「いちごー、いちごー」
 三つ編みをパタパタと揺らして、名雪は手にしたトーストに苺のジャムを塗りたくる。歌は調子ハズレだが、本人はとても幸せそうだ。そして、それを口に含んだ時の顔ときたら……この世の絶頂にいる人間のそれだ。見ているこっちが羨ましくなる。
「名雪ちゃん、美味しい?」
 頬に小さなえくぼを作って、母さんが問いかける。
「うん、とっても美味しいよ。わたし、お母さんのイチゴジャムがあれば幸せー」
 まったく、安い幸福である。名雪を除く食卓の全員が思わず苦笑した。
 でも、ふと思う。それが本当なんじゃないか、と。雪国にしてはとても柔らかくて明るい日差しに恵まれた爽やかな朝、こうして家族や大切な人と食卓を囲み、コーヒーの香りに包まれながら美味しく朝食を食べる。ささやかだけど、何故だか心踊るような日常。そんな安っぽくて当たり前の喜びこそ、俺たちが求め続ける幸福なのではないのか――。
 傷付きながら戦い続け、一〇年を失った舞。人知れず消えていった真琴。妹の病に思い悩む香里。家族のように大切にしていた友人を失い嘆く名も知らぬ少女。不幸や非日常なんて、何の前触れもなしに突然やってくるものだ。そして理由もなく俺たちを苦しめる。そんな現実を自らの経験を持って知り、また周囲の人たちの姿を通して実感してきたからこそ、俺は今そう強く思う。儚くて小さな喜びでいい。それをみんなで、なるべく沢山集めながら生きていけたら、と。

「でも、こうして大勢で朝メシ食うのもこれでラストかと思うと、ちょっと寂しいものがあるな」
 親父は目玉焼きを二枚のトーストに挟みこみながら呟いた。あれが奴の必殺技だ。皿の上のあらゆるものを食パンでホールドし、我流のサンドウィッチを作って一気に食らうのである。まったく、舞より品のない奴だ。あれが自分の肉親かと思うと、情けなくて天を仰ぎたくなる。
「また夏、来てくださいね」
 秋子さんは嫣然と微笑んでそう言ってくれた。
 基本的に俺の家族は、夏と冬の長期休暇を利用してこの街にやってくる。冬は何故だかは知らないが、夏は避暑のためだ。そして三年前の夏、俺は舞と出会った。
「そうだよ、祐一。ちゃんと来てね。今度の冬はあんまり遊べなかったから」
 名雪はちょっと恨めしそうに口を尖らせる。そう言えばあゆと出会ってから、名雪をないがしろにしていたのは事実だ。彼女にも地元の友達がいるが、それでも寂しい思いをさせたに違いない。
「そうだな。次に来たときは、ずーっと名雪のそばに張りついてることにするよ」
「夏に張りつかれると暑いよ。冬だったら温かかったのに」
 でも実際の話、今度の夏はどうなるのだろう。俺はこれから歴史を劇的に変えてしまうことになる。今から夕方の出発の時間まで俺はあゆと一緒に過ごし、そして彼女が木から落下するという事故を未然に防ぐことになるだろう。となれば、俺がショックを受けて記憶を失うことも、この街を避け続けることもなくなるわけで。――まったく予測のつかない未来に突入することなる。

