縄文時代民族大移動

 縄文晩期(3000〜2500年前)に入ると、千葉市の大型貝塚は消滅します。それと同時に、千葉市の人口が急激に減少します(人口は1/5以下になる)。 その原因として次のことが考えられます。

1.製塩法の出現
2.東北地方の勢力拡大
3.環境の変化

  1. 工業動向に対応できなかった
    干貝は塩分の供給源として価値がありましたが、約3000年前に、海水を煮詰めて食塩を製造する方法が始まりました。この市場動向に千葉市民は対応することができず、東北地方などに移動せざるを得なくなりました。千葉市の立地条件は製塩方法に適していなかったと思われます。
    貝塚が約100ヶ所ある千葉市で、製塩土器が発掘されているのは、わずか1ヶ所です。京葉道路・穴川インター近くの園生(そんのう)貝塚です。決して海に近い遺跡ではありません。
    製塩工業が発達したのは、茨城県・霞が浦西岸です。製塩業に使用された多量の土器が発見されています。薄手の土器です。茨城県では、薄手の土器を作る技術が優れていたのでしょうか。良い土がそこにあったのでしょうか。
  2. 東北地方及び西日本の発展
    なぜか東北地方の人口が3000〜4000年前に増加しました。東北地方が豊かになったのは、海の幸の点で立地条件が良かったからと想像します。また、東北人はくり、あわ/ひえなどの植物の栽培技術を卓越したものにしていたのかもしれません。さらに、私は北日本/オホーツク/樺太/沿海州の交易圏が発展したことが原因の1つと考えます。日本は島国ではなく、海洋国であったと考えます。 一方、西日本では新しい農耕文明が発展しています。この西日本の交易圏は朝鮮半島/中国に繋がっていたと想像します。 当時、日本の交易圏は北方と西方の二極に分化しており、関東地方は狭間となり、過疎化が進んだと考えます。
  3. 環境の変化
    環境の変化も原因の1つとして考えられます。約2万年前に氷河期(ヴィルム氷期)が終わった後、千葉市の気温は徐々に上昇しました。縄文時代前期〜中期である約6000年前に気温は最も高くなり(平均気温で現在より約3度高かった)、海面が上昇しました。この時代にもっとも気候が良かったのが、千葉であり、中部地方であったのかもしれません。その後、徐々に寒冷化するに従って、千葉市の環境は最適なものではなくなりました。
  4. 高台から低地への移動
    縄文後期まで、人々は高台に住んでおりましたが、晩期になると海岸線の後退に伴い、低地に住むようになりました。しかし、千葉市は低地に住むのに適さない環境だった/になったようです。沖積平野である低地に縄文人が住むブームが広まったのはなぜでしょう。植物の栽培が流行したからかもしれません。縄文時代に稲は本格的には栽培されていません。イモ類が栽培されるようになったとの考えがあるそうです。証拠は見つかっていません。イモ類の栽培には水を利用しやすい低地が適していたのかもしれません。千葉市は立地条件が適していなかったか、技術を入手できなかったと想像します。
  5. 世界史を考えると、3000〜3500年前には民族の大移動があります。ゲルマン民族、モンゴル民族、アーリア人がこの時期に移動しています。原因は北緯35度地帯の寒冷化と言われています。同様な環境の変化が、日本でも民族の移動を引き起こしたのかもしれません。 (安田喜憲著 「縄文文明の環境」 吉川弘文館発行 参照)
  6. ”環境の変化”ではなく、環境破壊かも知れません。現在、千葉市貝塚町貝塚群付近の植栽はクヌギなどの落葉樹が多い状態ですが、所々に照葉樹林の群生もあります。下総台地の植生が照葉樹林から落葉樹林に変化したことによって、川によって海に運ばれる栄養分が変化し、海性生物の生育状態が変化したのかもしれません。森林の植生の微小変化によって、海洋の生育環境が大きく変化したことは、北海道における、ニシンやシシャモの生態に顕著な影響を及ぼしたことで周知の事実です。千葉市の縄文人が、何らかの樹種を選択的に伐採しすぎて、環境を変えてしまったのかも知れません。



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P.S.)鈴木秀夫氏は「地中海のサントリーニ島が3500年前に大爆発を起こし、その津波によってミノア文明が崩壊し、成層圏に浮遊した火山灰が気候の寒冷化を引き起こした。」と述べ、さらに、「寒冷化が、民族の大移動を引き起こし、文明の盛衰に影響を及ぼし、一神教の誕生をもたらした。」とまで、述べています。  (鈴木秀夫著 「超越者と風土」 大明堂発行 参照)
匈奴が南下したことにより、中国は春秋戦国時代になり、多くの難民が日本に移動し、日本の農耕文明が発展したと考えられます。
また、匈奴が西に移動したことにより、ゲルマン民族が西に移動し、欧州大陸を牛耳る民族になりました。
同様なことは、アーリア人についても言えます。

P.S.2)「千葉市の人口が急激に減少します(人口は1/5以下になる)。」と冒頭に書きましたが、これは考古学者が推定している推定人口です。”発見されている”住居遺跡の個数から人口を推定しています。しかし、縄文晩期の住居遺跡が発見されたら、上で述べたことはむなしいものになります。学者ではなく、縄文時代を愛する者の中には、発見されていない遺跡は多いはずだと言う人がいます。湿地遺跡です。縄文晩期は海退という現象があり、沖積平野で生活を始めています。過去には、こんな低地に縄文時代の遺跡はあるはずがないという”常識”がまかり通り、単なる流れ込みとして、見返られなかった遺跡や、破壊された遺跡が多くあります。考古学者の目と頭が、低湿地に向けば、縄文晩期の人口減少は間違えだった ということになるかもしれません(低湿地の発掘はコストが高く、埋蔵文化財に関する予算があまりないため、発掘が難しいという問題があります。)。