夢……
 夢を見ていた。
 ゆらゆらと水面に浮かぶように淡い乳白色の世界を漂い、俺は空を眺めていた。
 空は高く、果てしなく白くて。見下ろせば、大地の代わりにも同じ色の空が無限に広がっている。
 俺には身体がない。同時に世界そのものが俺の身体だった。この白い海原と俺は、存在として等しい。なのに、まるで母の胎内で眠る赤子のように、柔らかく、優しく、何もなく、俺は誰かに包み込まれて眠っていた。
 ゆらゆらと。

「人の子」
 世界にその声は響き渡った。それは俺の中に響き渡る声でもあった。
「修正を必要とされる故障が生じた」
 何故か懐かしさを感じさせるその声に、俺は誰何も忘れて問い返す。故障とは。
 声は言った。
「人の子が奇跡と呼ぶ事象」
 奇跡が故障。俺たちが住まう世界において、奇跡が何かのerrorの結果生じるものであるとするならば、俺が舞や佐祐理さんと共に超えてきた過去はどうなるのか。割腹した舞が癒えたのは、魔に打ち克てたのは、何かの間違いだったというのか。
 声は言った。
「然り。人の子の世にはあり得ない事象が、他の象限より流入した。それにより生じた故障こそ奇跡である。故に、修正が必要となった」
 俺は問う。修正とは何かと。
 声は言った。
「人の子において、死は定めである。死別は定めである。伴う悲哀は定めである。人の子よ、死にも悲哀にも奇跡は許されない。人の子の世にその故障は許されない。ゆえに修正を行う。修正とは即ち、故障的奇跡の抹消である」

 そして、声は俺に見せた。
 天使の人形と、眠り続ける少女。奇跡を願い、その代償として消えていく少女。
 俺は知る。舞の魔、佐祐理さんの悔恨、香里の絶望と、存在さえ知らなかったその妹の病、秋子さんの事故、名雪の嘆き、真琴の孤独、見知らぬ天野という少女の苦悩、あゆの願い。そして約束。
 奇跡に救われる者と、奇跡に拾われなかった者。平行する世界に見られる、幾つもの可能性。
 そこには舞と佐祐理さんと共に笑っている俺の知る現実があり、想像もしなかった別の現実が広がっていた。全てを失い、自ら命を絶つ俺。真琴を失い、天野という少女と出会う可能性。一糸纏わぬ美坂姉妹と、貪るように睦み合う夜。歯を食いしばり、自らの右腕にナイフを落とす未来の自分。事故で障害を背負った秋子さんを名雪と共に世話する生活。
 驚愕と共に、俺はその全てを垣間見た。世界は、想像を絶するほどの可能性に満ちている。
「我が仔よ、故障に頼ることなく、人の子たる力を以って三千世界を巡れ」
 声の主が遠ざかっていくのが分かった。最後にこう言い残して。
「世界は自ら立ち、自らを救うものとして人の子を創った」

 突如、浮遊感に襲われた。白く閉ざされた世界が激しく振動し、崩れ落ちていく。
 夢……夢から覚めようとしている。
 その最中で、俺は思う。そして返るものはないと知りながら、消えてしまった声に問いかける。
 では、相沢祐一の周囲に起こった奇跡は、本来あるべきものではなかったと。俺たちはあゆの犠牲の元に発動された奇跡によって救われたと。そして本来、あゆの犠牲程度では奇跡は起こらないものだというのか。
 人が死ぬ、俺の大事な人が消えてなくなる、それを傷む、それは定めだと。俺が抱えた程度の痛みや絶望など、人にあっては決して珍しくないと。俺たちが背負ってきた程度の悲しみで、簡単に奇跡なぞ起こされてはたまらないと。ゆえに、奇跡は許されないと。
 だから全ての修正のために、あゆが起こし俺たちが得た奇跡は抹消されるのか。
 そう、世界は言うのか。
 だとするなら、俺は叫ぶ。力の限り、絶叫する。
 声よ。世界よ。
 ふざけるな。




BACK | NEXT