「天気は大丈夫かねえ」
 タイミング良く始まったTVの天気予報を眺めながら、親父は言った。
 気象予報図には、晴れと雪のマークが並んで表示されている。これを信じるならば、午後からは天候が崩れて雪になるらしい。親父が心配しているのは豪雪だろう。あまりに酷いと、俺たちが利用する予定の空のダイヤも乱れるからだ。
「あんまり酷く降らないといいが、ま、どうでも良いか。帰れなくなったらなったで、それはそれだ」
「そんないい加減な」
 父親のそういう態度にはもういい加減慣れているはずだが、それでも思わず呆れてしまう。毎回思わされるのだが、俺の親父は凄い大物か、とてつもない大馬鹿のいずれかであるに違いない。俺は後者だと睨んでいるのだが、秋子さんや母さんは何故だか前者だと信じきっている節がある。みんな、騙されてはいけない。いつか俺の手でその致命的な勘違いを正さねば。
「それでは、ニュースです」
 ブラウン管から気象図と予報士が消えると、変わって若い男性キャスターが現れた。そういえば、七年前ってどんなことが起こって、どんなニュースが流されていたのだろう。当時はあゆのこともあって、そういった外のことに全く関心がいかなかった。
 俺は少し興味が出てきて、キャスターが何を言い出すのか注意深く見守ることにした。ちょっとばかり時事ネタに精通しておくのも悪くはない。
「昨夜七時ごろ、白丘市商店街近くの交差点で、乗用車が歩道に乗り上げ歩行者と接触するという事故がありました。警察の調べによりますと――」
 商店街近くの交差点?
「お、これって結構この近くの話じゃないか」
「そうですね。私も良く買い物に行くところです」
 画面に映し出されている情景は、親父と秋子さんの言う通り、水瀬家からさほど離れていない例の商店街の交差点だった。フロントが大破した白い乗用車と大きく湾曲したガードレール、アスファルトに散乱したガラス片などか事故の凄惨さを物語っている。
「警察の調べによりますと、被害にあったのは月宮あゆさん一〇歳で、東北技術科学大学付属病院で手当てを受けていますが、頭を強く打ち現在意識不明の重体です。車を運転していたのは同市で飲食店を営む沢田由記夫容疑者五二歳で、沢田容疑者の供述によりますと、スピードの出しす過ぎで凍結していた路面に――」
 な、に……? 今、なんて……




 偶然だよな? 月宮あゆって名はかなり珍しいけど、でも同性同名の奴なんだろ。そういうオチだよな。だって、あゆのわけがない。なんかの間違いだ。
 だけど、理性はこう叫んでいる。珍しい苗字と名前。しかも、昨夜の七時頃って言えば俺たちが人形を埋めて商店街で別れ時間だ。そしてあゆは一〇歳だった。情報と条件は全て一つの結論を指し示している。
 でも、どういうことだ。一体なにが起こったわけだ? あゆが事故――事故にあって、意識不明の重体? 馬鹿な、あり得ない。絶対あり得ない。俺は歴史を知っている。あゆは今朝事故にあったりなんかしない筈だ。だってそうだろう。七年前だって、俺と約束したあの学校に来て、それから……
「……ッ!」
 そこで俺は気が付いた。全身に鳥肌が立つ。ゾワリと凄まじい寒気が背中に走った。
 歴史が、変わった――?
 七年前と違って、俺が待ち合わせの場所を森の奥の学校から商店街のベンチに変えたから。あゆが木から落ちて昏睡状態に陥るという歴史を変えようとしたから、だから?
「そんな、ウソだっ」
 頭を掻き毟って、近くのソファに崩れ落ちるように腰を落とす。両親や水瀬親子は、そんな俺の奇行に目を見張って近付いてきた。
「どうしたの、祐一。顔、真っ青だよ?」
 名雪が心配そうに俺の顔を覗き込んでくるが、それに取り合う余裕すらない。
「おい、祐一。なんだ、今のニュースがどうかしたのか?」
「祐一、大丈夫なの?」
 俺を気遣ってくれるそれらの声は、耳に入っては来るが頭は素通りだった。
 だって、もし俺の考え通りなら、あゆを事故にあわせたのは俺だということになる。下手に歴史に干渉しようとしたから、世界かなにかがそれを修正するために先手を打ってきたことになるんだ。
 どういうことだ? じゃあ結局、過去は弄くれないってことなのか。歴史を変えようとすると、痛いしっぺ返しを食うってことかよ。それがこの結果ってことかよ!

