雪が降っていた。
 重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。
 湿った木のベンチに深く沈めた体を起こして、俺はもう一度居住まいを正した。降り積もった白雪に埋もれるようにして立つ駅の出入口は、今もまばらに人を吐き出している。白いため息を吐きながらら、駅前広場に設置された時計台を見上げると、時刻は一五時だった。まだ日中と表現される時間帯だが、その肝心の太陽は分厚い雲に覆われて完全に隠れてしまっている。知らず知らず、また溜息が零れた。
「……遅い」
 背もたれに体重を預けながら空を見上げて、一言だけ言葉を吐き出す。視界が一瞬白いもやに覆われて、そしてすぐに北風に流されていった。
 突き刺すような木枯らしと、絶え間なく降り続ける雪。心なしか、空を覆う白い粒の密度が濃くなったような気がした。
 もう一度ため息混じりに見上げた空。その視界を、ゆっくりと何かが遮った。目を瞬いてみると、そこにはひとりの少女がいた。彼女は、雪雲を覆うように俺の顔を覗き込んでいる。
「雪、積もってるよ」
 ぽつり、と呟くように白い息を吐き出す。その声は、何故だかとても懐かしく感じられた。
「そりゃ、ニ時間も待たされてるからな。雪だって積もるだろうよ」
「あれっ」彼女は不思議そうに小首を傾げる。「今、何時?」
「三時」
「わ、びっくり」
 言葉とは裏腹に、全然驚いた様子はなかった。どこか間延びした口調と、とろんとした仕草。こいつは相変わらず、水瀬名雪だ。
「まだ、ニ時くらいだと思ってたよ」
 それでも、一時間の遅刻なのだが――それを指摘したところで疲れるだけだ。
 最初は物珍しかった雪も、今では鬱陶しいことこの上ない。コートに積もった雪を払いながら、俺は立ち上がった。そして小さく伸びをする。
「はい、これあげる」
 そう言って差し出されたのは、一本の缶コーヒーだった。
「遅れたお詫びだよ。それと、再会のお祝い」
「一年につき一本か? 今度来る時は、三年くらい間を空けようかね」
「そんなのダメだよ。祐一は、毎年わたしとあゆちゃんに会いに来るの」
 そして彼女はにっこりと笑う。
「それに、暫くは嫌でもずっと一緒だよ」
「……そうだな。確かに、嫌でもずっと一緒だ。暫くは」
 差し出された缶を受け取りながら、改めて彼女と視線を合わせる。素手で持つには熱すぎるくらいに温まったコーヒーの缶。痺れたような感覚の指先に、その温かさが心地よかった。

「あれから、あゆはどうだ?」
 温かな缶を手の中で転がしながら問う。
「まだグッスリ眠ってるよ」
「――そうか」
 本当は聞かなくても分かっていた。去年の冬も会いに行ったし、名雪とは手紙や電話のやりとりを続けてきた。状況が変われば、今日まで待つことなく連絡が来た筈だ。
「まったく、あいつの寝ぼすけぶりにはホトホト呆れ果てるな。ある意味、お前よりたちが悪い」
「祐一、酷いこと言ってる?」
 名雪は目を細めて睨んでくるが、元が元なので全く迫力に欠ける。
「でも凄いよね。七年も眠り続けてるのに、ちゃんと成長してるし筋肉もあんまり衰えたりしてないんだって。この前もお母さんとお見舞いに行ったけど、お医者さんも不思議がってたよ。クマさんの冬眠みたいだって」
「おかげで、研究者がバカ高い入院費用を出してくれてるんだ。それくらいじゃないと困るさ」
 普通あゆのように昏睡状態が続くと、肉体は衰えていくそうだ。筋肉が落ちて、やがては自分の足で立ってあることさえできないようになるという。だが、あゆにはその兆候が見られないらしい。クマは長い冬眠の間も身体を殆ど衰えさせることがないというが、それに近い状態にあるとか。
 そうした事情からその筋の研究対象になり、色々な検査やデータを取らせる代わりに入院費用は連中が出すことになっている。運が良いのか悪いのか、未だによく分からないやつだ。
「まあ、そのうちひょっこり目覚めるだろ」
「そしたら、わたし友達になれるかな?」
「なれるよ」俺は笑う。「あいつは結構人見知りが激しいけど、お前の平和そうな顔を見れば簡単に打ち解けるだろうさ」
「うー、楽しみだよ」
「――そうだな。その時は、仲良くしてやってくれ」
 懐かしい思い出の街で、懐かしい雪に囲まれて、
「さあ、そろそろ行こうぜ名雪」
 新しい生活が、冬の風にさらされて、ゆっくりと流れていく。
「うんっ」






