「美坂栞です」
小柄で驚くほど肌の白いその少女は、真新しい制服に身を包んで、頬を紅潮させながらペコリとお辞儀をした。肩の上で綺麗に切り揃えられた黒髪がサラリと揺れる。
「彼女は体が弱くて長期間入院をしていたが、具合が大分良くなってきたので復学することになった。みんな、仲良くしてやってくれ」
体育を担当しているジャージ姿の担任が、太い声で生徒たちに呼びかける。人形のように華奢で愛らしい少女だ。男子生徒の大半は、彼が改めて頼まずとも新たなクラスメイトと仲良くしたがることだろう。
天野美汐はそんなことを考えながら、栞の姿を見詰めていた。
――なるほど、あれが噂に聞く美坂先輩の妹さんですか。
同性から見ても肉感的に見える姉と比較して、随分とほっそりとした妹だ。姉妹とは言っても、外見的にはあまり共通点は見当たらない。
「よし、美坂。あそこ、1番後の席が空いてるだろう。あそこを使ってくれ」
「――はい」
栞は生徒たちの視線を浴びて、恥ずかしそうに俯きながら指定された席に向かった。
やはり初日であり、全員が名前すら知らない他人だ。かなり緊張しているように見える。今のところ嫌われるような要素は見当たらないため、恐らくはすぐに友達を作ってしまうだろうが、美坂香里という共通の知り合いがいる仲だし、名前や病気で長期入院していたという話も聞いている。次の休み時間あたり、話し掛けてみるのも良いだろう。
不慣れな環境に放り込まれたとき、最初に気楽に話せる人間を確保できると、大抵の人間は安心するものだ。
そこまで考えて、美汐は自分が柄にもなく他人の心配などをしていることに気づいた。
今まで、他人のことにまで意識が回るほど、心に余裕やゆとりなど無かった。自分と自分の抱えた過去だけで手一杯だった。少なくとも、去年の冬を迎えるまではそうだった筈だ。
だのに、今はこうして栞の心配をしている。自分自身、友達が決して多いわけではないのに、彼女の交友関係やクラスメイトとの付き合いのことまで考えてしまっている。あまつさえ、自分から積極的に彼女に声をかけてあげようとまで計画しているのだ。これはどうしたことだろう。
――私は今、なにかに満たされているとでも言うのでしょうか。
それを人は幸せと呼ぶのかもしれない。
その『幸せ』という言葉が出てきた時、何故だか頭のなかに「ミッシー」と自分を呼ぶ声と、悪戯っぽく笑う男の顔が浮かび上がった。
――なんで相沢さんが。
これではまるで、自分にとっての幸福が相沢祐一に直結しているようではないか。
美汐は頭を振ると、慌ててその考えを振り払った。
「あの、美坂さん……」
HRが終わると、他人が寄りつく前に、美汐は素早く栞の元へ歩み寄った。
本来なら『素早い』という形容詞が付くような迅速な行動は苦手とするところなのだが、先に好奇心に満ちた生徒たちの輪で囲まれてしまうと、自分の性格上、それに割り込んで話しかけるというのはどうにも難しいだろう。
「はい。あの――」
新品の教科書を整理していたらしき彼女は、不思議そうに美汐の顔を見上げた。
「私は、天野と言います。縁あって、今年の春から美坂先輩と懇意にさせていただいてるものです。それから、相沢先輩とも」
「ああ!」
ぱふっと手を合わせると、栞はパッと顔を輝かせた。
「あなたが、あの有名なミッシーちゃんですか!」
美汐は周囲の机や椅子を巻きこんで、豪快にすっ転びそうになった。
「いや、違いますね。ムゥ、ムイッ……スィー、ムウィットゥスゥィー、かな? 発音が難しいんですよねー。なかなか上手に言えません」
「な、なぜにその恥ずかしい呼び名を」
何とか踏みとどまり、狼狽しながら美汐は言う。
「はい。祐一さんが、そういう愉快な女の子が後輩にいると」
「……」
あいつかっ!
