垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




37



AMS Mansion 4F cafeteria
Mon,26 June 2000 15:02 pm

6月26日 午後03時02分
AMSマンション 4階 カフェテリア


「――以上が、20日深夜に起こった出来事の大筋よ」
 そこで言葉を区切ると、香里は黙ってガラス・テーブルに置かれているコーヒーカップに手を伸ばす。一口、カップのブラック・コーヒーを含むと、それは当然のことだが既に冷めきっていた。香里は小さく溜め息を吐き、それを直ぐに受け皿に戻す。そして、傍聴者であった名雪に視線を向けた。
「細かいところは端折った部分もあるけど、要点は全て含めたつもりよ。名雪。これで貴女は情報として必要なものは、本件に関する限り全て入手したことになるわ」
 だが、ショックが大きかったのか名雪は暫く口を利けない。漸く気持ちに整理をつけて口を開いても、その声は動揺と混乱に上擦っていた。
「そんなことが、あったんだ。わたし、全然知らなかったよ」
「そりゃ、寝てたからな」
 祐一が肩を竦めて苦笑する。
「でも、香里の言う通り、これで大体のことは分かったはずだぜ。――あとは、名雪。お前さんの判断次第だ。この件をお前の中でどう処理するか、それが問題だな」
「祐一たちは、ううん、ここにいる皆は、どうしたの? クーパー先生と、素子先生のこととか。先生たちとは、屋上で会った後、どうしたの」
「今朝、吉田卓郎が殺されたことが、その全ての答えだろ」
 祐一は落ちついた口調で言った。
「交渉は成立した。見解の一致を見たわけじゃないが、オレたちはこの件から身を引くことになった。介入もしないかわり、警察にも言わない。それがオレの選択だよ」
「じゃあ、皆は先生たちが吉田卓郎っていう人を殺すってことを知りながら、彼らを見逃したんだね。それで、先生たちは遂に吉田さんを殺してしまった……」
 名雪は口にしながら、色々と頭の中で考えを巡らせているらしい。誰かに話しかけているというよりは、言葉にして思考を整理しているといった感じだ。
「祐一が、『吉田卓郎が殺されたから、もうこの事件は終わりだ』って言ってたのは、だからなんだ。つまり、全部知ってたから……だから、これで終わりだってことが分かったんだね?」
「――そうなるな」祐一は言った。「オレたちは、クーパーと江口が、死んだ澤田の下半身にガソリンを撒いて、火を放つのだって見ていた。それ以前に、澤田が死のうとしてるのに、救急車も警察も呼ばなかったし、その犯人を知りながら彼らを見逃した。殆ど、共犯に近いよな」
「じゃ、この事件はどうなるの? もし、私もみんなと同じように、事件の全てを胸の中にしまっておくことににしたら」
「恐らく、真実は闇の中でしょうね。俗に言う、迷宮入りというやつです」
 応えたのは、美汐だった。
「私の分析では、警察機関にこの事件を解決できる能力はありません。彼らの入手している情報量は、我々のそれと比較して圧倒的に少なすぎますから。それに彼らは、我々のようにただ想像だけで捜査を進めるわけにもいかない、不自由な連中です。科学力や調査能力、経験などは豊富ですが、柔軟性が決定的に欠けていますし。なにより、彼らは『武田玲子』の事件を自殺として片付けてしまった。これは致命的です」

「む〜。確かに、そうですね」
 栞は、ぽよぽよとした柔らかそうな眉毛を顰め、難しい表情で言った。
「第1、澤田さんが亡くなってしまった以上、警察は『竹下&小田桐兄弟』の殺人と『澤田&吉田』の殺人が別の犯人のよる犯行であることを見破ることは不可能です。それを見破るには、まず『武田玲子』さんの死が殺人であったことから思考を始めなければなりませんし、生徒会にも捜査のメスをいれなくてはならなくなります。でも、相当の根拠がない限り生徒会に探りを入れるなんて、警察にはできませんよね」
