KREUTZER 冴えた風は皮膚を付き抜け、心を凍らせる。雪は音もなく舞い降り薄紅の肌を突き刺す。
〜Acht〜
風に煽られ舞散る雪花が、セッツァーの銀の髪を少しずつ濡らしていった。
古い宿。二階の部屋のバルコニーに屋根はない。セッツァーは柱に背を預けてワインを飲んでいた。
熱った体は寒さで感覚を麻痺させた。心地よい冷たさが肌を包み込み、アルコールが体内を迸る。セッツァーの思考が酩酊した。
ワインのボトルを逆さにすると、沈殿している濃い紅が穢れのない純白を染めた。
旅に参加してまだ数ヶ月。毎日顔をつき合わせている仲間たち。だが、ほんの少し離れた時、セッツァーの脳裏に常に浮かぶブルーダイヤモンドの瞳。羽二重のように滑らかな白い肌。整った金の柳眉。薄金の長い睫毛。桜色の唇。眩い黄金色の絹糸。
エドガーの顔を思い出す度に、セッツァーの心の弦は大きな音をたてて弾かれる。
セッツァーは自嘲の笑みを浮かべた。
「神! お前は誰だ?
お前は高みの見物か? 俺を嘲るがいい!」
新しいボトルを開けたセッツァーは再びグラスに紅玉の雫を垂らした。暗い天空から降りた小さな白い珠は、紅い湖面に儚く消えていく。微風が雪をたっぷり吸い込んだ重い銀の髪に纏わりついた。
部屋からは、すき間風が吹いている木の扉を何度か叩く音がしていた。
「セッツ。セッツ! いるんだろう?」
ノックをする音とエドガーの声。何故扉を開けて入ってこないのだろう、とセッツァーは思ったが微かに肩を竦めて微笑んだ。王様は鍵のかかっていない扉を不躾に開けたりはしない。漸く重く閉ざされた唇を開く。
「鍵は開いている。遠慮なく入って来いよ」
開かれた戸口の向こうに、エドガーのやや霞んだ紺碧の瞳が揺れていた。
「セッツ、どうしたんだい? そんな所にいたら風邪をひいてしまうよ」
セッツァーは徐に小首を傾げる。
「私の部屋から、君の姿が見えたから」
エドガーの端正な額の眉間に微かに皺が浮き上がった。セッツァーは息を吐くように軽く笑ってボトルを掲げた。
「仕事終わったのか? お前も飲むか」
頷いたエドガーはセッツァーのいるバルコニーへと赴いた。
薄手の黒い衣は水気を含んで、セッツァーの両肩の線がくっきりと浮かんでいる。プラチナ色の長い髪はしっとりと濡れ、肩と背に重もたげに垂れていた。
エドガーはセッツァーの周囲にある雪に視線を落とした。白銀を染めた紅の彩から目を背ける。
「部屋で飲もう。こんなにも濡れているじゃないか」
エドガーはセッツァーの両肩に手をかけて、暖炉の側へと連れて行った。
「セッツ、着替えは?」
樺色の炎をぼんやりと眺めるセッツァー。エドガーは困ったようにセッツァーの虚ろな瞳を覗き込んだが返事がない。
諦めたように立ち上がったエドガーは、バスルームにあるローブとタオルを手に持ってセッツァーの傍らに腰を下ろした。
「シャツが冷たくなっている。風邪を引くから、これに着替えて」
エドガーから渡されたローブを手に取るセッツァー。
「着替え? どうでもいい。それよりお前グラス持って来いよ」
エドガーは酔漢にやや呆れたように肩を竦めた。
「ワインを持ってくるから、これに着替えておいてね、セッツ」
幼子を宥めるかのように言った。
エドガーが部屋からワインを持って帰ってくると、セッツァーは清潔なローブに着替えていた。
エドガーの持ってきたボトルを開けたセッツァーは、彼のグラスに紅い液体を注ぎ、自分のグラスにも並々と注いだ。額の濡れた銀の髪から垂れた雫が、ワインの上に落ちる。
エドガーはタオルを手にセッツァーの背中に広がっている、濡れた銀の髪を包み込んだ。
セッツァーは驚き背筋を強張らせた。
「自分でやる。貸せ!」
狼狽したセッツァーは、エドガーの手からタオルを奪い取って、後頭部から乱暴に髪を拭きタオルを投げた。エドガーはやや呆気にとられていたようだが、右肩を少し上げて薄い口元に笑みを作る。
「どうしたんだい? 初めて見たよ、君が泥酔しているなんて」
「俺が酔っている?」
セッツァーは額に垂れている、乾ききっていない銀糸を鬱陶しそうに片手で梳く。
「俺が、酔っているとすれば……」
自身に聞いているかのように繰り返す。見開いた目は、濃紺のガウンの上に束ねられたた金の髪が放つ光に釘付けとなった。
