垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




エピローグ




「う……うぐぅ。ごめんなさい、ごめんなさい! ボクが悪かったです。もうしませんから、ゆるしてください」
 あゆは怯え、何かを頑なに拒むが如く目を硬く閉じ、イヤイヤをするように幾度も首を横に振る。
その小柄で華奢な体は、先ほどから小刻み震えていた。
 なにしろ彼女にとって、これは人生初の体験となるのだ。不安にもなるだろう。しかも彼女は高所恐怖症にプラスして、絶叫マシンの類いが大の苦手ときている。当初から予測できていた反応であった。
「ホラ、あゆ。なにやってんだよ。早く行くぞ」
 大きな黒のスーツケースを担いだ祐一が、足を止めて呆れた声を出す。
「大体、誰になにを謝ってるんだ、お前は」
「だ、だっておかしいよ。絶対変だよ!」
 冷たい祐一の反応に、あゆは涙に濡れた面を上げて全力で抗議する。
「だから、何がだよ?」
「あれだよ!」
 ビシッと、あゆの白く細い指先が、ガラス越しにジャンボ・ジェットを指す。
「飛行機があんなに大きいなんて、聞いてないよ! しかも鉄でできてるし! あんなの飛ぶわけないもん」
 ――そう。AMSの面々は今、成田空港にやってきていた。







 生徒会・連続猟奇殺人事件の終幕から、早1ヶ月。祐一たちの学校は、未だに事件そのものが未解決であり、なおかつ犯人が捕まっていないこともあって、6月から結局1度も授業が再開されることのない、臨時休校状態のまま夏休みに突入した。
 真実を知るAMSのメンバーたちからすれば、事件は既に終わったものであるが、何も知らない世間にとってはまだ陰惨な事件に幕は降りていないのだ。彼らは未だに町を徘徊しているであろう犯人の影に怯え、日々を送っている。
 結局、澤田武士は連続猟奇殺人事件の被害者の1人として、世間に認知されることになった。そして彼が被害者として葬り去られた以上、県警も捜査本部も遂には真犯人を逮捕することはあり得ないだろう。美汐の予測通り、このまま迷宮入りの可能性が極めて濃厚だ。
 また、武田紀子を殺害したジョージ・クーパーと江口素子の両教諭は、学校を辞め7月中にその姿を消した。佐祐理が興信所を使って調査させたところ、彼らの経歴や名前、戸籍、住民基本台帳の記述内容、パスポートなどの公的データは、全て偽装されたダミーであったことが判明した。この手口は、何から何まであの北川潤と同じである。

 北川潤と言えば、6月の下旬に本物が見つかったらしい。彼はフランスに留学していた17歳の少年で、佐祐理が入手してきた写真を見せてもらったが、祐一や香里の知っている北川潤とは似ても似つかない、全くの別人であった。
 どうやら彼は、『偽の北川』が属する組織に利用されて、フランス留学の話を持ちかけられていたようだ。そして、そのタダ同然で海外留学という美味しい話にまんまと食らい付き、国外へ追い払われた。その留守の北川に成り代わって、偽物が堂々と「北川潤」を名乗り、誰にも疑われることなく日本で学生生活を送っていたというわけである。
 現在、行方不明になっている本物の北川の家族は、失踪として片付けられている。が、AMSや警察は既に殺されている可能性が大きいと推測していた。偽の北川は、例のダイヤ泥棒たちを全員射殺している。人を殺すことを何とも思わないプロだ。北川1人ならまだしも、邪魔な家族まで生かしておくほど優しくはないだろう。それが、彼らの一致した見解だった。

 そんな北川家の事情など「我知らず」といった具合に、AMSは前々から計画に上がっていた海外旅行を、夏休みの長期休暇を利用して現実のものにしようとしていた。特に祐一、香里、名雪の3人にとって、今回が高校生活最後の夏休みとなる。受験勉強などなんのその。彼らは力一杯、この夏を満喫するつもりらしかった。
 その舞台に選ばれたというのが、グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国。――要するに、イギリスである。
 祐一の両親が、「夏休みにこっちにこないか」と息子を誘ったのが切っ掛けとなり、彼にくっついてAMS全員が押しかけることになった次第だ。もちろん、AMSが動くとなれば佐祐理の専属ガード部隊も動く。鷹山小次郎を筆頭とする護衛たちも、彼女にピタリと張り付いたままイギリスへ飛ぶことになった。
 それから今回は、名雪の母親である水瀬秋子も同行することになっていた。祐一の叔母である彼女は、要するに祐一の母親とは姉妹関係にある。久しぶりの姉との再会と海外でのバカンスを、秋子も楽しみにしていたようだった。
 ――だが、何事にも例外がある。この場合は、栞とあゆの存在がそうだ。はじめての海外旅行を経験できるとあって、最初は目を輝かせていた彼女たちであったが「飛行機に乗っていく」と聞いてから、突如その態度が急変したのである。
 稀に存在するようだが、彼女たちはあの航空機の巨大な機体が空を飛ぶということが信じられないらしい。飛ぶということに、生理的な恐怖を覚えてしまう類いの人種なのである。