「もし、澤田武士さんの右腕が残っていたら、そこについていた『引っ掻き傷』を見て、警察は竹下啓太の右手首切断と、その傷とを結びつけることができたかもしれません。まあ、1課にそれなりの頭脳と想像力を持った人間がいたら、の話ですけど」
 美汐は冷静に指摘した。
「ですが、それができなくなるようにクーパーと江口両名は、私たちと分かれた後、どうやら彼の腕を切断したようですね。これで、竹下啓太の右手首が切断された理由も、澤田武士の右腕が切断された理由も、警察は永久に知ることが出来なくなりました」
「――そう。だからこれは、怪奇的・狂気的といった意味での『猟奇殺人』じゃない」
 祐一は、美汐の言葉を補足するように言った。
「死体の下半身が焼かれたのも、竹下の右手首が切断されたのも、澤田の腕が切り落とされたのも、全て合理的で論理的な理由があったからだ。一般人やマスコミ、警察はただ残った惨状を観測しただけで、それを猟奇殺人と片付けてしまう」
「だから、彼らには真実は分からないんですね。ああ、だからお姉ちゃんはあの時、あんなことを……」
 栞は、姉とベッドで一緒にいるときに聞いた『小人』の話を思い出していた。
 近付いて観察してみようとすると、歩くたびに生じた振動で小人の家は滅茶苦茶に荒らされてしまう。だから観察者は、廃墟と化した小人の家しか見ることが出来ない。
 だが、それだけが真実ではない。それは、あくまで結果なのだ。海面上に覗いている、氷山の極一角でしかない。
 小人の家は、本当は整理整頓の行き届いた綺麗な家だった。観察者は、自分でそれを廃墟に変えておきながら、それだけが真実だと思い込んでしまう。そして、そこで考えるのをやめてしまう。では、誤った評価を受けた小人たちの気持ちはどこへ行けばいいのか――。
『ねえ、栞が見た小人の家は、真実の姿と言えるかしら? 本当に、それで彼らの家の実態を知ったことになるかしら? 知ろう。観察しよう。観測しよう。そう思って、それを実行に移したとしても、遂にその真実の姿を窺い知る事はできない。そんな対象が、この世には幾つもあるんだと思うの』
 栞は、姉の言葉の奥の深さに今更ながら感嘆していた。動機の話だけではない。姉は既にあの時、事件そのものが内包している隠れた本質を見抜き、だからこそ、それをあのような形で語ったのだろう。
 美坂香里は、少年探偵ごっこをしていたわけではない。その結末を見届けたかったのだ。
 栞は、名雪に解説を加えている姉をそっと見詰めた。改めて、底知れない女性である。彼女は、栞が犯人が誰かといった低俗なことで盛り上がっているとき、もっと大局を見詰めて、それに思いを巡らせていたに違いない。
 肝心なことは何も話してくれない、素直さに欠けた、捻くれ人間だが――
「お姉ちゃんは、時々ヘッポコだけど、やっぱり凄い人です」
 栞は密かにそのことに気付いて、ひとり微笑んだ。




38




 その日も、見上げれば満天の星空が広がっていた。北国は、光化学スモッグに覆われた首都圏とは違って空気が非常に澄んでいる。祐一には信じられないほど、星の煌きが身近に感じられた。青白い光を投げかける月は、程よく欠けて三日月に近い。別れ際に美汐に聞いたところによると、月齢は23.3歳だそうだ。
「うぐぅ。星がいっぱいキラキラしてるね」
 あゆは嬉しそうに夜空を見上げて言った。
 都会の人間は、みんな忙しそうに俯いて歩くのが常だ。夜、駅から吐き出されてくる背広の男やスーツの女性たちは、皆一様に急ぎ足で家路を急いでいく。夜空を見上げるために立ち止まることなど、あり得ない。きっと彼らは、月がいつもそこにあることすら忘却しているのだろう。
 余裕がない証拠だ。だから彼らは、自分のことしか考えられない。誰かに優しくなんてなれない。 それは悲しいことだと、祐一は思う。
「おりおん座あるかな〜。うぐぅ……おりおん座ってどんな形だっけ」
 だから、こうして平和そうに呟くあゆを見ていると、彼女が優しい子だと認識できる。その存在が嬉しくなる。世の中には、こんなボーっとした空ばっかり見て笑っている奴もいるんだ、と。
