翌朝、ドアをノックする音で俺は目覚めた。一瞬、自分がどこにいるのか認識できなかった。綺麗に整頓された屋内であることは分かるが、薄暗い室内は照明が落とされているためあまり視界がきかない。あまりの暗さに夜なのかと思いかけたが、カーテン越しの窓が薄っすらと明るく見えたため、自分が北国で向かえた朝にいることを知った。――そこは水瀬家だった。
「おい、祐一。いい加減起きろ」
 ドアを開けて入ってきたのは、親父だった。モーニングコールの送り主としては、最悪の人選だ。
「今、なんじ?」
「もう昼過ぎだ」親父は小さく溜息を吐く。「昨日はお前のせいで飛行機に乗りそびれたんだぞ。今日も同じことやらかすつもりか」
「いや――」
 軽く頭を振ると、俺は言った。そうだ。昨夜は名雪が迎えに来て水瀬家に帰った後、倒れるようにして眠り込んでしまったんだっけ。親父の言う通りもう昼を過ぎているとなると、かなりの長時間に渡って俺は眠っていたことになる。相当疲れていたんだろう。肉体的にもそうだが、心的な疲労も大きい。
「メシできてるぞ。食うか?」
「あ、ああ」モゾモゾと布団から抜け出し、我ながら気の抜けた返答を返す。「名雪は?」
「さっき起きたよ。もう下にいるはずだ」
 昨日は名雪にいろいろと世話をかけた。お礼を言うべきか、詫びるべきか。何を言っていいのか俺には分からない。
「ブランチにしたって遅すぎるし、あんまりゆっくりしてる時間はねーぞ」
 階段を降りながら親父が言う。ジーンズに無地の白いセーター。味気ない簡単な格好をしているが、親父にとっては既に外に出られる姿だ。
「一日ズレ込んだが、あとニ時間もしたら空港に向かわないといけない。そうじゃないと、またここに厄介になることになるからな」
 そうか。予定が狂って昨日は帰れなかったから、今日の便で戻るわけだ。全部俺のせいだな。
 恐らく七年前にも同じことを経験したのだろうが、その時のことは、あゆのことでショックを受けていたため何も覚えていない。きっと、それどころじゃなかったんだろう。無理もない。あの時の俺は、正真正銘の小学生だったんだから。

「なあ、親父」
「なんだ」一足先を行く親父は、振り返らずに応えた。
「過去に戻りたいって思ったことあるか。やりなおせるなら、人生やりなおしてみたいって……」
 階段を降り切ると、親父は足を止めて俺を見上げた。微かに眉をひそめている。怪訝に思っているのだろう。――分かってる、これがまだ一〇年しか生きていない小学生に相応しい質問じゃないってことは。でも、訊かずにはいられなかった。
「そんなこと聞いてどうするんだ」
「分からない」
 じっとこちらを観察してくる親父と正面から視線を合わせ、俺は正直に言う。
「何も分からなくなってしまったから、訊いてる」
 すると、親父は興味を失ったように軽く肩を竦めて見せた。
「俺にどんな言葉を期待してるのかは知らないが、それは俺じゃなくて秋ちゃんに聞いてみろ」
「なんで秋子さんなんだ?」
「彼女は――」その声は、少しだけ低かったような気がする。「俺たちの中で一番、その欲求を抱きたくなる立場に追いやられた経験がある」
 その言葉の意味を理解するまで、そう長い時間は要しなかった。もちろん、俺は知っていた。秋子さんはずっと前に生涯の伴侶をなくして、名雪を一人で育ててきたんだ。そこには想像を絶する何かがあったことだろう。きっと、俺がいま抱え込んでいる以上の何かが。

