舞……
川澄舞を想っている。
深夜、俺は眠ることも出来ずに、冷たい布団の中で天井を見上げながら彼女のことを考えていた。今ごろ舞はどうしているだろう。もう目を覚ましただろうか。暖められた部屋に寝かされていたことを不審に思いながらも、無事に帰宅しただろうか。あの手紙を見て、一体どんなことを考えただろうか。
本当は彼女が意識を回復させ、小屋を出て帰路に就くまでずっと近くで見守っていたかった。だが、深夜に寝床を抜け出していることが両親に発覚すると大事に至る。俺はもう、ある程度の夜遊びが許される十七歳の高校生ではない。小学生なのだ。水瀬家に戻るしかなかった。
もう似たようなミスは犯せない。俺は普通の小学生として振るまい、できるかぎり周囲に不審の念を抱かせないような言動を心掛ける必要がある。まさか俺が未来から逆行していたなどとは誰も考えないだろうが、不用意に注目を集めてしまうと今後の活動が著しく制限される恐れがあった。それだけは何としても避けたい。
――だが、そんなことは些細な問題だ。いま考えなくてはならないのは、俺の選択が本当に正しかったかどうかだ。
もしその気があれば、俺は舞の前に姿を見せて全てに決着をつけることができた。それは認めざるを得ない。舞が目覚めるのを待ち、魔の正体を明かし、彼女の呪縛を解き放ってやれるだけのチャンスと力があった。それを活かしていれば、今ごろ舞は自由になっていただろう。これから七年間も苦しみ続けることはなくなる。舞にとって、それがベストの道であることは考えなくても明らかだ。だけど、俺はそうしなかった。助けることができたのに、助けなかった。ある意味、見殺しにした。
だからこそ、問わずにはいられない。俺の選んだ道は、本当にこれで良かったのかと。
別に歴史や過去を改変することに罪の意識を覚えたわけじゃない。それが怖かったわけでもない。俺は聖者じゃないんだ。自分の利益のために、道徳観念や世間にまかり通っている倫理観を破壊することにそこまで強い抵抗を感じたりはしない。
じゃあ、どうして舞に救いの手を差し伸べなかったのか。それを言葉にするのは難しい。俺自身、きちんと理解しているわけじゃない。ただ一つ言えるのは、俺が過去を変えたくないと思ったのは、つまりそれが逃避じゃないかという考えがどこかにあったからだ。
七年後の俺は、名雪や舞やあゆと再会して一つ学んだ。そして、思うようになった。本当に大切なのは、辛い現実を回避することじゃない。傷つかないことでも、悲劇を起こさないことでもない。そうではなくて、むしろ辛い現実をどう受けとめていくか――傷付いたときどんな風にそれと向き合うか、悲劇に直面した時逃げずにどう抗えるかだ。
俺たちは生きてるんだ。傷付くし、悩むし、哀しむし、後悔する。それは辛いけど当たり前のことだ。だから認めてしまうしかない。その上で、それらの問題とどう付き合っていくかが大事なんだ。
一撃もパンチを食らわず不敗を貫くだけが強さじゃないだろう。負けたことがあるってことを財産にして、それでも生きていける強さだってある。俺は、彼女たちとの再会からそういうことを覚えたような気がするわけで。
辛いことが起こるって分かってるから、その元を断って悲劇を回避する。人生をやり直すっていう、誰にも許されなかった反則ワザ使って幸せになる。それが強さか? それで格好良いつもりか? それだけが全てじゃないはずだ。今、俺はそう思う。
舞の一〇年間は戻らない。俺が約束を破ったという過去は変わらない。でも、それで良いじゃないか。心の中に住まう魔の存在を回避するよりは、それと戦って受けとめたという経験が得られる。別に負けてもいい。同じ敵と戦い続けたという事実が、俺と舞を強く結びつけるんだ。それは何より強固な絆になる。
――逃げたくない。舞が本当に好きで大事だからこそ、俺は魔を知らない彼女ではなく、魔を知って傷付いた彼女に出逢いたい。そして二人で克服して、笑えるようになりたい。七年後の俺たちがかつてそうしたように。
舞。彼女は、俺のこの決定を許してくれるだろうか。