「くそっ! なんでだよ、なんでこうなんだよっ」
 俺はソファに置かれたクッションを掴み上げ、それを何度も床に叩きつけた。耐久限界を超えた乱雑な扱いにカバーが避け、その隙間から羽毛が舞う。
「おい、落ち着け。一体なにがあったんだ、きちんと説明――」
 俺を取り押さえようという親父の手を払いのけ、俺はリビングを飛び出した。そのままコートを掴んで水瀬家を出る。後ろで俺の名を呼ぶ人たちの声が聞こえたが、自分を止めることはできなかった。
 いつも、いつだってそうだ。辛い思いをして、それでもどうにかやってきて。やっと何かが掴めそうだと思った瞬間、それは指の隙間から零れ落ちていく。なぜだ? なんで、この世にはこんなことばかりしかない?
 頭の中で叫び続けても、誰も答えてはくれない。答えなんて、そもそもありはしない。じゃあ、どうすれば良いんだ。俺はどうしたら良い? ……もう何も分からない。
 力だと思ってたんだ。未来を知ってるってことは、この上ない武器になると思っていた。だけど結局、それは幻想だった。武器にも力にもならず、何の役にも立ちはしなかった。未来を知る者が歴史に干渉しようとすれば、こんな風に世界が修正を加えてくる。だとすれば、もう俺にできることなんて一つもないじゃないか。なんもねーよ。
 相沢祐一がこれまでやってきたことは、中途半端なものだったかもしれない。弱い人間の醜い悪あがきで、傍目には相当に格好悪くみえたことだろう。そうかもしれないけど、俺は俺なりにやってきたつもりだ。それが今の精一杯だったんだ。――なのに、結局なにも変えられなかった。自分も、他人も。誰も救えなかった。これ以上、一体何をしろっていうんだ。
 歴史、世界、神、なんでもいい。教えてほしい。ここに送りこんだのはあんたたちなんだろう。なら、どうして何も言ってくれない? 俺に一体、なにを望んでるんだ。なんで背負いきれないものばかり、俺に投げかける? あんまりだろう、これは。
 もう、俺には武器も希望も、何の力も残っちゃいない。




 雪が舞い降りてくる。
 星さえ見えない闇の深淵から突如湧き出すように白雪は現れて、地に降り注ぐ。それが顔に付着して解けていく不快感も、肌を指す真冬の冷気も、今ではもうどうでも良かった。自分の惨めさを演出するには、むしろ相応しくさえ思えるくらいだ。
 思えば今まで抱え込んできた厄介ごとには、全てこの雪が絡んでいたように思える。罪の欠片もなさそうな純白の存在であるくせして、命運とやらが人を不幸のどん底に落としこむ時には、いつもその場に居合わせてくれるもんだ。流れ出す鮮血の紅を際立たせるのも、この白雪だった。想いと一緒に無残に打ち砕かれたウサギも雪でできていた。忌まわしき全てが雪とともにある。――でも、もうどうでも良い。そんなこと。
 よくよく考えてみれば、何に惑わされていたか俺は壮絶な勘違いをしていたらしい。
 無意識に「助ける」だとか「救いの手を差し伸べる」だとかいう言葉を使ってはいたが、自分の面倒すら見きれない中途半端な俺に、そんな大層なことができる筈もない。ましてそれを望まれたわけでも、頼まれたわけでもない。――神様じゃないんだ、俺にそんな力なんざ最初からあるわけ無いじゃないか。
 なのに、ちょっと未来を知っているという特典と優越感を得たからって、まるで世界を変えられるような気になっていた。お笑いだよな、冷静に思い返してみれば。自分や自分の未来すら変えることの出来ない人間が、世界を変える? 誰かを助ける? もし神がいるならば、やつには「なんの冗談だ?」なんて思われたことだろう。

 あゆと待ち合わせをしていた駅近くのベンチに腰掛け、俺は俯いていた。水瀬家を飛び出してから、どれくらいの時が経ったのか、もう分からない。当然の話だが、あゆはいくら待ってもその場所に姿を現すことはなかった。どれだけこの場所で待っていても、もう彼女がここにその姿を見せることはあるまい。
 辺りはもう夜の衣を装っていて、薄暗くなっていた。日暮れの時からチラチラと舞い出した雪は、その勢いを徐々に強めてきている。そんな中、何時間も冷たいベンチに座り続ける俺の姿は随分と奇妙に見えただろう。だが道行く人たちは、どうやら自分の世話だけで精一杯らしい。俺に構おうとする奴は誰一人としていなかった。皆、疲れきった表情で駅の出入り口から吐き出されてくると、何かに急き立てられるかのように、俯いたまま早足で歩み去っていく。俺みたいな馬鹿と違って、随分とお利口さんな連中だ。
 あゆが担ぎ込まれた病院に心当たりはあったが、そこに向かうつもりはなかった。集中治療室の無機質なベッドの上で、様々なパイプやら医療機器を取り付けられた彼女の姿なんて見たくはなかった。もしそれを見てしまえば、俺の中で何かが崩壊することは目に見えている。それは相沢祐一にとって、疑う余地のない致命傷となるだろう。
 正直、もう全てが嫌だった。何も見たくないし、聞きたくない。これ以上なにかを知るのが怖かったし、こんな世界で生きていくのも御免だった。全部終わりにしたい。前にいた、七年後の俺の世界に帰りたい。