「親父はどうなんだよ」
「俺か?」親父は俺から視線を外すと、少しだけ宙を睨んだ。「なくはないな」
「つまり、過去をやり直したいって思ったことがあるってことか」
「いや、それはない」親父はまた俺と目を合わせると、キッパリと言った。「ただ、あのとき別の道を選んでいたら今ごろどうなっていただろう――とか、そういうことは考えることはある」
 ごく稀にだけどな、と親父は付け加えた。
「俺にだって何かを不本意な結果で終わらせちまった経験くらいあるさ。たとえば、色々と世話になっていたジイさんが死んだ時、俺は海外に旅に出ていて何もできなかった。最期を看取ることも、葬式にでることもできなかった。もしあの時、この国にいて連絡がすぐにつけられる状態にあったらな――とか、そういうことは思うよ。時々な」
 親父は他にも二、三の例を挙げた。そのどれもが、誰にとっても珍しくないありふれた悔いだった。豪胆でいつも飄々としている親父だったが、やっぱりこの男も生きていて、感情を持った人間なんだと思い知らされる。

「だけど、過去をやり直そうだなんて思い始めたらキリがないだろう。あんまり意味もないしな」
 親父は再び肩を竦めながら言った。
「なんかある度にタイムワープでもして、後悔の元になるものを抹消してたら――結局、何も残らなくなるんじゃないのか? 失敗や後悔をしたことがないってのは、要するに何もしてこなかった人間だってことだろ」
 確かに、そうなのかも知れない。でもこの世には、「それでも無かったことにしたい」と思えるような出来事もあるはずだ。そのことを口に出して、親父に言ってみる。
「ま、確かにそれはあるだろうな。どうやったって一生消えない傷ってのもあるだろうし。誰だって、程度のは差はあれ一つや二つそういうものを抱えてるだろう。人生なんて、とりかえしのつかない厄介事の連続みたいなもんだからな」
「だったら……」
「だからこそ、そんなこと考えたって意味ないんだろ。俺はそんなことより、この先自分に何ができるかを見てみたいんだよ。自分の限界が見えるまで何かを極めて見た時、どれだけのことができるか。一〇年後の自分は、どこで何をしていて、どんな風に生きてるか。それが知りたいんだ。だから、上に行くために自分に必要なのが何かを考えてる。
 過去はもう経験して、見えてる。クリアの仕方を知ってる迷路だ。犯人が分かってる推理小説だよ。再トライしたところで楽しさは半減だ。だから、俺は予想もつかない話を知りたい。死ぬ寸前まで先のことだけ考えていたいよ。――俺はな、祐一。去年の俺より、今年の俺の方が上だって断言できる自信がある。それだけのことをやってきた。だから、それでいい」




 空港も、そこに辿り着くまでの道のりも、予想していたよりも随分と空いていた。時期が時期だからして結構な混雑を予想していたのだが、蓋を開けてみれば拍子抜けするくらいに人の数が少ない。秋子さんの運転する自動車で送ってもらったのだが、おかげで予定よりもかなり早くターミナルに着いてしまった。聞くところによると、登場手続きが始まるまで、あと一時間くらいの余裕があるそうだ。まあ、時間ギリギリで血相変えて走らなきゃならないよりかはマシだ。昨日なんかは、俺のせいで乗り遅れてしまったわけだから。
「一時間か。どうする? どっか喫茶店でも入って時間潰すか」
「そうですね」
「空港って広いね。わたし、まだ飛行機乗ったことたいんだよ」
 大人たちは固まって、これからどうするかを相談している。名雪もその輪に加わっているようだった。そこから外れているのは、俺ひとりだ。
 相沢家は海外旅行の経験が豊富なため、空港で時間を潰す術を色々と心得ている。トランスファ(乗り換え)の関係で、空港で一〇時間待たされるなんて経験はザラなのだ。海外の国際空港ってのは、日本のそれと違って死ぬほど広い。様々な店や施設があって、ほとんど一つの街として機能するものだ。だから慣れてくれば幾らでも時間を潰すことができる。――もちろん、物には限度というものがあるが。
「おい、祐一。今からチェックインまで自由時間だ。一時間後に、カウンター前に集合。OK?」
「ああ」
 俺が頷き返すと、親父と母さんは名雪を連れてどこかに歩いていった。空港という施設をあまり利用する機会のない名雪を、色々と案内してやるつもりなのかもしれない。なんにせよ、どうでも良い。俺には関係のないことだ。

