〆銀嶺の狼〆

(C)ayarin
ささやかな胸騒ぎのする夢から目覚めて、ロザリアはそっと床を出て窓を開けた。
変わらない毎日。
日差しは眩しいほどに聖地のあちこちを明るく照らしている。
 
「あの頃と変わらないわね…少しも。」
 
軽い溜息と共に寝室を出た。
 
「ばあや?ばあやは居て?」
 
補佐官になってからも、相変わらずロザリアは大好きなばあやと暮らしている。
眺めのいい場所に補佐官の館を戴き、毎日をそれなりに充実して過ごす。
この宇宙を支えるという、大いなる聖務にかしずいて日々を送る。
ただ、それだけの日々が続く。
 
「お嬢様、おはようございます。今日も宮殿へおいでになりますか。」
 
ばあやはいつものように、ロザリアの部屋にワゴンで朝食を運び入れながらそう尋ねる。
 
「…ええ。」
 
ロザリアは、いつものように上の空で返事をすると朝食を摂り始める。
女王候補の終わりの頃から、こうして朝はいつも上の空だったので、ばあやも別段変わらない調子でロザリアのカップに紅茶を注ぐ。
亜麻色の液体が、白いカップの中で踊っている…。
きめの細かい砂糖を落とし、軽くかき混ぜる。
朝1番に届けられた絞りたてのミルクをたっぷりと注ぐ。
昔から変わらない、ロザリアの朝の習慣。
 
―何も  何も  変わらない…―
 
 
 
「お嬢様、そろそろお時間ですよ。」
 
ばあやが声をかけてくれるのを合図に、ロザリアは鏡台から立ち上り身支度を済ませた。
 
「じゃあ、行ってくるわね。」
 
扉を開けると、外は初夏を思わせる抜けるような青空だった。
気候の安定している聖地でも、微妙にニュアンスの違う日がある。
今日はというと、事の他、爽やかで日差しの強い日に感じられた。
 
…少し、回り道して行こうかしら。
 
門の前で待つ御者に今日は馬車を出さなくていいと告げ、ロザリアはのんびり森の湖を抜ける道へと足を向けた。
萌え立つような緑の香りが強くなる。
森の湖は余り好きではない。
本当は、優しい水面に光の宝石を散りばめたような森の湖の景色は大好きだった。
…でも。
ある日から、嫌いになった。
 
久し振りに見る湖さえも、あの頃と少しも変わらぬ美しさを保っている。
思わずそこから目をそむけ、その奥にある時流の森に視線を奪われた。
 
…!!!
 
ロザリアは思わぬ光景を目にした。
代々、緑の守護聖が管理を務め、他の誰をも寄せ付けないと言われる時流の森。
決して入るなと、女王補佐官であるこの自分ですら言われているこの地。
その、時流の森に入っていく人影が見えたのだ。
 
…水の守護聖
 
自分でも意識しないうちに、ロザリアは水の守護聖の姿を追って時流の森に駆け入っていた。
 
 
 
 
立ち入り禁止になっている森の中は、当然人の通った痕跡のある道などない。
それどころか、獣道すら見当たらない。
 
…リュミエール様は?
 
そう。
ロザリアが無意識に後を追っていたリュミエールの姿は、その気配さえ感じられる事のないほどあっけなく消えている。
しばらく、彼のひとの姿を求めてさまよった。
 
…私、幻を見ていたのかしら?
 