 結果的に、歴史は大きく変わろうとしていた。
 七年前のあの日が、ある意味での大きな分岐点になったらしい。本来、あゆが事故で昏睡状態に陥ったあの時、俺は全てに絶望してこの街を離れるはずだった。そしてあらゆる記憶を心の奥底に押しこめ、その悲劇があたかも最初からなかったかのように振舞って生きるはずだった。だけど今回は違う。両親や秋子さんや名雪の力を借りて、俺はあゆの事故を受け入れた。そうして悲劇に向き合う姿勢が一八〇度変わってしまったせいで、芋蔓式に多くのことがらにも影響が現れたというわけだ。
 まず、俺がこの七年間、毎年この街を訪れ続けたという事実。これは特筆に価するだろう。
 逃げることをやめたんだ、名雪やあゆや舞の待つこの街を避け続ける理由などない。だから俺は長期休暇の度にこの街にやって来て名雪と同じ時間を過ごし、彼女と共に病院に赴いてあゆを紹介した。結局あゆが目覚めなかったことに変わりはないが、この違いは名雪にとっては大きいはずだ。俺にとっても。――もちろん、直接会えない時にでも名雪が手紙をよこせば返事を書いたし、俺からたまに電話をかけることだってあった。俺は二度目の一七歳を経験しているが、前回よりも名雪との間柄は遥かに良好だと言える。彼女が俺に向けてくれる恋愛感情には、応えることができないけれど。
 違いは他にもある。あゆの幻が現れなかったということだ。幻というか生霊というか亡霊というか。病院のベッドで眠っているはずのあゆが、フラフラと商店街に現れてタイヤキを食い逃げしたり、探し物を求めてうろつき回っていたことは周知の事実だ。少なくとも、俺がかつて経験した一九九九年の冬では。
 でも、今回は様子が違う。あゆは相変わらず大学病院のベッドに横たわったままだ。精神だけが肉体を離れて街をさ迷い歩くなんて不思議な現象は起こっていない。だから、香里の妹である栞は未だにあゆのことを知らないし、名雪も未だに彼女と声を交わした経験を持たないことになる。
 ――だから、その日も俺はひとりだった。

「CDだったら、商店街の中にお店があるよ」
 名雪のその言葉が切っ掛けだった。
 一月十一日の月曜日、俺は探しているCDがあったため、名雪の助言に従って商店街に向かったわけなのだが、本来ならここであゆに会うはずだった。そう、CD屋を探して歩き回るうち、あいつと偶然に遭遇するのだ。確か、あいつは背中に飛びつくようにして突然現れて、にこにこと本当に嬉しそうに笑っていたような気がする。それで、この時はじめて「探し物がある」ということをあいつの口から聞くことになったんだ。でもあいつは、肝心の探し物がなんであったかを忘却しているという、じつに奴らしいおバカっぷりを披露してくれて、結局はその探し物とやらを俺も手伝うハメになったのだった。
 でも、今回はひとりでCDショップを探すことになるようだ。あゆに会えないのは寂しいような気もするが、俺はそれでも良いと思っている。俺が会いたいと思っているのは、そんな歪な形のあゆじゃない。昏睡状態から目覚めた、現実世界でのあゆなんだ。幽体離脱だか生霊だかの奇跡になんて頼る必要はない。今の俺は、必ず彼女が目覚めると信じていて――全ての記憶と一緒にその日を待っているのだから。
 あいつが目覚めたら、色々な話をしようと思う。突然の事故で、俺がどれだけ驚いたか。眠っている間、どんなことを思っていたか。そして、名雪を紹介しよう。眠っている間に世界で起こったことを教えよう。そして、俺たちの懐かしい思い出を二人で語り合おう。
 言いたいこと、伝えたいことは沢山ある。だから、あいつの大好きなタイヤキを紙袋いっぱいに買って、会いに行こう。きっとあいつは、満面の笑みを浮かべて俺を迎え入れてくれるだろうから。



