垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




27



 非常灯とでもいうのだろうか。もはや都会では絶滅種と言っても過言でないため、この表現が一般的に有効な比喩であるかは甚だ疑問であるが――そのボンヤリと灯されるグリーンの電灯は、「蛍の光」を連想させた。いや、きっとあと10年もすれば、蛍光灯の由来に首を捻る子供達が世の大多数を占めるようになるに違いない。祐一は思った。
 そんな蛍光がそこかしこで灯されているため、佐祐理のマンションは真夜中でも照明をつけずに徘徊して回ることができる。環境団体からブーイングを食らいそうなエネルギィの無駄遣いであるが、このマンションは電力を自家供給しているそうだからそれも問題無いだろう。
 祐一は、風呂がある屋上で見た、太陽光発電システムがズラリと並んでいる奇妙な光景を思い出した。あれは結構な壮観だった。なにしろ、黒光りする太陽電池が、太陽の方向に合わせて少しずつ動いていくのだ。降雪量が多いこの地域では、太陽光での発電も大変なのだろう。それを補うために、地下2階にも地下熱を利用するのであったか、とにかく良く分からない大型発電機が幾つかあるそうだ。
「しかし、なんだな。確かに太陽電池やら地熱発電は環境的にクリーンかもしれないが……そのシステムを作り出すために、色々と環境を汚染しなくちゃならないような気がするのは気のせいだろうか?」
 夜中に目が醒めた祐一は「冷たいものを一杯」と、応接室奥にあるカウンター・バーに向かいつつ、独り呟いた。
「太陽電池の部品だって、それの組み立てにだって色々とエネルギィはいるだろうし。システムを作る過程で、既に大いなる環境破壊が行なわれているような……いや、長い目で見ると、この環境破壊に見合うエネルギィが得られるのかな? ――謎だ」
 さて、既に紹介したが、祐一は最上階(5階)のイヴニング・フロアに個室を持っている。香里、栞、名雪、あゆ、美汐が3階に部屋を持っているのとは、ちょっと待遇が違うわけだ。
 このマンションのオーナーである佐祐理&舞にとって、彼女たちはあくまで友達でありお客様。対して祐一は、どちらかといえば親友であり家族といった捉えられ方をしている。
(AMSマンション間取り図 参照)
 そんなわけでこのマンションで寝泊りするときは、常に5階に用意された自分の部屋を使うことにしている祐一であるが、彼の個室は食堂に近いということもあり、飲食という面では3階の客室よりも幾分便利だったりする。
 もっとも、このマンションには各階に『自動販売機スペース』が2ヵ所ずつあり、そこで缶ジュースや酒、カップ麺、煙草などは24時間無料で手に入る。だがしかし、キッチンの大型冷蔵庫には多くの種類の飲み物が冷蔵あるわけで、祐一は贅沢にもそちらの方に向かっていた。

 祐一は自室から廊下に出ると、左隣になっている部屋の大きなドアを潜った。客間であり、団欒のリビングとしても使われる、多目的の大広間だ。3LDKを1.5部屋分まるごと使っている贅沢なその空間は、裕に30畳を超える広がりを見せる。フサフサとした毛並みの長い白の絨毯が一面に敷かれ、部屋の中央部にはガラス張りの大きなテーブルと、それを中心とした皮張りのソファによる応接セットが置かれていた。
 目的とするバーは、この応接室の入り口から向かって1番奥にあった。
 だが、祐一は部屋に入った瞬間、ピタリと足を止めた。奇怪なことに、無人である筈の室内から「ぐしゅぐしゅ」と不思議な声が聞こえてくるのである。
 勿論、空耳などではない。応接セットのソファ辺りから、それは断続的に発せられていた。
 一瞬驚いたが、祐一はすぐにその正体に見当をつけ、ゆっくりと声の方へ歩み寄っていった。近付いて覗き込むと、案の定、長い黒髪の少女が胎児のようにソファの上で丸くなっている。彼女は、泣いていた。その頬は蛍光灯の頼りない明かりに照らされていて、涙の筋がハッキリと見えるほどに濡れている。