「ば〜か。オリオン座は今の時期は見られないよ。ありゃ、冬だ」
 祐一はなんだか嬉しくなって、笑顔を見せながら言った。
「うぐぅ。そうなの?」
「そうだ。それより、あゆ。星座には色々珍しいものがあってな。髪の毛座とか、コップ座とかあるんだぞ。知ってるか?」
「うぐぅ。知らなかったよ……って!」
 あゆは慌てたようにブンブンと首を振る。
「そんなこと言って、祐一君、またボクを騙そうとしてるでしょ。うぐぅ。もう、騙されないよ! ボクにだって、学割能力があるんだよ」
「はぁ〜。そりゃお前、『学割』じゃなくて、『学習』だろ。学習能力」
 祐一は苦笑しながら、あゆをからかう。
「割り引いてどうすんだ、オメーは」
「う、うぐぅ……」
 やられてしまったあゆは、また悲しそうに俯く。だが、直ぐに顔を上げて、人懐っこい笑顔を見せるのだった。
「失敗は誰にでもあるよね! 失敗は成功の母だから、次がんばればいいよ!」
「――ああ、そうだな」
「う〜。なんだか、2人とも良い雰囲気だよ」
 名雪とあゆと並んで歩く帰り道。3人の先頭を歩く祐一の背に、名雪の不機嫌そうな声が突き刺さる。
「私のこと、忘れてない?」
「そんなことないぞ。ただ、寝ちまったのかなぁ〜と思ってただけだ。名雪にとっては、寝ながら歩くのなんざ、文字通り朝飯前だからな」
「うぐぅ。そうだね。名雪さんは、寝るの得意だもんね」
 振りかえった祐一とあゆが、ウンウンと頷きながら調子を合わせる。
「2人とも、もしかして酷いこと言ってる?」
「いんや。それは、お前の気のせいだ」
「そうだよ、名雪さん。きっと気のせいだよ。一晩寝れば忘れちゃうよ」
「う〜〜」なんだか納得のいかない名雪は、立ち止まって恨めし気に祐一とあゆを睨む。
「ほら、そんな唸ってないでさっさと帰ろうぜ。秋子さんが美味しい晩御飯を用意して、待ってくれてるぞ。きっと」
「うん! 秋子さんのご飯、とっても美味しいからボク、好きだよ」
 祐一とあゆは、そう言って微笑む。
「そうだね。お母さん、1人で寂しいかもしれないから急いで帰ろ」

 ――時刻は7時30分。会合を終えて、AMSは解散された。美坂姉妹も、美汐も、そして祐一たちも其々が、自分の帰るべき場所に戻っていく。夜の暗闇が怖いあゆも、祐一や名雪と楽しく帰ることができるなら、それはそれで平気だった。
「でも、今回の事件は悲しくて辛い事件だったね。わたし、犯人とか聞かないほうが良かったような気がしてきたよ」
 少しだけ俯いた名雪が、ボソリと呟いた。
「だから、お前にしつこく迫られても話さなかったんだよ。オレは。聞かない方が幸せだと思ったからさ」
 肩を竦めて、祐一は「それ見ろ」といった表情を名雪に向ける。
「だって、みんな犯人知ってるのに私だけ知らないなんて、気になるよ」
「はぁ……」
 言っていることが相変わらず無茶苦茶な名雪に、祐一は嘆息する。
「まあ、聞かずに過ごすのも、聞いて後悔するのもお前の勝手だからな。好きにすればいいさ。そして、実際に自分で選んで話を聞いたわけだから、それでいいだろ?」
「うん。でも、祐一。祐一は、いつ頃から犯人とかに気付いてたの?」
「そう言えば、祐一君と香里さんと、美汐ちゃんは最初から犯人が分かってたんだよね。しかも、その推理はズバリ的中だったし。ボク、祐一君のこと見なおしちゃったよ」
 名雪の質問に、あゆも興味を持ったらしい。2人は顔を揃えて祐一に好奇の視線を向ける。
「別に、あれは推理って言う程のものじゃないぞ。想像だ、想像。確信も確証も、勿論物的な証拠すら伴わない空論だったんだからな。天野も香里も、そう言ってただろう」
「でも、ピタリ賞で当たったよ?」あゆはチョコンと首を傾げる。
「そりゃ、偶然さ。運が良かっただけ。たまたま、オレたちの想像が真実と重なってただけさ。だって、そうだろう? ――武田玲子のチェーンのトリック1つとってもそうだ。彼女がミステリ・マニアで、小説に出てきたチェーン・トリックを自宅のチェーンで試しただけかもしれない。もしそうなら、事件とはなんの関係もなかった可能性だってある」
