ちょっとしたコラム      
               
 03.7.5付


門田(南海)、日本新の月間16本塁打

 1981年、アキレス腱断裂の重傷から本格的カムバック2年目を迎えた門田のバットは7月に入るや猛威を振るいだした。序盤のホームランはスローペースで4月3本、5月4本、6月も4本で6月末では11本塁打であった。この時点でトップを行くのはトニー・ソレイタ(日本ハム)。「サモアの怪人」の異名を取ったこのパワーヒッターは前年も来日1年目でリーグ2位の45本塁打を放ち、同年4月の南海戦では1試合4ホーマーの離れ業も見せていた。1年目の45本塁打は2001年にアレックス・カブレラ(西武)が49本塁打するまで、新外国人選手の最多本塁打記録だった。この年も4月に10本塁打と好スタートを切り、5月5本、6月7本と上積みして6月末では22本塁打をマークしていた。

 6月末のホームランダービー5傑は以下の通りであり、門田はベスト5にも入っておらず、さらに14本の山崎裕之(西武)、12本の石毛宏典(西武)と続くその下の8位タイに過ぎなかった。アキレス腱の怪我までは1971年の31本が最高で、どちらかと言えば中距離ヒッターだった門田であり、むしろ前年の41本が出来過ぎの数字とも思われた。しかし、7月の声を聞くと「ホームランバッター・門田博光」が目覚めるのである。

<6月末ホームランダービー>
      4月 5月 6月
1 トニー・ソレイタ(日本ハム) 22本 10 5 7
2 ウェイン・ケージ(阪急) 17本 9 4 4
3 大田卓司(西武) 15本 5 6 4
3 テリー(西武) 15本 4 8 3
3 落合博満(ロッテ) 15本 5 5 5
           
8 門田博光(南海) 11本 3 4 4

 7月1日、当時2シーズン制を採用していたパ・リーグの前期最終日程である南海−近鉄のダブルヘッダーが行われた。門田は6月16日の阪急戦で金本誠吉から11号ソロを放ってから8試合本塁打なし。その8試合の内容も28打数5安打、打率.179と爆発を感じさせるものはなかった。
 しかし、この近鉄ダブルから何かが変わった。第1試合、門田は近鉄の左腕・石本貴昭から9試合ぶりの12号ソロ。第2試合でも藤原保行から2打席連続で13号・14号を放った。2日置いて後期開幕戦となる4日の阪急戦で今井雄太郎から15号ソロ、翌5日は山田久志から16号3ラン。7日の西武戦では松沼弟から17号・18号で4打点。自己初の5試合連続本塁打である。しかもチームは後期3連敗ながら、その間の9得点のうち8得点を1人で叩き出す奮闘ぶりだった。

 リーグタイの6試合連続本塁打に挑んだ8日の試合は2四球もあり、不発に終った。だが、翌日から再び門田旋風が吹き荒れる。9日の西武戦は松沼兄からまず19号。続くロッテとの4連戦でも10日に水谷則博から20号、11日に望月卓也から21号、12日のダブルでは第1試合に小俣進から22号、第2試合に倉持明から23号と再び5試合連続本塁打。年間2度の5試合連続本塁打は1973年に王貞治(巨人)が達成していたが、月間2度は史上初の快挙であり、いまだ二人目は現れていない。
 この時点で7月は11試合で12本塁打の量産ぶり。各球団は門田の打棒に戦々恐々となった。

 再び6試合連続に挑んだ14日の日本ハム戦は5打数ノーヒットとまたも記録達成はならず。結局日本ハムとの3連戦は不発に終わったが、17日の近鉄戦で鈴木啓示から4試合ぶり24号ソロ、そして2点ビハインドで敗色濃厚だった延長11回裏に久保康夫から起死回生の同点25号2ランを放つ。ここまでで7月15試合で14本塁打の脅威の量産ペース。いやがうえにも月間本塁打記録の話題に包まれる事となった。

 翌18日からまた3試合足踏みしたものの、22日の日本ハム戦で間柴茂有から26号ソロで、ついに日本タイ記録の月間15本塁打を達成した。1970年6月に王貞治(巨人)が記録して以来、72年5月に大杉勝男(東映)、72年9月に長池徳二(阪急)、73年8月に再び王貞治、78年4月にウェイン・ギャレット(広島)、79年5月にチャーリー・マニエル(近鉄)と5人が延べ6度達成していた日本記録に並んだのである。

 ああ、しかし時は7月。オールスターの季節である。月間本塁打新記録に王手を掛けた門田だったが、23日の試合にノーヒットに終ると1週間公式戦から遠ざかる事となった。公式戦再開は7月31日。そう、月間本塁打記録への挑戦は7月最終日の1試合に懸かる事となったのだ。
 オールスターが終わりファンも待っていた7月31日がやって来た。対西武後期4回戦(大阪)、相手の先発は左腕・杉本正。1回裏の第1打席は三塁へのファウルフライ。そして3回裏にノーアウト満塁の絶好機で門田に第2打席が巡って来た。1球目ボール、2球目空振りでカウントは1−1。高目に入った3球目のカーブをとらえた打球は打った瞬間ホームランとわかる当たりでライトスタンドに飛び込んだ。27号満塁ホームラン、7月16本目のホームランであった。

<門田博光の1981年7月の成績>
  相手 成績 本塁打
1日 近鉄 4打数1安打1打点 12号
1日 近鉄 4打数2安打2打点 13号・14号
4日 阪急 4打数1安打1打点 15号
5日 阪急 4打数1安打3打点 16号
7日 西武 4打数3安打4打点 17号・18号
8日 西武 2打数0安打  
9日 西武 3打数1安打1打点 19号
10日 ロッテ 4打数2安打1打点 20号
11日 ロッテ 4打数3安打2打点 21号
12日 ロッテ 3打数2安打1打点 22号
12日 ロッテ 4打数2安打3打点 23号
14日 日本ハム 5打数0安打  
15日 日本ハム 4打数1安打  
16日 日本ハム 4打数0安打  
17日 近鉄 5打数2安打3打点 24号・25号
18日 近鉄 3打数1安打  
19日 近鉄 3打数0安打  
21日 日本ハム 5打数0安打  
22日 日本ハム 4打数3安打1打点 26号
23日 日本ハム 2打数0安打  
31日 西武 5打数2安打4打点 27号
       
21試合 80打数27安打27打点 16本塁打

 7月の門田は21試合で16本塁打、丁度5打数に1本のペースで本塁打を打ちまくり文句なしの月間MVPに輝いた。当時のパ・リーグ月間MVPにはサブタイトルが付けられており、この時は「ハンマリング・カドタ賞」という名が付いた。ボールを思い切り叩く門田の力強さを表したサブタイトルだった。

 1ヶ月前に11本差だったソレイタとの差は3本に詰まり、この年最終的には44本で二人並んでのホームランキングとなった。プロ入り12年目で33歳になっていた門田にとって初の本塁打王であった。また、1976年から5年間、外国人選手が占めてきたパ・リーグ本塁打王の座に6年ぶりに日本人打者の名が刻まれる事にもなった。

 これをきっかけに、プロ野球人生の後半をホームラン打者として歩み始めた門田は83年と88年にも本塁打王を獲得。特に88年は40歳でのタイトルで、チームは5位と不振だったにも関わらずMVPに選出されている。44歳の1992年まで現役を続け、歴代3位の通算567本塁打を記録した。そのうち、この1981年以降だけで345本と全体の6割以上を打っている。

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