自動車用内燃機関は生き残れるか

〜環境問題と内燃機関の未来〜


第9章(付録) 超独断的空想科学自動車論

この章について

 本章は、別のレポートとして書き上げようとしていたものの中から、一部を取り上げたものである。
 SF的な視点から未来のクルマについて考察したが、筆者の独断と偏見、趣味趣向に基づき、さらに大部分を筆者の記憶と知識のみで書いている。 そのため、間違っている部分もあるかもしれないので、あらかじめご了承いただきたい。
 現時点では絵空事とも言えるものが多いが、これは私なりに「クルマの可能性」と「人間とクルマの新たなるあり方」を考えたものである。
 当然ながら、本レポートの「環境問題と内燃機関」という主題からは、ほとんど逸脱しているが、どうしても取り上げたいものであったし、別のレポートとしてまとめるには時間がなかった。 というわけで、ほんの一部ではあるが、この場を借りて発表させて戴くことにした。


(1) 知能化する自動車

進む電子制御化

 近頃、と言うか1970年代に電子制御式燃料噴射装置が普及して以来、クルマの電子制御化が著しい。 最近では、最も安価な商用の軽トラックでさえ、電子制御式燃料噴射装置が組み込まれているほどだ。
 特に最近は環境問題から、燃費の向上や燃焼効率の改善などが重要視されているが、それらを実現するためにも電子制御は不可欠なのである。
 それはわかる。だが、電子制御化はエンジンだけに留まらず、もはやクルマは電子制御無しには動かせなくなってしまった。
 運転中に人間が制御するのは、ステアリングとアクセル、ブレーキの三つだけと言っても過言ではない状態だ。 時には、アクセルやブレーキさえも、人間(ドライバー)の制御を離れてしまうことさえある。
 アンチロック・ブレーキシステム(ABS=Anti-lock Brake System)やブレーキアシスト、トラクションコントロール (TCS=Traction Control System)、 ビークル・スタビリティ・コントロール(VSC=Vehicle Stability Control)などなど。
 それらの詳しい作動などは割愛するが、それらのシステム制御はドライバーの手の及ばないところ、目の届かないところで勝手に行われる。 “勝手に”というと語弊があるかもしれないが、極端な話、クルマが自分で自分を動かしていると言っても過言ではない。
 つまり、クルマは明らかに知能化しているのだ。
 知能とは国語辞典によると、『@あたまのはたらき。知識を蓄積したり、物事を正しく判断する能力。A知能検査で測られ、知能年齢(精神年齢)または知能指数で表される精神水準』などという意味になっている。
 @の“知識を蓄積したり、物事を正しく判断する能力”という部分おいては、現在のクルマは十分に知能を持っていると言える。
 クルマの電子制御化は進行する一方だ。最近は、車種にもよるが街を走るクルマの7〜9割がオートマティック・トランスミッションだという。 ステアリングにしても、最近はエンジンパワーを節減するため、油圧ではなくモーターで作動する電動パワーステアリングが増えてきている。 そこに、前述のABS、TCS、VSCなどという駆動制御システムである。もうクルマは機械製品ではなく電気製品かとさえ思えてしまう。 機械的に人間が直接操作している部分は、激減しているのだ。
 そして、いずれは人の操作など無用になってしまう。そう、自動運転システムなどは、クルマ単体で見れば既に実現可能なレベルにまで達しているのだ。