もしかしたら、恨まれるかもしれない。そうすることができたなら、どうして早く助けてくれなかったのだと責められるかもしれない。当然だ。これは俺のワガママなんだから。
正直、今も迷いはある。何が正しいのか、俺には分からない。もしかしたら後悔することになるかもしれない。でも、選んだんだ。考えて、悩んで、それで決めた。だから、ゴメン舞。やっぱり、俺は今この考え方を信じていくしかない。叫び出したいくらいに辛かったし、お前もそうだろうけど、戦わずに済ませるより戦って掴み取りたい。その方が、より強く川澄舞のことを想えるような気がするから。
それから舞は一度も麦畑に姿を現さなかった。俺は街を離れるまでの三日間毎日その場に向かったが、これは完全な徒労に終わったことになる。もっとも、予測はしていた。魔が毎日現れるものではないということを、舞本人の口から聞いていたからだ。
それはそれで全く構わない。舞が戦わずに済むのなら、それに越したことはないのだ。だけど彼女の姿が見られないのは、正直残念だった。歴史が俺の知識通りに進んでいるのなら、相沢祐一は明日の便で地元に戻ることになる。そうなると、次に出会えるのは七年後だ。その再会の日まで、俺はその相貌を脳裏に描くことでしか、舞と出会えなくなる。寂しくないと言えば、俺は嘘つきになるだろう。
――舞とは会えなかったが、あゆとは約束通り一緒に過ごした。彼女はいつも約束の場所にいた。茜色に浮かび上がる木のベンチにちょこんと座って、俺のことをずっと待っていた。そして二人は、深い森の奥に自分たちだけの学校を開校し、そこで多くの時を共有した。一緒にタイヤキを頬張った。ひとりの時は寂しげに俯いているあゆだったが、俺と一緒にいるときは楽しそうに微笑んでくれていた。
唯一の例外は、俺が街を離れて自宅に戻ることが話題になった時だった。その話を持ち出す時、あゆは決まって迷子のように不安でたまらないといった表情をした。
「祐一君、もうすぐ帰っちゃうんだね」
「前から言ってたことだろ?」
「そうだけど――」
子供にとって、友達との別れというのは例外なく理不尽なものだ。大人なら理解できる理屈も理由も、子供にはその一切が通用しない。彼らは大好きな友達ともう遊べなくなるという結果だけを重視する。あゆや舞もその例外ではなかった。
「その代わり、あゆには俺のとっておきの物をやっただろ」
「願いの叶うお人形?」
「そうだ」
「このお人形にお願いしたら、祐一君、帰らない?」
あゆはゴソゴソとポケットの中を漁り、小さな天使の人形を取り出すと、悲しげにそれを見詰めた。そして何かを懇願するような目で俺を窺う。
「すまん。叶えられるのは俺にできることだけだ」
「そうだよね」少女は肩を落とす。
「まだ今日と明日があるさ。ニ日もあれば、何だってできるぞ。タイヤキだって食べられるし、木にだって登れる。今日は、あゆの行きたいところに連れていってやるから」
「あの場所がいい」
「また、街を見るのか?」
「うん」力なく頷くあゆが、立ち上がる。
「あゆ」彼女に顔を見られないように後ろを向く。「俺だって、帰りたくないんだ」
「祐一君……」
「ほら、行くぞっ。ゆっくりしてると日が暮れる」
「う、うん」
ほとんど溶けることのない雪に囲まれた小さな道を、俺を先頭に走り抜ける。小径を塞ぐ枝を払い落としながら、すぐ後ろについてくる少女のために道を造る。やがて、その場所が見えてきた。
編み目のように張った枝。その上に降り積もった雪。そして、オレンジの陽光。その場所は、いつもとまったく同じ佇まいを見せていた。
「やっぱり、綺麗な場所だね」
「もう少し簡単に辿り着ける場所にあったらいいんだけどな」
「それだったら、秘密の場所にならないよ」
「それもそうか」
開けた場所の中央に立つ大樹。その先端は、赤く霞んでよく分からない。ずっと見上げていると、首が痛くなりそうだった。
「しかし、よくこんなの登れるな」
「木登り得意だもん」あゆは少しだけ胸を張った。「それに、途中までだよ」
「俺は、途中までだって無理だ。高いところは苦手だよ」
「――というわけだから、後ろ向いててね」