あまりにも切ない結末。
なおさら自分が惨めに思えて、ロザリアはぼんやりと空を見上げた。
高まる気持ちが、この自分に幻を見せるほどになっているなんて。
リュミエールの流れる長髪に似た空の青。
涙が滲んできた。
 
風はこんなに暖かいのに。
心はいつも凍り付いている。
あの人は、私の気持ちを知らない…
いつも傍に居るのに。
心はこんなにも遠い。
 
零れ落ちる涙に思わずうつむいた。
涙なんて、最後に流したのはいつなのだろう…
そっと瞳を閉じると、大粒の涙が手の甲に当たって弾ける。
 
冷たい風が頬をなでる。
急激に冷え込んだ空気が全身を包む。
 
 
異なる気配に慌てて顔を上げたロザリアは、身の回りに起こった出来事に、すぐには理解できずに居た。
 
 
…吹雪の中に居るのだ。
確かに先程まで時流の森に居た自分が。
時流の森は、確かに緑の守護聖以外、立ち入り禁止になってはいる。
でも、ついさっき自分が踏みこんだ時には、やはり聖地の中にあり聖地の空気が満ち満ちていたのだ。
しかし。
自分の周りは今、見渡す限り白い世界。
生まれて初めて見る雪の世界。
というよりも、真っ白な吹雪で辺りはほとんど見えていない。
全身が刺し込むように痛い。
寒いと言うよりは、意識が遠くなるほど麻痺しそうな痛みを感じる。
 
…どうしよう…ここは、どこ?
 
不安で一杯になったロザリアは、再びリュミエールの姿を求めた。
私は時流の森の中にいるのだから、はやくここから出なくては…
 
ふと、誰かが近づいてくる気配を感じた。
吹雪で視界が遮られて良く見えない…
じっと眼を凝らし、なんとか近くの存在を視覚的にとらえようとした。
 
………!
 
熊だ!
 
視覚が捉えた存在を認知するのと、悲鳴を上げるのはほぼ同時だった。
雪をつんざくようなロザリアの悲鳴は、ロザリアに対し、単に哺乳類としての認識しか持っていなかった野生の熊に恐怖と動揺を与えた。
悲鳴のした方向に向かって、熊は爪を振りかざして近寄る。
ロザリアの目の前に大きな…初めて目の当たりにする本物の野生の熊が迫る。
 
…もう駄目。ばあや…助けて!!!
 
ロザリアは恐怖にその場を動く事すら出来ずに、強く眼をつぶった。
 
…ばあや!怖いよ!
 
その時、ロザリアの耳に雪混じりの風に乗って、空気の唸るような微かな音が聞こえた。
沢山の生き物の動く気配が身の回りに感じられる。
 
・・・怖い、怖い、怖いよ…
 
自分がいかに周りの人々に常に大切にされ、恵まれた環境で育ったか。
この一瞬で、嫌と言うほど痛感した。
今、自分が居るこの世界も、紛れもなく女王が統治する宇宙内のひとつの空間に違いはない。
 
自分の周囲の無数の気配と、目の前に迫る熊が何もしてこない事に気が付いて、ロザリアはそっと目を開けてみた。
 
…!!!
 
今度はあまりの恐怖で悲鳴すらも出なかった。
自分の周りを、無数の白い狼の群れが取り巻いている。
狼の中の一匹が短く遠吠えをする。
熊は、その遠吠えに我を取り戻したかのようにゆっくりと振り上げていた爪を下ろした。
一体何が起こっているのか。
狼は、熊から今日の獲物を取り上げたのか。
相変わらず吹雪は視界を遮っているが、見える範囲全ては狼の姿で埋め尽くされている。
熊は、ゆっくりときびすを返すとロザリアの前から去って行った。
辺りは、今度は見渡す限りの狼の群れ…
生まれて初めて見る狼。しかも数え切れないほどの狼に囲まれている。
狼は牙を向いてこちらの様子を窺っている。
気を緩めた瞬間、食いつかれてしまいそう…
 
ロザリアの神経は、自分が置かれたこの状況にはとても堪えきれなかった。
雪に吸い込まれるように、気を失ってその場に崩れた。
 
狼の群れがロザリアを取り囲むように集まっている。
その一角の狼達が後ずさり、まるで花道のように隙間を次々と空けていった。
その狼達の花道を、倒れているロザリアの方に向かって進む人影があった。
ロザリアの傍まで来たその人物は、無言でロザリアを見下ろした。 
 
 
 
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