「あら、祐一さんはここに残るの?」
 俺の座っている壁際のベンチに、秋子さんが歩み寄ってきた。その足元には幾つかのスーツケースと大きなバッグがある。名雪を連れまわしている間、親父たちの荷物の番を頼まれたのだろう。
「隣り、座ってもいいかしら」
 俯いたまま小さく頷いて見せると、彼女は静かに俺の横に腰を落とした。ふわりと涼やかな香りが漂い、鼻腔をくすぐる。それっきり、彼女は沈黙した。本来なら明らかに尋常ではない様子の甥に、色々と聞きたいことがあるはずだ。だが、彼女は決して、相手から無理に話を聞き出そうとはしない。今は、それがとてもありがたかった。
 ――もし、この世に絶望というものが本当にあるのだとすれば、今の俺はそれに近いものを感じているのだろう。これからどうして良いのか分からない。自分や現実に希望を抱けない。この数日で俺が味わってきた奇天烈で残酷な出来事の数々は、俺から生きる気力というものを奪うに充分過ぎる破壊力を秘めていた。きっとこれからは、今日と明日の見分けすらつかない日々が続いていくのだろう。
 俺はずっと、勇気と強い意思の力さえあれば全てを変えることも容易いと信じていた。夢は必ず叶えられると思っていた。でも、それは現実との距離感が希薄な子供の考えでしかなかった。過去の世界に飛ばされ、実際に自分ひとりの力で生きていかなければならない現実に追いやられた時、相沢祐一は惨めなほど無力で無知な存在だった。全てどころか、自分さえ変えることができないという現実。夢を永遠に失ってしまったという事実。それらが双肩に重くのしかかってきて、今、俺は潰される寸前というところにいる。いや、自分では気付いていないだけで、既に押し潰されてしまっているのかもしれない。

「結局、何も変えられなかった……」
「祐一さん?」秋子さんは怪訝そうな、そして心配そうな声で俺の背中に手を添えてくる。
 俯いていた顔を上げて、彼女と視線を合わせた。そして自分の知る限り最も聡明な人物のひとりである彼女に心から問いかける。
「秋子さん。もし自分ひとりでは背負い切れない荷をどうしても背負わなくちゃならなくなったとき、秋子さんならどうしますか」
 その深い瞳を覗きこんだまま、勢いに任せて続ける。
「絶対に叶わない願いだと知りながら、どうしてもそれを叶えなくてはならない状況に追いこまれた時、貴女ならどうしますか。どうしたらいいんですか」
 秋子さんは俺の顔をじっと見詰め、そして娘の名雪を時々そうするように俺を抱き締めた。
「あなたは、そんなことを考えていたの。こんな小さな身体で……」
 髪を優しく撫でられた。彼女はあたたかかったけれど、今の俺はそれに特別な感傷を抱けるほどの余裕を持ってはいなかった。それに、彼女は俺の問いに答えを返してくれていない。
「教えてください、秋子さん。そんな時、どうすればいいんですか」
「私なら傍にいてくれる人たちの力を借りるわ」
「ひとの力?」
「私の場合、それは名雪だったり姉さんたちだったりね。――実際に、私がとても大変な身の上に立たされて、これからどうやって生きていけばいいのか困り果てていたとき、まだ赤ちゃんだった名雪は笑顔で励ましてくれたし、姉さんや芳樹さんは私を支えてくれたわ」
 秋子さんが何を言っているのか、俺は理解できた。彼女は今、夫を亡くして名雪と二人取り残されてしまった時のことを思い起こしているのだろう。だから、その言葉は重かった。