あゆは少しだけ恥ずかしそうに言った。木に登っている間、スカートの中を見られることを恐れているのだ。こいつも、こういうところは少女らしい一面を覗かせる。舞だったらどうだろう、と俺は一瞬だけ考えた。
「最後なんだから、見てても良いとかいうサービスはないのか?」
「ないよ」あゆは言下に否定する。「それに、まだ最後じゃないもん。明日だってあるもん」
「そっか。……そうだったな」
俺は、後ろを向いてゆっくりと目を閉じた。木々のざわめきが、風の歌が、雪の降り積もる音がすぐ近くに聞こえる。
この瞬間が好きだった。目を閉じてもこれだけのものを感じ取ることのできる、今の一瞬が好きだった。
「もういいよ」
あゆの声が頭上から降ってきた。俺はゆっくりと振り返り、眩しい逆光の中空を見上げる。あゆの姿は小さく霞んでいた。
「いい風」彼女は太い枝に両手をついて、通り過ぎる風に体を委ねている。「夕焼けもいいけど、違う風景も見たかったよ」
どこか憂いを含んだ声で、そう呟く。俺はそれを黙って聞いているしかなかった。
「ねえ祐一君。あと、ふたつ残ってたよね。お願い」
あゆは再び、ポケットに入れていた天使の人形を取り出した。それを手にいれた時から、彼女は肌身はなさずそれを常に携帯している。
「祐一君にできることだったら、どんな願いでも叶えてくれるんだよね?」
「約束しただろ」
「本当にどんなお願いでもいいの?」
「ああ、もちろんだ」
「だったらボクのお願いは――」
ふわり、人形を抱きしめてあゆは囁く。
「今日だけ、一緒の学校に通いたい。この場所をふたりだけの学校にして、祐一君と一緒にお勉強して、祐一君と一緒に給食を食べて、祐一君と一緒に掃除をして、そして祐一君と一緒に帰りたい」
一気に言葉を続けて、そして呼吸を整える。
「こんなお願い、ダメ……かな?」
「構わないさ。俺にできることだったら何でも叶えるって」
そうだ。たとえ書面に残るものではなくても、約束の重さは変わらない。守られなくてはならない。だからあの時と同じように俺は宣言した。
「今から、ここは学校だ。厳しい校則も、決められた制服もない、自由な学校だ」
「宿題は?」
「もちろん、なし。テストもなし。休みたい時に休んでいいし、遊びたい時に遊んでいい」
「いい学校だね」あゆは足を交互に揺らしながら、嬉しそうに言う。
「俺たちの学校だからな。それくらい自由でもいいはずだろ?」
「そうだよね、ボクたちの学校だもんね。ボクたち、ふたりっきりの」
そう言って笑ったあゆの表情は、まだ少し寂しそうだった。
「だからまた、この学校で会おうな」
「えっ?」
「いつか約束しただろ。この街で再会しようって。だから、今度俺がここに帰ってきたときは――」
「待ち合わせ場所は、学校だね」
「そういうことだ」
「うんっ。約束、だよ」
二つ目の願いが叶えられる。その瞬間から、この場所は俺たちふたりだけの学校になった。
他愛ない学校ごっこ。本当に他愛ない子供の遊び。ただ、それだけだった。それだけのはずだった。だけど現実は――
俺は選択を迫られていることを悟った。
明日、月宮あゆは大樹から落下して重傷を負う。その事件が切っ掛けとなって、彼女は昏睡状態に陥り、俺は自分の中から過去の記憶の一切を抹消することになるだろう。そして少なくとも、あゆは七年間目覚めることはない。
この過去の世界に俺を送りこんだ奴が何者なのかは知らないが、そいつは俺に真実を見せた。それによると、七年後に俺が再会することになるあゆは、実体を持たない意識だけの存在だったらしい。本当のあゆは病院のベッドに横たわったまま深い眠りに就いていて、肉体から抜け出した意識の一部があのような形で町をさ迷っていたというのだ。
俄かには信じがたい話だが、確かにそれだと色々な疑問に説明がつく。学校にも行かず、昼間から何故あゆは私服でウロウロしていたのか。探し物とは何だったのか。――多分あいつは、今から俺たちが封じることになる天使の人形を捜し歩いていたのだろう。三つ目の願いを唱えるために。
「どうする……」
どうすればいい?