 祐一はやる気のなさそうな声音で、尚も続ける。
「あの連続殺人だってそうさ。竹下英之は飛び降り自殺で、その死体に浮浪者がオモシロ半分に火を放っただけかもしれない。そもそも、竹下と小田桐兄弟の殺人が、同一犯の犯行である証拠だってない。両者を結びつけていたのは、共に被害者が生徒会の重役だったってだけの共通点だ」
「でも、それを言ったら元も子もないよ」名雪は困ったように、眉根を寄せる。「どんな可能性だってアリになっちゃうもん」
「そうさ。どんな可能性もアリで、そのどれをも否定できない状況にあった。しかも、生徒会会館のナゾだって、解けていない。オレたちは、色々な妄想の中から、1番現実に起こり得るような気がする1つを選んだだけだ。そして、それが今回はたまたま運良く的中していた。推理だなんて、とんでもないさ」
「う〜ん。分かったような、分からないような」
 名雪はしきりに首を捻って、考えている。もう2時間もすれば、就寝時間だ。思考力も低下してきているのだろう。
「それで結局、祐一君はいつ頃から澤田って人が犯人だと思ってたの?」
 話の流れを完璧に無視して、あゆは言った。
「小田桐兄弟の死体の『下半身』が燃やされたって聞いた瞬間からだな。あの時、いきなりピンと来た。逆に言えば、それまでは何にも分かってなかったわけだけどな」
「わ、そんなに早くから分かってたの? しかもたった一言で……」
「リドル(なぞなぞ)が解ける瞬間や切っ掛けなんて、そんなもんだろ?」
 驚く名雪とは対照的に、祐一は肩を竦めながら軽く言う。
「下半身って言えば、やはり性的な意味合いが強い。だから犯人は、ヤツらにそういった意味での恨みを持つ女だと思ったんだ。最初はな。ところが、この事件の関係者と登場人物に、その条件で該当するキャラクターはいない」
 祐一は自分の思考過程を改めて振りかえりながら、ゆっくりと語った。あゆと名雪は、それに黙って耳を傾ける。口元の笑みは消え失せ、2人とも稀にしか見せない神妙な顔つきをしていた。
「だったら、こう考えたらどうだ。その女の子の代わりに、誰かがヤツらに復讐をしている。可能性としては、その娘の恋人か家族あたりが考えられる。自然と浮かび上がるのは、事件関係者の中で唯一の男女ペアの姉弟――澤田紀子と武士だ」
 チラ、と祐一は2人の少女を一瞥する。
「澤田紀子の自殺が、生徒会との揉め事から起こったものだとしたら? その揉め事というのが、セクハラとかそれがエスカレートしたものだったとしたら? そして、それが原因で姉が自殺したことを、弟の武士が知ったとしたら? 前年度の生徒会3役は全員が男だ。動機は怨恨。性的象徴の排除として、下半身に炎を放つ。この全てに説明がつく」

 祐一は夜空を見上げた。あの時――澤田武士と出会った夜も、こんな風に空にはビーズをばら撒いたような星空が広がっていた。そのことを感慨深く、彼は思い出す。
「論理的な組み立てじゃない。あの時、佐祐理さんから『死体の下半身に火』という言葉を聞いて、オレの頭の中では一瞬でそのパズルが出来あがった。まあ、推理というよりはピンと直感で閃いたって感じだな」
 祐一は、改めて自分の好い加減さに苦笑した。どう贔屓目に見ても、これは推理などではありえまい。
「その考えが纏まった時、正直、ザマぁ見ろと思ったよ。特に小田桐には1度会って、あまり良い印象を持ってなかったからな。あいつは、明らかに一緒にいた舞や香里に色目を使ってた。女好きって感じだったモンな。そいつが女の子を乱暴して、その報いとして殺された挙句、下半身を燃やされたわけだ。ハハ、自業自得。焼きオニギリの完成かよ……ってな。本当、いい気味だったぜ」
「ああ。だから、あの時――」
「そう言えば、香里さんも美汐ちゃんも笑ってたね。ボクも釣られて笑っちゃったけど」
 名雪とあゆが、納得したように頷き合う。
「そっか、あの時、もう祐一には分かってたんだ」
