碇岩北山(201.2m)・権現山(140.3m) たつの市 25000図=「網干」
神社や城跡に古墳群……、雑木の尾根道を歩く
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| 傳臺山山頂付近から碇岩北山を望む |
黍田富士を河内小学校へ下り、再び山に山に入った(「落ち葉の季節の古墳群、黍田富士」へ)。
山の格好で街の中を歩くのは苦手である。怪しい帽子にサングラス、腰にはハンマー……。すれ違う子どもたちが逃げ出さないかと心配しながら近づいていくと、「こんにちは。」とあいさつしてくれたのでホットした。
加茂神社
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河内小学校から袋尻の集落を通って加茂神社へ。2つの鳥居をくぐり石段を上ると、そこに鎮まる社殿にはらはらと落ち葉が舞い降りていた。
社殿の左脇から上ると、すぐ尾根に出た。その尾根を少し進むと、「傳臺山城址登山口」の新しい石碑が建っていた。急坂につけられたコンクリート階段を上ると、クリの落ち葉がザクザクと音を立てた。
いったん傾斜がゆるくなったが、再び急傾斜となり、階段を上り切ると傳臺山の山頂に達した。
山頂には、「史蹟 傳臺山城址」の石碑が建っていた。その裏側には、かつて(14世紀後半)ここを居城としていた西脇氏の末裔が平成3年にこれを建立したとあった。
「播磨鑑」によると、傳臺山は北条義時の頃(1205〜1224年)にさかのぼることができる。城主は、浦上氏、西脇氏、赤松氏と次々に代わった。中世播磨の歴史の1つの断面が、ここに残っていた。
城跡をわずかに下ると、前方が急に開けた。谷を隔てて、目の前に碇岩北山が険しい山容でそびえていた。その左には、岩肌がむき出しになった荒々しい尖峰、右には台地状の北山の奥山が稜線をつないでいた。
コルまで下り、少し上り返したところに「ようこそ伝城山峰へ」の案内があった。碇岩北山を中心とするこの山域は、伝城山とも呼ばれていた。
見失いそうな踏み跡であったが、赤いひもやテープが進路を教えてくれた。ウラジロが背よりも高く茂っているところでは、ウラジロの中に体を投げ出して進まなくてはならなかった。
再び踏み跡を見つけて進むと、御津山脈縦走路に飛び出した。すぐ近くに、碇岩北山の山頂があった。
山頂は眺望が開け、播磨灘に浮かぶ家島の島々が見えた。上空の乱層雲からは雨がポタリポタリと落ちてきたが、姫路の市街地には雲のすき間から日が射し込んでいた。
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| 碇岩北山山頂 |
碇岩北山山頂より姫路市街地を望む |
縦走路はきれいに切り開かれていて、気持ちのよい雑木林の中を東へ進んだ。もう3時が近く、日は大きく西へ傾いていた。ヒサカキ、イヌツゲ、ヤマモモ……、常緑樹の緑が濃い。マンリョウが赤い実をつけていた。
北山の奥山の山頂には、ヤマモモの木に白い山名プレートがかかっていた。さらに東へ尾根を下ると、褐色に染まった権現山が迫ってきた。
コルを横切る車道を渡り、金網のすき間から権現山の山域に入った。降り積もったクヌギの落ち葉を踏み分けて上る。
Ca.100mピークを超えた小さなコルを上り返すと、古墳が連続して現れた。盛り土が流され、石室の組石が露出している。石室の深さは3mぐらい。石室もそれをつくる石も大きく、そのダイナミックなつくりから古代の人々の力強さのようなものを感じた。
権現山山頂の三角点は、縦走路の中に飛び出していた。縦走路は、ここから南東の中島へ向かっているが、王子神社に自転車をデポしているため北へ下った。強引にヤブを分けて斜面を下る。今度は、センリョウが朱色の実をつけていた。
下りついた谷はぬかるんでいて、イノシシのヌタ場が3つも4つもあった。王子神社の奥宮になるのだろうか、小さな社が1つ建ち、そこからか細い道が草を分けて王子神社まで続いていた。
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| 北山の奥山(手前)と権現山(右奥) |
権現山の古墳 |
山行日:2006年12月2日