 記憶通り、俺はCDショップを見つけることができずに水瀬家に帰った。変わったこともあれば、変わらないこともある。たとえば、俺を水瀬家に預けて両親が海外に行ったことも変わらなかった出来事の一つだ。そして――
「祐一〜っ」
 部屋に戻ってきて鞄を置くなり、元気な声と共にドアが開いた。ノックはなしだ。着替えようと制服のボタンをはずしかけていた手をとめて、彼女の顔を睨みつける。
「真琴、ノックぐらいしろって言ってるだろ」
 そう、沢渡真琴が現れたのも俺の知る歴史と変わらずに繰り返された出来事の一つだ。
「祐一、こんなところに隠れてたのっ?」
「これのどこが隠れてるんだ。それに今戻ってきたばかりだぞ」
 相変わらず無駄に元気が良く、俺をなにかと目の敵にしているのも変わらない。そしてこのまま俺の記憶にことが進むならば、真琴はいつの間にか、水瀬家からいなくなってしまうことだろう。与えられていた部屋から突然姿が消えて、それっきり。あの時の俺は、秋子さんと一緒に心配はしていたのだが、結局やつが帰ることはなかった。一体どうしたのだろうと誰もが首を捻ったものだ。
 でも、今の俺は知っている。あの『声』に見せられたからだ。
 ものみの丘と呼ばれる雪原で、文字通り消えていく独りぼっちの真琴。あのヴィジョンがなにを意味していたのか未だに分からないが、彼女の身に尋常ではない出来事が降りかかったことだけは馬鹿な俺にも理解できた。
 だから、今度はもっと注意して真琴のことを見ていようと思う。あいつが何者なのか、どうして俺の前に現れたのか、一体なにを求めているのか。もっと心に余裕を持って、あいつのことも色々と考えてみたい。その先に、もしかするとあの赤毛の見知らぬ少女が待っているのかもしれない。

 歴史を変えないなんて、格好良いこと言ってなかったか?
 そんな疑問は、この七年間いつも俺の胸の中にあった。俺という人間の意識が変革するということは、相沢祐一の生き方が変わるということに等しい。そして生き方が変わってしまえば、人生そのものが全く別の存在になってしまう。考え方が異なるし、選ばれる選択肢も異なる。そして辿るべき歴史も。
 確かに、俺のやってることは過去のやり直しだ。それを否定するつもりはない。それに歴史を歪めてしまっている事実も認める。でも、俺はこれで良いと思っている。
 第三者には、「お前が今やっていることは、あゆを木から落ちないようにしたり、舞を魔の呪縛から開放したりすることとどれだけの違いがあるんだ?」……なんて言われるかもしれない。でも、構わない。俺の中ではハッキリと違うから。
 結局、今の俺が結果的に歴史を変えてしまうことと、自分に都合良く歴史を変えてしまうこととでは、心の問題で大きく話が違ってくる。それは、気持ちが真っ直ぐに向いているか、逃げているかの差だ。そして、今の俺は自信を持って言えるんだ。相沢祐一は何からも逃げてなどいない、と。俺はちゃんと戦っているんだ、と。
 だから――



「ノートぉ?」
「うん」
 夕餉を終えた後、部屋に戻ろうとした俺は名雪と向かい合っている。先週のうちに、学校の勉強内容を把握するため名雪からノートを借りていたのだが、予習復習をするからそれを返してくれというのだ。
「悪い、学校だ」
「えっ、嘘だよね?」
 名雪は珍しく驚いた様子を素直に見せ、たれ目がちの瞳を大きく見開いた。
 歴史を知っている俺は、もちろん、今夜名雪がノートの返却を求めてくることを知っていた。だから、それに備えてノートを持ち帰ってくることも可能だったわけだ。でも、俺は敢えてそれをしなかった。
 なぜなら、それが全ての始まりだったから。この日を七年もの間、ただひたすらに待ち焦がれていたから。俺は約束していた。七年後、傷付いたお前に会いにくると。俺は確かに、彼女と約束したのだから。
「――わかった。学校にいってノートとってくるから」
「え、でも……学校、開いてないよ、たぶん」
 俺の自業自得とは言え、この寒空の下、深夜の学校まで走らせることに抵抗があるのだろう。名雪は急に勢いを失くしてしまった。
「宿直の先生とか、いるんじゃないかな。ま、いなかったら窓ガラスを割ってでも入ってやるよ」
「そんなのだめっ」名雪は狼狽した様子で言う。
「冗談だ。でも、とにかく行ってみるよ。お前を困らせたくないし」
「外、寒いよ?」
「問題ない。ジョギングがてら、行ってくるから」
「ほんとに?」
 名雪は恐る恐ると言った様子で、上目遣いに俺の顔色を窺ってくる。これでは、まるで彼女のほうが悪いことをしたようだ。実際に悪いのは俺なのに。
「ああ、気にしなくて良いよ。無責任なことしたのは、俺なんだから。本当、悪かったよ」
 部屋に戻りコートを羽織って出てくると、まだ名雪はそこに立っていた。階下の玄関に向かう俺の踵を遠慮がちに追ってくる。
「……祐一、なんだか優しくなったね」
「え?」
「なんだか祐一、あったかいひとって感じがするよ。お母さんみたいに」
 それは、少しでも秋子さんに近付けたと自惚れてしまっても良いということだろうか――?