「どうしたんだ、舞」
 祐一は、彼を良く知らないクラスメイトが聞いたら、きっと仰天するであろうほどに優しい声で言った。
「なんで泣いてるんだ?」
「……祐一」
 その声を聞いて、彼女――川澄舞は涙に濡れた顔を上げる。嗚咽はまだ続いていた。
「また、悲しくなったのか?」
 静かに問うと、舞はコクリと微妙に頷いた。
「そうか」
 彼女の中に眠る特殊な能力は、人知を超えた凄まじいパワーと可能性を川澄舞という少女に与える。人の限界を遥かに超えた身体能力、知覚能力、反応速度。そして物理法則を無視したエネルギィの行使。舞は最近になって、その能力の完全制御に成功しつつあった。
 だが、その代償とでもいうべきだろうか。舞は定期的に、情緒不安定な状態に陥るようになった。間隔としては大体1月に1度程度か。不意に、こうして理由も泣く感情が昂ぶり、鬱でも躁でもない不思議な感覚を胸に抑え切れなくなり、舞はぐしゅぐしゅと幼女のように泣き出す。いや、実際に幼女であった頃に還っているのかもしれない。
 とにかく舞が泣き出した時は、彼女が気を許す唯一の人類である倉田佐祐理か相沢祐一が、優しく抱いて同じ時を過ごしてやらねばならない。抱きしめて、背中を軽く叩いてやって、泣きたいだけ泣かせてやる。そうしてやがて彼女が眠ってしまうまで、それを続ける。翌日、目覚めたときには、もう何時もの舞に戻っている。そうなれば、安心だ。
「おいで、舞」
 だからこの夜も、祐一はそうしてあげたいと思った。そして、それは舞と交わした約束でもあった。
「ぐしゅ……、祐一……」
 彼女は泣きながら、祐一の腕の中に収まっていった。そこには凛とした普段の川澄舞の姿はなく、今はただ、怯えた小動物のように小さく躰を震わせている。どちらの姿が本物の彼女かと問われれば、両者とも彼女の本来の姿である――と回答せざるを得ない。
 だが祐一は、どちらかと言えばこの泣き虫な舞の方が、より彼女の深層に近い人格だとは思っている。このあたり、佐祐理も似たような精神構造をしているのかもしれない。
 佐祐理もまた、他人に己の傷を悟らせないために表層人格を作り上げた人間の1人だ。いつも口元に穏やかな微笑を浮かべたお嬢様の姿の裏には、まだ自分の知らない倉田佐祐理がいる。そして、それを付きとめたとき、自分は本当に彼女の家族として認められるような気がする。舞にしても佐祐理にしても、一筋縄ではいかないと言うことだ。
「舞、なにか飲むか? 冷たいものでも飲めば、少しは落ちつくかもしれないぞ」
 優しく胸の中の彼女に問い掛けるが、彼女はモゾモゾと首を横に振った。
「じゃ、オレの部屋で一緒に寝るか?」
「……祐一と……ぐしゅ……、一緒にねる」
 嗚咽に言葉を震わせながら、だが舞はハッキリとそう言った。
「そっか。じゃあ、オレの部屋で休もう」
 そう言って、祐一は舞を抱く腕を1度解き、肩を抱くような恰好に切り替える。正面から抱いたままだと、自分も舞も歩けないからだ。
 そうして移動しやすい体勢を作ると、2人はすぐ隣の祐一の部屋に向かった。彼の寝室とは言っても、間取りは3LDKと非常に広い。舞が来て尚、人口密度は低過ぎた。
「舞」
 ベッドルームに向かい、クッションの良く効いたキングサイズのベッドに滑り込むと、祐一は自分の横を空けて舞を呼んだ。舞はその声を受けて、まだぐしゅぐしゅと泣きながら祐一の傍らに潜り込む。
「今日は、何が悲しくなったんだ?」
 やってきた少女を、また抱いてあげながら祐一は問うた。まともな答えが返って来たことは1度もないが、それでも毎回、祐一はそう尋ねるのだ。
「わからない」舞は暫くすると、言った。「でも……」
「でも?」
 祐一は胸に埋めて顔を見せてくれない舞に、それでも優しく問いかける。
「……世界が、悲しい」
「世界――?」