「ああ。だからこそ、オレには澤田姉弟が不憫に思えた。 酷い仕打ちを受けた姉貴もそうだが、その姉貴の受けた被害を知ったときの武士の心情を思うとな。同じ男してさ。正直、やりきれなかったぜ。守りたかった女が、最悪の形で奪われて、もう、届かなくなっちまったんだからな」
 音量は変わらなかったが、その祐一の声には明らかな怒りと悲哀が込められていた。
「だから、アイツの生徒会のヤツらが許せねぇ――って気持ち、痛いくらい良く分かるよ。いや、本人ほどじゃないにしても、分かるような気がする。生徒会のヤツらさえいなければ、あの2人は幸せな姉弟としてずっと一緒にいられたんだ。ずっと、一緒にいられたはずなんだ。だから、オレは確信を持って言えるんだよ。この事件で1番傷付いて、誰より苦しんだのは、殺人の被害者なんかよりも澤田姉弟の方なんだってな」
「そうだね……」
 名雪は俯き、泣きそうな声で呟いた。
「好きだった人が、突然いなくなって。ずっと一緒にいられると思ってたのに。もう、会えなくて。その人が傷付いていたことにも、苦しんでいたことにも、気付いてあげられなくて。きっと、悔しさとか悲しさとか憤りとか。色んな想いが極限まで高まって。そして……澤田君の中の何かが、弾けちゃったんだね」
「そうだな。きっと、そうなんだろうな」祐一は頷く。「復讐ってのは、一種の感情の暴走なのかもしれない。復讐が哀しいって言うのは、恐らく、だからなんだろうな。大切なものを失って――復讐という名の暴走に駆り立てられる。そんな事態に陥るのは、確かに悲劇だ。でも、オレは復讐を肯定しないかわり、否定もしない。全てを失ってしまった人間が、もう復讐しか残されていないってのも分かる気がするしな」
「だから、あの人は死んじゃったの? 全部をなくして、復讐しか残らなくて。その復讐が終わったから、死んじゃったの?」
 あゆが目尻に涙を溜めながら問うた。
「そうだ。オレには、澤田武士が恐らく復讐を追えた後、死を選ぶであろうことも予測できていた。それは天野や香里も同じだっただろう。あいつらも、澤田が死のうと考えていることは予測していた。だから、あいつらはあの時、こう言ったんだよ。『殺される可能性があるのは最大であと3人。自殺する確率があるのは最大で1人』ってな」
「えーと、殺される可能性がある3人っていうのは、吉田さんと、久瀬君?」
 名雪が頬に人差し指を沿えて、頭を悩ませる。
「――それと、犯人自身。つまり、澤田武士の3人だ。天野や香里は、『生徒会側のヤツら』が澤田を消そうとするであろうことも、読んでたってわけだな。オレはそこまでは分からなかった。あいつらは、やっぱとんでもない予測能力をしてるよ」
「それじゃあ、自殺する確率があるっていうのは、澤田君本人のことだったんだね?」
「そうだ。天野も香里も、あいつの心情に察しがついていたんだろう。これだけ死体をクイック・リリースしてきたんだ。少なからず、破滅的になってる証拠さ。あいつは、クーパーたちに殺されなくても自殺を考えていたんだろうな」
「最初から死ぬ気でいたなんて――」
 あゆは、涙声で呟く。
「うぐぅ。どうしてかな。どうして、そんなことになっちゃったんだろう」
「あいつがリアルだったからだろう? マネキンじゃないんだ。それぞれに事情があって、過去があって、感情がある。そして、その中には怨恨や狂気だって含まれてるもんだ。それが局地的に暴走することもあるさ」
 祐一は諦観したようにそう言ったが、それは自身に言い聞かせているようにも見えた。
「これはオレの持論でしかないが――」
 祐一は誰とも目を合わせず、星を見上げたまま言った。
「オレは命そのものには、何の価値もないと思っている。命が尊いってのは、人間の戯言であり幻想であると思ってる。生命ってのは、そう大したモンじゃない。ちょっとだけ珍しい、ただの化学反応の一種さ」
「祐一、それはちが……」
「命の価値ってのはさ」
 明らかに抗議の声をあげようとした名雪を遮り、祐一は強引に続けた。やはり、視線は空に固定されたままだ。
