言った。テーブルを挟んで対峙している栞は、少し俯き加減で手元にあるティカップを覗いている。そんな妹の姿に不吉な予兆を感じながらも、香里は努めて平静を装う。そういった種のポーカーフェイスは、長年の経験から得意とするところだ。
「お姉ちゃんにお母さん。ちょっと、そこに座りなさい」
 顔を上げた栞は、何故だが眉を吊り上げた怒りも露な表情で告げた。その声音は無慈悲で冷たい。
「もう座ってるわよ」
 一応、突っ込む。
「皆さんにここにお集まりいただいたのは、他でもありません」
 栞は香里の指摘を完全に無視すると、徐に立ち上がってゆっくりと周囲を歩き始めた。3歩ほど歩いては踵を返し、また3歩進んでは半回転して何度も同じ場所を歩く。そうしながら、静かに言葉を紡ぎ出した。
「今日は、皆さんに悲しいお報せがあります。わや悲しいお報せです」
「なんで北海道弁なの?」
 一応、突っ込む。だが栞は、姉の指摘を爽やかに無視して言い放った。
「美坂家には、犯罪者がいます」
「犯罪者?」沙織は狼狽を露にした。「どういうことなの、栞。私か香里が何か悪いことをしたのかしら?」
「……残念ながら、そういうことになりますね」
 母親の言葉を栞は躊躇いなく肯定した。やるせないといった表情で何度も首を小さく左右しながら。
「説明してもらえるんでしょうね。仮にも家族であるあたしたちを犯罪者呼ばわりするだなんて」
 どうやら栞の病気が再発したというような話ではないらしい。そのことが判明し安堵に胸を撫で下ろしたくなる一方で、聞き捨てならない暴言を吐き出した妹に、香里は不信感を募らせる。一体彼女は、何を根拠に実の母や姉を犯罪者扱いするのだろうか。
「もちろん、説明はこれからします」
 栞は一旦足を止めて母と姉の顔を冷たく一瞥すると、再び歩き始めた。
「犯行が明るみに出たのは、2時間ほど前のことでした。第1発見者は被害者である市内在住の美坂栞さん、17歳。近所でも評判のスーパー美少女です」
「それ、あんたのことじゃない」美少女?
「その美少女しおりんちゃんは、なまら気立ての良い娘さんでして。彼女は前代未聞の凶悪犯罪の調査に乗り出した当局に、事件のことをこのように証言してくれました」
 姉の指摘を鮮やかに無視しつつ、栞は続けた。
「わだっけのジョセフィーヌが、何者かにぎっぱられたんです! わやはらんべ悪いべさ」
(訳:私のジョセフィーヌが何者かに盗まれたんです! 本当に頭に来ます)
「ジョセフィーヌ?」
「だから、なんで北海道弁なのよ」
 だが栞は、母と姉の突っ込みを華麗に無視して悲痛な叫び声を上げた。
「ジョセフィーヌ。ジョスゥエフィーヌァ! カム・バーック」
 虚空に手を伸ばし、目尻に涙を溜めながら幾度もその名を叫ぶ栞。違う意味の病気が再発したらしい。

「それで、そのジョセフィーヌっていうのは一体どこの誰なのよ?」
 既にこの騒動が他愛もない栞のバカ騒ぎであることを悟った香里は、テーブルに頬杖をつきながらやる気のない声で訊いた
「お姉ちゃん、なんば言いよっと? ジョセフィーヌって言えばくさ、最前列の1番右、上から2番目の座標に並べてあったバニラアイスの『マドモァゼル・ジョセフィーヌ』に決まっとるやなかね!」
「あんた、アイスに名前なんか付けてたの?」しかも博多弁?
 香里は呆れ顔で、盛大に溜息を吐く。美坂家の冷凍庫は左右に分けられた2ドア式のものなのだが、その左側は完全に栞専用になっていて、そこには彼女が買い溜めしているカップのアイスクリームが3次元をフル活用して縦・横・奥へとギッシリ詰めこまれている。そのことは、美坂家の人間なら誰もが知ることだ。そして栞が、眠る前に夜な夜なフリーザのドアを開け、アイスの備蓄のチェックをしては、暗がりの中で怪しげな笑みを浮かべていることも周知の事実である。
「あんたって、アイスが関わってくると本当に人格変わるわよね」
 香里からすれば、「むかしの可愛くて素直だった栞よ、カムバック!」と叫びたいところだろう。大病を克服して元気になったのは良いが、必要以上に元気になりすぎた感は否めない美坂栞17歳である。
「要するに栞、私か香里のどちらかがあなたのアイスを無断で食べてしまったことを怒っているのね?」
「そういうです」沙織の言葉に栞は頷いた。
「ああ、そのことなら――」
 香里が口を開きかけたが、それは栞によって乱暴に遮られた。
「つまり私が言いたいのは、エリザベータをへるなんてマネしたんは、どこのだれでー! ちばけなんなーっ。ぼっけーむげーめにおーたがー! ……ということです」
(訳:エリザベータを盗むマネなんてしたのは何処の誰だ! ふざけるなーっ。とても酷いめにあってしてまった!)
「今度は岡山弁?」
 一応、突っ込んでおく。
 どうやら栞は、怒りで我を忘れると全国の方言を駆使して暴走するらしい。巻き込まれる方は、たまったものではなかった。
「返して。私のエリザベータを返してっ! 返してつかーさい!」
「どうでも良いけど、さっきと名前変わってるわよ」
 最初はジョセフィーヌだったはずだ。その辺、割と好い加減なものらしい。



