ねぇ、助けてほしいの
魔物がくるの いつもの遊び場所に
だから守らなくちゃ
ふたりで守ろうよ
あたしたちの遊び場所で、もう遊べなくなるよっ
ウソじゃないよっ ほんとだよっ
ほんとうにくるんだよっ あたしひとりじゃ守れないよ
一緒に守ってよ ふたりの遊び場所だよっ
待ってるから ひとりで戦ってるからっ……




 七年前の水瀬家は、昨日まで見てきた水瀬家と全く違わないようで、だが全てが少しずつ違っていた。恐らく背の低い子供のことを考えてあるのだろう。目線の低い人間に対応した家具の配置や、細かな気遣いがさりげなく行き届いている。上手く言えないが、小さな子供がウロチョロしていて圧迫感を受けないようにレイアウトが工夫されている。いつもと少し物の配置が違うだけで、それが大きな意味を持って来たりするようだ。
 これは家主である秋子さんが、娘の名雪を思い遣った結果だろう。恐らく恩恵を受ける側の名雪はそのことに気付いていないだろうが、一気に七歳分も身長が縮んでしまった俺には、そのことがよく感じられた。
「おい、祐一。お前、今日はどこ行ってたんだよ」
 ガツガツと品性の欠片も感じられない勢いで丼のご飯を掻き込むと、親父が言った。
 親父のヤツは、七年後も今も大して変わっていなかった。あまり熱心にブラッシングされているとは思えない黒髪に、野性的でエネルギッシュな相貌。俺と良く似ているといわれる目。この男はいつだって年齢不詳で挙動不審だ。そして俺のことを、おちょくって遊ぶと面白い反応を示すオモチャだと思っている。実に迷惑なヤツだ。
「随分と遅かったじゃないか。どこで何してやがった」
「そう言えば、そうだね。祐一、どこで遊んでたの?」
 俺の隣りの席にちょこんと腰掛けた名雪は、小さく首を傾げた。着ているのは、ファンシーな猫の絵がプリントされたパジャマだ。もちろん、一〇歳で小学生の時の名雪だ。
 俺は両親と一緒に、水瀬家の食卓を囲んでいる。あゆと別れて水瀬家に行ってみると、既に夕食の準備は大方整っていて、すぐにダイニングに通されたのだ。目の前で湯気を立てている食事は、秋子さんと俺の両親が共同で作り上げたものだろう。食欲は全く沸いてこないが、なかなかのご馳走であることは間違いない。

「どこで何しようと俺の勝手だろ。人にはな、プライヴェートな事情ってやつがあるんだよ」
 まさか、七年後の未来から人生やり直すために戻ってきました――なんて言えるはずもない。
「はっ、ランドセル背負ったガキのくせに、なにがプライヴェートな事情だ」
 親父は実に憎らしい笑みを見せて俺をからかうと、自分の皿からチキンナゲットをひょいと摘み上げ、再び丼の飯と一緒に掻き込んだ。
「でも、祐一。心配だからあまり遅くならないようにしてね」
 俺から一番遠い席に座る女性が言った。俺の母親だ。目の前にしているのは三十前後の姿だが、彼女もまた、何年経とうが容姿があまり変わらないタイプの人物らしい。それは隣りに座る秋子さんも同じで、彼女たち姉妹はその性質も含めて、双子のように良く似ている。姉の母さんは長い黒髪を自然のままに流しているが、秋子さんは三つ編みだ。この髪型の相違がなければ殆ど見分けがつかない。
「この辺は街灯も少ないから、暗くなると少し危険だし。ね? あまり私を心配させないで」
「うん、分かってる。母さんを哀しませるつもりはないんだ」
 俺は母さんに微笑を返した。彼女はいつだって俺に優しくしてくれるし、ためになることしか言わない。そして自分の気持ちや愛情が息子に伝わっていることを知ると、とても喜んでくれる。だからこそ、俺か馬鹿やったせいで彼女を哀しませてしまうと、ひどい罪悪感に苛まされてしまうのだ。
「おい。なにやら、俺の時と随分対応が違わないか?」
 母さんだけに愛想良くしたことが、親父には不服らしい。
「客観的に考えてみろよ。常に我が子をワナに嵌めて楽しもうとしている邪悪な男と、常に愛情をたっぷり注いでくれる親切な女性と、声をかけられて愛想良く返事を返したくなるのはどっちだ」