エドガーは、右手に持ったグラスに口付け、ワインを舌に流した。
セッツァーの虚ろな視線はエドガーの金糸の上を流れる。
「お前のその髪から放つ香りに酔ったのかもな」
「君に見せたのは、いけなかったかな。『砂漠の泉』を」
長い睫毛を伏せて笑みを浮かべたエドガー。だがセッツァーの瞳が苦悩を表した。何かから逃れるように目を逸らす。
曖昧に浮かぶ記憶は、噎せかえる香りと鳴り止まぬ旋律が急き立たてる。空気を弾いて燃える炎は、震える背筋までは暖めてくれない。たゆたう灯りは押し寄せる不安を煽るばかりであった。
「なぁ、エドガー」
息を吐いたと同時に零れたセッツァーの声。エドガーは重たげに視線を上げた。
「俺は……お前を探していたんだ。ずっと前から」
パチパチと音をたてる暖炉の火がエドガーの視界に広がった。瑠璃色に浮かんだ山吹色の炎。
「ずっと前から?」
エドガーは炎から視線を逸らさず、呟くように返した。セッツァーは散らかった考えをまとめるかのように、膝を抱えて俯いた。
「神の子」
エドガーはセッツァーの瞳を見下ろす。
「神?」
「ああ。お前は選ばれし者だ」
「セッツ。何を言っているんだい?」
「王様になる人は、神に選ばれた特別な人なんだとよ。
神が人の姿を借りて降り立ってきたのだと。大人が話していたな」
セッツァーはロイヤルブルーの瞳を見上げた。陽の光を浴びるとたちまち、ブルーダイヤモンドに輝くその瞳。
「宝石のように美しい瞳を持ったフィガロの王子を子供の頃に見たんだ」
「子供の頃? セッツ、フィガロにいたの?」
セッツァーはエドガーに返答をせず、慈しむように彼を見据えた。
「俺は、自分以外の他人に興味を持ったのは、アイツだけだと思っていた」
セッツァーの視線は側にいるエドガーを見ているようで見ていない。エドガーは黙ってセッツァーの話に耳を傾けた。
「どんな女にも、どんな男にも興味はなかった。だがアイツだけは違った。
アイツは、飛空挺で空を駆け巡る時と同じように俺の胸を焦がしてくれたぜ。
だがな、エドガー。今の俺はそれよりもヒドイんだ」
セッツァーの浮遊していた定まらぬ視線が、エドガーをしっかりと捕えた。瑠璃紺に映った紺碧。焦点の定まらなかった瞳の奥に不穏の波がゆっくりと広がっていった。
「神の子を初めて見たあの時、俺は眩暈がした。得体の知れない大きな音が俺の心臓を叩くんだ!
子供の頃に見た神の子。この俺を眩暈させた唯一の他人。
それはお前だった」
乱暴にエドガーの右手を掴んだセッツァーは自身の左胸へと押し当てる。大きな音を立てて流れる血の音が、エドガーの手に伝わる。
「わかるか? 俺の心臓の音。この骨を砕いて突き出てきそうなほどに激しい音」
セッツァーの重く深い声に、エドガーの右手は強張った。掌には伸縮を繰り返す心臓の振動が伝わる。
「俺の命の船。そしてアイツ、永遠のライバル。俺の胸を焦がすその響きとは違うんだ。
わかるか?! この音!!」
セッツァーの心の
セッツァーはエドガーの左手首を掴んで激しく床に打ち付けた。同時にエドガーを組み敷くような形で彼の上に重なる。真下には困惑と哀れみを浮かべた濃紺の瞳。
紺碧の瞳に紫紺の瞳に映し出される絵は、輝きと暗闇が交差した。
「俺の知らない響と見知らぬ手に抉られる。内臓を吐き出してしまいそうに苦しい」
「セッ……ツ」
エドガーは重く圧し掛かるセッツァーを見上げながら、ゆっくりとゆっくりと、強張らせた肩の力を緩めた。
紫紺の瞳に紺碧の瞳に映し出された絵は、情熱と不安が交差した。
「お前の瞳が、お前の髪が、お前の声が、お前の匂いが、俺を狂わせるんだ」
セッツァーの頸は折れたかのように項垂れた。冷たい銀の糸がエドガーの頬を撫でた。
「好きだ」
セッツァーの細く鋭い声がエドガーの耳から脳へ迸った。
息を吐くリズムと同じく銀糸が微かに揺れる。互いの吐いた息を肌に感じるほどの近い距離に沈黙が流れた。
「俺は……
狂おしいほどに、お前を」
セッツァーの重なる手、重なる胸。熱を感じたエドガーは言葉を選ぶかのように何度か軽く瞬きをした。
「エドガー。俺はお前を……」
――愛していたんだ!――
セッツァーは息を呑んだ。エドガーの蒼い瞳が戸惑いに揺れている。絡み合う視線の間に再び流れた沈黙は、セッツァーの焦燥を掻き立てた。