 なんともスケールの大きな話である。『世を儚む』と似たような感覚なのであろうか。祐一はボンヤリと想像した。
 確かに、これまでの人類の歴史を省みれば、悲しくもなるかもしれない。戦争、飢餓、貧困。日本に生きていると忘れがちだが、これは未だに人類の問題だ。世界に蔓延する嘆きと負の想念を集めたら、一体如何ほどのものになるであろうか。
 舞はもしかすると、そういったものをどこかで感じているのかもしれない。祐一はそう思った。
「ぐしゅ……祐一……」
「ん? どうした」
 涙に濡れた顔を上げて、舞は祐一を上目遣いに見上げる。
「いつものように、歌って欲しい」
「ああ、いいぜ」
 そう言って、祐一は彼女に微笑みかけた。
「じゃあ、何時もの『どうぶつの歌』を一緒に歌おう。……それで構わないか?」
 胸の中で、舞がコクンと頷く。
「ん。それじゃ、いくぜ――」
 そう言うと、窓の外に浮かぶ月を見上げながら、祐一はゆっくりと歌い始めた。
「ここは♪ ここは♪ どーぶつ村の、広場♪
 ここは♪ ここは♪ みんなの、ひ〜ろ〜ば〜♪」
 祐一は、舞の背をポンポンとリズムカルに軽く叩きながら優しく歌う。普段の声から想像も出来ないほど、透き通った高音が印象的な歌声だ。
「イヌの親子がやってきて〜 わんわんわん……と、なきました♪」
「……犬さん?」上目遣いの舞が、小さく呟く。
「そう。今日の動物村の広場に、1番のりでやってきたのは犬さんの親子だ。みんなとっても楽しそうで、ニコニコ笑ってるぞ。そして、犬さんの親子は歌い出す。その歌声に惹かれてこれから色んな動物さんたちが集まってくる」
「……っく……どんな……動物さん?」
 舞は少しずつ嗚咽を収めながら、消えかかりそうな小声で問いかける。
「それは、聴いてのお楽しみだ」そういって、祐一は舞に笑いかけた。
「じゃ、はじめるぞ。舞は、オレの後に続いて歌うんだ。楽しく、明るく、世界がハッピーになるように心を込めて、笑顔で歌うんだ。歌はハートだからな。そうしたら、いっぱい動物が集まってくるから。――いいか? OK?」
 舞は、コクリと頷く。それを確認すると、祐一は再び歌い始めた。

「ここは♪」と、祐一。
「……ここは」と、少し遅れて小声の舞。
「どーぶつ村の、広場♪」祐一は軽く体でリズムを取りながら歌う。
「ここは♪」と再び祐一。
「……ここは」ワンテンポ遅れて、舞。
「みんなの、ひ〜ろ〜ば〜♪ ネ〜コの親子がやってきて――」
「……ねこさん?」舞が小さく首を傾げる。
「そうだ。犬に続いてやって来たのは、猫さん親子だ。さあ、舞。猫さんは何て鳴くんだ?」
「ねこさん。……にゃー」
「そうだ。――ネ〜コの親子がやってきて♪ ニャーニャーニャー ……と、なきました♪」
「……猫さん、かわいい」
「猫だけじゃない。さあ、可愛い動物はどんどんやってくるぞ。泣いてる暇なんてないぜ、舞。いっぱい広場に動物を集めるために、楽しく歌うんだ。……いいな?」
「――わかった」舞は真剣な表情で頷く。
「よーし。じゃ、続きだ」祐一は笑顔を返す。

「ここは♪」と祐一。
「……ここは」少し遅れて舞。
「「どーぶつ村の、ひ・ろ・ば」」2人の声が重なる。
「ここは♪」と祐一。
「……ここは」と舞。
「みんなの、ひ〜ろ〜ば〜♪ ヤ〜ギの親子がやってきて――」
 ヤギさんだぞ、と祐一は舞に目配せする。彼女は、それに応えてくれた。 「めー めー めー」
 相変わらず愛想のない棒読みだったが、舞はヤギの泣きまねをする。
「……と、なきました♪」
 よくできました、とばかりに祐一は微笑んだ。

 ここは ここは 動物村の広場
 ここは ここは みんなの広場
 ブタさん親子がやってきて、ぶーぶーぶーとなきました

 その後、ウシ、トラ、サル、ネズミ、フクロウ……動物村の広場には、多くの動物たちが集まってきた。童心に戻った『まい』は、愉快な動物村の広場に集まった沢山の動物さんたちを想像して、柔らかな笑みを浮かべる。祐一の広い胸に温かく包まれながら、もう彼女は泣くのを止めていた。