 ふと、膝の上で握り締められた俺の拳に、水滴が落ちてきた。雪がみぞれか雨に変わったのかとも一瞬考えたが、それは違った。冷え切って感覚の無くなった指先で頬に触れてみると、案の定そこは塗れていた。俺は自分でも知らない間に涙を流していたらしい。
 突然、それを拭う小さな手が現れた。赤い毛糸の手袋で覆われた、とても細くて華奢な手だ。
 顔を上げると、そこには見知った少女の姿があった。
「家に帰ってなかったから、ずっと探してたんだよ」
 少女は――名雪は柔らかく微笑んで言った。
「おじさんも、おばさんも、お母さんも心配して探してるよ」
 俺は唐突に思い出す。あの時もそうだった。記憶にある七年前も名雪がこうして現れて、そして同じ言葉をかけてくれた。結局、歴史はなにも変わっちゃいないということだ。
「もう暗くなっちゃったね。いけないんだよ、小学生なのに夜に外に遊びに行ったりしたら」
 彼女は何も答えない俺にもめげずに、色々な言葉をかけてくる。乗る予定だった飛行機、もう行っちゃったよ。帰られなくなっちゃったね。でも、もう少し一緒にいられるね。雪、積もってるよ。寒くない?
 だけど、それらの声が俺に感銘を与えることは無かった。
「あのね、わたし祐一に見せたい物があったから。だから、ずっと探してたんだよ」
 そう言って、少女は掌に乗せられた小さなそれを差し出す。
「ほらこれって、雪うさぎって言うんだよ。わたしが作ったんだよ。わたし、ヘタだから、時間かかっちゃったけど……一生懸命作ったんだよ」
 期待する返答や反応が返らずとも、名雪はその笑顔を変えようとしなかった。

「あのね、祐一。これ受け取ってもらえるかな? 明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど。でも、春になって、夏が来て、秋が訪れてこの街に雪が降り始めたとき――また、会いに来てくれるよね?」
 だけど、この街には辛い思い出が多過ぎる。俺は、雪を見る度にそれを思い出すだろう。七年前の小さな俺が、街と共に全ての記憶を消してしまった気持ち、今なら良く分かる。痛いほど良く分かる。だから、もう何も言わないで欲しい。このまま静かに消させて欲しい。
 それでも名雪は続ける。母親に良く似た微笑を湛えて。
「こんな物しか用意できなかったけど、わたしから、祐一へのプレゼントだよ。受け取ってもらえるかな」
 物言わぬ白い雪うさぎが小さく掲げられた。
「わたしずっと言えなかったけど……祐一のこと、ずっと好きだったよ」
 その瞬間、彼女の差し出した雪うさぎは、崩れ落ちていた。
「祐一?」
 戸惑うように、少女が俺の名前を呼ぶ。さっきまであった雪うさぎは、地面に落ちて、すでに見る影もなかった。目が取れて、無残に耳が潰れたうさぎ。
 差し出した少女の雪うさぎを地面に叩きつけたのは、紛れもなく俺の小さな手だった。
「祐一、雪嫌いなんだよね」
 涙を堪えるように、名雪が雪うさぎだった雪のかけらを拾い集める。
 その姿を、俺は呆然と眺めていた。七年前には感じなかった明らかな衝撃を伴いながら。

 なにを――
 俺は一体、なにをやっているんだろう。
 無意識のうちに七年前の軌跡を辿っている。全く違わない行動をとっている。それが何をもたらすか、何にどう影響するか知っているくせに。それでも繰り返している。
 結局、俺はなにも変わってなかったということか。今ここにいるのは一七歳の相沢祐一だというのに、そいつは一〇歳の子供の頃に経験した出来事に、当時と完全に同じ反応を示した。成長の欠片も感じられない行動をとった。
 じゃあ、俺は一体いままで何をしてきたんだ。この街に戻るまでの七年、戻ってからの日々。その中から何も得なかったというのだろうか。結局、相沢祐一は呆れるほど何も変わっちゃいない。口先だけで、かつての経験や後悔から何も学ばずにここまできてしまっている。
 それを如実に窺えるこの現実は、俺にとって大きなショックだった。
「ごめんね。わたしが悪いんだよね」
 なゆきは目尻に溜まった涙が流れてしまわないよう必死に堪えながら、叩き落とされた雪うさぎを掻き集めている。胸が軋んだ。思わず彼女に伸ばしかけた手が、宙をさまよって震える。
「ごめんね……」
 違う。それは、違う。名雪は悪くなんかない。
 悪いのは――全部、俺自身なんだ。
「ごめんね、祐一」
 ぽたりと透明な涙が白いうさぎの上に零れ落ちる。温かなそれは、残酷にもうさぎの身体を穿つように解かしていった。