 外に出ると、強烈に冷たい風が衣服の隙間を縫って、地肌にまで吹き込んできた。鼻下までコットンのマフラーを引っ張り上げ、駆け足で学校へと急いだ。流石に通いなれた道だ。日が落ちた後でも迷うことはない。
 二〇分も走り続ければ、大分身体も温まってきた。そんな中、不気味に聳え立つ校舎のシルエットが闇夜に浮かび上がってくると、俺は校門を乗り越え敷地内へと入った。だだっ広い前庭には常夜灯だけが灯り、その向こうで巨大な校舎が虚ろな影となっていた。その影に向かって、歩いてゆく。
 昇降口に辿り着くと、ひとつひとつその入り口を調べていった。当然ながら放課後の施錠はほぼ完璧に近く、冷たい扉を手で押してみても、開くものはひとつとしてなかった。一枚のガラスを隔てて下駄箱と、その先に続く廊下が見えているだけにやきもきする。はじめてここに来た時は、どこから入りこんだんだっけ――
 数秒考えて、思い出した。俺は生徒があまり近付くことのない職員用の昇降口に回った。駆け寄って、深緑の扉を押してみる。長い眠りから起こされたような軋みをあげて、それは開いた。
 やはり、宿直の教師がいるのだろうか。そんなことをボンヤリと考えながら、自分の教室まで辿り着くと、そのドアに手をかける。入り口が開き、早朝一番で乗り込んだときのような、誰もいない教室が目の前に現れた。静まり返った教室の、凍てつくような冷気が俺を迎える。
 教室を横切り、自分の机まで辿り着いた瞬間、何故だかほっとした。夜の校舎という異質な空間で、ようやく現実との接点を見つけたような感覚だった。
 目的のノートを見つけ、それを抱えると足早にきた道を辿り、教室の出口へと向かう。耳が痛くなるような静謐に支配された廊下に、リノリウムを叩く足音が甲高く反響する。まるで異世界に迷い込んでしまったかのようだ。毎日利用するはずの廊下なのに、何故だかそれがもう俺の知る場所ではないような錯覚に捕らわれる。
 それを助長するかのように、その光景は広がっていた。幻想的――いや、非現実的というほうが近しいだろうか。なんにせよ、その時の俺には、その少女の不自然な存在がその場に違和感のないものとして映った。そこにあるのが当然のようで、でも日常の世界には属さない。それを幻想的だと形容したのは、そのためだ。