「その時が訪れるまで、私も今のあなたと同じようなことを考えていたわ。ひとりで頑張って、ひとりで何とかするのが強いことだって思っていたの。自分さえ一生懸命になれば、全てはなんとかなるでしょうって」
 俺は思わず抱かれていた体を離し、秋子さんの顔を見直した。とすると、この人も俺と似たような悩みを抱え、同じようなことを考えた経験があると言うのだろうか。俺が抱く程度の陳腐で他愛のないことを、こんな聡明な人が。
「――でも、あの出来事を切っ掛けに気付かされたわ。この世には、ひと一人では抱えきれない荷が沢山あるって。そしてそんな重い荷を背負わなくちゃならなくなったとき、力を貸してくれる人たちが周りにいてくれるという事実も、人間にとって大切な強さの一つなんだって。それはね、本当に大切な力なんだと思うわ。とても、とても」
 秋子さんは両手で包み込むようにして、俺の頬に触れた。
「人間は全ての問題を、自分の心で決着していかなければならない。でもね、誰かと関わる事でしか知ることの出来ない自分があるように、誰かの力を借りることなくしては越えていけない自分もあると思うの。越えるのはあくまで自分よ。だけど、そのために自分ではない誰かの存在が必要となることはきっとあるわ。そして、そのそんな人がいてくれるというのはこの上なく幸せなことなのよ。
 ――今のあなたには、まだ難しいかもしれない。でも、辛いことがあったのなら覚えておいて欲しいの。ひとりの力では足りないとき、誰かの力を借りようとするのは決して恥ずかしいことなんかじゃないって。少なくとも、私はそう思っています」
 たとえば、赤ん坊だった頃の名雪が見せる、何も知らない無邪気な笑顔。それは秋子さんを励まそうという意図で作られたものではないけれど、彼女はそれを支えにやってこれた――。確かに、そんなことはあるのかも知れない。
 まだこの世には俺の知らない種類の強さが幾つもあって、多分、秋子さんをはじめとする俺の敬愛する人々は、様々な経験を通してそれを手にしてきた存在なのだろう。

「秋子さんは、戻りたいと思ったことがありますか?」
 不意に、俺はその問いを思い出した。今朝、親父にも訊き、そして秋子さんに質問してみろと助言されたことだ。
「大切な人が亡くなってしまう前の、家族三人が揃っていた時に戻って、今度は失わないようにやり直したいと思ったことはありませんか」
「あるわ。もちろん」彼女は少しだけ寂しそうに微笑んだ。「当初は、そのことばかり考えていた」
「じゃあ、今、もしそのチャンスが与えられたとしたら、人生をやり直したいと思いますか」
 俺は彼女の口から何を聞きたかったのだろう。どんな答えを求めていたのだろう。自分でも分からない。――或いは、彼女が『YES』と答えてくれれば、歴史を変えようとした自分を正当化できるとでも考えていたのかもしれない。水瀬秋子ほど聡明な人物でも、やはり人生をやり直せるならそうしたいと願うものだ。だから、相沢祐一が同じことを願っても、それは仕方のないことだと。
 でも、彼女は静かに首を左右した。
「いいえ、私は思わないわ」
 少なからず、それは俺にとって衝撃的な解答だった。
「何故ですか。なんで? やりなおせば、三人でやっていける。名雪にも父親を知ることができる」
「確かに、あの人を亡くしたばかりの時に同じ質問をしたら、『やり直す』って答えたかもしれませんね。きっと、そうしたでしょう。……でも、今は違う。もし過去に戻れば、今の名雪はいなくなってしまうでしょうから」
 秋子さんは空港の奥に消えていった娘の姿を追うように、虚空に視線を投げた。
「あの人をなくしてからは、名雪が私の全てだった。名雪も、そんな私のことをとても大切にしてくれたわ。私たちはそのことを通じてとても素敵な母娘になれたと思うの。だから名雪と今のようになれたのは、あの人が見えない力を貸してくれたからだとこの一〇年間思ってきたわ。この世から消えてしまった分、私と名雪を仲良くさせてくれたって。そうして育んできたのが、今の水瀬家だって」
 俺はただ呆然と、その途方もない話を聞いていた。
「だから、私は思うの。今、過去をやり直すことなんて考えたら、あの人に叱られてしまうって。短い間だったけど、三人で築き上げてきたものは確かにあったはずだって。それは今も確実に、水瀬家に流れているはずだから」
 秋子さんはクスリと笑う。
「もしあの頃に戻るなんて私が言い出したら、きっとあの人はプンプンに怒るわ。姿が見えないと、僕の妻や娘への愛情までも見えなくなっちゃうのかい? ……ってね。そういう人だったの、彼は」