「――よーし。それじゃ、『動物の歌』に引き続いて2曲目いくぜ。今度は『自然の歌』だ」
 鳴き声を知っている動物のストックが尽きた頃、祐一は口調を変えて言った。
「オレの歌を聞いてくれ。舞が眠るまでずっと歌いつづけるから」
「……祐一の歌は、とても嫌いじゃない」
「そっか。ありがとな」祐一は笑った。
 こんな時でもなければ、彼は自分の歌を誰かに聞かせることなどない。だから、その事実を知っているのは舞と佐祐理くらいしかいないが――その歌は、ひとつの世界さえ形成する。
 結婚前、祐一の両親はどちらも楽器を奏でることを生業としていた。母の夏子はアコースティック・ギターを片手にイングランドで歌手をやっていたし、父は世界を目指すチェリストだった。
 だからだろう。彼は幼少の頃から、自然と作曲を行なうようになっていた。作曲や楽器を奏でることは、他の子も皆やっている当たり前のことだと信じていた。音楽をやらなくなったのは、それが当たり前ではないことに気付いてからだった。
 祐一はそんな昔のことを思い起こしながら、幼い頃に作った一曲のバラードをゆっくりと歌った。
 両親に連れられてイギリスに行った幼い日の夏、どこだったか、自然公園のような草原に寝転がり作った曲。あまりにも爽快な風が吹いていて、祐一は穏やかな陽光を浴びたまま、目を閉じた。そしてその時、自然とその旋律は作られた。当時の彼にとっては、それは当然のことだった。
 祐一はそのまま眠りに落ち、夕暮れに目覚めると、出来たてのその曲を歌って帰っていった。
 この歌が、あの草原と風と陽光のように誰かの心に響くように。この調べで、あの時の感覚をいつでも呼び起こせるように。祐一は瞳を閉じ、悠久の自然を思い浮かべながら歌う。口元には穏やかな微笑が自然に浮かんでいた。

 そう長くはない曲ではあったが、彼の歌声が微かな余韻を残して夜闇に消えていったとき、胸の中からは静かな寝息が聞こえてきていた。まるで母親に抱かれた赤子のように、安らかであどけない寝顔だった。
「舞……」
 自分の中の最深部にある何かを刺激され、祐一は彼女を抱く腕に力を込めた。そして長く艶やかな黒髪に鼻先を埋め、お日様のような彼女の香りを胸一杯に吸い込む。男も女も、もしかすると人間であることすら関係ない――ただ存在に対する純粋な感情。幻想かも、勘違いかもしれないが、祐一には命と引き換えにしても惜しくない宝物だった。
 だからだろうか。浸りきっていた祐一は、それに気付くのにかなりの時間を要した。
 改めて耳を澄ますと、どうやら気のせいではない、ドアをノックする音が聞こえる。暫くすると、部屋と廊下を繋ぐ自動ドアが圧縮空気を抜くような音ともに開かれる気配が伝わってきた。
 基本的に、祐一はドアに鍵などはかけない主義だ。トイレを例外として。
「祐一さ〜ん」
 顰められた女性の呼び声が聞こえてくる。佐祐理だ。
「祐一さ〜ん、お休みですか〜?」
 祐一は、思わずベッドサイドに据え付けてある時計に目をやった。時刻は2時57分。――勿論、深夜。午前の2時57分である。
「佐祐理さん、こっちだよ。ベッドルームだ」
 暫く迷った後、祐一は舞を起こさないように音量を下げて言った。するとパタパタと軽い足音が聞こえ、部屋のドアが開かれた。玄関のドアは横にスライドする自動タイプのものだが、それ以外のものは、流石にノブのついた普通に開閉するタイプのものである。
「あ、祐一さん。良かったです、まだ起きてらしたんですね〜」
 暗いので良く分からないが、佐祐理がニッコリと微笑んでいるだろうことは祐一にも容易に想像できた。
「舞は寝てるけどね」
「はぇ〜。と言うことは舞、泣いちゃったんですか?」
「……ええ。でも、抱いて歌を聞かせているうちに寝ちゃいましたけどね」
「あはは〜。祐一さんに抱かれて、しかも子守唄付きで寝かせてもらえるなんて、舞が羨ましいですね〜」