「――今日はどうかしたの?」
 なんだか知らないが、秋子さんが箸を持った手を止めて、怪訝そうな顔で俺を見詰めてきた。気付けば、他の三人も訝しげに俺を観察している。
「え、なに? どういうことですか、秋子さん」
「なにか随分と雰囲気が違うような気がして……」
 珍しく戸惑ったような表情で、秋子さんは言う。
「それに、『客観的』なんて言葉どこで覚えたのかしら」
 あ、やばい。
「わかった。貴様っ、さてはニセ祐一だな!」
 親父は右手に持った箸でビシッと俺を指し、声高らかに告発した。
 それはある意味で正解なのかもしれないが、実際のところは親父の馬鹿がマグレで真実を言い当てただけだ。本気で相手をしてはいけない。
 だが……それにしても、うかつだった。確かに、客観的なんて言葉は小学生らしくない。一〇歳の子供は、自分の世界が全てだと思っている。つまり、彼らには主観という概念しかない。客観というものを理解するのは、もっと先の話だ。同様に、愛想という言葉も小学生は使わないし、普通はまだ知らないだろう。
 高校生の俺と、小学生の俺とでは使用する言語が全く違う。したがって、十七歳の相沢祐一のつもりで普通に喋っていると、明らかに問題が生じてくることになる。視野や視点、精神年齢、知識なんかが一〇歳のガキにしては異様に発達してみえることになるわけだ。これは注意しないといけない。

「なんでもないんだ。ご馳走さま」
 俺は慌てて箸を置くと食器を流し台に持っていき、ダイニングから逃走した。そして一目散に二階へと向かい、水瀬家に逗留している間の部屋に駆け込む。それは七年後、沢渡真琴の私室として割り当てられることになる空間だった。
「くそっ、こんな生活無理だ」
 部屋の片隅に畳んで積み重ねてある布団に飛びこむと、俺は自分を過去に送りこんだ存在を再び呪った。間違いなく、今の俺にはその権利があるはずだ。
 実際、あゆと分かれてからも俺はかなり悩んだ。もう元の世界には戻れないのか、もしそうならば今後どうしていくべきなのか。だが、そう簡単に答えのでるような問題じゃない。それに、俺の頭はまだ充分に混乱している。これが現実の出来事なのだと完全に認められたわけでもない。
「どうする。どうすればいい?」
 家族も、親切にしてくれる親戚もいる。あゆだっている。なのに、本質的に俺は一人だった。誰かに真実を話すことが許されるとも、それが理解されるとも思わない。俺は、かつて誰も経験したことのない問題に直面し、これに単独で挑まなければならない。歴史的な先人に学ぶこともアドヴァイスを受けることも許されず、心の鬱積を誰かに打ち明けることもできないんだ。
 正直、水瀬家に向かって七年前の家族や名雪たちに顔を合わせるだけでも、随分とヒヤヒヤさせられた。上手く演じきれるか、平静を装っていられるか。さっそくボロが出てここに逃げ込んだわけではあるが、階下では様子のおかしい俺を議題として、両親と水瀬親子が臨時の食卓会議でも開いているに違いない。

