「……一君」
確かに、人が死ぬのは珍しいことじゃない。多くの人間には家族がいて、大切に思う誰かがいる。その人が突然に世界から失われるというのは、良くあることだ。それが本人にとってどれほど理不尽に思えたとしても、世界にとってそんなことは関係ない。不幸や不運は人の良さそうな顔をして近付いてきて、前触れなく誰かの大切な物を奪っていく。そんな話は、世の中に五万と転がっている。
「祐一君?」
だから俺が抱えていた悲しみや傷なんて、特別目を見張るような物じゃないんだろう。あの程度の悲劇なんてザラにあって、多くの人間はそれに苦しんでる。そして、受け入れている。それは認めるところだ。誰もがこんな世界に生きてるんだ、大変なのは俺だけじゃない。
でも、俺は俺なりに戦ってきたつもりだ。決して奇跡なんて頼っていない。逃げもしたし、悩みもしたし、後悔もした。自分のことを最低の奴だと思ったこともある。知らない間に舞を傷付けてもしまったこともある。名雪のことだってそうだ。
でも、そんなことを経験しながら俺たちは何とかやってきたつもりだ。最後はあゆの願ってくれた奇跡に助けられたのかもしれないけれど、でも、俺たちが苦しんで、悲しんで、血を流してここまでやってきたことは事実なんだ。
「うぐぅ、祐一君ってば」
それがエラーだった? 故障だった? ――ふざけるな。
特別扱いしてくれなんて頼んだわけじゃない。そっちが勝手に間違ったんだ。奇跡だか何だか知らないが、俺は俺たちに出来ることをやってこの結果を得た。
俺たちは何も間違えちゃいないはずだ。修正なんて必要ない。人生に修正なんてない。そんなのありゃしないから、みんな苦しむんじゃないのか? 俺たちはあんなに苦しんできたんじゃないのか?
「祐一君っ!」
超至近距離から放たれたその大音響で、俺はようやく覚醒した。
目を瞬くと、慌てて注意を外界に戻す。途端に、真正面から俺の相貌を覗き込んでいる少女と目が合った。同じ高さの視線。涙で潤んだ大きな瞳。
彼女が何者かを悟った瞬間、全身の毛が一気に逆立った。頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃と戦慄。絶望的な予感が脳裏を過る。
月宮――
「あ、ゆ……」
「ひどいよ、祐一君。ボク、何回もよんだのに」
恨めしげに俺を見詰め、彼女は目尻に涙をためたまま鼻をすすった。
「あゆ、なんで、そんな――」小刻みに震える手を、彼女に伸ばす。「なんでだ」
だが、彼女に触れることはできなかった。その柔らかそうな茶色い髪に触れようとした瞬間、俺の手は電撃に弾かれたようにビクリと震えた。本能は知っている。もし触れて、彼女を確認してしまえば俺は二度と戻れなくなる。信じていたい、しがみついていたい何かが目の前で崩壊してしまう。
だが、心のどこかで俺は既に悟りつつあった。あの深く白い霧に閉じ込められた世界で聞いた声が告げた、修正の意味がなんたるかを。これが、その修正の結果なのだと。
「祐一君、どうしたの?」彼女は怪訝そうな表情で、俺の顔を覗き込んでくる。「寒いの?」
だが俺には、なにも答えることはできなかった。
もはや意思の力では止めることのできない震えに襲われている、自分の小さな手を愕然と見詰める。それは、もみじのように小さく華奢な手だった。記憶にある相沢祐一の手よりも二回りは小さい。
視線を落とせば、つま先に固まった雪を付着させている小さな靴が見える。俺の細くて短い足の先にあるものだ。それは、幼児向けのヒーローがプリントされた、青い長靴だった。
それでも、その事実は受け入れられない。俺は商店のショーウィンドウに駆け寄り、何かに祈りながらそこに写る自分の姿を確認した。
「馬鹿な……うそだろ」
「祐一君、なに?」あゆが寄ってきて、俺の隣りに並ぶ。
何度目を擦りつけても、俺に話しかけてきているのは七年前の幼い月宮あゆだった。最近まで顔を合わせていた十七歳の姿ではない。十歳、小学生の彼女だ。
そして同じ高さの視線を持つ俺もまた、十歳の少年の姿をしていた――。
「ねえ、祐一君。どうしちゃったの。変だよ」
これが、起こり得るはずのなかった奇跡を抹消するための修正なのだろうか。
あゆが奇跡を起こす以前、その原因を生み出す前まで時を遡り、もう一度やり直せというのだろうか。今までのことを、全部なかったことにして。TVゲームのリセット・ボタンを押した時のように、世界は俺にもう一度やりなおせと告げているのだろうか。