「あれ? 佐祐理さんなら、いつだって歓迎だよ。言ってくれれば、喜んでね」
 祐一は軽く笑うと、表情を引き締めて言った。
「それで、何かあったの? 礼儀正しい佐祐理さんが、こんな時間に異性の寝室に乗り込んでくるなんて相当のことでしょう」
「ええ。実は、天野さんから頼まれて、例の人物に監視を付けていたんですが――」
「え、もしかて動いたの?」祐一のシルエットがピクリと動く。
「そうなんです。先ほど、連絡が入りました。彼が動き出したそうです」
「思っていたより早いな……」
 祐一は一瞬アゴに手を当てて思考する素振りを見せたが、すぐに顔を上げた。
「いや、それどころじゃないな。急がないと、また死人が出る!」
 小さく叫ぶと、ベッドから跳ね起きようとする祐一。だが、そのアクションは舞によって阻止された。彼女は、ギュッと彼の服を握り締めて眠っているため、身動きが取れないのだ。
「あはは〜。それで、どうしますか祐一さん?」
「勿論、そいつの後を追います」
「そう言うだろうと思って、既にリムジンを用意させていますよ〜」
 佐祐理は嬉しそうに言った。
「でも、舞は寝ちゃってるんですよね。どうしましょうか」
「うーむ。どうしようかな……。このままでは起きられないし。
 舞を起こすべきか、寝かしたまま連れていくべきか」
「じゃあ、考えておいてくださいね。佐祐理は、内線で美坂さんたちに連絡を入れます。どういう形にせよ、舞を連れて10分後には地下駐車場に降りてきてくださいね〜」
「了解。……あ、でも、名雪には連絡入れなくて良いから。あいつは、まず起きてこない」
 たっぷり8時間寝ても、毎朝あれだけ起こすのに苦労する名雪だ。深夜の3時に起きることなど、死んでもありえないだろう。
「あはは〜。分かりました。名雪さんには連絡はなし、ですね」
「うん。そうしてくれ。どうせ起こしたところで「だおー」とか鳴くだけで、大して……と言うか、全く完膚なきまでに役にたたんだろうしな」
 酷い言われようであったが、たとえ本人がこの場にいたとしても一言も文句は言えないだろう。全て、事実なのだから。
「さて――」
 佐祐理が立ち去るのを見届けると、祐一は改めて舞に視線を落としながら考えた。
「ヤツが動き出したとなると、オレの推測は正しかったってことになるよな。あの男が犯人だってことで、もう間違いはない。そしてその犯人が動き出したってことは、この事件も、もうクライマックスってことだよな。舞?」
 祐一は彼女の黒髪を軽く撫でながら、小声で問いかける。
 少女は、安らかな寝息でそれに答えた。




28





 特殊装備を施した、黒のデリカが軽快に夜の住宅街を疾走する。ヘッドライトの部分に黒色のセロファンが貼られているせいか、殆ど光を発していない。完全に隠密用の装いである。夜の闇に、ただ丸みがかった箱型のシルエットが蠢いて見える。どういうチューニングを施したのか、エンジン音も非常に静かで穏やかなものだった。
「――この車、ショック・アブソーバが優秀みたいですね」
 運転席のすぐ後の座席に腰掛けている美汐が言った。
「ビルシュタイン製です」応えたのは、その向かいに座っている鷹山だ。
 今回は、彼女は運転手役ではないらしい。その役目を言い渡されたのは、名前も知らない壮年の外国人だった。佐祐理の護衛の1人だと言う。
 その運転手を含めて、車に乗り込んでいるのは全部で8人。祐一、あゆ、舞、佐祐理、香里、栞、美汐、そして鷹山。要するに、名雪を除くAMS全員だ。
 あゆは「夜闇が怖い」などと駄々をこねていたが、結局犯人に対する好奇心の方が勝ったらしい。最終的には、ワゴンに乗り込んで同伴することとなった。
 時刻は、間も無く午前3時10分。真夜中だ。こんな時間に、わざわざ出張ってきた一行の目的はただ1つ。恐らく事件の真相を知ると思われる人物から、一連の殺人の真実を聞き出すことだ。そしてその瞬間は、既に目前まで迫っていた。