 少女は夜の校舎に立っていた。一振の剣を携えて。
 見間違うはずもない。ずっと、彼女に会う日を夢見てこの七年を生きてきた。ずっとだ。
「よぉ」
 正面に立っているのだから視界には入っているだろう。でも返事はない。まっすぐ、俺の背中のその先を凝視している。
 会いたかった、お前に。七年は長かった。とても、長かった――
「なにやってるんだ、こんな時間に」
 声が震えないよう、感情を抑えるのはとても辛かった。彼女の名を唱えたがる唇を無理矢理に閉じ、ともすれば駆け出して彼女を抱き締めようとする自分を必死に押し留める。
「演劇部の稽古か?」
 一向に返事は返らない。でも、そんなの全然構わなかった。俺は今、彼女と向き合って言葉を直接投げかけているんだから。
「ひとりなのか? ひとりだったら、途中まで送るけど。俺もこの学校の生徒なんだ。忘れ物をとりにきただけで、怪しいもんじゃないぜ」
 俺は両腕を開いてみせる。
 彼女――舞は、ちらりと俺のほうを向いた。敵視とも、友好的ともとれない目だ。
「ほら、こんなところにひとりで居たら、何がでるかわかんないだろ?」
 その時、不意に何か硬いものが引掻かれるような音がした。
「ん?」
 音のほうを振り向きみるが、何もない。あの時は、温度の下がった校舎が軋みをあげただけだろう――なんてのん気なことを考えていたが、今はそれが魔だと分かる。そして加速度をつけた舞が、高速で俺の脇をすり抜けていった。
「おい、どうしたんだよ、いきなりっ」
 その背中を追おうとすると、入れ替わり、何かが俺の体にぶつかってくる気配が伝わってきた。舞に習った教訓を活かし、それを回避する。タイミングはギリギリだった。
「クッ……!」
 刹那、こちらへ剣を引いた格好で舞が猛然と向かってくる姿が見えた。それが眼前へと迫ったとき、その刀刃が水平に薙がれる。
 異質な音。そして、目の前の空間が裂けた。一瞬後には、リノリウムの床に突き立ってられた剣だけが残されていた。
「は、はぁっ」
 暫くの沈黙を経て、俺はようやく忘れていた呼吸を再開した。耳鳴りが、やまない。魔と戦闘には経験があるが、かといって慣れるほど熟練したわけではないのだ。舞と違って。
 その彼女は、壁にもたれ倒れたままの俺に一瞥をくれた後、何も言わずに背中を向けた。
「おい、待てよっ。一体なんだったんだ、今のは……」
 その声に反応したのか彼女の足がピタリと止まり、そしてふり返る。目と目が合った。
 しばらく無表情に俺を観察すると、彼女は突如顔を俺の胸元に近付けてきた。そして鼻をひくひくさせて、子犬のように俺の匂いをかぐ。
「あ、あの……?」

 どれくらいそうしていただろうか。満足したらしい彼女はようやく俺から離れると、またじっとこちらを見詰めて微かに首を傾げた。
「神様のにおいがする」
「は――?」
 一瞬、それが何を意味するのか分からなかった。記憶では、あの時の舞がこんな言葉を発したことなどなかったからだ。
「前に神様が手紙をくれた」
 そう言って彼女は自分の制服に手を突っ込むと、胸のあたりをゴソゴソと漁った。やがて首からペンダントのようにぶら下げた小さなお守りを取りだし、更にその中から黄ばんでヨレヨレになった汚らしい紙を取り出す。
 小さく折りたたまれていたそれが、彼女のほっそりとした白い指で開かれていく。
 相当古いものなのか、乱暴に扱うと崩れ落ちてしまいそうなほどにボロボロのそれには、黒く変色した血の痕がいくつもシミになっていた。その中央に、鉛筆で書かれた掠れた文字が読める。そこには、こうあった。

『がんばれ、舞。信じていれば、いつかきっとその人とまたあえる日がくるでしょう。 神様より』

 その瞬間、俺はそれが何であるかを悟った。
 彼女は、あの時の舞は、これを読んで今まで大切に持っていてくれたのだ。お守りに入れて、肌身はなさずに。
「……その神様は、コートもくれた。神様の匂いがした」
 彼女は不思議そうに俺の瞳を覗き込むと、今度は首筋に鼻先を埋めるようにして再び匂いをかぐ。
「あなたは、あの時の神様の匂いがする」
 ――舞。
 いけないと分かっていても、こらえることが出来なかった。俺の頬を、涙が一筋伝っていく。
 彼女は、持っていてくれた。持っていて、くれたんだ……。
「ひとつ」
 俺は震える指先を彼女に伸ばしながら、掠れた声で言った。
「ひとつだけ、聞かせて欲しい。その神様の手紙は、きみの支えに――」
 なっただろうか?
 彼女は少しだけ怪訝そうな表情をしたあと、コクリと小さく頷く。そして、一瞬だけ微笑んだような気がした。
「この手紙があったから、私はここまで魔と戦ってこれたのかもしれない」








FIN



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