全自動化されたクルマ

 クルマの知能化に関しては、今のところ三菱自動車が最も積極的だ。
 三菱は東京モーターショーにHSRシリーズと称して、その開発当時の最先端技術を盛り込んだクルマを、1987年の第27回から毎回出品している。 既に東京モーターショーの恒例の出し物、目玉の一つと言えるものになっている。
 それだけにHSRシリーズは出るごとに注目され、毎回いろいろなことを言われるのだが、第32回のHSRYは今までで一番不評だった。
 一般的には、あの変に現実離れした、金属の硬質感丸出しで、パキパキとした折り紙のようなカッコ悪いデザインが不評だったようだ(資料9-1)。 「人との共存」というテーマはどこへ行ってしまったのか。HSRXまでは曲線的で生物的な質感を出していた。 個人的に、エラスティック・エアロという生き物のようにボディ(主にリア部分)が変形するシステムは好きだったのだが… 
 それはさて置き、実はそれ以上にクルマ好きの人たちに反感をかってしまったことがあった。それが自動運転システムなのだ。
 クルマは運転することに楽しみがある。クルマが勝手に動くなんて冗談ではない。クルマが好きな人ならば、ほとんどの人がそう思っていることだろう。
 それに自動で走行するクルマは、クルマの範疇を超えている。「人間の操作が必要ないクルマ」=「自立して行動できる機械」、それはロボットの定義にピタリと当てはまる。
 衛星からの情報で道を選び出し、カメラで白線や標識を認識して、速度や走るべき通行帯を考えて走る。明らかにロボットか、そうでなければ走るコンピュータである。とにかく、クルマと呼ぶべきものではない。
 運転の自動化によって流れが円滑化し、渋滞改善に一役かうのではないかという期待もあるようだが、それには先ず道路側を改善すべきだろう。
 そのための道路工事のやり方にも問題がある。渋滞を改善するための工事で、渋滞を作っていては話にならないではないか。それに、そんな工事をしても尚、大抵の場合において渋滞は改善されない。
 まぁ、今の交通環境のままで自動運転システムが実現できるとは思えないし、システム自体も現状では実用に足るものではないので、実現はかなり先のことだろう。

資料−9.1 三菱HSRY

SIRYO3


自動化が人間にもたらすもの

 私はクルマだけでなく、自動化が進む周囲の状況に疑問を抱いている。
 このままでは、人間は何もしなくなってしまって、ダメになってしまうのではないかと。
 前述したように、今のクルマはほとんどAT化され、ステアリングとアクセル、ブレーキの三つを操作すれば動かせるようになった。 ただ単に動かすだけなら、子供でも運転できてしまうほど単純になった。
 操作の簡略化は、運転に余裕を持たせることとなった。確かに、その余裕は運転することの疲労を軽減した。 しかし、余裕があるということは、緊張感も減少するということでもある。
 また、運転が容易になったことで、ドライバー層の拡大された。それまで運転しようとしなかった女性やお年寄りのドライバーが増えた。
 その結果、交通事故が増加する。無論、交通事故は自動車の台数増加や道路環境による要因が大きいが、運転が容易になったことも影響している。
 自動化による危険は、クルマにだけあるわけではない。突飛な例だが、今や核ミサイルさえボタン一つで飛んでくる。
 人間が作ったものの中で、ある意味コンピュータが一番危険だ。実に簡単に誤作動、暴走するのだから。 原因としては、CPUなどの集積回路の加熱による熱暴走が多いが、プログラムのバグや無限ループという明らかな人為的ミスもある。 人間が作ったものが完全であるはずがないので、ある程度は仕方がないのかもしれない。 人間自身が不完全なのだから。不完全なモノから完全なモノなど生まれないだろう。 よってコンピュータも当然、完全ではない。
 だが、そんなコンピュータに、世の中を任せているかと思うと、空恐ろしくなる。
 人の命を助ける医療から、生きるために必要なお金を管理する銀行、人の命を奪う兵器に到るまで、全てコンピュータによって支えられている。 これらのコンピュータが誤作動すれば、いきなり命を奪われたり、一瞬にして一文なしになったり、予告もなしに核ミサイルがすっ飛んでくる。 情報も流れなくなり、経済活動は止まる。世界的に危機が訪れるのだ。
 別に、それらを一つのコンピュータが管理しているわけではないので、一度にそれらの危険が降りかかることはないだろうし、クルマでも、 現在のところ個々の電子制御に使われているコンピュータが誤作動したところで、走りに致命的な支障はないだろう。
 だが、コンピュータを利用するときには、ある程度は危険を覚悟しておいた方が良いと思う。
 もう一つ、別の見方もある。コンピュータが確実なものとなったとして、身の回りのほとんどが自動化されたとしたら。
 確かに便利だろう。生活は非常に楽になる。だがその反面、人は堕落し、精神的に弱体化する。精神的に弱体化するのは非常に危険である。 やる気や集中力といったものが減退し、怠け者になる可能性がある。
 そんな者たちは、仕事を投げ出したり、全くしなくなり、さらに彼らが増えれば、 経済や流通に大きな悪影響を与えてしまう。
 自動化が人にもたらすのは、必ずしも良いことばかりではない。それはクルマにも十分当てはまることなのだ。
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