NEW TOKYO INTERNATIONAL AIRPOLT
North Wing 2nd satellite,4th Floor
Fri,21 July 2000 09:15 A.M.

7月21日金曜日 午前09時15分
成田空港 第1ターミナル4階 第2サテライト


「うぐぅ! だって、どう考えたっておかしいよ。飛行機があんなに大きいなんて……しかも鉄でできてるし。あんなの飛ぶわけないもん!」
「だから飛ぶっちゅーのに」
 小学生のような駄々を捏ねるあゆに、カリカリと後頭部を掻きながら祐一は面倒そうに言う。
「なぁ、あゆ。安心しろよ。飛行機は、乗り物の中で1番安全なものだって言われてるんだ」
 だが勿論、あゆがそんなセリフを素直に信用するわけがない。
「信じられないよ! あんな大きい鉄の塊が、空飛ぶなんてありえないよ」
「そ、そのとーりです! あゆさんの論理には1ヘクトパスカルの隙も見当たりません!」
 どうやら、栞もあゆと同じクチらしい。香里の背後に姿を隠しながら、何やら必死に無茶苦茶な主張をしている。威勢は良いが、語尾が恐怖に震えていた。おまけにヘッピリ腰でヘロヘロ状態である。
「祐一さん、あなたは全日空の隠蔽工作に騙されてるんです! 皆さんも、日本航空の広報なんかに惑わされちゃ駄目です! あ、あ、あんなのに乗って空を飛ぼうとか考えた人、大っ嫌いです。人類の敵です」
「はいはい、分かったから。栞、取り合えず飛行機に乗りましょう。アンタは、あたしと座席が隣り合わせだったでしょう。席に着いたら、落ちついて航空力学に関する講義をしてあげるから」
 香里はそう言うと、返事も待たずに栞の腕を掴んで引っ張っていく。
「ついでに言っておくけど、私たちが乗るのは『全日空』でも、『日本航空』でもないわよ。その2社は、第2ターミナル。今から私たちが乗るのは、この第1ターミナルから出る『ブリティッシュ・エアウェイズ』の機体よ。正確にはBA6便。喜びなさい。倉田先輩の便宜のおかげで、ファースト・クラスなんだから」
「――では、あゆさんには私がお教えしましょう」美汐が微かに微笑む。
「席も隣のようですしね。心配はいりませんよ。航空力学は確かに難しい学問かもしれませんが、基本だけで良いなら楽しく学べます。難しい式などは、なるべく最小限に抑えますから。そして向こうに着いたら、模型飛行機や紙飛行機を使った実験、それにあちらにある王立空軍博物館に行って、更に楽しく知識を吸収することにしましょう。あそこは凄いですよ。WWIの複座機から、B17爆撃機、果ては新型VTOLまで全て本物が揃ってますから」
「や。やだよぅ。ボク、そんなの教えてもらったって納得しないよ。どんなこと言ったってムダだからね。あんなのに乗るくらいならお留守番してるもん! たとえタイヤキ3個と引き換えにしたって、乗らないよ」
「――5個だ」
「うぐぅ!?」瞬間、ピクリと彼女の体が震える。
 ボソリと呟く祐一の小声に、あゆは悲しくなるほど敏感に反応していた。
「大人しく飛行機に乗ったら、帰ってた時、タイヤキを5個買ってやろう」
「……う、うぐぅ。そ、そんな誘惑にはのらないよ!」
 そのわりには、返答までにかなりの間があった。しかもドモリにドモって、動揺をあからさまにアピールしている。
「――10個だ」
「う、うぐぅ! さらに倍!?」
がびーん
 戦慄するタイヤキ大好き少女、月宮うぐぅ。
「さぁ、どうする? あゆあゆ君。ちなみに、今から3カウントおきに、プレゼントされるタイヤキの数が1つずつ減っていく。結論は早めに出した方がいいかもしれないぞ?」
 勝利を確信した祐一は、ニヤリと唇の端を歪ませる。
「じゃあ、カウント・スタートだ。さぁ〜ん、にぃ〜、い〜ち……」
 抑揚をつけた、焦らすようなカウント・ダウン。
「ゼロ」そして祐一は、わざとらしく顔を顰めて嘆いて見せる。
「ああ、残念。これで貰える数は9個に。だが、これからまだまだタイヤキの数はどんどんと減っていくぞ〜。3……2……」
「う、うぐぅ。ボクのタイヤキが〜」
 途端にあゆはオロオロとしだした。タイヤキはいっぱい欲しい。でも、飛行機には乗りたくない。でも、もし乗るなら、早く答えないと貰えるタイヤキの数がどんどん減っていく。
 1匹でも多くのタイヤキをゲットするか。誘惑に屈し、飛行機に乗り込むのか。入手できるタイヤキを1匹ずつ減らしていく祐一のカウントが、あゆにプレッシャーと焦燥感を煽っていく。
「さすが、相沢さん。見事な心理攻撃ですね」
「ああいうイジワルには、悪魔のような悪知恵が働く人なのよ。彼は」
 巧みにあゆを翻弄する祐一の作戦に、美汐と香里は感心半分、呆れ半分で囁き合う。
「……1。ああ、残念。またまた1匹減って、貰えるタイヤキは8つに」
「う、うぐぅ〜」
「だが、まだまだカウントは続くぞ。タイヤキはどんどん減っていくのだ〜。そぅれ、3……2……」
「う、うぐぅ! のります! ボク、飛行機乗るから数えるのやめて〜」
 哀れ、タイヤキ少女。憐れ、月宮うぐぅ。祐一の策に弄され、彼女はジャンボ・ジェットよりも一足早く墜ちてしまったのであった――。








