D I C T I O N A R Y 
字引く書也


Christopher Stevenson
クリストファ・スティーヴンソン





01:あさ 「召喚せよ!」


『朝〜、朝だよ〜。朝ご飯食べて学校行くよ〜』

『朝〜、朝だよ〜。朝ご……』

ぽち。

「む、もう朝か」
 相沢祐一は、従兄妹の娘とは一味も二味も違う寝起きの良さを発揮して、軽く眼をこすっただけで素早く覚醒した。名雪だと絶対にこうはいかない。それは、もうじき隣の部屋から聞こえてくる目覚し時計群の大音響で証明されることだろう。
 苦笑しながらベッドを抜け出すと、スリッパに足を突っ込んで窓際による。サッとカーテンを引くと、柔らかな朝日が優しく差し込んできた。以前まで住んでいた関東だと、同じことをすれば網膜を焼くようなもっと強い日差しが彼を襲ったものだ。だが、ここは北の雪国だ。暦が春を迎えても、朝は薄暗かったり、ぼんやりと霞みがかったような程度しか明るくなかったりする。
「うーむ。今日から、いよいよ3年生だな」
 冷たい制服に腕を通すと、いよいよ休みも明けてしまったのだという実感が沸いてくる。それにしても、知り合いの店からダイヤが盗まれたり、クラスメイトの中から除籍処分者が出たりと、なかなか大変な春休みだった。おかげで休んだという気があまりしない。祐一は疲労を感じさせる小さな溜息をついて部屋を出た。
 2階のトイレに行って、ちょうどドアを開けて廊下に出たところで、同居人である従兄妹の部屋からドア越しにでも騒々しい目覚まし時計のベルの音が聞こえてきた。甲高いその音は単数ではない。手の指だけでは数え切れない程の時計が、一斉に大合唱を行っていることが明確に分かる規模のものである。
「ふむ。いよいよ、あの計画を実行段階に移す時がやってきたようだな」
 祐一は一旦自室に戻ると、必要な道具を持ち出して騒音の元たる従兄妹の部屋に向かった。ドアには『名雪の部屋』というプレートがぶら下がっている。
 応答が返られないことを知りながらも、祐一は一応ノックをしてからドアノブを回した。

 水瀬名雪は、数十個の目覚し時計が奏でる大騒音の中でも平然と眠りこけていた。猫柄のプリントされた淡い水色のパジャマが、毛布の隙間から見える。寝相は悪くないようだが、もこもこした巨大な緑のぬいぐるみを恋人のように抱いているのが異様と言えば異様だった。彼女が自ら『けろぴー』と名付けたカエルだ。17歳の娘が抱いて寝るような代物ではない。
「やはりというか、当然というか、最上級生であり受験生である立場に上がりながらもコイツだけは変わらないか――」
 目覚し時計の喧しいベルを1つ1つ止めながら、祐一は感心したような呆れたような、複雑な表情と口調で言った。
「まあ、良い。全ては私のシナリオ通りだ。安心せい、名雪よ。俺がお前をスッキリ爽やかに目覚めさせてやる。一生感謝せよ!」
 祐一はニヤリと唇の端を吊り上げて、幼馴染の少女を見下ろした。そして、いそいそと準備にかかる。
 まず、予め用意しておいた5本のロウソクに火を灯す。それを名雪の横たわるベッドを中心に、五芒星と呼ばれる星型(☆)の頂点に置いていった。神秘的な炎の揺らめきが魔方陣を形成し、薄暗い室内を黄昏色に彩る。
 そして祐一は、持ちこんだメモを片手に、口を彼女の耳元にゆっくりと寄せていった。見様によっては、眠り姫の頬にキスをしようとする王子役にも思える仕草だ。
「喜べ、ミッシーからわざわざ教えてもらった、とっておきのお呪いだぞ」
 そう言って、祐一は後輩から教えてもらったメモを抑揚ある声で読み始めた。

 いあ! いあ! くとぅるー!
 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ
 るるいえ うが=なぐる ふたぐん!
 いあ! くとぅるー ふぁるとーり ふぁるとーり
 くとぅるー……くとぅるー ふたぐん!
 いあ! いあ! くとぅるー!