「うぐぅ。何だか機械が一杯あるよ」
「おお。タクシーみたいだよな」
 キョロキョロと車内を見回すあゆの言葉に、祐一は頷く。
 彼らの指摘通り、車内にはゴテゴテとした無線機らしきものが搭載されており、先ほどから英語の通信が頻繁に入ってくる。それ以外にも、レーダーらしきものや、用途の知れない電子機器が車内には枚挙に暇ないほど積み込まれていた。相当、金がかかっていることだろう。
「パンサー200−V無線機にSINCGARS、それにPLRS。軍……と言うより、特殊部隊御用達の装備が満載ですね。見事に統一性がありませんが、これは全て鷹山さんが集めたものですか?」
「――そうです」
 美汐の質問に、鷹山は素っ気無く応えた。180cmを超える長身の彼女は、デリカの車内でさえ窮屈そうだ。
「いや、ミッシー君。その前に、鷹山さんが持ってる銃刀法違反の証拠物件に関しては突っ込まなくていいのかね?」
 祐一が口元を引き攣らせながら言った。佐祐理は何時もと変わらない微笑みを浮かべているが、それ以外の全員がそれに注目している。
「見たところ、バレルとサウンド・サプレッサが一体化した銃ですね。珍しいタイプです。実物を見られる日が来るとは思ってませんでした」
「いや。その反応は、多分、激しく間違ってる」
 祐一は大粒の汗を流しながら、言った。
「スターリングL34A1と呼ばれています」
 鷹山が無愛想に言った。と言うより、彼女には『愛想』という概念自体が欠落しているに違いない。まるでアルゴンのように、その表情はピクリとも変化することはないのである。
「ああ、それがあの有名な……。消音銃としては世界に知られている傑作ですね」
 美汐は、祐一を完璧に無視して言った。
「兵器に関しての私の知識は極めて古いのですが、消音能力が高く、サプレッサの一体化+オープン・ボルト式であるにも関わらず、非常に命中精度が高いことでも有名であったと記憶してます。WW2時に開発されたものですが、私が知る限りではその後も一線級でした。テロリストや犯罪者の手に渡らないように、当局が色々と苦労したとかいう話を聞きましたが」
「徒労ですね。結局、南アメリカの麻薬犯罪組織などに流出しています」
 鷹山は、ボルト・アクションを確認しながら言った。
「まあ、私が持っているのはSASから持ってきたものですが――」
 そう呟くと、AN/PAS−13と呼ばれる赤外線影像装置をマウント部分に取り付ける。夜間戦闘用の装備だ。さしずめ、鷹山カスタムといったところらしい。
「どうでもいいが、天野。お前のその知識はどこから仕入れたものだ?」
「それには、私も興味があるわね」
 隣り合わせて後部座席に座っている祐一と香里が、揃って美汐に疑惑の視線を向ける。
「――申し訳ありませんが、その手の質問には応えかねます」
 美汐はいつものように、そう応えた。
「それより、倉田先輩。私たちはどこに向かってるんでしょうか?」
 栞は窓の外を流れる夜の町を眺めながら、どこか不安そうに尋ねる。初めてのシチュエーションに、流石の栞も緊張の面持ちを隠せない。
「先ほどから入ってくる報告を総合すると、どうやら私の大学みたいですね。同時に小田桐孝之さんが殺害された場所でもあります」
「小田桐さんですか」
 結局、彼ら兄弟の死は、警察の捜査によって殺人とほぼ断定されていた。死体として先に見つかったのは弟のヒデユキの方であったが、実は殺されたのは兄のタカユキの方が先だったらしい。
 栞は車窓を流れていく夜の景色を眺めながら、情報を整理してみることにした。これから事件の真相が明かされるなら、それを聞く前に出きるだけ自分の頭を整理して置いた方が良い。
 まず、小田桐兄弟の殺害を時系列にそって並べ替えてみる。最初は16日の金曜日だ。この日、祐一たちは小田桐タカユキ(兄)と会って話をしている。翌日の17日の土曜日、そのタカユキは大学で殺害され、下半身に火を放たれた。更に18日の日曜日。今度は弟のヒデユキが学校の屋上に呼び出され、恐らく突き落とされて死んだ。