「違う!」
 気付くと俺は弾かれたように中途半端に腰を上げ、名雪の方に歩みかけた格好のまま叫び声を上げていた。七年前にはなかった感情に突き動かされて。
「ゆう……いち?」
 名雪は驚いたように目を小さく見開いて、そんな俺を見上げていた。彼女をそこに追いやったのが自分であることを知り、俺はさらに胸を締め付けられる。
「違うんだ、名雪」
 よろよろと足を進め、名雪の傍らに膝から崩れ落ちる。
「お前はなにも悪くない。悪いのは、全部俺なんだ。いつも中途半端で、弱くて、臆病で。色んな人に大事なことを教わったはずなのに、俺は変われなかったから――俺がそんなだったから」
 心の中に鬱積してあったものを吐露した瞬間、視界が歪み始めた。降り積もった雪を硬く握り締め、俺は震えながら泣いた。
「祐一、どうして祐一が泣いてるの」
 名雪は狼狽していた。どう反応していいのか、オロオロと困惑している。
「なんでこんななんだろうな。どうして、こんななんだろう……!」
 分からないけど、悔しかった。何かがとても悔しくて、涙はとめどなく溢れ出した。ムチャクチャに雪の大地を殴りつけながら、俺は悲鳴を上げるように叫び続けた。
「もっと強くなりたい。もっと優しくなりたい。過去をやりなおしたくなる生き方より、将来どんな風に笑っていられるかを考えられるような勇気が欲しい。変わりたい。自分を変えたい。――ずっと思ってたのに。そうなろうって思ってたのに。なのに、全然強くも優しくもなれなくて。何年たっても変われないままの自分で……そんなだから、考えるのはいつも過去から逃げることばっかで!」
 俺は過ちだと学んだことをまたこうして繰り返して、大切にしたい物を自分で傷付けている。似たような悩みをいつも抱えて、いつも同じように逃げ出して。そんな自分に閉じ込められて抜け出せずにいる。
 変わらないのは世界じゃない。俺なんだ。世界の姿はいつも変わらない。世界が歪んで見えたり、壊れて見えたりするなら、それは結局、世界を認識する俺が歪んで壊れてるってことだ。自分を変えて、外に向かう視線が変われば――全ては違うように写るだろう。世界は違って見えることだろう。

「祐一の言ってること、難しくてわたしにはよく分からないよ」
 名雪は崩れ落ちた俺の背を優しく撫でてくれた。彼女も辛い筈なのに。傷つけられた筈なのに。
「でも、祐一ががんばってることはわかるよ。だから、わたしは祐一が好きなの。わたしも祐一に負けないようにがんばらないとって思うよ」
「名雪……」
 彼女は小学生の自分の知る限りの言葉で、一生懸命に自分の気持ちを伝えようとしてくれている。あの時は気付けなかったけど、今はそれが分かった。
「わたしは祐一がどんな人になりたかったのか知らないけど、それにはもうなれないの? もうがんばっても、無理なのかな。だから、祐一は泣いてるの?」
 それは――
 名雪の問いは、頭に浮かんだものをそのまま言葉にした素朴なものだったのだろう。だけど、俺は返答に窮した。それは素朴で打算のないものだからこそ、深く鋭いものだった。だから改めて考えさせられる。俺はもう頑張れないのだろうか、と。もう目指していた場所に到達することはできないのだろうか。本当に全ては終わってしまったのだろうか。
「わたしはいつも何かたくらんでる祐一が好きだよ。ときどきイタズラされて困るけど、でもそっちの祐一のほうが楽しそうだし」
 名雪は言葉通り、少し困ったような微笑を浮かべた。
「祐一はいっつも変なことに一生懸命になるけど、わたしは何かやりそうで何をやるか分からない、そんな祐一が好き。きらきらして見えるよ。だから、祐一はわたしのあこがれなの」
 名雪――彼女が俺をそんな風に見てくれていただなんて、知らなかった。名雪のなかの相沢祐一がそんな人間だったなんて、ずっと気付かなかった。
「えっとね、だから……よくわからないんだけど、祐一にはがんばってほしいんだよ」
 そう言って、名雪は少し照れたように笑った。




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