あんなに苦しんで、血ヘド吐きながら戦って、のたうち回って歩いてきた人生全部を捨てて。色んな人たちと、傷付けたり支え合ったりしながらなんとかやってきた過去をなかったことにして。
「畜生ッ、ふざけんな! ふざけんなァ!」
眼を硬く閉じ、俺は蒼穹に向かって怒鳴り上げた。
目覚めたら、その日は卒業式の朝だったはずなんだ。俺はトイレに行って、顔を洗って、それから秋子さんの作ってくれた美味い朝食を平らげて、高校に向かうはずだった。そして、異常気象の温暖化とやらで二ヶ月も早く咲き始めた桜の中で、卒業していく舞と佐祐理さんを見送るはずだったんだ。
そして、笑顔で「おめでとう」と言うはずだった。そのはずだったんだ。
なのに――
「くそっ、こんなのありかよ。なんでだよ! なんでだ!」
「ねえ、祐一君! どうしたの、どうして怒ってるの」
まるで自分が責められているかのように、あゆは不安そうな顔で俺の服の裾を引っ張ってくる。だが、俺にはそれに取り合ってやれるだけの余裕なんてなかった。
やがて、どうしようもなくなったあゆは、俺の手を掴むと人目のある商店街から引き離すように歩き出した。俺は引っ張られながら、ただ流されるままに世界を呪詛し続ける。何故だと問う。
確かに、人間はときどき自分の人生のIFを考えることがある。『たられば』話に花を咲かせることもある。もしもあの時こうしていたら。過去に戻って、やりなおすことができたら。時に人は、強い後悔のあとひたすらにそのことを願うことだってある。
でも、人生にやりなおしなんてきかない。DVDの映画じゃないんだ、巻き戻しなんてできない。誰もが一度は望むことかもしれないけれど、それは決して叶わないことだ。だからこそ、人間はもがき苦しむし、人生に意味を持たせる。そうじゃないのか?
なのに誰かが、今まで経験してきた全てを捨て、これまでの人生をなかったことにして、ある地点からやりなおせと俺に言っている。それを強要している。
――汚された気分だった。自分の人生全てを否定され、何者かによって土足で踏み荒らされたような。血の沸騰するような憤りを覚えた。
「じゃあ、俺たちが今まで苦しんできたのは何だったんだよ。それでもなんとかやってきたのは、なんだったんだよ。見てきたことや聞いたこと、今までやってきた全部が何の意味もない、世界にとっての単なる間違いだったって言うのか……」
発狂してしまいそうなほどの怒りと、やるせなさと、哀しみと。様々な感情がせめぎ合い、俺は涙を落としながら崩れ落ちた。繋がれたあゆの手に縋りつく。
「そんなの、あんまりじゃないか。なんとか――なんとかやってきて、やっと笑えそうになったのに」
自分が全てと引き換えにして追い求めてきた何かを、この世の最も強大なものに否定されたような気がしていた。相沢祐一という人間の生き方を、世界に跳ねつけられたような衝撃だった。
足元から全てが崩れ落ちていくような感覚に、俺はこれ以上嗚咽を堪えることができそうにない。あゆの着ている白いセーターにしがみつき、俺は叫びながら泣いた。
「祐一君、悲しいの? ボクみたいにお母さんがいなくなっちゃったの」
膝から崩れて慟哭する俺に、あゆが優しく問いかけてくる。でも、俺は涙を流すことと喉の奥から言葉にならない悲鳴を上げることに必死で、何も返すことができない。
「あの時、祐一君はボクにやさしくしてくれたから、だから今度はボクがなぐさめてあげるね」
あゆは母親が幼い子供にそうするように、俺を柔らかく抱きしめて髪を撫で始めた。
地に付いた膝から、溶け出した雪がジワリと染みこんでくる。突き刺すような冷たさだ。だけど、あゆは温かかった。
それからどれくらい経ったのかは分からない。街が黄昏に沈みかけた頃、俺はようやく落ち着きを取り戻し、彼女と正常な会話を交わせるまでの精神状態を取り戻した。
気付くと、そこは小さな公園だった。周囲は完全な銀世界で、俺たち以外に人の姿は見当たらない。あゆに手を引かれて、俺は自分でも気付かないうちにここまで連れてこられていたらしい。正直、助かったと思う。商店街のど真ん中であゆに抱かれてなくなんて醜態を誰にも晒さずに済んだのだから。
「もう、いいの?」
立ち上がってキッズ用ジーンズについた雪を払う俺に、あゆは心配そうに問いかけてくる。
「ああ、悪かったな。みっともないところを見せちまって」
きっと目蓋なんかは泣き腫らして赤くなってるのだろうが、俺はなんとか微笑を返してみせた。