『解決編』

 耳が痛くなるほどの沈黙の中、リヴィングの壁掛け時計が時を刻む音が、やけに大きく聞こえてくる。栞、香里、沙織の3人は再び互いに向かい合って座っていた。仲睦まじいと近所でも評判の美坂家とは信じられないほどの剣呑な空気が、周囲に渦巻いていた。その中心に存在している栞が、やがて重々しく口を開く。
「とても悲しいことです。まさか、この美坂家にドロボーがいるなどと」
 彼女は目蓋を静かに閉じ、悲しげな表情で首を左右した。
「この悲しさは、とても言葉にできません。あえて政治家ライクに言えば、まことに遺憾なことです。極めて遺憾である意を公にしていくことを前向きに検討し、今後このようなことを起こさないよう充分な対策を講じる所存であると叫びたくなるくらいに遺憾です」
「あのね、栞……」
「美坂香里伍長、貴女に発言は許されません」
 いつの間にか伍長になっていたらしい香里の言葉は、栞によってピシャリと撥ねつけられた。
「でも、栞。言っておかなくちゃいけないことが」
「お姉ちゃん、やっかましいです。本件では私は被害者であり原告であり検察官、そして裁判長であり死刑執行人なんです。そしてお姉ちゃんとお母さんは被告人なの。この三段論法に従い、この場では私がルールブックなのであるっ! ……ということが科学的に証明されています。黙っててくださいっ」
 まったく三段論法になっていないし、原告が裁判長と執行人を兼任するならば完全な独裁独善が成立してしまう。だがそのことを指摘しても、どうせワケの分からないトンチンカンな理論を持ち出されて反撃されるであろうことは目に見えている。沙織も香里も、だからここは賢明に口を閉ざすことにした。こうなってくると下手に手を出して事態の沈静化をはかるよりも、栞が勝手に暴走して勝手に自爆してくれるのを待つ方が早い。経験的に、彼女たちはそのことを知っていたのである。
「今回、美坂家を舞台として発生した連続猟奇殺人事件『盗まれたキャサリン・ザ・アイス』の調査に行き詰まった当局は、事態の早急な打開を図るため神のごとき叡智を持つという、伝説的名探偵に真相の究明を依頼しました」
「……妄想もそのレヴェルまで飛んじゃえば芸術よね」
「なにか言いましたか、美坂香里三等兵?」
 キッと姉を睨みつける栞。
「いいえ、こちらに意義はございません。裁判長閣下、先を続けて下さい」
 香里は両手を軽く掲げ、降参のポーズを示しながら言った。
「まあとにかく、です。その名探偵こそが、かの有名なアブー・ユースフ・ヤアクーブ・イブン・イスハーク・イブン・アッサバーフ・イブン・ウムラーン・イブン・イスマイール・アル=シオリンなのです! 彼女のことは、気軽にシオリンちゃんって呼んであげて下さい」
 香里はその名前に聞き覚えがあった。最後のアル=シオリンをアル=キンディに変えてしまうと、それは『アラブの哲学者』と呼ばれた9世紀の実在の人物となる。彼は確か、数学、統計学、天文学、言語学などの分野で優れた研究を行ったはずだ。天野美汐が、どこから手に入れてきたのか彼の論文の写本を自宅の書庫に保管しているのを見たことがある。
「彼女さえ出てきてくれれば、もう事件は解決したようなもの。そして事実、彼女は当局が苦戦していたこの事件を瞬く間に解決してしまったのです」
 栞はそう言って無い胸を張った。
「はいはい。それはおめでとう」
「今なにか言いましたか、美坂香里雑用見習?」
 小声で囁かれたはずの姉の言葉を耳聡く聞きつけ、栞はギロリとそちらを睨んだ。
「いいえ、なんでも御座いません。皇帝陛下、どうぞ先を続けて下さい」
「よろしい。では、まずこの証拠物件Aを見てもらいましょう」
 だんっ! 