 ――正直、今の俺にはもう一度人生をやり直す気なんてサラサラなかった。今だって、過去に戻ってきたというよりは見知らぬ異世界に送りこまれてきたような感じがしている。ここは俺の知る世界とは別の場所で、自分のいるべき場所ではない。そういう感覚が強いわけだ。
 今の俺は一〇歳の相沢祐一なのだが、これはほとんど他人に近い。この身体を自分のものだと考えることは難しいし、今からこの世界の相沢祐一を演じて生きることに何の意義も見出せない。もし、もう二度と元の世界に戻れないのなら、これ以上生きていたいと俺は思えない。――ゾンビみたいなもんだ。墓から起き上がって、未練たらたらに世間をうろつく生きた屍なんだろう。今の俺は。
「舞……もう、会えないのかな」
 剣を捨て、魔の存在を受け入れ、少しずつ日常を知り始めた舞。彼女の顔が脳裏に浮かんだ。
 時間の関係がどうなっているのか分からないが、俺がいつも通りの世界で目覚めていれば、その日は彼女の卒業式だった。かならず出席すると約束してあったけれど、それはもう守れそうにもない。
 もう式は終わってしまっただろうか。だとしたら、俺に約束を破られて舞は泣いてしまわなかっただろうか。凄く心配だ。俺がいなくなったと知ったら、舞は傷付くに違いない。一生泣いて暮らすかもしれない。
 ――舞!
 それで思い出した。ここが七年の時を遡った世界だとするならば、やはり舞も存在しているはずだ。この世界の舞は、今、どこで何をしているだろう。
 俺が高校二年に転校してきた時に十年ぶりの再会を果たすことになるわけだから、この世界の舞は俺とはじめて出会ってから三年後の舞ということになる。つまり、「魔物が来る、一緒に戦って」と言ってきてから既に三年以上が経過しているってことだ。
 そこまで思い至った瞬間、俺は背筋が凍りつくような絶望感に襲われた。
 もう三年も経ってしまっている。舞は自分の嘘を本当にするため、自らに宿った不思議な力で魔物を作り出し、本当にそれと戦い続けてきた。恐らく、この世界でもそうだろう。つまり、その戦いが始まって一○○○もの夜が過ぎ去ってしまったことになるわけだ。
 俺は血相を変えてコートを掴むと、両親や親戚たちに気取られることがないよう細心の注意を払いつつ、水瀬家を後にした。もちろん、向かうべき場所は一つしかない。




 高校生なら歩いて三○分の距離だが、それを同じタイムで辿るとなれば、小学生には全力疾走が必要だった。急激な運動のせいで心臓が破裂しそうなほどの勢い悲鳴を上げるが、俺はそれを無視して舞の元に急いだ。彼女は、二人が初めて出会ったあの思い出の麦畑にいるに違いない。俺たちの秘密の遊び場だった場所で、今も魔と戦っているに違いない。一刻の猶予も許されなかった。
 ――それにしても、今の俺は酷く矛盾している。この世界を自分とは切り離された完全な異世界だと認識していながら、そこに住まう舞やあゆが酷い目にあうのを黙って見ていられない。この世界の舞たちが、自分の知る世界の彼女たちとは別人だと考えながら、どこかで同列に扱っている。
 俺は何者かの手によって過去の世界に送りこまれたことに、たとえようもない憤りを感じていたはずだ。さっきまで、そのことで世界を呪ってさえいた。なのに、彼女たちの悲劇を振り払ってやれるチャンスを得たことに喜びを覚えている自分がいる。相沢祐一の中にはっきりと相反する二つの想念があって、それが複雑に渦巻いている。どっちの俺が本当の相沢祐一なのか、自身にさえ分からない。
 戸惑いながらも走る。走りながら、戸惑う。
 俺はどうすればいい? このまま、自分の知る歴史を変えてしまって良いのだろうか。それは逃避なんじゃないのか。過去を改変し、全ての哀しみの源を断つ力が強さなのか。そうではなく、過去を過去として受け入れ、悲劇的な結末が待っていると知りながらそれを敢えて受け入れて生きることこそ、本当の強さではないのか。俺は数々の後悔を経て、七年後の未来でようやくそれを学んだのではないのか。
 歴史を変え悲劇を断ちたいという想い、心のどこかでそれを拒もうとする想い。二つがせめぎ合い、俺は混乱せずにはいられなかった。ここで過去を自分の都合の良いように改変してしまうことは、一〇歳から十七歳までの自分の人生全てを自ら否定し、抹消することになる。舞や佐祐理さんや真琴と新しく出会い、彼女たちと過ごして得たものや彼女たちに感じていた愛情まで消してしまうことになる気がする。でも、周囲の人たちが傷付いていくのをむざむざ看過してなどいられない。
 どうすれば良い。なにを選べば良い。どっちの道を選んでも、誰かが傷付いて何かが失われる。正解なんてない。代案なんてない。なのに、選ばなくちゃいけない。過去を拾い、絆を捨てるか。過去を受け入れ、守ったまま絆を失うか。
 もうこれは、何が正しいとか何が間違っているとかいう問題じゃない。