「もう止まらない。好きだ」
「セッツ」
エドガーの紺碧は困惑した。
「あの音が思い出させてくれた」
エドガーの両手首を握っているセッツァーの指は激しく震えた。
「エドガー! 思い出してくれ」
「セッツ……。何を言っているのか、私にはわからない」
「狂おしいほどに、お前を……」
――愛していたのに!――
エドガーの胸はセッツァーの高鳴る鼓動と熱を感じた。
「セッツ、重いんだ。手を……離してくれないか?」
まっすぐな紺碧が紫紺を射抜いた。セッツァーは漸くエドガーの戸惑った瞳に気付いた。
エドガーは解放された手でセッツァーの額に触れる。高熱を感じたエドガーの左手はセッツァーの背中に廻る。肩を抱くように立たせたエドガーはセッツァーをベッドに寝かせた。
「エドガー……」
セッツァーは呼吸を乱し、途切れ途切れに息を吸い込んだ。
「酷い熱だ。苦しい? 薬を持ってくるから、少しだけ待っていてくれ」
立ち上がろうとしたエドガーの右手首は冷たい指に捕まれた。
「行くな!」
振り返ったエドガーの瞳に、今にも涙が零れ落ちそうなほどに濡れたアメジストが映った。
「お前を守れるのは俺だけだ!」
エドガーは左手をセッツァーの右手に重ねて、何度か頷き神々しい笑みを浮かべた。
「すぐに戻るから」
エドガーの声に安堵したセッツァーは手を離した。
部屋を後にしたエドガーはマッシュの部屋の扉を叩いた。
深い眠りに就いていたマッシュは、重い瞼を開いて兄が求めた薬を煎じた。
「こんな時に風邪をひくとは! ったく」
マッシュは呆れてエドガーと共にセッツァーの部屋を訪れた。ベッドに横たわっているセッツァーは半開きの口から苦しげに息を吐いている。
マッシュはセッツァーの口にゆっくりと薬湯を流し込んだ。
「これで明日には熱は下がるだろう」
「レネー。悪かったね、こんな時間に起こしてしまって」
「兄貴……」
双子の同じ色をした瞳は冷たい空気を裂いた。
「なぁ、ロニ。『悪かった』とか、『すまない』とか俺に言うのは、もうやめてくれないか?
俺は一人前になった。兄貴が俺をずっと守ってくれた。本当に感謝しているんだ!
これからは、俺も兄貴の力になりたい。だから、もう、俺に謝ったりはしないで欲しい」
エドガーは軽く瞼を伏せて頷く。そして弟の日に焼けた顔に近付き、左右の頬に口付けをして微笑んだ。
「こいつ、酒飲みすぎだろ」
「そのようだね」
「朝まで看病するのか?」
病弱だった幼少の頃、兄エドガーはいつも側にいた。マッシュは左右に首を振りながら、呆れたような笑みを見せた。
「病人を放っておけないのは、俺のせいだな。
他人を看て自分の体を壊さないようにな。ちゃんと寝ろよ、兄貴」
マッシュが去ると、セッツァーの静かな寝息が規則正しく仄暗い空気と交じり合った。
窓の外で舞い散る雪がエドガーに眠気を誘った。
――行かないで! ずっと僕の側にいて!――
――行かないで! 逝かないで!!――
閉じた瞳の暗闇に鮮血が浮かぶ。
エドガーは声にならない悲鳴で目を覚ました。
「さ…寒…い」
静かな息を吐いていたセッツァーの呼吸が乱れていた。
「寒…い」
セッツァーの全身が小刻みに震えている。
「セッツ。しっかりするんだ」
「俺は……ずっと…お前の……傍にいる……からな」
朦朧とした意識のセッツァーは、微かに開いた瞳をエドガーに向けた。
エドガーは頷いたかのように瞳を伏せた。右の細い指先はゆっくりとブラウスのボタンを外し、セッツァーを覆っているシーツを剥がして震える人の隣に横たわった。
セッツァーのローブの紐を解いたエドガーは肌を重ねた。腕はしっかりと背中を抱く。火傷しそうなほどに熱い肌がエドガーの胸に広がる。
震えていたセッツァーの肩が、エドガーの腕の中でゆっくりと治まった。
次第に穏やかになるセッツァーの心地よい鼓動に、再び眠気の訪れたエドガーは瞼を閉じた。
――君はいつも私を置き去りにする。
狂おしいほど愛しいと言ったのに、何故?――
――好きだ。離れない。
――あの旋律。
僕は君に捧げたんだ。
だって、ずっと離れたくなかったから――
夜が明けてもナルシェの空は薄暗い。降り止まぬ雪は、悪夢を予知するかのように全ての人に不安を齎した。
この想い
どんな言葉を紡げば
貴方に伝わりますか?