 その時、俺はようやくにして悟った。
 ああ、この女性の中では、まだ伴侶は生き続けているのだと。見えなくなってしまったけれど、でも彼の力はまだ生き続けていて、自分や娘に作用している。水瀬家に息づいているのだと、そう信じているのだ。
 水瀬秋子は、失われた人との間にあった絆を、今もまだ見据え続けている。
「だから、私はあの人がいなくなってしまったのも含めて水瀬家だと思っているの。――そう思うしかなかったし、そう思わずには、ここまでやってこられなかったというのもあるけれど」
 そう言って、秋子さんは少しだけ悲しそうに微笑んだ。
 そんなものを見せられると、もう堪えていることが難しくなる。子供の身体に戻ったせいだろうか、俺は随分と涙腺がゆるくなってしまっていた。
「貴女は……」
 俺は慌てて顔を伏せた。そして震えかけた声を、喉の奥から搾り出す。
「強いひとです。とても」
「言ったでしょう。私が何とかここまで辿り着けたのは、名雪や姉さんたちのおかげ。私が特別なにかに優れていたわけではないの。ただほんの少し、他の人よりも運と人間関係に恵まれていただけ」
 彼女は励ますように俺の背に軽く触れた。そして耳元で囁くように言う。
「俺も、秋子さんみたいに強くなれるでしょうか」
 それは、俺にとってひたすらに切実な願いだった。それを知っているのか、彼女は力強く頷いて見せてくれた。
「なれるわ。なれる。あなたの周りには大切なことを教えてくれる人が沢山いるわ。それに、私にはあなたが可能性の塊のように見えるもの。そのことは、きっとあなたの大きな武器になる」

「俺の武器?」
「そうよ。私には今の祐一さんが何を思い悩んでいるのか分からないけれど、でも全てが駄目になってしまったわけではないんでしょう? それとも、もうあなたに出来ることは何も残っていないのかしら」
 秋子さんはそこで言葉を区切ると、俺の反応を窺った。暫く待って、続ける。
「たとえそうでも、物事は見方や考え方を変えるだけで驚くほどその姿を変えるものよ。あなたが伸びた分、現実も変わるかもしれない。あなたが変わった分だけ、世界も変わって見えるかもしれない。名雪やあなたは、そんな可能性の塊なの」
 不意に、その言葉が昨夜の名雪のそれと重なった。そして気付く。
『わたしは祐一がどんな人になりたかったのか知らないけど、それにはもうなれないの? もうがんばっても、無理なのかな。だから、祐一は泣いてるの?』
 俺は――
 ただ、『未来を知っている』という事実だけが自分の唯一の武器だと思っていた。そして、その武器が世界や現実に通用しないことがハッキリとした今、俺にはもう何も残されていないと思っていた。
 でも、そうだ。そんなものは単なるお飾りに過ぎなくて、本当に頼るべきものは他にもあるのかもしれない。今、そう思える。
 俺には一七年分の人生経験がある。特にこの雪の街に帰ってから思い出したこと、新しく学んだこと、それらは俺を構成する重要な要素の一つだ。あゆの事故を通して、俺は失う怖さのようなものを知った。舞と出会って、自分の中に誰かをこんなにも強く想える可能性が眠っていたことを知った。今の相沢祐一は、それらによって形作られていると言って過言ではない。
 ただ過去をやり直すんだったら、記憶もリセットすれば良かったはず。だけど、俺をここに送りこんだ何者かは、そうしなかった。今の俺は一〇歳でありながら、一七歳まで生きた時の記憶と思い出を持っている。それは、ただ未来を知っているという特典を生み出すためなどではなく――俺が今までの人生で学んできたことを活かすためにあるのではないのか。俺が本当に頼るべき自分の武器とは、それなのではあるまいか。
 だとすれば、俺の仕事はここから始まることになる。