チャンスはある。俺には未来を知っているという強力な武器があるんだ。これを使えば、歴史を変えることすら容易い。あゆに今のうちから言い聞かせておき、木に登ることを禁じておけば彼女は助かる。俺はあゆを救うことができる。
だけどここでぶつかるのは、やはり舞の時と同じ問題だ。俺はここで過去を改変してしまって良いのか。それが本当に俺の打てるベストな手なのか。歴史を変えて悲劇を回避するというのは、単なる逃げじゃないのか。
分からない。何が正しい? どうするのが俺のため、あゆのためになる。どの道を選べばいい。
舞のときは、あえて歴史に干渉しない道を選んだ。それで傷つくことも、悲しむこともあるけれど、俺たちは二人でそれを超えていけると思ったから。その選択が正しかったのかは分からないけど、そうすべきだと信じられたから。
でも、今回はどうだ。重傷を負って昏睡状態に陥ったあゆに対して、俺は何ができる? 舞の場合のように手を取り合って戦うことはできない。俺は医者じゃないし、傷をたちどころに癒せる神でもない。あゆの身に降りかかった災難は、人間の努力や絆ではどうしようもない種のものだ。
ならば許されるのではないか。舞のケースとは違って、こういう問題でなら歴史に干渉することも許されるのではあるまいか。俺は過去を変えてしまっても良いのではないだろうか。
――おいおい、舞の時に得意満面で語ってた高説はどこにいったんだ?
冷静で論理的なもう一人の自分が言う。これはまた素敵な言い訳を思いついたものだな、と。
それは欺瞞じゃないのか。俺は過去を自分に都合良く変えても良さそうな理由を必死に考え出し、それを言い訳にして楽なほうに逃げようとしてるんじゃないのか?
違う。これは俺の力だ。未来を知っているというのは武器になるなんだ。それを使って何が悪い。
――それで誤魔化してるつもりか? 弱い奴ほど強力な武器を手にした時、まるで自分そのものが強くなったと勘違いするもんだ。強いのは自分ではなく、手にした武器の力だというのに。それに、過去をやり直すチャンスが相沢祐一の力であり武器だというのなら、なぜ舞のときには使わなかった? 使用できる権利を胸張って主張できるなら、あの場合にも躊躇なく行使できたはずだ。
「……一君」
そうだ、俺は認めなくちゃならない。自分の心に嘘はつけない。結論は出ていた。それが正義なのか良心的なものなのかは知らないけど、相沢祐一としての答えはもう決まっている。
俺は過去を変えてしまうことを恥ずべきことだと思っているんだ。向き合うべき現実からの逃避の一種だという考え方を持っている。もちろん、他の人は違うかもしれない。異論はあるだろう。だがこれは俺の人生であり、その俺が決めたことなんだ。だからなにかを言い訳にして、その自分の答えを曲げてしまうのは逃避になる。でも――
「うぐぅ、祐一君」
「えっ?」
気付くと、すぐ隣に不安げな表情のあゆが立っていた。どうやら考え事をしている間に木から降りてきたらしい。全然気が付かなかった。
「いつのまにか真っ暗だよ」怯えたような表情で、彼女は体を寄せてくる。「ボク、怖いよ」
「あ、ああ。そうだな。暗くなったし、もう帰ろう」
知らない間に随分と時間が流れていたらしい。太陽は既に西の果てに没し、森の木々は夜空に向かって突き出された剣山のように鋭利で不気味なシルエットに変わってしまっていた。ついさっきまで茜色の幻想的な光の中にあったはずなのに、本当にあっという間に夜の風景に変わってしまったものだ。闇に覆われた今の森は、まるで帰り道を閉ざしているようにも見える。あゆが怖がるのも無理はなかった。
「よし、いくぞ」
あゆの手を握って、闇の中を歩き始める。視界は殆ど利かず、そのせいで正確な道は分からないけど、来た方向に真っ直ぐ歩けばいつか森を抜けるはずだ。それに、俺には七年前の記憶がある。この後、自分たちがどうなるかは良く知っていた。
その記憶通り、俺たちは間もなく舗装された道路に出ることができた。両端を木々に囲まれた、遊歩道のような場所だ。
「祐一君。ここ、どこ?」
涙を堪えて健気についてきたあゆが、辺りを不安そうな顔で見まわしながら言う。
「とりあえず、森の外だな」
「ボク、こんな場所知らないよ」
「心配するな、俺だって知らない」
途端にあゆの涙を抑えている堤防が決壊しそうになったので、慌てて付け加える。
「大丈夫だって。森から出さえすればこっちのものだ」
そう――思い出した。このすぐ後、あゆは歩道の脇に転がっているガラスの瓶を見つけるんだ。そしてタイムカプセルの話題を持ち出し、自分の天使の人形を封印することを思いつく。まだ唱えられていない第三の願い事と共に。
