明石市は、「明石原人」やアカシゾウの発見の地です。 「明石原人」は、日本人の起源に関わる多くの議論を起こしましたが、今なお謎が残されています。考古学的な興味はもちろんですが、発見した直良信夫の学問にかける夢や情熱に心打たれるものがあります。アカシゾウは、神戸市や明石市で発掘された2体の全身骨格標本が展示されています。 明石市立文化博物館では、明石市の太古から現在までの歴史や文化を学ぶことができます。このページでは、「明石のあけぼの」のコーナーから「明石原人」とアカシゾウに関する展示を紹介します。 館内はカメラ撮影が禁止されています。今回は、教育用ということで特別に撮影を許可されました。また、HPへの掲載についても、当館の資料であることの明示を条件に許可を頂きました。
直良が発見した「明石原人」は、左寛骨(骨盤の一部)です。標本の実物は空襲によって消失していますので、これは東京大学に残されたレプリカのさらにレプリカとなります。黒褐色に着色されています。 その上には、直良信夫の紹介や、発見当時の西八木海岸の写真。発見を伝える新聞には、「3,40萬年前の人體の骨盤現る」(1931.5.3 大阪朝日新聞)とあります。ここから論争が巻き起こり、この人骨について肯定や否定がくり返されました。この経緯を、「明石原人」の歩みにまとめてみました。
この展示は、いろいろな人類の寛骨の比較です。左から、明石人、原人(フランス アラゴ)、旧人(ドイツ デュセルドルフ)、新人(港川)、現代人と並んでいます。遠藤・馬場(1982)は、原人から現代人へと寛骨上部の外側への張り出しが弱くなり、この進化傾向から明石人は現代人に似ているとしました。これによって、明石人は現代人とする考えが支配的となりました。
しかし、「明石原人」の謎は残されていました。それは、化石化していたという多くの証言と更新世の含礫砂層の崩壊土中に混入していたという出土状況です。
そこで、国立歴史民族博物館の春成秀爾を中心として1985年に大規模な発掘調査が行われました。 調査団には多くの研究者が加わり、発掘には大学生や一般市民も多く参加しました。大きく報道されたこともあって、見学者も多く訪れました。展示されている写真(左)によって、そのときの熱気が伝わってきます。 新たな人骨の発見はありませんでしたが、直良が人骨を発見した地層が確認されました(12万年前〜5万年前)。また、その地層から人間によって加工された板状木材片が発見されました。また、同じ地層から1965年に石器が出土していたことが分かりました。 これによって、明石人骨が発見された地層の堆積当時(12万年前〜5万年前)、明石に人類がいたことが明らかになりました。 これらの、加工木材片や石器、それに春成秀爾が1958年に谷八木海岸で採集していた剥片石器などが展示されています。また、白いメノウ製のハンドアックスは近くの藤江川添古墳より12万年前〜5万年前と思われる地層から発見されたものです。
明石にいた人類はどのような人類なのか。直良の発見した人骨は何だったのか。標本が消失した今、同じ地層から再び人骨が発見されない限り謎は残りそうです。 しかし、直良の発見が論争をひき起こし、それが日本人の起源についての研究を発展させました。直良には多くの論文や著書があり、それらは直良がすぐれた考古学者・古生物学者・生物学者・文筆家であったことを示しています。「明石原人」を思うと、そこには幼いときから貧困に苦しみながらも学問への情熱を燃やし続けた直良の姿が重なります。
常設展示室に入ると、2体のアカシゾウの全身骨格標本がライトに浮かび上がっています。肩の高さは2mぐらい。ゾウとしては小型ですが、大きな頭骨、長くて立派な牙、長い胴に短い足というその姿は、下から見上げると十分に迫力があります。 アカシゾウは、200万年前〜60万年前に日本列島にすんでいたゾウの一種です。明石付近では、大阪層群明石累層(約100万年前)の地層中から多く見つかっています。また、瀬戸内海ではしばしば漁船の網にかかって引き上げられています。 アカシゾウのいた頃の地層は今より温暖な気候で、明石のまわりには大きな湖が広がっていました。 アカシゾウという名前は、1936年に明石市西八木海岸で見つかった歯の化石につけられたものですが、後に1917年に金沢で発見されていたアケボノゾウと同じ種類であることが分かりました。そこで、今ではアケボノゾウという名が、正式な名前になっています。 明石市立文化博物館のHPへ
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