あの不届き者だけは、1度キッチリと教育しておかなくては。そう誓った、ミッシー16歳の春だった。
「なあ、相沢」
「ん、どうした斉藤」
春はどうしてこんなに眠いんだと、半分夢の世界に旅だった精神で考えていると、噂の爽やか好青年である斎藤に声をかけられた。
斉藤はバスケ部のレギュラーで、成績もある程度優秀。学生服を襟までキチンと止めるようなタイプの生徒だ。ただ1つの問題は、『サンタクロースが実在すると未だに信じているのではないか』と囁かれるほどの純情さにある。これに関しては評価が真っ二つに割れていた。
「悪いが、将来バットマンになる予定だから、相棒のロビンになってくれというのならお断りだ」
「いや、そんなんじゃないんだ。ちょっと聞きたいことがあるんだよ」
「そうか。で、なんだ? 何でも聞いてくれ」
祐一は安堵の笑みを浮かべて言った。
「恋の悩みから進路相談まで、何でも聞くぞ。勿論、金に関することだって2ドルを上限に何ら遠慮することなく言ってくれて良いからな」
「あのさ、膝枕ってあるだろう?」
「ああ、あるな」
一体なんの話だ? と、内心小首を捻りながらも、祐一はそう返した。
「でさ、膝って普通はここの――足の関節のことを言うだろう? 皿があるところ」
手で自分の膝の部分を指しながら、斉藤は言う。
「そうだな。膝って言ったら、普通はそこらへんを示すな」
「だろう? だからさ、膝枕ってのは間違いだと俺は思うんだ。むしろ、頭は太腿あたりに乗せるわけだから、『太モモまくら』と称するべきだとは思わないか。いや、太モモが無理ならそれでもいい」
彼はクワッと目を見開いた。
「だが、せめて『モモまくら』くらいは言って然るべきではないのかっ」
ちがうかっ?
拳を握り締めて力説する斉藤。こんな時でも、彼はひたむきだった。
「そんなこと、オレに言われてもなぁ」
祐一は返答に困って、頭をかいた。
「そう言えばさ、膝枕ってしてもらったことある?」
近くで話を聞いていたらしき男子生徒が数人、話に加わってきた。
「だから、モモまくらって言えっ」
斉藤は、どうやら『モモまくら説』を普及させたいようだった。将来、ヒーローを目指すものとして、過ちと名が付くものはどんな些細なものであれ許してはおけないのだろう。
「オレはないなあ」
「うん。ないない」
「1度で良いから、可愛い子にしてもらいたいよなぁ」
「柔らかいんだろうな」
男子たちは、羨望の表情を浮かべて意見を交換し合う。
「良いよなぁ……」
うっとり
想いは遠く遥かへ飛び立っていく。時空連続体を駆け巡る、桃色の妄想。
「そんなに良いもんかねえ」
彼らの幸せな一時をぶち壊しにしたのは、ひとり無関心な祐一だった。彼は自分の机に頬杖をついて、眠そうに言う。
「幾ら女の子って言っても、膝枕ってそんなに柔らかくないぜ? 正座とかしてると、どうしたって筋肉が張るから硬くなるし。普通のまくらの方が良いと思うけどな。ま、利点があるとすれば、冬に温かいってのと、場合によっては良い匂いがするってことくらいか」
「その言い方は、お前、膝枕してもらったことがあるのかーっ!」
「モモマクラって言え!」
「あるよ」
血走った目で追求してくるクラスメイトたちに、祐一は肩を竦める。
「夜にさ、名雪と並んでTVで映画なんか見てると、たまに揃って寝ちまうわけよ。で、崩れ落ちて偶然膝枕になってたってことがあったりする」
「貴様ーっ、よりにもよって水瀬さんの膝枕か!」
声を揃えて、祐一に怒号を浴びせ掛ける男子生徒たち。
「だから、モモだって言ってるだろう」
まだ分からんかっ!
斉藤も、違う意味で怒りをあらわにした。
「いや、そぎゃん青筋たてて怒鳴らんでも。それにさ、名雪も寝てたわけだからヨダレが降ってきて、それで起きちまったんだぞ。そんなもんだって」
彼らの勢いに鼻白みながら、祐一は弁解する。
それに、男たちの眦にうっすらと浮かんでいるあれは――涙なのか。
「いいわけすんなっ」
オラァ!