「そいつがその命を使って、人生をどう生きるかで変わってくるんじゃないのか? 命の価値は、『生き様』次第なんだと思うぜ。生まれた時点で、命の価値はゼロ。コイツは、平等さ。そのゼロ=可能性から、価値をプラスの方向に高めていくか……それとも、マイナスの方向に貶めていくか。それは、その人間次第なんじゃないかと思う」
 祐一は名雪とあゆ、それぞれに視線を向ける。そして彼女たちの反応を確認してから、再び顎を上げた。
「オレはオレなりの評価基準を以って、澤田武士を評価した。オレはあいつの生き方が好きだ。だから、アイツの復讐も死も止めなかった。逆に、生徒会のヤツらは澤田にマイナスの評価しかされなかった。だから、殺された。オレは、それを当然のことだと思う。命の価値は尊くない。尊くするもんだ。尊く思われるように高めるもんだ。違うか?」
「それは――」
「ボクにはわからないよ」
 鋭く問われるものの、名雪もあゆも俯くしかない。彼女たちは、改めてそんなことを考えたことなどないのだ。いや、寧ろ考える必要があるとさえ思っていなかったのだろう。
「命が尊いなら、なんで人間は簡単に他の動物の命を奪うんだ? なあ。どうして家畜の屠殺はOKなのに、人殺しだとNOなんだ? 家畜の肉を食うのは平気な顔でやってるくせに、それが人間となるとどうして突然駄目なんだ? オレは、同じことを天野に聞いてみたことがある。そうしたら、あいつは即座に応えたぜ。
 ――それは『恐怖の原体験』というやつです。同族殺しのブレーキですね。種族が生き残るために備わっている、本能的なタブーです。
 自爆を封じるプログラムと考えて下さい。それが、原体験的恐怖です。
 種を存続させるためには、同族殺しはしない方が得策だと思いませんか? 恐怖の原体験とは、つまり、その制御システムと思えばいいでしょう。
 人間は、人間の命を尊く感じるプログラム、人間のバラバラ死体に拒絶や恐怖を抱くプログラムが、生まれつき備わっているんです。……ちなみに、人間だけではなくて、他の霊長類にも同じものがありますよ。チンパンジーや猿に、切断した手や足の人形や本物を見せるんです。すると、彼らは怖がって逃げます。それが、死を連想させるために、本能的な恐怖を感じるわけですね。つまり、これが『原体験的恐怖』です。
 良く出来てるでしょう? 霊長類は脳の容量が大きいから、そういう幻想発動システムが組み込めるわけですよ。昆虫や他の低能な動物だとこうはいきません。

 たとえば、野生の霊長類の中で共食いが起きた時、群れのボスは真っ先に死体の顔を噛み砕き、同類の死体と判別できないようにしてから、仲間に与え、それを食べ始めるんです。これも、原体験――つまり本能的プログラムを緩和させるための処置の1つですよね。
 人間も、自分が生み出した自律的な思考ができる物体には、恐らく同じプログラムを施すことになるでしょう。アイザック・アシモフの『ロボット3原則』の考え方が、それを証明しています。
 1.ロボットは人間に危害を加えてはならない。
 2.ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。
 3.ロボットは、自己を守らなければならない。
 ――ね、第3条に自己の防衛を命じています。勿論、これには同族殺しも含まれるでしょう。自己と自己種族を守る。これを効率的に、しかも自然に守らせるためには『自分の存在は尊い』『我々の命は尊い』と思い込ませるのが1番簡単なんです。
 そう。『命が尊い』という思考は、生まれた時から人間に備わっている一種の抑制装置であり、そして本能が見せる勘違いです。本質的に、命は尊くありません。少しでも長生きするために、頭の良い霊長類に備わった思い込みなのです。


 ……ってな。つまり、そういうこった。命が尊いなんて言葉なんざ、ホイホイとは信じられねぇよ。だから、オレはその考え方が嫌いなんだ」
 祐一は、肩を竦めておどけて見せた。