 迷走する思考は、夜闇に沈んだ麦隴ばくろうに辿り着いた瞬間、そこから聞こえてくる剣戟の音によって遮られた。風に揺らされるのとは明らかに違う、空気ざわめき。遠くから微かに聞こえる、苦悶の呻きと荒い吐息。
 ――もう始まっている!?
 血の気が引いていくのが分かった。舞とは無事な姿で七年後に再会することになるのだから、ここで命に関わる問題は生じないだろう。俺の中の冷静な部分はそう告げているが、だからといって落ち着いてなどいられるはずもない。舞は魔と命懸けで戦っているんだから。
 青い夜空に浮かぶ月の明かりを頼りに、俺は雪に押し潰された麦畑を進んだ。魔が躍動する度、微かに伝わってくる地響きと、剣が枯草を刈る摩擦音を頼りに舞を目指す。
 三年だ。もう、三年も経ってしまっている。できることなら、ここで魔の呪縛から解き放ってやりたい。もう遅いかもしれないけれど、そうしてやりたい。無用にこれから七年間も苦しむ必要なんてないはずだ。
 だが、ここで過去に手出しすることが、俺に許されるのか。たとえ許されることであっても、そうするべきなのか。頭の中から、その迷いが消えない。答えが出せずにいる。
「……ぁうっ」
 くぐもった悲鳴と、何かが柔らかいものを叩く音が聞こえてきた。距離は随分と近い。
 心臓が早鐘のように忙しく打つ。指先が痺れるような緊張感に追われ、俺は四方に視線を巡らせ彼女の姿を探した。十一歳の俺には、夜の闇にどっぷりと漬かったその麦跡は広過ぎる。近くにいるのは分かっているのに、その姿をなかなか捉えられない。
「舞、どこにいる。どこだ」
 思わずそう呟いた時、後方から甲高い音が響き渡り、日本刀らしきものが宙に舞った。月の光を反射して、それはゆっくりと放物線を描きながら落下していく。同時に地上で斬撃の音がした。
「う……ぁっ!」
 押し殺した苦痛の呻き声が、月下の雪原に反響する。見ると、ひとりの少女が不可視の暴力に翻弄されていた。無数の打撃を受け、身体は小刻みに痙攣している。武器を失い、もはや抵抗する力も残っていないらしい。既に棒立ち状態だ。
 それでも、魔は攻撃の手を緩めない。唸りを上げる一撃を腹部に埋め込まれ、彼女はくの字に身体を折る。さらに細い右肩を何かが抉っていった。水気を含んだ何かを押し潰したような、不快な音が周囲に響く。同時に粘着質の温かい何かが飛沫を上げて飛んできて、俺の頬に付着した。それは、濃い鉄の匂いがした。

 ――舞。
 彼女の名を叫んで、駆け寄りたかった。戦いを止めて、真実を伝えたかった。魔なんて本当はいない。お前が生み出した、お前の力なのだと。だから、もう戦う必要なんてないのだと。
 でも、できなかった。心がそう望んでも、身体が動いてくれない。そして俺は、どんなことがあろうとこの光景を見ているしかないことに気付いた。
 ここで俺が出て行って舞に干渉するのは、たとえるなら一時の感情に流されて、ライオンに食われようとしている草食動物を助けるようなものだ。あるいは、飼えないと分かっていて、世話する力もないくせに、雨に塗れてる捨て猫を拾うのと同じこと。
 俺は思う。それは、解決じゃない。逃げだ。現実からの逃避だ。辛いからって、自分の都合だけを優先してその場を誤魔化そうとしているだけ。あゆの事故から目を背けて、全てから逃げ出して皆を傷付けたときの俺と何も変わらない。
 過去を操り、歴史を改変してしまうっていうのはそういうことなんだろう。一時の感情を優先させて、自分が背負わなきゃいけない咎を抹消する権限など俺にはないんだ。
 今、舞が目の前で傷付いてるのは、俺の責任でもある。無責任な口約束をして舞を縛り、挙句それを破ってしまった結果でもある。俺の過去の過ちの代償なんだ。だったら、安易に逃げることなんて許されない。罪をなかったことにすることなんて、許されない。俺はこれを背負う義務がある。
「……っ!」
 血飛沫が舞う。激しく殴打され半ば意識を失って崩れ落ちようとする小さな少女が、なお打たれる。嵐で増水した濁流に弄ばれる木の葉のように、その華奢な身体が猛威に踊る。
 俺は自分の拳を噛み締め、震えながらその光景を目に焼き付けた。この出来事を忘れてはならない。しっかりと見詰めて、心に留めておかなければならない。舞がどんな目にあって、どんな傷を受けてきたか見届けなければならない。自分が約束を破った代償だ。辛くても、叫び出したくても、俺にはじっと見ていることしか許されないんだ。
 本当は、いますぐ飛び出したい。彼女を抱き締めてやりたい。すまなかったと謝りたい。全ての呪縛から解き放ってやりたい。――それが出来れば、どれだけ良いか。
 声を殺すために口に押し込んでいた拳の皮膚を、歯が食い破った。血の味が広がる。だが、舞が堪えている痛みを思えば、精神が砕けそうなほどの苦痛にくらべれば、それは些細なことだった。
「ぅ……っ」
 遂に、見えない一撃に弾き飛ばされた少女の身体が、白銀の麦跡に倒れこんだ。彼女は受けた打撃の勢いで、雪上を滑っていく。やがてそれが止まると、舞はピクリとも動かなくなった。