 勢い良くテーブルに置かれたのは、中身が空になったアイスのカップだ。
「まるでキャトルミューティレイションの如く、中身を抜かれてしまった哀れなジョセフィーヌの姿です」
 キャトルミューティレイション。おもに欧米で見られる、牛や馬などの家畜が内臓を抜き取られた状態で見つかる怪奇現象のことだ。
「このジョセフィーヌが変わり果てた姿で発見されたのは、美坂香里容疑者(17)の私室のゴミ箱からでした。鉛筆の芯を削った粉でふーふーしてみたところ、カップに付着した指紋と、同容疑者の部屋から検出された指紋が一致したという事実も付け加えておきます」
「え、じゃあ……」
 沙織は小さく目を見開いて、栞と香里の間で視線を往復させる。
「その通り。犯人は、この中にいます」
 キッと眦を吊り上げて、栞は宣言した。
「そしてその犯人とは! いえ、自首してくれることを信じて、あえてこの場で名前を挙げることはしません。――ですが一言だけ言わせてください。犯人は、市内在住の高校三年生、美坂香里さん。あなたですっ」
「思いっきり名前挙げてるじゃない」
 香里は呆れ顔で肩を竦めた。
「では、犯行を認めるんですね。被告人?」
「認めるもなにも、さっきから私よって言おうとしてたのに、なかなか言わせてくれなかったんじゃないの。発言する権限はないとかなんとか言って」
「なんですか、その反省の色が微塵もみられない態度はっ! 本法廷を侮辱するつもりですか」
「別に良いじゃない、1個くらい。昨日、名雪が遊びに来たから彼女に出したのよ。ほかにお菓子みたいなのなかったし」
「理由になっとら〜ん! ……ですっ」
 いきり立った栞は、バンと勢い良くテーブルを叩いた。だが強く叩きすぎたのか、痛そうに顔をしかめてふーふーと掌に息を吹きかけだす。
「悪かったわよ。ちょっと借りるだけのつもりだったの。さっきコンビニに寄ってきたって言ったでしょう? あれって代わりのアイスを買ってきたのよ。フリーザに入れたのもそれ。お詫びにちょっとグレードの高いのを買ってきたつもりだったんだけど――」
「えっ、本当?」
 栞はその言葉を聞いた瞬間、エイトマンも真っ青の速度でキッチンに飛んでいった。
「ああ〜っ、これはちょっとアダルティな宣伝で有名なバーゲンダッツ・アイスクリーム! バーゲンセールの日にしか売りに出されないという、幻のバーゲン限定アイスですっ」
 なんとも怪しげなアイスである。もちろん、そのアイスをバーゲンとは無縁のコンビニで買ってきた香里も充分に怪しかった。が、いま問題はそこにはない。
「それを代わりにプレゼントしようと思っていたんだけどね……」
 香里はキッチンに行き、栞の手からアイスを奪い取った。
「ちょっと借りたくらいで犯罪者扱いする挙句、勝手に他人の部屋に入ってゴミ箱を漁るような人間には必要の無いものよね」
「ええ〜っ!」
 栞は目をむいて絶叫した。
「お、お姉ちゃん。さっきの、なし! なしって言うことで」
「あら、随分と都合のいいことを言うわね」
「ねっ、ねっ? おねえさまぁん。可愛い妹、しおりんのお・ね・が・い」
「えっ、どなた? あたしに妹なんていないわ」
 くるりと踵を返し、香里はアイスを持ったまま部屋を出ていった。
「これはやっぱり自分で処理することにするから」
「え、えぅ〜!!」
 敗れ去った栞は、その場に崩れ落ち、バニラアイスのように真っ白になったという――。





きんこんかんこーん (つづく)
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脱稿:2002/10/13 00:49:27

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