HP「兵庫の山々 山頂の岩石」
『明石市立文化博物館 「明石原人」とアカシゾウを訪ねて』へ戻る

「明石原人」の歩み
「明石原人」に関する論争を年代順に整理しました

 
参考資料  春成秀爾(1994)『「明石原人」とは何であったか』 NHKブックス.317p
        神戸新聞「兵庫学」取材班(2005)『ひょうご全史<上>』 神戸新聞総合出版センター.94-97p
        中橋孝博(2005)『日本人の起源』 講談社選書メチエ.14-23p

1931.4.18 直良信夫が明石屏風ヶ浦で人の腰骨を発見。崩れ落ちた土の中にあったが、骨に青い土が付着していることから「西八木層」と判断。
「西八木層」は当時、中期更新世の地層と考えられていた。現在では、年代測定によって12万年前〜5万年前とされている。
1931 直良信夫「播磨国西八木海岸洪積層中発見の人類遺跡」 旧石器と思われるメノウの石塊を記述し、日本における旧石器時代の存在を示す。
1931.5.2

手紙で発見を知らせていた松村瞭(東京帝国大学人類学教室)の要請に答えて、人骨を送り届ける。
松村より「仰せの通り化石化の程度や、所謂古色は太古のものたることを想はせ候」の返事。

1931.5.3 大阪朝日新聞「3,40萬年前の人體の骨盤現る」の記事。
1931.5.10 京都人類学協会、直良の案内で現地調査。
1931.6.6 松村瞭、直良の案内で現地調査。
1931.7.3 鳥居龍蔵「直良氏播磨発見の所謂旧石器時代の石器に就いて」 直良が旧石器とした石片は単なる自然石。直良の論文を載せた「人類学雑誌」の編集者までも批判。
1931.7 松村は、何も公表しないまま人骨を直良の元に送り返す。松村は、初めは大きな関心をいだいていたが、その熱意が急に冷めてしまった。
石膏模型2点と写真4枚を残す。
直良の発見は最初注目を浴びたが、人骨についても石器についても否定的な見解が多く、学界では認められなかった。
「当時、一般には、この骨の出土状態が不明なこと、化石化の程度がたりないことから、これを洪積世人類の骨とすることに否定的な態度がみられた」水野清一・小林行雄編『図解考古学辞典』(1959.創元社)
1945.5.25 東京の空襲で明石人骨消失。
1948.7 長谷部言人「明石付近西八木最新世前期堆積出土人類腰骨(石膏型)の原始性に就いて」 形態から原始性を導き出し、「猿人(現.原人)」の仲間とする。しかし、時代については西八木層に再堆積したアカシ象化石(明石層群中)を基準として更新世前期と誤った。
1948.10 東京大学人類学教室を中心に発掘調査 「地層の正確を確かめるのが主眼」としながらも、人骨発見地点から西へ80m離れた地点を発掘 人骨も石器も出土せず、再び「幻の石」となる。
学界では否定されながら、「明石原人」は教科書にも登場し広く一般に知れわたった。
1949 相沢忠洋 関東ローム層中より石器を発見(岩宿遺跡の発見) 日本にも旧石器時代があったことが初めて学問的に位置づけられる。
1970 芹沢長介 直良採集の西八木の「石器」を旧石器と認定(1984 春成秀爾は否定)。
1978 吉岡郁夫(愛知医科大学) 世界各地の猿人・原人・現代人の化石骨と比較して、化石現代人か旧人クラスとする。
1982 遠藤萬里(東大)・馬場悠男(独協医科大) 世界各地の化石や畿内現在人と比較し、統計学的に検討 現代人的〜超現代人的とする。
遠藤・馬場による明石腰骨の形態解析は完璧に近く、明石人は現代人とする考えが支配的となる。
1985 春成秀爾らによる西八木海岸大規模発掘調査 直良が人骨を発見した地層が確認される(12万年前〜5万年前)その地層から、人間によって加工された板状木材片が発見される。
1985.11.2 直良信夫死去(83才)
1986 西八木層から石器が出土していたことが明らかになる(1965 紀平肇が採集していたもの)。 春成秀爾「大陸の中期旧石器時代併行期に、明石付近に人類が生息していたことは確定的になった」
1997 明石の藤江川添古墳より12万年前〜5万年前のものと見られるハンドアックスが出土。明石に旧人段階の人類がいたことが裏づけされた。
2002 直良博人(信夫の長男.オーストラリア国立大学名誉教授)・アラン・ソーン オーストラリアで発見された6万2千年前の化石人骨に明石の骨は類似「明石人骨を再検討すべき」
明石人骨が発見された地層の堆積当時(12万年前〜5万年前)、明石に人類がいたことは加工木材片や石器の出土から確実と思われる。しかし、その人類がどのような位置づけになるのか依然として「謎」は残されている。