「舞っ!」
 もう限界だった。いけないとは分かっていても、俺は叫ばずにはいらなれかった。足元の雪を蹴散らしながら、倒れた彼女に駆け寄る。白い麦跡には、黒い水滴が染みのように広がっていた。舞が負傷しているのは明らかだった。
「舞……」
 抱き起こした彼女は、目を背けたくなるほどボロボロだった。とても十一歳の少女とは思えないほど傷付き、疲れ果てている。鼻からは血が流れ出していて、強く殴られた痕のある右目は大きく腫れて潰れかけていた。コートは猛禽の鉤爪で切りされたように破かれていて、そこから覗く右肩の肌は打撲の痕で赤黒く変色している。スカートから覗いた白い脚にも、無数の傷痕が見られた。
 魔の気配はもうなかった。舞の精神から生み出されたその不可視の怪物は、主が意識を失った瞬間、形を留めていることが出来ずに消えたのだろう。魔と舞は、ある意味で一心同体なのだ。
「お前、こんな思いをしてずっと戦ってきたのか」
 俺は、七年後の強く成長した川澄舞の姿しか知らなかった。だけど、考えてみれば彼女だって最初から強かったわけじゃない。その戦いは、八歳の時から始まったんだ。幾ら身体能力と反応速度に優れたものを持つ娘とはいえ、最初から魔と互角に戦えたわけではあるまい。
「舞――」
 柔らかい頬にベッタリと張り付いた血を拭ってやる。ぬるりとした生温かい感覚が不快だった。だけど、当の舞は不快どころの騒ぎでは済まないだろう。月に青白く照らされて眠る舞は、ゆるやかに上下する胸を見なければ息絶えてしまったかのようにも見えた。
 無性に自分に腹が立った。俺は舞が一〇年間ずっと独りで戦い続けてきたのを知っていたのに、そのことについてちゃんと考えたこともなかった。少し頭を働かせれば、彼女がどんな過酷な日々を送ってきたかを容易に想像できたというのに。

「こんなにボロボロになって。こんな危険な目にあって戦ってたのか――」
 彼女の小さな手を握る。その掌は、小学生の女の子のものとは信じられないくらいに硬かった。この歳にして、真剣を何千回と振り続けてきた代償だろう。血豆が何度も破れ、それが癒える間もなくまた潰れ、そうしてガチガチに固まってしまった手だ。
 自分の身長ほどもある日本刀を、一〇歳そこそこの子供――しかも女の子が簡単に振るえるわけがない。持ち上げることさえ困難なはずだ。彼女がこれを武器に選び、使いこなし、魔と満足に戦えるまでにどれほどの鍛錬が必要だっただろう。目に見えない巨人に立ち向かい、傷付くことを恐れずに戦えるまでにどれだけの敗走と恐怖の経験が必要だっただろう。殺されかけた戦場へ再び足を向けるのに、一体どれだけの勇気が必要だっただろう。
 川澄舞は敗北を喫するごとに深く傷付き、その度に血の滲むような努力を続けて来た違いない。
「ごめんな……」
 彼女は、それだけの代償を支払ってでもこの場所を守りたかったのだ。守ろうとしてくれたのだ。
 深いところから込み上げてくるもので、視界が滲んだ。それは頬を伝ってポタポタと舞の顔に流れ落ち、彼女の鮮血を洗っていく。それでも少女は目覚めなかった。
「ごめんな、俺、お前のこと分かってたつもりだったのに」
 本当は、何も分かってやれていなかった。
 なぜ考えなかったんだろう。どうして、想像さえしなかったのだろう。その事実に気付けば、自分の中の罪悪感が増すからだろうか。舞に対して、償いきれない何かを背負うであろうことを悟っていたからだろうか。――だとしたら、俺はまた逃げていたことになる。