「もう大丈夫だ。心配ない」
「祐一君も、お母さんがいなくなっちゃったの?」
あゆにとっての世界最大の悲劇は、母親と生き別れになることらしかった。本人の話を聞く限り、彼女はそれを実際に体験している。初めて出会った時にうぐうぐと泣いていたのは、そのことが原因だったらしい。
確かに、一〇歳程度の幼い子供にとって母親の存在は世界を支える柱のようなものだ。それが失われれば、彼らの生活は崩壊する。その意味で、俺は今のあゆの境遇に近しいのかもしれない。
「そうだな、似てるな。俺は母親に、お前は間違った生き方をした駄目な子供だから、もう一度お腹に戻って産まれ直しなさいって言われたんだ」
「お母さんにそう言われたの?」
「ああ、多分あれは俺たちの母親みたいなものなんだと思う」
母なのか父なのか、あるいはその両方かどちらでもないのか、詳しいことは知らない。だが、あの声の主が世界の管理者であることくらいは想像できる。あの声の主は俺たちの世界だけでなく、他にも存在する色々な世界を見守っていて、本来その世界で起こってはならないエラーやイレギュラーが生じると、それを修正することを役割としているのだろう。
そして多分、俺が体験したことがそのエラーであり、イレギュラーであり、バグだったんだと思う。何者で、何様のつもりかは知らないけど、奴は恐らく世界というシステムのデバッガーなんだ。
「うぐぅ」あゆは大きな目に涙をためて言った。「祐一君、可愛そう」
「ああ、可愛そうなもんだな」
俺は皮肉を込めて、肩を竦めた。正直、怒りや絶望を通り越して、今は自暴自棄に近い状態なんだと思う。もう全部がどうでも良くなってきた。俺は世界に捨てられたのだから。
「自分が体験してみて、はじめて分かった。逆行して人生やりなおすってのは、要するに今まで生きてきた自分の全てを否定するってことなんだ」
辛いことだけじゃなく、楽しかったことも。痛みに堪えながら、懸命に生きていた努力も証も。
――それは永遠の命を得ることに似ている。人は終わらない若さや長い命に憧れ、それを安直に求めようとするけれど、実際のところ死ねないという事実は何にも勝る拷問だろう。同じように、人生をやりなおしたいと求めることも、それに伴う本当の苦痛を知らない想像力に欠けた人間の勝手な欲望でしかないのかもしれない。
「俺、もう戻れないのかな……」
元の世界、七年後のあの世界に帰ることは叶わないのだろうか。あの世界での舞や佐祐理さんに会うことは、もう二度とできないのだろうか。
「戻りたい」
「じゃ、戻ろう」
あゆが俺の両手を取って、とっておきのプランを提案するように言った。
「えっ?」
「商店街に戻ろうよ。ボク、祐一君に聞きたいことがあったんだよ」
そう言うと、あゆはまごつく俺の手を引っ張り、再び歩き始めた。そして宣言通り商店街の同じ場所に戻る。先程と違うのは、陽光が西の森にどっぷりと沈みかけて薄暗くなりはじめていることと、通りを行き交う人々の脚が幾分早足になっているということだけだ。
「ねえ祐一君、あれ何かな?」
なんだかセピア色に見える七年前の商店街をぼんやりと眺めていると、あゆが何かを指さしていた。その方向に目を向ける。
「あれは、薬局のマスコットキャラだ」
あゆと同じような、ぽっこりとしたお腹のカエルが両手を上げて微笑んでいる。身長もあゆと大して違わないサイズの、巨大な緑の雨ガエルだった。どこか、名雪の相棒であるケロピーを思い起こさせるキャラクターだ。
「違うよ。その隣」
あゆはもう一度人差し指を伸ばす。その先には、煌びやかな光を放つ一際派手なテナントがあった。
「隣って、ゲーセンか?」
「うん」あゆは小さく頷く。
こじんまりとしたゲームセンターの軒先に見えるのは、定番のクレーンゲームだ。
「あれって何かな」
「何かなってお前、クレーンゲームも知らないのか?」
「うん。初めて見た」
「あれは、ボタンでクレーンを操作して、中の安っぽいヌイグルミやら人形やらを掴み取るゲームだ」
「掴むとどうなるの?」
あゆは早くも興味津々のようだ。熱っぽい口調で追及してくる。
「その人形がもらえる」
「ほんとにもらえるの?」
「取れればな」
あゆは喋るのを止め、食い入るようにそのクレーン・ゲームを見つめていた。確認しなくても分かる。今、彼女の大きな瞳にはガラスケースの中の景品が写りこんでいるに違いない。
「どうした?」
「人形、欲しい……」
案の定、あゆはポツリと呟くようにそう言った。
――まて、人形?