「……あ」あゆが声を上げて、立ち止まった。「今、何か光ったよ?」
その視線は茂みの方を向いていた。やはり、記憶通りだ。本物のデジャ・ヴュ。一度経験したことをもう一度繰り返すというのは、なんとも不可思議で気分の悪いものだ。
「ガラスの瓶みたいだよ。きれい」
あゆが拾い上げたそれは、口の大きな少し変わった形状の瓶だった。そう、前回――本物の一〇歳児だった俺は、それを見てお菓子の瓶を連想したものだ。
そして案の定、あゆはそれをタイムカプセルのように埋めようと言い出した。残された最後の願いは、未来の自分のために。もしくは、困っている他の誰かのために……。そして七年後、その願いは川澄舞の命を救うために使われ、奇跡はもたらされた。
粗筋だけ聞いていると、真琴が読んでいた陳腐なファンタジー漫画にしか思えないストーリィだが、これが現実だ。それを証明するように、今俺はここにいる。
「しかし、目印もないのに見つかるかな?」
瓶の上に土を被せながら、あゆを窺う。彼女はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。きっと、見つかるよ。この人形を必要とする人がいれば、必ず」
結局、見知った商店街に出るには、もうしばらく時間がかかった。あたりは真っ暗だったが、思っていたより時間が遅くなかったことが唯一の救いだった。
「ボク、ここでいいよ」
いつもの場所に着くと、あゆは少しだけ寂しげな微笑を浮かべて言った。
「そうか。じゃあ、ここでお別れだ」
「明日、また会えるよね?」
恐る恐ると言った感じで、あゆは俺の顔色を窺う。否定されるのを怖がっているのだろう。
「そうだな、午前中だったら大丈夫だ」
「それなら、明日の朝は学校で待ってるよ。転校していく祐一君のためにお別れ会だよ」
――七年前、俺はそれにこう返した。“そうだな。だったら、明日の朝は俺たちの学校で会おうな”と。そして、俺は無邪気に信じていた。別れのその瞬間が訪れるまで、いつもの他愛ない、そしてかけがえのない時間が流れるのだろうと。
翌朝、俺はその日のために小遣いを貯めて買ったあゆへのプレゼントを片手に、約束の場所に向かったものだ。赤いリボンの包み。あゆだったらきっと似合うと、商店街で何時間もかけて選んだものだった。
あゆは、喜んでくれるだろうか? いつもの笑顔を覗かせてくれるだろうか? そんな不安と期待の中で、最後まであゆの笑顔を見ていられると、その時の俺はずっと信じていた。すぐ目の前に、深い悲しみが待っているなんて考えもしなかった。鮮血に染まった、あの雪を見るまでは。
「あー。ちょっと待て、あゆ。明日もいつもどおり商店街で待ち合わせしよう」
だから、俺は思わずそう言っていた。また明日、あの光景をもう一度見せつけられるなんて……ちょっと、そんなの耐えられないから。
「えっ」あゆは小さく目を見開く。「どうして。学校じゃだめなの?」
「お前言ってたろ? 俺と一緒に学校に行って、一緒に勉強して、一緒に給食食べたいって。学校で待ち合わせたら、一緒に登校なんてできないじゃないか」
「あ、そうだね」
「それに給食のタイヤキも買っていかなきゃならないだろ」
「うんっ。じゃ、明日の朝ここで会おうね。約束だよ」
差し出された小さな指に、俺は自分の小指を絡めた。彼女の手は温かくて、柔らかくて。指が離れたあともずっと、思い出の中に刻み込まれていた。
抗えなかった……。結局、その欲求を退けられなかった。
本来なら翌日、あゆと俺は森の学校で待ち合わせをするはずだった。そして俺がその場所に辿り付いた時、既にあゆはあの大樹の上にいて――そして突風に煽られて、落下するはずだった。でもその歴史は変えられるだろう。俺たちはこの商店街で待ち合わせをし、一緒に学校に行くことになる。あゆは木に登ろうとするだろうが、俺に止められてそれを断念することだろう。結果、あの悲劇は回避されることになるに違いない。
――何故だろう。どうして俺はいつも中途半端で、意志や自分の生き方を強く貫くことができないのだろう。先のことなど何も考えず、感情ばかりを優先させていつも似たような後悔ばかり繰り返している。駄目だって分かってるのに、自分を律することができない。格好つけた言葉じゃない、本当の強さなんて示せない。
変えたい。変わりたい。でも変わりきれない自分。なあ、どうしてだ? 今度こそ変われると思ったのに。そのチャンスを俺は与えられていたというのに。結局なにも変われずにいる。
俺は結局、ちっとも強くなんてなれなかった――。