 『クトゥルー』だったか『ハスター』だったか、太古の地球に星界から到来したと言われ、現在は地殻変動によって海底に没したとされるルルイエの館で深い眠りについているという邪神を召喚するための呪文らしい。いや、神に捧げる賛歌だったか。
 なんでも、そいつは顔面に無数の手触が生えていて、全身をゴム状のウロコに覆われたタコ似の化物だとか。一応は神に近しい存在らしいのだが、実在するかは別問題として是非とも会いたくはない存在である。

 いあ! いあ! くとぅるー!
 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ
 るるいえ うが=なぐる ふたぐん!
 ふぁるとーり ふぁるとーり……

 耳元で呪文の詠唱を続けると、名雪が実に寝苦しそうに顔をしかめ始めた。しかも、「うぅん」と苦しげに呻き出す。
「う、うにゅ――」
 驚くべきことに、彼女はそれからすぐに目を覚ました。これは、記録に残る速度である。
「祐一?」
「おう、おはよう。名雪くん。実に清々しい朝だね。ほら、窓の外をごらん。小鳥さんたちが、楽しげにさえずっているよ」
「カーテン閉まってるし、なんだか異様に気分がドンヨリしてるんだけど……」
「ははは、気のせいさ。名雪は低血圧だし」
 キラリと無駄に歯を光らせながら、祐一は爽やかに誤魔化した。
「部屋中に禍禍しい空気が充満してるし、なんだか生贄にされていたような気分だよ。それに、なんでわたしの周りをロウソクが取り囲んでるのかな?」
「なあに、目の錯覚だ。寝ぼけてるから幻覚を見てるんだよ。きっと」
 祐一は屈託のない笑顔で言うと、さっさと踵を返した。
「じゃ、俺は先に下に降りてるからな。2度寝するなよー」

「うぅー……」
 納得のいかない名雪は、ひとり困ったように唸った。





02:予鈴前 「進路希望」


「うーむ。素晴らしい。これだけゆとりのある登校が初日から実現するとは」
 桜並木に彩られた緩やかな坂を上りきると、久しぶりの校舎が視界に現れる。1番高い場所に見える巨大な時計は、まだ予鈴が鳴るまでに随分と余裕があることを示していた。
「これは、この1年期待できるな」
 ウンウンと、ひとり満足そうに頷きながら祐一は言った。
「なにが期待できるの?」
 名雪が小さく首を傾げる。
「いや、何かは分からんが、何かが期待できそうだ」
「なるほど」
 恐るべきことに、名雪はそれで納得したようだった。何かを成し遂げたような実に清々しい笑みを浮かべている。
「……お前ってさ、ときどき凄いよな」
 祐一は感心しているようにも聞こえる口調で言った。
「なにが?」
「いや、何かは分からんが、何かが凄い」
「ふーん。そうなんだ」
 やはり、名雪は納得したらしく、再び平和そうな微笑を浮かべた。

 周囲にはいつもより多くの生徒の姿が見受けられた。祐一と名雪はいつも遅刻ギリギリ、1秒を争うシビアな時間帯に滑り込んでくるため、必然的に他の生徒の姿を見る機会が少ない。だが、今日は校門前に至る前の通学路から、多くの生徒とすれ違った。
 その中には少し大きめの、真新しい制服に身を包んだ新1年生の姿も見えた。去年まで、川澄舞や倉田佐祐理といった仲の良い先輩たちのシンボル・カラーであった『青』は、今年から彼らのものとなる。可愛らしいデザインで定評のある女子用の制服は、新入生が身にまとうと不思議と新鮮に見えた。
「名雪っ! おはよっ!」
 不意に、喧噪の合間を縫って一際元気な声が響いた。
「久しぶりねぇ、元気だった?」
「あ……香里、痛いよぉ」
 名雪は、困ったように目を細めている。
「相変わらず眠そうな顔してるわねぇ、名雪は」
「わたしは昔からこんな顔だよ……」
 名雪と同じ赤いリボン。屈託なく笑うその女の子は、名雪の背中をぽんぽんと嬉しそうに叩いていた。
 緩やかな曲線を描くウェイヴ・ヘアと、理知的な雰囲気を漂わせた整った相貌。アダルティな女性であるため、一見すると祐一や名雪よりも年上に見える。が、祐一たちが最上級生であることと、制服のリボンが名雪と同じ色であることを考えると、同学年の生徒ということになるだろう。
 彼ら共通の友人でありクラスメイト、美坂香里その人である。