俺はようやくにして、その事実に気が付いた。
この展開には、何か覚えがある。過去に送られてくる前に、俺は世界によって全てを見せられ、全ての記憶を開放された。これは、その中にあったものだ。
七年前、もしかすると全てのはじまりとなったのかもしれない、大切な記憶。思い出。
「かわいい人形」
クレーンゲームの元に走り寄ったあゆは、小さな天使の姿をした人形を、食い入るように見ていた。
「ボクに取れるかなあ」
そうだ、俺はこの展開を知っている。あの日、俺は一〇〇〇円使ってもあゆの望む人形を問ってやれず、翌日名雪に借金してようやくそれを彼女にプレゼントできたのだ。
でも、今の俺なら――
「なあ、あゆ。俺がとってやろうか?」
本来、俺のこのセリフはあゆが一度自分でチャレンジして、失敗した後に投げかけられたものだ。少なくなとも、俺の記憶にある七年前ではそうだった。
「祐一君、上手なの?」
「まぁな」
自信たっぷりに頷く。十七歳の俺は、十歳の時と違って経験がある。このゲームも幾度となくやったし、そのノウハウも知り尽くしているんだ。機体ごとに違うクセは、一回か二回の失敗の代償として得られる。その次は掴み取れるはずだ。あの時のように、二〇〇〇円も使う必要はない。
「任せとけ、一度では無理かもしれないが、すぐに取れる」
「ほんと? 祐一君、凄いね」
「あの天使のキーホルダだろ。プレゼントしてやるよ」
手のひらに収まるくらいの、小さな人形。白い服に、同じくらい真っ白な羽。そして、頭の上には黄色い輪っかがのっている。キーホルダのついた、天使の人形だ。
あゆは、この人形を本当に大切にしてくれていた。そして、それが何かの間違いで奇跡のはじまりとなった。だから今、俺はここにいる。
「ほら、とれたぞ」
幸運も手伝って、それは二度目の挑戦で俺の手に落ちた。取り出し口から摘み上げると、小さな天使をあゆの掌に落としてやる。
「約束通り、プレゼントだ」
「ボクが貰っていいの?」
自分の手の中の小さな天使と俺の顔との間で視線をさ迷わせながら、あゆは遠慮がちに言った。
「そのために取ってきたんだ」
途端に彼女の顔がほころぶ。咲くような笑顔だ。
「本当にありがとう」
「言ったろう、これくらい余裕だって」
「ボク、大切にするよ。ずっとずっと、大切にするから」
言葉だけではなく彼女が本当にそうしてくれることを、俺は良く知っていた。
「ありがとう、祐一君」
大切そうに天使の人形を抱き抱え、そして屈託のない笑顔を覗かせる。その笑顔は、たとえ何度目に見るであろうと嬉しいものだった。
「ま、とりあえず良かったよ、元気になったみたいで」
「え?」あゆは天使から顔を上げ、不思議そうな表情をする。
「最初に会った時なんか、返事もしてくれなかったからな。詳しい事情は知らないけど、吹っ切れたみたいで良かったよ」
だがあゆは俺の言葉に顔を曇らせて俯いてしまった。
「どうした?」
「祐一君」あゆは真剣な眼差しで、俺の顔を見上げる。「ボク、まだ忘れられないよ」
恐らく、その通りだろう。過去を消すことなくてできない。やりなおすことなんてできないんだから。
「きっと、一生かかっても無理だと思う。でも――」
あゆは微かに微笑んだ。そして言う。
「でも、少しだけ寂しいのは良くなったよ。だから、祐一君には本当に感謝してるんだ」
「そうか」
「うんっ」
彼女は笑顔で頷いて見せてくれた。
そして俺たちは、薄闇に覆われかけた商店街を二人歩いた。陽は西の彼方に沈もうとしていて、くっきりとした長い影が石畳の床に落ちていた。そんな影を追いかけるように、ただゆっくりと商店街を散歩する。
俺がいる場所が純粋な過去の世界だとするならば、さっきのことで僅かではあるけれど歴史は変わってしまったことになる。天使の人形は一日早くあゆの手に渡ったし、俺はあした名雪に金を借りることもない。