 世界地図を広げると、日本とロンドンは世界最大のユーラシア大陸を挟み、東と西の島国として対極に位置していることが分かる。互いに「地球の裏側」にあると言っても差し支えないだろう。
 両国の時差は約9時間。ただし、7月はサマータイム実施期間中であるため例外的に8時間になる。どちらにせよ、対した時差である。
 こうして考えると、イングランドとは、地理的に見て非常に距離を隔てた地であると感じられる。だがノンストップの飛行機で直行すれば、現代では大体13時間で到着できてしまうのが現実だ。つまり名雪の場合、彼女の標準就寝時刻である午後9時に飛行機に乗ったとすれば、日曜日であれば目覚めた頃には既に向こうに着いている。その程度の時間しか掛からないわけだ。
「――でも、いくら早いっていっても他に幾らでもルートはあるじゃないですか」
 出国手続きをパスし、ファースト・クラスをほぼ占領するような形で機内に乗り込んだAMSの面々。だが栞は、座席に座った後もブチブチと文句を呪詛のように唱えつづけていた。
「船を使って大海原を旅するのも良いですし、雄大な自然を眺めながら情緒あるシベリア鉄道の旅や、オリエント急行殺人事件な手段だってあるのに、なんだってこんな鉄の塊で空飛ばなくちゃならないんですか。全くもって、納得できません。ライト兄弟なんか、大っ嫌いです」
「もう。さっきから念仏みたいにブツブツと何を言ってるの、栞。もう搭乗しちゃったんだから、いい加減、観念なさい」
 席が2列に並んでいるファースト・クラスの中央部、栞の隣席に腰掛けた香里が呆れ顔で諭す。
「それに、あのワイズロマンサーに会えるのよ。小さなことに何時までも拘っていないで、向こうに着いたら何をするか、彼らにどんな質問をするかでも考えておきなさい。その方が建設的でしょう?」

