ちょっとしたコラム      
               
 03.3.6付


田代(大洋)、ホームランブーム巻き起こす

 1977年のペナントレースが開幕すると、それまで無名だった1人の打者がセ・リーグに大旋風を巻き起こした。その打者の名は田代富雄、入団5年目を迎える大洋ホエールズの三塁手だった。72年のドラフト3位で神奈川・藤沢商から入団した田代は3年目の75年にイースタン・リーグで打率.300、39打点で二冠に輝いた。翌76年に初めて一軍に上がり、89試合で8本塁打を放つという予兆はあった。しかし、この年4月の田代の爆発ぶりは周囲の予想以上の凄まじさだった。

 4月2日の開幕戦、「8番・サード」で先発出場した田代は3回表の第2打席で左腕の榎本から1号ソロを放つ。この試合で3安打と順調なスタートを切った田代は、翌日はもう6番打者に昇格していた。続く5日からの巨人戦では新浦・小林・堀内の巨人が誇る3本柱から3戦連発。

 開幕6試合目となる8日のヤクルト戦では5番打者に“出世”した。この試合もエース・松岡から5号、10日には会田から6号を放ち、球団タイ記録となる5試合連続本塁打を達成した。これで開幕7試合で6本塁打、新星・田代のバットは猛威を振るった。突如出現したホームラン打者にファンとマスコミの視線は集中、“オバQ”というニックネームも定着し無名だった田代は一躍、時の人となった。

 13日の阪神戦では6戦連発はならなかったが、開幕8試合で早くも10打点目を記録。翌14日は初のノーヒットに終るが、15日の中日戦からは10試合連続安打と勢いは止まらない。17日には自身初の1試合2ホーマーとなる2打席連発弾で逆転勝利へのお膳立てとなる活躍。19日のヤクルト戦でエース松岡から9号、21日の同カードでは2度目の猛打賞。チーム16試合目となる23日の中日戦では鈴木孝政から両リーグ10号1番乗りを果たす逆転3ランを放った。

 続く24日の中日戦でも堂上から2試合連続11号ソロを放った。この時点で17試合で11本塁打とは、約3試合に2本塁打という脅威の量産ペースだった。
 4月が終って打率.388で3位、11本塁打と20打点はリーグトップと言う堂々たる成績で田代は文句なく月間MVPに選ばれた。前年最下位のチームも田代の大活躍に引っ張られ、10勝9敗2引き分けの貯金1で4月を終えた。

<1977年4月の田代の成績>
カード 成績 打率 本塁打   カード 成績 打率 本塁打
4/2広島 4打数3安打1打点 .750 1号   4/19ヤクルト 4打数2安打1打点 .400 9号
4/3広島 4打数1安打 .500     4/20ヤクルト 5打数2安打 .400  
4/5巨人 5打数1安打2打点 .385 2号   4/21ヤクルト 4打数3安打 .424  
4/6巨人 3打数2安打1打点 .438 3号   4/23中日 5打数1安打3打点 .406 10号
4/7巨人 3打数1安打2打点 .421 4号   4/24中日 4打数1安打1打点 .397 11号
4/8ヤクルト 4打数2安打1打点 .435 5号   4/27広島 5打数2安打2打点 .397  
4/10ヤクルト 5打数3安打2打点 .464 6号   4/28広島 4打数2安打 .403  
4/13阪神 4打数1安打1打点 .438     4/29阪神 4打数0安打 .383  
4/14阪神 3打数0安打 .400     4/30阪神 4打数2安打 .388  
4/15中日 4打数1安打 .385            
4/16中日 3打数1安打1打点 .381     21試合 85打数33安打20打点 .388 11本
4/17中日 4打数2安打2打点 .391 7、8号          

 出来過ぎとも言える4月が終るとホームランペースは5月7本、6月4本、7月2本と目に見えて落ちて行った。相手投手も田代への攻め方や弱点を見極めて、厳しいボールを投げ込んだ。それでも6月11日の巨人戦では2打席連続ホーマーを放ち、王の目の前でチーム50試合目にしてセ・リーグ20号1番乗りを果たした。しかし、翌週にはブリーデン(阪神)に抜かれ、7月に入ると山本浩二(広島)そして王にも抜かれて4位に落ちた。

 その後やや持ち直して8月に6本、9月に5本を追加してリーグ5位の35本塁打でシーズンを終えた。球団記録の36本には1本足りなかったが、23歳での35ホーマーは王貞治が同年齢時にマークした40本と比べても立派な数字であり、将来のホームラン王としての期待は高まった。また、ホームランと共に田代のトレードマークとなったのが三振だった。この77年の118三振はセ・リーグの日本人選手としては、1965年小淵泰輔(サンケイ)の111三振を更新する新記録だった。

 ホーランバッターとして華々しくスタートした田代だったが、チームが翌年から広い横浜スタジアムに本拠地を移した事もあり、その後の本塁打は思うほど伸びなかった。78年は27本塁打、79年は19本塁打と減少。80年に巻き返して自己最多の36本塁打を記録するが、30本以上は他に81年の30本があるだけで合計3度に留まり本塁打王のタイトルも掴む事は出来なかった。逆に三振王には3度もなっており、それもまた田代らしさの一面だった。

 86年には6月中旬まで12本塁打していたが、同月18日の広島戦で守備中に走者と接触して左手首を骨折、後半戦を棒に振った。この怪我以降豪快な打撃は鳴りを潜め、翌年から引退までの5年間でトータル10本塁打に留まった。
 最終的には通算278本塁打と、その派手なデビューぶりと比べると物足りない数字に終っている。だが、横浜スタジアムで場外本塁打を放つなど、日本人離れしたパワーでスタンドを沸かせた田代の勇姿をファンは忘れていない。

BACKNEXT