「もうすぐで、冬休みも終わりだね」
俺が奢ったたいやきを頬張りながら、あゆが寂しそうに言う。
「そしたら祐一君、帰っちゃうんだよね」
「そうなるかな。学校があるから」
だがそれは高等学校ではなく、義務で通う小学校だ。俺はまた、あの古ぼけた黒いランドセルを背負うことになるのだろうか。
「……また来年も遊びに来るよね?」
あゆは捨てられた子犬のような目で、問いかけてくる。
「ああ、きっと来る」
「約束?」
俺は、無言であゆの手を取り、強引に小指を絡ませた。
「指切ったっ」
そして小指を放したが、あゆは何が起こったのか分からず、じっと自分の小指を見つめていた。
「……約束」
「ああ、約束だ」
「うんっ」どこか寂しそうに、あゆが頷く。
「そうだ。さっきやった人形、あるだろ?」
俺は約束した。本来ならば、明日交わすはずの会話と約束。
「うん」
「実は、あの人形はただの人形じゃないんだ。信じられないかもしれないが、持ち主の願いを叶えてくれる不思議な人形なんだ」
あゆは疑惑の視線で俺を見詰めていた。だけど、あゆ。これは嘘なんかじゃない。
「いや、本当だぞ。本当」
「わっ。そうなんだ」
「ただし、叶えられる願いは全部で三つまでだ。もちろん、願いを増やして欲しいっていう願いは却下だ。願いを叶えるのは俺なんだからな」
「祐一君が叶えてくれるの?」あゆは何度も人形と俺を見比べた。
「そう。だから俺にできないことを願っても、それは叶えてやれないぞ。予め言っておくが、俺は貧乏だからな。その辺を踏まえて、何でも願いを言ってくれ」
「えっと――」
脳天気な笑顔の人形を抱いたまま、あゆは深刻な顔で悩み出した。
「それなら、ひとつめのお願い」
真剣な表情で、彼女は一言一言を慎重に紡いでいく。
「ボクのこと忘れないでください。――冬休みが終わって、自分の街に帰ってしまっても、時々でいいですから、ボクのことを思い出してください」
その言葉で、俺は思い出す。
『ボクのこと、忘れてください』
そう願って、消えていった少女がいたこと。それが、七年後の彼女であったこと。
その代償として、奇跡がもたらされたこと。
「そして、ああ、そういえば雪の街で変な女の子に会ったなぁって、それだけでもいいですから忘れないでください。それが、ボクのひとつめのお願いです」
俺は全てを知っていたから。だから七年前のあの時のように、平気な顔してその願いを聞いていることなんてできやしなかった。
「……って言うのは、ダメかな?」
小さく首を傾げて俺を窺う彼女を抱きしめることでしか、もうそれを隠せそうにない。今の俺は、とても誰かに見せられたような顔をしていないだろうから。
「わっ、祐一君?」
あゆは驚いて身を硬くするが、俺は構わず腕に力を込めた。そしてなんとか紡いだ言葉は、震えずにいてくれただろうか。
「言っただろ? 俺にできることだったら、何でも叶えるって」
顔を見られないように、その耳元でそっと囁く。零れ落ちた雫が、彼女のコートの肩を濡らした。
「約束する。俺はあゆのことを忘れないし、絶対にこの街に帰ってくる。その時はまた、一緒にたい焼き食べような」
「……うん」
サラリと彼女の髪が揺れて、俺の首筋をくすぐった。それで、頷いてくれたことが分かる。
「きっと、約束だ」
「うんっ。約束」
俺の知る俺は、それを守ることができなかったけれど――今度は忘れない。絶対に守って見せる。
誰がなんと言おうと、どう思おうと、どんなことが起きようとも、俺はそれを守り通すだろう。
そして、俺は気が付いた。やはり、ただ一度与えられた人生というのは、あらゆる意味でのチャンスなのだと。そしてそれを活かそうと試み続けることを、生きるというのだと。