 現に、少しだけど俺の知る七年前と今とでは状況が違っている。前は名雪が差し出した雪うさぎを払い落とし、それで終わった。俺は終始無言で、ただ名雪を傷付けただけだった。そんな彼女に何の言葉をかけてやることができなかった。
 でも、昨日の俺は言えたじゃないか。七年前には言えなかったことが、言えた。そして名雪に謝ることができた。それはたった一片の言葉でしかなかったが、彼女と俺にとっては大きな意味を持つものであったはず。
 確かに、歴史は変わらないし変えられない。逆らってはみたけれど、結局あゆは事故にあって昏睡状態に陥った。彼女を車ではね飛ばす人間を新たに生み出した分、状況は暗転したとさえ言えるだろう。だけど、俺は自分の心を名雪に伝えることができた。名雪の心を聞くことができた。彼女はあの時ほど心に深い傷を負ってはいないはずだ。
『一九九二年。月宮あゆ、事故で昏睡状態に陥る』
 歴史書に記される出来事はその一言のまま変わらないかもしれない。でも、俺という人間がその出来事にどんな風に向き合ったかで、歴史書を紐解いただけでは分からない部分には大きく違いが現れる。相沢祐一の心の持ち方一つで、見えない何かが確実に変わる。たとえば、人の心とか。
 七年前、俺は逃げたけど……今度は逃げない。あゆのことを忘れない。あいつが事故にあったことも昏睡状態に陥ったことも受け入れる。舞のこともそうだ。俺は彼女がどんな風に戦って、どんな風に傷付いたかを一生心に残しておく。もう、目を逸らしたりはしない。
 たとえ起こる出来事は変わらなくても、それに挑む俺の心の強さが違えば、彼女たちが微笑む数を増やすことはできるはずだ。そして今、俺はそのためにこの時代にいるのかもしれない。
 歴史は変えない。過去を変えたりはしない。ただ、それと向き合う姿勢を変える。受け止め方を変える。俺は相沢祐一の生き方と世界を変革させるんだ。
 秋子さんは、そんな姿勢があることを俺に教えてくれた。そして、俺にもそれができると言ってくれた。もしその言葉が本当なら、俺もそうしてみたい。俺を取り巻く環境と人々、その全てに感謝し、力を借りて。今度はそのやり方で、もう一度自分を変えることに取り組んでみたいと思う。

 舞――
 俺はお前に、あえて傷付いてくれと頼んだ。魔と戦わずに済ます道ではなく、魔と戦ってそれを克服する道を押しつけた。だから俺もそうする。過去に起こった都合の悪いことをなかったことにするんじゃなくて、それを受け入れて克服する道を選ぶ。
 そうじゃないと、俺は胸を張ってお前と向き合うことができないような気がするから。辛いかも知れないけど、お前も頑張ってるんだって思えばやっていけると思うから。
 ……そうだ。舞は今も魔と戦ってる。命を懸けて大切なものを守ろうとしてくれている。なのに俺は全部放り出して、また七年前と同じことをしようとしてた。逃げようとしてた。
 あいつと笑顔を取り戻すんだろ。あいつの隣りにいるに相応しい人間になりたいんだろ。だったら、好きな娘だけ戦わせておいて、こんなところで俺、なにやってんの?
「世界は自ら立ち、自らを救うものとして人の子を創った」
 過去に送られる前、あの『声』の語ったその言葉の意味が、今になって分かったような気がした。
 舞に相応しく、舞に恥じない人でいられるように、たとえ何度過去に戻されようとも、何回生まれ変わろうとも、俺はこのやり方でやっていこうと思う。この生き方で、三千世界を巡ってやろうと思う。この世に生を受けるたび、何度でも。そう何度でも。

「名雪が言ってくれたんです」
 俺は昨夜のことを思い起こしながら、小さく言った。
「頑張ってる俺が好きだって。俺が頑張ってるところを見ると、自分も頑張らなきゃって思うって。だから、俺は自分の憧れなんだって」
「そう、あの子がそんなことを」
 彼女は柔らかく目を細め、小さく娘の名を唱えた。そんな瑣末なことに、この母娘たちの間にあるささやかで大きな絆を感じる。
「――ありがとう、秋子さん」
 俺は顔を上げて、目尻に溜まった涙を拭った。
「少しだけ、何か分かったような気がします。だから俺、やってみますから。結局、まだ何の解決にもなってないのかも知れないけど、でも何とかやってみますから」
 きっと酷く歪なものになるのだろうが、俺は笑って見せた。それが今の俺の精一杯の笑顔だった。
「はい。頑張ってくださいね」
 秋子さんは飛びきりの微笑を見せてくれた。





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