 ねぇ、助けてほしいの。魔物がくるの、いつもの遊び場所に。
 だから守らなくちゃ。ふたりで守ろうよ、あたしたちの遊び場所でもう遊べなくなるよ。
 あたしひとりじゃ守れないよ。一緒に守ってよ。ふたりの遊び場所だよっ。
 待ってるから。
 ひとりで戦ってるからっ……

「――お前はさ、本当にひとりで戦って待っててくれたんだな。あの時の遊び場所でさ。ずっーと、この場所を守っていてくれるつもりだったんだな」
 あのとき、舞は願った。魔物が本当に現れてくれたら、と。そうすれば俺があの場所に居続けると信じて。そして求めに応じ、魔物は現れた。
「ごめんな。あの時、お前がそんなに思い詰めてるなんて考えもしなかったんだ。お前には不思議な力があるってことも忘れて、それが本当に魔を呼べる可能性を想像しなかった。また会おうっていうあの約束が、俺にとっては他愛のないものでも、お前にはあんなに重いものだなんて知らなかったから。俺、バカで子供だったから」
 舞は意識を失って、深い眠りに就いている。でも、俺は続けた。
「でも、俺、がんばるから。七年後にまた出逢ったとき、お前のこと誰よりも大事にするから。お前の呪縛を全部取り払って、絶対笑えるようにしてみせるから。そうなれるように、一緒に戦うって誓うから。だから……!」
 だから、今は許せ。舞。
 ここにいる俺は、まだお前に手を貸せない。だけど七年後、俺たちは出会う。その時は、必ず。
 眠る少女の薄い唇に、そっと口付ける。彼女は血の味がした。
「辛かった分、独りだった分、絶対とりかえしてやろうな。俺とお前と、いつか出会う佐祐理さんと一緒に。絶対、生まれてきて良かったって――幸せだって言えるようになろうな」

 この麦畑の片隅には、農具倉庫と作業者の休憩所を兼ね備えたような小屋があった。俺は苦労して、何とかそこに舞を運び込んだ。本当なら背負うなりして自宅まで送り届けてやりたかったが、意識を失った人間を長時間抱えるのはこの身体では無理だったし、俺は舞の自宅の場所を知らなかった。
 かなり疲労しているのだろう、舞は何をされても目覚めなかった。今のうちに、出来る限りのことをしてやりたい。本来なら、こんな形で接触することすら許されないのかもしれない。だが、これだけは見逃してやって欲しい。今の舞は、本当にひとりぼっちだから。俺自身、このまま彼女を放って踵を返すことなんて出来そうにないから。
 ――俺はまず、小屋の中にあった手ぬぐいを使って舞の身体から血を綺麗に拭き取ってやった。驚くべきことに、彼女が受けた外傷は既に塞がり、癒えはじめていた。恐らく魔を作ったのと同じ不思議な力のおかげだろう。この能力がなければ、舞は俺に出会うことなく息絶えていたに違いない。
 身体を綺麗にしてやると、小屋をあさって埃を被ったサビだらけの石油ストーブを引っ張り出した。まだなんとか息のあるそれを利用して、暖をとる。それからコートを含めて自分の脱げる分の服を全部脱ぎ、それを舞にかけてやった。これなら、彼女も風邪をひかずに済むかもしれない。
 それらが済むと、最後に小屋の隅に転がっていた黄ばんだメモ用紙と小さなエンピツで、彼女に一言だけメッセージを残すことにした。文面を考えるのに、半時間はかかっただろうか。自分の文才のなさと頭の悪さに、ほとほと呆れる思いだ。
 俺はその紙切れを静かに眠る少女の傍らに置き、そっと小屋を後にした。
 あの出来そこないの陳腐なメッセージを見て、果たして舞はどう思うだろう。
 奇妙に思ってもいい。信じられなくてもいい。ほんの少しでもこれからの七年、彼女を支える希望になってくれさえすれば。

『がんばれ、舞。信じていれば、いつかきっとその人とまたあえる日がくるでしょう。 神様より』





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