 ――その一方。
「つまりですね、この揚力を利用して飛行機というのは飛ぶわけです。勿論、揚力(Lift)だけを考えればいいのではありません。他にも、重力(Weight)、推力(Thrust)、抗力(Drug)の大きく3つが、航空力学を語る上での基礎の基礎を固めるファクタとなります。これは覚えておくべきですね」
「う、うぐぅ……?」
 美坂姉妹が遥かなる霧の都に思いを馳せる傍らで、あゆは隣合わせた美汐に早速『航空力学』の講義を受けていた。
 が、所詮小学生レベルの学力と知識しかないあゆである。彼女は関数はおろか、三角形の面積すら求められない人間なのだ。航空力学などそうそう理解できるものではない。その顔をみれば、見事にチンプンカンプンであることが如実に窺える。
「つまり揚力とは、翼の上面を流れる空気の速度が、下面を流れる速度より速まることで発生するのです。この力で飛行機は浮き上がります。
 さて。こうなると、揚力係数CLは、主に2つの方法で左右・調節することが可能です。つまり揚力を上げる方法は2通りあるというわけですね。その1つは、単純に前進速度を上げること。もう1つは、翼の迎角αを増大させることです。分かりますか、あゆさん?」
「うぐぅ……」
「そうですか。では続けましょう。この揚力に関してですが、迎角αを大きくしすぎてしまうと、次第に主翼上面を流れる空気が滑らかに流れなくなり、渦を巻いたり剥がれたりするようになってしまいます。この現象を航空力学的に剥離――STALL(ストール)といいます。
 基本的に高速であれば揚力は上がるわけですが、それでも迎角αが大きければ剥離は起こりうるわけですね。そして、こうなってしまうと、飛行機は下手をすれば墜落してしまうことになります」
「うぐ、墜落!?」あゆは、ようやく耳に馴染みある単語を聞きつけて反応を示す。
 しかしそれは、彼女が最も聞きたくなかった類いの言葉であった。
「そうです。剥離が起こると、飛行機は失速します。そのままにしておくと、最悪、落ちますね。
 ではここで、これに関係する基本的で簡単な式を紹介しましょう。主翼の出す揚力は速度の二乗、主翼面積に比例するといったものです。つまり、L=1/2ρV2SCLですね。因みに、揚力が「L」。それから「ρ」=空気密度。「V」「S」「CL」が、それぞれ飛行速度、翼面積、揚力係数を示します。どうです、単純な式でしょう?」
「う、うぐぅ……。うーんと、えーと。あっ! そ、そう言えば、あの生徒会会館には結局なにがあったんだろうね? とっても気になるよ、ボク。――ね、祐一君? 祐一君も気になるでしょ?」
 美汐のレクチャーから逃れようと、あゆは極めて不自然に話題を変えた。そして前の座席に座る祐一に、救いを求める視線を投げかける。祐一はそれを受けとめて軽く溜め息を吐くと、不承不承あゆを助けてやるために口を開いた。
「生徒会会館ね。オレもあれに関してはちょっと気になってるんだよな。例の武田玲子の殺人には、絶対に会館の謎が絡んでいるはずだしな」
「――学園の暗黒面ですね」
 舞と仲良く並んで座っている佐祐理が言った。彼女も少なからず生徒会や理事会が裏で何を行なっているかに興味を抱いているらしい。
 結局、武田玲子も澤田紀子も生徒会会館に纏わる『闇』の部分に足を踏み入れたことが、死へと繋がってしまったわけだ。ゲイリー・クーパーや江口素子などの実行犯は、その闇の部分を垣間見てしまった者を上から命じられて始末しただけに過ぎない。会館に何があるのか。理事会や生徒会は何を隠しているのか。その秘密を知り、世間に暴露しない限り、第2第3の武田や澤田が生まれる可能性は捨てきれないというわけだ。
「なんとか首尾良く忍び込むことさえできれば、その謎も解けるんだがな」
 そう言うと、祐一は両腕を組み合わせて唸る。
「そうもいかないわよ。電子ロックはどうするつもり? 会館の内部を自由に歩き回るには、それに見合ったセキュリティ・カードが必要なのよ。各階を繋ぐ階段の前にも、当然そのロックは掛かってるわけだから」
 香里が冷静に指摘する。どうやら佐祐理だけに限らず、AMSの全員がこの問題には強い関心を持っているようだ。気が付けば、全員が身を乗り出して話題に参加しようという姿勢を示している。既に夢の国へ旅だった名雪を除いて――。
「いやな。実は、電子ロックに関してはそれを完全無効化することができる、最強の切り札に心当たりがあるんだよ。それを使えば、最高のレベル5のドアすら簡単に開くことができるとは思う」
「ええっ!?」祐一のその言葉に、ほぼ全員が驚愕の声を上げる。
「祐一さん、それってどうやるんですか? まさか、レベル5のセキュリティ・カードを手に入れたとか」
 佐祐理が大きな瞳をまんまるくして、祐一の顔を覗き込む。彼女だけでなく、栞やあゆも興味津々といった表情だ。
「いや、それこそまさかだ。そんな正攻法じゃない。ジョーカー的な切り札さ。思い出してくれ。あの会館のロックシステムは、外側から開くときにだけカードが必要になる。内側から開く分には普通のドアなんだ。セキュリティ・カードは必要ない」
「それは知ってますけど……」何を今更、といった表情で栞が呟く。
「わからないか? みんなも知ってるはずだぜ。物理法則に捕らわれず、閉じられたドアの向こう側に突如出現し、そのロックを解除できる存在」
 その言葉に香里はピンときた。武田玲子の密室のトリックを色々と考えているとき、最初に閃いた反則的アイディア。
「分かったわ。“魔”ね? 川澄先輩の操る、目に見えないヒト型のケモノ」
「ああ、その手がありましたか!」ポフっと両手を合わせて、佐祐理が小さく叫ぶ。
「ぴょぴょぴょ〜ん。正解」
 怪しげなサウンド・エフェクトで演出しながら、祐一はニヤリと笑って見せる。
「その通りさ。さすが学年主席のカオリン。相変わらず冴えてるな」
「川澄先輩がドア越しに“魔”を召喚し、それをコントロールして内側からロックを解除させる。どんなセキュリティも電子ロックも内側から開けられることだけは考慮されていない。川澄先輩がいれば、この世のどんな鍵も無効化できるわけね。入り込むだけなら、スイス銀行の金庫だって破れるわ。なんで気付かなかったのかしら」
「さすが相沢さんですね。川澄先輩の“魔”を悪用したらどんなことが可能になるか。そういうことを考えさせたら、右に出る者はいません」
 美汐は的確に祐一の思考過程をトレースして、皮肉たっぷりに褒め上げる。
「ぐはっ! バレバレかよ」祐一は苦笑するしかなかった。