「本能からの思い込みで判断するなら、他の獣にもできる。だけど、オレたちは人間なんだ。何が尊くて、何が尊くないかは理性と感情で決められる。オレたちはそれが出来る唯一の生物なんだ。だったら、それをやろうぜ」
「うぐぅ……どうやるの?」
 あゆは少し考えてから、その素朴な疑問をストレートに口にした。
「感じて、考えれば良い。何で命が尊いと思うか。それを自分に聞いてみるんだよ。好きだから死んで欲しくない。未来がある子供だから、生きて欲しい。大切な人だから失いたくない。理由は色々さ。誰が、誰をどう思うかで全く変わってくる。人は多様性がウリだ。価値観も其々違う。だから、命を尊いと思う意見も違って当然だろ?」
「それなら、ボクにも分かるよ!」
 あゆは算数の問題が解けたのを母親に自慢する子供のように、にこ〜っと笑う。
「ボクはね、祐一君も、名雪さんも、秋子さんも、それから美汐ちゃんも、栞ちゃんも、佐祐理さんも、舞さんも、香里さんも、み〜んな大好きだから。あと、タイヤキも。だから、ずっと一緒にいたいよ。誰も死んで欲しくないよ。だから、みんなの命は大事!」
「わ、わたしもだよ。わたしだってみんな大好きだし……それにイチゴとか、イチゴ・ジャムとか、Aランチとかスキだもん。ネコも大好き。だから、なくなったらイヤだし、尊いよ?」
 ――名雪は何か間違えていた。
「そうだ。名雪のは深く考えないとしても、とりあえず、あゆは合格だ。好きなヤツの命は尊いと思って当然だし、逆に殺したいほど嫌いなヤツの命はどうでもいい。人間ってのは、そういうもんなんだよ。それが、感情の篭もったリアルな評価なんだ」
「でも……」あゆはいつになく真剣な顔で口を開いた。「それでも、ボクは祐一君や澤田君の考え方は間違いだと思うんだ」
 そしてあゆは、こんなこと言ったら、祐一君、怒ったりボクのこと嫌いになったりするかもしれないけど、と急いで付け加える。
「どんな理由があろうと、人が人を殺すなんて絶対にいけないことだよ。復讐なんて、しちゃだめなんだとボクは思うよ」
 そこで一旦言葉を切ると、あゆは不安そうに祐一の反応をうかがった。だが、そこに恐れていたような憤怒や侮蔑の色はなく、むしろ祐一はあゆが何を語ろうとしているのか興味を持っているように見えた。それを証明して見せるかのように、祐一は微笑む。
「別に怒りゃしないよ。あゆが自分で考えて、それでもそう思うんなら、それも感情の篭もったリアルな評価のひとつなんだろうしな」
 そこまで言うと、祐一は再び口をつぐんで話の続きを促した。あゆは安心したように、再び口を開く。
「もし、祐一君や澤田君みたいに、人を殺してもいいとか復讐は自由だって考える人が世界中に広がっちゃって、皆そうなっちゃったら、きっと世界が滅びちゃうと思うんだ。誰も幸せに暮らせなくなるよ」
「世界は滅びないさ」祐一は苦笑交じりの軽い笑みを見せながら、穏やかな口調で言った。
「人類と世界を混同しちゃいけない。自分たちが死滅することを、世界が滅びるなんて表現するのは、そりゃ何か勘違いしてるからだ。人間が滅びたところで、世界は残る。むしろ、他の生き物たちにとって地球は住みやすい綺麗な星になるだろうさ。
 ――結局、同系の勘違いなんだろうな。人間の命が尊いっていうのはさ。人権だとかいう概念だってそう。結局は人間様が勝手に作り出して、ひとりでありがたがってる代物だし。なんだかんだ言っても、口先だけで万人にそれを保証できるやつなんざいない」
「あ、ボクが言おうとしたのは、そういうことじゃないんだよ。ただ、えーと、殺人とか復讐とかを認めちゃうと、きっと人間は滅茶苦茶になっちゃうってことで」
「そうだよ。揚げ足とるなんて、祐一ひきょうだよ」
 名雪があゆの加勢について、ぶーぶーと祐一の非難に走った。恐らく、まだ澤田武士の件でないがしろにされたことを根に持っているのだろう。
「わかった、わかった。悪かったよ」形勢不利を悟った祐一は、苦笑いしながら謝った。
「まあ要するにだな、オレが言いたかったのは、正論とか、道徳の教科書にのってるようなお偉い言葉を口にする奴は、いつだって口先だけだってことだ。少なくとも、オレは行動を伴わせたやつを見たことがないよ」