「よう、香里」
「おはよう、相沢君。ふたりとも、今日は早いわね。やっぱり新年度の初日だから?」
「いや。今朝は、たまたま名雪が早く起きてくれただけだよ」
「――だと思ったわ」
 香里は悪戯っぽく笑った。
「それにしても、人が多いね〜」
 キョロキョロと周囲を見渡しながら、名雪が呟く。
「あそこに人がいっぱい集まってるのは、何なのかな」
 名雪の視線を辿ると、確かに臨時に設けられた安っぽい木製の掲示板の周囲に、大きな人込みが形成されているのが見える。リボンから見分けるに、1年生と2年生の集団のようだ。
「クラス割じゃないかしら。うちの学校ではああやるのよね。名雪、あたしたちも去年経験したでしょ」
「ああ、そう言えばそうだったね」
 香里の言葉に、名雪は頷く。
「新入生は分かるけど、2年生はなんで?」
 去年の冬に転校してきた祐一は、その辺のシステムを良く知らない。
「この学校、一応は進学校じゃない? だから、1年の終わりには既に進路を大体決めさせられて、文系や理系なんかにコースを分けちゃうのよ。2年の始めにそのクラスがえがあるってわけ」
「あ、なーるほど」
 そう言えば、転校するときの手続きの際、希望するコースを幾つかの選択肢から選ばされたような気がする。祐一は文系を選んだため、同じく文系であった名雪や香里と同じクラスに編入されたのだろう。勿論、同じ文系の中でも数クラスに分けられるわけだが――彼らが出会ったのは、全くの偶然というわけではなかったらしい。
「3年に繰り上がるときはクラスの変更はないんだな」
「ないわよ」
 掲示板を見上げる後輩たちの群れを眺める祐一に、香里は言った。
「受験勉強に備えて、生徒の環境を下手に弄らないっていうのがここの方針みたい。だから、2年生の時 のクラスのままシフトすることになるわ」
「じゃ、わたしたち今年も同じクラスだね」
 名雪が嬉しそうに言った。

「相沢、おはよう」
 声をかけられた祐一が振り向くと、見なれた顔があった。温和な顔をした男子生徒で、去年からのクラスメイトだ。
「よう、斉藤じゃないか。久しぶり」
「美坂さんに水瀬さんも、おはよう」
 全員がそれぞれに挨拶を交わす。
「みんな、進路決めた? 今日、課題と一緒に調査表提出だったろう」
「そう言えば、そうだったな」
 斉藤の指摘で、祐一は今思い出したというように言った。
「ちゃんと、持ってきたぞ。ほら」
 祐一は薄い学生鞄を開けて、取り出した紙を斉藤に渡す。興味があるのか、名雪と香里も揃ってそれを覗き込んだ。
「TUT……東北技術科学大学か。やっぱ、人気あるんだなあ」
 用紙の第1志望欄に記入されたのは、地元で最も名の知れた国立大学だった。
「第1志望しか書いてないけど?」
 香里が空白の第2、第3志望の欄を目で示しながら問う。
「こっちに来てから、まだ半年も経ってないからな。どんな学校があるのか、まだ良く分からないんだ。――で、斉藤は? お前はどうするんだ」
「俺は就職希望さ。大学に行く気はないし、子供の頃からの夢があるんだ」
 そう言って、斉藤は爽やかに笑いつつ鞄を漁る。
「ほう、夢ねえ」
 取り出された調査用紙を、祐一は手渡された。名雪と香里が、それを後から覗き込む。


第6次進路希望調査表

氏名:斉藤良則

第1志望

エックスメン (X-MEN)
第2志望

バットメン (BUTMEN)
第3志望

スパイダーメン (SPIDERMEN)
第4志望 サラリーメン

提出期限 04/06



「……」
 香里は我が目を疑った。
「……」
 祐一は身を強張らせた。
「……」
 名雪は目をぱちくりさせた。

 な、なぬ〜〜っ!?

「いやあ、本当は最優先で『スーパーメン』にしたかったんだけどさ。現実的じゃないだろ、幾らなんでも赤マント付けただけで空飛べるなんてさ。だから、可能性のある路線で」
 斉藤は夢見る少年の瞳で、照れくさそうに告げた。
 香里は思った。
「この人、本気だわ……。しかも、なぜ複数形?」
 祐一は思った。
「コウモリのスペルは、BATだ。それ以前に、むしろこいつの頭がBUTだ」
 名雪は思った。
「スーパーマンより、けろぴーの方が格好良いのに」
 斉藤は言った。
「困った時は、いつでも俺を呼んでくれ!」