膝枕談義は、大騒ぎだった。
――それで良いのか、受験生。
「ちなみに、『膝』という言葉には2通りの意味があるわよ。1つは確かに、斉藤君が言うように大腿の下端と下腿の上端との間の関節部の前面を指すわね。でも2つ目には、大腿部――つまり、ももの部分を指す意味があるの。古い表現で、万葉集なんかではそういう意味合いで使われてるわ」
by かおりん
膝枕でOKみたいです。
「お。香里、今日は部活休みか?」
「ええ、今日は栞と一緒に帰るの」
放課後、珍しく香里と昇降口で会った。祐一は帰宅部だからして真っ直ぐに学校を後にするのは当たり前なのだが、彼女は部活に所属する生徒だ。文科系の部室が並ぶ方へ歩いていくのが常である。したがって、こうしてHR直後に昇降口で顔を合わせる機会は少ない。
「そうか。今日から、あいつも学校に通えるようになったんだったな」
今日からいつもの昼食会に、美坂栞と月宮あゆが新たに加わったことを祐一は思い出した。ふたりとも長期間入院していた病人で、最近になってようやく退院の目処がついたのだ。
「そうなると、6月12日は記念すべき日になるかもしれないな」
「うん。相沢君のおかげよ」
香里は滅多に見せない心からの笑顔を見せた。
「初日だから一緒に帰るってわけか」
「あの子、あたしと一緒に登下校するのが夢だったから……」
少し目を伏せ、憂いた表情で香里は呟いた。
「これからは、毎日だって一緒に行き来できるさ。だろ?」
「うん。その通りね」
靴を履き替えると、ふたり並んで昇降口を後にする。校門を出てしまえばふたりの帰路は正反対に分かれるため、そこまでの道連れだ。
「――ところでさ」
しばらく歩いてから、祐一はおもむろに口を開いた。
「あの時、なんであんなことしたんだ?」
「あの時って?」
彼の言葉の意図するところが掴めないらしく、香里は小さく首を傾げた。
「栞が復学するって教えてくれたとき、くれただろ。その、さ」
流石にストレートには言い難いのか、祐一は声のトーンを落とした。
「香里のさ、初めてだって云う――」
途端に、香里は耳朶から首に至るまでを真っ赤にした。
「あれは……だから」
クールな才女で通っている香里が、ここまで狼狽して呂律が回らなくなるというのも珍しい。そんな彼女を尻目に、祐一は淡々とした口調で続けた。
「もしもさ、あの件に絡んで栞のフォローをしたやつがオレじゃなくて、別の男でも同じことした?」
「な――っ!」
とんでもない質問に、香里は絶句した。溺れかけた人間が、水面に顔を出して必死に喘ぐように無音で口を何度も開く。
「フレンチとは云えオレにとっても初めての経験だったし、それに相手が香里だなんて思ってもみなかったから、正直色々考えたんだぜ。これでもさ」
香里の目に、そう呟く祐一は懸命に普段の表情を維持するよう努力しているように見えた。
「光栄だと思ったし、香里がくれたってこと凄く嬉しかった。でも、それが賞品みたいなもんだったとしたら、その嬉しさも半減だ」
「それは――」
香里は顔を伏せた。なにかを思い悩むように眉を微かにひそめている。
「できたら、訊きたいと思ってさ。あれは、栞の件に協力した人間に送られたものなのか。それとも、オレという特定の個人に捧げられたものだったのか」
祐一は隣を歩く香里を見ず、視線を真っ直ぐに固定したまま問う。無感情で穏やかな口調を装ってはいたが、その実、裏には様々な感情渦巻く問いであったことは間違いない。
「そんなこと急に言われても」
香里は何度か言いよどんだあと、何とか口を開いた。
「あたしにも分からないわ。あの時、ただ、あなたにそうしたかったの」
「衝動的にって、やつか?」
「ええ。自分でも言葉に出来ないものに突き動かされて――」
「そうか」
低い声でそう言ったあと、祐一は押し黙った。
俯いていた香里は、祐一が自分の回答にどんな感情を抱き、どんな表情をしているのかが気になって、面を上げると彼の横顔を窺った。
「なら、いいや」
意外にも、祐一はそう言うと相好を崩した。
「えっ、いいの?」
彼が気を悪くするのではないかと恐れてさえいた香里は、思ってもみなかった彼の反応に驚き、小さく目を見開く。
「うん」
祐一は笑ったまま頷いた。これまでの付き合いからでも、それが無理に作ったものではない、極めて自然な笑顔であることが香里にも分かる。
「香里自身でも分からないなら、それでいいよ。言葉に出来ないってことは、それだけ感情として純粋だってことだろ。打算とか妙な計算とか、そういうのが含まれてたらちょっと残念かなとおもってたからさ――だから、今はそれだけで満足だ」
「そう」香里は安堵に胸を撫で下ろすと、微笑した。「ありがと」
「ん?」
今度は祐一が不思議そうに小首を捻った。
「そんな風に言ってくれる人だったなら、あげて良かったって思える……わ」
羞恥心があったのだろう、香里は視線を外してそっぽを向きながら言った。
だが、頬がほんのりと紅潮していては、それもあまり意味がなかった。
苦笑する祐一は、なんとなく空を見上げた。梅雨を心配しなくてはならないはずの6月の空は、嬉しくなるほど青く澄みわたっていた。
きんこんかんこーん
(つづく)
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脱稿:2002/10/19 00:23:38
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