 そして、昨日。19日月曜日の朝、弟のヒデユキの死体が登校してきた生徒によって発見され、それから遅れること数時間、兄のタカユキの死体が大学のキャンパス内の林の中で見つかった。両者とも、殺された現場と発見された現場が一致している。兄は大学、弟は母校の高校。いずれも、犯人から呼び出された線が濃厚だ。よって、顔見知りの犯行である可能性も高い。
 そして犯行後の特徴(つまり、死体が燃やされている)から、犯人は同一視されている。少なくとも警察はこの事件をそう見ているし、栞もその考え方には賛同していた。
 更に、判かっている情報を列挙し、整理してみる。
 まず、先に見つかった弟のヒデユキの方だが――これは、屋上から突き落とされて死んだらしい。屋上には1.5メートルほどのフェンスがあるが、その近くで争ったような微かな痕跡が見つかっている。恐らく犯人ともみ合い、力尽くでフェンス越しに投げ落とされたのだろう。
 それから、転落死したうつ伏せの死体は、犯人によってわざわざ仰向けに直され、そして下半身にガソリンを浴びせかけられて焼かれていた。この点はマスコミも躍起になってスクープしていた。確かに、死体をひっくり返してそれに火を付ける。話題性を持った猟奇殺人とも見ることができよう。
 犯行が行なわれたのは、美汐や香里が想像した通り18日の日曜日の深夜であった。これは、死亡推定時刻から大体明らかになっている。死体に火が放たれたのも、ほぼ同時刻とも見られているらしい。燃やされたせいで正確な犯行時刻や死亡時刻が絞れていないらしいが、それでも18日の夜から19日の朝方に殺されたのは間違いないという。
 兄の方は、弟の1日前に殺されていた。殺害現場は、タカユキが通う大学のキャンパス内にある林の中だ。大学の南口の左手に体育館があるらしいのだが、その裏手には小さな林があって、そこで犯行は行なわれたという。普段は人気がなく、常緑樹が鬱蒼と茂っているせいで発見が遅かったらしい。
 死体の上半身からは幾つかの打撲の痕が見つかった。現場には激しく争った様子もあるという。死因は、鈍器による頭部への打撃。脳挫傷だ。頭蓋骨が陥没するほど、何度も殴打されたらしい。そして殺された後、弟と同様の手口で下半身を燃やされている。
 第1発見者は、ランニング中の剣道部の部員で、異臭に気が付き林を覗いた時、不幸にもそれを発見してしまったという。小田桐タカユキの死亡推定時刻は、17日金曜日の午後20時〜翌日の午前2時までの間。やはり正確に絞りきれなかったのは、燃やされたおかげで死体の体温や血液の状態が一定に保たれなかった為らしい。栞はこの辺りに詳しくないので分からないが、姉に聞いてみたところ、そういう返事が帰ってきた。

「……おり……しおり」
 ふと気が付くと、眼前に、その自慢の姉の顔がドアップで迫っていた。そう言えば、体もユサユサと左右に揺さぶられているような気がする。
「しおり、栞ってば」
「え、あ、……はい?」
「なにボ〜っとしてるの。着いたわよ。ここからは歩きなんだから、早く降りなさい」
 香里が呆れたような顔で急かす。
「え、着いたって――」
「寝ぼけてるの? 大学よ。もう、みんな先に行っちゃったわよ」
 その言葉に、栞はハッと覚醒した。どうやら、思考に没頭している内にイヴェントは勝手に進行していたらしい。慌てて車内を見回してみれば、既に運転手以外は誰もいなくなっている。彼女は漸く、自分が取り残されかけている現状を把握した。
「わ、大変です! 急ぎましょう、お姉ちゃん」
 栞はワタワタと慌てて、車から飛び出した。






to be continued...
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