03:HR 「ニューフェイス」


 カッ、カカッ
 まっさらな黒板に、チョークの奏でる硬質の音。白く整った文字が4つ、並んだ。
 彼女は流れるような美しい文体で自らの名を記すと、笑顔で教壇に就く。

 江口素子

「みなさん、はじめまして。今日から卒業までの1年間、みなさんのクラス担任を務めることになりました、江口素子です。担当教科は現代国語と古典です。よろしくね」
 若くてチャーミングな女性教師の登場に、生徒たちは男子を中心にざわめきだす。
「あれ、受験があるから環境は変えないとか言ってなかったか? クラスも変えないなら、担任も石橋のままだと思ってたけど」
 祐一は頬杖をついたまま、江口と名乗った教師をぼんやりと眺めて言う。
「例年はそうらしいんだけどね。今年から、システムを変えたのかしら?」
 香里が少し怪訝そうな顔で小首を捻る。
「ま、いいや。美人で優しそうだし」
 クラス委員に関しての連絡事項を告げている彼女を見ながら、祐一はそう呟いた。
 小作りの丸顔に、腰まで伸びる艶やかな黒髪。肌が白くて、クリクリとした大きな瞳は愛らしい。だが歳相応の大人の雰囲気も同時に持っていて、絶妙のバランスを保っている。飾り気のないナチュラルな女性だが、どこか都会的な洗練された佇まいで、素直に笑顔が良く似合うと言える人だ。確かに、美人といえるだろう。しかも、年齢は恐らく20代半ば。生徒たちとも大きく隔たってはおらず、親近感を持てる。
「まあ、確かに悪い人ではなさそうにみえるけどね――」
 香里のその言葉には、人柄も勿論重要だけど、教育者としての能力はそれだけでは計れないわよ、といったニュアンスが含まれていた。

 そんな美坂香里の姿に熱い視線を注ぐ、ひとりの人物がいた。
 勿論、その容姿、才覚、年齢離れした妖艶さに魅入られて、彼女に異性として思慕の念を寄せる男子生徒は数多い。だが、香里に寄せられるのは何も恋愛感情の絡んだ想いばかりとは限らなかった。
 ――美坂さん、当然と言えば当然だけど、今年も同じクラスになったわね!
 胸のうちで、終生のライバルと勝手に定めた香里に語り掛ける少女。メガネのレンズがキラリと怪しい光を放つ。
 ――そう、あれは忘れもしない2年前の春。私は貴女に出会ったのよ。おのれ、美坂香里! 生まれてはじめて、この私に敗北の2文字を味あわせた女!
 小学生の頃から常に学年主席を我が物とし、眼鏡っ娘というハンデを背負いながらも、生来の愛らしさと清純さで校内ナンバー1美少女として君臨し、常に担任から直々に学級委員に任命され続けてきたこの私。

「わあ、あの人が有名な委員長さんよ!」
「可愛いなあ」
「その上、頭も良いんだよね?」
「しかも、学級委員長なんだぜ。最高だよ!」
「最高だよな〜」

 ……といった、羨望と賞賛の声は常に私のものだった。それは生涯変わらないはずだった。
 ところが、高校に入学した直後に行われたあの実力テストで、順位が掲示板に張り出されたあの時。当然、首位に自分の名が刻み込まれていることを確信して、掲示板を見に行くと――

 1位 美坂香里 800点
 2位 委員長さん 779点
 3位 久瀬透 772点

 満点なんかとられちゃ、勝てっこねーじゃんかよう! ……だったわ。
 信じがたいことに、私は生涯はじめて学年主席の座を他人に明け渡すことになった。更には、学級委員の座も推薦多数によって彼女に奪われ、私はその地位を追われたのよ。  しかも、あの女ときた日には!

「美坂さんって綺麗よねえ。憧れるぅ」
「大人っぽいしね」
「頭もメチャクチャ良いし!」
「スタイルも抜群なのよね」
「そうそう、みた? 体育の着替えのとき。凄く足が綺麗なのよね」
「うおお、それは男子生徒として聞き捨てならん!」
「美坂命!!」

 何考えて、そんなにイヤラシイ体の美少女に生まれついたんじゃ、オイ! ……というような容姿を兼ね備えていたわ。確かに大人っぽいし、仕草がいちいち色っぽいし。なにやら人柄も悪くないし。気取ったところもないし。
 ――隙がないっ。隙がないのよ、あの女!
 おかげで、男子どもは掌返すように私から美坂香里に鞍替えし、私は全てを失った。どん底だったわ。もはや委員長ですらないというのに、小・中学校からの慣例で私は『委員長さん』と呼ばれ続けるこの受け入れ難い現実。ハッキリ言って、屈辱意外のなにものでも無かった。
 それ以来、私は『打倒! 美坂香里』を掲げて勉学に勤しんできた。心血を注いできた。
 なのに! 神よ、これまでの2年間、私は1度としてあの小娘に勝てませんでしたっ! なんで!?
「おのれ、小娘! 私はあの星に誓うっ。今年こそ、あなたを倒すと!」
 委員長さんと呼び親しまれる彼女は、拳を握り締めるとスックと立ち上がって宣言した。
「覚悟なさい、小娘っ!」
 そして、ビシッと美坂香里を指差す。

 ――すでに、教室にはだれもいなかった。

 時計を見ると、14時27分。今日は午前中で放課となるため、既に周囲に人影はない。もう皆が帰宅して2時間は経過しているであろう時刻だった。
「あら……?」
 妄想と暴走は、思春期の貴重な時間を無駄に奪っていく。委員長さん(愛称)の前途は多難そうだ。
 がんばれ、委員長さん。美坂香里を倒す、その日まで――!





きんこんかんこーん (つづく)
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脱稿:2002/10/13 00:49:27

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