 ――実は、美汐の言う通りであった。祐一は舞の“魔”を利用したイタズラを色々と考えていた時、この事実に気付いたのである。
 つまり、舞さえ味方につければ誰でもアルセーヌ・ルパンになれる。魔に犯罪の実行犯を担当させれば、完璧なアリバイを作りつつ完全犯罪をやってのけることも容易だ。
 超能力を使った犯罪は警察では立件できない。法律では裁けない。何故なら、物理法則を容易く超越してしまうため、物的証拠が絶対に挙がらないからである。重要参考人としてマークされようが、容疑者として挙げられようが証拠不充分で不起訴。フォックス・モルダーでも連れて来ない限り、事件は間違いなく迷宮入りだ。
「まあ、そんなわけだ。いずれ、会館の警備員のガードを潜って会館の中に忍び込んでやるさ。舞と一緒に入り込めさえすれば、こっちのモンだからな」
 パン、と掌に拳を叩きつけて祐一は意気込んで見せる。
「でも、それは少なくとも夏休みがあけてからの話さ。今は、目の前のロンドンでのバカンスのことを考えよう。湿っぽい事件のことなんか忘れてさ、キッチリ楽しもう。でないと旅費出してくれた佐祐理さんに申し訳が立たないぜ」
「そうですよ、皆さん」最年長の秋子が、ニコリと穏やかな微笑を浮かべる。
 決して声量に優れているわけではないのだが、控えめなその声は何故だか人の意識を簡単に惹き付けてしまう。AMSの全員が、一瞬にして彼女に注目した。
「今は、この旅行をどう楽しむかを考えましょう」
「えぅ〜。そうですね。あのワイズロマンサーに会えるんです。しかもはじめての海外旅行ですし。楽しまないと損です」
 心待ちにしていた遠足の日を迎えた小学生のように、栞は目を輝かせる。MDSと呼ばれる血液の重病を患い、幼少の頃より長期の入院と退院・通院を繰り返していた栞は、遠出の経験など殆どないのだ。
「――そうね」そんな栞の事情を誰より良く理解している香里は、しみじみと言った。
「思いきり楽しみましょう。今、この瞬間を微笑んでらいれる幸福と自由に感謝して」
「はい!」栞は元気に言った。

