屏風ヶ浦    明石市                     25000図=「東二見」「明石」

「明石原人」の夢遠く、明石屏風ヶ浦

「明石原人」発見地の上からの風景

 明石市二見から林崎までの海岸は高さが10mを越す断崖が続いていて、その姿から屏風ヶ浦と呼ばれている。風薫る春の一日、妻と二人でこの海岸を歩いた。

 山陽電車「魚住」駅から歩き始める。二階からこいのぼりが泳ぐ家々を抜け、住吉神社へ。近く行われる春例祭日の準備なのか、地元の人たちが境内を掃き清めていた。神木のフジは満開までもう少し。フジの花のほのかな匂いに包まれて藤棚を見上げると、薄雲の広がる水色の空に花びらの紫が鮮やかに映えていた。

 神社の向こうには、松林が広がっていた。その中に万葉の歌碑が立っている。
 「行くきめぐり 見とも飽かめや 名寸隅の 船瀬の波に しきる白波」 笠朝臣金村
 松林を緩く下りると、そこはすぐ海だった。今日の海は凪いでいて、水面には無数の小さな波が光っていた。

住吉神社のフジ 万葉歌碑

 ここから、海岸に沿って遊歩道が伸びていた。海岸の砂はオレンジ色。砂の流出を防ぐために、これもオレンジ色の花崗岩が海岸線に敷き組まれ、いくつもの突堤もつくられている。
 砂の上で親子が遊び、突堤には釣り人の姿がちらほらと見られた。人工の中にも自然を感じさせるのどかな風景である。
 防潮堤がしだいに高くなって海を隠したが、赤根川が近づくと再び海の眺望が開けた。
 赤根川を渡ると江井ヶ島港。漁港を歩くと磯の匂いがした。「なつかしいにおいやなあ。」と妻。10年間住んでいた広島県の倉橋島を思い出した。
 ヤシの木が立ち並ぶ江井ヶ浜海水浴場を抜けたところに、石碑が立っていた。次のような江井ヶ島の地名の由来が刻まれていた。
 ここに港をつくった行基が海上安全の祈祷をしていたところに大きなエイが入ってきた。村人たちが追い払おうとしてもいっこうに去ろうとしない。そこで、行基がエイに酒を飲ませてやると満足して沖へ帰っていった。「エイが向かってくる島」から「江井ヶ島」となった。

江井ヶ浜海水浴場 海岸に続く段丘崖

 左に段丘崖、右に海を見ながら道を進む。このあたりが屏風ヶ浦の真ん中あたり。ここは、明治・大正の頃は白砂青松の海岸であったという。

 西八木の「明石原人」発見地は、金網の向こうで草に深く覆われていた。
 1931年、直良信夫が腰骨を発見したときは地層が露出し、嵐のたびに崩れ落ちていた。断崖は侵食によって後退し、1985年には大規模な発掘調査も行われたから、発見時と比べて地形がずいぶん変わっていることだろう。
 私たちは、横から回り込んでこの崖の上に出た。青い海にテトラポットを並べた防波堤。遠くに舟が小さくかすんで浮かんでいる。
 この地は「明石原人」論争の舞台である。そしてここには、直良の情熱や夢、そして失意が眠っている。そんな過去ははるか遠い昔のことのように、目の前の風景はただただ穏やかであった。海に向かって立つ私たちの後では、子どもたちのソフトボールの声が響いていた。

「明石原人」発見地 段丘崖の下を歩く

 少し進むと、次はアカシゾウ発掘記念碑。発見した中学生が、6年間1人で掘り続けたなんて……えらい!
 長光寺の下で、地層が観察できた。ここで見られるのは「明石原人」が発見された地層よりずっと古い地層である。長光寺の過去帳には、この寺は昔230m沖にあったが侵食のためここに移ってきたとある。古くは、土地の人は元あった所を「長光寺のハナ」と呼んでいたという。
 右にコンクリートで固められた段丘崖、左に海……ずっと長く同じ風景が続いた。ハイキング、自転車、ジョギング……すれ違う人たちは、思い思いに休日を楽しんでいた。崖の下の草むらには、つる日々草の花が揺れていた。
 「澄んどったらきれいやろな。」妻の声に先を見ると、淡路島の島影と明石海峡大橋が春がすみに白くぼやけていた。
 松江には、「赤石のいわれ」の案内板が立っていた。松江の沖の海底には赤い巨石が沈んでいたが、陰暦3月3日の大潮の引潮のときにはこれが見えるといってにぎわった。「あかし」の地名は、この赤石から名付けられたともいわれている。案内板の下には、どこからか持ってたのだろうか、表面が赤褐色に酸化した蛇紋岩の大きな石がモニュメントとして置かれていた。

つる日々草 明石海峡

 松江海水浴場、林崎漁港を過ぎると、ようやく明石川の河口に達した。ゴールの明石駅まで、本当の「もう少し」。
 河口では、白い燕尾服に黒い帽子のコアジサシが、ホバリングから豪快なダイビングを見せてくれた。

 今回歩いた距離は約10km(本当はもう少し長い)。昨晩、「う〜ん、だいたい7kmぐらいやろ」と言っていた私の立場は微妙なものに。魚の棚での「たこ定食」代と帰りの電車賃は私が出しました……。

明石市立文化博物館 「明石原人」とアカシゾウを訪ねて
「明石原人」発見の地、屏風ヶ浦の地形と地質(作成準備中)
山行日:2007年4月28日
山陽電車「魚住」駅〜住吉神社〜江井ヶ島港〜「明石原人」腰骨発見地〜アカシゾウ発掘地〜長光寺〜赤石モニュメント〜松江海水浴場〜「浜の散歩道」起点〜魚の棚〜JR「明石」駅
 屏風ヶ浦の海岸に沿って「浜の散歩道」が整備されている。車の入らない、風光明媚な景色が楽しめる道である。
■地層と岩石■ 長光寺の露頭→礫岩・砂岩・泥岩  新第三紀鮮新世 大阪層群明石累層谷八木砂礫層

 屏風ヶ浦には、大阪層群明石累層(約200万年)と更新世段丘堆積層の西八木層(5〜12万年前)が分布している。明石累層では、アカシゾウやシカマシフゾウ(シカの一種)の化石が見つかっている。一方、「明石原人」が出土したのは西八木層で、この地層からはナウマンゾウの化石が見つかっている。

 前今回のコースで露頭が観察できたのは、長光寺下の高さ3m程度の崖である。この地層は明石累層の谷八木礫層にあたる。
 地層は、一番下に青灰色の粘土層、その上に砂礫層、礫層が重なっている。

 屏風ヶ浦の崖(段丘崖)の上に広がる平坦面は、西八木面と呼ばれている中位段丘面である。今から12万年前、最終氷期の前の暖かい時代に海域や海岸平野であった所が、その後に隆起してできた地形である。

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