 だが、自分のその言葉で祐一はハッとした。
 もしかすると、自分の隣りを歩く少女こそが、初めて見るその生きた具体例なのかもしれない。月宮あゆは、きっと自分の口から出た言葉そのままの生き方をするだろう。殺意や復讐といった負を否定しながら、あくまでその生を貫けるかもしれない。そしてそれによって得た幸福を、他人に分け与えようとするかもしれない。

「――なあ、あゆ」
「なあに?」
 呼びかけると、あゆは少しだけ不安そうな顔で祐一を見上げた。
「オレとお前の意見は全く正反対の主張で成り立っていて、たぶんこの先も相容れることはないだろう。だから正直に言わせてもらえば、あゆの意見は気に食わないし、好きじゃない」
「うぐ……」途端に、あゆの両眼にじわりと涙が滲んできた。それが決壊して流れ出してしまう前に、祐一は急いで言葉を続ける必要があった。
「でも、お前のような意見もあって良いと思うし、あって当然だと思う。意見そのものは好きになれないけど、否定したり間違っていると言うつもりはない。たぶん、ある意味で正しいんだろうとも思う。だから、賛成はできないけどお前が主張する権利は全力で保障したい。
 なにより、たとえ自分と対立する思想を持ってはいても、オレはあゆが好きだよ。それはきっと、この先もずっと変わらないと思うから」
「なんだか、複雑だよ」
 名雪は眉間にしわを寄せて、難解な方程式をつきつけられたときのような顔をする。
「オレは虫の好かない他人の意見でも、それはひとつの可能性として受け入れようと思ってる。むしろ、自分とは違う考え方を抱けた人間としてある意味で尊敬したい。だけど、だからって言って自分の道は譲れない……ってことさ。
 まったく逆の考え方を持ってるんだ。時に激突することもある。そして、そいつを退けないと先に進めないっていうんなら、オレは迷わずそいつを押し退けることを考える。敬意は払うけど、戦って潰す。それが、オレのやり方なんだ」
 そう言って、祐一は2人の少女を見詰めた。彼は、彼女たちの気合の入った反論を期待していたが――生憎と、返ったのは空腹を告げる「く〜」というあゆの可愛らしい腹の虫の声だった。
「う、うぐぅ……タイヤキ食べたい」
 騒ぎ出したおなかを押さえると、なんとも哀れを誘う表情であゆは呟いた。
「おいおい、我慢しろよ」
 祐一は、それに思わず苦笑する。
「もう、家が見えてきたぜ。秋子さんの手料理が待ってるんだ。タイヤキはまた今度にしな。でないと、秋子さんが悲しむ」
「うん。そうだね!」
「じゃあ、早く家に帰ろうよ。お母さんのごっはん♪ おかあさんの、ごっはん♪」
 まだまだ色気より食い気が先行する少女たちが、声を揃えて言う。
「よっし。ほんじゃ、家まで競争しようぜ! 1番早かったヤツが、1番大きなオカズをゲットってことで――レディ」いきなり宣言し、「ゴー!」
 祐一は、いきなり走り出した。
「う、うぐぅ〜! 待ってよう」
「祐一、ズルイよ! 『レディ』と『ゴー』の間に、『セット』が抜けてるよ」
 出遅れた名雪とあゆは、あわててその背を追い駆ける。文句の割りには、その顔に楽しげな笑みを浮かべて。
「へへ〜ん。バーロー。陸上部のエース相手に、バカ正直に勝負してられるかよ〜」
 星の瞬く夏の夜空に、3つの足音が響き渡る。その足音が跳ねるように軽やかなのは、きっと、尊いと思える命が、自分の周囲に数多存在することを知っているからだ。
 だから、少なくとも彼らには、その歩みを止める気はまだ当分ないらしい。尊いと思えるものの、最後の1つが消え去るその時を迎えるまでは――。







to be continued...
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改訂:2003/03/06 21:42:23


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