「あ、そういえばワイズロマンサーで思い出しました」
 栞は突然コロッと口調を変えると、祐一に視線をやった。
「祐一さん。前々から気になっていたんですけど、『ワイズロマンサー』っていうバンドの名前。これって何か意味があるんですか? ファンの間でも、ずっと話題になってるんですけど本当のところは何も明かされていないんですよね」
「それ以前に、メンバーの名前すら公開されていないわよ」
 香里は込み上げてくる感傷を振り払うように、務めて明るく笑顔で言った。
「ライヴバンドだから、観客席から遠目で確認する以外、顔さえよく分からないし。その辺の謎の多さも、彼らが熱狂的な人気を一部で勝ち取っている理由の1つかしら?」
「ふーん。そうなのか?」
 祐一は御座なりに呟く。瞳を輝かせる栞とは対照的に、彼は両親のことなど如何とも思っていないらしい。殆ど無関心にも近かしい態度が、明確に窺い知れた。
「ワイズっていうのは、親父の名前――芳樹(Yoshiki)の頭文字の“Y”に、所有を示す“S”をつけたものさ。だから、Y’sってのは『芳樹の〜』っていう意味だと解釈すればいい」
「はぇ〜。祐一さんのお父様は芳樹さんっておっしゃるんですか」
 佐祐理が何故か感心したように言う。多少オーバーな反応なのかもしれないが、祐一に言わせれば佐祐理はいつもこんなものだ。感性が常人とはちょっと違う。だからこそ、彼女は成功者なのかもしれない。
「じゃあ、ワイズのあとの『ロマンサー』はどういう意味なんですか? やっぱり、ロマンスする人っていう意味なんでしょうか」
 公式には誰も知らない謎のロックバンドの秘密を知れるとあって、栞は興奮を抑えきれないらしい。ニコニコと満面の笑みを浮かべて祐一に迫る。
「まあ、確かにそういう意味もあるかもしれないが、基本的に『ロマンサー』ってのは、親父の左手のことだ。左手の名前さ」
「左手?」黙って話を聞いていた美汐が、訝しげな声と共に小首を捻る。
「親父は4年前に左手を切断したんだ。今は、筋電義手をつけてる。昔、親父が世界に通用するチェリストを目指してたって話はしたろう? でも、左手を失ってそれがダメになった。だから、歌手に転向したのさ。左手に義手を嵌めてな」
 祐一は務めて感情を抑え込みながら、静かに語った。
「えぅ〜。左手を切断ですか。なんだか、凄い話ですね」
「じゃあ、その筋電義手の名前が『ロマンサー』ってことなの?」
「ぴょぴょぴょぴょ〜ん。正解」祐一はそう言って笑った。
「またまた大当たりだな、香里。その通り、ワイズロマンサーってのは親父の左腕の名前なのさ」
「左腕に取り付けられた義手の名前が、バンドの名前の由来だったわけですか……。これは、誰にも分かるわけないですよね。ふふふ〜。世界で1番最初に真相を知った少女になりましたよ〜。自慢できます」
 栞はブイサインをビシッと突き出すと、笑顔で言った。
「名雪は、その辺りのことは知ってるのかしら?」
 祐一の隣の席で既に熟睡モードに入っている名雪の寝顔を見詰めながら、香里が訊く。
「いや。知らないと思うぞ」祐一は即座に首を左右した。「少なくとも、オレは話してない」
「じゃあ、また拗ねるわよ。このコ。犯人と会った夜のことだって、仲間ハズレにされたとか言ってブーブー言ってたし」
「あはは〜。でも、名雪さんは1度寝てしまうとなかなか起きないんですよね?」
 佐祐理がにこやかに言う。
「その通りさ。1度寝ちまったら、起こすのは至難のワザだ」
「イギリスでは何事も起こらないといいんだけどね」香里は肩を竦める。「寝てる最中に何かあったら、また文句を言い出すでしょうし」
「まあ、寝てる最中なら諦めてもらうしかないさ」祐一は達観したように呟く。
「そうですね〜。流石の祐一さんでも、夜中に名雪さんを起こすのは不可能ですよね」
「そうなんですよ」祐一は大袈裟に顔を顰める。
「充分睡眠をとったはずの朝でさえ、あれだけ苦労するんです。睡眠不足の状態で真夜中に叩き起こすなんざ、チャレンジするだけ無駄ってなもんだ」
「えらい言われようね」少し同情した風の香里。
「そうでもないさ。香里、奇跡は起こるから奇跡なんだ。でもこいつは――」
 祐一は、ニヤリと唇の端を吊り上げる。
「起きないから、名雪っていうんだよ」





Fin



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